共同世界の存立と行為図式
著者名(日)
小林 修一
雑誌名
東洋大学社会学部紀要
巻
40
号
1
ページ
5-23
発行年
2002-12
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002272/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja共同世界の存立と行為図式
The existence of common world and act schema
小林 修一
Shuuichi KOBAYASHI
はじめに 本論は人間の社会的存在性格を成り立たせている機制を探る試みであり、従来の社会学において 正面きって扱われることが稀有な問題領域である。それは、いわば専門外の領域として、あるいは 社会学的考究の前提的議論として自明視されるか、無視されるかされてきた問題領域にほかならな い。しかしながら、今日、社会学もしくは歴史学において、学者の理念型的構築物として社会や歴 史を問うことに代わって、生活者自身に抱かれた社会や歴史の観念、表象に追り、そこから人びと にとっての自前の社会や歴史を通して、社会や歴史が生活現場においていかに「構築」されてきたか が問われるようになった。いわば、具体的な人間に内在することを通じて、人びとによって「生きら れた」社会や歴史が問われようとしているのである。 だが、その企ての多くが依拠する現象学的アプローチでは、あくまで「意識」化された対象に問題 を限定することによって、社会の「構造」的側面、すなわち意識的志向性の背後に立ちはだかる意識 外的(前意識的、無意識的)要因は排除されてしまう。いわば、社会学における「マクローミクロ」 領域の連接の問題が射程外に追いやられてしまうことになる。この占くて新しい「マクローミクロ」 問題は現代の社会学理論の包括性を評価する際のいわば試金石ともなっており、P.ブルデューやギ デンズらの理論化の課題として取り上げられている点からも明らかである。本論はこの問題に向か うにあたって、それを人間によって抱かれた観念や表象のレベルを介しつつ、しかしながら同時に その観念や表象の社会的起源を人間存在に内在しつつ明らかにすることを通して、したがって、観 念や表象によって志向された世界だけでなく、観念や表象を、それらの背後から喚起し、生成する 意識外的「構造」をも包摂しうる理論的枠組みのための試論にほかならない。 5東洋大学社会学部紀要第40−1号(2002年度)
1.共同世界の存立
環界と世界 ヤーコプ・フォン・ユクスキュルによれば、生物は固有の世界との関わりぬきには生存することは できない。彼はその延長線」二に人間とその世界に関する考察を進めたわけではないが、その展開は ハイデガーの「世界内存在」としての人間存在の検討に引き継がれたと考えられている(木田 元, 2000,49頁)(1)がゆえに、人間と世界の関わりを検討するに際して取り上げておきたい。それは生 物としての人間存在の独自性を反照することになる。 とりあえず、ユクスキュルの名を有名にしたダニの生態にふれておこう。ダニの知覚は臭覚、触 覚、温覚の3つに過ぎない。しかも、臭覚は哺乳類の放つ酪酸だけに反応し、触覚は動物の皮膚を、 温覚は動物の体温を探索するためにだけ機能する。そして、これらの知覚によって構成されるダニ の内界(lnnerwelt)が、ダニにとっての世界=環界(Umwelt)を決定することになる。両世界は隙 間なくぴったりと噛み合っており、いわば「機能的円環」として閉じている。円環を閉ざすことが ダニにとっての適応であり、その生命活動の目的でもある。ユクスキュルによれば、環界(すなわ ち哺乳動物)との「出会い」を求めて、ひたすら18年にもわたる孤独な樹上生活を送った野生のダ ニもいたという。 ダニは3つの知覚標識に基いて自らの環境世界を構築する。人間の世界と比べるなら、はるかに みすぼらしい世界ではあるが、ダニにとってはそのみすぼらしさ、すなわち知覚標識の貧困さこそ が却って世界の確実さを保証することになる。ダニにとっては、世界の豊かさよりは確かさのほう がはるかに価値があるのだ(J.von Uexkun,1970,訳22頁)。 ダニの世界の確実さを保証するのは、内界(つまりダニの身体)と環界(環境世界)との自然必 然的な癒着であり、生体はこの円環構造のうちに直接的、無媒介的に組み込まれ、一体化している ことになる。 こうしたダニの生態と比べると、人間は環境による決定論的で必然的な絆を断ち切っている。そ うすることにおいて、人間は環境の制約を乗り越え、克服すべく独自の「文化」を築いてきたとい えるが、この環境の制約から人間を開放してきた「文化」が次には第二の自然、第二の環境として 人間のまえに立ちはだかることになった。今や人間は第二の自然と化した世界(象徴的世界)に組 み込まれ、拘束されることを通してしか、第一の自然のみならず、自らの自然(=身体)にすらア (1)木田によれば「ハイデガーの(世界内存在)という概念の形成に、ユクスキュルやシェーラーのこうした着 想が大きな影響を与えたにちがいないこと」の例証として、1925−26年冬学期の講義のくだりが提示されてい る。「われわれがこうして、現存在を世界内存在という構成によって規定すると、そうした現存在解釈の根底に はある一般的な生物学的構造が据えられている、と簡単に言われてしまいそうである。今一般的な生物学的構造 といったのは、ある意味では世界内存在というこの性格は動物や植物にも帰属するし、それらも、それが存在す るかぎりおのれの世界を、つまり広い狭いの差はあるにしても、それぞれ特定の環境世界を有しているからであ る」(木田 元,2000,49−50頁)。クセスできないようになっている。(ユクスキュルのこうした〈機能的円環説〉を前提として、人間 固有の象徴的世界と「構想力」の媒介に基づく<状況円環説〉を展開したのはヤーコプの子、ト ゥーレ・フォン・ユクスキュルにほかならなかったのだが)。 そして、ユクスキュルの展開が人間存在のあり方に対して照明を当てるというとき、問われるべ きは、世界=象徴的世界に対する人間のこの両義的な関わりにほかならない。 世界への関与 では、この人間の世界への関与に際しての「両義性」とはなにか。この両義性を生み出すような 人間的「関与」の特徴は3つの点からなる。 第1の、最も決定的と考えられる特質は人間と世界との間の「距離」である。人間以外の生物と 環界との関係は、内界と環界との「機能的円環」によって閉ざされていた。生物にとっての「生へ の関与」とは、いわばこの円環を閉ざし、完成させる活動にほかならない。それは生物と生態系と の不可避の連続性が示している通りである。これに対して,人間の世界への関与もまた、関係付け としての広義の「行為」(身体的活動から概念的思考活動にいたるまで)の基底に生への衝動ないし 欲求が潜んでいると考えられる以上は、ひとつの「生への関与」に他ならない。だが、この「内界 一行為一世界」からなる生の連関のトリアーデは他の生物のように連続的なものではない。それら は空隙によっていわば分断され,断続した環をなしている。ゲーレンはこの空隙を「間隙」(Hiatus) と称し、人間は自らの衝動や欲求を実現するための行為に移行するに際して、この「間隙」のおか げでその衝動や欲求を制御しつつ、行為への決断を自覚的に採用ないし棄却する判断をなしうるこ とになる(A. Gehlen,1961,訳58頁)。 生物では環界の事物や現象が内界にとって刺激として与えられる場合、それは何らかの「生の関 与」に関わるシグナルとして作用し、即座に適応活動を喚起する。こうした刺激一反応の自動的で 連続的な結合が生物と環界との関わりを基本的に規定しているのである。 他方、人間では反応を引き出す衝動や欲求はそのまま反応活動=行為に結びつくとは限らない。 ゲーレンのいう「行為への依存」とは、衝動の実現や欲求充足をめざした行為に移行するその瞬間 に当の衝動や欲求を自覚しつつ、それを行為に結びつけるか否かを判断する、そうした能力を指し ている。この衝動と行為との間の「間隙」のゆえに、人間は自らの衝動を自らの内に感得し、しか も意志的に制御することが可能なのである。 このように、人間にとって「生への関与」とは、意識的な作用として自覚されつつ、しかし、そ れを引き起こす衝動や欲求のありかについては、それ自体を意識の対象にすることは通常はほとん どありえないという事情を孕んでいる。 ところで、意識の作用と,意識の対象との関連については、これは現象学の問題設定と重なり合 う。この点で、ヴァイッゼッカーの示唆を受けつつ、この関連をより深層の「生への関f到のレベ ルに結び付けようとする試みが木村敏によってなされている。彼は意識の志向対象としてのノエマ 7
東洋大学社会学部紀要第40−1号(2002年度) と、ノエマ的対象を構成する志向性としてのノエシスといった現象学的概念を意識作用の基層であ る生命活動の位相へと拡張すべきことを提言している。 「……われわれが『ノエシス的』とか『ノエシス面』とかの言葉を用いる場合には、われわれは それによって、生命をもつ有機体である人間が、その生命の根拠に根差した活動として世界に向か って働いている動的な志向性を言い表している」(木村 敏,1998,42頁)。 木村によれば、合奏音楽の際に、個々の演奏者が各自のパートを演奏しつつ、なお合奏の全体と のあいだの微妙な「間」を自らの演奏に引き込むことで、合奏全体があたかも自らのノエシス的行 為の産物であるかのように感得してしまう事例が挙げられている。この演奏によって生み出された ノエマ的音楽と、演奏するノエシス的行為との「間」によって成り立つ志向性は、明らかに単なる 意識的局面には限定されない。それはまさしく「生の関与」としての生命の根拠に支えられた志向性 というほかない。「その実体は、r世界とであう』というノエシス的行為そのもの」(同,39頁)とい われるゆえんである。その「間」ないし「間隙」は人間的な生命活動、すなわち人間的衝動=欲求の うちに孕まれたものである。 いずれにせよ、衝動や欲求といった「生への関与」に孕まれた「間隙」のゆえに、人間は自らの衝動 や欲求を自覚し、制御する術を身につけることができる。だからこそ、人間の場合には、欲求を 「もつ」とか「抱く」といった言い方が成り立つのに対して、犬の場合にはあてはまらない。というの も、犬は、その場合、端的に欲求「である」からにほかならない。 第2に、人間と世界のあいだの「間隙」は隔てられつつ、しかしながら、同時につなぎとめられな ければならない。というのも、両者を結びつける「生への関与」が成立しなければ、生存それ自体が 不可能だからである。したがって、「間隙」を保証しつつ、なお、人間と世界とを媒介するような装 置が必要とされる。ちなみに、われわれが自らの衝動や欲求を「覚える」際、どこまで明確なもので あるかは別として、衝動や欲求を実現した結果ないし目的についての表象や、その表象をめざす行 為への予感を内的に感得することができる。この情動に満ちた内的表象=イメージは、そうした媒 体の例となる。その際、イメージは欲求(=シニフィエ)を指示するシニフィアンとして、それゆ え欲求の象徴=シンボルとして機能していることになる。木村の言い方を借りるなら、「ノエマ的な 表象を媒介にして、われわれは外部の世界と出会っている」(同,43頁)ことになる。 こうして、この媒介を担う媒体こそ、広義における象徴(象徴的身体から概念的記号、電子的イ コンまでを含む)にほかならない。しかも、これは同時に人間にとっての世界=象徴的世界として 「常に、すでに」われわれを取り囲み、状況としてわれわれを組み込んでいるのである。人間はこう した象徴的世界に組み込まれつつ、その象徴の意味や効果を経験的に体得しつつ、独自の世界内存 在を営んでいる。 そして、第3に、人間と世界とのあいだの「間隙」とこれを媒介する象徴的媒体の可塑性から帰結 するのが「世界開放性」(M.シェーラー)である。 生物と環界とは閉ざされた機能的円環によって結び付けられていた。これに対して、人間と世界 の関係は「間隙」によって隔離されつつ、しかし象徴的媒体によって媒介されていた。しかも、その
結びつきは決定論的かつ必然的なものではなく、恣意的かつ可塑的なものである。その限りで、象 徴的世界は世界開放的といえるが、すでにふれたように、象徴的世界固有の仕方で、人間はそのう ちに組み込まれ、拘束されることになる。 世界内存在と他者 ところで、人間にとってのこうした象徴的世界のあり方に目を向けるなら、人間は象徴的世界へ の「関与」の仕方を先験的に体得しているわけではない。つまり、象徴的世界への関与の仕方それ 自体が人間の場合後天的に習得されなければならないのである。言うまでもなく、象徴と人間とを 媒介するのも、また人間である。しかも、その象徴群は「文化」とも称され、社会や時代、地域によ ってさまざまに異なっている。そうした象徴群の経験的習得を実現するためには「他者」の媒介が不 可欠となる。いわば、象徴的世界との関わり、すなわち、人間的な「生への関与」にとって、他者と の関わり、ないし「共同世界」の存在こそが前提とされる。 この点で、ハイデガーの「世界一内一存在」概念の展開を再検討する必要がある。というのも、ハ イデガーによれば、世界において人間=現存在にとって最も身近に出会われる存在とは、事物的存 在=存在者であり、そうした世界内での存在者のあり方を、ハイデガーは「道具的存在」と規定して いるからである。事物がそのような道具性ないし用在性(Zuhandenheit)としてたち現れるのは、言 うまでもなく、人間の関心ないし欲求との関わりにおいて、その事物が意義付けられるからである。 この点にハイデガーの配慮的関わりは、木村の肉付けられた「動的志向性」を先取りしていること になる。ハイデガーはそうした人間的関心を「配慮」(Besorgen)と名づけ、それによって根拠付け られた事物存在の被規定性を「有意義性」(BedeutSarnkeit)と呼ぶ。つまり、事物はそうした「配慮1 を前提にしたとき、常に「……のための」何かとして、ある目的=欲求充足にとっての手段的「意 義]を担ったものとして、われわれに対して立ち現れることになる。かくして、存在者の全体はハン マー、釘、柱……といった具合に目的一手段の無限の連鎖として結び付けられることになる。そし て、この連鎖を横断する形で、つまり、ハンマーの製作者や販売者という形で、現存在は他の現存 在と出会うことになる。 だが、ことはそれほど単純ではない。事物存在の連鎖の果てに他者との「共同世界」の発見に至 るというハイデガーの展開から、ハイデガーにおける事物存在の第一義性を結論付けるのは短絡的 と言わざるを得ない。というのも、ハイデガーの「世界」概念のうちには、単なる事物存在につい ての展開と思われる論述の背後からすでに、ひそかに、「共同世界」が指しこまれているからである。 それは世界を構成する存在者=事物が身にまとう「気分」(Stimmung)であり、気分として現存在= 人間に感受される事物の「情態」(Befindlichkeit)というあり方によって示されている。 われわれの事物との日常的な「出会い」は、自然科学的対象、すなわち、純粋に認識のための対 象との出会いとして経験されることはない。自然科学的な事物は、他の諸事物との連関全体から抽 出され、孤立したものとして対象化される。この点で、すでにハイデガーの「存在者」はそれらの 9
東洋大学社会学部紀要第40−1号(2002年度) 間の道具的連関のうちに現れるものとして措定される限りで、自然科学的対象のあり方からは隔た っている。それはわれわれの日常的な出会いを想定して考察されているのである。さらに、こうし た道具的連関を構成するのは、われわれの「日常的な配慮」(alltagliches Besorgen)であり、その配 慮の下にあらゆる事物は連関をなして、世界を構成することになる。そうした連関から抽出された 自然科学的対象としてのあり方については、ハイデガーは「非世界化」(Entweltlichung)という言 い方をしている。 したがって、ハイデガーにとって事物は単なる純粋意識の対象としてではなく、一定の情動や気 分、感情や好悪の対象として「出会われる」とされる。「現実の情況においては、コップがそこにあ るという〈認知>cognitionと、コップの存在を好ましいもの、あるいは、めざわりなものと感じる 〈情感>affectionとは分離しがたく結びついていて、相互浸透的な全体をなしている」(伊藤勝彦, 1992,12頁)のである。かくて、ハイデガーにおける「配慮」、「気遣い」といった志向性は純粋意識 の「ノエシス」原理とは違って、その基底に欲求や衝動といった「生への関与」を孕んだ、肉付け られた志向性なのである。と同時に、そうした「情況」、つまり、気分や感情の相の下にたち現れる 世界は、気分や感情を表出するための「他者」によって媒介されていなければならない。ハイデガ ーの世界論はすでに背後から「共同世界」を指し入れたものだと、われわれが言うのはそうした意 味においてである。 しかしながら、だからといってハイデガーは世界を構成する事物存在に先んじて、他者(=共現 存在)の第一義性から出発して世界論を展開しているわけではない。こうした事物連関に巻き込ま れたわれわれの日常性から超越した地点において、本来的主体=実存を指示するために、事物化= 物象化された一般人(das Mann)を措定しておく必要があったからであろう。 共同存在の第一義性 そこで、ハイデガーの文字通りの展開に即すならば、ある現存在にとっての他者=共現存在は事 物存在を介して初めて出会われるものとされる。言いかえれば、事物世界を媒介とした人間世界の 存立といった構図が指示されていることになる。これは、人間的な象徴的世界の成り立ちが、事物 による人間世界の媒介において成立することを意味している。より根源的な位置にあるのは、人間 の共同世界ではなく、それを成り立たせている事物世界であるということになる。 そこで、この構図に対して、事物世界への共同世界の根源性を対置する形での、正面切った批判 がハイデガーの弟子のK.レーヴィットから提示されることになる。 「……共同世界はさらにずっと徹底的に環境世界においてまたその中で現れている。すなわち環境世 界と共に現れるばかりでなく、そのもの自身で現れる。……そしてこのような出会い方、環境世界 のなかでまた、環境世界のなかから共同世界に出会うのではなく、共同世界のなかから環境世界に 出会う仕方こそもっとも根源的なものである。」(K.Lowith,1928,訳64頁)。なぜなら、人間は世界 のうちにあって、世界のなかから他者に向けて関わりあうという存在ではなく、世界のほうが人び
との中にあり、人びとのなかから他者への関与が生み出されるからである。 事物存在に対する共同存在の第一義性については、見てきたように、ハイデガー自身がその展開 の背後からそのことを立証してきたように、事物存在の有意義な連関は、象徴的存在を前提してお り、その象徴的存在は他者をめがけて初めて存立しうるものであること、そして、この他者との関 わりを前提とすることにおいて、象徴や事物は一一定の「気分」や「感情」の下に立ち現れることに なるのであった。これに対して、レーヴィットは、さらに積極的に、現存在の事物と他者との「出 会われ方」における決定的な差異から、共同存在の第一義性を立証しようとする。 事物=道具存在は確かに人間にとって身近な存在ではあるが、道具存在の意義を規定する目的性、 つまり人間は道具にとってはあくまで外的なものでしかない。それゆえ、その道具と人間との「出 会われ方」は一方的なものでしかない。これに対して、現存在の他の現存在との「出会われ方」は 双方向的で、「共属性」(Zusammengehorigkeit)を有している。たとえば、子供とその母親との出会 いにおいて、子供は自らの存在性格を母親との関係において与えられており、母親もまた、子供を 前にしたとき、「女」としてではなく、「母親」として、いわば子供の保護者としての存在性格を持 つことになる。ナイフが、りんごを食べるという目的のための手段的な意義を持つのは、人間の存 在を前提とするほかないように、道具的存在の存在性格は、その外部において根拠付けられている。 これに対して、現存在同士の出会われ方の「相互規定性」は、共同存在の自立性を示すものである。 つまり、レーヴィットが言うように「他のものから独立しているという意味での実在的であること の体験が構成される最も根源的な地盤は共同世界である」(同前,83頁)ことになる。人間以外の存 在の根拠は人間存在によって媒介されているのに対して、人間の場合はその共同世界のうちに根拠 を持つことになる。こうして、ここでは「世界内存在」の枠組みを、共同存在の第・義性を転回点 として今後の展開のための枠組みとして活用して行くことにする。 関係のアプリオリ そこで、この共同存在における「関係性」について、さらに踏み込んで検討を加えておこう。事 物は事物相互の関係のうちに根拠を持つことはできず、まして事物がそれを使用する人間の存在性 格を規定するわけでもない。これに対して、人間相互の関係はその関係のうちに根拠を持ち、相rll の存在性格を「相互規定」しあうものである。ただし、その場合の相互関係は相il1に主体として出 会う「我一汝」の一人称、二人称の関係でなければならない。我の存在性格を規定し、同時にその ことを通して汝の存在性格を規定し返す「相互的」関係は「我一汝」のほかない。「我一彼」の三人 称の関係はこうした「我一汝」関係から弾かれた「彼」を三人称化=事物化した関係であるがゆえ に「相互的」とは言えない。我にとって我と同様の主体の資格において出会われるのは「汝」であ り、「彼」はあくまでそうした関係から外れた「客体」化された人物に留まる。 そして、こうした「我一汝」関係の根源性を目に見えるものにするのが、「母一剤関係にほかな らない。「我一汝」関係についてのレーヴィットの指摘、「ところが実際我は私自身からでも、自然 ll
東洋大学杜会学部紀要第40・1号(2002年度) の世界からでもなく、ただ『汝』からのみ私のものとなることが出来、そしてr汝』は、私がその ために実存している私の本来的な全世界なのである」(同前,94頁)、が文字通り当てはまるのが「母 一子」関係である。とりわけ、この関係においては関係し合う両項は、それぞれ独、Zした存在とし て関係し合うというより、相互に癒合した「母子関係」の中から、それぞれが母として、]乙供とし て相互規定的に分節化してくると考えられる。つまり、レーヴィットのいう「私の本来的な全世界」 とは、分節化された「我」でも「汝」でもない、もともとの「関係」そのものと考えるよりほかない。 M、ブーバーはこれを端的に「はじめに関係あり」と論じる。「はじめに関係あり一関係こそ、存 在の範晴であり、他者をよろこび迎える家であり、ものをとらえる容器であり、魂の鋳型である。 生得のなんじ一これこそまさに関係のアプリオリにはかならない」(M.Buber,1923,訳26頁)。「生得 のなんじ」とは個別、具体的な「なんじ」によって引き出される「関係」それ自体とそのアプリオ リな関係への志向性を指している。それを体現しているのが「共同世界」であり、それこそが人間 存在固有の「生への関与」にはかならない。 人間の子供は、他の生物とは違って、生まれながらに環境世界や事物、他の個体に対する関わり 方そのものを習得しなければならない。言うまでもなく、人間の子供は生まれついて、他者との関 わりなしに生存することが、そもそも不可能な存在なのである。「ネオテニー(幼形成熟)」(A.モ ンターギュ)(2)という規定がそのことを示している。その意味で、子供にとって最も根源的な「生 への関与」の対象とは、「関係」それ自体であり、関係そのものへの志向性こそが決定的に重要なも のとなる。母子関係であれば、自他未分であるような原初的関係それ自体への志向性こそが、最も 重要な「生への関与」であるということになる。ブーバーはこのことを踏まえつつ、こう論じてい る。「なるほど、第一の根源語われ一なんじも、われとなんじの二要素に分解できるかもしれない。 しかしこの根源語は、われとなんじという二要素が一つになって生じたものではない。それは本質 的にいって、われの生まれる以前から存在していたのである。これに反して、第二の根源語われ一 それは、われとそれとが一つに組み合わさって生じた言葉である。それはわれよりあとになってで きた言葉である」(同前,33頁)。 「われ一なんじ」関係、とりわけ母子関係としての原初的な関係のうちに、最も根源的な「関係」 それ自体への志向性が孕まれている。それゆえ、そこからのみ、主体相互の「相互規定的」な関係 がたち現れうる。第三者や事物との関係はその後において「われ」と「かれ」ないし「それ」との 関係として構築されることになる。これは、レーヴィットが共同世界による環境世界の媒介こそが 本来的な媒介関係であるという主張を正当化するものである。そして、この論点を先に取り上げた 木村敏による「ノエシス」概念の生命論的拡張に重ね合わせてみるなら、それが「その生命の根拠 に根差した活動として世界に向かって働いている動的な志向性」と説明されていた点を振り返る時、 そこで言われる「世界」が、まず本来的には「共同世界」でなければならず、なんじとしての根源 (2)個体発生において、幼生期の特徴が成熟期にまで残存する性質をネオテニーという。ボルクの「胎児化説」 とともにヒトの形態的特徴はサルの胎児ないし幼児に似ているという点から、人類進化にとってのネオテニーの 重要性が注目されるにいたった。詳細はA. Montagu,1981、参照。
的他者との係わり合い=出会いによって初めて第三者や事物からなる環境世界への関与が成り立ち うることがわかる。つまり、人間的な衝動や欲求といった「生への関与」、生命活動に担われた志向 性それ自体が、人間の場合、生得的に備わっているわけではなく、それらもまた、「関係」の中で、 「関係」において、初めて習得されるものなのである。「欲求をもつ」ことは「欲求である」ことと は異なり、その「欲求」の所在を感じ取り、「欲求」として意識していることを前提としている。こ こに欲求主体としての「われ」と、「世界」との間の「間隙」が生じるきっかけがある。そして、こ の欲求を感得し、それとして自覚するためには、そうした欲求が差し止められ、禁止されることを 通じて、自らの欲求の自覚に至らせる状況が不可欠となる。そうした状況を構成する中心となるの が「他者」にほかならない。 人間的志向性の成立 人間的な意味での「生への関与」の基底には「関係」それ自体への志向性が隠されていること、 そして、そのことは事物的な環境世界は共同世界によって媒介されていることを前提としており、 根源的な他者との関係こそが、その主体にとっての世界構築のアプリオリにほかならないことを見 てきた。このことを踏まえて、さらに人間と世界との関わりについて検討を加えておこう。 木村はヴァイッゼッカーの「生命の根拠への関わり」という点に示唆を受けて、ノエシス原理を 生命活動の根底にまで拡大適応して「ノエシス的な『剛」の概念を提示していた。この生命活動の 根底にあるノエシス的志向性とは、端的に言って「衝動」とか「欲求」と呼ばれるものものである。 だが、世界との間の「間隙」を前提とするとき、この「衝動」や「欲求」は環界に関わる生物の (擬人化的に想定するなら)「衝動」や「欲求」とは異質であるに違いない。ゲーレンは間隙ゆえの 衝動、欲求の変質について、こう展開している。 「……口癖のように《欲求と関心》と私がいうのも、関心とはつまり情況を意識して持続をめざ す、行為にふさわしい欲求なればこそである。あきらかにこれとあいまって人間の欲求を特異にし ているのが、欲求と関心は抑制と引延ばしがきくという二つの可能性である。いずれも意識されな くてはそもそも不可能なものだ」(A、Gehlen,1940,訳54−55頁)。 つまり、他の生物における衝動や欲求は環界の刺激に直接、無媒介的に反応する内的原理とみな されるが、人間ではそのようには作動しない。人間の場合、自らの衝動や欲求に気づき、意識化す ると同時に、実現された衝動や充足された欲求についての予期されたイメージを「目的」として自 覚し、さらにはその目的達成のための手段ないし手段の手段についてのイメージを行為に介在させ ることになる。ゲーレンが「行為にふさわしい欲求」というのも、人間的行為がそもそもそうした 手段についての考量、すなわち知性を備えた行為であるからにほかならない。そして、衝動や欲求 が抑制され、引き延ばされることで、自らの衝動や欲求を内的に感得しうるためには、すでにふれ たように他者による行為の禁止を通じて習得した内発的な抑制や引き延ばし、すなわち「禁欲」が 介在しなければならない。こうした世界への関わりの間接性、ないし関わり自体の意識化において 「間隙」が成り立つのである。さらに、こうした世界との距離化を可能にしつつ、世界との間を媒介 13
東洋大学社会学部紀要第40−1・e(2002年度) するイメージやシンボルによって衝動や欲求はそうしたもの(つまり、りんごを食べることへの欲 求)として経験的に水路付けられることになる。イメージやシンボルは欲求とその対象を「意味付 ける」のである。人間にとって世界は環界としてではなく、象徴的世界としてたち現れるわけであ るが、そのためには、その基層に共同世界による媒介が存在しているということが、「世界一内一存 在」に関して前提されなければならない。 象徴的世界の存立 そこで、このシンボルの機能について検討しておこう。シンボルが人間と世界とを媒介しつつ、 結びつけるものであり、そうした機能はすでに見てきた人間的な「生への関与」、その根源にある衝 動や欲求の固有の水路付けのうちに見ることができた。シンボルの典型としての言語と欲求の関係 についてのカッシラーの説明は言語固有のそうした機能を明らかにしている。 「……言語においては事物を直接に引き寄せたい、そして事物を自我の圏域に単純に併合してし まいたいという欲求に対して、反対に事物を自我から遠ざけたい一事物を自我から引き離して、自 我の前に置きたい、そしてこの置くという行為において、事物をr表象』にさらには対象にしたい、 という別の欲求がはたらく」(E.Cassirer,1985,訳202頁)。 カッシラーのいう欲求が、抑制され、表象へと水路付けられた人間的欲求へと変質したものであ ることはいうまでもない。カッシラーによれば、ある種の失語症の患者は言葉の喪失と同時に、事 物を自分に対して「措定する」こと、すなわち「表象する」能力も失うとされる。ジャクソンの症 例を引き合いに出してカッシラーが説明を試みている事例では、患者は日常的な事物の利用は可能 であるのに、物と向き合い、物を物として表象し、対自化することができない。言葉すなわち象徴的 媒体の喪失は、この物との間の「距離」の無化を生み出すことになる(3)。 カッシラーはこの象徴としての言語に懸依した距離化とその無化への欲求を「引力」と「斥力」 と名づけているが、それが人間的に変形された関係への欲求を表現したものであることは明らかで ある。したがって、この関係への欲求は現象的には世界への、すなわち象徴的世界への欲求として 現れることになる。象徴へのこうした欲求こそが人間固有の「基本的欲求」(S.K. Langer,1957,訳 52頁)とされる所以である。人間にとっての世界は、こうして「常に、すでに」象徴的システムに よって侵食されたものとして与えられていることになる。 ここで改めて象徴的システムによって生み出される世界のありかたをまとめておこう。 第1に、象徴的システムは固有の空間的世界を構築する。人間は距離化の能力によって、事物を 対象化し、向き合うことができる。その際、この距離は一定の視界として与えられる。その上で、 この事物についての安定した表象を保証するのが言語にほかならない。言語化することにおいて、 (3)カッシラーの説明によれば、この患者は「物をその純粋なr存在」において把握し、その「……である」(So −Sein)において規定することがもうできないのです。物を正しく取り扱うことはできるのです。しかしこの取 り扱いを超えて物を「表象」すること、物をいわば遠くへ押しやり、この遠さにおいてそれとr向き合う」こと ができないのです」(E. Cassirer,1985,訳192−3頁)とされる。
われわれは表象された事物をそうしたものとして包括し、位置付ける視圏を獲得する。われわれの 日常的な生活空間は基本的に距離化=対象化の能力に支えられて可能になるのである。 第2に、時間の観念もまたこうした距離化=対象化の能力によって可能になる。われわれは過去 の、現前しない事態についての心的な記憶表象を持つことが出来る。同様に、未だ、現前しない、 予期された心的表象を持つことも出来る。さらに、こうした表象を言語化し、空間的に配列するこ とによって、われわれは過去一現在一未来の時間軸の上に事物や事態を位置付けることになる。こ れが、われわれの日常的な時間観念の構築である。いずれも、言語化することを通じて、事物は表 象として措定され、それを位置付ける時間、空間の枠組みが成り立つわけである。 その上で、所与の世界内の諸事物はハイデガーが「配慮」と名づけた人間的欲求によって「有意 義性」を担うことになる。こうして、人間は自らの欲求、関心をかきたてる諸事物、諸事象を有意 義な個々の対象とその連関として分節化し、意味付けることを通じて固有の世界を構築する。それ は「機能的円環」によって閉ざされた生物の環界に比べて、人間的世界の「開放性」を実現するも のである。それを可能にするのが距離化であり、「間隙」にほかならなかった。改めてロータッカー を借りてこの点を指摘しておこう。 「そしてこれらの手段は、立案する人間と目指された目的とのあいだに介在する。『のあいだ』と いうこの語は、十分に注目される必要がある。この語は、この点で人間が動物との比較において獲 得するものを表す、たぶん最も適切なきまり文句、すなわち間隔、つまり活動の余地、つまり隙間、 運動の余裕、距離、疎隔(クラーゲス)、見渡し、拡大への注意を促す」(E.Rothacker,1964,訳216 頁)。こうして、人間は距離化に支えられた構想力と意味付け=解釈力によって世界を象徴的に組み 立て、あるいは別様に解釈し、変更を加えることができる。われわれの願望や関心に基づいてプラ ンを練り、事態を制御し、変更を加え、手段を選択し、目的を達成する。その意味で、われわれは 世界から開放されている。 だが、その反面ではわれわれはそうした世界に拘束されてもいる。というのも、われわれは生き るためには行為に依存するしかなく、行為するためにはこの世界の中に一定の立脚点、つまり立場 に立たざるを得ないからである(4)。立場とは、一定の情況のうちで意義付けられた自らの立脚点で ある。それを変更することは可能だが、いったん行為に移行する際には、ある特定の立脚点に、γた ざるを得ないし、その一回的状況を生きるほかないのである。そして、この状況こそがわれわれに とっての世界である。 かくして、われわれはこうした状況=世界に組み込まれ、埋め込まれた限りでの生活を営むこと になり、それは同時にわれわれの世界被拘束性を物語っている。 (4)ロータッカーはこう指摘する。「われわれは生きるために行為しなければならないということである。これ は無視されることはできない。ところで、行為することができるのは、ただ一定の立場からだけである。この条 件はどうしても免れえない」(E. Rothacker,1964,訳252頁)。 15
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2.行為の枠組み
行為図式と社会的適応 生物における内界と環界の円環を閉ざすことによって、その環を完成することが、生物にとって の生命活動の目的でもあった。むろん、その行動は意識的で計画的なものではない。生得的なプロ グラムに従った種固有の行動パターンであり、遺伝的な行動図式に即した行動にほかならない。 これに対して、人間の場合、環境世界との直接的な関係からは、そもそも疎外されている。とい うのも、環境世界に直接適応するように特化された身体的器官をそもそも備えていないのみならず、 その点に関しては、他のどの生物よりも未熟に生まれついているからである。この意味で「確定さ れていない動物」(ニーチェ)である人間は、自らと環境世界との間に象徴的媒体を作り出す必要が あった。しかも、その媒体が象徴として成立するためには、そこに他者との共同世界が介在してい なければならない。すなわち、共同世界に支えられた象徴的世界の構築が、人間をして他の生物の 生とは異質な、人間固有の生を成り立たせてきたのである。そして、こうした世界との間の距離、 「間隙」といった独特の機制が生み出されたのも、そうした共同的=象徴的世界への適応の結果にほ かならない。 そこで、あらためて、出発点の「内界一行為一世界」のトリアーデ=生の連関に立ち戻って、人 間的「行為」の特質について見ておこう。 「行為」をこのように「内界」と「世界」とを媒介しつつ、結合する機制として位置付けるなら、 行為によって、人間の(共同的=象徴的)世界化が果たされ、同時に世界の人間化が実現されるこ とがわかる。そこでは、世界と人間との二元論は止揚され、その意味で人間における存在のありよ うとしての「世界内存在」が実質的に成立するための枠組みが準備されることになる。それは世界 と人間とをともに相対化しつつ、その結びつきを明らかにする視座を提供するものでもある。 他面では、行為は人間が世界に関与し、そのことを通じて「生きる」ための活動でもある。それ は生命活動を本位としている。その限りで、行為は生物学的な生命活動の延長線上に位置している。 だが、同時に、人間にとっての生命活動は、他の生物とは異なって、裸の環界に対して直接、無媒 介的に関わるということではなかった。それは、他者との共同世界を通じて、独自の象徴的世界に 「生きる」ことであった。それゆえ、すでに、そこにおいて「生きる」ことの意味自体が転換してし まっていると言わざるを得ない。この他の生物と人間との「生」の連続と断絶を明確にするために も、「生への関与」としての「行為」一般の枠組みを打ち立てておく必要がある。 ここで、ピアジェの適応行動に関する行為図式を参照することにする。ピアジェの図式は有機体 と環境との間の相互作用、すなわち適応行動の延長線上に人間の感覚運動的行為とその後の知的行 為を位置付けようとする。それは、基本的に知能を生のプロセスとしての適応過程に根ざすと考え るものである。 「知能とはひとつの適応である。それゆえ知能と生一般との関係を捉えるためには、まず生体と 環境との関係を明確にしなければならない。さて、生は次第に複雑な形態を次々と創り出していく過程であり、この形態と環境との漸進的な均衡化の過程である」(」.Piaget,1948,訳,4頁)。 環境との間の均衡をめざす生体組織の適応=体制化を、ピアジェは「同化」と「調節」の機能のうち に見出し、この機能を遂行する基本的な活動単位を「シェマ」(sheme)と名づけている(5)。シェマ は・定の状況内で再生される一連の活動に共通した構造であり、それが環境への同化と、そのフィ ードバックとしてのシェマそのものの修正=調節といったに相互作用を通して形態発生を実現する 過程が進化であるとされる。同時にその進化のうちには、シェマ自体の分化と協応といった個体の 発達をも含まれることになる。 このように、ピアジェは、生体を環境との相互作用において相対的に自立した活動のまとまり= シェマと位置付け、その相互作用を、一方において環境の一部を既存のシェマへと取り込む「同化」、 他方において当のシェマが環境の側に合わせて自己修正する「調節」の間の一連の動的プロセスと みなしている。そして、このプロセスはシェマと環境との間の動的均衡をめざす適応のうちで、シ ェマ自体の体制化を実現する。同時に、シェマの分化と協応を通じての複雑化としての形態発生 (いわば胚の段階に始まり、高次の有機体に至る成長と進化)をも実現すると考えられている。 そして、ピアジェは人間の認識、すなわち「知的発達」もまた、こうした生体の発達過程の延長 線上に位置付けられうるものとみなす。だから、知能について、彼はこう論じている。 「事実、知能は、経験的所与のすべてを自らの枠組みのなかに組み込むものであるから、その意味 でひとつの同化であるといえる。判断によって新しいものをすでに知られているもののなかに取り 入れ、そうして世界を自分自身の観念に還元する思考の場合、あるいは知覚した物を自らのシェマ (sheme)のなかに取り込むことによって構造化する感覚運動的知能の場合など、いずれの場合にも 知的適応には同化の要素が含まれている。同化とは、つまり、外的現実を自己の活動に基づく形態に 取り込み、それを構造化することである」(同前,6−7頁)。 ピアジェの行為図式と枠組みをみると、これが当の「内界一行為一世界」のトリアーデを支える 行為.般の機能を明らかにするものであることがわかる。それは生体般についてあてはまる普遍 的な枠組みの提示なのである。と同時に、われわれは、ここまでの検討から、さらにこの枠組みを 特殊人間的な行為へと拡張ないし改変しなければならない。というのも、人間にとって、所与の「世 界」とは、なによりもまず、共同世界であり、それによって支えられている象徴的世界にほかなら ないからである。 (5)同化とは、生物体の環境との間の物質代謝における養分の採りいれと、その体内物質への組替えのプロセス であり、生体内におけるそれら物質の分解(異化)によって、生命活動のためのエネルギーが生じる。調節とは、 環境の変化に応じて、内部環境の恒常性を維持したり、変化に適応するために生体の自動制御をおこなう作用であ る。ピアジェはこうした生物学的機制を身体運動から概念活動にいたるシェマのレベルに適用することを通じて、 知的活動を生命活動のヴァリアントと位置づけようとしていたことになる。そして、この発想はニーチェのうち にも貫徹していたことに注目したい。 17
東洋大学社会学部紀要第40−1号(2002年度) 行為図式の拡張 ピアジェの枠組みは、生物学的な生体一環境間の相互作用としての適応過程をモデルにして提示 されたものである。したがって、そのものとしては、人間を含む生体の生命活動一般にあてはまる枠 組みである。にもかかわらず、ピアジェ自身はこれを児童の知的=認識能力の発達論的解明といった 課題に絞り込んで適用している。しかも、いわゆる感覚運動期における児童の外的事物の認識を問 題とするところから出発したため、児童の全人格的発達に関わる他の諸要因への目配りにおける深 浅の違いを生み出すに至った。近年のピアジェ批判が指摘してやまない「他者」や「感情」への関 与の薄さはこうしたピアジェ自身の問題関心の限定の仕方に負っているのである。 したがって、このピアジェの限定された枠組みの適用範囲を拡張しつつ、発達にとって不可欠な諸 要因の解明にあたるべきであろう。ピアジェの枠組みそれ自体は、一般的で、生物と環境への関わり にとって普遍的ともいえる汎用性を持つものと考えられる。枠組みの放棄ではなく、その拡張によ ってこそ、発達心理学の多様な問題を一貫して整理しつつ、それらの関連を明らかにする道が開か れうるといえる。 こうした、ピアジェ理論の拡張の方向で「模倣」の問題に着手している具体的な事例として、内藤 の作業を評価することができる。内藤は、感覚運動期における模倣の発達についてのピアジェの展 開を、ボウルビーによる愛着の発達と照合することによって、2歳までの感覚運動期にあっては、模 倣も愛着も、ともに不特定の他者に依存した無意識的かつ無意図的なものであることに注目する。 そして、2歳を過ぎるころから、児童は特定の他者に対して意識的、意図的な愛着や模倣へと移行し、 ピアジェのいわゆる「操作期」における表象、言語を介した知的段階に達することになる。内藤によ れば、愛着と模倣との融合がむしろ感覚運動期のひとつの特徴をなしており、それはフロイトの 「同一視」の理論に包摂されるものとされる。「ここで参考となるのは、Freudの同一視の理論である。 彼は、発達の初期に無意識の機制としての同一視が生じることを主張している。無意識のうちに対象 と自己とを同一視し、この同一化したモデルから全体的かつ力動的に模倣するというのである。そ してこれによってパーソナリティの中核が形成されると述べている。ここでモデルとの無意識な同 一視を無目的的な愛着として解釈するならば、同一視による力動的かつ包括的な無意識的な模倣は、 愛着の対象人物に対する集中的な無目的的な模倣行動の発現とみなすことができよう」(内藤哲雄, 2001,68頁)。 内藤によれば、感覚運動期における愛着と模倣との融合が、ピアジェをして、この時期の対人関係 の重要性を看過させた理由とされる。だが、にもかかわらず、感覚運動期における模倣行動への着目 という点で、ピアジェが児童における対他者関係を無視してはいなかったことが反証される。内藤は この発達初期における愛着と模倣の融合を「同化行動」(assimilative behavior)と名づけ、感覚運動 期においては、そこでは愛着と模倣とが融合しつつ、その後、3歳ころから両者が分かれ、ついで、 それぞれが意識的、意図的な段階へと進むとしている(同前,77−78頁)。 こうした内藤の議論を引き合いにだすのも、発達初期段階における対他者関係の重要性は、ピァ
ジェにおいても模倣理論の展開として決して看過されていたわけではないことに注意したかったか らである。にもかかわらず、確かにこの点はピアジェにとって、それ自体が主題にはならなかった 以上、内藤のように、他の諸研究による補足が必要といえる。その上で、生誕後の児童にとって、出 会われる初めての世界は、今なお、自己とは明確に区別されない他者であり、いわば、自他癒合の 関係を介してのみ、事物は児童にとって身体的、感覚的な意味を持つことになるという点に注意し ておきたい。そもそも、児童にとって、充足されない食欲や、不快なおしめの状態などは、母親に よる「意味付け」を介して初めて、そうした意味として措定されるのである。その上で、ある事物 は、児童にとって自らの行為の連関のなかに組み込まれることを通じてその意味が付与されること になる。おもちゃのハンマーは、それでテーブルを叩くことによって音をたて、あるいはクッキー を細かく割るための道具のしての意味を付与される。しかし、そうしたハンマーの扱い方は、身近 な他者によるハンマーの使用を観察し、無意識的にその行為を模倣することを通じて初めて体得さ れるといえる。つまり、世界に対する関与としての児童の行為は、それ自体がそもそも他者による 世界への関与に対する「同化」を通じて、それゆえ他者の行為の模倣を通じて初めて発現されうる ものなのである。ということは、世界への関与が成立するためには、そこにいわば入れ子状に他者 およびその行為への関与(=模倣)が挿入されざるを得ないことを示している。 こうして、人間にとって、第一義的な世界とは、事物世界ではなく、共同世界であるほかないこ とがここでも明らかとなる。それゆえ、ピアジェの行為図式は、まず、共同世界への関与において 検討されなければならず、その上で事物世界に対して、それを象徴的に意味付けられた世界として 関与することを通じて、いわば間接的に関わる、そのような配置の下で再検討する必要がある。 シェマと主体 共同世界の第一義性を踏まえるなら、行為図式それ自体のありかたもまた検討され直されなけれ ばならない。この点で、生命活動を生気論や機械論といった二元論的な還元によって説明する立場 を離れ、それを知覚と運動、内界と外界との円環構造において捉えようと独自の「ゲシュタルトク ライス」論を提示したヴァイツゼッカーは、内界と外界の接点において生命活動をいわば随意的に 担う機制として、「主体」概念の導入を図った。 彼によれば、感覚性理学における主体、つまり、誰が知覚するかが取りざたされることはあって も、運動とりわけ「機能変動」における主体の導入は立ち遅れているとされる。 「……この片手落ちな傾向に災いされて、機能変動において真に変動するのは何なのかがt』分に 知られていなかった。つまり、ここで変動するのは単に神経実質の機能様式でけにはとどまらず、 周囲の世界との関係も変動するのであって、この自我と環界との関係が真の研究対象なのだという ことは、運動による環界との交渉を考察してはじめて十全に認識されることになる。さらに、}−1体 の導入ということは感覚とか知覚とかいった心的体験の導入とはいささか異なった意味のことであ る」(V.von Weizsacker,1940,訳11頁)。 19
東洋大学社会学部紀要第40−1号(2002年度) ヴァイツゼッカーが導入しようとする主体とは、自我や自我意識といった意識的、心的なもので はない。それは生体と環界とが出会う界面にあって、世界への関与を担う機制を指しており、これ はそのままピアジェのシェマに重なり合う機制にほかならない。 彼は実例として、直立している人物の腕に掛けられた籠の中に順次分銅を入れてゆき、その人物 が体のバランスをとるためにどのような身体的変化を示すかを考える(同前,32頁)。1キログラム、 5キログラム、10キログラム、さらに……それ以上の重量の分銅を入れる毎に、この環境の変化に伴 った腕、足、全身の筋肉の反応によって、姿勢=体位そのものの変更に基づく均衡へと向かう一連 の運動が生じる。 こうした生体におよぶ外力と自己運動のバランスにおいて、意識的存在とは区別された独自の 「主体」=シェマが立ち現れる。 いずれにせよ、環界や世界との関わりのうちに有機体や人間の活動を位置付けようとするとき、 その活動は内界でも外界でもなく、両者の界面(インターフェース)においてたち現れることにな る。生理的な身体活動から始まり、知的、言語的活動にいたる活動の多様な展開は、こうした「主 体」もしくはシェマといった、仮構された機制を基礎に発展したものにちがいない。 それゆえ、生体におけるこうした「主体」ないしシェマ、およびその人間にとってのそれと他の 生物のそれとの異同は、人間や動物本体をどうひっくり返そうが発見できるようなものではない。 むしろ、その作用の発現である「同化」と「調節」の結果や過程についての観察から指摘しうるも のである。とりあえず、その異同については、ローレンツが動物の場合に名づけた「本能的運動図 式」に倣ってゲーレンが称した「獲得的行為図式」と表現しておくことにしよう。 そして、ゲーレンが「獲得的」と名づけた人間におけるシェマの成立に関して、模倣や愛着とい った、対他者的側面の第一義性に注目するなら、シェマそのものが、人間の場合経験的に「獲得」 される他ない以上、それはまずは他者と共同世界への適応の過程で、シェマおよびその機動力もま た成立すると予想される。 こうして、シェマは、まずもって他者のシェマとの共振、相互同化によって成立すると考えるこ とができる。その場合、「同化」の機制にまず注目しておきたい。それは世界の「我がもの化」とい う意味において、多くの論者によって、しかしながら、ほぼ共通した使用法をみせている。それは 「心的消化作用という根源的な過程」(ランガー)として、その応用的側面としては「言葉は現実を わがものとするための手段である」(カッシラー)とされてきた。さらに、「わがもの化」への傾向 としてのそれは、欲求や衝動といった概念とも重なり合う。欲求については、それらは「いずれも 同化しようとする傾向であり、つまり実質を増やそうとする傾向をもつということ」(ロータッカー) とされる。ロータッカーは、さらに、科学的認識の成果が人間の持ち前の(つまり「シェマ化」さ れた)世界像に同化される事態をさして、「同化されるとは正当な表現であり、決定的な言葉である。 というのは、人間全体はこれらの体験の一部を他の知識の場合とは違って自分のなかに、そして自 分の行動のなかにことごとく取り入れるからである」(E.Rothacker,1964,訳265頁)と述べている。
そして、こうして同化された知識はわれわれの既存の世界観に修正を迫るものとなる。 ピアジェにとっての欲求とは、したがって、こうした意味での「同化」への傾向ということにな る。これをピアジェ心理学における欲求論の貧困と評価する立場(浜田寿美男,1994,53頁以下)か らすると、「同化」概念の一般性が、具体的かつ多様な欲求のありかたを取りこぼしているように考 えられるからであろう。だが、くりかえし、指摘しておかなければならないことだが、こうした一一 般性ゆえに、むしろその汎用性は高められていることになる。ランガーやカッシラーのように、象 徴的なものへの欲求の根源性は、むしろ、人間的な意味での(すなわち、共同=象徴世界という意 味での)「生への関与」=関係への欲求の地平と言い換えることができる。 そして、こうした欲求こそは生命活動の根源にあって、世界に対する関与を動機付け、内界と世 界とを根源的に結びつけるエネルギーの源であるといえる。その一ヒで、人間的生の関与の特質から して、それは意識的な志向性であるノエシス的原理を体現するものでもあった。いわば、世界に対 する志向性として欲求は成立している。と同時に、そこには共同世界の媒介が不可避であったこと を想起すべきである。すなわち、ゲーレンが言うように、世界に対する関与、その担い手としての シェマのいわば原動力ともいえる「同化」への傾向としての欲求もまた、共同世界における「獲得 的行為図式」としてのみ成り、乞つことになる。ということは、欲求=志向性それ自体もまた、獲得 されるほかないということである。世界への、他者もしくは事物への関わりそのものが、人間の場 合、他者による世界への関わりの獲得=同化を介してのみ初めてロ∫能となる。先に見た「模倣」を 通じての行為図式=シェマの獲得とは、シェマの担い手たる他者の模倣ではなく、その行為の外形 的模倣でもなく、まさしく志向性そのものの「同化」であり、他者の志向性との「共振」にほかな らない。 そして、こうした欲求の「同化」すなわち他者の欲求の欲求(=同化)といった事態は、明らか に意識下の出来事として、「無意識」の問題領域を提示するものである。 欲求の場合、典型的にはある対象を志向する「他者の欲求」そのものが同化される。これは、経 験的にも明らかであるが、同い年くらいの3−4歳児が楽しそうにおもちゃで遊んでいるのを傍ら で見ている別の児童は、その子のおもちゃを欲求する。それは、その子の所有物であるからという 理屈は当然通らない、その子のおもちゃと同型のおもちゃでも納得しない。その」「・の、その手にし たおもちゃへの欲求=志向性が同化されてしまったのであるから、そのおもちゃを手にして初めて 欲求は充足されることになる。しかしながら、そうした「他者の欲求」の欲求=同化によってもた らされた欲求を自覚した段階では、その欲求は自らの欲求としてしか意識されない。その前段の 「模倣欲求」(ジラール)のプロセスそのものは意識下に押し込められることになる。なぜなら、意 識するためには、対象が一定の「距離」をもって措定されなければならなかった。だが、同化され た欲求は、そのことによって「シェマ化」=身体化されてしまっているがゆえに、その距離=間隙 は無化されてしまう。つまり、無意識化されてしまったのである。 そして、稿を改めて論じることになるが、この「無意識」の問題領域を生み出すそもそもの機制 21
東洋大学社会学部紀要第40−1号(2002年度) を準備するのが、人間行為における「媒介性」なのである。 媒体とシェマ 人間と世界との関わりの特異性において、最も注目すべきは関与の間接性、媒介性であった。こ の媒介性のゆえに、人間は対象との間に「間隙」を築き、対象をそれとして措定し、対象化する能 力を身に付けることができた。そして、こうした能力を可能にした媒体のうち最も重要なものが 「他者」にほかならない。すなわち、共同世界の介在であった。それは、そこから自他の生成、自己 と他者との共属関係の自覚そのものが生み出される母体にほかならない。そして、この自己の生成 は、まず、自己の身体の道具化=象徴化として、媒介する身体の発見をもたらし、そこから、表象、 言語、記号さらには道具や機械といったさまざまな媒体=メディアとその「同化」=身体化を介し ての象徴的世界への参入ももたらされる。人間における「生への関与」は、こうした媒介的=象徴 的世界への関与をその本性とし、そのことを通じて、人間は固有の意味的世界を自ら構築すること になる。 【参考文献】 P.・Bour(lieu, Le Sens Pratique,1980.今村仁司,港道隆訳「実践感覚」みすず書房,1988. A.Giddens, The Constitution of Society,1984. 木田 元「ハイデガー「存在と時間1の構築」岩波書店,2000. J.von・Uexkull, Streifzuge durch die Umwelten von Tieren und Menschen,1934、日高敏隆,野田保之訳「生物から見た 世界」思索社,1973. Thure von Uexkull,Lehrbuch der psychosomatischen Medizin,1979. A.Gehlen, AnthropOlogische Forschung,1961.亀井裕,滝浦静雄他訳「人間学の探求」紀伊国屋書店,1970. 木村 敏「あいだ」弘文堂,1988. M.Heidegger, Sein und Zeit,1927.原 佑,渡辺二郎訳「存在と時間」中央公論社「世界の名著」,1971. 伊藤勝彦r根源的情感性について1(伊藤勝彦,坂井昭宏編「情念の哲学」東信堂, 1992,所収) K.Lowith, Das lndividuum in der Rolle des Mitmenschen.1928.佐々木一義訳「人間存在の倫理」理想社,1967. M.Buber, Ich und Do,1923.野口啓祐訳「孤独と愛」創文社,1958. A. Montagu, Growing Toung,1981.尾本恵市,越智典子訳「ネオテニー新しい人間進化論」どうぶつ社,1986. A. Gehlen, Der Mensch, Seine Natur und seine Stellung in der Welt,1940.平野具男訳「人間,その本性および世界に おける位置」法政大学出版局,1985. E.Cassirer, Symbol, Tec㎞ik, Sprache,1985.篠木芳夫,高野敏行訳「シンボル・技術・言語」法政大学出版局, 1999. S. Langer, Philosophy in a new key,1957.矢野萬理,池上保太他訳「シンボルの哲学」岩波書店,1960. E.・Rothacker, Philosophische AnthropOlogie,1964.谷口 茂訳「人間学のすすめ」思索社,1978. 」.Piaget, La naissance de lintelligence chez lenfant,1948.谷村 覚,浜田住寿美男訳「知能の誕生」ミネルヴァ書房, 1978. 内藤哲雄「無意図的模倣の発達心理学」ナカニシヤ出版,2001. V.Weizsacker, Der Gestaltkreis,1940.木村 敏,浜中淑彦訳「ゲシュタルトクライス」みすず書房,1995、
【Abstract】