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集大成としての江戸城

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集大成としての江戸城

千 田 嘉 博

はじめに 1 発掘成果から見た江戸城中心部 2 慶長期の江戸城 3 寛永期の江戸城 4 万治期以降の江戸城 5 象徴としての城郭へ 論文要旨  日本の近世城郭は各地の地域性を払拭した統一的な織豊系城郭として成立した。これは安土城,大坂城 などを規範として全国に展開したことが確認されてきた。しかし徳川幕府の中心であった江戸城は,城郭 としての構造が充分検討されておらず,織豊系城郭の最終的な到達点を確認することができなかった。ま た江戸城を通じて近世城郭を体系的に理解することもむつかしかった。そこで近世初頭の江戸城プラン と,その後の変化を分析した。  その結果,慶長期江戸城は,本丸の内部に天守曲輪をもち,外枡形や馬出しを随所に備えた実戦的な構 成であったことが判明した。こうした姿はまさに織豊系城郭技術の集大成とするにふさわしいものであっ た。また本丸の他に西の丸も独立した城郭要素をもち,並立的構造となったのは,将軍と大御所の権力の 分有状況を反映したものと評価された。  寛永期江戸城は,堀や石塁を単純化するなど軍事施設が簡略化され,殿舎が拡張される傾向が現れた。 万治2年以降の万治期江戸城ではさらにこの傾向が明確となった。本来最も高い軍事機能を発揮する虎口 として採用されていた外枡形は場を限定して用いられ,その門の内に存在する空間やそこに居住する人の 身分を表象するものとして,新たな意味を発揮するに至った。実戦での軍事機能の卓越さが転じて,外枡 形は空間や身分の格式を示す記号に変容したのであった。さらに江戸城では城内に東照社をはじめとする 先祖の神霊が祭られた,神聖な空間が整備されていった。  これらの結果,江戸城は実戦的な城郭から幕府権力を象徴的に示す城郭へと変化した。江戸幕府が軍事 力を背景としながら実際の戦争ではなく,儀礼等によって権威を示したことと対応した構造変化といえ る。江戸城に見られた近世における城館の戦う場から儀礼の場へという変容は,日本の城郭が行き着いた ひとつの姿であった。 239

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国立歴史民俗博物館研究報告 第50集 (1993)

はじめに

 日本における戦争の出現は弥生時代に遡る。その後の社会は軍事力が国家によって統制された 時期と,地方政治権力にまで拡散された時期をくりかえして近世に至った。軍事力概念に包括さ れる防御施設の築造権限を仮に築城権〔野崎1989〕と呼ぶと,社会のどの階級までが防御施設を 築き得たか,社会体制の変化とともに築城権の範囲も大きく変動していたことが知られる。こう したなかで16世紀後半から17世紀前半の戦国時代から江戸時代の初頭にかけて城館は最も多く築 造され,複雑に発達した。  戦国期社会は戦国大名から寺社,村落領主,さらには村落自体がその権力に対応した軍事力を 備えた時代であった。このため多様で重層的な防御施設が生み出され,そこに政治機能が一体化 した地域の政治拠点「城館」が構成された。  織豊期から江戸時代初頭にかけては,拡散・分有された軍事力をふたたび中央政府が独占し, 築城権を統制していく過程といえる。城館群の展開からみれば戦国期の各地域ごとの特色をもっ た城館構成から,兵農分離,城下町集住,城破,城下町移転などによって在地に密着した小規模 城館や軍事機能中心の砦が廃され,領国単位の拠点に城郭が集約された。  拠点城郭とその城下は政治・軍事の中心であると同時に,領国の経済・流通のセンターとして 機能していくことになった〔小島1984,1985・前川1991〕。こうした展開は東海・畿内地域では織 田政権の段階から部分的に進められたが,全国的には豊臣政権段階の全国統一と豊臣大名の成立, 関ケ原の戦い以降の大名の再配置を契機として進展した〔前川ほか1991〕。  ここで注目すべきなのは各地の織豊政権下の大名の拠点城郭プランが,政権の中心城郭をプロ トタイプとして形成されたことである。つまり戦国期以来の城郭の地域性を払拭して各地に成立 した近世城郭は〔千田1990〕,織田政権の安土城,豊臣政権の大坂城,徳川幕府による天下普請 の諸城の築造などを規範とした織豊系城郭として,一元的な枠組みでつくり出されていったので ある〔千田1987〕。  安土城,大坂城などがそれぞれの段階の城郭築造技術と思想の到達点を体現し,政権下の城郭 に大きな影響を与えていったことは各地で具体的に確認されつつあるが〔木島1992,室野1992〕, 徳川幕府の拠点城郭であった江戸城も,同様の性格を一層強くもったことが推測できる。江戸城 の基本プランが天下普請によって形成された慶長期から寛永期は,前近代唯一の対外戦争である 文禄・慶長の役における侵略拠点,倭城に象徴されるように城郭プランの軍事機能が最大限高め られ,それが国内の大名領国の拠点城郭にしだいに単純化しながら受け継がれていく段階に相当 していた。  江戸城が防御と政治の両機能を最もよく発揮した織豊系城郭プランをどのように集大成し,封 建権力の城郭の頂点としていかに権力を具現化したか解明することは,近世城郭の到達点を確認

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       集大成としての江戸城 し,中・近世社会を城郭から考えるために深い意義をもつであろう。江戸城は近世幕藩制社会の つくりだした壮大な記念碑であった。  ところが江戸城の歴史や建築を中心とした詳細な研究,または膨大な史料の収集,検討を通じ ての年次ごとの普請過程の解明は進められてはきたものの〔鳥羽1962,村井1964,内藤1966,小松 1985,村井編1986,内藤編1988〕,江戸城プランを織豊系城郭の展開の中で,別言すれば近世城郭 成立の発達史の中で評価することはほとんど行われてこなかった。  城館研究においてプランから築城主体の権力の特質を読み解いていく視点が未熟であった上に, 江戸城中心部が慶長期以降,幕府政治機構の整備や火災を契機に17世紀後半まで大規模な改修が くりかえされ,織豊系城郭の展開に位置づけて構造評価をすることが困難だったからである。し かし建築史学と考古学によって近年盛んに研究が進められつつある近世都市江戸の研究を城下町 研究として一層深く推進するために,また都市空間構成から歴史を解明していくために,都市核 としての城の把握を欠いてはならないであろう。  そこで本稿では先学のすぐれた成果に学びつつ,城郭中心部に注目して慶長期の江戸城,寛永 12年(1635)二の丸改修以前の『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館蔵)の頃の江戸城,明暦大 火後の万治期の改修以降の江戸城の3段階に分けて構成を分析する。これによって各段階の縄張 りの特色を明らかにするとともに,江戸城の構造が織豊系城郭の発展をどのように集大成して出 現し得たかを示し,城郭史上の位置づけを明らかにする。さらに慶長期に確立した実戦的軍事性 をもった城郭プランが,万治期にかけてどう変容し,城郭に対する意識と社会における役割が, どう移り変わたのか検討する。  なお江戸城はくりかえされた改修の結果,曲輪の名称も変化したとされている〔小松1985〕。本 稿では煩雑になるので,内曲輪(本丸・二の丸・三の丸・西の丸・的場曲輪・山里曲輪・西の丸  下曲輪),外曲輪(大手前曲輪・大名小路曲輪・北の丸・吹上曲輪)と仮称して論述を進める。

1 発掘成果から見た江戸城中心部

 城館プランの変遷史をたどる研究は,城館の創築から廃絶までの変化を空間と時間の両面から 継続的に把握できる,発掘成果によって行われることが望ましい。そこで最初に江戸城本丸部分 で行われた調査成果を検討する。本稿で注目する江戸城中心部では,本丸北端辺の発掘調査を宮 内庁書陵部が行っている〔土生田・福尾1989〕。正確な調査位置は図示されていないが,現存天守 台の東側にあたる,書陵部庁舎南部分の発掘であった。この調査は約200m2と小面積であったが, 多くの知見が得られている(図1)。  第1に重要なことは,明治期に至るまで火災や将軍の代替わりなどを契機とした改修が行われ, 盛土整地がくりかえされていたことが考古学的に確認できた点である。検出遺構は標高17.4m∼ 17.9mの整地面に位置した,18世紀以前の2つの石垣根石や石組暗渠(1期),標高19m∼19.2       241

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国立歴史民俗博物館研究報告 第50集 (1993) 書陵部庁舎 〔1

ll    礎石建物 9−…ぐ==    一一一一11 ・ζ__ 些 敷石遺構   __二〇   一一一一一 石組溝2 囲状遺構  川石組溝1  日 : 石垣1 9 ll 煉

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川川暗川︰  石垣2 (二壊笛       図1 江戸城本丸発掘遺構図〔土生田・福尾1989〕 mの整地面に位置した18世紀後半以降の石組溝・上水汲み場の石囲み遺構(H期),標高約19.5 mの整地面に位置した明治15年建築の中央気象台基礎(皿期)の3時期にまとめられる。  遺構の保存が決定されたため,調査区は地山まで完掘されていない。このため1期を遡る遺構 がさらにその地下に埋没していることは確実である。しかし確認された範囲でも,各期の遣構は 古いものから新しいものへ層位を上げながらつくられており,名期の遺構が乗るベース面は明ら かな盛土整地と考えられる。  第2に重要なことは,近世初頭に遡る可能性が高い2つの石垣根石(1期)を検出したことで ある。この2つの石垣はいずれも東西方向に伸び,幅約8mの間隔がある。北側の石垣1は南側 に栗石をもつことから北に面し,南側の石垣2は北に栗石をもつから南に面していたと復元され る。これら相互の構造と層位,位置関係から2つの石垣は別個のものではなく,ひとつの石塁の 北面と南面であった可能性が高い。調査地点から北面が城外側,南面が本丸曲輪内側と判断され る。これについては,のちの寛永期江戸城の構造分析で検討する。  第3に重要なことは,調査地点から18世紀末∼19世紀前半を主体とする陶磁器に加え裁縫道具 など女性用品が多く出土したことである。絵図や文献から知られていた当該期の大奥拡張の具体 的状況を明らかにしたといえる。この点についても後述する万治期以降の江戸城の構造と合わせ て検討する。  この宮内庁書陵部による本丸の調査以外にも,東京国立近代美術館遺跡調査会による北の丸の 発掘〔古泉1986〕などがある。しかしいずれも広大な地域のなかではなお点的な調査に留まり, こうした発掘成果のみから江戸城中心部の構成の特色を論じることは,現状では不可能といわな

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       集大成としての江戸城 くてはならない。そこで本稿ではこれら発掘調査の成果を年代や評価の基準として活用し,絵図 や地表面観察の成果と合わせた「広義の考古学」〔前川1991〕によって江戸城の構造分析を進め ていく。

2 慶長期の江戸城

(1) 普請の状況  慶長期の江戸城の構成を具体的に示す史料は充分ではない。もとより徳川氏は天正18年(1590) に江戸城に入っており,慶長期以前から改修・増築工事が行われていた。r家忠日記』でも天正 19年4月に家臣の知行1万貫につき5人あてで,応急の工事をはじめたことがわかる。  当時,家康の各重臣も関東一円に配置され,多くは後北条氏時代からの城郭を改修して使用し た。これらの城郭もほとんどは土づくりの城のまま,虎口等に織豊系城郭的な改修を行っていた ことが現地調査から確認される。こうしたことから,詳らかにできないが天下普請前の江戸城は 石垣使用を虎口などの要所に限り,土づくりの細かな塁線の屈曲を多用した城郭であったと推定 される。  慶長8年(1603)徳川幕府が開かれるとさっそく翌9年,西国の諸大名に江戸城普請石材運搬 の準備命令が下った〔鳥羽1962〕。同10年には伊豆から石材が運びはじめられ,慶長11年3月から 本格的工事が進められた。普請の中心は本丸を含む内曲輪と城東南の外曲輪であった。さらに翌 12年には引き続き天守台や北の丸の天下普請が実施された。これによって主要部分の構成が一旦 整った。本稿ではこの段階の江戸城プランを「慶長期江戸城」と仮称する。  この段階の江戸城のプランを示すものとして『慶長江戸図』(国立国会図書館蔵)と『慶長江戸 絵図』(東京都立中央図書館蔵)が知られる。r慶長江戸図』は慶長6年江戸大火直後の同7年頃 の状況を描いたとされる。後年の本丸,西の丸,三の丸部分に相当するところにすでに堀が巡ら されている。また要所には門があったことがわかる。  しかし城郭中心部分は「御城地」と記された白抜き状態で,具体的プランを読み取ることはで きない。門自体も記号的表現に留まる。同時期の織豊系城郭と比較しても,絵図のように城郭中 心部分が単純に堀を巡らしただけで,曲輪間あるいは曲輪内の機能分化が達成されていなかった とは考えにくい。こうしたことより『慶長江戸図』が当時のものであっても,写実的な城郭中心       (1) 部の状況は表記していないと判断すべきであろう。だからこの絵図をもって当該期の江戸城中心 部の構造を評価することは適切ではない。  これに対して『慶長江戸絵図』はかなり詳細に城郭中心部の姿を描く。この絵図はのちの実測        (2) 図をベースに慶長13年頃の史料によってつくられた復元図と推測されている(図2)。塁線の屈 曲はゆるやかであるが,本丸をはじめ三の丸(西の丸下)や大手前曲輪,大名小路曲輪,北の丸 といった城郭中心部分の骨格はできあがっている。一定度当時の城郭構成の具体的なあり方を示        243

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国立歴史民俗博物館研究報告 第50集 (1993) 田安門

爵職

図2 慶長期江戸城要図(r慶長江戸図』による) ずものとしてよいだろう。しかしそうだとすると本丸など寛永期の江戸城と比較してプランが異 なる。以下具体的に検討を進める。 (2) 慶長期江戸城の構成  本丸部分  本丸部分は複雑に石垣塁線と殿舎の輪郭が書き込まれているが,主要構築物の概 ねの位置を示す程度である(図3)。だから塁線や建物の位置関係や相互の間隔は必ずしも正確 とはいえない。  これまでaが天守閣,その南に並ぶb,c, d, eが対面のための殿舎群と推定されている 〔村井編1986〕。天守閣aの北側では小曲輪fを囲んだ塁線(多聞櫓)と櫓や門が認められ,天守 曲輪に相当する本丸詰の丸が構成されていたと評価できる。いくつかの櫓と天守閣が連立する景

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集大成としての江戸城 図3 慶長期江戸城中心部要図 観であったと考えられよう。  本丸へは南側と北側の2つの城道が設定されていた。南からの城道は虎口1(蓮池門)および 二の丸の虎口2(大手門)から進む道である。虎口1は積極的な出撃を意図する外枡形である 〔千田1987〕。虎口2は明確な枡形を採らない。本丸東下の二の丸は帯曲輪としての機能しかもた ない。  本丸南ルート正面は地形の段差を利用した石垣塁線を組み合わせることで縄張りが構成されて いた。虎口3は両側を堀で守られた内枡形である。城道はこの門を経たのち,正面の石垣に遮ら れて右と左にターンした。左に曲がると長大な虎口空間を備えた外枡形虎口5が控え,右に曲が ると虎口6がそびえていた。虎口8は本丸中心部へ導く最後の城門で,城内でも格式が高い重要 な門のひとつであったと考えられる。この虎口8はきわめて明快な外枡形虎口として描かれる。 本丸などの城郭中枢部に入る虎口を外枡形で整えることは,安土城黒鉄門,大坂城詰の丸虎口, 肥前名護屋城などで行われており(図3),伝統の天下人の格式が強く意識されたものと考えら れる。  しかし信長・秀吉段階の一連の外枡形虎口が,いずれも城内側よりみて右側塁線を突出させる プランなのに対し,江戸城虎口8は左側塁線を出す。こうした設計は文禄・慶長の役の倭城以降 に顕著で,そうした改良が採用されていることがわかる。虎口3→5→7→8もしくは虎口3→ 6→(4)→8というように段差を利用しながら,虎口と虎口空間を折り重ねていく構成も,実戦 的な軍事機能が頂点に達した倭城技法の再現といってよい。このように本丸南部分は純粋な虎口       245

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国立歴史民俗博物館研究報告 第50集 (1993) 駿府城 丹渡篠山城 馬出し 本丸 名古屋城 0      200m 図4 帯曲輪馬出しの諸例 と虎口空間の連続体として構成されており,外 枡形を主軸とした織豊系城郭の,縄張り理論を 集大成したものと評価できる。  本丸北側の城道は天守や殿舎の背後に進入す る道である。本丸内に入る最後の虎口は9と10 である。9は天守aの直下に進むコースだが, 塁線間隔がやや開いており明確な虎口は表現さ れない。しかし天守背後が開放されていたとは 考えられず,このように見えるのは描写の誤差 によると判断される。当然,曲輪fを囲う塁線 と本丸北辺を限る石垣が部分的に狭まり,虎ロ 9を形成していたと復元すべきである。虎口の 位置は奥まった曲輪fの東辺りに想定されるか ら,単純な平入りもしくは内枡形虎口であった と考えられる。  虎口10は虎口9とは対照的に明快な外枡形虎 口の構成をとった。北側は本丸の搦手に相当す るが,積極的な攻勢も意図されていたことがわ かる。それではさらに外へとつづく部分はどう であろうか。ここには本丸北を厳重に守る塁線 と堀が築かれ,虎口11が備えられていた。虎口 11は一見,堀を土橋で渡る単純な平入り虎口に 思われるが,その外の帯曲輪と合わせて注目し なけれぽならない。  そこには両端を塁線で仕切られた楕円形の曲 輪hがあった。この曲輪hは曲輪の脇から入り, 内部が広場(虎口空間)で,直角に城道が折れ たのち背後の土橋を渡って後方の曲輪に連絡す るという特徴的な構造から,馬出しと評価でき る。さらに馬出しhの両脇の曲輪9とiも同様 の馬出しと判断され,この部分一帯は壮大な重 ね馬出しの空間として構成されていたことが判 明する。馬出しは織豊系城郭において外枡形とともに積極的な出撃を実現した,最も完成された 虎口の形態であった。

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       集大成としての江戸城  馬出しhのように後方中心曲輪(江戸城では本丸)の虎口前面の帯曲輪が仕切られて馬出しと して機能する事例は,慶長12年(1607)の駿府城,同14年の丹波篠山城,同15年の名古屋城を筆 頭に江戸城以降の城郭に頻出する(図4)。これは特別に設定された空間としての馬出しから,一 般の曲輪が馬出し機能を合わせもち,プラン上,曲輪の数だけ効率のよい出撃を可能にした,虎 口機能の一般曲輪化と理論化してとらえることができる。江戸城の馬出しhはこうした動きの初 源例と評価される。織豊系城郭の馬出しの発展を受け継ぎ,さらにここで確立された馬出しの一 般曲輪化が,その後の城郭プランにきわめて大きな規範性を発揮したのである。  このように殿舎が建ち並び政庁機能と生活機能を発揮した本丸は,軍事的機能を強く発揮した 南北の虎口空間帯とセットとなることではじめて成立し得たのであった。本丸内の天守曲輪の存 在と合わせて,実戦に機能することが第1に考えられていたということができよう。  西の丸と周辺曲輪  西の丸は本丸西方の高地で半独立的な構成をもつ。西の丸の南下に位置 する曲輪j(的場曲輪)とは虎口12に連なる橋でつないでいた。この曲輪jは大きな面積をもち 一般曲輪化しているが,プランから見て本丸北のhと同じように馬出し的機能を発揮したと考え られる。また西下の曲輪(山里曲輪)も同様の性格をもった馬出し曲輪としてよいだろう。さら に虎口13は地形の段差を利用した大型の外枡形だったと評価できる。つまり本丸と西の丸に挟ま れた曲輪k(紅葉山東)側に対して積極的な出撃の姿勢をもつのである。このように本丸側に対 しても攻撃性を示すことは驚くべきことであろう。西の丸は西にも東にも独自性を備えた,完結 可能な城郭であった。  慶長期の江戸城は軍事機能の面で本丸に一元化されない,2つの中心曲輪から成り立っていた のである。こうした構成から,当時の西の丸には本丸の居住者と対抗し得る,かなり高位の居住 老が存在し,築城主体の権力構造が二元的なものとなっていたことを読み取ることができる。  当初西の丸は「新城」あるいは徳川家康の「御隠居城」と呼ばれ,文禄元年(1592)から築き はじめられたという。その後西の丸は家康が死去するまで,家康の江戸滞在時の宿館として維持 され,機能は変わらなかったと考えられる。この時期は2代将軍秀忠と大御所家康がたがいに徳 川氏の権力を二分して政治が行われていた段階と一致する。まさに西の丸をとりまく城郭プラン のあり方は,当該期の政治状況を如実に反映したものと評価できる。  曲輪kから南に突出した曲輪1(坂下門)は四周を堀で囲まれた変則的な馬出しであるが,こ の馬出し1が「本丸」城と「西の丸」城の2つの城に共通して従属する曲輪kから出ることによ って,江戸城中心部はひとつの城としての調和を保っているといえよう。  さらに中心部をとりまいて三の丸,西の丸下,大手前,大名小路,北の丸,吹上の巨大な曲輪 群が構成されていた。これらは各大名や上級家臣団の屋敷地として利用されていた。ここで注意 されるのは,三の丸桔梗門,大手前の常盤門・推橋門,大名小路の日比谷門,北の丸の田安門な ど要所の門に防御に固い内枡形ではなく,積極的な外枡形を採用していたことである。  殊に大手道筋に連なる常盤門は他を圧倒する壮大な外枡形である。建設当初の江戸城下がこの       247

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 国立歴史民俗博物館研究報告 第50集 (1993) 常盤門一浅草橋を基軸にした本町通りをメインストリートにしていたことを考え合わせれぽ〔玉 井1986〕,常盤門が外枡形として構えられた意味は,権力の姿勢を表してまことに大きかったと いわなくてはならないだろう。

3 寛永期の江戸城

(1) 普請の状況  慶長12年(1607)までの工事で江戸城は一応の完成をみたが,その後も断続的に普請が続けら れた〔鳥羽1962〕。慶長15・16年には西の丸および西の丸下,吹上曲輪の堀などが,同19年(1614) には本丸,二の丸,西の丸の虎口周辺石垣普請などが行われた。この慶長19年の工事は豊臣氏大 坂城攻めのため一旦中断されたのち元和6年(1620)に工事が再開され,城内各所の枡形の石垣 などが築かれた。  こうした一連の工事の後,元和8年(1622)には本丸の基本プランを大きく変える工事が実施 された〔小松1985,内藤1988〕。この工事では本丸北側の堀が埋め立てられ面積が広げられるとと もに,天守閣や殿舎が改築された。これによって本丸の構造は慶長期の姿から根本的に変更され た。この年には豊臣氏滅亡後の大坂城本丸の石垣改築もはじまっており,プラン上の関連が想定 される。  さらに寛永3年(1626)には西の丸の堀と石垣の工事が,同5年には外郭の修築がなされてい る。そして寛永6年(1629)には外様大名だけでなく譜代大名にまで助役が命ぜられた大工事が ふたたび行われた。この工事では外曲輪諸門の枡形石垣が整えられ,西の丸塁線および虎口の改 修がされた。また西の丸とその西下の山里曲輪を隔てていた堀が埋められ,ひと続きの曲輪とさ れた。本丸と同じく,西の丸の面積を広げることが必要とされたのであろう。老中土井利勝が江 戸城から居城の佐倉城(千葉県)に三階の銅櫓をもらい受けたのも,この山里曲輪の工事のとき とされる。  この寛永6年の工事によって概ね寛永前半期の江戸城プランは完成した。本稿ではこの段階の 江戸城プランを「寛永期江戸城」と仮称する。寛永期江戸城の構成を示すものとして,『武州豊 島郡江戸庄図』(国立国会図書館蔵)と『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館蔵)が知られている。 『武州豊島郡江戸庄図』は板行図では最古の江戸図とされる。寛永9年(1632)の開板と刻する ものもあるが,後刷りのため確かではない〔塚本ほか1991〕。  描写は全体に概念的であるが,この絵図から本丸北側の堀がなくなっていること,本丸北の土 橋が木橋に改められていること,本丸と二の丸を隔てた堀(白鳥堀)の南半が埋められたこと, 二の丸に大手枡形が備えられ,初回城道右折れの構成であったことなどがわかる。このようによ       (3) く特徴をつかんだ部分もあるが,城道のつながり方が明解でない部分も存在する。後者は絵画的 にプランの複雑さを強調し,「迷宮」的雰囲気を与えている。

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 写真1 『11戸図屏風』に描かれた江戸城

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集大成としての江戸城 a本丸北虎口空間帯 b本丸南虎口空間帯 C西の丸南虎口空間帯

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天守台 丸          常盤門 図5 寛永期江戸城要図  『江戸図屏風』は6曲1双の大型の屏風で徳川家光の一代記的性格をもつ。景観年代は寛永11       (4) 年(1634)頃と推測できるという。絵画的表現によって省略され正確でない部分もあるが,概要 はつかむことができる(写真1)。本丸北の木橋,二の丸大手枡形などは『武州豊島郡江戸庄図』 と内容が一致する。白鳥堀については,本丸の殿舎が二の丸塁線際まで描かれており,直接には 確認できない。  しかし二の丸大手枡形後方の白壁が,手前に大きく屈曲するように描かれることから,この白 壁の左(南)が門の開く虎口空間,右(北)が白鳥堀であったことを容易に読み解くことができ る。この点も両図は一致すると考えてよい。これら両図の知見を後世の絵図で一部補って,近代 の測量図に投影復元した(図5)。以下具体的に寛永期江戸城のプランを検討する。

(2)寛永期江戸城の構成

本丸部分  本丸への中心的な城道が,北と南から設定されているのはこれまでと変わらない。 しかし両者とも曲輪内をさらに細分していた堀が埋め立てられ,構造は大きく変化している。北        251

(13)

 国立歴史民俗博物館研究報告 第50集 (1993) 側では堀がなくなった分構成は単純になり,2重の塁線だけで守るよう設計変更されていた。  しかし天守閣が本丸北端に移転し,これを本丸北面防御の要と位置づけることで相応の効果を あげた。天守台は大天守台の南に小天守台を付設した形で,小天守台の西から多聞櫓が伸びて, 本丸西辺の櫓と連結した。また大天守台東辺には塁線が取りつき,本丸北の内枡形と連結した。 こうした構成は同時期に築造が進められた大阪城天守閣周辺のプランにも,江戸城例ほど積極的 ではないが認められ,同一系譜に属することが確認できる。  書陵部の発掘調査で検出された石垣1・2は位置から考えて,この大天守台から東に伸びた塁 線の内枡形部分であったと考えてよいだろう。名古屋城本丸枡形部の塁線幅も約8∼9mで,石 垣1・2の幅とほぼ一致する。両石垣を多聞櫓を乗せた同一塁線の内外面と考えて無理はない。 石塁外側に堀はなく,内枡形内部の虎口空間になっていたと想定できよう。  この石垣外側の本丸北端部は塁線際の多聞櫓以外に建物がほとんどない,内・外枡形と虎口空 間がいくつも重ねられた虎口空間帯となっていた。r江戸図屏風』では弓や鉄砲の稽古をしてい るようすが描かれる。戦闘時の攻撃・防御の足場として機能し,日常は城内のまとまった広場と して存在した虎口空間帯の状況がうかがえる。  本丸南側部分は虎口1・2が並んで備えられる。虎口1は典型的なくい違い虎口重ねの構成で ある。こうした構成は慶長期江戸城でも同一部分で確認できることから,基本プランは慶長期に 遡ると見てよいだろう。寛永期江戸城の中で虎口1周辺部だけが突出して軍事的緊張感が高いの も,この段階ではすでに古式となった慶長期の虎口構成をそのまま継承していたからと評価でき る。  しかしこの虎口1は,実戦を意識したため急なつづら折りとなり虎口幅も狭く,大手道筋にあ たる本丸南側でも正式な城道とはならなかった。別言すればそうした城道であったから,家康時 代に遡るくい違い虎口重ねの構成が象徴的に残されたのであろう。  虎口2は江戸時代に定形化した大型の外枡形で,高い格式を備える。本丸殿舎に到達する正式 な城門としてふさわしい構成といえる。この虎口を外枡形として整えたのは,先に検討したよう に織田政権以来の要の虎口の伝統が,ひきつづき意識されたからだと思われる。そして虎口1・ 2を出たところから二の丸に至る間は,塁線際の櫓などのほかはほとんど建物がなく,複雑に虎 口とその背後の虎口空間が重ねられた虎口空間帯を形成していた。  殿舎の建ち並ぶ本丸の南北に虎口空間帯を設ける構成は,前段階の慶長期江戸城と同一の手法 である。またこの寛永期江戸城では二の丸大手道筋の内枡形(虎口3)は枡形内で右折し,二の 丸内を経由して本丸虎口空間帯に進むようになっていた。つまり二の丸は本丸虎口空間帯よりも 下位の曲輪として位置づけられ,帯曲輪として本丸の南北を結ぶ回廊的役割を構成上担っていた にすぎなかった。  西の丸と周辺曲輪  西の丸では山里曲輪との間の堀がなくなったため,虎口4・5も西の丸 の城門として機能した。虎口4は的場曲輪へ,虎口5は紅葉山へ開く。このうち虎口5は外枡形  252

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       集大成としての江戸城 の形態を採り,高所つづきで注意が必要な紅葉山をにらむ。一方慶長期江戸城段階では本丸と対 等に対時した外枡形を備えた虎ロ6は,この段階ではおとなしい平虎口に改められた。本丸側に 対して戦闘性を極力抑えた構成であった。本丸と西の丸の並立的な二重構造から,本丸を中心と した一元的な構造に進化したといえる。  こうした変化は3代将軍家光を中心とした一元的な組織の充実と,権力の確立を反映したもの と評価される。江戸城は寛永期に全体プランの根本に係わる変貌をとげていたのである。本丸を 中心とした一元的構成は,火災で本丸殿舎が失われ将軍が西の丸に居住することはあっても,構 成上はその後ゆらぐことがなかった。  また西の丸北の紅葉山は元和4年(1618)に徳川家康(東照大権現)の内廟として東照社を勧 請したのをはじめとして,代々の将軍を祭る,聖なる空間として整備されていった。西の丸の南 に位置した的場曲輪は,西の丸に直属した虎口空間帯として,慶長期江戸城から引きつづいて機 能した。r江戸図屏風』によれぽやはり塁線際の櫓のほかはほとんど建物が存在しない広場的な 場所として描かれている。さらに内部には仕切の石塁が築かれ,吹上曲輪から進入した場合,曲 輪内を左まわりにめぐらなけれぽ進めない構成になっていたことがわかる。  三の丸は二の丸正面の南北に広がる曲輪である。内部は重臣の屋敷や御鷹屋敷などが配置され ていた。三の丸中央に大手内枡形が開くのは変則的だが,二の丸から進み左右に分かれて外に出 る基本パターソは認めることができる。こうしたことより三の丸は一般曲輪化しているが,馬出 し機能を合わせもったと評価できる。『江戸図屏風』ではこの場所は朝鮮通信使の献納品が並べ られた大きな広場として描かれた。これも江戸城内の他の事例と同様に日常的には多目的な広場 として使用された虎口空間のあり方を反映したものと考えられる。  大手前曲輪をはじめとする外曲輪の諸門は,この段階にはすべて内枡形に整えられていた。プ ラン上は積極的な攻勢を意図したところはうかがえないのである。こうした傾向は内・外曲輪と 主要町屋をとり囲む惣構え(この時期は北西部が未完成)の諸門にも共通した。著しい内枡形虎 ロへの傾倒といってよい。慶長期江戸城では大手道筋にあたる常盤門を特に象徴的な外枡形にし ていたが,他の諸門と横並びの虎口構造にすぎなくなっている。実戦の想定に裏打ちされて内・ 外枡形を使い分け,城郭各部分のプランの特色が豊かに表された段階から,画一的に守りに固い       (5) 内枡形を配して,外形の格式を整える段階に変化したのである。  こうして寛永期江戸城は殿舎空間の拡大のため防御空間を縮小し,軍事機能を前面に押し出し た実戦的な姿から,洗練されより理論的ではあるが画一的な姿に変化した。本丸・西の丸はなお 複雑な外枡形や馬出しを備え,出撃に対する意図を維持するが,外曲輪ではすべての虎口が専守 を意図した内枡形となり,両地区の格差がはっきりしてくる。この時期の江戸城は総体的に軍事 機能の低下が現れた段階とすることができる。

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国立歴史民俗博物館研究報告 第50集 (1993)

4 万治期以降の江戸城

(1) 普請の状況  寛永6年(1629)の大工事終了後も引きつづいて庭園の造営などが進められたが,城郭構成に かかわる変更は行われなかった。しかし寛永12年(1635)になると本丸と二の丸境の堀を埋め立 て,さらに二の丸塁線を東の三の丸側に拡幅する工事がはじめられた。二の丸に新たな殿舎を企 画するためである。このため二の丸を囲む堀は,大きく三の丸を削り込んで構えられることにな った。  これによって本丸と二の丸の間に地つづきの部分ができたので,両者を直接むすぶ坂虎口が新 設された。境の堀がなくなったことで本丸の防御力は明らかに低下したといわなくてはならない。 いずれにせよ寛永期江戸城でも見られた軍事機能を犠牲にして殿舎を拡充する方向性は,さらに 顕著になったのである。  寛永13年には惣構えの延長工事が行われた。そして翌14年には本丸天守台および一部櫓台の修 築,殿舎の再築が実施されている。天守閣が造営されたのはこれが最後になった。しかし2年後 の寛永16年(1639)には本丸殿舎より出火し,天守閣と北方の櫓をのぞいて建物は全焼した。こ のため翌年にかけて殿舎などの造営がふたたび実施された。  この工事によって完成した殿舎も明暦3年(1657)の大火でほぼ全焼してしまった。修築工事 は同年中からはじめられ,地つづきになっていた本丸と二の丸の坂虎口の形態を改めた。またこ れ以外にも本丸塁線のプランを部分的に変更した。殿舎を含めた工事は万治2年(1659)に完成 した。  これ以降も江戸城はたびたび大火に見舞われ,そのつど修築が行われた。しかし万治2年の工 事以後は旧状にもどすことが基本となり,これ以降幕末まで城郭としての江戸城の構成は大きく 変わらなかった。そこでこの段階の江戸城を万治期以降の江戸城と仮称する。万治期以降の江戸 城を示す史料はr江戸御城之絵図』(東京都立中央図書館蔵)や甲良家に伝わった多数の殿舎指 図など豊富である。こうした資料を勘案しながら明治16年参謀本部測量1:5000地形図をベース にして,中心部の構成を復元した(図6)。以下具体的に万治期以降の江戸城のプランを検討す る。

(2)万治期以降江戸城の構成

 本丸部分  本丸部分で大きな変更があったのは,北と東の塁線である。寛永期江戸城では慶 長期江戸城と比べ簡略化されたとはいえ,天守台を核として北辺防御に対する一定の配慮がなさ れていた。しかし万治期以降の江戸城では,大奥の拡張にともなって,本丸と本丸北部の虎口空 間帯を区切る塁線は,いくたびかの変遷ののち,ついに直線的で形骸化した仕切となってしまっ  254

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集大成としての江戸城 ク〃〃〃・ ・,//  /

△天守・

  久 〃汐・ / 力 ジ ’z%ソク%淵 Z/ ノ 、/ 2 二の丸 3 難ろ% d 4 の丸 e / 講/ ン 西の丸下曲輪 500m 0 図6 万治期以降の江戸城

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 国立歴史民俗博物館研究報告 第50集 (1993) た。  天守台は増大した大奥長局にとりまかれ孤立していた。書陵部の発掘調査によって検出された        (6) さまざまな生活道具や女性用品も,こうして拡張された段階以降の大奥に伴うものであった。ま た本丸から西方の紅葉山に出る虎口1背後の虎口空間帯は半減した。本丸東辺の虎口2は,本丸 から二の丸に直接連絡する格式が考慮され外枡形となっていたが,虎口背後の虎口空間帯をもた ず,あるべきところには本丸殿舎が迫っていた。  さらに寛永12年の工事で二の丸が拡張され殿舎が営まれたことから,二の丸内部の理論的な構 成も変更された。二の丸はこれまで回廊的役割が大きく本丸南の虎口空間帯より下位の曲輪と位 置づけられていた。このため二の丸大手道筋の虎口3も内枡形内で右折し二の丸を経由したのち, 本丸南の虎口空間帯に進むよう設計されていたのである。  しかし万治期以降の江戸城では二の丸と本丸が直結することになったため,虎口3は内枡形内 で左折し先に本丸南虎口空間帯に入り,そこから左へ進んで本丸,もしくは右へ進んで二の丸へ 行くように改められた。これより虎口空間帯と二の丸の従属関係は逆転した。本丸・二の丸をむ すぶ城道の新設によって,本丸を頂点とした一貫した求心構造を破綻させないよう,細かな注意 がはらわれているのである。  三の丸は二の丸の拡張によって面積が減じられた。この段階の三の丸は曲輪内北よりにくい違 い虎口4が設けられ,内部が2つ(d・e)に区分されていた。d・eは等質でなくdを上位の 空間とした階層性をもっていた。dには寛永20年(1643)に三の丸御殿が建てられ殿舎空間とな っていった。一方eは慶長期江戸城以来の馬出し機能を受け継ぐ場所として,大手門背後の広大 な虎口空間帯として維持された。  西の丸と周辺外曲輪  この段階には城郭としての基本プランの変更を伴う工事はなく,寛永 期江戸城の西の丸と周辺外曲輪を元とした構成が一層整備されていった。こうして万治期以降の 江戸城は,実戦的な軍事機能を切り捨てて殿舎を拡張することが,最低限本丸の求心性を損なわ ない範囲で,全面的に実行された段階と位置づけられる。江戸城中心部は城から宮殿へと変化し ていったのである。

5 象徴としての城郭

 慶長12年(1607),寛永6年(1629),万治2年(1659)以降という3段階の江戸城の構成を検 討してきた。ほぼすべての近世城郭が文禄・慶長期から寛永期までに行われた1度の工事で基本 プランが確定し,その後幕末まで大きく変化しなかったことを考えると,江戸城をめぐる近世初 頭のめまぐるしいプランの改変を伴った改修は,きわめて特異なことであった。  こうした城郭の劇的な変化を幕府の大名政策,もしくは将軍の嗜好による改修といった表層で 評価していくのは正しくないであろう。城郭がすぐれて政治的な施設であったことを考えるなら  256

(18)

       集大成としての江戸城 ば,近世において築城権を一手に集約し,唯一大規模な改修を許された近世城郭・江戸城が,か くもめまぐるしく姿を変えなけれぽならなかったことは,近世初頭の将軍を頂点とした幕府権力 確立の道程を示すという視点から検討されなくてはならない。  江戸城は慶長期に織豊系城郭の集大成として,実戦的な軍事機能を最大限発達させて成立した。 しかし寛永期になると本丸北堀の消滅に象徴されるように,虎口構造などは織豊系城郭の系譜を 受け継ぎ,より理論的に洗練されながら実戦力は失われていった。さらに万治期以降ではごく一 部分を除いて外枡形は採用されなくなり,地形や場の特性を無視した画一的な虎口構成になった。 そして本丸を守る最後の城壁であった本丸と北側虎口空間帯の間の塁線も,ついには貧弱な仕切 土塀と化してしまう。  堀・虎口・石塁の変遷から指摘できるのは,寛永期以後一貫した外枡形の特定化と実戦的軍事 機能の低下である。慶長期江戸城では出撃に有利な外枡形と防御に有利な内枡形は,その虎口が 城郭の中で発揮すべき軍事機能の違いによって選択されていた。しかし寛永期さらに万治期以降 の江戸城では,内枡形は一般の虎口に普遍的に使われ,外枡形は特別に格式が求められる門に, 限定されて使用されたと評価できる。内・外枡形の選択は軍事機能からの欲求によらなくなった のである。別言すれぽ,門によって仕切られた内なる空間の格式,さらにその内に居住するもの        (7) の権威と身分を表象するひとつの記号として虎口形式は決定され,新たな意味をもったのである。  こう考えると慶長期江戸城において城内各所に散見された外枡形虎口が,ついに本丸虎口に収 敷され,集中的に使用されていった意味もはじめて理解できる。寛永期江戸城が西の丸の外枡形 を明確に廃止したのも,本丸に向けられた外枡形という軍事的脅威の解消といった意味だけでな く,江戸城内で将軍だけが外枡形を許されるという,権威の象徴としての虎口が強く意識された からに違いない。  実戦的な軍事が後景に退いた江戸城のもうひとつの特徴が,殿舎空間の拡大であった。江戸城 本丸の殿舎は朝廷勅使接待,外国使節謁見,正月,月次,八朔,嘉祥,亥の子などさまざまな儀 礼の場として,鮮やかに息づいていた〔平井1986〕。17世紀後半には主要な儀礼が整備され,それ はしだいに先例として固定化された〔村井1964〕。まさに殿舎空間の増大はこうした儀礼の確立・ 整備と一体となってなされたものであった。くりかえされた儀礼の中で将軍と幕府権力の権威が 確認され,それを維持する努力がつづけられた。  こうした点と合わせ,さらに寛永期以降の江戸城に顕著なのは,聖なる空間の大規模な取り込 みであった。本丸と西の丸の間の紅葉山はまったく軍事的な構成をとらず,防御拠点としての求 心性はもたない。しかし紅葉山は面積では本丸・西の丸と並ぶ規模をもち,重要な位置を占めて いた。近世城郭に宗教的な空間を取り込んだ事例には安土城・小田原城・人吉城・延岡城などが あるが,これほどの面積で城郭の中心部に聖なる空間が企画されたものはなく,江戸城紅葉山は きわめて異例といわなくてはならない。  いかに江戸城にとって神となった祖先を祭ることが,重要とされたか理解される。寛永9年に       257

(19)

国立歴史民俗博物館研究報告 第50集 (1993) は2代将軍秀忠の霊廟も造営された。江戸城紅葉山に東照社が勧請されて以降,各地の譜代,親 藩の大名居城にも東照社(宮)は数多く勧請されていった。江戸城例は城内に勧請された東照社 (宮)の原型とすることができる。もとより東照社(宮)の中心は日光であるが,紅葉山東照社 はそうした城内での東照大権現祭祀の頂点として位置したのである。紅葉山の聖なる空間化は現 実の政治拠点とセットとなることで,将軍を中心として形づくられた幕藩体制の,現世だけでな く未来までを武士の神様として加護することを顕在させ,精神世界の支配をも見通すことが意図 されていたに違いない。  寛永期以降の江戸城では,将軍の本丸,前将軍の西の丸,祖先神霊の紅葉山が城郭として三位 一体の構造をなした。そして殿舎空間における儀礼による直接的な権威確認,虎口形式による象 徴的権威の表出,東照社祭祀を通じた祖先神霊による権威の演出が,たがいに連関して進められ ていったのである。  織豊系城郭の軍事面の頂点としてつくりあげられ,実戦的軍事機能を直接に発揮した慶長期江 戸城は画期をなす2度の大改修によって,象徴的軍事機能を備えた広大な政治・儀礼の場と変貌 していった。江戸城の軍事施設は実戦的なものから擬制的なものになったといってよい。これは 近世封建権力が軍事力を権力の背景としながら,直接的な軍事力行使から遠ざかり,日常の政治 に加え,儀礼によって権力と権威を構成したことに江戸城プランが即応し,それを体現していた と評価できる。江戸城の軍事施設は実戦ではなく,象徴として機能したのであった。こうした城 郭そのものの近世的な変化をふくめて江戸城は,日本の城郭の行き着いたひとつの集大成であっ た。 註 (1)従来簡略な描写に留まるのは,慶長6年の火災から復興していないためとされてきたが,そうでは   なく城郭部分については故意に記載を避けた可能性も高い。近世江戸の絵図における城郭部分の空白   化,近代の地形図における皇居部分の空白化と合わせ,絵図・地図における権威の空白化は,さらに   留意する必要があるだろう。 (2)r慶長江戸絵図』は写本によってかなり重要な部分の記載に異同があり検討を要する。また史料の   信愚性も問題となるが,本稿で明らかにしたように当該期の城郭プランとしてふさわしい内容で虎ロ,   天守曲輪など要所をおさえている。同時期の城郭プランとも密接な関連をもっており,まったくの後   世の空想であるとは思えない。記載に粗密はあるものの一定度信頼してよいだろう。 (3)寛永9年とされる東京都立中央図書館蔵r武州豊島郡江戸庄図』は国立国会図書館蔵のものと比べ,   江戸城部分の描写に省略や誤記があり,明らかに国立国会図書館蔵のものがオリジナルに近いと考え   られる。 (4)水藤 真氏のご教示による。なおr江戸図屏風』をめぐる国立歴史民俗博物館での共同研究の成果   がr国立歴史民俗博物館研究報告』で近く刊行される予定である。「江戸図屏風』の諸問題について   はこれを参照されたい。 (5)寛永期にはすでに城下のメインストリートが江戸城常盤門を起点とした本町通りから,日本橋通り   へ移っていた。こうした町のあり方の変化も,常盤門が“特別な門”でなくなったことと密接に係わ   っていたと考えられる。 (6) 調査区部分に具体的に建物が建てられたのは,絵図の検討から18世紀後半の11代将軍家斉時代であ   った。こうした年代観は遣物とも一致すると評価されている〔土生田・福尾1989〕。 (7) こうした外枡形虎口の特定化は江戸城だけの現象ではない。文禄元年(1592)前後に最上義光によ 258

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集大成としての江戸城 ってつくられた山形城は,二の丸5箇所と惣構え7箇所の外枡形を備えた構成であったが〔r最上氏時 代山形城下絵図』(山形県立図書館蔵)〕,元和8年(1622)からの鳥居忠政の改修によって本丸1箇 所,二の丸1箇所,惣構え3箇所の外枡形と虎口を厳選したプランに改められた〔r出羽国最上山形城 絵図』(内閣文庫蔵)〕。これも単純な軍事面の要請だけから虎口型式が改められたのではないだろう。 近世城郭の虎口においてどのように内・外枡形が使い分けされたのか,その意味と合わせた総括的な 検討は後日を期したい。 文  献 木島孝之1992「九州における織豊期城郭」r中世城郭研究』第6号。 古泉 弘 1986「発掘された江戸城」r江戸城』日本名城集成,小学館。 小島道裕 1984「戦国期城下町の構造」r日本史研究』第257号。      1985「織豊期の都市法と都市遺構」r国立歴史民俗博物館研究報告』第8集。 小松和博 1985r江戸城一その歴史と構造一』名著出版。 千田嘉博 1987「織豊系城郭の構造」r史林』第70巻第2号。      1990「戦国期城郭・城下町の構造と地域性」rヒストリア』第129号。 玉井哲雄 1986r江戸一失われた都市空間を読む一』平凡社。 塚本 學ほか 1991r描かれた江戸』企画展図録,国立歴史民俗博物館。 鳥羽正雄 1962r近世城郭史の研究』1982再刊,雄山閣。 内藤 昌 1966『江戸と江戸城』鹿島出版会。     編 1988r城と館』復元日本大観1,世界文化社。 野崎直治 198grヨーロッパ中世の城』中公新書951,中央公論社。 土生田純之・福尾正彦 1989「江戸城本丸発掘調査報告」r書陵部紀要』第40号。 平井聖1986「儀式典礼からみた御殿の機能」r江戸城』日本名城集成,小学館。 前川要1991r都市考古学の研究』柏書房。 前川要・千田嘉博・小島道裕1991「戦国期城下町研究ノート」r国立歴史民俗博物館研究報告』第32        集。 村井益男 1964r江戸城一将軍の生活一』中公新書45,中央公論社。     編 1986r江戸城』日本名城集成,小学館。 室野秀文 1992「盛岡城の構造と特質」r岩手考古学』第4号。 (国立歴史民俗博物館考古研究部)

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Edo Castle as a Compilation SENDA Yoshihiro   Most Japanese castles in the latter half of the Age of Civil Wars(mid.16th century) were made of earth, and they had various local features. However, the O吻・Toッozo旗 Line Castles which appeared in the Tokai and Kinki Districts had developed into castles of revolutionary structure, such as the use of stone walls and tiles. The O4α・Toッozo勿i Line Castle plan was then introduced into the castles of Dαど勿ッδ(feudal Iord)nationwide, as the O4α・7bッozo批Governments came to contain Iocal D読〃zッδas their vassals in their uni丘cation of Japan.   It was the Tokugawa Shogunate that completed the unification of Japan at the be・ ginning of the 17th century. The leading castle of the Tokugawa Shogunate was Edo Castle(Tokyo). Therefore, Edo Castle has been assumed to be the castle to which the O4α一7寸oッo孟o琉Line Castle plan was developed to the maximum extent. However, since several reconstruction works were carried out to the castle, it has been dif五cult to know the initial plan. This being the case, the author examines in this paper the structure of the early Edo Castle, how it changed, and what cal be learned from the plan of Edo Castle.   As a result, the following became clear. The Edo Castle of the Kεゴ6みσera, which was completed around 1607, was built for maxilnumμacticality in actual battles, and it was the strongest castle in Japan. Then, in the Edo Castle of the Kα〃’θゼperiod, which was remodeled around 1629, military functions became somewhat weaker, and the 7bs乃δg元, alarge shrine devoted to the ancestors of the Tokugawa, was established within the Castle. Furthermore, in the Edo Castle of the Mαηβperiod onwards, remodeled around 1659,militarily practical functions were iowered corlsiderably, and the function of the castle as a palace greatly expanded.   Edo Castle was originally built as a castle for battles. However, as the society of the Edo period which was without wars, was stabilized, militarily pエactical functions were no longer required. Instead of military facilities, a grand palace for politics and ceremonies, and a shrine to show the rightness and tradition of political authority became necessary. The plan of the castle gates shows to best ef[ect these transformations of Edo Castle. After the latter half of the 17th century, the gates were rebuilt as a sy正11bol of the peoPle living inside the gates, and of the authority of the place, rather than for their usefulness in actual battle.   The transformation of the plan of Edo Castle can be judged to be a reHection of the fact that the Edo Shogunate showed its authority by means of ceremonies, and not actual battles, while having military power at its back Edo Castle was gradually transformed fro皿 a castle into a palace. 260

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