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明治の教育政策

著者

広畑 一雄

雑誌名

井上円了研究

4

ページ

27-64

発行年

1986-02-28

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006770/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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明治の教育政策

公教育制度の成立過程

広 畑 一 雄

 明治維新という社会体制の変革において、近代が江戸時代とくに幕末期においてどのように胎生してきたかという ことを主として、幕藩体制内の教育政策の面に即しながら概略を明らかにし、また維新後中央集権体制を整える過程 での教育政策を、法制度の面からその変遷について報告したいと思います。  幕藩体制が封建社会のもつ矛盾によって破綻し始めたとき、幕府および諸藩は体制維持と立て直しのため諸々の改 革を断行していくのであります。この改革というのは殖産興業を推進していくことであり、そのためには学校を設け て推進老である指導者を養成しなけれぽならない。そこで幕末には全国のほとんどの藩が藩主の学校である藩学を持 つにいたり、藩政改革の一環として設立されたものが少なくありません。また藩政改革は殖産興業を進めていく過程 で、藩主は経営者的性格を藩士は官僚的性格をもたざるを得なくなってくるのであります。そこで各種の新しい能力 をもった人材が要求され、殖産興業という政策が求める教育機関である学校、つまり藩学が勃興してくるのでありま 27

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す。ここに藩政改革即教育改革という図式が成り立ちます。八代将軍吉宗は一七二〇年に洋書輸入の禁を弛めている が、これは好学心というよりあくまで殖産興業のためであり、学問を政治支配、経済振興の便宜的手段として活用し たものであって、吉宗の学問奨励・保護は学問自体の価値を尊重したものではないのであります。つまるところ学問 によって体制の維持を図ったにすぎません。藩政改革によって設立されてきた藩学も例外でなく、学問を政治・経 済・軍事の手段として重点的に利用したのにすぎないのであります。  このように学問を手段のために活用しようとする姿勢は、教育をも一つの手段として改革の一翼を荷なわしていく のであります。洋学は吉宗が洋書の禁を弛めて以来、殖産興業政策推進にそって急速に発展していくのであります が、漢学の世界にも洋学、欧米の近代科学による知識が入ってくる。ここに欧米文化への認識をもたらすのでありま        かごち す。新井白石は﹁西洋紀聞﹂﹁采覧異言﹂で西洋認識と洋学の実学的摂取のあり方を規定しております。白石は形と うつわ 器のみを西洋から摂取する。つまり形而上のことについてはこちらの方が優れているから、これは西洋からなんら学 ぶ必要はない、形而下のことは優れているから取り入れる。物質科学は進歩していても、道徳や精神上のことは愚者 にひとしいというのが白石の西洋文化に対する認識であったのです。こういう西洋文化に対する認識は近世日本の知 識層をとらえ、このような認識が白石の隠退後吉宗の洋書の禁緩和への要因ともなったのであります。  近代科学は西洋世界の歴史の所産であり、その歴史と伝統は、日本のそれとくらべて本質的に異なっておるのであ ります。宗教はその最たるものですが、生活や文化を支えてきた精神とか心の問題は別として排除し、現象化された 物質的な側面だけを朱子学の理気二元論による合理的判断でとらえていたのであります。  このことは西洋と真正面からの対決とはいえまぜんが、ともかく先に申しましたように、西洋文化を二元的に形而 上と形而下に区別する認識は、近世日本の知識層を固くとらえて離さなかったのであります。吉田松陰があえて海外 28

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渡航を計画したのも、この形而下の探求にあったということです。また松陰の師である佐久間象山も﹁東洋道徳。西 洋芸術。精粗不遺。表裏兼該。﹂とうたっています。これは東洋の道徳と西洋の科学技術、つまり精神と物質に関す ることすべて兼ね具えるという意味でこれを体得することは君子の五つの楽しみの一つであるとしています。このよ うに象山は道徳は東洋、技術は西洋と明確に峻別しております。また福井藩の橋本左内も﹁仁義の道、忠孝の教はわ れより開き、技工・芸術の精は彼より取る﹂と述べ、道徳は西洋に学ぶべきものはなく、むしろこちらから教えてや るべきであり、機械技術や科学技術は西洋から学び取るべきであると、ここでも道徳は東洋であり技術は西洋と明ら かに区別しております。  東洋の道徳、西洋の芸術という二元的な思考は権力老のキリスト教に対する危惧を回避する道を与え、また権力老 の支配体制を強固にする基盤にもなったのであります。  幕末に、幕府ならびに西南雄藩では、西洋の軍事科学を中心にした科学技術を導入しようとする努力は、切実なも のがありました。特にこの努力は維新後、富国強兵、殖産興業、国民統一という三つの目的を果たすために熾烈にな ってまいります。  さらに初等学校から大学まで近代学校を整備していく中で東洋の道徳、西洋の芸術と意識は改めて喚起されてくる のであります。つまり欧米の先進国から科学技術をとり入れることは権力者にとっては要請であり、一国が独立する ためにはこれしかない、そのためにはどうしても欧米から学ばねばならないが、東洋の道徳・西洋の芸術という意識 をあくまで根底におかねぽならない。これが一貫して日本の近代教育政策の重要な主流をなしてきたといえます。い ろいろ形を変えて終戦までつづくのであります。つまり国民精神と科学教育の振興という二本の柱は絶えず併行して 教育政策の支柱となったのであります。 29

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二 30  幕末の混乱期に、時勢打開を目的とした漢学は時勢の変化とともに大きく変貌して、このことは教育内容の多様化 にょく現われております。藩学は漢学の学習だけであったがここに国学が入り、洋学も学ぼれるようになってきたの であります。  国学が藩学の中に入ることによって古事記、日本書記という古典が学ぼれ、さらに神皇正統記のような日本史書も 読まれるようになってきます。日本の古にかえれという﹁復古主義﹂、これは国学の特徴と思われるが、今日的にい う﹁原点に立戻って﹂物事を見直そうという現実否定の面をもっています。この点については現状打開を旨とする藩 学の精神からすれぽ、国学の現実否定や原点に戻って物事を見直そうとする姿勢には学ぶべきものがあります。  さらに見落してはならないのは、国学の築いた天皇中心の価値体系であります。明治維新に際して限界を示したと はいうものの、明治以降の近代国家体制の中核として堅く据えられ、また教育政策もその中核から展開されていくの でありました。  洋学の導入は初期の藩学では考えられなかったことですが、政策から発展した学校、手段としての学校ですから、 政策が要求すれば国学であろうと洋学であろうと取り入れていくわけです。したがって、殖産興業のためぼかりでな く国際情勢が緊迫するなかで、時代の急務として洋学を学習することが奨励されるのであります。ただし洋学の学習 の場合はどこの藩学でも東洋の道徳、西洋の芸術を精神的支柱とすることを忘れなかったのであります。洋学を取り 入れ軍事科学を充実するということは国内の指導権を掌把する上に重要であり、とくに西南の雄藩は洋学の導入に多 額の費用を投入して惜しまなかったのであります。

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 このように藩学における国学、洋学の果たした役割は大きなものであり、藩学の変容は幕藩体制の変容をも現わし ているといってよいでしょう。  幕府のほうでは直轄の学校が変貌をとげています。昌平坂学問所︵昌平蟹︶以外に、洋学のための開成所、国学の ための和学講談所、西洋医学のための医学所、漢方医学のための医学館というように各種の専門の学問研究・教授す る専門の教育機関を設置、また軍事面では陸軍所、海軍所を整備しております。一八六六年︵慶応二年︶の開成所に        フうンス     ドイツ は蘭学、英学、仏蘭西学、独逸学の四外国語、物産学、西洋画学、数学、化学、西洋地理学、窮理学、兵学、歴史学 の八学科が設けられております。  さらに幕府は江戸市内に数十の小学校を建設する計画をたてたがこれは計画に終ってしまいました。幕府がこの計 画をたてたのには二つの理由が考えられます。一つは民間に寺子屋が著しく普及して、町方の子弟が五、六歳になる と読・書・算を習いに行くという風習が日常化してきたこと、今一つは先進国の初等教育の実態が知らされてきたこ とによるものであります。ともかく幕府が指導者養成学校ぽかりでなく、小学校のような大衆学校を公立の形態で統 轄しようとした意識をもったとみることができます。  かかる学校の変容は教師にも変化を起こさせています。漢学では﹁三尺さがりて師の影を踏まず﹂という伝統があ ります。聖人の徳を人間の道として学ぶことに重点があり、師は人間の道を体得した人であるぺきであって、学問の 師は最高の人格者であり、師を尊び師を範としてその言行に随順するという伝統が形成されてきております。そこで 漢学では師の説を批判するということは道にそむくことになります。ところで、国学になると先に申したように復古 であり漢学を排しております。そこで師の学説をそのまま受け継ぐのではなく、学問が進むにしたがって、後にすぐ れた考えが出てくれぽ、前の学問を批判して誤りあれぽこれを正すというのが学問の本筋であると、国学の始祖の一 31

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人である加茂真淵は説き、本居宣長はこれを受け継いでおります。国学では学問の論理と人倫関係は別であると認識 され、実践されております。この点でも祖法第一主義の学問である漢学との相異がみられます。国学のような学問観 は洋学にとっては自明のことであったのです。国学、洋学とくに後者が幕末には必要に迫られて盛んになるにしたが って、人間の道の師ではなく専門学を身につけた師が新たに数多く登場してくるのであります。ともかく学識豊かな 人格者という条件よりも、専門的知識、技術を具備するという条件が師の座に就かしめるわけです。外国語とか西洋 医学をはじめとする何らかの近代科学を身につけておれば専門家として教授方に任用され、このようにして各種の専 門家が、かつては漢学者ぼかりであった教師の世界に登場してくるのであります。まさに身分制の打破ということに もなります。教授方に任用された専門家はそれ相応に報酬を給されるから、自らの専門知識、専門技術を提供するこ とによって生活する教師群が出現してきたのであります。 32 三  学校の変容とともに政策的な近代的学校論が江戸の中期ごろから幕末にかけて登場してきます。一八二三年頃に上       のぶひろ 梓されたといわれる佐藤信淵の﹁混同秘策﹂というのがありますが、政策的教育制度を論じたすぐれたものでありま す。佐藤信淵は幕未にあって封建制を超えた中央集権体制の国家の構想を示し、維新後の日本の歩みを予見していた といえる思想家として注目される人物であります。さてこの﹁混同秘策﹂では、中央集権的な統一国家体制でなけれ ぽ実現し得ないような内容をもった学校論を展開しています。国家改造法案とでもいうべきものです。江戸を帝都と して東京と称し、全国を三府十二省の行政区に分け、それらを統轄する中央政治機関として教化台・神事台・太政台 の三台、本事︵農事︶府・開物府・製造府・融通府・陸軍府・水軍府の六府を置き、教化台をもって教育を総括するも

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のとしております。帝都に設置される大学校は、祭政一致・政教一致の構想のもとに最高学府であると同時に政府機 関でもあります。この大学校には二万石の地に一ケ所設けられる小学校を優秀な成績で終えた者が選ぽれて入学し、 また小学校にはその下にある教育所を出た男子が選ぼれて入学するという仕組になっております。小学校では礼儀、 四書五経等の素読、さらに優秀な者は学問・文武諸芸を学習し、この小学校も行政機関を兼ねており、民衆教化・神 事・軍事・司法の機能を果たすようになっております。教育所は一千石の地に一ケ所設けられ児童七歳に達すると入 学、筆算・読書の学習をして、優秀児は八歳以上に達すると小学校へと進学します。教育所も児童教育だけでなく村 々の教化・神事・勧業・司法など地域の生活全般に結びついた機能を果たし、さらに幼児教育施設として慈育館、遊 児廠という託児所を設置して読・書・算の初歩を教える。このように佐藤信淵の学校制度は幕未の政治・経済上の危 機と不安のなかで、その克服を指向する教育計画と国家構想は、権力支配の点ぽかりでなく、窮乏する民衆生活の向 上という点を含んでいる特異なものであります。  西洋の学校事情についての知識は、福沢諭吉の﹁西洋事情﹂で紹介される以前に、かなり広範囲にわたって当時の        たかとう 識者の間にゆきわたっていたと思われます。南部藩の大島高任もその識者の一人であり、一八六三年、南部藩に藩政 改革を国際情勢の関係において建白しています。その建白書の中でまずフランス学制を中心に西欧の学校事情を具体 的数字で示しながら、藩の学校制度を新しく提案しております。大島高任は十六歳で江戸に出て蘭学を修め、二十歳 のとき藩命により医学修業のため長崎に留学、医学のほかに兵法・採鉱・製錬等についても学び、当時屈指の洋学者 として令名を馳せております。水戸藩に招かれて反射炉を築造、また釜石に高炉を築いて製鉄に成功しております。 明治維新に際して南部藩は朝敵となりますが、高任の知識技術は新政府の必要とするところとなり、一八六九年︵明 治二年︶上京を命ぜられ大学助教に任ぜられております。また一八七二年︵明治四年︶には、岩倉大使一行の随員と 33

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して欧米の鉱山関係を視察調査し、帰朝後佐渡鉱山局長・大蔵技監等を歴任したのであります。  さてこの建白書によって提案された学校制度をみますと、小学校を城下に四ケ所、村々には一村一ケ所ずつ設け、 藩内の子弟すべて七歳から十五歳まで入学させ、身分制を越えた全員就学制を採用しています。この小学校では和漢 洋の書を読み、算術を学ぽせ、洋書は地理、格物、窮理の書を翻訳したものを教材として使用する。また大学校を城 下に一校設け、男子十五歳以上の俊秀を選抜して進学させる。この大学校は和学館、漢学館、洋学館で構成され、い くつかの課程に分かれています。和学館には文章局・礼儀局・歴史局等、また漢学館には経学局・歴史局・詩文局 等、さらに洋学館には独逸文章局・英吉利子文章局・仏蘭西文章局・数学局・地理局・窮理局・分析局・排物局・制 度局・歴史局等の専門学科を置いております。また工作学校、坑山学校、医学校、陸軍学校、海軍学校等の専門学校 を城下に設置しております。そしてこれらの大学校、専門学校は西洋学でもって教授する。そのために必要な教官 は、海外に留学生として派遣して養成するという洋学を中心とした学校改革であり、建設でもありました。この大島 高任の建策は、藩単位の富国強兵策を鮮明に打ち出しているところに特色があります。また身分制を越えた全民就学 を提案していることと、殖産興業に直結した産業技術教育の重視は、明治国家の教育政策の重要な柱にそのままつな がるといってもよいでありましょう。 34 四  維新という回天の大業がなり一八六八年一月三日︵慶応三年十二月九日︶、王政復古の大号令によって樹立された 明治新政権は、いまだ維新の動乱のなかにあって確固たる教育政策を打ち立てる段階にはなかったのであります。  しかし大号令には人材登用の急務がうたわれ、五ケ条の誓文につづいて一八六八年︵明治元年︶に発布された政体

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書には、中央政府たる太政官の官制がさだめられております。そこで﹁旧弊御一洗﹂﹁百事御一新﹂につき身分制の 枠を取りはずし、新しく人材が登用されるべきであり、また官僚養成が焦眉の急であったのであります。なにはさて おいても新政府は官僚養成機関としての大学創設に着手せねぽならなかったが、そこには維新の大道を基にする復古 主義の国学派、欧化推進による文化革新の洋学派、さらには旧藩幕時代の教学伝統を固守する漢学派の拮抗対立の激 化が渦まくのでありました。このような状況のなかで、新政権は政治的に国漢両派と妥協しながら、果断に洋学派の 開化路線を押し進めていくのであります。  まず新政府は戊辰戦争たけなわな一八六八年三月︵明治元年二月︶、岩倉具視と密接な連絡をとり、いわゆる堂上 公卿と結合して活動した志士であり国学者である参与内国事務局判事玉松操、平田学の宗主であり参与神祇事務局判    かねたね      はるみち 事平田鉄胤、同じ参与神舐事務局判事矢野玄道に学校制度の取調べを命じております。かれらは命を受けた一ヶ月後 には、矢野が中心になって学校規則案﹁学舎制﹂を作成し内国事務局に提出しました。これは、新政府の公的につく りあげた最初の学校制度構想であり、なお尊王撰夷的発想にもとついていることをしめしております。この﹁学舎 制﹂は明治元年三月二十八日に、政府部内各局への検討のためその写しが送付され、意見が求められたのであります が、上代の大学寮にもとついてその儒学主義を国学主義におきかえ、神典・皇籍の学が首位に置かれ、さらに大宝律 令以来官立の学寮において孔子を祭神にしていたのを、皇祖天神を学神として祀ることにして皇道主義を宣揚してお り、そのためか各局の意見は殆ど出されず、政府の正式決定にはいたらなかったのであります。  一方、新政府は一八六八年︵明治元年三月十二日︶に朝廷の学問所であった学習院を再興し、最初の実際の学校を 設立しています。学習院は近世以来の伝統をもつ儒学教育の機関でありましたが、同年の四月には大学寮代と改称し て堂上の就学を奨励しております。ところが、ここに大学寮代をめぐって学習院派と国学派との対立をきたし、結局 35

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﹁大学寮代﹂は開講できず、新政府は両者を折衷した新たな学校方策を示さざるを得なくなり、明治元年九月に妥協 所案として皇学および漢学所を京都に設立することになったのであります。皇漢両学所設立のさい定められた規則で は﹁国体ヲ弁シ名分ヲ正スヘキ事﹂﹁漢土西洋ノ学ハ共二皇道ノ羽翼タル事﹂として、国学派の方式通りの皇道主義 を原則としてうたい、さらに﹁皇学漢学共互二是非ヲ争ヒ固我之偏執不可有事﹂として、両派の抗争に終止符を打つ べきことをうたってあります。この措置は結局不満を遣し、大学校設立方針をめぐっての皇漢両学所の確執はおさま ることなく、明治二年二月二十四日東京遷都とともに、同年九月二日に皇漢両学所は廃止となるのであります。  同年五月十八日幕府海軍の立てこもる函館は陥落、総督榎本武揚は降伏してここに戊辰戦争は終りをつげ、国内は 完全に平定されるのであります。このような情況のなかで、京都での学校設立方策と前後しながら、新政府が東京に おいて第一に手がけたのは、旧幕府設立の諸教育機関の接収と復興であります。まず明治元年六月二十六日に医学所 が、つづいて二十九日に旧学問所の昌平学校が、さらに九月十二日に開成所の開成学校が再開され、旧幕臣の教官も       みつくりりん 多く新たに召集されることになったのであります。また明治元年十月二十七日には、学校取調御用掛として箕作麟 しよう      あワのり 祥を筆頭に、内田正雄、細川準一郎が任命され、さらに外国権判事の森有礼が神田孝平、松岡七助、菱田文蔵ととも に兼務として任ぜられております。これら洋学者が教育制度改革に参画するはじめであります。  翌明治二年七月八日に、政府は昌平学校を中心に開成・医学の両学校を大学校分局とし、これらを大学校と総称し たのであります。この年の七月、太政官官制の改正にともなって大学の官制が定められました。この改正によって大 学校には長官としての別当以下の教育行政官の職制と、大博士以下の教官職制がおかれ、大学別当は直轄学校である 大学・開成・医学の三校を監督するばかりでなく、全国の学校を総括する権限をもつものとしたのであります。  このように政府は、昌平学校を皇学派の意にそって大宝令にある大学寮の名から大学校と改称し、開成学校や医学 36

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校はその附属として位置づけ、 しようとしたのであります。 幕藩時代には個々に発足した諸学校を一つの体系に統一して、皇漢両派の軋礫を緩和 五  明治二年十二月に大学校は大学となり、開成学校を大学南校、医学校を大学東校と改称したが、この両校の呼称は 単に地理的な位置によるものであって、大学がこの三校の中心であることにはかわりはありません。ただし、大学は 東校と南校と区別して大学本校と通称されました。  つまり昌平蟹・昌平学校・大学校・大学の系統が、当時の新政府がもつ教学体系の正統であったのであります。し かし、洋学派つまり欧化派の意見が新政府の主流を占めるようになり、明治三年七月には洋学派との争いに敗れた皇 漢学の大学本校は閉鎖され、明治四年七月、文部省創設によって大学そのものが廃止となり、大学南校、大学東校は それぞれ南校、東校と呼称されるようになるのであります。  この南校が東京大学から帝国大学へと発展してゆくのでありますが、この学校は西洋の学問を学習するために基礎 的な語学を正規に教える洋学校であり、語学校であり、まさに新政府の欧化政策の中から政策的に生み出された学校 といってもよいのであります。  西洋の学問を学ぶためにはまず基礎的な普通学からはじめねばならないが、この普通学というのは今日の初等中等 教育にあたり英・独・仏のヨーロッパ語で読み書き、算をはじめるのであります。つまり数学、物理、化学、世界 史、地理等すべて外国人がヨーロッパ語でもって教えるわけです。  三校一体化をはかった翌年明治三年二月に、﹁大学規則﹂﹁中小学規則﹂が太政官より布達されました。﹁大学規則﹂ 37

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は大学の目的を述べた﹁学体﹂をはじめとして、﹁学制﹂﹁貢法﹂﹁試法﹂﹁学費﹂﹁学科﹂等六つの部分からなりたっ ております。﹁学体﹂は国学派の優位に終止符をうち、知識を世界に求めるという開明的な学問観11教育観を宣明し ています。  ﹁学制﹂では国家の用に供する人材育成を期待して機能された中央の大学、府藩県の中小学とを一体にとらえる制 度体系を明らかにしています。これは﹁貢法﹂によってより鮮明になり、大学には各府藩県で選考した人材を一定の 人員に限って、大学の予備教育機関である中小学から貢進させたのであります。また大学は教育・研究機関というよ り、人材の養成・選抜機関として位置づけられております。さらに﹁試法﹂では選抜の方法が重視され、大学全体が 官吏養成として企画されております。﹁学費﹂においては政府の定額金支弁によらず、府藩県からの上納金支弁とし、 その額については審議にかけるとなっております。  最後の﹁学科﹂は五分科構成となり、従来の国・漢・洋という国別分科は廃止され、学問領域に応じた編成を明確 に採用し、西洋式の大学制度が導入されております。この五分科というのは教科、法科、理科、医科、文科のことで あり、これらの各科にはそれぞれの学科が配されております。  この﹁大学規則﹂は新政府に必要な人材育成を大学において行なうという観点に立ちつつ、﹁実用ノ学﹂を軸とし た欧米近代科学によって、国家の用に供する人材に仕たて上げることを意図した点に特色があり、また明治五年の ﹁学制﹂理念にも通ずるものがあります。 38 占 !、 一八七一年︵明治四年︶の廃藩置県にはじまって、翌五年の徴兵の詔書、さらに六年地租改正条例とほぼ時を同じ

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くして、明治五年に学制は発布されたが、これら一連の重要政策が実行にうつされたということは決して偶然ではあ りません。徴兵令や地租改正条例と同じく、学制もまた日本の富国強兵・独立と資本主義発展にとって不可欠の教育 政策であったのであります。つまり、幕藩体制がくずれたとはいえ、封建時代のままの考え方、知識および意識をも った青少年が、近代的な装備をもった兵士としても、また近代的な装置をもった工場の労働者としても、どんなに不       おおせいだされしよ 適当であるかは想像にかたくないのであります。そこで﹁学制﹂の﹁被出仰書﹂にあるように、﹁人能く其才のある ところに応じ勉励して之に従事ししかして後初めて生を治め産を興し業を昌にするを得べしされば学問は身を立てる 財本ともいうべきもの﹂とあるように、国民を従来の身分制による観念の枠から解放する必要があったのでありま す。  そこで、明治政府は国民の生活基盤は従来通りにしておいて、まず速かに兵士や労働者に適した青少年を育成する 必要に迫られていたのであります。そのために急拠近代的な形のととのったフランス方式の教育制度を参考にしてと り入れ、学制を成立せしめたのであります。        おおせいだされしよ      へい  そこでこの学制について概観してみます。まず学費のことですが、﹁被仰出書﹂の最終段に﹁従来沿襲の弊学問は 士人以上の事として国家の為にすと唱ふるを以て学費及其衣食の用い至る迄多く官に依頼し之を給するに非ざれば学 ぽざると思ひ一生を自棄するもの少からず是皆惑へる甚しきもの也自今以後此等の弊を改め一般の人民他事を抱ち自 ら奮て必ず学に従事ぜしむべき様心得べき事﹂となっておりまして、全く受益者負担ということで自己負担を強制し ております。  学制実施のために政府が府県に配布した国庫交付金、つまり委託金ですがこれは少額であり、学制では学校の設立 維持の経費は地方住民の負担、つまり民費によることを原則としております。そのため学制には小学校についても高 39

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額の授業料を規定していた。これを徴収することは実際上困難であり、そのため学校経費は主として学区内の各戸へ の賦課金︵学区内集金︶と、町村民の寄付金によるほかはなく、学校の設立維持は地方住民の大きな負担であった。  授業料のことを学制では受業料となっており、各学校の受業料を定めております。参考までにその金額を﹁学制﹂ の第九十四章によってあげてみます。大学校は一月七円五十銭と六円、四円に分けてあります。中学校では一月五円 五十銭のほかに三円五十銭と二円に分け、また小学校では一月五十銭の外に二十五銭を設けてあります。  ちなみに明治六年当時の米の値段をみますと、玄米一石︵中等米︶で東京の平均相場が四円八十銭ですから、授業 料の二十五銭というのは、玄米五升強の値段にあたることになります。  国庫負担金額については大蔵省と折り会いがとれず、金額のところは墨で塗りつぶしてあります。法規としては異 例な処置であり、政府がいかに学制発布を急いでいたかがわかります。  国民にとってより一番関係の深い小学校をみると、すべての人民が必ず入学すべきものであることが説かれてい て、第二十一章で﹁小学ハ教育ノ初級ニシテ人民一般必ズ学バズンパアルベカラザルモノトス﹂と定められておりま す。この小学校の種類は尋常小学校・女児小学・村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学にわけられております。  ここで日本の義務教育について簡単にふれておきます。小学校就学が義務づけられたのは、一九八六年︵明治十九 年︶の小学令︵勅令︶によってであります。この小学令第三条において、父母後見人に学齢児童の就学を明確に義務 づけております。  その第三条に﹁児童六年ヨリ十四年二至ル八箇年ヲ以テ学齢トシ父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ得セ シムルノ義務アルモノトス﹂と定め、また第四条において、学齢児童が尋常小学校の課程を卒業するまでは就学させ るべきことを父母後見人に要求し、ここに尋常小学校四力年の義務教育制が確立したのであります。そうはいって 40

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も、それはまだ無償ではなく、﹁父母後見人等ハ小学校ノ経費二充ツル為メ其児童ノ授業料ヲ支弁スヘキモノトス其 ノ金額ハ府知事県令ノ定ムル所二依ル﹂︵第六条︶とされ、授業料は徴収されたのであります。  義務教育制度の実施は、むろん一方では、それまで一部特権階級の占有であった教育をひろく万人にひらき、学力 さえあれぽどんな貧しい階層の子にも知識人、つまり管理者層への﹁立身出世﹂の可能性を与え、さらに機会均等、 平等、解放という積極的な利点をそれは持っていた。誰でも能力さえあれば階層的に上昇できる。その上昇への通路 として﹁学校﹂が大きな意味をもつようになったのが、近代であったのであります。  また﹁国家のための義務教育﹂を一層明確にしたのは一九〇〇年︵明治三十三年︶の小学令改正であります。さら にこの小学令の第五十七条に﹁市町村立尋常小学校二於テ授業料ハ徴収得ズ﹂と規定され義務教育の無償がうたわれ ました。  ともかく義務教育は初等普通教育であり、このことは先に申したが、これを義務制にしたのはあくまで軍事的・経 済的・政治的要請によるものであります。つまり軍事では徴兵制による近代軍隊の創設と兵器の科学化であり、また 経済では資本主義経済体制の創設と大量の技術労働者の確保であり、さらに政治においては立憲政治体制の確立と参 政権の拡大というわけです。いずれも一定水準以上の知識技能が全国民にもとめられているのであります。 七  さて学制の小学校にもどります。  尋常小学は小学校制度の本体をなすものであって、上等・下等にわかれ男女ともに必ず卒業すべきものとしてあり ます。下等小学は六歳から九歳までの四年、上等小学は十歳から十三歳までの四年を原則とし、その教科についても 41

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定めています。女子小学は尋常小学の教科のほかに女子の手芸を教え、村落小学は僻遠の村落において教則を少し省 略して教えるものとし、多くは夜学校を設け年齢の長じたものにも余暇に学習させようとしております。貧人小学は 貧者の子弟を入学させるもので、富者の寄附金によるため、仁恵学校とも称しました。小学私塾は小学の教科の免許 を持つものが私宅で教えるものであり、幼稚小学は六歳までの男女に小学入学前の予備教育を施すものとし、また尋 常小学の教科の順序を踏まずに小学の学科を授けるものを変則小学といい、私宅でこれを授けるものを家塾としたの であります。  中学︵第二十九章︶については、中学は﹁小学校ヲ経タル生徒二普通ノ学科ヲ教ル所ナリ﹂とし、これを上等と下 等にわけてあります。その外に工業学校、商業学校、通弁学校、農業学校、諸民学校を中学校の種類としてあげてい ます。この中学は上等中学・下等中学を基幹として、下等中学は十四歳から十六歳までの三年、上等中学は十七歳か ら十九歳までの三年を原則とし、その教科についても定めています。このほかに在来の教科書によって教え、あるい は学業の順序をふまないで洋語を教え、または医術を教えるものなどをすべて変則中学としております。さらに中学 教師の免状を持つものが私宅で中学の教科を授けるものを中学私塾、免状を持たないものが私宅で教授するときは家 塾としたのであります。また外国人を教師とする学校は、大学教科を授けないかぎりこれをすべて中学としておりま す。諸民学校は後の実業補習学校にあたる学校で、職業の余暇つまり生業の間に学業を授けるものであります。  大学についてみると、大学は﹁最高の諸学﹂を教える﹁専門科の学校﹂とし、学科を理学、化学、法学、医学、数 理学と定めたが、学制の誤謬訂正にょり、化学を文学に改め、数理学を削除したので、大学の学科は理学、文学、法 学、医学の四学科とされています。また明治六年四月の条文追加により大学卒業者には、学士の称号を五つの等級に 分けて与えることも定めています。このように明治五年に公布された学制は、大学・中学・小学を基幹とする三段階 42

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の単線型の学校体系となっております。この外に師範学校については特に一章を設け、﹁小学校ノ外師範学校コノ校 ニアリテハ小学二教ル所ノ教則及其教授ノ方法ヲ教授ス﹂と規定し、その必要性について﹁当今ニアリテ極メテ要急 ナルモノトス此校成就スルニ非サレバ小学ト難モ完備ナルコト能ハス故二急二此校ヲ開キ其成就ノ上小学教師タル人 ヲ四方二派出センコトヲ期ス﹂とうたってあります。  さらに教員についても、小学校教員は男女の区別なく二十歳以上で師範学校卒業免状、または中学校卒業免状を取 得した者、また中学校教員は二十五歳以上で大学卒業免状を得た老、大学校教員は学士の称号を得た者と規定されて おります。  つづいて私学については﹁私学私塾ヲ開カント欲スル者ハ其属籍住所事歴及学校ノ位置教則等ヲ詳記シ学区取締二 出シ地方官ヲ経テ督学局二出スヘシ﹂と届け出るだけになっております。  学制で注目される一つに海外留学生規則があります。これは三十一章︵第五十八章から第八十八章︶にもおよんで 詳細に規定されています。幕末以来多数の留学生が海外に派遣され、欧米文化を摂取し近代日本を建設するための人 材養成と教育に、当時の政府がいかに力を注いだかあきらかであります。  なお明治六年の学制二編の追加によって、海外留学生規則はさらに詳細になり四十四章と増補され、また専門学校 および外国語学校の規定が加わりました。  専門学校は外国教師にて教授する高尚なる学校、すなわち﹁法学校・理学校・諸芸学校等ノ類﹂をすべて専門学校 と称し、入学する生徒は小学教科を卒業し、外国語学校下等の教科を踏み卒業した者で、十六歳以上とされ、さらに 外国語学校は﹁外国語学二達スルヲ目的トスル﹂とし、専門学校に入学しようとする者及び通弁等を学ばんと欲する 者が、この外国語学校に入学して研業すべしと規定され、年齢は十四歳以上となっております。 43

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八 44  ﹁学制﹂によって定められた学区は学校設置の基本区画であるばかりでなく、教育行政の基本単位でもあります。  まず一つの中学区内に学区取締りを十名ないし十二、三名を置き、一名に小学区二十或いは三十を分ち持たせしめ る。この学区取締は専ら区内の人民を勧誘して務めて学に就かしめ、且つ学校を設立保護し、費用の使用を計る等、 一切の受持つ小学区内の学務について担任する。なお、学区取締にはその土地居住の名望家を選んで地方官が任命す るということになっております。さらに大学区には大学本部毎に督学局を設けて附属官員数名の督学を置き、文部省 の意向を奉じて地方官と協議しながら、大学区中の諸学校を監督し及び教則の得失や生徒の進否等を検査して、これ を論議改正することができるとしてあります。  また学区を大中小に分けそれぞれの学区に大学、中学校、小学校を置くようになっています。全国を八大学区にわ け、各大学区に一つの大学、さらにこの大学区を三十二の中学区に分けて、中学区に一つの中学校を置き、中学区に 二十一の小学校をもうける。全体でみると大学が八、中学校が二五六、小学校が五三、七六〇ということになり壮大 な構想であります。  そこで学区毎の学校についてさらに立ち入ってみます。  学制の実施によって、従来設立されていた府県の諸学校、私塾、寺小屋等はいったん廃止され、新しい学制にもと ついて学校が設立されました。私学とか私塾の類も開業願を出して許可されることにより、はじめて学制による学校 として公認されました。学制実施にあたって、文部省はまず国民教育の基礎づくりということで、小学校の設立に力 をそそいだので、府県においてもこの方針にもとついて小学校の設立に特に努力をかたむけたのであります。

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 したがって、学区の設定も学校取締の任命も主として小学校を設立するためのものであり、当時の府県において は、学制の実施ということはほとんど小学校の設立を意味するといってもよいほどでありました。当時の統計資料に よると明治八年には全国に二四、五〇〇校の小学校が設立され、児童数は約一九五万人、就学率は約三五%︵男約五 〇%、女約一九%︶となっており、児童数はその後さらに増加、就学率も増加しております。  中等および専門学校についてみると、文部省は明治五年八月、学制公布と同時に東校を第一大学区医学校、南校を 第一大学区第一番中学、大阪開成所を第四大学区第一番中学、長崎広運館を第六大学区第一番中学と改称し、そして ﹁外国教師ニテ教授スル医学教則﹂および﹁外国教師ニテ教授スル中学教則﹂を定めました。引きつずき大阪医学校 を第四大学区医学校、長崎医学校を第六大学区医学校、東京の洋学第一校を第一大学区第二番中学と改称しておりま す。このように医学校を除き、当時の洋学の最高学府はすべて中学校となっております。  しかし明治六年には第一大学区第一番中学は専門学校となり開成学校と改称され、大阪・長崎の第一番中学は外国 語学校となり、また、明治七年三月には第一大学区以外の大学区にも官立外国語学校を設立しております。官立外国 語学校は同年十二月英語学校と改称され、また、女子教育の模範として、文部省は明治五年に官立の東京女学校を設 立しております。明治十年には東京開成学校と東京医学校を合併して、はじめて近代的な大学として東京大学を創立 したのであります。 九  一八七二年︵明治五年︶の学制は、旧来の随習を破り欧米の教育制度を範として取入れた近代的な制度ではありま したが、その実施は、廃藩置県から西南戦争にいたる時期に、あいつぐ士族の反乱と農民の騒擾のなかで強行された 45

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のであります。  その実施過程において﹁学制﹂の構想と現実との格差があまりにも大きかったために、民衆の不満と抵抗の壁にぶ つかりました。  先に申したように、その格差というのは学校設立経費面における受益者負担原則の一律施行、教育内容の民衆の生 活現実からの遊離、或いは制度計画自体の欧米直輸入的性格等からくるものです。  この時期には不平士族の反乱があいつぎ、ついには明治十年の西南戦争となりましたが、政府はこれらの反乱を武 力でもって断固として鎮圧したのであります。ところが農民騒擾にたいしては、武力にょり圧服とともに、農民慰 撫・懐柔という方策をもとったのであります。  このような民衆の反感の高まる情況の中で学制全般を検討して、これを全面的に改革すべきであるという要望が強 く起こってきました。そこで文部省では明治十年に、学制の改正に文部大輔田中不二麻呂が中心となって着手したの であります。  翌十一年五月十四日には新しい教育令原案としての﹁日本教育令﹂が上奏されています。これは全七十八章から成 り立っており、干渉主義を廃しております。条文のほとんどが小学校に関するものでしめられており、アメリカの自 由主義教育に範をとっております。田中不二麻呂がアメリカの教育に精通しておりますので。  さらにまた政府は一八七七年︵明治十年︶一月四日、地租率地価の百分の三を百分の二十五に減じております。と いうのは、同月三十日に西郷が挙兵し、その年九月ようやく西南の役が終結すると、高知の立志社を先頭に自由民権 運動が新しいうごきをみせはじめ、そこにはすでに自由民権運動が農民の地租反対闘争と結合する気配がみられたか らであります。つづいて翌一八七八年︵明治十一年︶三月に、政府は明治八年以来開かれなかった地方官会議を再開 46

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することに決し、七月いわゆる三新法︵郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則︶を公布して地方自治にたいする 要求に妥協していったのであります。そして翌年九月、先に上奏された日本教育令は大幅な修正を受け、教育令とし て太政官より公布され、﹁学制﹂は廃止されました。この教育令は一般に自由教育令といわれていますように学制の 干渉主義を排しています。  学制と比較してみますと、まず第一条で性格が規定され、小学校の就学年限が学制の八ケ年より四ケ年の短縮を認 められ、毎年四ケ月以上授業すれぽよいとされています。  さてこの日本教育令は文部卿・地方官・学区・学区委員・学校・学齢・学資・小学校補助金・学校廃置・学校巡視・ 学事申報・公立師範学校・教員・生徒・巡回授業・教育議会・幼稚園・書籍館・雑則の各項にわたって七十八章から なりたっています。  この諸項目の中で干渉主義を廃止している主要な点をあげますと、学制では二学区一小学校ヲ設クヘキ者﹂とな っていますが、学校を設立するのに資力に乏しい土地では巡回授業の方法を認め設置義務が緩和されております。つ いで学区取締を廃してこれを学区委員に替え、督励的要素を排除し、修業年限も大幅に削減して四力年以上、毎年四 ケ月以上でよいとしてあります。さらに別途に普通教育を受けられる者はこれを就学とみなし、就学義務も緩和し、 公立学校の教則は﹁便宜二随イ各自之ヲ制定シ文部卿ノ認可ヲ経ヘシ﹂として、各学校の自主編成の方針をとってお ります。また小学校教員は学力さえあれば必ずしも師範学校卒業でなくてもよいことにし、授業料の徴収およびその 方法はすべて﹁学校ノ便宜二任ス﹂としてあります。  以上のようにほとんどが小学校に関するもので、小学校教育をもって国民教育の基礎としているのがわかります。  この上奏された日本教育令は法制局にまわされ、当時の長官は伊藤博文参議でありますが、ここで大修正を受ける 47

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ことになり条数が四十九条に激減しました。修正点の主だったものをひろってみますと、名称が日本教育令から教育 令に改められ、学区制が廃止され、学区委員は学務委員と改められて其町村人民の選挙、つまり公選制に切りかえら れました。また教育国会・教育府県会などの規定を削除し、なお小学校・中学・大学・師範学校以外に学校の種類と してあげられていた盲学校・聾唖学校などすべて削られました。かかる大修正がなされた理由としては、先にあげま した三新法や民権運動の昂揚・大久保の暗殺などによる政情不安があげられます。  特に学区制の廃止は三新法の新しい町村制度との調和のためと考えられます。行政区と学校区は本来別のものであ るが、多くの府県では学費の徴収その他の関係で便宜上両者を一致させている例が多かったが、三新法による大区小 区の廃止はそのまま小学区の解体にもつながったのであります。このように上奏された草案は大修正を受け、さらに 元老院において審議修正を受け四十七条となったのでありますが、上裁を得て明治十二年九月二十九日太政官布告を もって教育令として公布されました。  ところで、この教育令は先に申したように、学制の中央集権的・画一的性格・干渉主義を改めて、教育の権限を大 幅に地方に委譲し、地方の自由にまかせたものであります。そこでこの教育令は当時の自由民権の思想とも結びつい て自由教育令ともいわれております。  この教育令によって私立学校においてもその設置が府知事県令に開申と簡略になり、また私学の教則も府知事県令 に開申すればよいことになり、また第九条の但書に﹁但町村人民ノ公益タルヘキ私立小学校アルトキハ別二公立小学 校ヲ設置セサルモ妨ゲナシ﹂とあり、さらに﹁私立小学校タリト難モ府知事県令二於テ其町村人民ノ公益タルヲ認ム ルトキハ﹂補助金も支給されるのであるから、私立学校が急激に増加したのも当然であります。しかし﹁学制﹂とい う繋縛が解かれるや、急速に旧の寺小屋式私立小学校がつくられたことのなかには、上からの官側からのおしつけた 48

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学校に反発する形で、町村人民の下からの教育要求がはたらいたとみることができると思います。つまり教育令公布 は人民の立場からみれぽ、まさに人民みずからの手による国民的な教育の創出へのひとつのチャンスであり、教育令 実施によって教育が衰退したといっても、町村人民は子どもたちの教育を放棄したのではなかったのであります。  しかし実際に実施に移してみますとその結果は、かえって今まで官側の五年間に亘って苦心して蓄積してきたもの がゆらぎ始め、小学校教育を後退させることになってしまったのです。地方によっては児童の就学率は減少、経費節 減のための廃校、あるいは校舎建設を中止するなどの事態が生じてきたのであります。  まさに学制施行以来官側が築きあげてきた国民皆学制の体制も一朝にして崩れさらんとする形勢になったのであり ます。 十  ここで自由民権運動と教育とのかかわりについて簡単にふれておきます。自由民権運動が人権伸張の運動であるか ぎりにおいては、その内部には必然的に教育への要求がうみだされていたのであります。すでに一八七四年︵明治七 年︶板垣退助らが政府に提出した民選議院設立建白書では、人民の参政と人民の教育とは不可分であると主張してお ります。また一八八〇年︵明治十三年︶三月の愛国社第四回大会には、日本全国二十二府県、八七、○○○余人の代 表一一四名が参加し、組織を国会開設期成同盟に切替え、運動は飛躍的に高揚の勢をしめしたのであります。このこ ろから教員のあいだにも自由民権熱がひろまり、地方によっては実際運動に教員が参加することもあり、師範学校の 生徒から小学生にまで﹁演説熱﹂が蔓延しだしました。藩閥政府は、ここにはじめて自己の体質に相容れない敵手に 直面したわけであります。政府はすでに自由民権運動にたいして一八七五年︵明治八年︶六月に発布された新聞紙条 49

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例や議誘律をもって抑圧を加えてきていたが、一八八〇年︵明治十三年︶四月の愛国社第四回大会のさなかに集会条 例を発布して、言論・集会・結社にたいするあますところない弾圧を加えだしたのであります。教育に対しても、政 府はいまや教育令にもとつく方針を急転換しなければならなくなったのであります。教育令の実施による様々な障害 が生じてきて、それに対する対策もさることながら、もっと本質的な教育内容の面からの転換の必要がさしせまって きていたのであります。  学制以来の知識普及主義と教育令の妥協的統制緩和とは、ともにもはや許容されるものではなく、政府は民衆の教 育をすみやかに掌握しながら、なんらかの精神的権威によって自由民権思想と対決して、全国の学校を絶対主義精神 指導体制へと再編成しなけれぽならなかったのであります。それは藩閥政府にとって焦眉の政治的必要であった。そ こで時をうつさず着々と実行に移されたのであります。  このような情況の中で明治十三年十二月九日に文部省は教育令改正原案を太政官に上申したのであります。この原 案は教育令条文の改正であって、新しく創案したものではありません。  太政官に上申された教育令改正案は、その後元老院で審議をうけ一部修正が加えられ、一八八〇年︵明治十三年︶ 十二月二十八日太政官布告として公布されました。  この改正で教育令の基本方針は国家の統制、政府の干渉にあって教育令下の教育行政における地方の自由を認める 方針を廃しているところに特徴がみられます。ともかく政府の督励・強制がなけれは教育を普及させることができな いとし、また文部省が地方の教育を、また教育内容をも統轄する文教政策によって自由民権運動にも対応するという のが根本方針でありました。  改正教育令は五十条からなっておりますが、その内五ケ条が削除されています。主要な修正点をあげると、まず教 50

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育行政においては重要な事項について﹁文部卿﹂の認可を受けることを規定し、また府知事県令の権限強化と中央集 権化を図ったことであります。  そこで小学校の設置についても、各町村は府知事県令の指示に従わねぽならぬとし、また私立小学校の代用につい ても府知事県令の認可を必要とし、さらに巡回授業についてもこれは認めてはいるが、府知事県令の認可を必要とし ています。  就学義務については三年間の就学義務を明確にしております。また小学校の学期、つまり年限は三ケ年以上八ケ年 以下と定め、年間の授業を四ケ月以上から三十二週間以上と規定してあります。さらに注目すべきことは教科内容に 対し、すなわち小学校の教則は文部卿の定めた綱領に基づいて府知事県令が定め、文部卿の認可を経て施行すべきこ ととしてあることです。教育内容に権力が介入するというまさに教育行政の内容統制であります。また小学校の学科 の冒頭に修身を置いたことも重要な意味があり、後で述べますが、教学聖旨ともかかわりがあり、これも注目すべき 修正点であります。  学校の種類としては小学校・中学校・大学校・師範学校・専門学校の外に新しく農学校・商業学校・職業学校が加 えられています。  これらの産業関係の諸学校においては、農学校は﹁農業の学業﹂、商業学校は﹁商売の学業﹂、職業学校は﹁百工の 職芸﹂を授ける所と規定されております。        しよじやぺ  公立の学校・幼稚園・書籍館等の設置・廃止については、府県立の場合は文部卿の認可、町村立の場合には府知事 県令の認可とし、また私立の学校等の設置についても府知事県令の認可を必要としています。さらに町村立・私立の 設置・廃止の規則は、府知事県令が起草して文部卿の認可を受けることになっています。 51

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 先に申したように、教育令に比して文部卿・府知事県令の監督権限を強化し、さらに、公私立校の設置についても 教育令の開申制から認可制へと修正してあります。ただし師範学校設置に関してだけは教育令で設置の義務づけを定 めておりますが﹁各府県二於テハ便宜二従ヒテ公立師範学校ヲ設置スヘシ﹂と定め甚だ明確性を欠いております。こ れに対して改正教育令においては、明確に﹁各府県ハ小学校教員ヲ養成センカ為二師範学校ヲ設置スヘシ﹂と設置義 務が明確に規定されております。  さらに第五十条の追加条文として﹁各府県ハ土地情況二随ヒ中学校ヲ設置シ又専門学校農学校職業学校等ヲ設置ス ヘシ﹂と規定して、中学校をはじめとして他の諸学校についても府県が設置すべきと定めてあります。  さらに教員について﹁町村立学校ノ教員ハ学務委員ノ申請ニヨリ府知事県令之ヲ任免スヘシ﹂と、﹁町村立小学校 ノ俸額ハ府知事県令之ヲ規定シテ文部卿ノ認可ヲ経ヘシ﹂のニケ条が追加され、小学校教員の任免・俸給についても 地方長官の権限強化が図られています。  また学務委員も改正教育令によって重要な修正を受けております。地方行政の末端機関として位置づけられて各町 村に置かれ、町村の学務を幹理し、学童児童の就学、学校の設置保護等をつかさどるということですが、これについ ては変化はありません。ただその選出法が改められて、教育令では﹁町村人民ノ選挙﹂によるとなっていたのが、改 正教育令は﹁学務委員ハ町村人民其定員ノニ倍若クハ三倍ヲ薦挙シ府知事県令其中二就イテ之ヲ選任スヘシ﹂と選任 することに修正されました。そのことは、最も注目すべき修正であり、これだけでもこの改正教育令の性格とその意 図するところが、官僚支配の強化にあることが明瞭であります。なお学務委員に戸長が加えられております。 52

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十一  ここで一八八五年︵明治十八年︶八月十二日公布の教育令再改正にふれる前に徳育重視の教育政策について、とく にこれの契機となった教育聖旨についてふれておきます。  明治維新の変革にともなう内乱のうちで最大であった西南の役が武力によって平定された翌年明治十一年の夏から 秋にかけて、明治天皇は東北・北陸・東海の諸地を巡り、親しく各地の民情および教育の実情をつぶさに視察しまし        ながざね た。その時の天皇の意図を侍講元田永孚に教学聖旨としてまとめさせ、起草を命ぜられたのであります。この教学聖 旨は教学大旨と小学条目二件から成り立ち、国民教育に対する精神と、教学の本義がいかなるところに存するかを明 らかにしたものであります。  教学大旨の大意をみますと仁義忠孝、君臣父子の大義を教育の中核におかねぽならないこと、またそのためには儒 学すなわち孔子の学を主とすべきであることという趣旨が述べられております。  この趣旨は、ひきつづき﹁小学条目二件﹂にも示されております。この大意は第一は忠孝の大義を幼少年の始めに 脳髄に感覚せしめて培養すべきで、知識才芸はその後にすべきであるとなっております。また第二には高尚でなく実 地にもとついた実生活に即した職業陶治を強調しております。ともかくこの教学聖旨ぱ﹁学制﹂施行以来の文明開 化・洋学尊重の教育政策を強く批判し、国民教育を保守的方向に転回させる直接的な契機をなすとともに、やがて教 育勅語発布へと発展していくのであります。  この教学聖旨は参議伊藤博文と時の文部卿寺島宗則に対して、立案中であった教育令案の参照とすべく明治十二年 八月に示されたものであるといわれております。 53

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 そこで直ちに伊藤は教学聖旨に反駁する意見書を教育議にまとめ上奏したのであります。これに対し、元田は教育 議に対する反論として教育議附議を上奏し、ここに教学聖旨をめぐって両者の論争が展開されるに至りました。  このことは明治初期のわが国教育政策上における、元田の伝統的思想と伊藤の進歩的思想との論争であったと見る ことができます。しかし結局のところ元田の意見は容れられず、伊藤は教育令に反映させることをあえてせず、時の 政治状勢を優先させ進歩的立場に立ったいわゆる自由教育令を成立させたのであります。  さらにこのことは君徳輔導、天皇親政のもとに侍補職の権力強化をはかり、政治の枢機に参画せんとする元田を中 心とする宮中派の要求を排除しようとする伊藤の政治姿勢を示すものであり、一八七九年︵明治十二年︶に侍補制は 廃止される結果になり、一つの終止符が打たれることになりました。  しかし、かかる処置の代償といいますか、翌十三年になるとそれまで民権派に対し懐柔的姿勢をとってきた政府が 反転して強硬な弾圧に乗り出してきたのであります。これと軌を一にするが如く教育政策にも顕著な変化が現われ、 教学聖旨の精神が徳育重視の政策として積極的に生かされてくるのであります。  先にも申しましたように、官僚中心の干渉主義と徳育主義を二本の柱とした改正教育令の発布となるのでありま す。  さてつづいて教育令の再改正について概略ながらふれてみたいと思います。  政府は一八八〇年︵明治十三年︶十一月以来、国庫支出の節減をはかっていたが、翌年の十月、国家財政の抜本的 再建のため、本格的な緊縮政策に乗り出したのであります。この緊縮政策は、国の負担を地方へ肩がわりすることに なり、そのため地方財政は極度の悪化をたどりはじめ、この経済危機を救うには、思い切った地租軽減と区町村費の 節減をせざるを得なくなってきました。 54

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 そこで区町村費の中でかなり大きな比率を占めていた教育費負担の軽減が問題となり、それにともなって地方の実 情にそった教育令の再改正が不可避的に迫られたのであります。  一九八五年︵明治十八年︶六月十一日、太政官へ提出された教育令再改正の文部省原案は参事院の審議を経てかな りの修正を加えられ、さらに元老院の審議にかけられ無修正で通過、同年八月十二日に太政官布告をもって公布され ました。  このように経費節減という至上命令により再改正された教育令は全文三十一条で構成され、改正教育令よりさらに 簡略化されたものでありました。  ともかくこの教育令は学務委員を廃し、小学教場を小学校のほかに設け、さらに就学規定をゆるめて半日学校、夜 間学校を認めるなど改正教育令のひきしめ政策をゆるめ放任する教育政策となったのであります。  同年の十二月には学制以来の半年進級制をとりやめ公立小学校に学年制が採用されましたが、この措置によって大 幅に学級数を減ずることができ、教員数も少数でよく、 いわゆる学校経済の合理化による施策といってよいでしょ 、つ。 十二  このように教育令の再改正は教育費節減という経済的要請によってやむなくなされ、国民教育は、国家経済によっ て破綻の危機に直面してきたのであります。この再改正教育令が各府県において実施されようとした時期、明治十八 年十二月二十二日に従来の太政官制度を廃止して内閣制度を創設するという、抜本的な中央官制の改革が行なわれま した。この改革は憲法を制定して国会を開設し、立憲政治体制を樹立することにありました。すなわち太政大臣・左 55

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右大臣・参議・各省卿を廃して、新たに内閣総理大臣ならびに宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・ 農商務・逓信の諸大臣をおき、宮内大臣を除いて総理大臣と諸大臣をもって内閣を構成することになったのでありま す。これら諸大臣は国政に参画する国務大臣であると同時に、各省の行政長官として大臣職務を執行することにな り、従来の各省卿とはことなった強力な権限を付与されております。かかる内閣の初代総理大臣が伊藤博文であり、 伊藤の推挽により初代文部大臣に任ぜられたのが森有礼であります。その森の就任した当時は憲法発布を数年後に控 え、また国会開設も予定され、維新以来の懸案であった立憲政体が形を整えようとしていた時代でありました。  そこで森がいかなる教育政策を展開していったのかを概観していきます。  森は学問と教育とを峻別し、その思想の上にたって学校体系を構築しております。つまり学問とは国家必須のもの で近代国家の指導者養成を意味し、また教育とは一般大衆に対する臣民教育を意味しております。この臣民というの は帝国臣民としての義務を忠実に果たす善良な臣民のことであり、近代国家体制化における大衆を臣民化することに ほかならないのであります。学校としては小学校、尋常中学校が教育の場であり、帝国大学が学問の場であります。 そして尋常中学校卒業者からきびしい選抜を受けて、限られた少数の人材が高等学校から帝国大学へと進学するので あります。  つまり選別に徹した学校体系であります。さらに注目すべきは、帝国大学への進学者であっても臣民教育の場であ る小学校教育は必修として受けなければならない義務があるということです。この小学校はすべての者が学習する国 民教育の場であって、これを広い底辺として、また基盤として国家にとって有為な人材を帝国大学へ吸収し、指導者 や官僚を養成するために学問を授けるという機構になっております。  このように森は教育制度の改革というより、先きほど申したように、当時の状況の中で国家主義的教育体制の基礎 56

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を創出したといったほうがよいのではないでしょうか。  かくしてまず一八八六年︵明治十九年︶三月二日に勅令でもって帝国大学令が公布され、つづいて同年四月十日に 師範学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則が公布されました。  さらに森の国家主義的教育政策の特質について補足しますと、帝国大学令第一条の条文の﹁帝国大学ハ国家ノ須要 二応スル学術技芸ヲ教授シ及其蕊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス﹂によくその特質はあらわれ、また森は文部省直轄諸 学校長に対する説示で、教育は生徒その人の為にするのではなく国家の為にするのだということを言っております。 これはまさに国家主義的教育観の明確な表現であります。  また森は教育を知育、徳育、体育に区分して、わが国において最も欠けているのはこの体育であるとして体育軽視 を批判し、兵武体操を重視しその必要性を主張したことも大きな特色としてあげられます。  ところで、これら諸学校令は勅令という法形式によって公布されたが、勅令による教育政策の発現形式は、以後昭 和二十二年の新憲法発布まで官僚の教育支配体制の支柱となり、またこの勅令にもとつく教育行政は日本の教育界を 支配したのであります。  以上のように議会勢力から独立した国家富強への教育路線は四つの学校勅令によって敷設されたのであります。  さてこの勅令というのは、閣議決定を経てから内閣総理大臣が上奏し、天皇が直接裁可する様式であります。一八 八六年︵明治十九年︶の諸学校令によって初めて教育立法上に勅令主義が登場し、それ以後それは立憲体制下におけ る教育立法の基本形態として定着していったが、それに法的基盤を提供したものは、大日本帝国憲法であったのであ ります。 57

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十三 58  ここで教育立法勅令主義と、あわせて教育勅語についても概略ふれておきます。  参議大隈重信が下野するという明治十四年の政変以来、政府は参議伊藤博文を中心として憲法制定の準備を推進し てきたが、大日本帝国憲法が一八八九年︵明治二十二年︶二月十一日に発布されました。この日に森文相は刺殺され ます。翌年の十一月には第一回帝国議会が開かれ、日本は名実ともに東洋では最初の立憲国家となったのでありま す。しかし教育に関する独立条項はこの憲法にはうたわれず憲法第九条﹁天皇ハ法律ヲ執行スル為二又ハ公共ノ安寧 秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為二必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得 ス﹂と天皇大権を規定した条文に包括され、またこの第九条の適用をうけるものとされたのであります。  そのため教育に関する基本事項は勅令をもって定められるということは先に申した通りであります。法治国家の原 則からいえば、勅令という法形式はとらず、議会の承認と協賛を経る法律によるべきであります。しかし、第一回帝 国議会開会を目前にして新しい小学校令が一八九〇年︵明治二十三年︶十月七日に公布されていますが、この時、こ の小学校令を勅令によるか法律によるかが政府首脳間で論議されたが、結局勅令によることに落ちつき、以来教育に 関する基本法規は、いずれも勅令によって公布されることになったのであります。欧米の先進諸国が教育に関する重 要法規を法律で規定しているのに比して、この教育立法勅令主義というのは極めて特徴的であり、大日本帝国憲法下 における教育行政の基本的性格を形づくっておるのであります。  教育立法にあたって勅令主義を定めた小学校令公布につづいて、同年の十月三十日に教育に関する勅語が発布され       ながさね ました。この教育勅語は元田永孚が起案した教学聖旨の思想に結びつくものであり、また当時法制局長であった井上

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