︻講演録︼
伊藤両家史料から見えてくるもの
宇佐美 英 機
ただいまご紹介にあずかりました、附属史料館長の宇佐美でございま す。本日は、平成二十年度滋賀大学経済学部附属史料館企画展講演会に ご臨席いただき感謝申し上げます。 さて、本年度の企画展は﹁地商いから商社へ﹂と題して開催させてい ただきました。この題からどのようなことをご想像いただけましたで しょうか。何のことかわからない、と思われた方もいらっしゃるかも知 れません。ただ、伊藤長兵衛・忠丘ハ衛さんの写真をポスターやチラシに 掲載しておりますので、少なくともこの両家のことだとはお気づきいた だけたものと思います。 この企画展は、まさに伊藤両家を中心に史料を展示しております。ご 承知の方々も多いことと存じますが、現在の日本を代表する総合商社で ある伊藤忠商事・丸紅両社は、いずれも初代伊藤忠兵衛を創業者として おります。そして、その創業の年を忠兵衛が初めて持ち下り商いをした 安政五年︵一八五八︶としております。すなわち、今年は両社にとって 創業一五〇年の節目の年なのです。両社が一八五八年という年ではなく て、別の年次を創業年としても差し支えない歴史を初代忠兵衛は刻んで いるのですが、あえてその年としたのは、最初に持ち下り商いをした、 すなわち﹁近江商人﹂として歩み始めたということに、強い自意識があっ 伊藤両家史料から見えてくるもの たからだと思います。創業年次を最終的に決定したのが誰だったのかは 定かではありませんが、おそらくは二代目患兵衛さんだったのだろうと 推測しています。 それはともあれ、忠兵衛さんはよく知られた人物ですが、長兵衛さん ともなると豊郷町や芦屋にお住まいの方、あるいは丸紅の関係者を除け ば、初めてお聞きになる方も多いかと思います。ひと言でいえば、長兵 衛家は忠兵衛家の本家にあたります。伊藤両家に伝来した史料が、いず れも日本における近江商入研究のセンターを自負している当史料館に保 管されており、皆様方にごく一部ではありますがご高覧に供することが できること、しかも一五〇周年という記念すべき年に実現できることは、 本学にとっても深い縁を思わざるを得ません。私個人にとっても、両家 の史料に行き当たることができたことは、近江商人の研究者として、こ れ以上の喜びはありません。 それでは、伊藤両家の史料の発見の経緯や整理作業を通じて知ったこ となどをご紹介し、今後これらの史料からどのようなことが見えてくる のか、今考えていることを少しお話しさせていただきますが、その前に 企画展の主題について説明させていただきます。 近江商人研究では、﹁地商い﹂とは、近江国内のみで商売をした商家を 意味します。この場合は、近隣近在の人々がお得意様だということにな ります。これに対して﹁近江商人﹂と称しているのは、近江国の外︵他 国︶で商売をした商人です。近江国内や上方の産物・晶晶を他国に持ち 下って、他国商人に販売をした商人です。したがって、商圏は他国にあ ります。このように商いをする対象・地域は異なっています。持ち下り 商いをした﹁近江商人﹂は、基本的には近世︵江戸時代︶の商人類型で、滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十二号 明治期になるとほとんど衰退します。現在まで継続している商人は、多 くの場合、近代になって本宅︵本家︶は近江国に置いていますが、本店 機能を他国︵他府県︶に移し商売をしました。企画展の主題として﹁地 商いから商社へ﹂としているのは、これらの過程をすべて経験している 企業は、伊藤忠商事・丸紅くらいしか残っていないことに鑑みています。 持ち下り商いから始めて現在まで続いている企業は、いくつかありま す。著名なものでは、近江八幡市に本宅を置き、東京日本橋に本社があ る西川産業︵寝具の西川︶がありますが、地商い期を詳らかにはできま せん。その意味で、これが明らかになるのは伊藤忠商事・丸紅だけであ り、それは伊藤両家の史料の発見により可能となったことが、重要なの です。このことを、まずご理解いただきたく存じます。 伊藤長兵衛家文書 伊藤両家は、豊郷町八目に所在しました。本家の伊藤長兵衛家の屋敷 は、現在は取り壊されて現存しませんが、かつての屋敷跡には図録にも 掲載しましたが、記念碑が建っています。跡地は財団法人豊郷病院の駐 車場となっています。写真では七代目さんの偉業が記された碑文も見え ています。この七代目とされている方は、隠居名長堂さんで、豊郷病院 の敷地や建物を寄付された方で、遺された﹁伊藤長兵衛家文書﹂のほと んどは、この方が経営の最前線にあった時期のものです。ただ、この方 を七代目長兵衛とするのは、正しくはありません。伊藤長兵衛商店当主 としては、九代目とすることが正しいのです。これまで七代目とされた 方は、伊藤本家の継承者としては七代目とみることは良いとしても、商 二 店主としては九代目なのです。そのことは、史料整理を通じて明らかに なりました。七代目長兵衛を襲名した方が、後に分家したために本家継 承者としては除外されたことによるものです。商業史を研究する立場か らは、長堂さんは九代目長兵衛として位置づける必要がありますので、 今後は改めて用いていくことが大切だと考えています。 それはともあれ、このたびの企画展で展示しています長兵衛家文書は、 おそらくお屋敷を解体されたさいに流出したものと思われますが、数奇 な縁で平成八年九月間当史料館に搬入され、粗整理の後、同十年九月に 正式にご寄贈いただいたものです。爾来、学生・院生・リサーチアシス タントなど四〇名近い方々の協力をえて、史料調書の作成と目録化の作 業を進め、本年十月一日付けで史料目録を刊行することができました。 史料館の通常の目録作成方式とは異なり、細部にわたる史料情報を載録 して整理しましたので、十年という年月を要しました。史料は八○○○ 点余りになります。刊行しました目録は、史料館の展示コーナにも並べ ておりますので、お手にとって御覧いただけますと幸いです。また、刊 行にさいしましては、﹁NPO法人 たねやおうみ文庫﹂のご高配があっ たこともお伝えしておかねばなりません。多くの方々の協力がなければ、 この史料の公開には漕ぎ着けることはできませんでしたし、ましてや史 料目録を刊行することはできませんでした。心から関係者の皆様に感謝 申し上げる次第です。 ところで、﹁伊藤長兵衛家文書﹂は八○○○点余りあると申しました。 これらをすべてご紹介することはとてもできませんので、概要をご理解 いただけますように資料を用意しております。お手元の資料1を御覧く
ださい。これは、このたび刊行しました﹁伊藤長兵衛家文書目録﹂の ﹁凡例﹂部分をお示ししました。史料は、書かれている内容に則して分類 項目を立てております。大分類としましては、﹁経営﹂から﹁民俗資料﹂ま で二二に分類しております。さらに、それらを細分類して整理しており ます。これをお読みいただければ、全体の概略をご理解いただけるもの と思います。特徴としては、これらの史料は豊郷町八目にあった本家屋 敷に残されたものですから、明治五年以降に商業経営の拠点であった博 多店・京都店、大阪店のものは含まれておりません。その意味では、経 営の実態を詳細に明らかにするには限界があるということになります。 博多店・京都店・大阪店ともに、大正十年︵一九二一︶の丸紅商店の設 立とともに閉店され、土地建物は売却されましたが、そのさいに史料を 豊郷の本家、ないしは芦屋の住まいに回収しなかったのかも知れません。 私共としては、三店の史料が現在も人の目に触れないところで遺ってい て欲しい、いずれここに来て欲しいと、淡い期待を抱いているのですが、 叶わない夢かも知れません。皆様も心の隅にこのことを留めておいて、 将来どこかの古書店などで見つけられるようなことがあれば、ぜひお知 らせいただけますようお願いいたします。 この凡例に上げました二二の分類のいちいちをご説明することは、私 も全部に目を通したわけではございませんので、とてもできません。そ こで、私が見た限りで興味をそそられたものや、ご利用いただくうえで お役に立ちそうな情報を少し述べさせていただくことでご容赦願います。 さて、伊藤長兵衛家は、幕末期には農業の傍ら近村へ呉服・麻布・蚊 帳などの行商を行っていたようで、いわゆる﹁地商い﹂でした。屋号は 伊藤両家史料から見えてくるもの ﹁面長﹂と称しておりました。早道は図録表紙にもあります令を用いてい たと思います。明治五年に博多に開店した時には、その店には⑦を掲げ ておりますが、豊郷では全が﹁奏上﹂の本来の屋印ではなかったかと推 せ ど 測しています。﹁千﹂の字は、入目村の屋敷などがある小字﹁千堂﹂にち なんでいるといわれています。 ﹁伊藤長兵衛家文書﹂が歴史的に重要な意味があるのは、半農半商とし て近隣に小売りしていた、いわゆる﹁地商い﹂から、他国稼ぎを特徴と する﹁近江商人﹂となり、明治期に至り本店機能を博多に移し、京都・ 大阪にも開店した後に︵株︶伊藤忠商店と合併して︵株︶丸紅商店に至ると いう、幕末∼明治・大正・昭和期の史料が伝来しているということです。 このような、﹁地商い﹂から﹁持ち下り商い﹂を経て、企業合併を経験し て法人化を遂げるという、経営形態や商業活動の変化を追える商家の事 例は、類例がありません。 これまでの研究事例では、持ち下り商いの時期だけとか、持ち下り商 いから法人化するという商家はいくつかありますが、長兵衛家、ひいて は忠兵衛家のような地商い段階から追える商家は皆無なのです。このこ とは、たんに近江商人研究にとどまらず、日本における商業資本の歴史 を解明するうえで、新しい知見をもたらすものといえます。しかも、伊 藤忠商事・丸紅の業祖である初代伊藤忠兵衛が生まれた家でもあること は、さらにその史料価値を高めているといえます。とりわけ、商業の実 態を明らかにするために最も有益な史料は棚卸帳なのですが、三冊残さ れています。これは五・六・七代目長兵衛の時期のものしかないとはい え、まさに地商いから持ち下り商い専業を経て博多で開店するという歴 史過程のもので、その中には忠兵衛のことも記されているという、魅力 三
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要第四十二号 に溢れたものです。ごく一部のことについては、すでに論文で書いたこ ともありますが、まだまだ汲み尽くしきれない情報に満ちています。た だ、先にも申しましたが、博多・京都・大阪の店ごとの棚卸帳が作成さ れたのかどうか、本家はそれらを連結決算した帳簿を作ったのかどうか など、子細はわかりません。九代目長兵衛が経営をしていた時の帳簿類 は遺されていないのが残念ですが、それでも明治三十六年∼大正十年半 期間は、﹁報告書﹂や貸借対照表が多数遺されていますから、明治二十年 代後半∼三十年代前半の十年間を除けば、おおよその経営状態を明らか にできるものと思います。 また、ほとんどの近江商人がそうであったように、長兵衛家も商業活 動で得た利益を地域社会に還元しています。現在も目に見える形で残さ れているものは、湖東地方の地域医療で中心的な役割を果たしている財 団法人豊郷病院、芦屋市にある芦屋仏教会館があります。いずれも、九 代目長兵衛の寄付によって建築され、現在に至るものですが、これらに 関する史料も少なからず遺されています。豊郷病院は、現在も湖東地域 の医療を中心的に担っていることはご存知の通りですが、その建設にあ たっては長兵衛・忠兵衛家の所有地が提供され、建設費用も長兵衛さん が私財を提供しています。史料的には裏付けがとれませんが、二〇万円 ほどであったと伝えられています。また、芦屋仏教会館の建設は、篤実 な門徒であった九代目長兵衛の信仰の篤さを示すものですが、彼は博多 店で働いていた二四歳のころ、萬行寺七里馬主和上の法話を聴聞し信仰 を篤くしたと伝えられています。その信仰を深めるとともに、この会館 を拠点として﹁財団法人崇信報恩会﹂が組織され、月報が発刊されたり、 法話講演会が活発に行われました。法話講演会は、現在も続いている活 四 動ですが、残されている史料は戦前期のものとはいえ、よくいわれるよ うに近江商人と信仰との深いつながりを検討する上で有益な事例になる と思われます。 この他にも九代目長兵衛は、いくつかの財団法人に関わりをもち、そ こを通じてさまざまな方面に寄付・慈善行為を行ったことがわかります。 本学の前身の彦根高等商業学校設立資金も寄付していることは、遺され た領収書からも明らかです。また、豊郷村の助役・村長・村会議員など にも就任し、村の行政にも力を注いでいます。それゆえ、豊郷村の村政 に関わる史料もわずかながら残されています。さらには、多数の書簡が 残されています。これらは、年賀状・出征挨拶などの儀礼的なものがほ とんどですが、幅広い交遊関係を見てとることができますし、豊郷の本 家留守宅に宛てた書簡は、個人的なものが多いものの、芦屋に居住する 長兵衛の指示をうけながら豊郷本家はどのような動きをとっていたのか を垣間見せるものです。そのことは、本家を近江に残しながら、他県で 居住した近代以降の近江商人の故郷との関わり方を知る上で重要な情報 を与えてくれることになるでしょう。 しかし、今回展示いたしました史料はごくわずかに限られており、全 体の四〇〇分の一にしかすぎません。このことはとても心苦しいことで すし、史料全体から得られる新事実のことを思うと、誠に申し訳ない次 第なのですが、展示スペースの問題もございますので、是非目録を検索 していただき、史料をお手にしていただければ幸いです。 ただ、嬉しいような、気が重くなるようなお話しを一つ付け加えさせ ていただきます。 長兵衛家は、大正十年三月に株式会社丸紅商店の創業とともに﹁伊藤
長兵衛商店﹂五〇年の歴史を閉じるのですが、明治四十年から韓国で農 場を経営していました。これは、長兵衛家の単独事業として敗戦まで続 けられたことはわかっていました。しかし、伝来した八○○○点の史料 の中には、︼点も関係史料はありませんでした。植民地時代の朝鮮経済 史を研究している友人にも関係史料の所在を問い合わせましたが、全く といって良いほど情報はありませんでした。ところが、この夏、史料目 録の入稿近くなった時期に、突然韓国の全北大学校の院生が訪ねて参り まして、伊藤長兵衛について知りたいとのことでした。どうもインター ネットで私が長兵衛について研究していることを知ったようです。彼は 日本語は全く喋れず、在日一か月という友人が同道して通訳してくれた のですが、彼もまたまだたどたどしい日本語で、聞き取り力も不十分野 すし、私は全く韓国語は解りませんから、お互い雲を掴むような仕儀と 相成ったのですが、かろうじて理解できたことは、伊藤農場関係資料が 韓国全羅北道全州市にある全州歴史博物館に一五七件ある、ということ でした。院生の彼はこの資料を研究しているようなのです。これには、 私も大いに吃驚しましたが、良いことは重なるものだと喜ぶとともに、 一度見に行かなければならないけれども、調査費用や通訳の依頼なども 考えなければならないなあと、気が重くなりました。史料館もいよいよ 海外調査に乗り出すことになりそうです。ここ数年、ようやく他府県所 在の近江商人関係資料の収集を始めていましたが、いよいよグローバル な活動も必要になってきたようです。 伊藤両家史料から見えてくるもの 一一
ノ藤忠兵衛家文書
次に﹁伊藤忠兵衛家文書﹂についてお話しいたします。この史料の発 見は、まさに劇的なものですし、深い縁を感じるものです。発見するこ とになった経緯をお話しすると長くなりますので省略しますが、この文 書は平成十五年︵二〇〇三︶夏に、豊郷町にある﹁伊藤忠兵衛記念館﹂一 これは二代目忠兵衛さんの生家ですが一敷地内の土蔵・物置から発見さ れたものです。﹁発掘﹂といわずに﹁発見﹂と表現するのは、恐らくここ 五十年ほどの問、誰にも触れられることなく眠りについていたと推測さ れるからです。 ひよんなことからその春にご当主−四代目にあたる方ですが一と知遇 を得たことを奇貨として、土蔵の開扉をお願いしたところ、心易くご許 可いただき、夏休みに入って調査に参りました。以前に扉の隙間からわ ずかの史料を目にしていましたので、少しはあるだろうと高を括ってい たところ、予想だにしなかった史料が土蔵の中に遺されていたのです。 わずかのものだろうから、その場で写真を撮って帰ろうと思っていまし たのでダンボールも用意せずに行ったものですから、大慌てで記念館に あったダンボールや史料が詰まっていた行李や衣装箱、木箱などを利用 して史料を取り出しました。ただ、土蔵には電気が引かれていませんで したから、懐中電灯の光だけで手探りで取り出しました。後に整理した ところではダンボール五〇箱以上の量でした。夏の暑い時でしたので、 汗みずくになりながら土蔵から運び出した文書を見て吃驚仰天しました。 そして、ことのついでだと思い、念のために別の物置を点検しました ところ、板戸の向こうに大きな竹の網代籠がありましたので、その蓋を 五滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十二号 開けまして、さらに吃驚しました。封書がびっしり詰まっており、一部 は鼠の糞尿にまみれていました。持ち出すのも大儀な重さの籠でしたが、 とりあえず物置から搬出したものです。 土蔵と物置から見つかった史料は、その日はともかくも記念館の三和 土に持ち出し、史料館に搬入しても良いというご了解を得ましたので、 後日に史料館に運び燃蒸と清掃をいたしました。このさい、鼠の巣と なって破損していたものは、史料開披もできませんし衛生上問題もあり ましたので、伊藤家のご了解を得て処分いたしました。 その後、専用のダンボール箱を作製し粗分類をして保管しました。そ の整理作業を進めるにあたって、史料の中身を概観しましたところ、伊 藤忠商事・丸紅の社史でも利用されたことがないものだと思われました。 とりわけ、封書の中身を点検しますと、これが手紙だけでなく、伊藤各 店から本部にあてた日報であることがわかり、欣喜雀躍したものです。 そのような、これまで学界でも未知の史料ばかりであることに鑑み、何 とか整理調書を取り史料目録を作成したい旨、ご当主にお願いしました ところ、快諾を得まして、現在その作業中ということになります。 史料を発見した二〇〇三年夏は、初代忠兵衛さんが亡くなってちょう ど一〇〇年目の年でした。近江商人を研究する私にとっても、近江商人 関係史料を収集・公開する史料館にとっても、不思議な縁を感じざるを 得ませんでした。私は、特に運命とか不可知のものを信じる者ではあり ませんが、この時ばかりは偶然のこととはいえ、深い縁を感じましたし、 この史料群に行き当たったことは、研究者冥利に尽きると思っています。 ところで、現在、私たちの忠兵衛家文書の整理作業は五年が経過した ものの、現時点では、黒八○○○点まで史料調書を取っていますが、な ”L. ノ、 にぶん日報が多く遺されており、まだ半分の量も作業を終えていない状 況にあります。また、今年の春にも記念館を改修するにともない再度調 査しましたところ、暗闇では見落としていた所から新たに史料が発見さ れ、これらも史料館にお預かりさせていただきました。このような次第 ですから、史料の全容は、いまだ掴めてはいません。ダンボールにびっ しり詰まった日報や書簡類は、まだ七箱残っています。それが連署の史 料になるのかすらも推測できません。ただいえるのは、長兵衛家文書と 突き合わせれば、創業の一八五八年から一九四九年に新生伊藤忠商事・ 丸紅が発足するまでの期間の伊藤両家の諸店の経営の歴史が細部まで明 らかにできるということです。 私たちは、膨大な史料を粗分類して専用のダンボール箱に保管し、箱 ごとにとりあえず一点ずつ史料調書を取っています。しかし、この粗分 類は土蔵のなかで一括して括られて保管されていたり、箪笥の引き出し にまとめられていたようなものは、取りあえずそのままの括りとしてい ますが、ほとんどの史料はあちこちにばらけていたものですから、史料 館に搬入してから史料内容を吟味せずに、その場でおおまかに判断して 箱に分けたものです。したがって、内容を読んで史料調書を取り目録化 する作業を進めましたところ、本来は別の分類箱に収めるべきものが混 在していることがわかりましたので、これを正しいところに分類して並 べるという作業が必要なわけです。たとえば、私たちは資料2のような 形で史料調書を取っているのですが、これは﹁糸店・糸方﹂と仮に名付 けた箱に入っている分です。箱に仕訳した段階では、おおまかな見当で 入れて置いたのですが、﹁糸店﹂のものではない史料が混入しています。 15 ナあれば九代目長兵衛さんの実家が設立した若林製糸場の決算報告書
なので、﹁糸方﹂のものと判断しても良いのですが、やはり別の分類にす べきです。また、20ならば﹁伊藤角店﹂のものですし、26・28は﹁伊藤 本店﹂に分類すべきものです。このように、史料調書が完成しないと、 分類項目自体も立てられませんし、現在の保管箱にある史料の混在を改 めることができません。それらの作業をしたうえで、すべての史料に一 点つつ番号を与えて出納できるようにしますから、史料目録が完成する までに、これからどれほどの時間が必要なのか、確信を持てません。経 験的には、あと五年くらいは必要かな、と思っているところです。 余談ですが、若林製糸場は九代目長兵衛さんの実家でして、資料2の 15 フ備考覧に名前が見える若林又右衛門は、長兵衛さんの長兄で、乙吉 さんは弟にあたります。長兵衛家文書の中にも若林製糸場の決算書が少 し遺されています。かつて彦根市直方にあって、長浜駅前や岐阜県大垣 駅前に大きな工場もあるなど、滋賀県下でも有数の製糸場だったのです が、東邦レーヨンと合併してしまったこともあって、関連資料が散逸し てしまって実態がよくわからなかったのですが、伊藤両家の史料で少し 復元できそうです。 このように、忠兵衛家の文書によっても今までは不明であったことや、 誤って伝承されてきたことなども明らかになるでしょう。その一例とし ては、これまで初代伊藤忠兵衛が初めて対米雑貨輸出をした会社は、明 治十八年創業の﹁伊藤外海組﹂だとされてきましたが、それは正しいこ とではなく、明治二十四年に﹁日本雑貨貿易商社︵商会︶﹂という名称の 会社が存在し、これが最初であったことが判明しています。これは、図 録の18に掲げました﹁記録帳﹂という一冊の史料からわかったことです。 この史料が、社史を編纂するさいに知られていれば良かったのに、と思 伊藤両家史料から見えてくるもの います。 この事実は、すでに論文にまとめていますので、興味のある方はご覧 下さい。本館の学術雑誌であります﹃研究紀要﹄三九号︵二〇〇六年三 月︶に執筆しております。それはともあれ、これらの史料は、まだ整理 途上にあり、史料目録もできていませんので、伊藤家とのお約束で一般 公開に供してご利用いただけませんが、伊藤家のご意向もありますので、 いずれは可能になると思います。それゆえ、忠兵衛家文書についても一 部の情報をお届けさせていただくことでお許し願います。 さて、これまで研究では参照されたことがないものの、飛躍的に研究 を進める可能性を秘めたものとしては、明治四〇年代以降の伊藤本部設 置にともない発行される﹁本部旬報﹂やそのもととなった各店からの ﹁日報﹂があります。これらを分析することにより、この時期の日々の経 済状況に対して、伊藤忠本部においてどのような経営戦略が練られて行 くのかがわかるのではないかと推測しています。 さらに、断片的に遺されている明治二〇年代・三〇年代の商用帳簿を 照合することによって、現在のところほとんど遺されていない棚卸帳の 欠を補いながら、経営が成長していく過程を数字で明らかにできるもの と思います。大正七年以降、戦前期の伊藤忠商事の決算は、社史のなか に営業報告書の数字が一覧表となって載せられていますが、それで全体 的な趨勢を確認することはできるものの、細部を検証するには﹁旬報﹂ や﹁日報﹂が役立つでしょう。それに、大正七年以前ともなるとどのよ うな経営状態にあったのかを明らかにできる数字は、現在のところ作成 されてはいないのです。これは、棚卸帳が遺されていないからですが、 伝来する諸種の帳簿の数字を突き合わせる以外に方法はないと思います。 七
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十二号 この作業はたやすいことではないと思いますが、不可能ではないのです。 逆にいうと、この作業を抜きにして創業から明治期の伊藤忠生理の経営 が伸長してきたと、誰しもが考えてきたわけです。それは、なんら実態 分析をともなってはいなかったのです。 かくいう私も、史料を発見するまでは、両社史の記述で知識を増やし てきたのですから、誰が悪いということではありません。誰も伊藤息兵 衛家に史料が所蔵されていたということを知らなかったわけですから。 たまたま私が現ご当主の知遇を得て、豊郷の土蔵と物置を調査させてい ただくまでは、ご当主自身も史料が土蔵・物置に大量に保管されている とはご存知なかった位ですから。両社の会社史を編纂したさいには二代 目忠兵衛さんはご存命でしたものの、当時編纂にたずさわった方々は二 代目さんにインタビューはしたものの、伊藤家に史料があるのかどうか についてはお聞きにならなかったのでしょう。 また、豊郷の本家で執筆された本家日誌や本家宛の書簡類を分析すれ ば、長兵衛家同様に、明治になって本店機能を他府県に移転させて経営 活動をした近江商人達の末商が、商売を抜きにした地域社会での人的な 交流をどのようにしていたのかというようなことも明らかになると思っ ています。 おわりに いずれにしましても、伊藤両家の史料が発見され、とりあえずは長兵 衛家文書の整理を終え一般公開に供することができるようになりました。 いずれ忠兵衛家文書もお目に掛けることができるようになると思います。 八 両家の文書を用いることによって、図録の冒頭にも記しましたが、地商 いから始まって持ち下り商いに専業化し、他国に本店機能を移して店を 開き、法人化や合併、企業の統合・分割など、近世の商業資本家が近代 資本主義社会のなかでどのように変わっていくのかを時系列で追うこと ができるのです。それはたんに耳垂藤家や近江商人の歴史の解明にとど まるものではなく、現代経営学のなかでケーススタディとして取り上げ られる経営戦略論や組織論、あるいは人的資源論のような研究分野をす べて含み込んだ経営体だといっても過言ではありませんから、現代経営 学が、時間幅では短い事例で理論化されていることを考えれば、一五〇 年という時間幅で分析・検証が可能だという点に鑑み、より良質の理論 を生み出す可能性を秘めていると確信できます。 また、一九四九年中新しいスタートをきった伊藤忠商事・丸紅が、繊 維専門商社から総合商社化し現在に至る過程を繋ぐことにより、財閥系 とは違う総合商社の姿を明らかにできることになるでしょう。その意味 で、二一世紀の前半期には伊藤忠商事や丸紅の戦前期の研究が大いに進 み、新しい経営史の地平を切り拓くであろうと期待しています。 私は縁あって、近年、伊藤忠商事の海外支社の現地社員研修を一日引 き受けているのですが、先週も十一日に一五名の方に今回の展示をご奪 いただきました。私の役目は、要は初代伊藤忠兵衛の経営理念を教授す ることにつきるわけです。なにぶん、共通言語が英語であって、今年は 一二か国から来られているわけで、歴史や文化の土壌が違う方々に一つ の理念を説明するのは、とても難しいことですし、どれほど理解されて いるのかはわかりません。それでも、海外のスタッフは自分たちの会社 は一五箇年の歴史があること、その歴史を創業から明らかにできること
に感激して帰るようです。企業が自らの歴史をきちんと明らかにできる ことは、無形財産そのものです。そのような、目には見えない財産を伊 藤両家は、後世の会社・社員に遺したといえましょう。私たちもまた、 会社の者ではありませんけれども、その遺産を教育・研究に投資、活用 させていただき、資産を増やしていけることを感謝する次第です。 どうぞご臨席の皆様方には、史料館の活動に対し、今後とも変わらぬ ご支援とご高配をお願い申し上げまして、私のお話は終わりにさせてい ただきます。とりとめもないお話しでしたが、ご清聴ありがとうござい ました。 伊藤両家史料から見えてくるもの 九
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十二号 一〇 蹄輪士 き 邊 ーノ料皿撚算ノ蘇魁殖臨浅署汁秘﹀皿O∩料歯嘩銚∼計強羅即湘薄三島囎曄○。b㎝山嶽㊦皿類弓母が。 1げm測算’嶺踏賎伴π讃喰C^囲糊昌C詩。一歩濫霧甲臼猷ぴが㊦“釣弼遭伴Cぺ州㊦融O嘩聾噴残’一鎖㊦丑d罰醤C浮ト弓’卸び叶ぐソ粋曜轡卵θ韓㊦海鋸山Cぺ’ 曄募㊦團遇π営︾酌︾繭。浮々ダ串懲轡臨許歌噂ぴ浮呂甲∩’皿魏h弓i融麗熟嘩譲C濠ゆθひ母がQ一融麗霧嘩蟄C浮が㊦舜’珊々畑㊦報π引C浮難弓母が 噛♂渦鰯㊦掛嚥“針t勲㊦曲弟曝盛歌唾O∩究囎Cぺぐふ。 一♂皿鍮π鞘曲C詩、頭鑑算♂命面田・糾咄歯・識瞭・加購・灘涛琳中4勘崩。 ーノ尉面□舜’血肥伴C^料蛮㊦斎爵岳加□膳伴。浮。藤蝉㊦台墨C汁掛曲野郎。葎が㊦臼O︵ノペ“針許温π戴①皆二黒嚇㊦槍並□嘩伴。浮。辮汁♂謡雪石塔蛮・ 灘露鈷吋S、諏蝿π脚O岳山田嘩齢満d脚酬部吟昇ノ︵ ︶嘩‡Cぺ期油C浮。 メ済咄歯“針嗣醐嘩伴Oノ︵︶嘩‡Cぺ掛図鼻嵐口譲細C詩。旨意㊦蒔ぐ・ひ㊦“∩oぐ・ぺ聾︹︺仏典Cぺ蝋浮甲∩糾珊菌嘩。耳謎。 ーノ識瞭翻π舜’﹁獣壁←識菌﹂伴引C詩釦愚ノー鉱囲寓#吋㊦蔀叫ロ畑温嘩融C詩Q ーノ豫蚕㊦雲φ旨’蕗庄・譲菌㊦酔黒4♂﹁途轍遍﹂﹁酋≧﹂﹁汁b襲﹂鈷吋♂強瀦即類識醤景醤㊦臨斗伴奉職叫が、認鑑算鵡暴C浮。 一’一鎌圏霧㊦、課趙算ノ誰温鉛㊦︾π囲C’逗引舜繭墨C浮。 ーノ一口藩紐舜菰迎伴Cぺ蒜通藩悟π堺呂濠。叫浮♂謹瓢制認嚇糾秘騨♂□嚇詩舜[ ]づ引C浮。 白油騨㊦怯欝“針一襲酷﹁臨﹂﹂一篇戴㊦串申嘩﹁戴﹂ノロ鴻短身﹁串﹂伴C’欝旨C汁高空嵐㊦凝男臼戴①詰ぺぐふ料幽針口︾照日㊦戴弓勘Oぺひ﹁戴﹂伴C 詩。蛛浮’鴬図算﹁無﹂♂輩認舜﹁嶺﹂伴﹃一蛮㊦晋邊書券画露帰吋算﹁洋﹂伴C浮。 メ測識鎖鉾薗︾、頭難“∩麗叫がひ㊦臼05ぺ“鈷囲蹄引日伴C’漁瞭灘甲∩郎㊦邸嘩剖C汁。 一’粁咄㊦串懲算♂温輩㊦冴蜴嘩嘩糠Cぺ’逗洲㊦温皿嘩浮ぺ浮。 ﹁醸瞬﹂﹁洋瞭錦轡﹂﹁輯訂漣楽﹂﹁臨漫激演﹂﹁輸蜂﹂﹁洋︾鎌ヰ﹂﹁繭繭回丼﹂﹁醤﹂﹁融雪﹂﹁睡漫窪地裁﹂ ﹁睡昔﹂﹁欝識﹂﹁娘粛﹂﹁蜘蝉﹂﹁欄蜘﹂﹁蝉耐﹂﹁圖琳﹂﹁掛贈﹂﹁鋭貯・功田雛﹂﹁菌邑﹂﹁三図﹂﹁湘高瀬輩﹂ 歌①πノ ﹁識曝﹂舜’﹁温聖﹂﹁副淋薪齢﹂﹁強蠣即湘療函三二高岳略咄﹂﹁計酋函野曝雄鷹準咄﹂﹁瑠輸﹂﹁刮曲﹂﹁小㊦凄﹂甲∩ノ ﹁恥麟回喜﹂㌶♂﹁輯餅#﹂﹁三二︾﹂﹁E誹恥﹂﹁田田斗十藏#﹂﹁タ蝉曇φ恥・蕪叢叢咽恥﹂﹁器蝋恥﹂﹁田圃首蕪粛呈團﹂﹁郎㊦歯﹂πノ ﹁醤﹂舜’﹁曲欝﹂﹁凶鵡黙鵜﹂﹁癩弼﹂﹁建輸﹂﹁聡﹂﹁柵理﹂﹁小㊦蒔﹂π♂
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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十二号 一二 踏輩悼 陸中 岳加ロ 掛囎菌 三三 加輝 一 温誌一ω醤 掛母三三 強鍛吟← 一串 bの 温酪b。ω槍 掛計︵湖︾薪︶ 腸計粛← 一串 GQ 温郎圏醤。。油 掛計津菖煎 萄三三計← 一串 吟 温郎b。刈醤 卦母津自煎 噛無軸油華掛計← 一串 ㎝ 紹郎。。①岳。。面 計三三 計酋← 一幸 ① 卦計津曹煎 宙蠣聾海蕪← 一二 刈 温誌G。O盆。。並 爵海#菖嚥 肖酋ぐ×隆ン︾三三謡←三三四強三軸四強 一串 ○◎ 沼郎。。一醤一並 財麟齢 料蔚汁繭蓉三番← 一毒 り 温郎ωω耕一油 斜懲馨 導贈浄蔚脳田番←ノ滞海曲 一串 HO 温誌陛槍一山 財麟齢 料軒汁莇図誌蜜← 一由 = 涯郎ホ槍O並 掛蟷齢 三鼎糸蔚h三聯叶← 一串 時 ︵謡郎卜。刈揖︶ 礫訓蜘 職鶏卦計← 一二 一Q。 温誌。。①笹 温郎川十冴醤淘旨砦濫蔚毬拙 強瀦券蔚← 一串 = 沼郎。。O笹刈並 温誌川十汁盆古泣口国汁恥優曾ナ並十代mウ励出鉱雛 強瀦券軒← H串 一㎝ 温誌ω刈醤㎝面暉田 雌誹漣※細醤十一回温誌田鼠冴槍駆落醤 淋麟趙鵬油鱒躰図騒騒ヨ・命雌雄創叶← 圃奉 HO ︵爵郎︶。。①岳。。並一田 訓期購劇︻沸O“難即漉三眠藩プ熈自7\融加創撒 券軒← H串 ミ 温郎G。O醤⊆。面8皿 酪噸難知湖誉灘G沼當咄 ︵瀞軒←︶ 一串 一〇◎ 温郎。。O岳ら並蓉田 湖犀副蓉潟斗温當糊 三鼎糸蘇← 目串 Hり 温誌ω①醤α油 箔檎磯 釧蘭叶獅識←湘無 一串 NO 蔚毬瞭灘冷薄朝 三無圖軒←’跳亟一無卜。O∼卜。○。 目串 b⊃一 濫醇。。。。槍 温郎園十﹀岳卜恭三三詠洲 ︵商三景蔚←γ跳亟一三b。O∼b。。。 一戴 bO bn 温郎も。。。醤O並も。一ロ 繊薄津招滞 強蠣三軒←’三三一三卜。O∼卜。。。 一目 bO 轤p ︵瀕誌玉房︶ 温詠轡沸撒 鵯揖洲十謡サ①ω。。醤旨峰避叫d’蜘回や∩﹁鹸粗鄙識細極O﹂’遡醸一勲NO∼b。。。 一融 b⊃