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オーストラリアにおける
環境主義の発展(1)
近 藤
下IHmWVW田
はじめに 問題の所在と性格 オーストラリアの社会・政治構造 環境主義の台頭と反動 環境主義の全国的拡大一一一一一…一…一一一一一 ESDプロセスと環境主義の爆発 オーストラリア・モデルの評価 一一一一ネ上,本号 1 はじめに 本稿の目的は,環境と開発という「競合するパラダイム」をどの様に調整し てゆくかという現代的課題に関し,日本とは極めて対照的と考えられる現代オ ーストラリア社会の取り組みを紹介し,検討することである。具体的には1960 年代の全国的環境団体の結成から1992年の国家戦略策定までの期間に限定し, 主として環境団体が主体となった環境運動が国家制度や国民の価値観をどの様 に変えて行ったかを考察の中心とする。このことは,同時に,「行政主導型」あ るいは「技術開発優先型」とも特徴づけられる日本社会の取ワ組みの意義と限 界を問い直し,「環境主義」という新たな可能性と柔軟性を日本社会に開花させ る上で少なくない意義を持つと考える。 II 問題の所在と性格 短期的にみれば,経済成長と環境保全の間にトレード・オフの関係があるこ彦根論叢 第296号 経済成長 図1
ノ
琴小冷へ
環境保全レベル SDレベル とは今やほぼ明かである。経済成長は多大の資源投入を不可避とし,自然破壊 などの社会的費用を発生させるのみならず,二酸化炭素などの様々な廃棄物を 不可避的に作り出すからである(図1参照)。しかしながら,そのことから直ち に長期的にもこの関係は成立し,従って経済成長と環境保全は和解し得ない宿 命のライバルなどと見なすことは正しくないか,または不十分な見解であろう。 図1に示した様に,もし経済成長と環境保全の短期的トレード・オフ関係を右 上にシフト・チェンジさせることが出来るならば,長期的にはより高い経済成 長とより高い環境保全状態を同時に達成することは形式的には可能である。こ うした成果を達成するためのポイントは,自然と人間社会の関わり方を問い直 し,現在の社会システムを経済優先主義型から環境優先主義型へと転換してゆ くことである。そのためには,住民一行政一産業界一政治家といった従来の社 会集団内外の相互関係,労働時間の短縮,環境影響評価や環境権などの法制度, 参加型地方自治の拡大と地方分権の推進,既存の行政組織の機能と権限の再編, 「物質主義的」価値観の転換といった社会システム総体の漸進的改革を不可避 とするであろう。こうした社会システム総体の適応過程をシステム・チェンジ と呼ぶことにすれば,現在のわれわれが直面している課題の主要部分はこのシオーストラリアにおける環境主i義の発展(1) 表1 経済と環境に関する国際比較 39 一人当り 実質成長 エネルギー 世界CO2 窒素肥料 GDP(1989)率(1980−89)効率(1988)放出(1988)使用量(1988) 単位 US$ %/年 石油トン/1000US$ % トン/農地100㌶ オーストラリア カナダ フフンス ドイツ イタリア 日本 オランダ スウェーデン イギリス ァメリカ ソビエト 出所
17033 3.80
20528 3.68
17008 2.49
18980 1.91
15053 2.44
23298 4.75
15227 1.72
22524 2.27
14913 3.09
20630 3.57
UN UN
YearBook YearBookO.47 一
〇.64 2.2
0.37 一
〇.41 3.4
0.32 2.O
O.27 4.7
0.48 一
〇.52 一
〇.41 2.9
0.44 24.2
一 18.7
0ECD UN
State of Energy Environment Statistics 2.6 13.3 20.6 7.6 13.7 46.7 7.5 20.9 5.10ECD
State of Environment 注:ドイツおよびソビエトは,それぞれ前西ドイツと前ソビエトを表す。 ステム・チェンジの可能性を如何にして拡大してゆくかということである。 オーストラリアは表1にみるとおり,経済的分野においても,省エネ技術等 の分野においてもOECD諸国の中で特に注目すべき成果をあげている訳では 1) ないが,上記のシステム・チェンジという視点から評価するなら,その評価は 逆転するであろう。 オーストラリアの環境主義 環境主義とは一つの新しい社会運動であり, 経済発展のもたらす利益や開発の必要性に対する従来の暗黙的合意を問いかえ し,開発に同意する既存の組織やプロジェクトに挑戦し,環境を守ろうとする 2) 考え方・態度であり行動である。環境主義者は,環境問題の緊急性の認識環 1)ただし,日本は省エネ技術の高さを誇る余り,地球温暖化への「貢献度」の高さ,農薬 等の大量使用の現状について,反省すべきであることを忘れてはならない。 2) E. Papdakis(1993),p. 142.40 彦根論叢第296号 境と開発に関する政策オプションの違い,環境団体への支持,価値志向の違い 3) などの要因によって他者と区別される。 は1989年以降,「爆発的」とも言え る広がりを見せ,ついには新しい環境政党の出現,連邦政府与党の経済政策に 影響を与え,既存の政治的・社会的秩序や伝統的価値観の刷新にまで突き進ん 4) でいった。現在の段階では,「オーストラリアの労働党(現在,連邦政府の与党 である…引用者)は…環境保護と開発の相互補完性を認識し,またそれを展開 して行く上において,また,我々の時代の競合するパラダイムの統合を達成し 5) て行く上で,おそらく世界で最も成功した政党」と言われている。 III オーストラリアの社会・政治構造 オーストラリアは連邦制をとる多民族・多文化国家である。人種的には30程 の人種が共存し,77%がイギリス系,その他のヨーロッパ系白人が19%,アジ ア系2%,アボリジニ人が約30万人目されている。戦後,白豪主義を転換して 以降,「アジアの一員」を強調し,最近は中国系,ベトナム系などのアジア系移 民を数多く受け入れている。面積は日本の約20倍,人口は約1/7(約1700万人) である。内陸部は半乾燥地帯であり,人口の大部分,約7割は海岸沿いの都市 住民である。州はニュー一 一サウス・ウェールズNSW,ヴィクトリアVIC,クイ ーンズランドQLD,タスマニアTAS,サウス・オーストラリアSA,ウェスタ ン・オーストラリアWAと特別区のノーザン・テリトリーNTと首都特別区 6)
ACTの8つである。
オーストラリアは建国200年祭を1988年に祝ったが,このうち約100年間はイ ギリス植民地としての時代であり,オーストラリア連邦として独立かっ単一の 3) ibid., p. 156. 4)例えばグリーンピースGreenpeace(Australia)という環境団体の支持者は1990年から 91年にかけて9万2000人から13万人に増加した。ibid. p.151.なお,オーストラリアにおけ る環境団体についてはACF(1991)参照。また,緑の党の考え方などについては, D. Hutton (ed.)(1987)を参照。 5) E. Papadakis(1993),p.199. 6)今日のオーストラリアについての説明は,W.リード佃中口),堀 武昭などの著作の 他,筆者自身の現地聞き取り情報による。オーストラリアにおける環境主義の発展(1) 41 国家となったのは1901年のことである。従って,元々州の独立性が強く,それ らが連合して連邦制国家を作ったため,連邦政府と州政府の間には権限の分担 を巡って多くの議論があり,結果的には,州政府にできるだけ多くの自治権を 残し,連邦にはわずか4つ一国防,外交,貿易,郵便一に限定するという選択 を行った。このため,日本と比較するとオーストうりアは元々分権的システム の伝統があったと言える。環境は経済開発とともに州権に属する問題と見なさ れた。 オーストラリアの社会・政治構造に大きな影響を与えているのは労働運動と 労働党Australian Labor Party(ALP)の存在である。資本主義的な制度が発展 してゆくと,労資の対立が当然でてくるが,もともと入手不足の背景もあり, また「本国」の労資対立を見てきた移民労働者の階級意識は高く,労働運動は 熟練工・肉体労働者(炭鉱労働者など)を中心として個別的には大変強力であ った。19世紀末に大きな労働争議があり,労働者側は手痛い敗北を喫し,ここ 7) から多くの教訓を学んだといわれている。当時,連邦制発足の気運の中で,労 働者の代表を連邦政府に送り込み,政治や法制度の面で有利な影響を与えるた めに労働党の結成が必要とされた。労働党はオーストラリアで一番古い政党で あり,はやくも戦前に政権を担ったこともあり,男女平等の普通選挙権や労働 時間短縮などの基本的人権の分野や,福祉国家実現の分野で先進的な成果をあ げてきた。1947年には週40時間の労働時間制が連邦規模で導入され,50年代に は長期有給休暇制度が広くゆきわたって行った。労働党を支える最大の全国的 労働組織は労働組合評議会ACTU(1927年結成)であり,これを頂点とする様 々な労働組合は,「政府」と「仲裁制度」を活用して,「オーストラリア労働者 の就業条件や,日々職場でおこる些細な問題点を,公に,しかもたえることな く要求,実績を重ねることで彼らの労働条件改善のため,決定的な役割をはた 8) してきており,それについては疑いの余地もない」と言われる程の実績を積み 7)労働運動の歴史についてはR.マーチン(堀訳)による。 8)R.マーチン(堀訳),p.193.なお,オーストラリアでは同一労働同一賃金の原則が確立し ているが,他方,現場の職場単位での賃金や労働条件の上乗せが認められ,また,組合員/
重ねてきた。1983年に首相となったホーク氏は労働党党首であり,またACTU の議長でもあった。労働運動が,こうした画期的な成果を挙げえた背景には, 強固な市民意識の伝統とともに,法律や裁判制度,行政機構など既存の組織を 否定・解体するのではなく,それらを新たな社会的課題にうまく適応・発展さ せながら,社会を漸進的に改良してゆこうとする社会改良主義の伝統があるよ うに思われる。労働党は元々社会主義を標榜する階級政党ではあるが,経済政 策の分野では現在野党の自由党と大きな差はない,と言われており,大変現実 的かつ実際的な対応をしている。21世紀までに君主制を廃止し,オーストラリ ア共和国の宣言を行ない,アジアの一員としての立場を鮮明にするというのが 労働党の最近の綱領的政策である。 オーストラリアの政党システムは,「西欧諸国の中では最も安定的な国の一 9︶ つ」といわれ,労働党と自由党(地方党または国民党と連合して)は過去40年 10) 問にわたって投票の90%を獲得してきた。現在,連邦政府の勢力配置は州政府 は自由画一国民党連合優勢,連邦政府は労働党優勢というねじれ構造の中にあ 11) り,また両者の勢力はほとんど均衡している。こうした微妙な政治状況が後に 述べるように,環境派や緑の党の要求実現にとって有利に作用している。労働 組合の組織率は約40%(日本は現在23%)である。労働党は戦後,1973年と1983 年の連邦選挙で政権の座につき,73年のウィットラム政権の時は短命(1973.12 12) 一75.11)であったが,現在は12年もの間政権与党に地位にある。 \であることが年金取得に有利になるなど,労働組合員となることのメリットが様々な形で 具体的に存在している。この点はR.Kornfeld(1993)も参照。 9) E. Papdakis(1993),p.174. 10) ibid., p.175, 11>国会は上院と下院の2院制。上院は定数が76名(任期6年,3年毎に半数改選,比例代表 制),下院は定数147名(任期3年,解散あり,小選挙区制に独特の弱小政党への配慮を加 味)。1993年末の勢力配置は次のようであった。 上院 労働党30,自由党一国民党連合36,民主党7,緑の党2,その他1。 下院 労働党80,自由党一国民党連合65,その他2。 12)オーストラリア社会について語る場合,そのフェミニズム運動や「落ちこぼれなし」と 言われる教育運動,あるいは10年間勤めれば3ヵ月ないし半年の長期有給休暇pay holi− dayがもらえる公務員の制度などもユニークであるが割愛する。
オーストラリアにおける環境主義の発展(1) 43 IV 環境主義の台頭と反動 オーストラリアの環境運動の歴史を一瞥する時,まず目につくのは大変強力 な反対運動である。木に自分の体をくくりつけて森林伐採に抗議したり,開発 業者のトラックを人間バリケードを作ってストップさせたり,カヌーを連ねて ダム建設に反対したり,といったシーンがしばしばマスコミを通じて報道され る。特に1983年のフランクリン・プロッケード(封鎖)は労働党の政権獲得と オーバーラップし,労働組合のゼレラル・ストライキに匹敵するほどの影響を 社会に与えたのであるが,しかし,そうした華々しい環境団体の活動の背後に はオーストラリアの美しい,貴重な自然とそれを愛するコミュニティ・レベル の人々の意識や支援があること。また日頃目にみえにくい国立公園の監督官や 野生動物保護官の地道な活動があるということにも留意すべきである。言い替 えれば,行政一住民 環境団体一政治家がそれぞれ実にバランスよく機能し, 協力あるいはチェックしあい,個々人の創意や熱意を引き出しているという印 象を受ける。 戦後の環境運動はほぼ10年毎の4期に区分出来る。 [第1期:萌芽期] 1960年代は経済成長の波にのって莫大な鉱物資源の発見・開発や都市開発が 13) すすむ一方で,ようやく環境への影響が認識され始めた。60年代には州レベル の環境団体があちこちで生まれたが,1965年には現在オーストラリア最大の環 境団体で最初の全国組織であるオーストラリア保全財団Australian Conserva− 14) tion Foundation(ACF)が結成された。このACFの結成にはエディンバラ公爵 や当時の最:高裁長官サー・ガーフィールド・バーウィックといった社会のエリ 15) 一トが関与していた。1971年,早くもバーウィックは「保全は生産を持続させ るための必要条件」,「保全は経済成長の最良のパートナー」と述べ,環境保護 13)アメリカでは1969年に環境保護局創設。 14)ACFは,1991年現在,会員数21,400名。 ACF(1991)参照。 15)バーウィック氏は初代ACF会長。
表2 環境運動年表 [第1期:萌芽期] 1965ACF誕生:環境問題に関する最初の全国的組織 1967 ダム反対のためのSave Lake Pedder Committee結成。グリーン運動の誕生 とも。Lake Pedderには1972年にダムが建設されるが,こうした運動が後のUTG やTWSの結成につながり, Franklin Dam反対運動の成功につながる 1960年代終わり 様々なprotest movementがあった。反核,反ウラニウム,女権運 動,ベトナム反戦など 1969労働党大会で環境問題への取り組みの綱領的重要性を確認。「重要な転換点」 [第2期:準備期] 1971−7570年代にはコミュニティ・レベルで“Green Ban Movement”と呼ばれる小 規模な開発プロジェクトに対する反対運動が起こる。42件,金額にして推定50億 ドルのプロジェクトを禁止。戦闘的な建設労働者連盟が活躍 1971連邦環境事務所Federal Office for Environmentが設置 1972オーストラリア,国連環境プログラム(ストックホルム会議)に参加 1972United Tasmania Group結成。政治行動を行う最初の環境団体。環境政党の 元祖 1973.12−1975.11労働党政権(ウィットラム政権) 1974.4 ウィットラム,労働党大会で自らの政府は環境政策を発展させる最初の内閣 と主張。ウラニウム鉱業開発を中止 1974 オーストラリア,国連の世界遺産委員会に調印・参加 1974環境影響評価Environment Impact Statemennt(EIS)制度導入 1975Great Barrier Reef海洋公園法(環境保護上,重要な法規制) 1975 ウィットラム労働党政府Depertment of the Environment and Conservation を独立に設置。また,すべての州にも同様の組織が作られる 1975オーストラリア国立公園および野生生物サービスAustralian Nationai Parks 1976 1976 and Witdlife Service(ANPWS)設立。国民的環境主義の大きな画期。最初の国 立公園はKakaduとKatherine Gorge オーストラリア遺産委員会Australian Heritage Commission(AHC)設立 Tasmanian Wilderness Society(TWS)結成 に関する法規制の統一の必要性,ゆきすぎた経済成長を批判した。しかし,当 時,まだこうした訴えは社会の受け入れるところとはならなかった。 [第2期:準備期] 60年代末から70年代初頭にかけて,特定の開発行為に反対する二つの重要な 運動が局地的に生じた。一つは「産業労働者と中流階級の環境主義者の共同を
オーストラリアにおける環境主義の発展(1) 45 16) も含むNSW州の急進的なGreen Ban運動」であった。とりわけ「戦闘的な建 設労働者連盟Builders Labourers Federation」は公園地やコミュニティ,歴史 的建築物の破壊や開発計画に対し,「労働禁止work−ban」を加え,「4年間(1971 −75)に42の反対運動が行われ,連盟事務局長のJack Mundey氏によれば,推定
17) 18)
50億ドル(1970年評価額)の『開発』を封じこめた」とされている。他の一つ はタスマニアの水力発電委員会Hydro−Electric Commissionのピダー湖 Lake Pedderの灌概開発に対する反対運動であった。1967年には,「過去の環境 19) 団体のどれよりもはるかに急激な志向を示す環境団体」と言われたピダー湖救 済委貝会Save Lake Pedder Committeeが誕生した。この反対運動は,結局 はピダー湖の保全に努めることに失敗したのであるが,政府の環境政策や,オ ーストラリア本土や他国の環境主義者に大きな影響を与え,「グリーン運動の誕 20) 生」として高く評価されている。 1972年にはピダー湖で懸念されていた洪水が発生したことを契機として,タ スマニアで「オーストラリア史上『新しい政治綱領』を採用した最初の政治団 21) 体」である,連合タスマニア・グループUnited Taslnania Group(UTG)が結 成された。UTGは,既存政党がピダー湖の破壊を食い止めることが出来なかっ た政治的欠陥を鋭く批判し,「新しい環境パラダイム」として「脱物質主義post −materialism」,「新しい倫理new ethic」,「参加型民主主義participatory democracy」を主張し,「理性の暴虐tyranny of rationality」から自然を守る 22) ため,社会や文化を変えるべきだと主張した。1972年の州選挙では,UTGは惜 しくも議席を獲得するまでには到らなかったが,環境主義的文化の発展に決定 的な局面を切り開いたと評価されている。また,後にフランクリン・ダム反対 16) E. Papdakis(1993),p. 178. 17) ibid., p.179. 18)建設労働者連盟は当時の連邦政府により組合の資格を剥奪された。この点は,R.マーチ ン(堀訳),p.37参照。 19) E. Papdakis(1993),p.179. 20) ibid., p. 179. 21) ibid., p.179. 22) ibid., p.179.運動で勇名を轟かせることになるタスマニア野性社会Tasmanian Wilderness Society(TWS)の結成(1976年)を準備した。 1971年には,自由党一国民党連合政権の下ではあったが,連邦環境事務所が 設置された。1973年12月,ウィットラムE.G. Whitlamは労働党政権の奪還に 成功し,環境問題に対しても精力的な取り組みを行った。1974年4月の労働党 大会では,ウィットラムは,「現在の世代は成長と環境保全の要求が対立するこ とを鋭く自覚する最初の世代である」と指摘し,自らの「内閣が,対立する要 求を調整するために,健全な環境政策を発展させようと試みた最初の内閣だと 23) アピールした」。具体的には,マレー川委員会River Murray Commissionの再 検討,環境保護法,国立公園および野性動物保護法,(カカドゥKakaduやグレ ート・バリア・リーフGreat Barrier Reef(GBR),中央オーストラリア野性生 物およびオーストラリア・アルプスを含む)国立公園の創設,カンガルーやそ れと関連したの生物種の輸出禁止,ウラニウム開発の中止,その他を提案した。 1975年には労働党政権のもとで連邦環境事務所は環境省に昇格し,ここで初 めて連邦レベルで環境政策を考える組織が出来上がった。同様に州レベルでも 環境政策に責任を負う政府組織が拡大して行った。 NSW…国家汚染管理委員会State Pollution Control Commission(1971) VIC…保全省Ministry for Conservation(1973) 24) SA…国立公園および野生生物法(1972) 1974年には,環境影響評価制度Envirortment lmpact Statemennt(EIS)が導 入された。従ってオーストラリアは環境アセスメントに関してすでに20年以上 の歴史をもち,一つの職業として社会的に成立している。 ここで,EISの評価に関する現在のオーストラリアの議論の一端を紹介して こう。EISは,①環境への潜在的影響がより正確に把握できる,②一般公衆の議 23) ibid., p. 188. 24)SAにおける野生生物保護のマグナ・カルタと呼ばれる。1962年には19カ所の国立公園, 233,620haであったが,1972年には99カ所,3,546,465ha,1983年には4,521,584haへと拡 大。
オーストラリアにおける環境主義の発展(1) 47 論への参加,③政府の決定の正当性についての評価ができるようになった,と 高く評価されている。しかし,一方で,この法律そのものは環境に不健全なプ ロジェクトを止めさせたり,政府に環境に配慮した意思決定を勧告するもので はない。EISは科学的研究というよりは,公衆との関係(民主主義)で意味のあ るもの,とされている。最近は環境派も開発業者もEISの問題点を多く取り上 げるようになっている。開発業者は連邦と州の間の規制の矛盾や煩雑さを批判 し,環境派は,EISが経済成長と環境保全の調整役という総合的・長期的問題 や,3者(ローカル,州,連邦)の調整を図るという点で欠陥を持っている, 25) と批判している。 さて,70年代は,環境問題にとりくむ制度が作られてゆくとともに,社会の 一部少数の人たちによって環境問題が議論され始めたが,彼らの多くの勧告は 実現されなかった。人類の未来について強い関心を持ったのは社会の一部の少 数者のみであった。70年代の終わりには,一番進んでいたとされる国立公園法 の分野においてさえ,環境の将来的展望については人々は「暗いgloomy」もの しか抱いていなかった,と言われている。むしろ環境派の台頭に対し,農業者 や鉱業関係者といった開発派の側からの反発が生じ,白人入植以来の土地利用 のあり方を再肯定し,開発をいっそう推進するという反動が生じたのであった。 しかし,こうした70年代の動きの中で二つの重要な活動が生じた。 一つは,1975年の,オーストラリア国立公園および野生生物サービス局Aus− tralian National Parks and Wildlife Service(ANPWS)の設立である。この 組織は,政府に国立公園や自然保護地区の勧告をし,管理を行う。オーストラ リアの国立公園は一旦指定されると,その地域の管理権はANPWSに移り,一 切の開発行為は基本的に禁止されるか,あるいは非常に強いANPWSのコン トロールの下に置かれる。自然保護地区の場合は無料であるが,国立公園の場 26) 合,人々は入場料を払い,決められた範囲で活動するよう規制される。最初の 25)EISが3時間でうまく機能しないことは,分権システムに固有の社会的費用とみるべき であるかもしれない。 26)例えば,火の使用場所や自動車の乗入れ範囲などの指定が行われる。国立公園内にスキ/
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CSU 90 001 JUNE 1989 出所:R.Trewin et aL(1992),p.17, Figure 3.1. 国立公園はカカドゥKakaduとキャサリン・ゴージKatherine Gorgeであっ た。 ANPWSの活動は国民の間に徐々に自然のすばらしさに対する認識を広め る上で大きな役割を果たし,その設立は今世紀初頭以来の自然保護運動の「ク \一場や宿泊施設が建設される場合もあるが,その場合にも,民聞業者はANPWSにレンタ ル料を支払い,定められた地域で,建築計画の許可を受け,定められた方法で開発行為を 行うよう規制される。日本のように高層建築やホテルは駄目で,自炊式の山小屋が中心で あった。(料金が大人一泊1200円くらいであり,大手建設資本が手をだしても採算が合わな い)野生動物保護地区の場合には保護官が動物との関わり方や,どういう点で貴重なのか, といった教育的・啓蒙的解説を行う。筆者はアデレードの南のカンガルー島の保護区で, シー・ライオンという野性のアザラシの一種を砂浜に見に行ったが,その場合も団体で入 場し,時間は45分間以内に制限され,付近の植生を壊さぬよう行動範囲も規制され,定め られたある橋を伝って砂浜へ行く,という状況のもとで見ることができた。オーストラリアにおける環境主義の発展(1) 49 ライマックス」,「国民の中での環境主義の発展の起点」とも評価されている。 27) 1977−1983年で国立公園や自然保護区は1000万ha増加した。国立公園等として 規制されているのは国土の4%弱であるが,アボリジニの集団管理地や土地所 有が禁止されている地域などを加えるとオーストラリアの26%,四分の一以上 の土地が開発から除外されていることになる。(図2参照) もう一つは,1976年のオーストラiJア遺産委貝会Australian Heritage Com− mission(AHC)の設立である。これは,自然環境をもふくむ国民的財産(美的, 歴史的,科学的,社会的,文化的,生態的およびその他の理由で保存すべき場 所)の保全を政府に勧告したりアドバイスする公的機関である。また一般大衆 28) への教育も行う。 AHC設立の最:初の5年間は12人目スタッフで,予算も1983年までは小さか ったのであるが,労働党政権のもとで著増することになる。(表3参照) 1982−3年度から1983−4年度にかけて予算は75万9000ドルから120万ドルへと58 %も増加し,1985−86年には常勤スタッフは23人に増加した。AHCは学校など の教育機関に教材を提供するなど,国民の間に共有財産に対する意識を変える のに大きく貢献した。国民財産登録地は1991年には9146となり,その内訳は6978 は歴史的,691はアボリジニ関係,1477は自然に分類されている。 日本でAHCに対応するものとしては,文化庁のようなものであるが,それよ りも扱う対象は広く,教育的な機能も高く,また権限も影響力も強力であると 思われる。 V 環境主義の全国的拡大 [第3期 飛躍期] 27)国立公園の面積についてはE.Papadakis(1993),表4.2, p.112を参照。 28)AHCが国民財産に指定した例。 QLDのGreat Barrier Reef/QLDのGlass House Mountains/QLDのCape Yorkの北東部(生物進化上価値あり)/NTのKakadu National Park/TASのHuon−pine(いちい科の大常緑樹)/NSW北の沿岸砂丘地帯や フレイザー島/NSWのBlue Mountains National Park(景観美)/NSWのRoyal National Park(観光的価値)/SAのAdelaide Hi11(人工美)など。
表3 オーストラリア遺産委員会の連邦政府からの受取額,並びに情報, 広告および宣伝への支出額($) 受取額/議会支出額 情報,広告および宣伝費
1976−77 291 000
1977−78 446 225
1978−79 497 799
1979−80 519 200
1980−81 639 000
1981−82 719 000
1982−83 759 eOO
一一一一一 P983−84一一一一一一一一一一一一一一一一一一1 200 OOO一一一一1984−85 1 399 000
1985−86 1 592 eOO
1986−87 1 780 000
1987−88 2 243 600
1988−89 2 917 000
1989−90 4 484 000
30 988 61 109 39 841 51 184 56 365 41 123 48 893 一一”一一一一一一一一一一一一一一一一一一一ttt一一@171 295一一一一一一一一一一一一一一一 163 552 178 263 221 903 192 439 162 956 327 916 原出所:オーストラリア遺産委員会年報 出所:E.Papadakis(1993),p.110, Table 4.1./(一部加筆あり) 1980年代に入って,環境運動は大きな飛躍期を迎えることになる。そのきっ かけはフランクリン・ダムFranklin Dam問題(1979−83)とカカドゥ国立公園 29) Kakadu National Parkの鉱業開発の問題(1984−91)である。 タスマニア州政府(当時,自由党)は電力会社と協力して電力供給と雇用創 出のためにフランクリン川に水力発電のダム計画を立てたが,TWSなどの環 境団体はこの地域の豊かな自然を守るため,様々な形で反対運動を展開し,そ の影響は連邦規模にまで拡大していった。「環境団体は連合を構成し,その中に はACF,州の自然保護評議会,国立公園協会および70のTWSの支部が含ま 30) れ」,「約50万人のメンバーに達する約800の保全グループの支持を集めた」。メ 29)80年代の環境運動としてはQLDのDaintree国立公園の熱帯雨林開発問題, TASの LemonthymeおよびSouthernの森林開発問題, NSWのEdenにおけるウッドチップ輸 出問題も取り上げるべきであるが,紙幅の関係で省略する。これらについては,EPapada− kis(1993),第6章を参照。 30)ibid., p.150。また,1983年1月から3月の間に1340人の活動家が逮捕された。オーストラリアにおける環境主義の発展(1) 51 表4 環境主義年表 [第3期.飛躍期] 1979−83環境団体,Franklin Damキャンペーン行う 1981フレイザー自由党政権のもとでKakadu National Park(stage 1),GBR, Wil− landra Lakes Regionは世界遺産リストに登録 1982西タスマニア州野生公園とLord Howe Island Groupも世界遺産リストに登録 1982.8世論調査 フランクリン・ダム賛成 28%,反対42%,不明 30% 1982.9 〃 連邦介入賛成 49%,反対 37%,不明 14% 1983.1 フランクリン・ダム反対の環境団体約800,会貝約50万人結集。1月から3月 までの間に活動家は1340人逮捕 1983ALP,連邦選挙勝利・政権獲得(ホーク政権)。 ALPはダムを止めさせるために 世界遺産保全法World Heritage Properties Conservation Actを通過させる。 この法案は憲法に違反しているとの批判は最高裁によって打ち消されるFrank− lin Dam問題,住民側の勝利におわる 1983 オーストラリア国家保全戦略National Conservation Strategy for Australia (NCSA)策定するも活用されず 1984連邦政府,北QLDのDaintree rainforests問題に介入することを拒否 1984労働党大会,ウラニウム開発容認を決定。これに反発して,NDP核軍縮党結成 される 198日ごろ QLDの熱帯雨林やKakadu, TASのLemonthyme and Southern forest の開発問題が騒がれる 1985.11 woodchip問題で雇用か自然保護かで内閣意見対立 1985.12内閣,一定の条件のもとでTAsの14地域のwoodchip輸出を認める。ただ し,8つの地域を除く 1986.12連邦裁判所,産業側にはKakaduの開発権がないことを主張 1987連邦選挙。選挙後,ALPの環境大臣はBarry CohenからRichardsonに交代。 ここのことが労働党の環境政策の転換のきっかけとなった。また,Richardsonは ACFやTWSのnピー活動を受け入れる 1987Lemonthyme and Southern forest Act制定。産業側が森林伐採を連邦政府の コントロール下で行うよう委員会を設ける。委員長はミカエル・ヘルシャム氏。 最終的には森林開発は抑制され,政府は4000万ドルを補償 1987政府はQLDのDaintreeの森林開発を断念させ,総額7530万ドルのパッケージ を補償 1987.11高等裁判所,Kakaduのステージ2の世界遺産への登録を支持。しかし, NSWのEdenのwoodchip輸出は行われる 1988−9世論調査において環境への一般の関心が劇的に変化(5%から26%へ) 19890zone Protection Act策定。 greenhouse gasesの1988年水準の20%削減を2005 年までに実行との計画 1989−91TASではGreen Independents in Tasmaniaが州議会のバランス・オブ・ パワーを握る 1989資源評価委員会Resource Assessment Commission(RAC)の設立
ルボルン市では約30万人といわれる空前のダム反対デモが起こった。環境団体 は連邦が州に介入し,開発地域を国立公園に編入し,そのためのイニシアチブ を連邦政府が果たすよう要求した。 環境団体がこうした州権の制限を求めたのには前例があった。過去において 自由党はグレート・バリア・リーフGBRやフレイザー島(世界最大の砂の 島),カカドゥの国立公園(ステージ1)への編入に際しては州権を無視したと いういきさつがあった。フレイザー島のケースでは,連邦政府は貿易の管理権 31) を根拠にしてQLD州政府の鉱業開発要求を蹴って鉱物輸出を禁止した。 しかし,今回の場合は輸出に関わる問題ではなく,州の内発的発展と環境保 全の対立の問題であり,また,環境政策を巡る連邦と州権の問題は連邦制発足 以来の憲法上の大問題であり,連邦政府が自然保護を名目として州の自治に介 入することはためらわれたのであった。当時野党の労働党は環境派を支持した が,州権の問題に立ち入ることは拒否した。与党の自由党と国民党は環境政策 における州権の留保を主張した。 与党は水力発電の代わりに5億ドルの補助金を州政府に出し,火力発電に切 り替えるよう提案した。TAS州政府はこれを拒否。この拒否を見て労働党は選 挙で勝てばダム建設に反対することを明言(公約)した。この明言が環境保全 グループと労働党を結び付けるきっかけとなった。環境団体は労働党への支持 を表明し,労働党は環境団体の支持を獲得することに成功した。環境団体の背 後には環境派の運動がすでに国民世論の多数派を代表していた,という事情が あった。つまり,労働党は環境団体の要求を飲むことによって国民の多数派を 32) 獲得することに成功したのである。(表5参照) 1983年,労働党は連邦選挙に勝利し,再び政権獲得に成功した。労働党連邦 政府はタスマニアの自由党政府に雇用を作り出す別の案を提案したが,州政府 はこの提案を拒否。その結果,ついに連邦政府は州権の制限を決意した。連邦 31)憲法51条がその根拠。 32)タスマニアの多数派は開発に賛成していた。従って,1983年の連邦選挙でALPはタスマ ニアでの議席を減らした。
オーストラリアにおける環境主義の発展(1) 53 表5 フランクリン・ダムに関する世論調査(%) 時点 項 目 賛成 反対 不明 1982.8 1982.9 フランクリン・ダム 連邦介入
804
24
490
27
901
04
出所:E.Papadakis(1993),p. 114. 政府はダム開発を州政府に断念させるため,1983年に世界遺産保全法を通過さ せた。この法案は憲法に違反しているとの批判は最高裁によって打ち消された。 判決は連邦政府に次の様な広汎な権限を付与したのであった。(特に①は重大〉 ①憲法51条に定められた貿易上の目的のために,全ての製造業,生産および 抽出産業の企業に対し環境への配慮をもたせることは連邦政府の権限であ る。 ②外交上の力により国際条約や国際機関(特に世界遺産保全機構のような) との公約を実効あるものとするための権限を連邦政府は持つ。 こうして,フランクリン・ダム問題は,単なるダム反対運動に留まらず,環 境と政治の結合,連邦政府の環境政策における中央集権的介入を広汎に肯定す るという予期せぬ副産物を生んだのであった。今や環境保護は一部のエリート や環境団体のみの関心ではなく,国民自身の要求となった。環境団体は環境政 策(ある場合には,ロビー活動!)を通じて経済発展の意思決定過程に影響を 及ぼす局面が切り開かれた。また,環境団体への補助金も著増した。(表6参照) ALP連邦政府としては,州政府と対立するよりも合意を形成することを好 む。そして,連邦政府はタスマニア州政府にアフター・ケアとして2.77億ドル を補償した。このうち2500万ドルはフランクリン・ダムの補償費,5200万ドル は別の雇用プログラムのために,2億ドルは10年間の分割払いでエネルギー供 給の補助金として。 カカドゥ国立公園の鉱業開発:フランクリン・ダム問題が連邦政府と州政府の 間の対立をあぶり出したとするならば,労働党内部の対立をあぶり出したのが カカドゥの鉱業開発問題である。彦根論叢 第296号
表6 自発的な環境団体に対する政府補助金1964−91
(WWFNの場合は一般目的のもの) 単位:1000$
ACF
KABC
FOE
TWS WWFN(1)
計(2)1964−65 1965−66 1966−67 1967−68 1968−69 1969−7e 1970−71 1971−72 1
000000
り盈22π﹂霞﹂﹁0 1000︵UOO
222に﹂只﹂只U 1972−73一一一一一 50一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一 1701973−74 150 20 424
1974−75 150 20 441
1975−76 150 20 10 390
1976−77 150 15 IO 400
1977−78 150 15 一 400
1978−79 100 15 一 50 349.382
1979−80 100 15 一 50 348.833
1980−81 75 15 5 50 348.682
1981−82 75 15 5 50 349.85
1982−83 77 15 5 50 360
1983−84一一一一一 120一一一一一一一一一一一 23一一一一一一一一一一 10一一一一一一一一一一 15一一一一一一一一一一 50一一一一一一一一一一一一 634.951984−85 140.515 50 11 17 50 850
1985−86 140 55 12 40 50 945
1986−87 !45 60 13 45 50 1029.999
1987−88 149.3 61.8 13.4 46.3 50 1241.7
1988−89 157.8 61.8 14.15 48.95 50 l155.782
1989−90 167.268 65.508 14.999 51.887 50 1219
1990−91 175.631 68.783 15.748 54.481 5e 1295
注1:WWFNは「自発的な環境団体に対する政府補助金」プログラムに含まれていない。合 桐胴はWWFNの金額を除く。WWFNは別の一般的な補助金を受けている。 注2’1964−65年度から1970−71年度までの数は総理府により支出された援助金額。残りの数 字は環境省による自発的な環境保護団体(表に掲げていない団体も含む)への補助金額。 原出所:環境省/出所:E.Papadakis(1993),p.118,表4.3.(一部加筆あり) 1984年,オーストラリア最大の民間企業といわれるBroken Hill Proprietaryオーストラリアにおける環境主義の発展(1) 55 Co. Ltd.(BHP)はカカドゥのコロネーション・ヒルに金,白金,パラジウムの 未発見鉱脈を見つけ,その開発計画を政府に要請した。(カカドゥ地域全体では 33) 総額1000億ドルの鉱物資源が眠ると推計された。)コロネーション・ヒルはステ ージ3の中にあり,ステージ2と3はまだ世界遺産条約にも国立公園にも登録 されていなかった。しかも,この土地はアボリジニの集団管理地であり,開発 には彼らの同意が必要であった。ジオペコGeopekoという鉱業者団体はステ ージ2を世界遺産に登録するという内閣の決定に挑戦し,連邦裁判所に提訴を 34) 行った。しかし,1987年11月,高等裁判所は「連邦内閣がカカドゥ国立公園の 35) ステージ2を世界遺産リストに登録することを支持」する判決を下した。次に, コロネーション・ヒルを含むステージ3の開発を巡っては,1989年までは環境 団体やアボリジニ団体の反対にも関わらず,環境アセスメントも条件付きで開 発に同意し,労働党政府も内部意志統一を図るため資源評価委員会Resource Assessment Commission(RAC)を設置するなど,着々と開発容認に傾いてい たのであるが,1989年10月になって突如最終決定を見送り,結局1991年6月に 内閣はRACの報告の線にそって,コロネーション・ヒルを国立公園に編入し, 鉱業開発を永久に禁止するという決定を行ったのであった。 当時の新聞はこの決定に対するオーストラリア社会の熱狂を次のように伝え ている。 「昨夜,ホーク政府はコロネーション・ヒルでの鉱業開発を永遠に禁止する決定を 行った。この決定は,オーストラリアの実業界と労働党の関係を決裂させるという危 険をはらんでいる。その決定は5時間の閣議の後に下された。総理大臣のホーク氏は コロネーション・ヒルをカカドゥ国立公園に編入することを強力に主張し,他の閣僚 はその地での鉱業開発の凍結を主張した。議論は投票に賦されることなく行われた。 もし,投票に賦されたならば12人のうち8人までが開発賛成に回っただろうとの見方 が賛成派から出されている。決定は圧倒的な経済閣僚,その中には大蔵大臣のケーリ ン氏をも含む,の強い要請に反して行われた。…ホーク氏の考えは,コロネーション 33) E. Papadakis(1993), p. 193. 34) ibid., p. 193. 35) ibid, p. 194.
・ヒルの聖地に関するアボリジニ人の関心は尊敬されるべきだ,という信念によるも のであり,資源評価委貝会の報告の線に立つものであった。長老の政府関係者の話に よると,閣議はホーク氏の影響のもとにオプションAを採用した。オプションAとは 次の3人の大臣,いずれも左派,により提案されたもので,コロネーション・ヒルを カカドゥ国立公園に編入するという案である。アボリジニ担当大臣:テイツクナー 氏,行政サービス大臣:国会議員ボルコス氏,環境大臣:ケリー夫人。この決定は政 府内における左派の勝利と見られる。オプションAは全ての左派の閣僚によって支持 された。…」(ジ・オーストラリアン紙,1991年6月19日) ところで1989年のRACの設立は労働党内部の政治的対立と深く関連してい た。委員長はNSW州の最高裁判事のステユワート氏が起用された。委員会 は,「政府から独立し,オーストラリアの自然資源・土地の利用について,環境 と経済を調和させる立場からの勧告,矛盾の調整を行う。また,コミュニティ の理解や討論評価に貢献する」とされていたが,RACの設立は開発派である 資源大臣(国会議員クック氏),基礎産業エネルギー大臣(ケーリン氏),産業 ・技術・通商大臣(国会議貝バトン氏)の3者が,環境省の影響を弱め,官僚 (とくに産業援助局やオーストラリア科学技術審議会)にもつと経済発展に関 心をもたせようとの意図のもとに設置された。また労働党閣僚内部の大物であ るケーリン(開発派)とリチャードソン(環境派)のカカドゥ問題を巡る長々 しい対立を終わらせるための政治的手段として設置された,と言われている。 しかし,皮肉なことにRACのスチュワート報告は開発派の期待を裏切り,敢然 と開発禁止を勧告をしたのであった。 (1995.6.29)