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仏教心理学 利用統計を見る

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(1)

仏教心理学

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

10

ページ

11-166

発行年

1991-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002928/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   145×211㎜ 3.ページ   総数:174   目次: 2   本文:172 4.刊行年月日   不明。ただし,「仏教専修科講義   録」(初学年第4冊,第7号第8   号,明治30年5月23日)に,41   ∼48ページ分が掲載されている   ので,このころと推測される。 5.句読点   あり 6.その他   (1)書名については,本選集第   7巻の『仏教理科」の例になら   い「講義」を省略した。   ② 第四段「心所義解」の漢文   引用文(原本の17∼34ページ)   は,『東洋心理学』(選集第9巻   収録)にもあったので,校合し   た。なお「第二 大善地法の十   種」の引用文は,9種しかなか   った。欠如した「塊」の項は「東   洋心理学」から補った。 濠〃 鍛

躍擢ll

(巻頭) 弁土

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仏教心理学 緒 ユfiwa  これより講述せんと欲する仏教心理学は、仏書中に見るところの心理に関する諸説を比較対照して評論するを 目的とす。しかるに心理学とは学科組織を有するものに与うる名称にして、西洋近代に始めて起こりたる学科な れば、その名を仏教の心理説に与うるは不当の評を免れ難しといえども、今、仮に題して﹃仏教心理学﹄という。 それ仏教は哲学上よりこれをみるに、大小両乗の諸説はみな心理学の範囲を出でず、仏教哲学はすべて心理哲学 と称して可なり。今その理由を述べん。  インドの哲学諸派は大数九六種ありて、これを外道と称す。仏教はこれに対して新機軸を出だしたるものなれ ば、必ず大いに外道とその見を異にするところなかるべからず。もし仏教家の説くところによれば、外道諸派は みな実我論をとり、仏教は無我論を唱うるの別ありというも、哲学上これをみるに、外道諸派は客観論にして、 仏教は主観論なるの別あり。客観論とは外界万有の上に真理を仮立するものにして、主観論とは内界心性の上に 真理を既定するものなり。外道中の地論師外道、火論師外道、服水外道、風仙外道のごとき、有形の物質をもっ て原理と立つる諸派の客観論たるは言をまたず。勝論︹ヴァイシェーシカ︺、数論︹サーンキヤ︺のごとき物心二元 を立つる外道も、客観上の見解を脱せざれば客観論の一類に属せざるべからず。これに対して仏教は、大乗はも ちろん小乗の諸派に至るまで、みな主観上の見解を用いざるはなし。小乗中倶舎宗のごときは万有の実体の恒存 説を唱うるものなれば、これを大乗に比するに一種の客観論といわざるを得ずといえども、これを外道に比する に主観論の範囲に帰するは多言を費やさずして知るべし。﹃倶舎論﹄は万有を分析して色心二法を立つるものなれ 11

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ば物心二元論なりといえども、世界万有の成立を業カ所感に帰し善悪因果を説くに至りては、主観的二元論と称 せざるべからず。換言すれば、倶舎哲学は表面に物心二元論を示し、裏面に唯心一元論を含むものと称して可な り。小乗なおかくのごとし、いわんや大乗をや。唯識哲学、華厳哲学、天台哲学、みな唯心一元の理に基づかざ るはなし。故に余は、仏教諸派はことごとく主観論に属するものとなす。  すでに仏教諸派の主観論たるを知れば、仏教哲学は心理学あるいは心理哲学の範囲を出でざるを知るべし。果 たしてしからば、仏教心理学の名称の下には仏教諸派の哲学を網羅することを得べし。ただ﹃倶舎論﹄および﹃唯 識論﹄の心理と、華厳、天台の心理と、その見解を異にするのみ。倶舎、唯識の心理は今日のいわゆる心理学の 見解に近しといえども、華厳、天台の心理は純正哲学あるいは理想哲学の見解に属す。換言すれば、倶舎、唯識 の心理は相対的にして人々おのおのの心性につきてその作用を論じ、華厳、天台の心理は絶対的にして物心世界 の本体につきてその実在を論ずるの異同あり。これを表示すること左のごとし。  もし一元、二元をもって分かたば、倶舎は物心二元論にして、唯識は唯心一元論なれば、その表左のごとく変 ぜざるべからず。数論、勝論もまた物心二元論にして、外道諸派中最も仏教に近きものなれば、その二論をも左 表中に加うることとなす。 12

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仏教心理学  この表に従い各種の心理の一端を略示するは、本論に入るの階梯として必要を感ずるなり。まず数論は、二五 種の原理を立てて物心万有の開発を論ず。これを僧怯︹サーンキヤ︺の二十五諦と名付く。もしこれを略説すれば 自性、変易、神我の三種となる。自性は第一諦にして、神我は第二五諦なり。しかして変易は中間の二三諦なり。 これを変易と名付くるは、自性と神我との二諦相より、自性の体開発して次第にこれを転生せるによる。換言す れば、自性は世界の実体にして、神我は覚知の本源なり。この二者相よりて物心万象を現示することを説く。故 にこれ一種の二元論なり。つぎに勝論は、六種あるいは一〇種の原理をもって世界万有の成立を論ず。これを十 句義と名付く。その第一句義を実句義と称して、その中には物心二元を混説す。すなわちいわゆる二元論なり。 この二元の関係によりて万有の生滅変遷を論ずるもの、これ勝論哲学なり。しかして数論も勝論もいまだ客観的 見解を脱せざれば、余はこれを客観的二元論と名付く。つぎに﹃倶舎論﹄は、七五種の原理によりて世界万有の 成立を論ず。これに有為無為の二種を分かち、その有為法に色心二種を分かちてその体の恒存せるゆえんを示す。 しかしてその色法を解するに心理上の見をもってす。故に余はこれを主観的二元論と名付く。﹃唯識論﹄は一〇〇 種の原理を立て、これを有為無為の二類、色法心法の二種に分かつことは﹃倶舎論﹄の分類に異ならずといえど も、有為の諸法は唯識所変と称して、我人の識心の作用によりて外界万有の変現するゆえんを説き、﹁森羅万象は 13

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ただ識のみの変ずるところ。﹂︵森羅万象唯識所変︶を唱うるをもってこれを唯心一元論に入るるなり。有為法とは、 為は為作造作と熟し転変生滅あるものをいう。つぎに華厳、天台は﹁三界はただ一心のみにして、心の外に仏法 なし。﹂︵三界唯一心、心外無仏法︶、あるいは一念三千、一心三観等と称し、絶対的唯心にしてその体物心万境を包 有せるゆえんを示す。故にこれを絶対的唯心論という。以上、大小両乗の心理にかくのごとき異同あるも、余が ここに仏教心理学としてもっぱら論ぜんと欲するものは、倶舎および唯識の心理なり。数論、勝論、華厳、天台 の心理のごときは、往々参考として対照するをもって足れりとす。しかるに仏教専修科の講義には、現に﹃倶舎 論﹄﹃唯識論﹄の二科あり。また専修科の講義録にもこの二科の綱要を掲ぐるはずなれば、別にここに仏教心理学 の題目を提出して論述するを要せざるがごとしといえども、余が講述の目的および性質の大いに異なるところあ れば、更に仏教心理学の一科を設くるを要す。その異なる点左のごとし。   ﹃倶舎論﹄および﹃唯識論﹄の講義はひとり心理に関することを説くのみにあらずして、一論全体の要義を   講述するにあり。しかして余が仏教心理学はひとり心理に関する部分のみを論ずるなり。   ﹃倶舎論﹄および﹃唯識論﹄の講義はその本論の順序により解釈的に講述するものにして、余が仏教心理学   は諸学科の順序により論及的に講述するものなり。   ﹃倶舎論﹄および﹃唯識論﹄の講義は一論の心理を講述するにとどまり、必ずしも他論の所説と比較するを   要せず。しかるに余が仏教心理学は倶舎、唯識両論を比較し、あるいは外道の心理、あるいは西洋の心理と   比較して論述し、かつこれに多少の批評を加えんと欲す。  これを要するに、余の目的は仏教中に学科の組織を開かんとするにあるをもって、かくのごとく学科の名目を 14

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仏教心理学 用うるなり。しかれども倶舎、唯識の本論を明らかにせざれば、この心理学の講義を解し難し。故に倶舎、唯識 の講⋮義は、この心理学講義の根基なりと知るべし。  以上、すでに仏教心理学はなにを講述するにあるやを弁明したれば、ここに仏教の心理と西洋の心理と、その 研究の方法の異なるゆえんにつきて更に一言せざるべからず。西洋にありても、古代ギリシア学者の論ずるとこ ろの心理は仏教の心理のごとく、論理学のいわゆる演繹的研究法によりたるものにして、西洋今日の心理学のご とく帰納的研究法によりたるものにあらず。故に今比較せんと欲するは、仏教の心理と西洋今日の心理との異同 いかんにあり。その表左のごとし。

旦韓㌶封舗竃⋮#巳臨︰竃蕪鯉繍鞭

 この表につきて二者の異なるゆえんを知るべし。またその応用に至りては、西洋はこれを教育上に応用し、仏 教はこれを宗教上に応用するの別あり。けだし仏教心理と西洋心理とその性質の異なるは、その応用の異なるに 起因するところなきにあらず。すなわち仏教にて心体を主として心理を講ずるはこれを宗教に応用せんがために して、西洋にて心象をもととして講ずるは教育に応用せんがためなるを知るべし。  東洋にありては哲学思想の大いに発達したるものシナ、インドの二国あるのみ。しかしてインドに心理の諸説 ある以上は、シナにもこれに関する諸説なかるべからず。しかるにシナ哲学の短所は心理の研究を欠くにあり。 その哲学中にわずかに心理にわたりて講じたるものは宋朝の性理論なるも、これを倶舎、唯識の心理に比すれば 極めて粗なるものなり。かつその論は道徳の本源を究むるより生じたるものにして、仏教の心理とは更に大いに 15

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その性質を異にす。これシナ哲学の応用は道徳を目的とするによる。換言すれば、仏教は精神をもととして哲学 を講じ、その結果を宗教に応用し、儒教は人間をもととして哲学を講じ、その結果を道徳に応用するの別あり。  以上述ぶるところによりてこれをみるに、インド哲学の特色は心理説あるいは理想論にして、仏教その最たる ものなり。これをシナに尋ぬるに、儒家も道家も心理の説にくわしからず。これを西洋に考うるに、近世心理の 学大いに発達し、その実験上の研究は仏教のはるかに及ばざるところにして西洋心理の特色なりといえども、仏 教心理の特色に至りては、また西洋心理のいまだその味を感ぜざるものあり。すなわち仏教は心理の秘鍵により て理想の玄門を開示せんとするにあり。これその心理の客観的ならずして主観的なるゆえん、心象的ならずして 心体的なるゆえんなり。それ一心の本体は実に神妙不可思議にして、有限の見識のよくうかがい知るところにあ らず。けだし吾人の心門を開き真源を窮むる外に、ただちにその光景に接する道なし。これをもって仏教は心理 を講究してその道を世間に開示せんと欲す。故に仏教の心理はこれを西洋の心理に比するに、その味の深妙なる こと同日の論にあらず。いやしくも東洋学に志あるもの、あに仏教の心理を不問に付するを得んや。これ余が仏 教心理学を講述する本志なり。 16

第一講総論

 余が仏教心理を講述する順序は、﹃倶舎論﹄あるいは﹃唯識論﹄の章句を追って解釈するにあらずといえども、 あらかじめその両論において定むるところの心理分類および義解を挙示するを必要となす。故に余は左の題目を

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仏教心理学 掲げ、もって本講の総論となす。   第一段 諸法分類   第二段 心法分類   第三段 心王義解   第四段 心所義解  この四段のごときは﹃倶舎論﹄および﹃唯識論﹄の講義に出ずるものなれば、今、特にその題目を掲げて講述 するを要せずといえども、あらかじめ従来の仏教において定むるところの分類義解のいかんを知らずんば、仏教 心理を講究することあたわず。故にここに二、三の仏書によりてその一端を示すべし。

第一段 諸法分類

 そもそも仏教にて宇宙万有を分析するに、小乗大乗おのおのその説を異にし、﹃倶舎論﹄にては七五種に分かつ。       ノ これを小乗の七十五法という。﹃唯識論﹄にては百法に分かつ。その種類の小乗より多きこと二五法なり。しかし 17

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て更にこの七十五法、もしくは百法を束ねて五類となす。これを五位と名付く。今その表を略示すること右のご とし。  有為法とは、為は為作造作を義とし、変遷生滅ある現象をいい、無為法とはこれに反するものをいう。また色 法、心王、心所、不相応、無為法の五類、これを五位という。しかして余はこの五位を左のごとく分かたんと欲 す。  なんとなれば、不相応法は色心の関係、あるいは状態を示すものにして、その体は色法とも心法とも名付くべ からざるものなればなり。また七十五法の色法中に無表色を入るるも、余はこれを非色非心の中に加うるをよし 18

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仏教心理学 とす。また人身を分かちて五慈となすことあり。すなわち左表のごとし。  このうち色は物質すなわち色法にして、受、想、行、識は心法なり。これを七十五法に配するに、色には五根、 五境および無表色を含み、行には心所四四、不相応一四を含み、識は心王の六識にして、受と想とはおのおの心 所法の一なり。故に五緬はみな有為法にして、そのうちに無為法を摂せず。この五纏の外に十二処、十八界の分 類法ありてこれを緬処界の三科というも、これみな﹃倶舎論﹄もしくは﹃唯識論﹄の講義に譲りてこれを略す。

第二段 心法分類

 七十五法、あるいは百法の分類は、有為無為、色法心法にまたがるものなれば、ここにその種類のいちいちを 挙示するを要せず。ただ心法の各種を表示するをもって足れりとす。  以下は七十五法、および百法の表中より心法に属する部分のみを掲げしなり。しかしてその分類の大いに西洋 心理学の分類に異なるは、要するに仏教はその目的とするところ哲学にあらずして、宗教にあるによる。これを もって心所法を分かつに、善法不善法等の類目を用うるなり。これより﹃倶舎論﹄および﹃唯識論﹄により心王、 19

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心所の名義を解説すべし。

諒 羅   ︰ぽ  パ賢

  

@ 

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@ 

諸マ悩二∴ボぷき聲誘学ゴ、詩駕騨鉦僅

      不 定 四ー睡眠、悪作、尋、伺 不害 20

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仏教心理学

第三段 心王義解

 仏教にて我人の精神を心あるいは意あるいは識と名付く。この三者を解するに同意義をもってすると、異意義 をもってするとの二様あり。まず梵語︹サンスクリット語︺によれば、心は質多︵質多耶あるいは質帝あるいは波茶 等︶と音訳す。これ集起の義なり。意とは末那︵呂③コ霧︶の訳語にして、末那は思量の義なり。識とは毘若南︵≦÷ 富コ①︶あるいは毘若底の訳語となす。これ了別の義なり。今この三者を﹃倶舎論﹄の上に考うるに、﹁集起するが 故に心と名づけ、思量するが故に意と名づけ、了別するが故に識と名つく。﹂︵集起故名レ心、思量故名レ意、了別故名レ 識︶︵﹃倶舎論﹄巻四︶と説き、また﹁心、意、識の三名の詮ずるところは義に異なりあるといえども、体はこれ一 なり。﹂︵心意識三名所レ詮義錐レ有レ異、而体是二と説けり。これを﹃七十五法記﹄には﹁心法はあるいは名づけて 心となし、あるいは名づけて識となす。﹂︵心法者或名為レ心、或名為レ識︶とあり、﹃法宗源﹄には﹁心法はあるいは 名づけて意となし、あるいは名づけて識となす。集起するが故に心と名つく、すなわち七心界なり。思量するが 故に意と名つく、すなわちこれ意処なり。了別するが故に識と名つく、すなわちこれ識緬なり。﹂︵心法者或名為レ意、 或名為レ識、集起故名レ心即七心界、思量故名レ意即是意処、了別故名レ識即是識纏、︶とあり。その七心界とは﹃倶舎頒疏﹄ によるに、六識の外において更に意界を加えて七心界となすとあり。これを要するに、﹃倶舎論﹄にては心王を分 かちて眼、耳、鼻、舌、身、意の六識となせどもその体一なりと立つるをもって、心、意、識の三者はその名異 なるもその体一なりとす。しかれどもこれを区別するために、同一の心体の上に過去を意と名付け、未来を心と 名付け、現在を識と名付くと解するあり。また緬処界の三科に配して、心はこれ種族の義、意はこれ生門の義、 21

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識はこれ積聚の義と解せり。すなわち積聚は緬の義、生門は意の義、種族は心の義なればなり。あるいはまた界 中心を施設し、処中意を施設し、葱中識を施設すという。これ心、意、識と緬処界との配合なり。つぎに﹃唯識 論﹄の上にありては、心王を分かちて八種となす。すなわち前に表示せるがごとし。これを心、意、識に配する ときは、第八阿頼耶識を心となし、第七末那識を意となし、前六識を識となす。左に﹃唯識論﹄︵巻五︶の一節を 引用すべし。   集起するを心と名づけ、思量するを意と名づけ、了別するを識と名つく。これ三が別義なり。かくのごとき   三の義は、八識に通ずといえども、しかもすぐれてあらわなるにしたがいて、第八を心と名つく。諸法の種   を集め、諸法を起こすが故なり。第七をば意と名つく。蔵識等を縁じて、つねにつまびらかに思量して我等   となるが故なり。余の六を識と名つく。六の別境の麓動に間断するにおいて、了別して転ずるが故なり。   集起名レ心、思量名レ意、了別名レ識、是三別義、如レ是三義錐レ通二八識一而随二勝顕一第八名レ心、集二諸法種一起二諸法一故、   第七名レ意縁二蔵識等’恒審思量為二我等一故、余六名レ識於二六別境鹿動間断↓了別転故、  すなわち第八識は、一切の種子を含蔵して諸作用を発起するをもって集起の義あり、第七識は、内につねに思 量して我執法執を起こすをもって思量を義とす。他の六識は、眼は色、耳は声、鼻は香等、おのおの識別する作 用あるをもって了別の義ありとなす。しかして唯識の八識の説明は後に別に論ずるをもってここに略す。もし法 相より更に一歩を進めて﹃起信論﹄に達すれば、相対的唯心論一変して絶対的唯心論となる。すなわち﹃起信論﹄ に、真如と生滅と相合したる絶対的一心を阿黎耶識と名付く。阿黎耶は阿頼耶と同一なるべし。故に﹃起信論義 記﹄によるに、阿黎耶と阿頼耶とはただし梵言のなまりなりとあり。しかるに﹃起信論﹄の阿黎耶識は生滅心と 22

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仏教心理学 不生滅心の相合したるものに名付け、唯識の阿頼耶識は生滅心の一種に与うるものなり。これ﹃起信論﹄の実大 乗たるゆえんなり。阿黎耶識はここに訳して無没識といい、また蔵識という。以上の諸識の外に蓄摩羅識と名付 くるものあり。これを訳して清浄識という。あるいは真識あるいは無垢識等の名あり。これを仏識となす。その 他、識を分かちてあるいは一〇種あるいは二種となすことあれどもこれを略す。もしまた﹃宗鏡録﹄によれば、 心に四種の義を立つるを見る。   一、絃利陀耶、ここに肉団心という︵身中の五臓の心なり︶。   二、縁慮心、これはこれ八識、ともによく自分の境を縁慮するなり。   三、質多耶、ここに集起心という。   四、乾栗陀耶、ここに堅実心といい、また真実心という。これはこれ真心なり。 一、 二、 三、 四、 絃利陀耶、此云二肉団心一︵身中五臓心地︶、 縁慮心、此是八識、倶能縁慮自分境、 質多耶、此云二集起心べ 乾栗陀耶、此云二堅実心べ亦云真実心、此是真心也、  その第 の肉団心とは肉体上の心にして、今日の心理学にて説くところの神経あるいは脳髄というがごとし。 第二、第三、第四は前すでに述べたるところに同じ。その他なお種々の分類法あれども、すべてこれを略す。 23

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第四段 心所義解

24  心法の第二類なる心所法すなわち心所有法とは、心王所有所属の法を義とす。その種類は小乗と大乗と大抵相 同じといえども、今左に小乗の釈義と、大乗の釈義と、前後に分かちて挙示すべし。  まず小乗の分類表の心所法四六種は、﹃倶舎頒疏﹄の解釈を引用し、その和訳に属する分は慧澄律師の﹃七十五 法大意﹄による。     第一 大地法の一〇種 受 想 田 J2、 触

慧欲

ー﹁受とはいわく領納にして、これに三種あり。苦、楽、倶非との差別あるが故なり。﹂︵受謂領納、此有二   三種べ苦楽倶非、有二差別一故、︶︵受とは好悪中庸の境の通りにうけとりてちがへぬ性分なり。︶ ー﹁想とは像を取るなり。いわく、前境において差別の相を取るなり。﹂︵想者取レ像、謂於二前境一取一差別相べ︶   ︵想とは此方より境の模様を取り此れくらゐなるものと切りわける性分なり。︶        ク       ヲシテ ー﹁思とは造作なり。いわく、よく心をして造作するところあらしむ。﹂︵思者造作、謂能令二心 有予所二造作べ︶   ︵思は事を案して身口を動す本となる性分なり。︶ 1﹁触とはいわく、触対なり。根、境、識の三、和合して生ずるものにして、よく触対することあるなり。﹂    バ ク      ノ     シテ   ︵触謂触対、根境識三和合而生能有二触対べ︶︵触とは触対にて境へふりむける様にする性分なり。︶       ク ー﹁欲とはいわく、所作の事業を希求す。﹂︵欲謂希二求所作事業べ︶︵欲は何によらす望のつく性分なり。︶        バ ク     ニ ー﹁慧とはいわく、法においてよく簡択あり。﹂︵慧謂於レ法能有二簡択ハ︶︵慧は何によらすえらひわける性分

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仏教心理学      なり。︶        ハ  ク      ニ     シコア 念  ー﹁念とはいわく、縁において明記して忘れず。﹂︵念謂於レ縁明記不レ忘、︶︵念はよくおぽへて居る性分な      り。︶       ク  ク 作意   ﹁作意とは意を動作す。いわく、よく心をして警覚せしむるを性となす。﹂︵作意者動二作於意ハ謂能令二心      警覚一為レ性、︶︵作意は気をつける性分なり。︶ 勝解 1﹁勝解とはいわく、よく境において印可す。この事、このごとくして、かくのごとくならざるにあらず       ク   ス    トニナラ      と殊勝の解を起こす。﹂︵勝解者、謂能於レ境印可、此事如レ此、非レ不レ如レ是、起二殊勝解ハ︶︵勝解はよく合点      をする性分なり、世間の人の呑込たと云ふ所か勝解の心所なりと意得へし。︶ 三摩地  ﹁三摩地とはここに等持という。平等に心を持して一境において転ぜしむ。また心所を持す。強に従い        ニ シテ ヲ       セシム       ト      て心と説く。﹂︵三摩地者、此云二等持べ平等持レ心於二境一転、亦持二心所一従レ強説レ心、︶︵三摩地は定の梵名      なれとも修得せし定法にあらす、只た心の一処に住して余処目をふらぬを定と云へは、此の定の心所      は定心散心に通するなり。︶     第二 大善地法の一〇種 信    ﹁信とは澄浄なり。水清の珠、よく濁水を清むるがごとく、心に信珠あらば心をして澄浄ならしむ。﹂      ︵信者澄浄也、如三水清珠能清二濁杢心有二信珠一令三心澄浄二︵信は正直に意得てきれいなる性分なり。︶        ク  ク 勤    ﹁勤は精進なり。いわく、よく心をして勇桿ならしむるを性となす。﹂︵勤者精進、謂能令二心勇桿一為レ性、︶      ︵勤はだんだんはりのつく性分なり。︶ 25

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行捨 漸 塊 無貧 無瞑 不害 軽安   ﹁捨とは沈悼を捨離し、心をして平等ならしめ、無警覚の性なり。﹂︵捨者捨二離沈樟ハ令二心平等一無警覚   性、︶︵捨は偏椅︵かたより︶のせぬ性分なり。︶ ー﹃有宗七十五法記﹄にいわく、﹁造るところの罪において、自ら観じて恥ずることあるを漸と名つく。﹂   ︵於二所造罪自観有レ恥、名レ漸、︶︵漸は自分の身を顧みて面目なく思ふ性分なり。︶   ﹃有宗七十五法記﹄にいわく、﹁造るところの罪において、他を観じて恥ずることのあるを塊と名つく。﹂   ︵﹁於二所造罪一観レ他有レ恥名レ塊︶︵塊は他人に対して面目なく思ふ性分なり。︶   同書にいわく、﹁無倉はいわく、已得、未得の境界において、耽著し、希求し、相違せる愛染心なきを   名づけて無貧となす。﹂︵無倉者、謂於二已得未得境異耽著希求相違、無二愛染心べ名為二無食︶︵無倉はほ   しがらぬ性分なり。︶   同書にいわく、﹁無瞑はいわく、情、非情において損害の意なく、哀患の種子なるを説きて無瞑と名つ   く。﹂︵無瞑者、謂於二情非情ハ無二損害意べ哀悪種子、説名二無瞑べ︶︵無瞑は人の気を損せぬ性分なり。︶           ﹁不害というは、いわく無煩なり。﹂︵言二不害一者、謂無煩、︶︹*11無掲悩︺︵無害は人の障りにならぬ性分   なり。︶︹以下の注は、東洋大学哲学堂文庫所蔵﹃倶舎七十五法大意﹄と校合し、大きく相違する点のみ記す。    *11不︺   ﹁軽安とは、軽はいわく軽利なり、安はいわく安適なり。善法の中において堪任するところあるを心の        スル      ノ    ノ   堪任の性と名つく。﹂︵軽安者、軽謂軽利、安謂安適、於二善法中一有レ所二堪任ハ名二心堪任性べ︶︵軽安は獺気   ︵ものうげ︶のなき性分なり。︶ 26

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仏教心理学 不放逸 痴 放逸 僻怠 不信 昏沈 捧挙  ﹁不放逸とは、もろもろの善法を修するなり、云々。またいわく、よく心を守護するを不放逸と名つく。﹂  ︵不放逸者修二諸善法一云云、又云、能守二護心べ名二不放逸二︵不放逸はやりはなしならす慎しみよき性分な  り。︶︹*11﹁の﹂あり︺ 第三 大煩悩地法の六種  ﹁痴とは愚痴にして、また無明と名つく、境に迷いて起こるが故に。また無智と名つく、決断なきが故        カ  に。また無顕と名つく、彰了することなきが故に。﹂︵痴者愚痴、亦名二無明一迷境起故、亦名二無智一無二決断一  故、亦名二無顕一無二彰了一故、︶︵無明は即ち愚痴にて闇昧にして訳の分らぬ性分なり。︶︹*目訣︺  ﹁もろもろの善を修せざるなり。これはもろもろの善を修するの所対治の法なり。﹂︵不レ修二諸善一是修諸  ノ         善所対治法、︶︹*11﹁逸者放逸﹂あり︺﹂放逸はやりはなしにして慎まさる性分なり。︶︹*‖不慎なる︺       ノ ノ      ナリ  ﹁心の勇惇ならざるは、これ前に説くところの勤の所対治なり。﹂︵心不二勇悼べ是前所説勤所対治、︶︹*11  ﹁怠謂解怠﹂あり︺︵解怠は心にゆるみのつきて間のぬけて続かぬ性分なり。︶         ﹁不信とは心をして澄浄ならざらしむ。これ説くところの信の所対治なり。﹂︵不信者令二心不澄浄ハ是所   ノ     ナリ        説信所対治、︶︹*11﹁前﹂あり︺︵不信は正直ならすして意立てのきれいならさる性分なり。︶︹*‖意ろ立て︺  ﹁昏沈とはいわく、身心の重き性なり。善法の中において堪任するところなく、また身心の無堪任の性        ボ         ノ      ノ        を名つく。﹂︵昏沈謂身心重性、於二善法中一無レ所二堪任べ亦名二身心之無堪任之性二︹*111﹁昏沈謂﹂は﹁昏者        ボ  昏沈。謂﹂ *2n﹁之﹂なし︺︵昏沈は獺気なる性分なり。︶︹*11悟︺  ﹁心をして静かならざらしむ。﹂︵令二心不’静︶︵掠挙は心のすわらずさわがしき性分なり。︶ 27

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無漸 無塊 盆

樫覆

嫉 悩  第四 大不善地法の二種 ー﹃有宗七十五法記﹄にいわく、﹁自ら観じて恥ずることなきを、説いて無漸と名つく。﹂︵自観無恥、説名二   無漸ハ︶︵無漸とは自分の身の上に対して面目なきことを知らぬ性分なり。︶   同書にいわく、﹁他を観じて恥ずることなきを、説いて無塊と名つく。﹂︵観レ他無レ恥、説名二無塊ハ︶︵無   塊は他人の身の上に望んて面目なきことを知らぬ性分なり。︶  第五 小煩悩地法の一〇種   ﹃有宗七十五法記﹄にいわく、︵以下の九種またこの書による︶﹁盆は情、非情において、心をして念を   発せしむ。﹂︵怠者於二情非情べ令二心怠発ハ︶︵盆は﹁あれはすまぬ﹂と面へ出していきどほる性分なり。︶   ︹*11﹁﹂の記号なし︺      − ー﹁覆とは自らの罪を隠蔵す。﹂︵覆者隠二蔵自罪ハ︶︵覆とはこれを知られてはならぬとかくす性分なり。︶ ー﹁樫とはいわく、財法にして巧施に相違し、心をして悟惜せしむるなり。﹂︵樫謂財法巧施相違令二心惜惜ハ︶   ︵樫はこれをやってはならぬとはなさぬ性分なり。︶ −﹁嫉とはいわく、他のもろもろの興盛事において、心をして喜ばざらしむ。﹂︵嫉謂於二他諸興盛事ハ令三心   不予喜、︶︵嫉は他の盛事を忌む性分なり。︶ −﹁悩とはいわく、もろもろの有罪事に堅執し、これによりて取らず、諌謁を理すがごとし。﹂︵悩謂堅二執   諸有罪事べ由レ此不レ取如レ理二諌誇ハ︶︵悩は自分の無理なることを推し立て他の言ふことを聞き入れずし   て難義させる性分なり。︶ 28

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空 口 恨 詔 証 僑  仏教心理学 伺   尋   ﹁害とは、他において逼迫の事をなし、これによりてよく打罵等を行ず。﹂︵害者於レ他為二逼迫事ハ由レ此   能行二打罵等二︵害は人の障りになることを仕出す性分なり。︶ 1﹁恨とはいわく、盆の所縁の事の中において、数々尋思し、怨を結んで捨てざるなり。﹂︵恨謂於二念所縁          事中べ数々尋思結レ怨不レ捨、︶︹*11数︺︵恨は外には出さずして他をにくむ念を始終内に持つ性分なり。︶   ︹*11外かへは︺ 1﹁詔とはいわく、心の曲がれるなり。これによりて如実に自らをあらわすあたわず。あるいは、おさむる        り   にあらざるを矯し、あるいは、方便を設けて解明せざらしむ。﹂︵詔謂心曲、由レ此不レ能二如レ実自顕ハ或矯二           非撰或設二方便べ令レ不二解明二︹*11令一解不。明︺︵諮はねぢけて内の心を見せず機嫌を取る性分なり。︶   ﹁証とはいわく、他を惑わし先に箒度す。方便を設け、人をして後に顛倒の解を生ぜしむ故なり。﹂︵証          謂惑レ他先鷺度、設二方便一令三人後生二顛倒解一故、︶︹*11後時一生二︺︵証は言ひまぎらして人をまどはす性分   なり。︶         ー﹁僑とは、自法に染着するを先となし、心をして傲逸ならしめ顧みるところなし。﹂︵僑染着自法為レ先、           令二心傲逸一無レ所レ顧、︶︹*1U著 *211顧性︺︵僑は己れをよしとする性分なり。︶  第六 不定地法の八種 ー﹃有宗七十五法名目﹄にいわく、︵以下七種またこの書による︶﹁尋とはいわく、尋求。心の麓なる性な          ノ ナル   り。﹂︵尋謂尋求心鍾性、︶︵尋はあれはと意付く気味にて鹿︵あらく︶分別する性分なり。︶       ナリ   ﹁伺とはいわく、伺察。心の細なる性なり。﹂︵伺謂伺察心細性︶︹*11﹁之﹂あり︺︵伺はとくと様子を見 29

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     る気味にて細︵こまかく︶分別する性分なり。︶       ぱ ク         睡眠   ﹁睡眠とはいわく、心をして闇昧ならしむるを性となす。﹂︵睡眠謂令二心闇昧一為レ性、︶︹*111﹁謂﹂なし       *211昧略︺︵眠はとろくなりておぼえのなき様になる性分なり。︶       ハ ユ      スル ナリ 悪作   ﹁悪作とは、悪作の事を縁じて心に追悔する性なり。﹂︵悪作縁二悪作裏心追悔性、︶︹*111﹁者謂﹂あ      り *2‖﹁事﹂なし︺︵悪作は善悪の事に就て前に作せしことを悪しきことをなせしと後に悔る性分な      り、善事を悔るは悪なり悪事を悔るは善なり。︶ 倉  1﹁倉とはいわく、愛なり。﹂︵倉謂愛、︶︹*11倉愛︺︵倉はあるが上にほしがる性分なり。︶       メ 瞑  ー﹁瞑とはいわく、圭心なり。﹂︵瞑謂圭心、︶︹*11順患︺︵瞑は人の気をわるくさせる性分なり。︶       シコア      ラ  ル 慢  ー﹁慢とはいわく、他に対して、心自ら挙ぐる性なり。﹂︵慢謂対二於他ハ心自挙性、︶︹*11心自挙侍凌二蔑於他一      説名為レ慢︺︵慢は他に対して高ぶる性分なり。︶        スルヲ 疑    ﹁疑とはいわく、諦の理において、猶予するを性となすなり。﹂︵疑謂於二諦理猶予 為レ性、︶︹*目於二諦      理一猶予性名為レ疑︺︵疑は四諦の理を猶予して決せさる性分なり。︶  つぎに大乗の心所法を、﹃唯識論﹄および良遍師の﹃唯識大意﹄によりて解釈すること左のごとし。     第一 遍行の五種 作意 1﹁警覚してまさに心の種を起こすべきを性となし、心を引きて自らの境におもむかしむるを業となす。﹂      ぱシテ  

ヲシト  

ムル  ニスト      ︵警覚応起二心種一為レ性、引レ心令レ趣二自境一為レ業、︶︹*11能警心為性。於所縁境引心為業。謂此警覚応起心種              引令趣境故名作意︺︵作意の心所と申は、心を警︵さま︶し起らしむる心にて、心を引て自境に趣かしむる 30

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触 受 想 仏教心理学    思   なり。︶︹以下の注は大蔵経の﹃二巻抄﹄︵小山憲栄師唯識大意発揮本︶と校合し、大きく相違する点のみ記す。    *111驚 *2‖以下なし︺        ユト   ﹁触とは、心心所をして境に触れしむるを性となし、想、愛、思等の所依たるを業となす。﹂︵触者令ニ     ヲシテ レ  ニ シ  ト  ボ     ノ   タルヲ ス  ト   心心所触’境為レ性、想愛思等所依 為レ業、︶︹*1目﹁触者﹂なし *211受想思等︺︵触の心所とは、心を    ボ   心︵所、縁︶か知るべきことに能く触れしむるなり。︶︹*11︵所、縁︶なし︺ ー﹁受とは、順違と倶非との境相を領納するを性となし、欲を起こすを業となす。よく合、離、非二の欲        トホハ    スルヲ   ト   トノ   を起こすが故に。また、心をして等しく歓感、捨の相を起こさしむるをいう。﹂︵受者領二納 順違倶非

   ヲスヲ  ヲクスカノヲニ ヨフムルヲヲシテクサノヲ

  境相一為レ性、起レ欲為レ業、能起二合離非二欲一故、亦云令三心 等起二歓感捨相一︶︹*1‖謂 *2目愛 *3           11以下の一〇文字なし︺︵受の心所とは、楽をも、苦をも、心の中の愁喜をも、又捨とていつれ︵苦、楽︶   にも非ざることをも、心に受取る心なり。︶︹*11︵苦、楽︶なし︺ 1﹁想とは、すなわち境において相を取るを性となし、種々の名言を施設するを業となす。いわく、自ら       ズエチ ヲ  ニ   メ ヲ   の境の分斉を安立する故に、まさによくしたがいて種々の名言を起こす。﹂︵想則於レ境取レ相為レ性、施ニ   スルヲ   ノ   ヲ       ル   スル ヨ ノ   ヲ ボ ニ  ニ ク テ ス   ノ   ヲ   設種々名言P為レ業、謂安二立自境分斉一故、方能随起二種々名言二︹*111謂*2U像*311要境分斉相    *4目﹁故﹂なし︺︵想の心所とは、殊に物の形を知り弁へて、其品々の名を説く心なり。︶︹*‖品︺   ﹁思とは、すなわち境において相を取るを性となし、善品等において心を役するを業となす。よく境の       ニ    ヲ   正因等の相を取るがために、自らの心を駆役して、よく善等を造るなり。﹂︵思則於レ境取レ相為レ性、於ニ     ニ  スルヲ ヲ      ボ ニぷヨク ルカ ノ     ノ ヲ      ンテ   ヲ   ク ル    ヲ   善品等一役レ心為レ業、為下能取中境正因等相P駆二役自心一能造二善等べ︶︹*111﹁則於境取相為性﹂は﹁謂令心 31

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     造作﹂ *211﹁為﹂なし *311﹁謂﹂あり *40令造善等︺︵思の心所とは、心を善にも悪にも無記に      も、作りなす心なり。︶     第二 別境の五種       フ  ト       ノ  ニ 欲    ﹁欲というは、所楽の境において希望するを性となし、勤依するを業となす。﹂︵言レ欲者、於二所楽境一希      スルヲ        ヲ            望 為レ性、勤依為レ業、︶︹*1ーコ言欲者﹂なし︺︵欲の心所とは、善をも悪をも無記をも、希望する心なり。︶      ︹*11無記の事︺        トパ     テ 勝解 1﹁勝解とは、決定せる境において、印持するを性となし、引転すべからざるを業となす。﹂︵勝解者、於ニ        ニ   スルヲ      ルヲ     ス      決定境一印持為レ性、不レ可二引転一為レ業、︶︹*11﹁勝解﹂なし︺︵勝解の心所とは、何事をもひしと思ひ定る      心なり。︶ 念    ﹁念とは、かつて習せる境において、心をして明らかに記せしめ、忘れざるを性となし、定が依たるを      業となす。いわく、しばしばかつて受けるところの憶を憶持して、しかも忘失せず、よく定を引くが        ノ ニ  シメテ ヲシテ   ナラ ルヲ レ       カ タルヲ     ク     シテ テ      ヲ  ヨモ        ク      故なり。﹂︵念者於二曾習境一令二心 明記一不レ忘為レ性、定依為レ業謂数憶二持曾所受憶一而不二忘失一能引レ定       ぷ            故︶︹*111﹁念者﹂なし *211境 *311﹁而﹂なし︺︵念の心所とは経て過ぎしことを心の内に明に記        ボヨ      して忘れぬ心なり。︶︹*1ほ心所と云は *211過ぎにし *3‖忘ざる︺ 三摩地1﹁三摩地とは、ここに等持といい、所観の境において心をして専注ならしめて散らざることを性となし、      智が依たるを業となす。いわく、得、失、倶非の境の中に定によりて心をして専注ならしめて散らず、       ぷ        ニ     ト       ノ ニ  シメテ ヲシテ   ナラ ルコトヲ ラ      この便によりて決定の智を生ずることあり。﹂︵三摩地者、此云二等持べ於二所観境一令二心 専注一不レ散為レ 32

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仏教心理学 慧 信     カ タルヲ       ル        ノ ノ ニ テ  ニ   ヲシテ       ラ     ノ ニ    ヨ ノ   スルコト   性、智依 為レ業、謂 得失倶非境中由レ定令二心 専注一不レ散、依二斯便一有二決定智生べ ︶︹*111﹁三摩地者此        ボユ         等持﹂なし *211﹁観﹂あり *311決択︺︵三摩地の心所とは、心を何事にても知らんと思ふ事に止め        ボヨ   て散乱せしめさる心なり、是をは亦は定の心所と名く。︶︹*111心所と云は *211とゴめて *311心   所とも︺ 1﹁慧というは、所観の境において棟択するを性となし、疑いを断つを業となす。いわく、得、失、倶非       ポベ  ト        ノ ニ ポ  スルヲ        ヲ   の境を観ずる中に、慧によりて推求して決定を得るが故なり。﹂三ロレ慧者、於二所観境一棟択為レ性、断疑       ルスル   ノヲ ニ テ ニ シテ   ヲ ニ   為レ業、謂観二得失倶非境一中、由レ慧推求得二決定一故、︶︹*1目﹁言慧者﹂なし *2‖簡択︺︵慧の心所とは、          万の知らんと思ふ事は、心を静めて得失を能く簡ひ弁へて、疑を除く心にて、﹁これすなわち智なり。﹂   ︵是即智也︶、無漏智は禅定より生すと﹁いうは、これなり。﹂︵云是也︶。︶︹*11心也︺             此十種︵遍行五種、別境五種︶は皆善なる時もあり、不善なる時もあり、無記なる時もあり、性は不       ボ     定なれとも、偏行は一切の心にあり、別境は三界の衆生に定て有り、故に不定の心所と名けず、︹*    111︵︶内はなし *2‖﹁定て﹂あり︺  第三 善の一一種   ﹁信というは、実と徳と能において、深く忍じ楽じ欲して心を浄ならしむるを性となし、不信を対治し        ニ  ク    シテ   ナルヲ         シテ   ヲ  フ  ヲ   て善をねがうを業となす。﹂︵言レ信者、於二実徳能一深忍楽欲心浄 為レ性、対二治不信一楽レ善為レ業︶︹*11﹁言   信者﹂なし︺︵信の心所と云は、世の常に信を起すと﹁いう、これなり。﹂︵云是也︶、誠の法を見聞して   貴く目出度き事と深く忍ひ願ひを澄み浄き心なり。︶ 33

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精進 漸 Jt鬼 無倉 ー﹁精進というは、善悪の品における修断の事の中にて勇桿を性となし、解怠を対冶し、善を満ずるを業        ニ    ノ ニ  ヲ       スルヲ     となす。﹂︵言一精進一者、於二善悪品一修断事中勇桿為レ性、対二治  満ワ善為レ業︶︹*1n﹁言精進者﹂なし *   2目﹁解怠﹂あり︺︵精進の心所と云は、善を修するに勇み進みて精しき心なり。︶︹*11﹁進みて﹂なし︺ ー﹁漸というは、自と法の力によりて賢と善を崇重するを性となし、無漸を対治して悪行を止息するを業   となす。自と法の力とは、自とはいわく、自身なり、法はいわく、教法なり。いわば、我がかくのこ       ユ      ニ  スルヲ   ときの身とかくのごときの法を解し、あえてもろもろの悪を作さんや。﹂︵言レ漸者、依二自法力一崇二重賢

  ヲ  

シテヲ スルヲヲ 

    ハク 

ハクナリハカキノ   

テン   善一為レ性、対二治無漸一止二息 悪行一為レ業、自法力者、自謂自身、法謂教法、言我如レ是身解二如レ是法一敢作二諸        ユ      ボ    悪一耶、︶︹*111﹁言漸者﹂なし *211以下の二六文字なし︺︵意の心所と云は、自にも恥ぢ、自ら法に恥   て、諸の罪を作らざる心なり。︶︹*1‖漸 *211法にも恥じて︺ ー﹁塊というは、世間の力によりて暴悪を軽拒するを性となし、無塊を対治して悪行を止息するを業とな   す。世人、識呵するを世間力と名づけ、悪ある者を軽すれども親しまず、悪法の業を拒みて作さざる   なり・﹂︵言塊者依二世間九藪拒..嚢為性対二泡.無毘止二鳥..悪ふ為乗世人謀..多世間力聾    ノ ヲ   モ       ノ ヲ   有悪者一而不レ親、拒二悪法業一而不レ作也、︶︹*1n﹁言塊者﹂なし *211以下の二一二文字なし︺︵塊の心所と          云は世間に恥ぢ諸の悪を造らす、他の思はくを恥るなり。︶︹*11つみ︺ ー﹁無倉というは、有と有具において著なきを性となし、倉著を対治して善を作すを業となす。有と有具        ユ   というは、上の一つの有字は、すなわち有の果なり。有具とは、すなわち三有の因なり。﹂︵言二無倉一者、   於肴商具熱著為性対二品貧暮一傷善為莱計二有々具暑、与.有︷晶有之鳥有具.即三有之邸三f 34

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仏教心理学 無膜 無痴 軽安 不放逸 ‖﹁言無貧﹂なし *211有 *311以下の二一文字なし︺︵無貧の心所と云は、万の事を貧ることのなき心 なり。︶ ﹁無瞑というは、苦と苦具において志なきを性となし、瞑患を対治して善を作すを業となす。苦と苦具            ニ  キヲ ヨ というは、苦とはいわく、三苦なり。苦具とは苦の因なり。﹂︵言二無眼一者、於二苦々具一無レ志為レ性、対二       ぱ        ハ ク   ナリ         ナリ 治瞑惑一作レ善為レ業、言二苦々具一者、苦謂三苦、苦具者苦因、︶︹*111﹁言瞑者﹂なし *2目苦 *311悉︺         ︵無瞑の心所と云は、心にかなはぬこと我に背く人ありとも少しも怒ることなき慈心なり。︶︹*11﹁少し も﹂なし︺        ヨ ﹁無痴は、もろもろの事と理において明解するを性となし、愚痴を対治し善を作すを業となす。﹂︵無痴    ノ   ニ    スルヲ        者、於二諸事理一明解 為レ性、対二治愚痴一作レ善為レ業、︶︹*1‖﹁無痴者﹂なし *211理事︺︵無痴の心所と 云は、万の事に明にして、物の理に愚なる事なき心なり。︶︹*11﹁所﹂なし︺ ﹁軽安というは、鹿重を遠離して身心を調暢し、堪任するを性となし、昏沈を対治して、転依を業とな       ヲ      ス   ヲ す。重きを離れるを軽と名づけ、身心を調暢するを安と名つく。﹂︵言二軽安一者、遠二離鹿重調二暢身心一堪 スルヲ      ヲ   ヲ      ボ   ヲ         スル   ヲ 任為レ性、対二治昏沈一転依為レ業、離レ重名レ軽、調二暢身心一名レ安、︶︹*1‖﹁言軽安者﹂なし *2‖以下の        ユ       一〇文字なし︺︵軽安の心所と云は、身も心も時安く覚えて心うれしきなり、此心所は常のには起らず、 定に入りたる時に起るなり。︶︹*1‖﹁時﹂なし *211常の時は︺ ﹁不放逸というは、精進と三根の所断と修において防し修するを性となし、放逸を対治して一切の世、       ユ       ニ    スルヲ         シテ   ヲ ポ   スルヲ 出世の善事を成備するを業となす。﹂︵言二不放逸一者、精進三根於二所断修一防修 為レ性、対二治放逸一成二備 35

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行捨 不害 貧        ヨ    ヲ   一切世出世 善事一為レ業、︶︹*111﹁言﹂なし *211成満 *311﹁間﹂あり︺︵不放逸の心所と云は、罪を           防ぎ善を修する心也、世の常に恣に罪を作るをは放逸の人と申候、是はかれと相違して殊に罪をは造   らじと思ふ心なり。︶︹*11そ︺   ﹁行捨というは、精進三昧にして、心をして平等ならしめ、正直にして無功用に住するを性となし、樟       ぷ       ヲシテ   ナラ   ニシテ      ナルヲ   挙を対治して静かに住するを業となす。﹂︵言二行捨一者、精進三昧令一一心平等一正直無功用住為レ性、対ニ   シテ  ヲ   ナルヲ   治捧挙一静住 為レ業、︶︹*11﹁言行捨﹂なし︺︵行捨の心所と云は、心を平等正直ならしむる心なり。︶ −﹁不害というは、もろもろの有情において損悩をなさず、瞑なきを性となし、よく害を対治して、悲悪        ノ   ニ    サ    ヲ    ヲ       ク    シテ ヲ   ナルヲ   なるを業となす。﹂︵言二不害一者、於二諸有情一不レ為二損悩一無膜為レ性、能対二治害一悲悪 為レ業、︶︹*目﹁言不   害者﹂なし︺︵不害の心所と申は、物を懲みて損し悩さぬ心なり、慈悲とは無瞑と不害とを申なり、無   瞑は慈なり、不害は悲なり。︶       ポ           善の十一とは是也、誰もみな此善心の起る時は此十種必す皆起るなり、禅定を得たる人は軽安も起    るなり、是の故に十一皆起るなり、讐へは心王の忠臣孝子の如し、︹*111﹁種﹂なし *2‖﹁禅﹂のみ︺  第四 煩悩の六種 ー﹁倉というは、有と有具において染著するを性となし、よく無倉をへだてて苦を生ずるを業となす。苦        ぶエ       スルヲ   を生ずとは、いわゆる愛の力によりて緬を取りて生ずるが故なり。﹂︵言レ倉者、於二有々具一染著為レ性、   ク テ   ヲ  スルヲ ヲ     ゑヨ     ル テ   ニ  テ  ヲ スル ニ   能障一一無倉一生レ苦為レ業、生苦者、謂由二愛力一取レ緬生故、︶︹*111﹁言倉者﹂なし *2目有 *3‖﹁生苦者﹂   なし︺︵倉と云は、万の物を倉ぽり、有るが上にもほしく拙き心なり、貧の有力は威を以て取り、無力 36

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仏教心理学 瞑 慢 無明 疑   は他に従て求む。︶ ー﹁瞑とは、苦と苦具において憎憲するを性となし、よく無瞑を障︵さ︶えて不安と悪行の所依なるを業と       ボ       スルヲ   なす。不安とは、心に憎惑を懐きて多く苦に住するが故に、ゆえに不安なり。﹂︵瞑者、於二苦々具一憎悉       ク ヘテ   ヲ        ノ   ナルヲ      ニ テ    ヲ  ク     ニ    ニ   ナリ   為レ性、能障二無瞑一不レ安悪行所依 為レ業、不安者心懐二憎患一多住レ苦故、所以不安、︶︹*111﹁言瞑者﹂なし           *2U苦︺︵瞑は我に背くことあれは善事にても必す怒る心なり。︶︹*11瞑る︺   ﹁慢とは、己をたのみ、他に高挙するを性となし、よく不慢を障えて苦を生ずるを業となす。生苦とは   いわく、もし慢あれば、徳、有徳において心は謙下ならず。これによりて死生輪転して窮まりなく、        ユ テヲ ニ スルヲ   クヘテ ヲスルヲ   ぱ   シレハ   もろもろの苦を受くるが故なり。﹂︵慢者侍レ己於レ他高挙為レ性、能障二不慢一生レ苦為レ業、生苦者謂若有レ        ニ      テ ニボヨ   ク リルカ ヲ ニ   慢於二徳有徳一心不二謙下ハ由レ此死生輪転無レ窮受二諸苦一故、︶︹*10﹁慢者﹂なし *2目﹁生苦者﹂なし *3          日生死︺︵慢と云は我身を侍んて人を慢り少も謙下なき心なり。︶︹*11﹁侍んて﹂は﹁懸て﹂︺ ー﹁無明とは、もろもろの事と理において迷暗なるを性となし、よく無痴を障えて、一切の雑染の所依な   るを業となす。雑染の所依とは、無明により痴、邪見、倉の煩悩を起こすなり。煩悩にしたがいて業        ノ     ナルヲ    クヘテ ヲ    ノ ナルヲ   はよく後生を招く。雑染の法なるが故なり。﹂︵無明者於二諸事理一迷暗 為レ性、能障二無痴二切雑染所依       ヨ  ト る   ス   ノ ヲテ ニ ク  ヲ ノナルカニ   為レ業、雑染所依者、由二無明一起二痴邪見倉等煩悩一随二煩悩一業能招二後生︹雑染法 故、︶︹*111﹁無明者﹂なし    *211理事 *311﹁雑染所依者﹂なし *411﹁謂﹂あり︺︵無明をは又は痴と名く、万の事物の理に闇   き心なり。︶   ﹁疑とは、もろもろの諦と理において猶予するを性となし、よく不疑の善品を障えるを業となす。善品 37

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      ノ   ニ   スルヲ       ク フルヲ   ノ      を障えるとは、猶予をもっての故に善は生ぜざるなり。﹂︵疑者於二諸諦理一猶予 為レ性、能障二不疑善品一        ニ      為レ業、障二善品一者以二猶予一故善不生也、︶︹*111﹁疑者﹂なし *2U以下は﹁謂猶予者善不生故﹂︺︵疑と云             は何事にても其理を思ひ定むること能はずして兎角に物を疑ふの心なり。︶︹*n﹁兎角に物を﹂なし︺ 不正見ー﹁悪見とは、もろもろの諦と理において、顛倒して推度する染の慧を性となし、よく善見を障えて苦を      招くを業となす。けだし悪見の者は多く苦を受くるが故に。この見に五つあり。いわく、身、辺、邪、       ユ   ノ ニ   スル ヲ   クテ ヲクヲヲ        ニ      見取、戒禁取なり。﹂︵悪見者、於二諸諦理一顛倒推度染慧為レ性、能障二善見一招レ苦為レ業、蓋悪見者多受苦故、       ニ       ル      此見有レ五謂身、辺邪、見取、戒禁取也、︶︹*1‖﹁悪見者﹂なし *2n以下は﹃成唯識論﹄の五見の説明を             省略して、述語のみを挙げている︺︵不正見僻︵ひが︶事つよく思ひ定て実の道理を知らさる心なり、論に      は悪見とあり。︶︹*‖﹁は﹂あり︺       煩悩の六と申は是なり。     第五 随煩悩の二〇種 葱 ー﹁盆というは、現前に対して、境を饒益をせざるにより憤発するを性となし、よく不盆を障えて伎を執   るを業となす。杖を執るとは、杖はいわく、器佼なり。葱恨を懐く者は、多く暴悪身なる表業を発す       

テシテニルニ ヲスルヲ 

クフルヲ  ヲ   るが故に、瞑の一分の摂なり。﹂︵言レ葱者、依下対二現前一不レ饒中益境上憤発為レ性、能障二不盆一執伎為レ業、執      ハク   ヨ ヲハク   ノ ヲニ る ノナリ   杖者、伎謂器伎、懐二念恨一者多発二暴悪身表業一故瞑一分摂、︶︹*111﹁言分心者﹂なし *211﹁執杖者伎謂器杖﹂            *311謂懐怠者 *411此即瞑悉一分為体︺︵分心と云は、腹を立て杖を取て人を打んと思程に怒る心な   り。︶︹*11唄る︺ 38

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仏教心理学 恨 悩 覆 証 1﹁恨は、分心を先となすによりて悪を懐きて捨せず、うらみを結ぶを性となし、よく不恨を障える熱悩を        テ   ヲ   業となす。熱悩とは、恨みを結ぶ者は含忍することあたわず、つねに熱悩するが故なり。﹂︵恨者由二葱   ニ トテ ヲ    ボ ヲ    クフル  ヲボヨヲ     ト   ノハ    スルコトニ  スルカニ   為ジ先懐レ悪不レ捨、結冤為レ性、能障二不恨’熱悩為レ業、熱悩者結恨者不レ能二含忍一恒熱悩 故、︶︹*111﹁恨   者﹂なし *2‖怨 *311﹁熱悩者﹂なし︺︵恨と云は人を恨むる心なり、恨みを結ぶ人は残念口惜しと        て押さへ忍ふこと能はずして心の内常に悩むなり。︶︹*11推へ︺   ﹁悩は、分心と恨を先となし、暴悪を追触し、恨戻を性となし、よく不悩を障える蛆整を業となす。いわ   く、往の悪を追い、現の違縁に触れて必ず恨戻にしたがいて、多く書、暴、兇、鄙、鹿の言を発し、

       ユ ヲト ボ  ヲ 

クフル  ヲ   他を蛆蟄するが故に、これまた瞑の分なり。﹂︵悩者葱恨為レ先追触暴悪一恨戻為レ性、能障二不悩一蛆整為レ業、   ク  ヲレテノ ニ ヨテ ニク    ヲ  ヲニぷ  ノ   謂追二往悪一触二現違縁一必便二恨戻一多発二鴛暴兇鄙鹿言一蛆二蟹他一故、此亦瞑分也、︶︹*1目﹁脳者﹂なし *2目   暴熱 *3‖心 *411此亦瞑志↓分為体︺︵悩と云は、腹を立て人を恨むに依て僻み戻り、心の中常に安   からず、物を言ふに其言書くして険しく鄙しく、暴らく腹ぐろく毒々しき心なり。︶ 1﹁覆とは自作の罪において利誉を失うことを恐れて隠蔵することを性となし、よく不覆を障える悔悩を          業となす。罪を覆すれば、すなわち後に必ず悔悩す。安穏にあらざるが故に、倉痴の二の分なり。﹂︵覆       ノ ニ      ヲ        ク フル   ヲ    ヲ       ホ   ヲ   ニ ス   ス       ニボヨ ノ   ナリ   者於二自作罪一恐レ失二利誉一隠蔵為レ性、能障二不覆一悔悩為レ業、覆レ罪則後必悔悩、不二安穏一故倉痴二分、︶︹*1   11﹁覆者﹂なし *2目謂覆罪者 *311﹁貧痴二分﹂なし︺︵覆と云は、名利を失はんことを恐れて罪を作   るを覆ひ蔵くす心なり、罪を隠す人は必す後に悔み悲むことあり。︶   ﹁証というは、利誉を獲んがためにいつわりて有徳を現す誰詐を性となし、よく不証を障える邪命を業 39

(33)

詔 僑   となす。矯りて現す等と言うは、いわく、矯証の者は心に異謀を懐きて多く不実なり、邪命の事なる

       ユ ニンカヲテスヲヲ クフルヲヲ   

  が故に。これ倉痴の分なり。﹂︵言レ証者為レ獲二利誉一矯現二有徳一誰詐為レ性、能障二不証一邪命為レ業、言二矯現等一    ク      ニ テ    ヲ  ク   ヨ ナリ   ノ ナル ニ   るレ   者謂矯証者心懐二異謀一多不 実邪命事故、此倉痴分也、︶︹*11ーコ言証者﹂なし *211﹁言矯現等者﹂なし    *311﹁現﹂あり *411此即倉痴一分為体︺︵証と云は、名利を得んか為に心に異なる謀を回らして矯   ︵かたま︶しく徳ありと現はす偽り心なり、世の中に証惑者と云は此心の増せる人なり。︶︹*U顕︺ ー﹁詔とはいわく、他を岡する故に、矯りて異儀を設ける詔曲を性となし、よく不証を障える教誰を業と   なす。詔曲の者は他を岡冒するが故に、曲げて時のよろしきにしたがい、矯りて方便を設けて、もっ       ゑ ク   て他の意を取る。あるいは己の失を蔵して師友の正しき教悔に任せざる故に、倉痴の分なり。﹂︵詔者謂   ミスルヲニテ    ヨヲ   クフル るヲ  ヲ    らノハノ  スルカヲ  ニ ケテテ ノニ テテ  ヲ フテ   岡レ他故矯設二異儀一詔曲為レ性能障二不証一教謁為レ業、謡曲者為レ岡二冒 他一故、曲順二時宜一矯設二方便一以取ニ   ノヲ ハシテ ヲ     ノキ  ニ ニ    ノ   他意一或蔵二己失一不レ任二師友正教誇一故亦倉痴分也、︶︹*111﹁詔者﹂なし *211為 *311険曲 *411不詔            *511﹁謂﹂あり *611﹁故﹂なし *711為 *811此即倉痴一分為体︺︵詔と云は、人を臓まし迷され   為に時に随ひ事に触れて好しく方便を回らし人の心を取り、或は我過を蔵す心なり、世の中に詔曲の   者と云は此心増せる人なり。︶︹*11迷さんが︺ 1﹁僑とは自らの盛んなることに深く染著を生じて酔傲なるを性となし、よく不僑を障える染が依たるを       ト      ノ   ニ  ク シテ   ヲ    ヲ       ク フル   業となす。これ倉の分なり。不僑は、すなわち無倉なり。﹂︵橋者於二自盛事一深生二染著一酔傲為レ性、能障ニ       ヲ      レ ノ   不橋一染依為レ業、此倉分也、不橋者即無貧也、︶︹*111﹁僑者﹂なし *211此亦貧愛一分為体︺︵僑と云は、   我身をいみじく盛なる者に思ふて栄へおごり高ぶる心なり。︶︹*11﹁高ぶる﹂なし︺ 40

(34)

仏教心理学 宝 嫉 樫 無漸   ﹁害とは、もろもろの有情において心に慈悲なく、損悩するを性となし、よく不害を障える逼悩を業と        ユ ノニニ     なす。逼悩の義というは、害ある者は他を逼悩する故に、瞑の一分の摂なり。﹂︵害者於二諸有情一心無二慈      ヲ    クフル    ヲ    ヨ    ト る   ハ  スルヲ ニ  ノ  ナリ   悲一損悩為レ性、能障二不害一逼悩為レ業、言二逼悩之義一有レ害者逼二悩他一故瞑一分摂、︶︹*1‖﹁害者﹂なし   *2‖悲患 *3‖﹁言逼悩之義﹂なし *411﹁謂﹂あり *5‖此亦瞑惑一分為体︺︵害と云は人を哀れむ       心なり、情なき心なり、世の中に慈悲性もなき者と云は此心の増せる人なり。︶︹*11﹁心なり﹂は﹁心な   くて﹂︺ −﹁嫉というは、自らの名利に殉じて他の栄うるに耐えず、妬忌するを性となし、よく不嫉を障える憂戚   を業となす。憂戚の義というは、嫉の者は他の栄うるを聞見して深く憂戚を懐きて安穏ならざるが故        シテ ノ   ニ    ヘ   ニ   スルヲ      ク フル   ヲ   ヲ            ノ   に、また膜の分を体となす。﹂︵言三嫉者殉二自名刮不レ耐二他栄一妬忌 為レ性、能障二不嫉一憂戚為レ業、言二憂戚      ぷヨノハ  シテノヲ クテ  ヲ ルカ   ニ ボるノヲ   義一者、嫉者聞ゴ見他栄一深懐二憂戚一不二安穏一故、亦瞑分為レ体、︶︹*1目﹁言嫉者﹂なし *211﹁言憂戚義﹂   なし *3‖謂嫉妬者 *411此亦瞑惑一分為体︺︵嫉と云は我身の名利を求むるが故に人の栄へたるを   見聞して深くねたましき事に思ふて喜ざる心なり。︶   ﹁樫というは、法と財に耽著して慧捨するあたわず。我怯を性となし、よく不樫を障うる鄙畜を業とな       ぱユ         シテ   ニ        スル  ポヨヲ      ク         ヲ      る ノ   す。また、倉の分なり。﹂︵言レ樫者、耽二著法財一不レ能二慧捨一我怯為レ性、能障二不樫一鄙畜為レ業、亦貧分也、︶   ︹*111﹁言樫者﹂なし *211財法 *311悟の俗字 *4目此即倉愛一分為体︺︵樫と云は、財宝に耽著し           て人に施す心なく弥々貯へんとのみ思ふ心なり。︶︹*U弥た︺ ー﹁無漸とは、自と法を顧みず、賢と善を軽拒するを性となし、よく漸を障えて悪行を生長するを業とな 41

(35)

無塊 不信 解怠      ぱセ       スルヲ   ヲ       ク テ    ヲ    スルヲ   ヲ   す。﹂︵無漸者、不レ顧二自法一軽二拒 賢善一為レ性、能障二於漸一生二長 悪行一為レ業、︶︹*111﹁無漸者﹂なし *       ホ   211磯︺︵無漸と云は、身にも法にも恥ぢずして善根を軽しめ諸の罪を作る心なり。︶︹*11軽くして︺ ー﹁無塊とは、世間を顧みず、暴悪を崇重するを性となし、よく塊を障擬して悪行を生長するを業となす。   いわく、世間に顧みられるところなき者は、暴悪を崇重して過非を恥じず。よく塊を障えて悪行を生        ト       ヲ    ク  シテヲ         ク   長するが故なり。﹂︵無塊者、不レ顧二世間一崇二重暴悪一為レ性、能障二磯塊一生二長悪行一為レ業、謂於二世間↓無レ所レ    ハ       チ  ヲ  クヘテ  ヲ    ヨ   顧者崇二重暴悪一不レ恥二過非一能障二於塊一生二長悪行一故、︶︹*111﹁無塊者﹂なし *211﹁能﹂なし *311諸   悪行︺︵無塊と云は、世間の見聞にも恥ちすして諸の罪を崇むる心なり無恥の人と申は此無漸無塊の増   せる人なり。︶ ー﹁不信というは、実と徳においてよく楽欲を忍びず、心の檬を性となし、よく浄心を障えて堕依するを       ぷ      ニ  ク    ヒ    ヲ   業となす。堕依というは、不信の者は多く解怠するが故なり。﹂︵言二不信一者、於二実徳一能不レ忍二楽欲一心   ヲ       ク テ    ヲ    スル       ヨ          る     ハ ク   スル ニ   楊為レ性、能障二浄心一堕依為レ業、言二堕依一者、不信之者多解怠故、︶︹*111﹁言不信者﹂なし *2‖浄信       ユ          *311﹁言堕依者﹂なし *411謂不信者︺︵不信と云は貴き目出度きことを見聞しても忍ひ願ふ心なくし    ボヨ   て稜れる心なり、か﹀る人は多く解怠なり。︶︹*1‖すとも *211事 *311稜濁なる︺ 1﹁解怠というは、善悪の品において修断事の中に瀬堕なるを性となし、よく精進を障える増染を業とな       ユ         ニ   ノニ  ヲ    クフル   す。解怠をもちいる者は、染を滋長する故なり。﹂︵言二解怠一者、於二善悪品一修断事中獺堕為レ性、能障二精

  ヲヲ   ユル ハスルニ

  進−増染為レ業、以二解怠一者滋二長染一故、︶︹*111﹁言解怠者﹂なし *211謂︺︵解怠は諸の善事の中に解   り獺き心也、か㌔る人は又多く不信なり。︶ 42

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