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Hutchinson Hygeia Rima D. Apple - Mothers and Medicine Apple Apple Nancy Cott prescription description Apple Apple Apple Barbara Ehrenreich Deirdre En

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世紀転換期米国の乳児哺育をめぐるアクター・ネットワーク

―ドクター・デッカーのヒュギエイア哺乳瓶を手がかりに―

吉岡 公美子

ニュー・ヨーク州バッファロー市メイン・ストリート 1130 番地̶̶メ イン・ストリートとサマー・ストリートが交わる角に、大手チェーン店 とは違う趣のある個人経営食料品店メイン・フードマートの建物がある。 目を引くのはエントランスの 2、3 階から突き出した円筒形の小塔で、天 辺が銅製の円蓋で覆われている。V. Roger Lalli が地元の歴史的建造物を 描いた水彩画集「我が街バッファロー」の解説文において、David M. Roteはこれを「ちゃんと乳首も取り付けた赤ちゃん用の哺乳瓶に酷似し ている」と形容した。絵画やグーグル・マップのストリート・ビューを 介してこの建物を目にする 21 世紀日本の我々も、なるほどその通りだと 頷く特徴的な形状である。 しかし、1871 年に Frederick L. Beier が店を創業した頃のバッファロー 市民が同様の印象を持つことはあり得なかった。なぜなら、当時の哺乳 瓶はまったく異なる姿をしていたからである。19 世紀に英国などから輸 入され、その後米国内でも製造された哺乳瓶は、軍用の丸形水筒のよう な扁平なガラス容器に細いゴム管が取り付けられ、その先端にゴム製の 乳首がついているというものだった。シアーズ・ローバック社が 1895 年 版通販カタログに初めて掲載した哺乳瓶もこの「バンジョー型」であっ た(History of the Feeding Bottle)。

広口の円筒形ガラス容器の口を直接大きなゴム製の乳首で覆った哺乳 瓶 は、 米 国 ニ ュ ー・ ヨ ー ク 州 の William More Decker 医 師 が 考 案 し、 1894 年に特許をとった発明品であった。じっさい、1880 年のイラスト地 図「バッファロー市」を見ると、屋根の形状などから確かに現存するメ

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イン・フードマートの建物を確認することはできるが、特徴的な小塔は 見当たらない(Hutchinson)。エントランス部分は少なくともそれ以降、 おそらくは 1894 年以降にドクター・デッカーの「ヒュギエイア(Hygeia) 哺乳瓶」を模して増築されたものと推察される。 世紀転換期から 1920 年頃までの間に、米国では哺育の仕方が大きく変 化した。一般に「乳房から哺乳瓶へ」という変化として認識され語られ てきたように、1920 年頃から遅くとも 20 世紀の半ばまでに、母乳ではな く人工哺育が主流を占めることになった。Rima D. Apple が 1987 年に上 梓した 1890-1950 年米国の哺育の社会史 Mothers and Medicine は、今で は古典的著作と言える。Apple は哺育の変化を促し実現した立役者とし て、医師に注目する。それを取り巻き支える脇役に配されるのは、乳製 品の製造販売に携わる業者に代表される産業界、雑誌などの出版界・広 告業界、そして連邦労働省児童局やニュー・ヨーク、ボストンなどの都 市の衛生局をはじめとする行政機関である。さらに、これらすべてを通 底する駆動力となった重要な契機が、近代の具としての「科学」のレトリッ クであると Apple は分析する。 もちろん、実際に授乳に携わった当の母親たちがすっかり忘れられて いるわけではない。女性史家 Nancy Cott が指摘したタテマエ(prescrip- tion)つまり授乳にかかわって巷に流布する勧告・言説と、ホンネ(de-scription)すなわち実際の授乳行動の有り様との相違を Apple は十分認 識している(18)。しかし、資料的制約もあり、Apple が描く母親たちはもっ ぱら育児雑誌やパンフレットを読み小児科を受診する<消費者>役に留 まり、彼女たちの主体的選択はその範囲でしか発揮されない。 いささか荒っぽい括りであることを怖れずあえて言うならば、大枠に おいて Apple の論は、Barbara Ehrenreich と Deirdre English が小冊子 「魔女・産婆・看護婦」で描いて見せた、生殖とりわけ周産期の文化と技 からその伝統的担い手であった女性を締め出して男性の科学的管理下に

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置くことを企む「階級と性の権力闘争」という唯物論的フェミニズムの 大きな物語を、哺育という特定領域において再発見し反復している。白人・ 男性・中産階級の「正規の医師」による科学的医療の制度化と権力独占 を可能にしたのがロックフェラー財団とカーネギー財団の資本であった と Ehrenreich と English が論じるのと同様に、Apple もまた、乳児用食 品メーカーの資本と小児科医療の制度化・権威強化の相互関係に着目す る(Ehrenreich & English 45-48)。もちろん、Apple は支配階級と結託 した男性専門医による陰謀論を安易に唱道するわけではない。むしろ、 小児科は人工栄養法という固有の課題を発見することによって初めて一 専門領域として構築されたと Apple は指摘する。また、Mellin s 社など の乳児用特許食品業者が、消費者に直接宣伝するのではなく医師を対象 とする医薬情報担当者(MR)によるマーケティング手法を開発し、Bor-den s社や Mead Johnson 社などの製造業者や缶詰加工業者は研究者に資 金を提供し、一方で米国医師会や米国小児科学会が「認定」を通じて素 人向けの文書を添付しない製造業者を優遇するという相互作用の過程が、 乳児栄養に関する科学的言説の形成とあいまって、人工哺育の普及に重 要な役割を担っていたことを Apple は丁寧に説いている(90-94)。この ように幾多の慎重な留保をつけながらも、構造化された社会的構築物と して哺育史を語る Apple は、明らかに唯物論的フェミニズムの枠組みを 前提としている。 「個人的なことは政治的なことである」と看破したラディカル・フェミ ニズム、そしてそれを政治経済的権力構造関係のうちにとらえ直した唯 物論的フェミニズムは、たしかに新たなパラダイムを拓く発見的(heuris-tic)な視座を提供し、問題解決のための糸口を与えてくれた。しかし、 あのだまし絵にウサギの頭を見る者にはアヒルの頭が見えないように、 ひとたび権力構造関係のリアリティを前提とする視座が確立されてしま うと、それが事実隠蔽的に機能するおそれがあることに留意し戒めなけ

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ればならない。たとえば Apple が、医科大学に籍を置いて情報を生産し 提供する研究医と、理論を反映して実地診療に当たる開業医や病院勤務 医を区別して検討を開始し、さらには様々な臨床家たちの多様性を十分 認識していながら、結局のところ、都会であれ田舎であれ、北部であれ 南部であれ、また女医も含めて、臨床医は一様に哺育の医療化・科学化 に与したと結論づけるとき、一般理論の網の目で掬い取られることなく こぼれ落ちたものはないのか、われわれは今一度疑いの目を向ける必要 がある(Apple 54-55)。

Jacqueline H. Wolfは Don t Kill Your Baby(2001) に お い て Apple を批判的に継承し、授乳行動を社会制度や構造の反映ととらえるのでは なく、母親の行動を起点として哺育史を語り直した。すなわち、衛生的 な牛乳が流通し人工栄養法や科学的母親業の観念が普及したために母乳 哺育が衰退したのではなく、むしろ都市化など社会文化的環境の変化に よって母乳哺育が困難になった歴史的事実が先行し、高い乳児死亡率と いう社会問題に対する応答(reaction)として人工栄養法が改良され市販 の乳児食品が開発されたと Wolf は論じる(2)。母親たちの授乳行動の変 化こそが哺育をめぐる諸制度や装置の再編をもたらしたとする Wolf の論 は、Apple よりも大きな自律性を母親たちに認め、現行の授乳慣習に不 備を認め変革を願う立場にある者に有益な理論的基盤を提供しているよ うに見える。しかし、主従関係を逆転したにせよ、母親、医師、製造業者、 公衆衛生担当の行政機関、という役者は Apple と共通である。自らの意 思を持ち行動を自己決定する行為者をまず措定し、その相互作用として 社会的構築をとらえる点で、Wolf もまた唯物論的フェミニズムの系譜を 受け継ぐ娘である。 近年、「基盤」や「前提」としての物質/自然から出発する本質主義や 生物学的決定論ではなく、かといってすべてはテクストであるとするポ スト構造主義でもない、いわばもう一つのマテリアリズムが様々な形で

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構想されている。Michell Foucault や Judith Butler を読み解きつつ「ま ず身体そのものがあって、その諸性質があるのではない。さまざまな性 質の総和、諸活動の把捉しがたく動き続ける連鎖だけが現実の、〈物質的〉 なものとしての身体なのである」と説く加藤秀一(2001)の論考は、そ の秀逸な要約である。Bruno Latour のアクター・ネットワーク理論(Ac-tor-Network Theory; ANT)に依拠しつつ、旧来のジェンダー/セック ス二元論ではなく、不断の対話/転換すなわち convers(at)ion とし てのリアルな「自然」から女性性をとらえ直そうとする Vicky Kirby(2008) もまた、同様の立場をとる。「『ジェンダーの構築主義』をどのように実 地に歴史化してみせるか」という荻野美穂(2001)の問いに対する答えは、 ご都合主義的な折衷主義ではなく、このようなマテリアル・フェミニズ ムにこそ見いだせるのではないか。

Graham Harmanも強調するとおり、B. Latour のアクター・ネットワー ク理論はその脱テクスト主義、脱人間中心主義において、言語論的転回 を必要としたポスト構造主義的社会構築主義とは一線を画する。アクター は、理性や意思を持つヒトないしは生物である必要はない。無生物もまた、 ヒトと同等にアクター・ネットワークという動的実在を構成する一員な のである。本稿では、20 世紀への世紀転換期の哺育の歴史を振り返るに あたって、本来ヒトを含む哺乳類は生物学的母の乳で育てられるのが自 然であるとか、母乳が標準・最善で人工乳はその模造品・代替品である とか、乳こそが乳児栄養(infant feeding)の本体であり哺乳瓶は補助的 な道具にすぎないとか、その他諸々の常識をいったんすべて忘れること にしよう。そして、言語テクストではなく形あるモノとして今なお残存 するアクターである哺乳瓶を始点に、ANT という頭字語にふさわしくア リの目でネットワークの経路(conduit)を辿ってみたい。その際、機械 的な仲介者(intermediary)ではない媒介者(mediator)から成るアクター・ ネットワークの各ノードにおいて、どのような反訳(translation)がな

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されたかに特に注目する(Latoar 38-39, 108)1)

米国の市場において、細いゴム管のついた哺乳瓶が今日のような広口 哺乳瓶に取って代わられる過程は、1925 年頃まで通販市場をほぼ独占し ていた Sears, Roebuck & Co.(シアーズ)社のカタログを経時的に概観 することによって辿ることができる。1895 年、シアーズ社は経営陣が変 わって新たなスタートを切った。セールスマン Richard W. Sears が 1886 年シカゴに R. W. Sears 時計会社を設立して以来のパートナー Alvah Curtis Roebuckが経営を離れ、縫製業の Julius Rosenwald を新たなパー トナーに迎え入れたのである(Corn, 537-40, 557)。前年までは時計・宝 飾品が中心であったが、カタログに掲載する品目が一気に増え、このと きに哺乳瓶とゴム製乳首も取り扱いを開始している。そして、1897 年春 には哺乳瓶、それに取り付けるゴム管とゴム乳首から成る装具(fitting)、 洗浄用ブラシを一つにし、自社ブランドを冠した哺育セット S. R. & Co. Nurser No. 1 をカタログに掲載し始めている。 ところで、長いゴム管付き哺乳瓶の問題点はかなり早くから指摘され ていた。後に改訂を重ねつつロングセラーとなる小児科医 L. Emmett Holtの育児指南書『小児のケアと哺育』の 1894 年版は、「長い管のつい た〔乳首〕は複雑すぎて清潔に保つことが困難である」として、単純な真っ 直ぐの乳首を哺乳瓶の首に直接取り付けることを推奨している(34)。も ちろん、Holt の助言は、パスツールやコッホらによる 19 世紀後半の微生 物学・衛生学の進展があって初めて可能になったものである。 シアーズ・カタログは、1896 年から瓶に直接取り付けるタイプの乳首 数種を、そして 1898 年には、扁平な形は従来のものに似ているが横置き ではなく縦型の「哺乳フラスコ」も掲載し始めている。一方、少なくと も単品で販売されるゴム管付き装具は、1908 年を最後にカタログから姿 を消した。その後も哺乳セットには相変わらずゴム管付き装具が入って いた可能性が高いが、哺乳セットも 1915 年春を最後にカタログから姿を

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消す。このように、権威ある研究医の号令に従って古い型の哺乳瓶がい ちどきに姿を消したわけではなく、哺乳瓶の世代交代には一定の時間が かかっている。おそらく、直接には既存商品の在庫状況やメーカーによ る供給の事情、売れゆきなどを参照しながら、シアーズ社はカタログ掲 載商品を決定していったのであろうが、結果的にその取捨選択は小児科 医のアドバイスに合致していた。 哺乳瓶の変遷を検討するに当たっては、医学界だけではなく行政機関 のアクターにも目配りしておく必要がある。Henry E. Tuley は、医学生・ 臨床家向けの小児科学入門書でゴム管付き哺乳瓶の危険性に言及し、 「バッファロー市と同様に、どこでも法律で販売を禁止しなければならな い」と論じた(59)。折しも、加工食品や特許医薬品(patent medicine) の危険性が Ladies Home Journal 誌などのメディアで大々的に報じられ、 公衆衛生と消費者の安全確保が社会問題となっていた時代ではあるが、 連邦の純正食品医薬品法が成立するには 1906 年まで待たなければならな い。しかし、連邦はもとより、ボストンやニュー・ヨークなどの大都市 にも先駆けて、バッファロー市は遅くとも 1904 年までにはゴム管付き哺 乳瓶を規制していたことが Tuley の記述から知られる。ニュー・ヨーク 州は、社会問題にもなった高い乳児死亡率に対処するために行政が積極 的に関与した先進地であった。 連邦の行政機関のなかでより安全な哺乳瓶の普及に尽力したのは、食 品医薬品局(FDA)ではなく 1912 年に設置された米国労働省児童局であっ た。児童局が発行し、全国で多くの母親たちに愛読された手引書「乳児 のケア」の初版(1914 年)は、「いちばん良い哺乳瓶は、もっとも病原菌 が繁殖しにくいものです」と述べ、首が短く肩がなだらかで洗浄しやすく、 冷蔵庫や殺菌用のパスチャライザーに入れやすい 8 オンスの目盛り付き 哺乳瓶を推奨している(44-45)。以後、この要件を満たす哺乳瓶がいわ ば当局のお墨付きを得た事実上の標準規格として普及する。1915 年秋号

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には、8 オンスの哺乳瓶の説明文に「正規サイズ(regulation size)」と いう記述が見られる。 興味深いのは、通販カタログにおいてゴム管付き哺乳瓶が旧型の扱い を受け始める時期は、連邦レベルで行政による指導が行われるよりもずっ と早いことである。前述のとおり、19 世紀末にはすでに、ゴム管付き哺 乳瓶以外の商品を提供しようとするきざしが見られる。シアーズ・カタ ログは、小児科医や行政の警告をそのまま具現化する「仲介者(interme-diary)」ではなかった。むしろ、洗浄が困難な首の長い哺乳瓶やゴム管 付き哺乳瓶以外の商品が一定市場に流通していたからこそ、1914 年に当 局は清潔を保つことが困難な型の哺乳瓶を使用しないように警告を発す ることができたのではないか。もっとも、通販カタログという場には、 医師や行政の助言に反応してメーカーが商品の仕様をマイナーチェンジ するという、逆の動きも見て取ることができる。ヒュギエイア哺乳瓶は、 1911 年春までは 6 オンスの大きさであったが、同年秋号より 8 オンスに 一回り大きくなった。 健康・清潔の女神(医神アスクレピオスの娘)の名を冠したヒュギエ イア哺乳瓶が初めてカタログに掲載されたのは 1906 年である。最新の哺 乳瓶は洗いやすく清潔、広口をすっぽり覆うゴム製の乳首部分は柔らか くてしなやかでお母さんの乳房にそっくりだと謳われ、哺乳瓶と専用乳 首のセットが参考市価 50 セント、シアーズ価格 35 セント、単品の乳首 と哺乳瓶はいずれも 19 セントであった。他のゴム製乳首がおおむね 4-5 セント、哺乳瓶が 4-7 セント、上述の箱入り哺育セットが 12 セントであっ たから、2-3 倍以上の高価な商品であった。広口哺乳瓶の価格設定からは、 より安全な哺乳瓶を支持する消費者の姿勢を読み取ることができる。 1910 年秋には早くも類似品スウィート・ベイビー哺乳瓶が登場し、そ れと並んで新価格 25 セント(単品 14 セント)に値下げしたヒュギエイ ア哺乳瓶が掲載されている。競合他社の登場である。しかし、翌 1911 年

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春にはまた、シアーズ・カタログに掲載される広口哺乳瓶はヒュギエイ アのみとなり、次にスウィート・ベイビー哺乳瓶のカタログ掲載が再開 されるのは 1914 年秋である。詳細の検討は稿を改めることとするが、そ の背景には特許をめぐるウェスタン製瓶社ならびにヤンキー社(D. B. Smith)との係争があった。 1916 年秋には哺乳瓶と乳首、乳児食品(infant food)だけでカタログ の一頁全部を占める大きな扱いとなり、広口哺乳瓶はヒュギエイア、ス ウィート・ベイビー、ノー・ネックの 3 種が掲載された。1916-19 年の 3 年間はシアーズ・カタログが哺乳瓶と乳児食品を最も大々的に取り上げ たピークであり、1919 年秋には「その他の哺乳瓶」と対置される見出し として「広口哺乳瓶」という一般カテゴリーが確立した。この頃から、 哺乳瓶よりもむしろ Mellin s、Nestle s、Eskay s、Horlick s などの乳児 食品の扱いが大きくなり、1927 年頃にはカタログに掲載される哺乳瓶は ヒュギエイアとパイレックスの 2 種だけとなっている(Mirken 639)。19 世紀末には従来品と似ても似つかない姿形のユニークな発明品、それも ヨーロッパに先駆けて米国内で考案された特許製品であったヒュギエイ ア哺乳瓶は、積極的な宣伝活動による周知と、他社製の類似・競合品の 登場などを経て、特許が切れる 1910 年代にはもはや取り立てて説明を要 しないほど当たり前の、普通名詞の「広口哺乳瓶」として広く受け入れ られるに至った。では、ヒュギエイア哺乳瓶を考案したのは誰か。一見 すると特許哺乳瓶は、当時シアーズ・カタログでも相当な紙幅を割き、 さまざまな効能を謳って販売された、特許医薬品の亜型に見える。ヒュ ギエイア哺乳瓶の特許を取得したドクター・デッカーもまた、怪しげな いんちき医師だったのであろうか。

William More Decker(以下デッカー)は 1855 年 3 月 26 日、George G. Deckerと Catherine 夫妻の第 3 子としてニュー・ヨーク州デラウェア郡 ミドルタウンというタウン(大字)のマーガレットヴィル村に生まれた。

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父 George は E. J. Burhaus 商 会 の 支 店 を 6 年 間 任 さ れ た 後 に 独 立、 Decker商会というよろず屋の経営者となった。後に州議会議員を 1 期務 め、1890 年代には郵便局長、マーガレットヴィル人民銀行頭取などを務 める村の「名士(prominent citizen)」となる。教会の新設に尽力し、計 100 ドルを 2 回分割で寄附したというエピソードからも、Decker 家がま ずまず裕福な商家であったことが推察される。 1872 年、17 歳のデッカー少年は、「少年よ大志を抱け」で有名なウィ リアム・S・クラーク博士の母校でもあるウィリストン・セミナリーに入 学するために、マーガレットヴィルを離れマサチューセッツ州イースト ハンプトンに向かう。第 3 代校長 Marshall Henshaw(在職 1863-80 年) の下、1864 年には地元に公立高校が設置されたことを機に共学から男子 校となり、生徒の半数がニュー・イングラント出身、ハンプシャー郡出 身者は全校生徒のたった 1 割で、地元イーストハンプトン出身者はその 半分にすぎないという、全国区の学校となった。その名の通り、もとも とは牧師養成学校であるが、古典学部だけではなく英語学部も併設され、 アマースト大学の予備学校的な役割も果たしていた。数学・物理学の教 師でもあった Henshaw 校長は 1870 年に後者を「科学部」と改名し、そ の拡充に努めた。実学からアカデミックな自然科学へと舵を切ったこの 科学部で、デッカーは 3 年間、年間 40 週の授業をみっちり受けることに なる(Sawyer 180-81)。 デッカーの故郷ミドルタウンの公立学校と比較してみれば、ウィリス トン・セミナリーがいかに潤沢な資金を得ていたか明白である。25 の校 区を持ち 1,039 人の地元生徒が通うミドルタウンの公立学校全体に対する 1878 年の歳費は $2,506.35 であった(Munsell)。これに対し、ウィリス トン・セミナリーは創設者 Samuel Williston から単年度で $58,000 もの 寄附を得た。1863 年の学校案内は、創設者の寄付額は $82,000 を下回ら ないと述べている。1864 年の学校案内は、折にふれ校舎増築、設備充実、

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基金の増額などが行われた結果、総寄付額は $140,000 に達するという。S. Willistonはデッカーが卒業する 1 年前の 1874 年 7 月に他界したが、多 額の遺贈が行われたため、ウィリストン・セミナリーの経済基盤はむし ろ強固なものとなった。創設者による寄附と基金の果実に加え、ウィリ ストン・セミナリーには生徒 1 人当たり年間 60 米ドルの授業料と諸経費 という収入源もあった(Sawyer 183-85, 198)。 潤沢な寄附のおかげで、ウィリストン・セミナリーの生徒たちは最新 の科学器具を手にすることができた。1870 年春、校長は物理学、天文学、 測量学の教具や、その他の科目用の教材写真、地図などを買い付けるた めに欧州に渡っている。翌 1871 年には測候所も建設され、ウィリストン・ セミナリーには合衆国内のどの学校よりも優れた「光学、音響学、電気学、 測量学のセット」が備えられた(Sawyer 184-85)。 1863-64 年の寄附は合衆国初のジム(gymnasium)の建設費を含むため、 通常よりも多額であったかも知れない。このジムはただの体育館ではな く、「健康の諸法則を教える」ことを目的の一つとし、「人体解剖学、生 理学、衛生学を教授するため」の講義室を含む施設であった。デッカー が在籍した当時の体育科主任は、アマースト大学を 1871 年に 37 歳で卒 業した David Hill 大尉であった。南北戦争であわや右手切断という大怪 我を負ったこの退役軍人は、1875 年にウィリストン・セミナリーを退職後、 法律を学び、やがて弁護士となる。Henshaw の後継者である Joseph Henry Sawyer校長は 1917 年に、「うちの体育科主任たちは、今日のい わゆるアスリートではなく…スター選手を育てるプロのトレーナーでは なかった」と回想している(Sawyer 171-74)。

1927 年の The Buffalo Sunday Times 紙によれば、デッカーはもともと、 マーガレットヴィルで家業のジェネラル・ストアを継ぐことを切望して いたという。おそらく、ウィリストン・セミナリーへの進学も、そもそ もは英語学部で簿記などの実学を修め、経営者としての資質を高めるこ

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とが目的だったのではないかと推察される。しかし、実際にデッカーを 迎えたのは、科学部に改組され、10 人弱ではあるがアマースト大学卒業 生を中心とする卓越した教授陣と全米トップクラスの設備を有し、最先 端の自然科学教育を施す体制を整えた中等教育機関であった。とりわけ 実技以上に学術的探求を重視する体育科教育は、医学部進学準備教育に 匹敵する内容であったと思われる。そのセミナリーのなかでも、デッカー は優等な成績を修めていた。1875 年のシニア・デーには、選抜された 20 人の卒業生の 1 人として「拙速な建設(Hasty Construction)」という論 文を口頭報告している。 Henshaw 校長時代の生徒数は年間平均 233 名 であったから、デッカーは学年で上位三分の一に入る優等生であったこ とになる(More 210-11, Sawyer 178-89)。 1875 年にウィリストン・セミナリーを卒業した後、デッカーは予定通 りマーガレットヴィルに戻るが、わずか 1 年で再び郷里を離れることに なる。「よろず屋の店員をするのは 1 年で十分足りてしまい、医学を学ん だほうが良いと心を決めた」という人物紹介新聞記事の書きぶりは、あ たかもデッカーが自らの自由な意思で転職を決意し選択したかのようで あるが、じつは、そのような選択を準備し促す一連の出来事が、デッカー の留守中にマーガレットヴィルで生起していた(Smith)。 1874 年、父 George G. Decker はニュー・ヨーク州議会議員に当選、翌 年に再度議員候補に指名されるものの対立候補に敗れてしまうことにな る。デッカーが帰郷する半年前の 1875 年 1 月には、デッカーのすぐ上の 姉である次女 Alice が、Olson Allaben Swart と結婚した。Swart 家は、マー ガレットヴィルのメイン・ストリートで、デッカー商会と目と鼻の先の 距離にあるもう一軒の商店を営んでいた。結局、1876 年に George G. Deckerは在庫品を娘婿にすっかり売り渡すことを決意する。マーガレッ トヴィルの限られた市場規模を考慮すれば、競合店を合併して富の集中 を図る戦略は、賢明な判断であっただろう。しかし、今やデッカー商会

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ではなく Swart 商事となった店舗に、デッカーの居場所はなかった (Bussy ch. 50, More 200-04)。 一説によれば、George G. Decker がこのタイミングでの引退を決意し たのは、体調不良のせいであるという。1880 年には「早期ではあるけれ ども命取りの病」であると医師から診断されたことからも知られるよう に、1875 年の時点では、かなり重篤な病状であると本人も周囲の人々も 観念していたと思われる。幸い、その後劇的に回復した George G. Deck-erは、1903 年に 80 歳で他界するまでの二十余年間、ウェスタン・ロー ン社の貸金業を営むなどビジネスの世界で、また既述の通り村の名士と して、再び活躍することになるのであるが、George More Decker が医学 を志したきっかけの一つは、父 George の病であった可能性が高い(More 200-04)。 こうして、1876 年秋、デッカーは現在のニュー・ヨーク医科大学の前 身であるニュー・ヨーク・ホメオパシー医学校に入学する。当時として は長い方であった 3 年間の教育課程を終えて 1879 年に卒業する際には、 高熱の一形態に関する優秀論文で一等賞を授与されており、医学校でも デッカーは優等な成績をおさめていたことが窺われる(More 210)。 デッカーがいわゆる正統派(orthodox, regular)ではなくホメオパシー 医学校を選択したことは、やがて特許哺乳瓶の開発に至る一連の出来事 が生起するための重要な条件となる。卒業後、デッカーはセミナリー時 代を過ごしたノーサンプトンに程近いマサチューセッツ州スプリング フィールドで開業したが、わずか 1 年でニュー・ヨーク州 Dutchess 郡 Rhinebeckに、さらに 1881 年 12 月には同州 Kingston に居を移した。転 居の理由は定かでないが、米国におけるホメオパシー発祥の地で、著名 人や上流階級がホメオパシーを支持していたニュー・ヨークに比べ、マ サチューセッツの居心地が悪かったであろうことは想像に難くない。 1880 年に提出されたマサチューセッツ州の法案の、医師免許試験の審査

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にあたる委員会を正統派 5-6 人、ホメオパシー医 1-2 人、折衷派 1 人、歯 科医 1 人で構成する、という提案は、同州におけるホメオパシー医の地 位がいかに周縁的であったかを示している(More 210-11, Kaufman 142-43)。 1883 年にニュー・ヨーク州ホメオパシー医学会の終身会員に推挙され たデッカーは、1890-91 年度、マテリア・メディカ(薬効書)部門長とな る。そして、1890 年 9 月 30 日、第 39 回後半期次大会初日にマテリア・ メディカ分科会でデッカーが口頭報告した論文「かねてより今日まで新 医学派が堅持したるも不健全なるいくつかの治療原則」とそれに関わる 学会決議動議が、大いに物議を醸した。希釈を繰り返すことによって薬 効が高まるという高ポーテンシー説など、近代科学の知見に反するホメ オパシーの 3 つの誤りを正面から取り上げた論文は 1890 年 12 月刊行の 会報第 25 巻に掲載されたものの、学会決議のほうは、複数名からの反論 を受けて一旦棚上げにされた後、最終的に会報から動議を削除するよう 書記に指示することが投票により決定された、とだけ記され、公的記録 から抹消された2)

「新医学派(New School of Medicine)」という呼称を用いたことは、デッ カーが Egbert Guernsey 医師に与する「超リベラル」(Kaufman)な立 場を支持していたことを示唆する。ホメオパシーの祖サミュエル・ハー ネマンが提唱した基本的な諸概念の誤謬を公然と指摘し、「ホメオパシー」 「ホメオパシー医」という名を捨てて「新医学派」の「内科医(physician)」 と反訳し再定義しようとした Guernsey は、学会内保守派の強固な抵抗 により、1890 年 2 月、ニューヨーク郡ホメオパシー医学会を除名になり ワ ー ズ 島 病 院 長 の 職 を 追 わ れ て い た(Kaufman 117, 144, 148-49)。 Guernseyとは異なり、デッカーは除名などの処分を受けることなく終身 会員の身分を保持したまま、1891 年 2 月の第 40 回年次大会でも、微生物 学にもとづく病因論と診断の重要性を説く論文「診断なき処方は危険な

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り」を報告した。また、1898-99 年度には生命保険委員会の一員として再 び役員を務めている。しかし、ホメオパシーの聖典であるハーネマンの『オ ルガノン』を近代医学の見地から批判し反訳しようというデッカーの先 鋭的な主張が学会の主流となることはなかった。郷里のミドルタウンで 開催された 1894 年 9 月とニュー・ヨーク市で開かれた 1895 年 10 月を除き、 大会に出席した記録がないことからも、学会活動から距離をおくデッカー の姿勢をうかがい知ることができる。 1880-90 年代にデッカーは、私生活においてもいくつかの重要な出来事 を経験している。1887 年に Margaret Elizabeth Smith と結婚、1888 年 11 月には第 1 子 Dorothy が誕生し、Kingston で本格的に自らの家庭生 活を営み始めることになる。広告業界誌 Printers Ink に掲載されたイン タビュー記事によれば、ヒュギエイア哺乳瓶を考案する直接のきっかけ は長女の疝痛(colic)が細首哺乳瓶の使用中止で軽快したことであった という。いささか出来すぎた感のある開発秘話はさらなる検証を要する が、それまでホメオパシー医学会の小児科(paedology)部門での活動実 績が皆無であったデッカーが哺育に関心を向けた背景に実子の育児経験 があったのは事実であろう。インタビュー記事には言及がないが、1894 年 1 月には第 2 子 William More Decker, Jr. も誕生している。

1893 年 9 月 28 日、デッカーは「改良哺乳瓶」の特許申請をし、1894 年 6 月 19 日に米国特許 521,773 号が成立した。1896 年 11 月 6 日には乳 房型乳首の特許を別途申請し、1897 年 8 月 10 日に米国特許 587,989 号が 成立している。デッカーがどのような意図をもって、初めは家内のちょっ とした創意工夫にすぎなかった広口哺乳瓶を特許申請によって〈発明品〉 と化したのかは定かでない。著書 Book of Meditations(1920)に「医師 が没するとき、損失は多大」という一節をしたため、個々の臨床経験を「共 有された知(common knowledge)」として記録し蓄積することで医学が 長足の進歩を遂げることを願ったデッカーにとって、特許は、もっぱら

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自らのアイデアを後世に残し科学の発展に寄与するための手段であった 可能性も頭から否定することはできないだろう(Decker 89-91)。1894 年 9 月、3 年ぶりに医学会大会に出席したデッカーは、小児科部門分科会で「乳 児の口中消化と関連した新しい衛生的哺乳具(nursing device)の検討、 哺乳瓶は食品を適切に摂取するか、そして哺乳瓶はどの程度か消化を助 け、あるいは消化不良を防止するか」と題した報告を行い、会報第 29 巻 に収録された同論文には挿絵入りで哺乳瓶が紹介されている。 特許は、学会の大会と並んで個人のアイデアを伝達し公共化する新案 の保管庫として機能しただけではなく、広口哺乳瓶が〈発明品〉からさ らに〈商品〉へ発展する際にも重要な役割を果たすことになる。インタ ビュー記事はまた、広口哺乳瓶を〈商品〉に反訳した共同事業者という もう一人のアクターに言及している。すなわち、デッカーがあるとき受 診した疝痛の患児にかつて娘が使った哺乳瓶を貸したところ、患児の祖 父である東部の薬局主の目にとまり、デッカーは事業化を想定して特許 使用料を折半する約束をしたという。後に、デッカーと薬局主は 200 ド ルずつ出し合って生産体制を整え、彼の薬局で哺乳瓶の販売を開始した (Printers Ink 37-38)。 1900 年、デッカーは汎アメリカ博覧会を翌年に控えたバッファロー市 に転居している。新しい土地での医院開業は順調でなかったため、支店 を構えて哺乳瓶販売を始めたと Printers Ink の記事は言う(38)。いっ ぽう、1927 年 12 月 11 日付 Buffalo Sunday Times 紙によれば、デッカー は哺乳瓶の販売拠点にふさわしい場所を求めてバッファローに転入した とされ、因果関係の記述に齟齬が見られる。いずれにせよ、エリー運河 と鉄道に支えられた流通インフラは、ヒュイゲイア哺乳瓶が普及するた めの必要条件の一つとなったであろう。その後、不和でデッカーと袂を 分かったという「東部の町の薬局主」の詳細は不明であり、実在しない 可能性も残るが、広口哺乳瓶が〈商品〉として生産され販売されるため

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には、誰かしら資金提供者が、そしてガラスとゴム製品の生産者が関与 したはずである。ヒュギエイア哺乳瓶の生産に携わったアクターについ ては、さらなる調査が必要である。 1910 年秋号のシアーズ・カタログは、「とても有名な広告でおなじみの 哺乳瓶」というコピーでヒュギエイア哺乳瓶を紹介している。バッファ ロー市での経営がどうにか軌道に乗り始めた後、女性誌に掲載する小さ な広告を手始めに、デッカーは年々宣伝費を増やし、それが広告の直接 的な効果であるという証拠はないものの、売り上げもまた「グラフが約 30 度の角度」で着実に上昇していった。1916 年には一般雑誌や薬局業界 紙など 25-30 の媒体に広告を掲載、翌 1917 年には媒体数を絞り込んだも のの、家庭向け雑誌に豪華な 4 色刷広告を入れるなど、宣伝予算を倍増 させたと広告業界紙は伝えている(Printers Ink 38, 41-42)。1916 年に広 告を掲載した媒体には、Woman s Home Companion、Puck、『婦人クラ ブ総連合会雑誌』、『米国医師会雑誌(JAMA)』などが含まれる。ヒュギ エイア哺乳瓶の広告を取り扱ったのは、ニュー・ヨーク市で 1891 年に創 業したジョージ・バッテン広告社であった(Printers Ink 38)。 Printers Ink誌は、クーポンを介したヒュギエイア哺乳瓶社と乳児の 親、かかりつけ医の間のやりとりで構成される洗練された販促手法を紹 介している。雑誌等の広告に添えられたクーポンに親の氏名、住所、子 の誕生日、かかりつけ医の氏名を記入して返送すると、哺乳瓶が 1 本無 料で進呈される。さらに、ヒュギエイア哺乳瓶社は、クーポンに記載さ れた医師に対して、誰々から無料サンプルの請求があった旨連絡すると ともに、ほかにも無料サンプル送付先となる乳児の母親を紹介してくれ るように返信用ハガキ 10 枚を送付する。医師が乳児を持つ母親の氏名を 記入してハガキを返送すると、ヒュギエイア社は、かかりつけ医から紹 介されたことを伝えつつ、それらの母親宛てに哺乳瓶を無料で送る。親 たちはただで哺乳瓶をもらうことができ、医師はたいした手間もなく患

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者にサービスができる。そして、飛び込みのセールスとは違って医師か らの紹介があるために、潜在的顧客は信用して哺乳瓶を実際に使ってく れる。誰もが満足するこの戦略はやがて、面倒な洗浄・煮沸をまとめて 行い手間を省くために 5、6 本の買い増し需要を産む。また、ガラスの哺 乳瓶は壊れやすく乳首は消耗するので、買いかえ需要も発生する。こう して、ヒュギエイア哺乳瓶の売り上げはねずみ算式に増大する、という 寸法である(42)。クーポンは、雑誌広告という不特定多数を対象とする 全国規模のマス・メディアを、地域の医師と患者たちの顔の見えるネッ トワーク内の口コミへと変換する機能を果たした。また、医師にとって みれば、クーポンは、学会報告から得た学術情報、あるいは学術雑誌の 広告という学術情報隣接の情報を、形ある物質へ、しかも自分の患者が 実際に手にとることのできるリアルな存在へと簡便に変換してくれる橋 渡し装置であった。 ところで、このクーポンによるビジネスが成立するには、ある条件が 満たされなければならない。すなわち、買い手である親だけではなく哺 乳瓶の最終的な消費者である乳児が、哺乳瓶を拒絶することなく受け入 れること、そして、少なくとも買いかえ需要による利益が出る程度まで、 一定期間、哺乳瓶に起因する感染性の下痢などで命を落とすことなく人 工哺育で生き延びることが必要である。デッカーが無料サンプルを配布 しつつ利益を上げ事業を拡大したという事実は、ヒュギエイア哺乳瓶が 完璧とは言わないまでもまずまずの性能を持つ哺乳具であった証左であ る。人工栄養法を研究開発しフォーミュラを処方する医師や、授乳法や 哺乳具を選択する母親だけではなく、形状によっては乳児の生殺与奪の 権を握る哺乳瓶という物体もまた、乳児哺育をめぐるアクター・ネット ワークに参画する媒介者=アクターであった。 ヒュギエイア哺乳瓶の普及は、二元論的対立構造を基盤にエスタブリッ シュメントとしての男性医師と資本の力が母親=女性=自然を操り抑圧

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することによって実現された「乳房から哺乳瓶へ」という大きな物語に 回収される一つのエピソードなどではない。それは、ドクター・デッカー がインタビューに答えて語ったとおり、「一つの出来事がもう一つの出来 事を呼んだ(one thing led to another)」不測の諸条件に拘束された歴史 的展開の帰結であった(Printers Ink 37)。デッカーは、特許医薬品を売 り込んだようなえせ医者でもなければ、まさに権威として構築されつつ あった小児科研究医でも、正規の臨床医でもなく、南北戦争時から 20 世 紀初頭にかけて衰退し 1920 年代頃までには姿を消すホメオパシー医で あった。そのホメオパシー医としてのアイデンティティすら、姉の結婚 と家業継承という偶発的事件なしには形成され得なかった。セミナリー と医学校で先進的な近代科学を学ぶ機会を得、優秀な成績をおさめてい た学究肌のデッカーは、もし彼が意図したとおりホメオパシー医学会を 内側から改革し近代化することに成功していたら、ハーバードなどに集 う一流ではないまでも、地域医療の臨床に携わりつつ研究も怠らない勤 勉な医師として生涯を終え、ついぞ哺乳瓶の開発や製造販売に手を染め ることはなかったかも知れない。デッカーが権威ある主流の側にはどこ にも居場所を見いだせなかったからこそ、広口哺乳瓶は誕生したのであ る。 ヒュギエイア哺乳瓶の販路拡大は、巧妙な広告戦略によって実現され たが、それはたんにテキスト的、言語的な出来事ではなかった。もし物 体としての哺乳瓶が、人工栄養によって乳児を一定生き延びさせること ができるという特徴を備えていなければ、先に無料商品を配って後から 利益を回収することは不可能だった。このように、物体は修辞の前提や 基盤ではなく、販売促進の方略の一部にアクターとして組み込まれてい た。乳児哺育をめぐるアクター・ネットワークは、実在と切り離された 虚ろな言語的社会構築物ではなく、無生物の物体も含むアクター間の動 的な相互作用であり、その不断の交換と反訳こそが乳児哺育のリアリティ

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そのものなのである。

言うまでもなく、ヒュギエイア哺乳瓶を起点とするアクター・ネット ワークを辿る旅はまだ終着点に至ったわけではない。膨大な雑誌広告の テクスト分析や、デッカーの上の姉 Susan の夫である Scribners 社の Samuel Wesley Marvinの縁故など、広告・出版に関わってわれわれが まだ辿っていない隘路は無数にある。ヒュギエイア哺乳瓶社は、1915 年 にイェール大学を卒業した息子の William More Decker, Jr. を共同経営 者に加え、やがて自前のガラス製造工場まで構えることになる。1928 年 にデッカーが心臓発作で他界した後も、ヒュギエイア哺乳瓶のアクター・ ネットワークは途切れることなく続いてゆく。コーヒーや果樹のプラン テーションから帰国後にヒュゲイア哺乳瓶社で働いたのではないかと思 われるハーバード・カレッジ卒の甥 Samuel Wesley Marvin, Jr. も、と りわけ広口哺乳瓶の国外輸出との関わりに注目しつつ今後調査すべき人 物である。そもそもわれわれは、哺乳瓶に注がれ乳児が口にした液体の 足跡を辿る旅のとば口にすら立っていないのであるが、これらの経路を くまなく辿る紙幅の余裕はない。 顧みれば、哺育は、ジェンダー/セックス二元論で説明するには最も 不向きな領域である。そもそも、溢乳する母の身体は、初めからそこに ある自然な女性個人の身体ではあり得ず、少なくとも吸啜する子を含む ダイアド関係という極小のネットワークなしには存在し得ない。乳児栄 養の現状に疑義を呈するにせよ、ただ哺乳瓶を捨てて自然な母乳哺育に 帰れとすすめるだけでは事態は変わらないということに、米国の行政当 局は気づき、母乳哺育という〈文化〉の復権を唱道し始めている(Benja-min)。ラディカル・フェミニズムや古典的な唯物論的フェミニズムが思 い描いたような革命的な変革はおそらくあり得ない。アクター・ネット ワークの行方を完全にコントロールすることは誰にもできない。でも、 だからといって失望することはない。ネットワークの中の無名のアクター

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がささやかな行動を起こすとき、それが次々と媒介されるカスケードを 経て、案外短期間に思いのほか大きな変化に到るかも知れないからだ。 ちょうど、時代の先を行き過ぎた失意のホメオパシー医のやむにやまれ ぬ選択と行動が、あっと言う間に危険なゴム管付き哺乳瓶を駆逐し、や がては国境を越えて乳児哺育の有様をすっかり再編する一助となったよ うに。 1)反訳は翻訳と同義であるが、本稿では「翻訳者は反逆者(Traduttori tradito-ri)」の意味を込めて「反訳」と表記する。 2)1890 年 11 月、決議はデッカーの論文とともに Guernsey が編集する New

York Medical Times誌 18 巻 8 号に掲載され、さらに翌年 2 月には「正規」医の 刊行物 Medical and Surgical Reporter で紹介されて世に知られることになる。

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