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同情と倫理的価値

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同情と倫理的価値

三輪健司

SympathyandEthicalValue KenjiMiwa まえがき この小論の論述はマノクス・シェーラーに於ける 同情(Sympathie)(∋の倫理的価値についてである。 同情が吾々の社会生活にとって極めて重要な意味と役 割とを持っているのみならず,同じく道徳生活に於て も重要な地位を占め,そしてまた重要な役割を演じて いるということは明かな事実である。然しながら同情 の遺徳的原理を強調する所謂英国の同情倫理学説やル ソー,ショペンハウェルに於ても,同情の意味は必ずし も明瞭であるとはいわれない。感情伝染(Gef正hlsa― nsteckung)と同情,特に同情と愛との混同は,橿 々なる問題を惹起する契機となり,特にその顕著な対 立を吾々はシコペソハウェルとニイチュとの間に,そ してそれとは異なった意味に於て,ガーダィンの所謂 生存競争の原理とグロポトキンの相互扶助の原理との 対立に於てみることができる。か様の対立の生じる究 極の理由はf同情現象の主観的心理的解釈に由来する ように思われる。それ故!こ吾々はか様の主観的心理的 慈意的な解釈をさけ,社会的遺徳的現象としての同情 の事実を事実として直接に知覚し分析することによっ て,同情の本質を明かにすることができ,従ってまた か様の対立の解決を可閑ならしめることができよう。 即ち一方では同情は動物界に於ても広くみられる感情 伝染と下方で区別されると共に,他方では愛の作用と 上方で区別されることによって,それが遺徳生活に於 て占める地位が明かにされるだろう。 -同席倫理単の系譜 所論同情倫理学といわれるものには,ホップスの人 性を利己的にみる倫理学に反対するシャフテスベリー の自然的感情-その本質よりすれば社会的感情であ る-を重視する説に端を発し,そゐ後継教たるハソ チJソを経て,ヒューム,アダム・スミスに至る一連 の思想系統がこれに属すと考えられる。更1こ後にはシ ョペソハウエルもこの中に入れられようし,またリッ プスの感情移入説(Einfiihlungstheorie)もこの類 彗拉こ所属されよう。 倫理学にとって同情感情が極めて重要な意味を有す ることほ明かなことといわなければならない。従って °°°°°e°°°°°°° 万人が万人に対して敵であるが如きホソブス流の自然 °°°°° 状態は,シャプチスベリーがいうが如く学者の空想に しかすぎない。人間の本性は社交的である。他のもの との凡ての共同生活が依存するところのあの感情は, 圧力や権力によって人為的に初めて人間に附加された ものではなく,それは生命及びその凡ての発動と同様 に根源的である。即ちそれは生得的という言葉が工合 が悪いければ自然的といってもよい。……上述のこと から他の同類に接するや否や同類に対して何等かのよ き感情を即ち,同情(Mitleid),愛,親切の念を少くと もその素質によって感じない根源的な性質の人間を仮 定するということは不可能である(カ。ハソチソソ④に 於ては,人間の生得的な親切(wohlwollen)の原理と 自愛の原理とは単に自然のカとしてみられれば,物理 学に於ける重力の原理と凝集力の原盤とに何等変ると ころもなく併行している。然し親切と自愛との二つの 意志方向の争いに於て常に親切の意志方向に伴う嘗讃 の感情によって,親切の方が優位を占めるようになる ことは,経験とその観察とによって東うべからざるも のである,とされた。更に彼は愛他的感情が厳密な意 味で無私的であるとし,内的報酬としての他人による 賞讃の感情は愛他的感情の動撥たることはできない, とする。他人の幸福に対する無私的な関心ほ愛他の快 楽の欲求と区別せらるべきものである。それ故に重病 ①シェーラPに於ては同情(Sympathie)と共感(Mitgefiihl)と一は同義に使用せられている。Z.B.We・ SenundFormenderSympathie,S.163.以下に於て私は同情と共感とを同義に使用し,上掲書を Sym.と略記する。 (pJodl:GeschichtederEthikB.1.S.278. (りibid.S―325-330.

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人はその死の切迫に於て尚その愛する人々の幸福をま すます切望することができ,又人がその儀性的行為に 於てうける覚讃と同情とは,利己的感情とは何等の関 係もないことが強調せられる。 ヒューム∈)は,一切の利他は利己の変形にすぎない という説に反対し,か様の理論は単に理論の単純化の 結果にしか過ぎないもので事実に反するとする。かく てビュームは,病児の看病!こ自己の健康を損じ子供 の死によって看護の束縛から解放せられた後に悲哀の 余り自分も遂に死ぬるが如き母親の例を挙げ.一体,か 様の母親の何処に苦々は利己を見出し得るだろうか, という。道徳的判断の根拠は理性よりもむしろ感情に 求められる。行為や品性が悪いという人は,その自然 の性質によって根源的にかく感じるのである。理性は 本来説明的準備的であって,行為の功利性は理性によ るよりも感情による。理性は事物の間の関係の発見以 上の何物をもなすことはできない。これに対して価値 判断に於ては全く新しい要素が附加される。それは現 実の事実の中には与えられていなくて感情の生産力に よってのみ説明されるものである。か様の感情は能産 的感情(Sentiment)で,此の感情は理性の準備してく れた一切の事情の上に,行為を全体として観察し評価 する。これ恰も美は,部分の位乱闘鼠釣合等に依 存するものであるが,然し美そのものは庇等の部分の 何れでもなく,その全体を直接観察するときに,美的感 受性によって初めて感知されると同様である。ところ で若しも道徳的判断がか様に感情によるものであると すれば,既にヒュ-ムがその情緒論に於て証明したよ うに,道徳的判断は出来事の遠近により相違があるべ き筈である。二千年前のギリシ′ヤの有徳者に対して自 己の友人に対すると同様に親近感を感じるということ はあり得ないことであろう。然るに事実∴遺徳判断に 於ては時間的にも空間的にも距離の遠近や自己との関 係の親疎による動清はない。確に吾々は道徳判断に於 ては超時間的空間的,超主観的に判断する。吾々は遠く 古代の人や異民族の有徳者を貿讃し得ると同様に,ま た吾々の敵にその模範をさえ見出し得る。かくてビュ ームはか様の遺徳判断の根拠を同感の原理(principle ofsympathy)に求める。然し単なる同感は凡ての他 の感情と同様に対象の遠近親疎により価値評価の変化 を免れ得ない。それ故に彼は包括的同感(extensive sympathy)を考える。これによって彼はその先駆者 シ!ヤプテスベリー,ハッチソソの道徳官説の主観的弱 点を超克して,道徳の原理をより普遍化し得たのであ (9ibid.S.330∼348. @ibid.S.348-371. る。これが彼が同感の原理の科学的発見者である(ギ ッヅキr)といわれる所以である。彼によれば人間は 生得的に同感,又は同胞感(Fellowfeeling)を有する が故に事物を他人の立場に立って判断し叉は感じるこ とができる。勿論またか様の感情といえども全く動揺 を免れ得ない。人間が感情に依存する限りは,自己自 身と隣人に偏らざるを得ない。か様の動揺の訂正者は 遺徳の自然的根拠としての感情ではなくて,人為的な ものである。即ち人間は同感による囁々なる経験を通 して社会一般の功利のために自己感情による遺徳的判 断の動揺を訂正し,自己に対する遠近,親疎を度外視 し得るようになる。かくて吾々は正義の原理(公益性) により一般的観点を定め,それを判断の標準とするよ うになる。か様の一般的観点に立つことによって常に 人間は一般者として,その周囲との関係を認識して超 主観的に価値評価をなし得るに至るのである。 スミス㊥に於ては同情の原盤はヒュームに於ける如 く,功利の原理の助けを借りるに及ばず,それ自身がl 道徳の原理とされる。即ち各々の道徳判断を導くもの は行為の功利性でもなければ又同じく行為の結果に対 する漠然たる同感でもない。苦々は個々の場合に於て 各々自身の感情が,当事者双方の感情と夫々一致叉は 背反することに明輝に同感する。此の二つの感情方向 の協力によってのみ道徳的評価は可能となる。それ故 に或る行為が仮令他人に利益を与えたとしても,それ だけでは道徳的とはいえない。他方に於て否々が行為 者の動機にも同感し得るとき初めてその行為が道徳的 として同感せられる。か様の同感はヒュームと同様に 人間の天性の中に根源的に与えられているもので,人 間の道徳的交際はこの同感によって,初めて可能とな る。ヒュームに於ては尚それ自身では道徳の原理たり 得なかった同情の原理もスミスに於ては当事者双方に まで拡張せられることによって,それ自身道徳の原理 にまで高められる。即ち,他人に於ける感情状態のみな らず,その動機にも同感することを遺徳的判断の必貌 条件としたことは,行為の結果にのみ重点をおいたヒ ュームの功利主義的欠点を補うものということができ る。行為の当事者が自己以外の者であっても,又自己 がその中に含まれていても同感の尿哩には何等の変り もない。即ち,同感の能力が個人の判断を自己に当ては めて自己自身の態度を規制するのである。彼は自己の 眼を以て他人を見,他人の眼を以て自己を見る。``相反 する利害関係を正当に比較しうるためには先ず以って われわれは自分達の立場を置き換える必要がある。"㊥ ③米林訳:アダム・スミス道徳情操論S.286.

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同情と倫理的価値(三輪) このことは自!他に関して何等特別の関係なく,しかも °°.°°°°° その間の関係を公正に判断する第三者の立場から見る ということである。それ故に自他の道徳的行為の評価 原理は常に同一である。吾々は他人と同感し,他人の 眼で自己を見ることによって他人と同様に自己自身を も公正に評価し得る。即ち吾々は常に同感による他人 の批判を感じるのみならず,吾々の中に吾々の一切の 行為に反厚する公平無私なる見物人の批判をうける。 そしてか様の批判は他人の批判によって何等動揺する ところもない。この公平無私なる見物人は同時に自己 の中なる人として自己の究極の審判者である。個人の 批判はこの究極の審判者の前には沈黙しなければなら ない。この内的裁判官は良心である①。然し良心は主 観の枠にはめ込まれたものではなく,"胸中に住む偉 大なる居住者である想像上の公平無私なる見物人"(カ として自他の主観の外に出で,"最も図々しいわれわ れの情感をもびっくりさせることのできるような大き な芦で,われわれが,単に大勢の人間の中の一人にすぎ ず,いかなる点においてもそれらの人々の誰一人にく らべて見てもすぐれてはいないということ‥‥‥をわれ われに向って叫ぶ―ところの人物"③であり,"われわ れに自分自身ならびに自分自身に関するすべての事柄 が実際くだらぬものであるということを教える"(り公 平無私なる見物人なのである。か様のわが中なる一般 者としての良心)も吾々の道徳的行為の源泉である。 "人間社会の凡ての成員はお互いに助力を必要とす る立場にあると同時に,同様にしてお互いに危害を加 えられる危険に曝らされている。必要欠くべからざる 助力を相互に愛情,友情,尊敬などに基ずいて与え合 うようなところでは,その社会は繁栄し幸福である。 そのような社会に於けるすべての異なる成員は愛情と か愛着というような快い紐帯で結ばれており,その結 果いわば相互的好意の一つの共同中心に向かって引っ 張られているのである。"(り同情倫理学に於て利己的 本能と同時に社会的感情(同感)が人間の天性の中に 根源的に求められたことは当然であるといわなければ ならない。クロボトキンもまたいう。"社会性(Socia-bility)は相互闘争(MutualStruggle)と同様に自然 の法である。仮令如何に粗暴であろうとも,勿論この 両者の相対的量的な重要性を評価するということほ極 めて困難なことであろう。然し若しも吾々が直接的試 みに訴えそして絶えず相互に戦争状態にあるものと相 互に助け合うものの中の誰が最適者であるかを自然に ①@(り④ibid.S.285 (りibid.S.179 @クロボトキン:MutualAidS.14 ⑦米林訳ibid.S.131 問うならば,膏々は直ちに相互扶助の習慣を有すると ころの動物が疑いもなく最適であることをみる,"@ と。スミスに於ける道徳的判断者としての公平無私な る見物人の立場は利己的な自己の立場を止揚した高次 の立場であり,か様の立場の可能の根拠は正に根源的 に人間の天性の中に求められた同感の原理であった。 それは道理の問題(amatterofright)ではなく事 実の問題(amatteroffact)(カである。自他の利害 関係を相互に交換し合うところに公平無私な第三者の 立場が可能となり,か様の立場に於てはじめて"欲得 づくの交換"(勤の原理の上に成立する功利社会とは本 質的に異なる相互的好意の-一つの共同中心に統合する 共同社会が成立する。そしてか様の社会に於て初めて 人々は自他の行為に偏することなく第三者の立場に於 て道徳的に判断し得るようになる。 ニ同情と道徳的事実 以上所謂同情倫理学の系譜の一瞥の後に今や吾々に 対しては尚極めて深刻な問題が浮び上ってくる。本来 道徳が社会に於て可能であるにしても,社会性が直ち に道徳性であるとすることには多くの疑問がある。従 って同感の原理を社会的原理と同時に道徳の原理であ るとするスミスの根太思想には,道徳の重要な一画が 看過篭れているように思われる0"遺徳的意執ま少く ともそれが他人との関係及び社会(Gemeinschaft) との関係を規屈すると等しい根源性を以て各人の神及 び自我白身との人間の一定の価値的にして理想当為的 関係(例えば神及び自己自身に対する純正の自己価値 と義務)を親定する。道徳現象(sittlichep旭nomen) は本質的には全く社会的現象(SozialeErscheinung) ではない。社会性が欠けているときにもまた道徳的現 象は依然として成立する。他人又は社会との関係は道 徳現象一般の成立にとって本質的ではない。"㊥道徳 的現象にとって本質的なことは,価値の客観的段階秩 序(dieobjektivenRangordnungderWerte)であっ て,これに先行せられる社会的現象が初めてまた道徳 的現象であり得る。しかもシ!ェ-ラーによればか様の 価値の段階秩序はア・プリオリーの所与として,"人間 としての人間に妥当し,それ故にまた個々人に対して もまた凡ての社会に対しても妥当する。倫理学の証明 の各々の社会的基礎付けは最も厳密に否定される"㊥ 既述の如くスミスが問題としたのは同感の事実の開 題であるにもかかわらず,果して遺徳生活の事実に対 (㊨hid.S.179 @M.Scheler:Sym.S.84 ㊥ibid.S.85.

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して厳密な意味に於て正当であるだろうか。 (11スミスによれば,"われわれは自分が自分自身の行 為の見物人になったものと仮定し,そのような見地か ら見ると,自分の行為が自分の上にいかなる結果をも たらすかということを想像すべく努力する。これは, それによってわれわれがある程度まで他人の眼をもっ て自分自身の行為の道徳的適正を吟味することができ る唯一の鏡である。"①換言すれば公平無私なる見物 人の同感反応によって初めて当事者の存酷態凰行 為等の道徳的価値が導出されることになる。此処では 遺徳的事実が正しく見られてはいない。評価理論 (Beurterihung6theorie)㊥が一般に遺徳的事実を見 落して,それ故に外から持ち来された標準-それが 親範であろうと理想であろうと-によって初めて善 悪の道徳的区別が可能であると主張するのと類似の誤 りに陥っている。例えば悪人の喜びとの共感はそれだ けでは決して道徳的に価値あるものとほいわれない。 共感―一共喜(Mitfreude),共苦(Mitleiden)「の 道徳的価値は,それが共に(Mit)されることによっ て初めて生じるのではなくて,感得(Fiihlen)の内 実に依存する。道徳の問題は本質的には多数決の問題 ではない。悪人の喜びに如何に多人数が共感しようと も,それ故にそれが華となるものではない。悪人の喜 びはそれが本来悪人の喜びなるが故に消極的価値であ り,従ってか様の価値の共感もまた同様に消極的価値 である。それ故に"それ自身に於て価値ある喜びとの 共喜のみがまた,道徳的にも価値ある,"㊥のであ る。既にヒュームも指摘したように,"共感はその各 々の可能なる形式に於て,原理的には価値盲(Wort blind)である。"(りこのことに関しては再び後に述べ 度い。 (2)既述の如くスミスによれば,良心もまた胸中なる 公平無私の見物人とされる。私的な自己は適正なる遺 徳的判断をなし得ない。人間は独力では自己自身に関 する道徳的判断をなし得ない。彼は自己の眼を以てで はなく,公平無私なる見物人の眼を以て自己を見なけ ればならない。それ故に同感の原理の上に立つ限りは ―°°° 道徳的判断と良心判断との間には何等の本質的区別も 存し得ない。蝿近人格(intimePerson)⑤の領域に 於てのみ可能である良心現象も,公平無私なる見物人 一般の共感現象となるだろう。然しこれほ正しく事実 (∋米林訳S.237. ◎Scheler:FormalismusS∴192ff.

③⑦Sym.S.2.

(りFormalismusS.585ff. (釘ibid.S.586. 、(りibid.S.589. に反するものといわなければならない。所謂良心の苦 しみや苛責は私一人のもので,親子,夫婦,親友とい えども此処では各々がわれ一人で負わなければならな い運命である。良心の苛責に打ちひしがれ絶望の深淵 に沈んだ苦悩者に対して,神以外の如何なるものが慰 めと救助とを与え得ようか。実に"絶対的据近人格の みは,総体人格の媒介による他の人格との社会結合に は景早何等の関心(Anteil)も持たない。故にこの人 格は有限人格の総体領域内に於て云わは絶対的孤独で ある。孤独は有限なる人格の間にあっては除去し得な い消極的項類の本質関係をあらわす範疇である"⑥此 の孤独に於て舵近人格は相互に全く違った体験に生き る。孤独は人格相互の自己通達可陛性(Selbstmittei1-barkeit)の絶対的限界を置ける。"!泥近人格と社会的 人格との区別は認識的性質のものではなくて,むしろ 存在的(ontische)の性質のものである"(う`'それ故 に吾々の忘れてはならないことは,"絶対的梶近人格 は凡ての可能なる他人認識と他人評価(それ故に当然 凡ての歴史認識にもまた)に永遠に起絶する"(封とい うことである。同情倫理学ほか様の本質事実を見落し ているのみならず,"われわれが父親でもなく,兄弟 でもなく,あるいは友達でもなくわれわれすべてにと って単なる一人の人間,一人の公平無私なる見物人に すぎず,しかもそのような人間はわれわれが他の人々 の行動を眺めるときに用いるかの平等無差別の態度を 以てわれわれの行動を観察するものであるということ を学ぶ"㊥とき,か様の見物人の眼を以て私によって なされた私についての道徳的評価は,所謂世間の私に ついての道徳的評価によって何等動括しないとされ る。此処では,われ一人の固有蝿近領域は存し得べく もなく,それ故に正に同情の原理は社会的原理たると 同時に遺徳の原理である。 (3)同情倫理学は愛情の事実を共感に帰属せしめると いう重大な誤りを犯している。しかも特に共著を重視 し,共苦よりの苦悩者に対する親切(Wohlwollen)を 愛と混同する。カントもまた庇の誤りに陥っている。 "人間に対する愛はなる程可能であるが,然し命ぜら れることはできない。何人と経も単なる命令によって 人を愛することはできないからである。従って凡ゆる 法則の核心に於て理解せられるところのものは実践的 愛のみである㊥"即ち,カントによれば感情としての @ibid.S.593. (り:米林訳S245. ㊥波多野・官本訳:カント実践理性批判(岩波文庫) S.128.

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同情と倫理的価値(三輪) 愛は自然のものであるから命じられ得ないがj(∋親切 心としての実践的愛は命じ得られることになる。(夢然 し実践的愛即ち親切は厳密な意味に於ては夏とはいわ れ得ないし,叉,特殊め性質の愛ということもできな い。両者は根本的に異なる性質のものである。 ≡同情と愛憎 酎隙と:愛情との間には如何なる本質関係があるだろ うか。 (1)愛は本来根源的な価値認識の作用として価値的で ある。これに対して共感は本質的には価値盲目的であ る。既述の如く共感から初めて価値が導出されるので はなく,価値あるものとの共感がまた価値的である。 か様の価値を認識する―のが外ならぬ愛の作用である。 共感は他人の情感と共感するところにその本質がある ので,この情感自身の価値は,共感とは何等の関係も ない。例えば吾々ほ,残虐者の残虐行為に於ける喜び に共感することはできないし,逆に何等の共感をも持 ち得ない吾々の敵から苦―々自身に対して為される正当 なる行為に対しては,吾々の苦悩にもかかわらず尚彼 の行為を覚讃せざるを得ないだろう。か様の場合に於 ける塊虐者の低劣な人格価値,自己の敵の高き人格価 値を認識せしめるのは変の作用による。変は心の論理 (Logiqueduceur)として赤い糸⑨の如く心を貫いて いる。血管によって五体が一つの生命体にまで統一さ れている如く,愛は凡てを結ぶ根紐帯である。愛の価 値把握に於ける本来的な役割は,発見者的役割であり, "それはその時々の経過に於て,即ち当事者に尚未知 な新らたにしてより高い価値が輝き出るところの運動 である。"④それは他の価値認識作用㊥の指導者であ り,先駆者である。新しい価値世界は変によって発見 せられ,拡張せられ,充実せられる。止ヒの意味に於て 愛は他の価値認識作用に対して創造的な業績をなすも のである。"愛は価値を負うところの各々の具体的個 的な対象が,自己に対し,そして自己の理想的窺定に よって可能なる最高の価値に達するところの運動,又 はか様の対象がそれに固有されているところの理想的 価値本質を獲得するところの運動である"⑥ (2)愛は感じ(Fiihlen)即ち機能(Funktion)では なく,作用(Akt)であり,連動である。むしろ愛は 感情(Gefiihl)や情緒(Affeckt)と区別されて,心 情運動(Geiimts-bewegung)と呼ばれよう。凡ての (∋白井訳:カント著作榮B.18.道徳哲学S.156. (りibid.S.158. (りFormaIismusS.261.

④ibid.S.263.

(りibid.S.262-9. 感得(Fdhlen)はそれ示作用の感得であれ状態の 感得であれ,何れにせよ本来受容の働き(Aufneh-fnen)である。か様の受容の働きをシ!ェーラーは機能 と呼んでいる。これに対して愛は心情の連動(Bew・ egungdesGemiits)として精神的作用である。共感 によっては何物も附加されないし又附加されてはなら ない。未知の世界は,共感の関するところではない。 "共感は本来本質的には反応的(reaktiv)であるが, 愛はそうではない。"⑦愛は恰も登山家が山に憑かれ ている如く,探検家が未開地に憑かれているかの如 く,未知の価値―匪界の探検家である。愛は限りなく価 値世界に入り行く。この故に愛は悩める者にも尚鞭し 得るが,悩める者と共に悩み得るのは共感による。愛 は本質的には自発的(spontan)である。それは愛の 創造性が発明(Er負ndung)と'いう意味ではなく, 発見(Entdeckung)という意味であったと同様の意味 に於てである。 (3)共感と愛との間には,如何なる本質関係があろう か。第一に,"各々の共感一般は愛に基礎付けられて 居り,それ故に愛なぐしてほ消滅する。然し逆ではな い,"①ということである。それ故に愛の対象が他人 格に於ける如何なる価値対象であるかによって,即ち 感覚的,生命的,心的,精神的の価値によって共感の 深度が親足される。確に吾々が愛すると同時に共感す る場合には,本質的に愛は共感に先行し,これをその 方向と酸度に於て規定する。それ故に共感の深度は愛 の深度による。然し第二に,吾々は屡々愛なき人にも 共感する。これは如何なる意味だろうか。例えばある 家族の一員を愛さないにもかかわらず共感する場合が ある。此の場合彼に対する共感は彼の家族―に対する愛 によって基礎付けられている。それ故に現象的には愛 の対象と共感の対象とは必ずしも同一である必要はな い。これに対し変に基礎付けられない共感は,いわば 上からの共感として,一環の劣等感を目覚めしめる。 共苦の亜種としての隣慈(Erbarmen),気の毒(Bed・ auern),J臥、やり(TeilnehmeIl)等は,㊥上からの 共苦として対者に羞恥と卑窯を感じしめる。共苦をし てか様の危険から脱せしめる唯一のものは,共苦が自 ら洩すところの愛である。それ故に"人格に対する愛 のない共苦の表現は,せん細な道徳感覚を有する思い やりのある人からほ,残虐(Brutalit己t)としてさえ 感じられるものであり,彼が同時に共苦の対象を変し

S S S S m d m も S y i b i S y i b i ⑥ ⑦ ㊥ ㊥

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得るところでは,彼は共富の刺戟を隠撤するだろ う。"(∋愛の結果としての共苦にして初めて羞恥と卑 窟を目覚めしめることなく,自らなる救助手段として 遺徳的価値的となる。か様の愛に先行されない共苦 は,むしろ救済とは反対の一種の抑圧として感じら れ∴遂いには救い難き反情(Ressentment)を形成す る最も確実な根拠を提供するだろう。泡に人の心を結 °°°° ぶものは愛であり,親切,固情,好意等は第二次的に 道徳的価値的である。なんとなれば,"同情は正に愛 の種類の深さにのみ従う,"④ノものであるから。 四結び 共感は上述の如く他人と情感を共通にすることであ る。それ故にそれには自他の間に現象的自我距離 (ph云nomemIIchdistanz)③があり,庇の距離を隔て て自他眩平等に実在する。比の自他の平等の契在性④ が共感の前提である。"諸人格の距離と人格の一方的 並びに相互的相異の意識が純正なる共感に於ては全く 現象的に保持されている"④か様の現象学的事実が 共感と感情伝染とを判然と区別する徴表である。"感 情伝染に於ては他人の感染する感情は他人のものとし て(alsh―emdes)は与えられずして,自己のものと して(alseigenes)与えられている。ただその因果的 由来のみが他人の体験に帰せられる。"㊥獣群や群集 に於て見られるように,それらは同一の情感によって 支配され,凡ては全く彼の意図とは異なるこの情感の まにまに,しかも自らは自己の意図の下にあるかの如 くに行動する。然しか様の情感は共感によっては伝染 せられない。なんとなれば共感に於てはか様の情感は 正しく他人のものとして感得されるから。従って共感 と感情伝染とは両立しない。感情伝染に於ては同一情 感は量的には増加されようが,新しい情感の附加の余 地は全くない。そこには自己体験の拡充も深化もない。 感情伝染に於て,各人は徹頭徹尾同一感情に生きる。 若し共感と感情伝染とが同一であるならば感情伝染は 不幸の掛算(EinMultiplikatordesElendes)(労であ るだろう。にもかかわらず両者の不両立性の現象学的 事実を見落して,高々両者の相異を相対的とする誤謬 がみられる。例えばスミスによれば,"ある場合には 同情は単に他人の抱くある種の情緒を見ただけで起る (Oibid.S.168. (参ibid.S.78. ④ibid.S.23. ④ibid.S.115. ㊥ibid.S.75. ⑥ibid―S.40. (うibid.S.16. ように見えるかもしれい。ある場合には情感は一人の 人間から他の人間へと瞬時に感染し,しかもかような 感染は,これらの人達が差し当り交渉を持つ相手方の 心の中に,かような感情を起させるものが何であるか に関して何らかの知識をもつに先立って行われるよう に見えることがある。''④叉"他人の苦しみまたは喜び に対してわれわれが同情する場合ですらも,その何れ かの原因に関して充分なる知識を持たない間は,極め て不完全なのが常である。"㊥それ故に同情が感染せら れるのは同情の原因に関する充分なる知識を持たない 場合とせられる。両者の相異は,それに関する知識の 充免不充分という相対的相異であって,何等本質的相 異がないことになる。それ故に真に倫理的価値を持つ 同情は,"他人の苦悩の直接的感覚的印象に依存せず して,むしろ現在を超越して,空間的時間的に遠方に 達するところの多様に媒介された表象と思惟の感情反 射(Ge短hlsre恥Ⅹ)に依存するところの形式の同情"㊥ とされる。スミスに於てもヨードルに於ても感染は実 質的にはその道徳的価値を剥奪される。然し同情と感 染とは本質的には質的に峻別されなければならない。 同情は異なる他人の情感の感得であって,それ故に本 質的には自我を超え行くものである。究極的には吾々 の心を開くものは愛であるにもせよ,朗かれた心(0庁e-neHerz)㊥は共感によって拡張せられ,かかる心に, より広くして豊かな価値世界が顕現し,感得される だろう。第二次的にではあ拳が,自己体験の牢獄を破 り,他人に対して心を開くことによる新しい豊かな価 値世界の受容に於て,共感の道徳的意義がある。 上述せるところから個々の共感の倫理的価値は愛に 導かれつつ,より高く且積極的な価値㊥の共感によっ て決定せられよう。かくてシ∵ェ-ラーは共感の倫理的 価値測定の標準として,次のような四つを挙げてい る。⑲ (1)吾々の情緒生活は四つの層からなる。⑭即ち精神 的心的,生命的,感覚的の感情の段階をなしてい る。最高の感情層は精神的感情層で,心的なもの,生 命的なものと位し最低は感覚的層である。この四段階 の感情との共感によって,その倫理的価値が決定され る。 (2j共感には二つの軋即ち相互に共感し合う型(M-(りibid.S.7. @ibid.S.9. @Jodl:allgemeineEethikS.254. ㊥ibid.S.56. ㊥FormalismusS.21T22. (珍Sym.S.162-3. ㊥FormalismusS.340―356,

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同情と倫理的価陪(三輪) iteinanderfiihlen)と誰かとの共感という塑(Mitge-f抽】mitJemand)(∋がある。それ故!こ共感の倫理的 価値はこの二つの塾に即応して決定される。この同型 は倫理的には等価的であって,それ故に共感の価値実 質によってその倫理的価値が決定される。 (3)共感は本来他人格との関係に於て成立する。シ′ェ ーラーによれば,作用価値は状態価値よりも高い。① それ故に人格の中心的自己感得作用との共感は,その 結果としての人格の状態価値との共感よりも高い倫理 的価値を持つ。 佃共感には既述の如く共感対象についての何等かの (DSym.S.9. 知識が前提せられる。即ち純正なる共感には,共感対 象についての了解(VersteheIl)と追感(Nachfiihlen) とが先行する。共感の生じた事情を充分に了解し追感 することは共感自身の倫理的価値には直接には何等の 関係もないが,然し共感の総体価値には関係がある。 それ故に共感の総体価値が問題となる場合には,それ は他人の苦悩叉は喜びが,それ相応の事物価値を有す るか否かによって決定せられる。例えば事物価値相応 でない苦悩との共感は,空虚な共感であり,従ってか 様の共感の総体価値は,倫理的には価値が少ない。 (1955.10.30) (りFormalismus.S.100

参照

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