タイトル
サイボーグの「原型」 : “ extension”の系譜学に
基づくJ・D・バナールの読解
著者
柴田, 崇; SHIBATA, Takashi
引用
年報新人文学(12): 42-91
発行日
2015-12-25
[論文]
柴田
崇
サ
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グ
の「
原
型
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は
じ
めに.
身 体 の 加 工 を サ イ ボ ー グ 化 と 呼 ぶ な ら ば、 そ の 起 源 は 古 く、 義 肢 に よ る 補 綴 や 化 学 物 質 の 投 与 等、 治 療 の 始 ま り に ま で 遡 る こ と が で き る。 実 はサ イ ボ ー グ も、 「サ イ ボ ー グ cybor g 」 と い う 語 が 誕 生 し た 一九六〇年時点では治療のための技術だった。これに対し、今日の サ イボーグは、治療目的の技術とし て以上に、治療を越えた増強、すな わ ちエンハンスメントの技術として脚光を浴びている。 エンハンスメント技術として サ イボーグを語る背景には何があるのか。さらに、 サ イボーグはエンハ ンスメント論のなかで語られるべき存在なのだろうか。 サ イボーグ論の現状を理解し、 サ イボーグの未来を展望するには、これまでの議論を整理して、それぞれの価値を測るための基準が必須である。 本稿では、 サ イボーグにまつ わ る言説が参照する「原型 ar chetype 」を特定し、 「原型」からの変異と して サ イボーグ論の遷移を観察する手法を提示する。タイトルにある「系譜学」はこの手法を指すが、 「原型」 を基準に 「原型」 以降の議論を整理するには、系譜上に複数存在する 「原型」 すべてにとっての 基準たる最初の「原型」 、つまり「起源 origin 」を特定しなければならない。よって、 「系譜学」では、 通常の議論と、 「原型」 、および「起源」を区別しながら論を進めることになる ( 1) 。 エンハンスメント技術の一つとして語られている サ イボーグ論の「原型」を特定するときの手掛かり となるのが、 サ ブタイトルに示した “extension” の語である。 通常の サ イボーグ論に頻出する “extension” を 手 掛 か り に す る こ と で、 過 去 に 遡 り つ つ「 原 型 」、 さ ら に「 起 源 」 に つ な が る 一 筋 の 系 譜 を た ど る こ と が で き る。 そ し て、 「 原 型 」 か ら 現 在 ま で の 議 論 を 時 系 列 に 並 べ る と き、 同 じ 対 象 を 同 じ 語 で 記 述 し ているはずのテクストの間に差異が観察できる。著者の個性を含めたある時代状況を反映するテクスト 間の差異からは、 サ イボーグという存在の同一性のゆらぎさえ看取できるだろう。 このように、 サ イボーグの系譜学は、過去を向いて「原型」を探し、それを特定した後に、今度はそ こを起点に現在に向いて通常の議論を配置し、それらの特性を評価することを以って完成する。本稿で は、 「 原 型 」 の 特 定 と 評 価 に、 系 譜 学 と い う 方 法 論 の 検 証 を 加 え た 準 備 段 階 の 作 業 の み を 行 う。 「 原 型 」 以降の数多の議論については代表的なものを列挙するに留め、詳細な評価は別稿に譲りたい。 論を始める前に、第一章「エンハンスメント論の一部としての サ イボーグ論」で、 サ イボーグの語が 誕生した状況と、 サ イボーグ論がエンハンスメント論と極めて親和性が高いことを確認しておく。
現 代 の サ イ ボ ー グ 論 の「 原 型 」 を 探 索 す る に は、 extension を 三 つ に 分 節 す る と こ ろ か ら 出 発 す る 必 要 が あ る。 と い う の も、 エ ン ハ ン ス メ ン ト 技 術 の 一 つ と 見 な さ れ る サ イ ボ ー グ 論 は、 実 は、 三 つ あ る extension の う ち の 一 つ に 基 づ く も の に す ぎ な い か ら で あ る。 第 二 章「 extension の 系 譜 学 」 で は、 extension を 三 つ に 分 節 し て 得 ら れ た 意 味 を 手 掛 か り に、 各 概 念 の「 起 源 」 と 其 々 に 固 有 の 価 値 と を 確 認 す る。 そ し て、 分 節 し た 概 念 を 踏 ま え て、 系 譜 学 と い う 方 法 論 の 特 徴 を、 extension を 含 む テ ク ス ト の読み方とともに説明する。 以 上 の 成 果 を も と に、 第 三 章「 サ イ ボ ー グ 論 の 『 原 型 』 ; バ ナ ー ル の 未 来 予 測 」 で は、 現 代 の サ イ ボ ーグ論の「原型」となった思想を特定し、 「原型」と「起源」 、および「原型」以降の通常の議論との比 較を通 じ て「原型」の特徴を明らかにする。 第四章 「 サ イボーグ論の正統」 で 「原型」 以降の代表的な議論を紹介した後、 「むすび」では、 サ イボ ーグ論の未来を展望するために、現行の サ イボーグ論の課題を指摘しつつ、 「原型」 とは別の系譜の サ イ ボーグ論の可能性と必要性にも言及したい。
一、エンハンスメント論の一部としての
サ
イボーグ論
治療目的で開発された技術を健常者に投与するとき、健常者が通常の水準を超えた能力を発揮するこ と が あ る。 ナ ル コ レ プ シ ー の 治 療 薬 の モ ダ フ ィ ニ が 健 康 な 成 人 男 性 の 記 憶 力 と 注 意 力 を 向 上 さ せ た 例 ( 2) を持ち出すまでもなく、スポーツドーピングが筋力や持久力の減退に対処する医療技術の乱用である事実を想起すれば、上記の現象が目新しいものでないことは容易に理解できる。もちろ ん 、目新しくない からと言って問題の深刻さが軽減される わ けではない。ドーピングに限って言えば、技術の進歩はスポ ーツの意義を無化する増強の手段を常に提供してきたが、現在ほど、正常なトレーニングとドーピング の境界を画定するのに高度な専門知識を要する時代はない。 技術の発達を背景に、一九九〇年代以降、通常の水準を超えて人間の能力を増強する是非を問う議論 が、 い わ ゆ る エ ン ハ ン ス メ ン ト 論 と し て 認 知 さ れ る よ う に な っ た ( 3) 。 今 日 の サ イ ボ ー グ 論 を 概 観 す る とき、人間と機械の融合体についての議論が、エンハンスメント論と極めて親和性が高いだけでなく、 専らエンハンスメント技術を肯定する者の口から語られる印象を受ける。実は、この印象には確たる根 拠がある。 サ イボーグは、エンハンスメント技術と同 じ 家系に産声を上げた存在なのである。 サ イ ボ ー グ の 語 は、 一 九 六 〇 年 五 月 二 六 日、 テ キ サ ス 州 サ ン・ ア ン ト ニ オ の ブ ル ッ ク ス 空 軍 基 地 内 のアメ リ カ空軍航空医学校 ( Air for ce School of aviation Medicine :現在の Air For ce School of Aer ospace Medicine ) で 開 か れ た「 宇 宙 航 行 の 心 理・ 生 理 学 的 側 面 に つ い て の シ ン ポ ジ ウ ム 」( Symposium on
psychophysiological aspects of space flight
) の壇上で誕生した。一九五七年にソ連が人工衛星スプートニ ック一号の打ち上げに成功して以来、アメ リ カ政府は軍事的均衡を取り戻すために宇宙への進出を模索 し て い た。 当 時、 空 軍 大 佐 と し て 同 医 学 校 に 勤 務 し て い た B ・ フ ラ ハ ー テ ィ ( Ber nar d E. Flaher ty 生 没 年 不 詳 ( 4) ) は 宇 宙 進 出 に 伴 う 課 題 を 洗 い 出 す シ ン ポ ジ ウ ム を 企 画 し、 ニ ュ ー ヨ ー ク 州 オ レ ン ジ バ ー グ のロックランド州立病院 (
Rockland State Hospital
:現在の
Rockland Psychiatric Center
) で精神薬理学の 研究に従事していた N ・クライン ( Nathan S. Kline 1916 〜 1983 ) に発表原稿の執筆を依頼した。クライ
ンは、 サ イバネティクスを研究していた同僚の M ・クラインズ ( Manfr ed E. Clynes 1925 〜) に声をかけ、 薬 物 の 使 用、 お よ び 人 工 装 置 の 移 植 に よ る 宇 宙 環 境 へ の 適 応 を 考 察 し た 予 稿 原 稿 “Dr ugs, Space, and Cyber netics” を 準 備 し た。 そ こ で 二 人 は、 宇 宙 環 境 へ の 適 応 を 心 理、 生 理 学 的 観 点 か ら 検 討 し た 上 で、 身体の機能が宇宙空間で低下し、正常な精神活動の足かせになるという予測を導き出した。循環器系や 内分泌系等の自律神経系の恒常性 (ホメオスタシス) が損な わ れることで高次の精神活動に悪影響が出る と考えたのである。地球環境にいるのと同 じ 正常な状態を恒常的に保つため、二人は低次の身体に人工 装置を接続する案を提唱するに至った。この提案の背景には、身体と人工装置が情報のフィードバック によって定常状態をつくり出す点で共通するとの認識がある。ここに、 サ イバネティクスを公分母に人 工装置と接続した有機体 cyber netic or ganism 、すな わ ち cyb -or g が誕生した。 二 人 の 予 稿 原 稿 は 加 筆、 修 正 さ れ、 翌 年、 ク ラ イ ン を 第 一 著 者 に “Cybor gs and Space” の 題 で Astr onautics 誌 に 掲 載 さ れ た。 同 論 文 で は「 サ イ ボ ー グ 」 の 語 が ク ラ イ ン ズ の 発 案 に よ る こ と が 明 記 さ れ た ( 5) 。 予 稿 原 稿、 お よ び 同 論 文 を 読 む と、 extend や extension の 語 が、 「 機 能 function 」 の 語 と と も に使用されているのが分かる ( 6) 。二人が使う extension は、 「拡張」と訳出するのが適当な内包を持ち、 元来、 「増強 enhancement 」や「増大 augmentation 」に言い換え可能な概念なのである。 サ イボーグは、 エンハンスメントの遺伝子を備えつつ、治療の揺りかごに産み落とされたのだと言えよう。 サ イボーグ がほどなくハード サ イエンスの領域から飛び出し、 サ イエンスフィクションの世界で超人的存在として 成長したのは必然だったのだ。 エ ン ハ ン ス メ ン ト の 技 術 を 肯 定 的 に 捉 え る 論 者 の 中 で 最 も 先 鋭 的 な 一 派 に、 い わ ゆ る「 超 人 主 義 者
transhumanist 」がいる。 サ イエンスライターの G ・クラークス ( Gr eg Klerkx ) ( 7) は、 I ・メチニコフ ( Élie Metchnikof f/ Ilya Mechnikov 1845 〜 1916 ) を第一世代、 “T ranshumanism ” ( 1957 ) という小論のある生物 学の J ・ハクス リ ー ( Julian Huxley 1887 〜 1975 ) らを第二世代、現代の超人主義のアイコン的存在の人 工知能研究者 R ・カーツワイル ( Ray Kur zweil 1948 〜) やエクストロピー協会 ( Extr opy Institute ) の創設 者の M ・モア ( Max Mor e 1964 〜) 、そして同協会に所属する論客の G ・ストック ( Gr egor y Stock ) らを 第 三 世 代 と す る 超 人 主 義 の 系 譜 を 描 き 出 し た ( 8) 。 超 人 主 義 者 た ち に 共 通 す る の が、 進 化 を 人 為 的 に 操 作することへの熱情であり、進化のために生物由来の器官を切り離したり、人工物に置き換えたりする ことへの躊躇のなさである。一九〇八年のノーベル生理学・医学賞の受賞者のメチニコフは、細菌の巣 窟である腸を切除することで自然死の原因の一つを取り除けると考え、ある種の人体実験を施行して仮 説の実証を試みた人物でもあった。クラークスの論考は、エンハンスメント技術、そして サ イボーグ技 術の導入に積極的な集団の心情、すな わ ち進化を人為的に操作、制御することへの熱情を見事に言い当 てている。 クラークスが示した超人主義の系譜には、現代の最も先鋭的な サ イボーグ論者も含まれる。現在に至 るまで、 サ イボーグ論が概ね人工物による身体の機能の増強の可能性を前提に議論してきたことを考え ると、超人主義の血は、エンハンスメント論全般よりもむしろ サ イボーグ論に濃く流れていると言って よいかもしれない。 クラークスの考察は、超人主義者に共通する心情の観点から サ イボーグ論とエンハンスメント論のつ ながりを論証する根拠を提供した点で参照に値する。しかし、 その考察には重要な論点が欠落している。
それは、超人主義者たちが描いた進化の内実である。確かに、クラークスが指摘したように、超人主義 者たちは人為的な進化を志向している。 サ イボーグ化について言えば、身体の器官や機能を人工物に置 き換えることでもたらされる変化を肯定的に評価する傾向が見られる。しかし、クラークスの議論は、 超 人 主 義 者 た ち が ど の よ う な シ ナ リ オ に 基 づ い て 身 体 の 器 官 の 切 り 離 し や 人 工 物 へ の 置 き 換 え を 是 認 し、 推 奨 し て き た か の か を 見 落 と し て い る。 本 稿 は、 サ イ ボ ー グ 論 の「 原 型 」 が、 「 拡 張 」 の 概 念 に 基 づく身体論に加え、 ときに科学的法則の衣をまとう進化のシナ リ オを備えたものであることを指摘する。 土 屋 敦 ( 一 九 七 七 〜) は、 一 九 五 七 年 に「 超 人 主 義 」 “T ranshumanism” を 書 い た 前 出 の ハ ク ス リ ー が 一九二七年公刊の 『啓示なき宗教』 (
Religions without Revelation
)で 「超人主義 trans-humanism 」の語を使 用している点に着目し、一九二〇年代から三〇年代の英米圏の「先端生命科学技術」論に、エンハンス メ ン ト 論 の 興 隆 が あ っ た と 主 張 す る ( 9) 。「 先 端 生 命 科 学 技 術 」 論 の 中 心 人 物 た る 遺 伝 学 の J ・ B ・ S ・ ホ ールデン ( John Bur
don Sanderson Haldane 1892
〜 1964 )、 ジュ リ アンの兄で 『すばらしい新世界』 ( Brave New W orld , 1932 ) の 著 者 の A ・ ハ ク ス リ ー ( Aldus Huxley 1884 〜 1963 ) ら の 発 想 が エ ン ハ ン ス メ ン ト 技 術を肯定的に捉える 一 派のル ー ツの 一 つであることは、 複数の研究者が指摘するところである ( 10) 。また、 モ ア ら 世 界 超 人 協 会 ( W orld T ranshumanism Association ) ( 11) に 加 わ る 現 代 の 超 人 主 義 者 た ち も、 ホ ー ル デ ン ら か ら 影 響 を 受 け た こ と を 公 言 し て い る ( 12) 。 本 稿 で は、 「 一 九 二 〇 年 代 か ら 三 〇 年 代 の 英 米 圏 の 『先端生命科学技術』 」の範囲をさらに絞り込み、一九二三年から一九三一年にかけてキーガン・ポール ( Kegan Paul ) 社から公刊された『ト ゥ ―デイ・アンド・ト ゥ ―モロウ』 ( T o-day and T o-mor row ) シ リ ー ズが形成した言論空間に注目する。同シ リ ーズは、ホールデンを筆頭に、当時のイギ リ ス思想界の俊英
を執筆陣に迎えて科学、道徳、女性などのテーマ毎にその未来を予測した一〇〇編を超える論考で構成 されている。本稿の主題は、同シ リ ーズ所収の J ・ D ・バナール (
John Desmond Ber
nal 1901 〜 1971 ) の論考のなかに サ イボーグと名付けられる以前の「 サ イボーグ」が存在することを指摘し、バナールの 思想が現代の サ イボーグ論の「原型」であることを論証するところにある。 バナールの思想を現代の サ イボーグ論の「原型」と特定する根拠は、 その “extension” の用法にある。 この点を論証するために、 まず「 extension の系譜」 、次に系譜に注目する方法論の「 extension の系譜学」 の順で論を進める。
二、
extension
の系譜学
技 術 に 関 す る 欧 米 の 文 献 を 繙 く と、 extension と い う 語 を 頻 繁 に 目 に す る こ と だ ろ う。 そ し て、 こ の 語の意味を特定したり日本語への翻訳を試みたりすると、 その多義性に気付くはずだ。結論を述べれば、 こ の 語 は、 少 な く と も、 「 延 長 」「 拡 張 」「 外 化 」 の 三 つ の 概 念 に 分 節 で き る。 い ず れ の 概 念 も 身 体 を 基 準にして技術の意味を測るものである。そしていずれの概念も「身体の extension : the extension of the body 」 の か た ち で 使 用 さ れ る こ と も あ っ て、 長 ら く 意 味 の 分 節 が 等 閑 視 さ れ て き た。 と も あ れ、 技 術 を 記 述 す る 文 脈 に 登 場 す る extension は、 よ り 正 確 に は、 ①「 身 体 を 延 長 す る も の 」、 ②「 身 体 機 能 を 拡 張 す る も の 」、 ③「 身 体 か ら 外 化 し た も の 」 の 三 つ に 分 節 で き る。 extension は、 三 つ の 概 念 の 一 つ の 記号なのである。三 つ の 概 念 に は、 技 術 の 特 性 を 各 々 の 身 体 論 に 基 づ い て 記 述 し て き た 其 々 の 系 譜 が あ り、 extension を含むテクスト群は、技術が当該時代の人々に及ぼした影響のアーカイヴと言える。しかし、三つの概 念の其々の内包を理解してからテクストにあたらなければ、その意味を読み取ることは叶 わ ない。 現代の サ イボーグ論の 「原型」 となったバナールの著作にも extension が頻出する。バナールが 「拡張」 の系譜に連なる思想家であったことを理解し、 そのテクストをアーカイヴとして利用するために、 内包、 使用状況、 併用される他の概念、 概念の「起源」の観点から extension を三つに分節することで、 「拡張」 が独立の系譜であることを確認しておきたい ( 13) 。 ①「延長」 「 延 長 」 の extension は、 使 用 時 の 道 具 が あ た か も 身 体 の 一 部 に な り、 身 体 を 空 間 的 に 延 長 す る 現 象 の記述に見られる。 M ・メルロ=ポンティ ( Maurice Merleau-Ponty 1908 〜 1961 )らの道具使用の哲学や 心理学説のほか、現在では、 BMI ( brain-machine-inter face )等のインターフェイス論の基調をなす。 例 え ば、 M ・ ポ ラ ン ニ ー ( Michael Polanyi 1891 〜 1976 ) は、 道 具 使 用 を 次 の よ う に 説 明 し た。 「 ハ ン マーで釘を打ち込むとき、釘にもハンマーにも注意を向けているが、しかしその仕方は異なっている。 わ れ わ れはハンマーの打撃が釘に与える効果を注視し、 釘を最も効果的に打つようにハンマーを振るう。 ハ ン マ ー を 振 り 下 ろ す と き に は、 そ の 柄 が 掌 を 打 っ た こ と は 感 じ ず、 そ の 頭 が 釘 を 打 っ た こ と を 感 じ る。しかしある意味で、 わ れ わ れは確かにハンマーを握る掌と指の感覚には敏感なのであって、それに よってハンマーを効果的に扱う案内とし、また釘に向ける注意と同 じ 程度の注意が向けられるのだが、
ただその仕方がこれらの感覚に対しては異なるのだ。この差異は、 後者の感覚は、 釘の場合とは異なり、 注意の対象ではなく、その用具 ( instr ument ) なのだと言えば述べることができよう。それらはそれ自体 として注視されることはなく、それを強く意識しつつも何か別のものを注視しているのだ。私は私の掌 の感覚の従属的意識 ( subsidiar y awar eness )を持ち、これが、私が釘を打ち込 ん でいることの焦点的意識 ( focal awar eness )の 中 に 溶 け 合 っ て い る。 こ の ハ ン マ ー を 探 り 針 ― 隠 れ た 腔 部 の 内 部 を 探 る ― に 置 き 換 えてみることもできる。盲人が杖を用いて道を探るさまを考えてみると、ここには、杖を持つ手と筋肉 に 伝 達 さ れ た 杖 の 衝 撃 を、 杖 の 先 に 触 れ た 物 の 意 識 に 置 換 ( transpor t ) す る こ と が 含 ま れ て い る 」 ( 14) 。 そ し て、 こ う 結 論 す る。 「 従 属 的 意 識 と 焦 点 的 意 識 は 互 い に 排 他 的 で あ る 」 ( 15) 。「 す な わ ち、 わ れ わ れ の注意は一時には唯一つの焦点しか保持し得ず、従って、同 じ 個別的諸要素因を同一時に、従属的にも 焦 点 的 に も 意 識 す る と い う の は 自 己 矛 盾 で あ る 」 ( 16) 。 ポ ラ ン ニ ー は、 従 属 的 意 識 と 焦 点 的 意 識 の 排 他 性 を 主 張 し、 道 具 を 身 体 と 対 象 の ど ち ら か 一 方 に の み 属 す る と 考 え て い る。 そ し て、 「 道 具 や 探 り 針 を 従属的に意識することは、今や、それらを わ れ わ れ自らの身体の一部分を構成するものにする行為と看 なし得る」 ( 17) と述べた上で、このような現象を身体の「延長 extension 」として説明している ( 18) 。 「 延 長 」 は、 「 境 界 boundar y 」 を は じ め と す る 身 体 と 道 具 類 の 界 面 に 注 意 を 向 け る 概 念 と 併 用 さ れ る ことが多い。また、 extension 自体はラテン語の「広げる extender 」に由来するが、 extension を、同 じ く ラ テ ン 語 源 の「 延 長 pr olongar 」 や「 連 続 continiar e 」 に 由 来 す る 語 に 置 き 換 え て 使 う 例 も 見 受 け ら れる ( 19) 。 身 体 と 人 工 物 の 間 に あ っ た 境 界 が 移 動 す る 現 象 を 記 述 す る と き の extension の 主 題 は、 ポ ラ ン ニ ー
の 記 述 か ら も 分 か る よ う に、 身 体 の 領 域 を 画 定 す る と こ ろ に あ る。 身 体 と そ れ 以 外 の 物 を 区 分 す る 二 元 論 か ら 分 か る よ う に、 「 延 長 」 の extension の「 起 源 」 は、 「 コ ギ ト cogito 」 を 属 性 と す る 心 と、 「 延 長 extensio 」 を 属 性 と す る 身 体 を 分 け た 後、 コ ギ ト の 支 配 す る 延 長 物 = 身 体 と、 コ ギ ト の な い 延 長 物 = 人 工 物 を 分 離 し た R ・ デ カ ル ト ( René Descar tes 1596 〜 1650 ) に 求 め ら れ る。 実 際、 「 延 長 」 を 用 い た 議 論 は 例 外 な く 心 身 の 二 元 論 を 基 調 に し て お り、 メ ル ロ = ポ ン テ ィ、 J ・ J ・ ギ ブ ソ ン ( James Jer ome Gibson 1908 〜 1979 ) ( 20) 、 近 年 で は A ・ ク ラ ー ク ( Andy Clark 1957 〜) ( 21) の よ う に デ カ ル ト を 意 識 的 に 対象化する意図を持つだけでなく、それを実現するにふさ わ しい理論を提唱するに至る者を例外に、概 ねデカルト哲学の問題系の内で思考している。 ②「拡張」 「 拡 張 」 の extension は、 身 体 の 器 官 を 人 工 物 が 代 行 す る こ と で 本 来 の 機 能 が 拡 張 さ れ る と い う 議 論 に 登 場 す る。 「 拡 張 」 の extension に は、 通 常、 「 機 能 function 」 の「 代 行 substitution 」 や「 置 き 換 え replacement 」 の語が併用される。 extension に代 わ って 「増強 enhancement 」、「増大 augmentation 」、「増 幅 amplification 」 が 使 わ れ る 場 合 で も、 人 工 物 の「 代 行 」 が そ の 効 果 を も た ら す も の な ら ば「 拡 張 」 の ヴァ リ エーションと見て間違いない。人間と機械の融合以外に、簡単な仕事を機械に代行させ、余力が できた人間が創造的な仕事に従事して仕事の量と質を増大させるというコンピューターやロボットとの 共生、あるいは分業に関する論考も、 「拡張」の系譜に連なる。 技術による人間の機能の「拡張」を主題にする議論は古く、文字の発明が記憶力に及ぼす影響を考察
し た プ ラ ト ン ( Plato BC427? 〜 347? ) の『 パ イ ド ロ ス 』 の 一 節 や、 荘 子 ( B C 四 世 紀 頃 ) に よ る 道 具 を 使 った水汲みを拒む老人の説話 (『荘子』 )に「起源」を求められる。 「 起 源 」 に お い て は、 記 憶 や 労 働 を「 代 行 」 す る 発 明 に よ っ て 機 能 の 増 大 を 謳 う 者 に 対 し、 発 明 品 に 依 存 す る こ と で 本 来 の 機 能 が 衰 退 し、 「 縮 小 」 す る と の 反 論 が 併 記 さ れ て い た。 ま た、 発 明 品 に 依 存 す ることはそれが失 わ れる危機と背中合 わ せであるとの指摘も見られた。しかし、 産業化以降の議論では、 技術による 「拡張」 の側面が前面に押し出され、 「縮小」 の議論が減少する傾向が見られる。例えば、 K ・ マ ル ク ス ( Karl Mar x 1818 〜 1883 ) は、 手 工 業 の 道 具 か ら 大 工 業 の 機 械 へ の 発 展 を、 身 体 と は 別 の 機 構 に仕事を移行、 「代行」させ、それまでの機能を「拡張」するプロセスとして描き出した。 二〇世紀初頭の技術哲学者の U ・ヴェント ( Ulrich W endt ) は、技術の進歩を精神化の進展と捉え、機 械 化 に つ い て 次 の よ う に 説 明 し て い る。 「 機 械 に よ っ て 人 間 の 労 働 力 は よ り 機 械 的 な 形 態 を 保 持 す る の ではなく、反対により精神化された形態を保持するのである。粗野で単調な労働は絶えずますます機械 の世界へ引込まれ、そして人間労働力は絶えず肉体的により楽でより精神化された活動へ解放される。 単に機械のみがこの方向に働くのではなく、一切の技術的操作もまたこの方向に働くのである。たとえ ば運輸機関の改善、道路、海、運河の諸工事の改善、河川の修理、仕事部屋と労働部屋とをもった地上 工事、広大な焚火および照明装置など、これらはすべて人間の機械労働力を節約し、筋力を少なく、思 惟 力 を 多 く 要 求 す る 一 層 高 尚 な 労 働 型 式 へ こ の 労 働 力 を 解 放 す る こ と を 目 指 し て い る の で あ る 」 ( 22) 。「 技 術はそのもろもろの発明によって人間労働力を絶えずより高い課題へと導き、絶えず筋肉力を少なく思 惟力を多く要求し、平均的な労働水準を常に高める。これは技術の本質である」 ( 23) 。
「拡張」の側面のみを強調する傾向は二〇世紀半ばにかけてますます顕著になる。 「拡張」の議論は、 一 九 四 〇 年 後 半 か ら 六 〇 年 に か け て コ ン ピ ュ ー タ ー と 人 間 の 共 生 を 提 言 し た V ・ ブ ッ シ ュ ( Vannevar Bush 1890 〜 1974 )や S ・ ラ モ( Simon Ramo 1913 〜) 、 マ ウ ス の 発 案 者 の D ・ エ ン ゲ ル バ ー ト( Douglas Engelbar t 1925 〜 2013 ) の 議 論 を 構 成 し、 サ イ ボ ー グ を 誕 生 さ せ、 現 在 の エ ン ハ ン ス メ ン ト 論 に 続 い て いるのである ( 24) 。 ③「外化」 「外化」の extension は、 レンズの発明が眼の機構の解明に寄与した歴史的事実を引き合いに出して、 身体の外につくり出された人工物を通 じ て内的な身体の機構や機能が解明できると考える点に特徴があ る。人工物を身体とのアナロジーで捉える通俗的解釈も「外化」のヴァ リ エーションと言えるが、本来 は、単なる類比を超え、身体機構や機能の可視化を目指す概念である点には留意すべきである。 「 外 化 」 の 意 味 で の extension は、 身 体 の 外 に 出 た も の を 表 現 す る「 外 化 exter nalization 」、 「 外 面 化 exteriorize 」、 「 外 部 化 outering 」、 「 外 置 placing out 」 の 語 に 置 き 換 え ら れ る が、 E ・ カ ッ プ の 器 官 射 影 説 に 代 表 さ れ る 一 九 世 紀 後 半 の 技 術 哲 学 の 文 脈 で は、 射 影 幾 何 学 を 可 視 化 の 方 法 に 掲 げ た こ と 反 映 し て、 「 射 影 pr ojection 」 の 語 が extension の 代 わ り に 使 わ れ る こ と が あ る。 以 上 の 語 を 使 っ た 技 術 に 関 す る 論 考 は、 「 外 化 」 の 系 譜 に 属 す る 可 能 性 が 高 い。 二 〇 世 紀 半 ば に は、 メ デ ィ ア 研 究 の M ・ マ ク ル ー ハ ン( Marshall McLuhan 1911 〜 1980 )や考古学の A ・ L =グーラン ( Andr é Ler oi-Gour han 1911 〜 1986 )が 「外化」の概念でメディアや石器類の生成とその意義を説明した。
「 外 化 」 の 概 念 は、 内 部 環 境 論 を 唱 え た 生 理 学 者 の C ・ ベ ル ナ ー ル ( Claude Ber nar d 1813 〜 1878 ) の 著 作 に も 登 場 す る よ う に、 医 学 思 想 と 強 い 親 和 性 を 持 つ。 科 学 哲 学 者 の F ・ ダ ゴ ニ ェ ( François Dagognet 1924 〜 2015 ) も、 X 線 C T や M R I な ど を 駆 使 す る 現 代 の 医 療 技 術 に つ い て 次 の よ う に 述 べ て い る。 「 現 代 医 学 は、 身 体 を 外 化 し な が ら も、 内 部 か ら 読 解 す る た め の 多 く の 手 段 を も っ て い ま す。 そ れ は 何 も 身 体 を 文 字 通 り 外 化 す る こ と extérioriser で は あ り ま せ ん 。 そ れ は あ く ま で、 内 部 を 表 す 外 な の で す 」 ( 25) 。 こ こ で ダ ゴ ニ ェ が 前 提 に し て い る 外 化 の 発 想 は、 西 洋 医 学 の 祖 と さ れ る ヒ ポ ク ラ テ ス ( Hippocrates BC460? 〜 377 ) の 記 述 に も 見 出 せ る。 「 何 を 見 る の に も 視 覚 に よ る の が 誰 に と っ て も い ち ば ん 良いのであるが、膿瘍の患者や肝臓もしくは腎臓の患者、総 じ て体腔部に疾患のある患者について は目で見る わ けには行かない。それにもかか わ らず、 医術は援けになる他の諸手段を発見したのである。 すな わ ち音声の清濁、呼吸の遅速、それぞれ与えられた出口から排出される各種の体液の臭い、色、濃 淡などの徴候を目安にして、すでに犯されている体の部位や、これから犯され得る体の部位を判断する のである。もしこれらの徴候のないばあいと、自然 (身体) がおのずとそれらの徴候を示さないばあいに は、人体に害をおよぼすことを避けながら強制的に排泄させる方法を発見した」 ( 26) 。医術は、まずは、 身体が自ずと外化した物質を手がかりに、体内の状態を判断する技術である。しかし、もし身体が内部 を知る手がかりとなる物質を自ずと外化しない場合には、人体に害のない範囲で、例えば、酸性の食物 や飲物を飲ませるなどの手立てで身体に働きかけて強制的に外化を促す技術も備えている。意識的に外 化を促して内部を知ろうとする医術の最先端に、文字通り身体の組織を外化させるのではなく、 X 線や 高周波磁界を使って非侵襲的に、映像という表象の外化を実現した現代の医療技術が位置している。
ヒポクラテス以来、外化したものを通 じ て、それを産出した母体の構造、さらに人間の思考が解明で きる、という論理が様々な分野に広まり、技術を記述する文脈にも流入したものと考えられる。 各概念の「起源」は、何れも、系譜の延長線上に先行する記述が見つかればいつでも更新可能な暫定 的 な「 起 源 」 に 過 ぎ な い。 ま た、 「 原 型 」 に つ い て も、 系 譜 に 登 場 し た 後 続 の 議 論 へ の 影 響 力 に よ っ て 遡って「原型」と認定される類のものである。 以上を踏まえ、各系譜において時代毎に生 じ た意味の差異をテクストの読解を通 じ て追跡する「系譜 学」について説明する。 技 術 に 関 す る テ ク ス ト に は extension が し ば し ば 見 ら れ る が、 三 つ の 意 味 を 分 節 し つ つ 読 み 進 め な け れ ば 十 全 な 読 解 は 望 む べ く も な い。 し か し こ の こ と は、 人 工 物 が 三 つ の う ち 一 つ の extension で し か 記 述 で き な い こ と を 意 味 す る も の で は な い。 は じ め に 断 わ っ て お か な け れ ば な ら な い の は、 人 工 物 は、程度の差こそあれ「延長」 、「拡張」 、「外化」の三つの側面を併せ持つという点である。観察者は、 extension を自由に使いこなせば、 少なくとも三つの観点から人工物を記述することができるのである。 義足を例にあげよう。古来、脚や足を失った者は、人工の足によって欠損を補い、本来の機能を取り 戻そうとしてきた。義足は失った脚の機能を代行する人工物である。そして今、義足がもたらす機能が 治療的な段階を超えて「拡張」の域に達しつつある。オ リ ンピックでは義足の使用により競技能力が飛 躍的に向上するランナーの参加を認めるか否かが議論されており、義足のランナーが健常者よりも速く 走れるようになるのはほぼ間違いない。さて、使用の場面を問 わ ず、義足を自在に使いこなすには熟練
を要する。脚を失い、残った脚部を義足に挿し入れた者は、自分の身体とは別の冷たい人工物に戸惑う ことだろう。当初、使用者の意識は、義足と身体の境界をしばらく離れないが、義足を使いこなせるよ うになるにつれて義足と地面の境界に移行していくはずだ。最終的に、使用者の身体は義足の隅々まで 「 延 長 」 し、 義 足 を 血 の 通 っ た 身 体 の 一 部 と 感 じ る よ う に な る。 そ し て、 義 足 の 製 作 者 が 生 身 の 脚 を 参 考にするのは想像に難くないが、義足の製作過程は、これまで必ずしも明白でなかった足の機構や機能 が明かされる過程でもある。義足は「外化」した脚であり、義足は脚や足の複雑なしくみや働きの一部 を解明する手がかりになる人工物でもあるのだ。 extension は、 人 工 物 を 三 つ の 観 点 か ら 記 述 す る こ と を 可 能 に す る。 と は い え、 前 章 の 知 見 を も と に extension を 含 む テ ク ス ト を 読 ん で み る と、 時 と し て 二 つ 以 上 の 意 味 が 分 節 で き る 場 合 も あ る が、 実 際 には一つの意味しか分節できないものが大半である。また、いずれの場合にも、それぞれの概念の価値 を 十 分 に 理 解 せ ず に 使 用 し て い る ケ ー ス が か な り 見 ら れ、 「 起 源 」 を 意 識 し つ つ 使 用 し て い る ケ ー ス は 極めて稀だと言 わ ざるを得ない。こうしたテクスト群を目の前にしたとき、次のような積極的な読解の 方法が考えられる。 まず、自らが使用する概念に無自覚な著者のテクストは、往々にして人工物についての紋切り型の表 現で満ちているが、三つの系譜の知見に基づいて分類すれば、その人工物が当時の人々に及ぼした影響 を再現するための資料として利用できる。 概念に自覚的な著者によって書かれたテクストならば、資料としての価値に加え、例えば、ギブソン がデカルトの二元論の克服を念頭に「延長」を使用した例から分かるように、概念に固有の枠組み、あ
る い は 問 題 系 を 顕 在 化 さ せ る 働 き が 期 待 で き る。 読 者 は、 「 起 源 」 を 自 覚 し た 著 者 の テ ク ス ト を 通 じ て 概念の出自を明かす系図を手にする。そして、 同 じ 概念を使った先行の思想を系図に配置すれば、 「起源」 から現在に繋がる系譜を一覧できるのである。 概念の出自を自覚した著者によるテクストには、 「原型」 、さらに「起源」を相対化して別のパラダイ ムを形成する可能性が認められるが、その事実を以って、この種のテクストが新たな「原型」になると 即 断 は で き な い。 「 原 型 」 と は、 そ の 影 響 力 の 大 き さ か ら、 過 去 を 振 り 返 っ た 未 来 の 読 者 に よ り 発 見 さ れる類のものだからである。 ま た、 稀 に extension の 概 念 が 二 つ 以 上 確 認 で き る テ ク ス ト が あ る。 読 者 は、 人 工 物 の 影 響 を 複 数 の 視点で記述した資料を入手した わ けだが、複数の意味が構造化されている場合には、ある種の理論の存 在を前提にテクストを読むべきである。非常に稀に、 extension で構築された理論を発見できる ( 27) 。 extension を 含 む テ ク ス ト に は、 三 つ の 意 味 を 曖 昧 に 使 う 著 者 の 過 失 で 読 者 に 不 必 要 な 誤 解 や 混 乱 を 与えてきたものがある。その一方で、三つの意味を分節できない読者の過失で理解さなれかったテクス ト が あ る こ と も 否 定 で き な い。 extension の 系 譜 学 を 実 践 す る に あ た っ て は、 こ の 二 つ の 危 険 を 念 頭 に テクストを読む必要がある。 以上に留意し、次章では、 「 extension の系譜学」で サ イボーグ論の「原型」を特定する。