著者 石川 立
雑誌名 基督教研究
巻 64
号 2
ページ 17‑35
発行年 2002‑12‑26
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004432
キー・ワード
隣人、同胞、神の国、隠喩、読者反応批評
KEY WORDS
Neighbor, Compatriot, Kingdom of God, Metaphor, Reader-oriented criticism
要旨
「良きサマリア人」の物語の中でイエスは (36 節)に
「に近づく」と「の隣人になる」の 2 重の意味を持たせ、「誰が倒れていたイスラエル 人に近づいたか/の隣人になったか」と問う。問われた律法学者は「彼を助けた人
(が近づいた)」と答えるが、この答えをイエスは「サマリア人がイスラエル人の隣人 になった」という意味で受け取る。「隣人」は「同胞」の意であり、イエスはここで
「サマリア人がイスラエル人の同胞になった」という証言を誘導したのである。2 つの 憎しみ合う民が「同胞」になることによって相対的な「国」の概念が崩れ、2 つの民を 包含する第 3 の神の国の概念が浮かび上がる(隠喩的な働き)。この神の国のテーマは ルカ福音書の文脈にも合致している。
SUMMARY
In the narrative of "The Good Samaritan", Jesus provides a double meaning to both "to come near to" and "to be a neighbor to" by (v.36), and asks, " Who came near and was a neighbor to the fallen Israelite?" The scribe, in responding to the
「隣人になる」とはどういうことか?
―「良きサマリア人」の一解釈―
What does it mean "to be a neighbor"?
― An exegesis of "The Good Samaritan" narrative ― 石 川 立
Ritsu Ishikawa
question, answers," The one who had mercy on him(who came near to him)." Jesus interprets this response to mean " The Samaritan became a neighbor to the Israelite." Here the "neighbor"
means a "compatriot ". Jesus extracts, therefore, the testimony from the respondent that the Samaritan became a compatriot of the Israelite. The two nations, in a relationship of hatred, are now compatriots and the relative concept of “nationhood” disintegrates and the third nation, the Kingdom of God, emerges with metaphorical meaning. This theme of the Kingdom of God is shared in the Lukan Gospel as well.
目 次 1 問題の所在 2 解釈の回顧
3 「隣人」の語と「隣人となる」の表現 4 〈神の国〉
5 結び、あるいは方法論的反省
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なので す。…この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちに とっては…「つまずきの石、妨げの岩」なのです。(ペテロの手紙一2章4-8節=新共同訳)
1 問題の所在
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いわゆる「良きサマリア人」の譬え話1を含む〈イエス〉2と或る律法学者との問答(ル カ福音書 10 章 25-37 節)は、教会の内外で比較的よく読まれ、また、教会員の生き方 の指針としてもしばしば説かれてきた聖書箇所である。この問答の中で〈イエス〉が語 る譬え話は理解し易く、メッセージも引き出し易いと一般に考えられているからである。
しかしながら、この譬え話は、教会の歴史の中で、必ずしも一定の解釈がなされて きたわけではない。聖書解釈の方法によっても譬え話のイメージはずいぶん変わって くる。また、譬え話のどの点に重点を置くかによっても、メッセージの内容は異なっ てくるのである。
さて、筆者は、聖書に関するいくらかの知識とルカ 10:25-37 の記事についての若干の 情報を持ったひとりの読者として、この記事をより大きな文脈の中の〈物語〉として読む。
この記事の研究をしようとか、この記事についてメッセージを語るという目的は脇に置い て、何らかの〈納得〉を求めて、とにかくまず、読む。ただしこのとき、筆者は中立の立場 ではなく、聖書を通しての何らかの〈体験〉3の付与を願いながら読む。すなわち、予め 或る方向性を備えているのである。本稿では、このような〈素読み〉の行為を重要な出発 と位置づけたいと考える。聖書研究というような旅があるとすれば、すべては何よりも まずこの〈素読み〉から出発せざるをえないからである。
〈素読み〉の途上で、あるいはその結果において、筆者の〈こころ〉に〈言葉の出来事〉
が生じる。この〈言葉の出来事〉が、〈言葉の出来事〉それ自体とそれを惹起したテク ストに対する考察を促すのである。こうして、テクストの考究が始まる。
ルカ 10:25-37 のテクストに対したときに、筆者の〈こころ〉にひとつの〈言葉の出来事〉
が生じた。以下は、この〈言葉の出来事〉を端緒として始められた考察にほかならない。
邦語訳聖書をひもといて「良きサマリア人」の話に向きあう。〈イエス〉と律法学者との問答
(25-29 節)の次に、いわゆる「良きサマリア人」の譬え話をイメージを喚起しながら読み終え、
36 節の〈イエス〉の問い掛けに至ると、聞きなれない訳にぶつかることになる。すなわち、〈イ エス〉は譬え話を語り終えたあと、「あなたはこの 3 人のうちで、誰が追い剥ぎに襲われた人 の隣人になったと思うか」と問うのである。「隣人」という日本語は日常語として使用しない が、そのことは別にしても、この文脈で「隣人になる」という表現は奇妙に響く。「隣人になる」
とは、一般には「近所に引っ越してくる」というような意味になるのではないだろうか。しか しながら、そのような意味は、当然のことながら、ここの文脈には当てはまらないのである。
聖書に親しんでいる読者は、「隣人になる」という表現にも慣れてしまっており、そ の奇妙な響きに気づかないかもしれない。聖書をよく読む読者は、無意識のうちに
「隣人」を比喩的に解して、「隣人になる」を「困っている人に近づき、その人に関心 を持って手を差し伸べる」というような意味で理解しているのではないだろうか。
しかし、無意識の操作とはいえ、そのような解釈は、テクストの意外性(つまずき)
を読者の慣れ親しんだ言語使用の守備範囲に無理矢理引き入れること(意外性の排除)
に他ならないのではあるまいか。テクストの意外性を排除すれば、本来その意外性に よって披かれたかもしれない世界に対して、読者自ら扉を閉ざすことになろう。テク ストに真摯に向き合おうとするならば、テクストの奇妙さに耐えながら、今しばしこ れを保ち、これに関心を持ちつづけることが求められるのではないだろうか。
ところで、「隣人になる」という表現の奇妙さは、日本語訳に限られた問題なのだろう か。K . Haackerは、元のギリシア語においても、36 節の (邦語では「隣人」と 訳される)の意味は、 29 節bの の意味と一致しないと指摘している4。したが って、彼によれば、ギリシア語でルカ 10:25-37 を読んでいくときにも、36 節の
は読者に意外な思いを引き起こす「つまずきの石」であるということになろう。
ただ、K.Haackerはこの「つまずきの石」について次のように説明し、「つまずきの石」
を排除しようとする。彼によれば、36 節の表現 (直訳:「誰 かの隣人になる」)は、ヨセフスやフィロンにおける用法と同様、「或る事柄または人物 に 近 づ く、何かまたは誰かに近寄る 」という意味にすぎず、したがって、3 6 節 の の表現の中には「隣人」という概念はないのである5。そうだとす れば、「隣人になる」という邦語訳は正確ではなく、そこで奇妙さを感じることも間違っ た読み方に基づくことだということになる。しかしながら、この解釈は、36 節の表現の 奇妙さを契機として考察を深めるのではなく、この「つまずきの石」を排除し、これを平 坦な意味にしようとする試みであるように思われる。この試みの是非は後に論じるが、
K.Haackerのような仕方ではなく、我々は、「隣人となる」という表現の奇妙さを保持し
つつ、この奇妙さのこの文脈における意味を追究し、そこから出発して「良きサマリア」
の譬え話を含むルカ福音書 10 章 25-37 節の単元を改めて解釈し直していきたいと思う。
2 解釈の回顧
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キリスト教会約 2000 年の歴史においても、「良きサマリア人」の記事は好んで解釈 されてきた6。教父時代、中世、およびルターにおいては、概して、アレゴリカルな解 釈によってキリスト論的な読み方がなされてきた。この場合、たいてい、追い剥ぎに 襲われた人に手を差し伸べたサマリア人をキリストの比喩と考えて、この譬え話の中 にキリストの愛の行為を見ようとする7。
カルヴァン以降は、おおむね倫理的な読み方がなされるようになる。特に歴史批評 的な方法論が聖書研究の前提となってからは、道徳主義の波及とあいまって、倫理的 な解釈が主流となる8。
倫理的な解釈の結論は我々の耳には馴染み易いものである。倫理的な理解によれば、大雑 把にまとめると、この箇所は読者に次のように勧める。「国境を超え、民族を超えて、どの人 間もあなたの隣人である。いや、むしろ、あなたは、サマリア人が『隣人になった』ように、自 ら、どの人に対しても隣人にならねばならない。そして、あなたは、他者の隣人として、他者 に対して、憎しみなどの人間的な思いや計らいにとらわれることなく、無私の精神で憐れみ の行為を実行する必要がある。人は神の愛を他者に向けて表さねばならないのである」と9。
さて、我々のテクストの歴史的背景のうち、次の事柄を確認しておくことは解釈の 際に絶対不可欠である。
①律法は単に表面的に守られているにすぎず、その内実が遵守されているわけでは ない状況が(少なくとも我々のテクストの著者の視点では)あった。
②神殿奉仕にたずさわる祭司やレビ人は、死体に触れてはならないという律法があ った(レビ 21:1-4:11 参照。また、民 19:11-22 も参照)。
③ユダヤ人はサマリア人と互いに憎しみ合っていた(ルカ 9:51-56 参照)10。
以上の3点に対応して、「良きサマリア人」の記事は、当時の社会状況に対して3つ の批判を含んでいる。
①当時のユダヤ人が「隣人を愛しなさい」という律法を守るとき、彼らが「隣人」
と考える範囲は極めて狭く、民族主義の域を出るものではない。これに対して、我々 のテクストは、宗教的儀式や民族を超えて、助けを必要とする目前の人が「隣人」な のであり、人は自らもその人の「隣人」として、その人に手を差し伸べなければなら ないと教える。この教示と共にまた、この箇所には、当時の狭隘な律法解釈と律法遵 守の仕方に対する批判が含まれている。
②追い剥ぎに襲われたユダヤ人は、傍目からは既に息を引き取っていたようにも見え たであろう。もし、それが死体であるならば、律法に忠実な祭司やレビ人は、出来る限 りそれから遠ざかりつつその場を立ち去らねばならない。「良きサマリア人」の譬え話は、
この祭司とレビ人を、職務に忠実なあまり瀕死の人を見捨てた宗教者として描いてい る。このようにして、形骸化して血の通わないユダヤ教の祭司制度を批判している。
③イスラエルの聖職者が見捨てたユダヤ人を、ユダヤ人が忌み嫌っているサマリア 人が助けた。この姿を肯定的に描く「良きサマリア人」のテクストは、民族意識を鋭 く批判し、これを克服するように勧めている。
このような 3 つの批判を含んだ倫理的な教えは、ルカ福音書に編入される前の特殊 資料であった「良きサマリア人」の成立環境においても重要な役割を果たしたであろう。
また、これを編入したルカ福音書の著者と彼が属した教団にとっても、それは大切な意 味を持っていたであろう。さらに、この記事の倫理的な教えは、〈ルカ〉11が読者として 意識しなかった後代の教会にとっても、教会形成上のよき導きとなったはずである。
我々のテクストが倫理的な勧めをしていることは明かである。しかしながら、「良き サマリア人」の記事は、民族意識や憎しみの意識を超えた隣人愛を説く倫理的な教え にとどまるのだろうか。例えば、中世以前に行われた、アレゴリカルな解釈によるキ リスト論的な見方は、学問的な吟味に耐え得ない釈義として簡単に捨て去ってよいも のなのだろうか。また、「良きサマリア人」の譬え話が人間生活の倫理的な教えにとど まるとしたら、それが挿入されたルカ福音書の文脈に、それはうまく合致するのであ ろうか。もしかして、不調和音を響かせることにならないだろうか。
3 「隣人」の語と「隣人となる」の表現
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(1) の二重の意味
1.前述したように、K.Haackerは、29 節bの の意味と、36 節の
における の意味の違いを指摘している。彼によれば、36 節の 表現( 直訳:「誰かの隣人になる」)は、「或る事柄または人物 に近づく、何かまたは誰かに近寄る」という意味にほかならず、その表現の中に「隣人」と いう概念はない。彼は、29 節bの は名詞の「隣人」であるが、36 節の
は形容詞の「近い」であるとして、両者を一種の語呂合せと見なすのである12。
これに対してF.Bovonは、ルカ福音書における は、両節いずれの場合も、
文字通り近くにいる存在としての「隣人」を指すのであり、したがって、両者に不一 致があったとしても、それはほとんど問題にならないのだとする13。この議論から察
するに、F.Bovonは「隣人」を単に〈近くに居る人〉の意味ではなく、〈互いに関心を
持って良い働き掛けをし合う態度を持つ人〉という比喩的な意味で捉えているようで ある。したがって、彼にとって 36 節の「隣人になる」とは、「困っている人に近づき、
その人に関心を持って手を差し伸べる」という周知の意味 であることになる。
この点に関するK.HaackerとF.Bovonの主張は共に重要である。36 節の が 29 節bの と同じ意味であるとすれば、読者に奇異な感じを与える。K.Haackerのよ うに、このことを指摘することは大切である。彼が言うように、36 節の を形容 詞と見なして、この奇妙さを解消しようとする試みも確かに頷けなくもない。しかし、前 述したように、それはテクスト内の意外性を排除してしまい、別の意味の領域に伸びよう とするヒントの芽を摘むことになるのではなかろうか。また、36 節の に「隣人」
の概念がないとすれば、「わたしの隣人とは誰ですか」と問うた律法学者の問いは、放たれ たまま目標を失うことにもなる。その問いに対する返事は語呂合せによって曖昧にされ、
答えが提示されないままこの物語は終わってしまうことになる。
一方、F.Bovonは、36 節の を一般の解釈通りに「隣人」と理解する。これ
は、29 節bの が 36 節の と意味上完全に合致しないという違和感を 残す点で評価できる。しかしながら、彼はこの違和感に着目してこれを追究するとい うことなく、36 節の の理解に比喩的な意味を安易に導入するという仕方で、
テクストの意外性をやはり解消してしまっているのである。
2.このようなK.Haacker とF.Bovon両者の主張を考え合わせながら、テクストの文 脈を丁寧にたどるならば、我々は、36 節の には二重の意味 があることに気づかされるのである。
「良きサマリア人」の譬え話を語り終えて〈イエス〉は、「わたしの隣人とは誰か」と 問うた律法学者に反問する。「あなたはこの3人のうちで、誰が追い剥ぎに襲われた 人 の『 隣 人 に な っ た 』と 思 う か 」。 こ の と き〈 イ エ ス 〉 は、 という表現の中に、「近づいた」という日常的で平凡な意味 と「隣人になった」という謎めいた意味の二重の意味を含めているのではなかろうか。他 方、律法学者は、 という表現を「近づいた」という意味だけで理 解したのである。 を「隣人になった」という意味で理解することは、
一般に、特殊な文脈や註釈あるいは説明を抜きにしては、ないからである。また、この物 語の中で、「自分を正当化」するために「わたしの隣人とは誰ですか」と問うような律法学 者が、〈イエス〉の譬え話を聞いただけで、 の表現を「隣人となっ た」という特異な意味に解するようになった人物として設定されているとは考えにくい のである。律法学者は「誰が追い剥ぎに襲われた人に近づいたか」と問われたと理解し、
「その人を助けた人です」と答えた。〈イエス〉は、この答えが を
「近づいた」と理解してなされたものであることを承知している。しかし、この表現に「隣 人になった」という謎めいた意味をも含めて発言した〈イエス〉は、律法学者の答えを
「サマリア人が追い剥ぎに襲われた人の『隣人になった』」という意味でも受け取ることが できるのである。そして、〈イエス〉が導き出したかった答えはこちらの方である。我々の テクストの〈イエス〉は、二重の意味など思いもよらない律法学者の口を通して、「サマ リア人が追い剥ぎに襲われた人の『隣人になった』」という証言を得たのである。
この言語使用の現場で、36 節の の表現は、日常語的な意味
(「近づいた」)から、別の次元の意味(「隣人になった」)に移行したのである。
(2)「隣人になる」の意味
この問答の結論として〈イエス〉は、律法学者の口を通して、「追い剥ぎに襲われた 人を助けたサマリア人がその人の『隣人になった』」という答えを導き出した。しかし ながら、「隣人になる」という言い方は、前述したように、奇妙に聞える。この表現は、
我々のテクストの文脈の中で一体どのような意味を持っているのであろうか。
1.ギリシア語 は、「近い」という形容詞から派生した名詞「隣人」の 意味を持つ。ところで、新約聖書におけるコイネー・ギリシア語の意味領域は一般に、
七十人訳聖書を媒介にして、その背景にあるヘブライ語聖書の影響を受けている。と りわけ、 は律法の引用(27 節)15に含まれる言葉であるので、そこにはヘブ ライ語世界における意味合いが色濃く残されている。
の元のヘブライ語 は元来〈同胞〉〈同国人〉の意味であって、「隣人」の意味
はむしろ二次的である。また、W.Geseniusによれば、ヘブライ語聖書においては、 が
「隣人」の意味を持つ箇所でも、なおそこには「同胞」の意味合いが含まれる場合が多い という16。レビ 19 章のような律法の記事においては、 は〈律法を遵守すべき人々の群 れの一員〉を指す17。すなわち、 とは、隣人愛の律法の文脈では、〈ヤハウェとの契約 関係の中に属して、律法の遵守を義務づけられたイスラエルの人々のひとり〉という意味に なろう。ユダヤ教への改宗者はこれに含まれるが、言うまでもなく、異邦人は含まれない18。
我々のテクストはレビ 19:18 から隣人愛の句を引用したと考えられるが、その前の 数節(レビ 19:13-17)は――七十人訳の語を使えば―― に対する態度が規 定されている箇所である。したがって、18 節の「自分自身を愛するように隣人を愛し なさい」は、単独の教えというよりは、その前の数節で述べられている に対 する態度規定を一言で要約したものだと言える。そして、そのレビ 19:13-18 の文脈で は、 は概して、「隣人」というよりは、むしろ「同胞」と理解できるのであ る。あるいは、少なくとも「同胞」の意味を多いに含むと考えられるのである。
[レビ記 19 章 13-18 節。括弧前の語は七十人訳では と訳されている]
13 あなたは隣人( )を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃 の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。14 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の 前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
15 あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある 者におもねってはならない。同胞( )を正しく裁きなさい。16 民の間で中傷をしたり、
隣人( )の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。
17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞( )を率直に戒めなさい。そうすれば 彼の罪を負うことはない。18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自 分自身を愛するように隣人( )を愛しなさい。わたしは主である。(新共同訳による)
「良きサマリア人」物語資料の著者も、レビ 19:18 だけではなく、その前の文脈
(13-17 節)にも親しんでいたはずであり、レビ 19:18 を引用したときは、13-17 節を も念頭に置いていたと考えられる19。したがって、この資料の著者は、そしてまたお そらくこの資料を自らの福音書に編入した〈ルカ〉も、 がこの場合、「隣人」
というよりは、むしろ「同胞」の意味であり、具体的にはイスラエルの人々全体を表 すことを知っていたものと思われる。
レビ 19:13-18 はモーセを通じて「イスラエルの人々の共同体全体」(19:2)に語ら れたことになっている。このことからも、七十訳による は、この文脈では、
〈「イスラエルの人々の共同体全体」の一員〉を指すと解するのが妥当だと考えられる のである。
2.我々のテクストの文脈で、 の語によって、「隣人」というよりは、む しろ「同胞」「同国人」の意味合いが強く意識されていたとすれば、「良きサマリア人」
の物語はどのように解釈されるのであろうか。
〈イエス〉が語った譬え話の中で、追い剥ぎに襲われる人は、「エルサレムからエリ コへ下って行」(30 節)ったと言われているので、イスラエルの人と見なすのが自然で ある。追い剥ぎに襲われて倒れていたこの人を助けたのは、同じイスラエルの祭司や レビ人ではなく、「旅をしていた」「サマリア人」であった(33 節)。イスラエルの人に 対するサマリア人の先入観を超えた無私の行為によって、互いに憎しみ合っているイ スラエルの人とサマリア人は、ここで人格的な出会いを経験することになる。この譬 え話を語り終えたあと、「誰が追い剥ぎに襲われたイスラエルの人の『隣人になった』
か、すなわち、『同胞になった』か」と問うた〈イエス〉は、律法学者の口を通して、
〈今や、イスラエルの祭司やレビ人が、追い剥ぎに襲われたイスラエルの人の「同胞」
「同国人」なのではなく、彼を助けたサマリア人こそが「同胞」「同国人」になったの だ〉と主張するのである。
サマリア人はイスラエルのユダヤ人にとって、言うまでもなく、「同胞 」 ではなく、異邦人である。したがって、律法によれば、サマリア人はイスラエルの 人々の愛の対象ではない。律法は――少なくとも、新約聖書が言及する限りでの律法 は――「同胞」と異邦人とを分け隔て、「同胞」を愛せと教える。これに対して、ひと りのサマリア人によるひとりのイスラエルの人に対する働き掛けが、律法に基づく
「同胞」と「異邦人」の間の分け隔ての垣根を壊した。異邦のサマリア人は、その無私 の行為によって、イスラエルの人の「同胞となった」。すなわち、〈同じ国〉20に属する 者になったのである。
イスラエルの人とサマリア人は、実際には別々の〈国〉に属している。しかし、〈イ エス〉は、彼らはひとつの〈同じ国〉に属するに至ったのだと言う。これは、単にひ とつの〈国〉とひとつの〈国〉を隔てる壁が取り除かれたことを意味するにとどまら ない。そこでは、それぞれの相対的な〈国〉概念が超克され、ふたつの〈国〉を包含 する超越的な第3の〈国〉が出現したことになるのである。読者の目の前には、憎し み合うふたつの国民を超えたひとつの〈国〉のイメージがテクストから浮かび上がる。
これは〈神の国〉21の現在と言うにふさわしい事態である。
異なるふたつの国の民が出会ってテクストにない別の次元の第 3 の〈国〉(神の国)が浮か
び上がってくるという仕組みは、メタファーが働く仕組みと同じである22。ここの場合メタフ ァーの通常の定義からははずれるかもしれないが、「隣人」「同胞」でない者同士が「隣人」
「同胞」であるとされることで、「隣人」「同胞」の日常的な用法が破綻し、表現外の別の事 態を湧出させるという意味で、ここでもメタファーの力が働いていると見なすことができる。
このようなテクストのダイナミックな働きに伴って、次の2つの主張が響いてくる。
①相対的な〈国〉に対する批判。「良きサマリア人」の譬え話は、一読して、そこに 民族主義に対する批判を見出すことができる。その批判によって、異なる民同士の垣 根を取り外すことが勧められている。しかし、〈神の国〉が現在した今は、地上の相対 的な〈国〉が根本的に批判されることになる。地上の〈国〉の民である限りは、〈神の 支配〉を拒否している。すべての国民は相対的な〈国〉を脱し、〈神の支配〉に入るべ きなのである。
②律法理解批判。「隣人を愛せ」すなわち「同胞を愛せ」という律法は、「同胞であ るイスラエルの人を愛せ」という意味で理解されてきた。しかし、ここで言う「同胞」
とは、地上の或る〈国〉に属する仲間なのではなく、〈神の国〉に属する者たちのこと であるべきなのである。この意味で、我々のテクストは「隣人」「同胞」を再定義して いると言える。
「良きサマリア人」のテクストから〈神の国〉のイメージが現出するとすれば、律 法学者がテクストの最初で発した問い(25 節「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐ ことができるでしょうか」)も、型通りの答え(28 節)だけを得て終わっていないこと になる。〈神の国〉の概念は、この問いの答えにもなっているのである。相対的な地上 の〈国〉を克服し、共々に〈神の国〉の「同胞」になること、これがすなわち「永遠 の命を受け継ぐこと」、〈救い〉そのことに他ならないからである。
追い剥ぎに襲われたユダヤ人と彼を助けたサマリア人との出会いは〈神の支配〉下 にある。そして、ふたりは〈神の国〉に属している。そこは、サマリア人を通して神の 愛が露わになり、傷んだイスラエル人によって神の愛が引き寄せられた世界である23。 37 節で〈イエス〉は、「追い剥ぎに襲われたイスラエルの人を助けたサマリア人が、
イスラエル人の同胞になった」と答えた律法学者に「行って、あなたも同じようにし なさい」と述べる。これは〈神の国〉への〈招き〉である。28 節の、どちらかと言え ば形式的な「永遠の命」への〈招き〉に比して、37 節の〈イエス〉の言葉掛けは、誠 意のこもった〈神の国〉への〈招き〉となっている。我々のテクストの最後で読者も また、律法学者と共に、〈イエス〉によって〈神の国〉に招かれている。
4 〈神の国〉
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「良きサマリア人」の記事に〈神の国〉の言葉は出てこないが、すでに見てきたよ うに、我々は、そこに〈神の国〉のテーマを見出す。このテーマはテクストの中に隠 されているというわけではなく、むしろ、テクストと読者との関係の中で、隠喩の力 によって浮かび上がってくるものである。
しかしながら、テクストの文字面に表れないこのテーマは、ルカ福音書の文脈に合 致するものなのであろうか。もし文脈の流れに沿うものであれば、そのテーマの存在 はいくらか支持されることになる。しかし、文脈に合わなければ、その理由が明らか にされなければならないであろう。
(1)ルカ福音書の文脈の中の〈神の国〉
ルカ福音書の〈イエス〉は、公的活動の場に登場すると共に説教を始め(4:21)、そ の説教はすぐに〈神の国〉の宣教に向かっていく(4:43)。それ以降、〈神の国〉の宣 教への関心は、ルカ文書の終わり(使徒 28:31)まで一貫して貫かれていく24。〈神の 国〉の宣教は、〈ルカ〉にとって大テーマなのだと言えよう。
我々のテクストは、〈イエス〉がエルサレムに向かって旅をする姿を記した旅行記
(ルカ 9:51-19:27)に属しているが、この旅行記には、実際、〈神の国〉の表現が頻出 し、〈神の国〉をテーマにした単元が連続している。
〈イエス〉がエルサレムに向けて出発して以降の文脈をたどりながら、単元ごとに
〈神の国〉のキーワードを拾い出して見ると、次のような結果になる 。この際、「天」
の語も考察の対象にした。〈神の国〉は「天の父」が王となって支配する国であるので、
「天」の語も〈天の父の支配〉すなわち〈神の国〉に関わるものだからである。
・「サマリア人から歓迎されない」(9:51-56):「天」の語が2度出ており、〈神の 国〉への関心が暗示されている。ちなみに、ここで〈イエス〉を拒否するサマリ アの村人が言及されるのは、我々のテクストの伏線になっているのであろう。
・「弟子の覚悟」(9:57-62):〈神の国〉の句が2度出る。
・「72 人を派遣する」(10:1-12):〈神の国〉の句が2度出る。
・「悔い改めない町を叱る」(10:13-16):「天にまで上げられる」の表現がある。
・「72 人、帰って来る」(10:17-20):「天」の語が 2 度出る。
・「喜びにあふれる」(10:21-24):「天」の語が1度出る。我々のテクストの直前 に置かれたこの単元では、〈天の父の支配〉による喜びが描かれている。
このあとに「良きサマリア人」の記事が来る。次に「マルタとマリア」(10:38-42)
の単元、さらに、「祈るときには」(11:1-13)の単元が続く。
「マルタとマリア」は〈神の国〉とは無縁の記事のように見えるが、「マリアは良い分け 前を選び取った」と直訳できる 42 節の表現は〈神の国〉に入ることを想起させる。「分け 前 」は、七十人訳では、〈神の国〉の隠喩であるイスラエルの土地の一部やヤハウ ェ自身を表す場合があるからである(詩 16:5[七十人訳では 15:5] ; 73:26[72:26] ; 119:57[118:57] ; 142:6[141:6]など参照)。そうだとすれば、「マルタとマリア」の記事は、
〈神の国〉の概念を表さずに〈神の国〉を語っている点で、我々のテクストと共通する26。 これに続く「祈るときには」(11:1-13)の単元では、祈るように勧められる「主の祈 り」の中に「御国が来ますように」の句が含まれており、また、「子」の求めに応じる寛 大な「天の父」の喩えの中で〈神の国〉における神と人との関係が述べられている。
以上のように、「良きサマリア人」の記事の前後では、多かれ少なかれ〈神の国〉の テーマが扱われているのである。したがって、我々のテクストのテーマが〈神の国〉
であるとすれば、それはむしろ文脈に適うことなのである。もし倫理的テーマが主で あるとすれば、たとえ、次に続く「マリアとマルタ」の記事も倫理的な教えであると 仮定しても、この 2 つの単元は前後の文脈に適切にはそぐわないということになるの ではないだろうか。
もちろん、「良きサマリア人」のテクストは特殊資料としてルカ福音書に入ってきて いるので、必ずしも福音書の文脈に合致する必要はなく、まったく独自のテーマを持 っていても問題はないとも考えられよう。しかしながら、この資料を〈ルカ〉が敢え て選び、彼の福音書の文脈の中に編入し位置づけた時点で、それは〈ルカ〉的な様相 を帯びたと見るべきである。すなわち、「良きサマリア人」の記事は、本来はルカ福音 書から独立した特殊資料ではあったが、文脈の圧力によって〈神の国〉のテーマを背 負わされた可能性があるのである。
U.Wilckensによれば、使徒言行録 10:34-42 はルカ福音書全体の概略を基に記されて
おり、この中のペテロの演説はルカ福音書の要約として機能しているという27。我々の テクストが、サマリア人とイスラエルの人との出会いによって披かれた〈神の国〉に このふたりが居ることを示し、しかも、〈イエス〉を通して、律法学者と読者とを〈神 の国〉へと招いているとすれば、使徒言行録 10 章のペトロの演説の中の 34-35 節は、
我々のテクストのテーマと相応することになる。すなわち、「良きサマリア人」の記事 は、ルカ福音書の概略の一部と、そのテーマを同じくすることになるのである。
[使徒 10:34b -35]
「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏 れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。……」(新共同訳による)
以上論じてきたように、「良きサマリア人」のテクストに〈神の国〉のテーマが含まれ るという解釈は、隠喩の力を想定して得られたものであり、必ずしも〈ルカ〉がここで はっきりと意識していたテーマとは言えないかもしれない。しかし、そうだとしても、
このテーマは単なる読者の思い入れにすぎないのではなく、我々のテクストからこの テーマを読み取ることは、ルカ福音書の文脈からも根拠づけられることなのである。
(2)〈ルカ〉の〈神の国〉の考え方と「良きサマリア人」のテクスト
〈ルカ〉はそもそも、〈神の国〉をどのように考えているのであろうか。
ルカ 11:20 に「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのであれば、神の国 は既にあなたたちのところに到達している」28という〈イエス〉の言葉があるが、こ れは次のような意味に理解できる。「イエスの現在において、イエスの行いにおいて、
既に、終末の救いは来ている」と29。〈イエス〉はここで、自らの人格において神の国 が現在することを告げ知らせている。〈イエス〉において〈神の国〉と〈神の行為〉が あり、〈救い〉そのものがそこに現在するのである。
17:20-21 には、「神の国は、観察できるような形では来ない。『ここにある』『あそこ にある』とは人は言わないのである。ほら、神の国はあなたたちの間に30あるぞ」とい う〈イエス〉の言葉がある。これは〈ルカ〉自身の筆によらず、特殊資料に属するが、
しかし、ルカ福音書という作品の中で 11:20 の上記の言葉と内的に関連しており31、こ れは編集者〈ルカ〉の主張したいことでもある。その意味するところは、人と人との 関係性の中に〈神の国〉はあるということである。11:20 の言葉と結びつけると、ル カ福音書には、〈イエス〉とは人と人との間の愛の関係性に他ならず、そこに、〈神の 国〉、〈救い〉は現在するのだとの考えが含まれていると言えよう。
この思想は我々のテクストの表象と合致している。なぜなら、我々の解釈は、「良き サマリア人」の記事ではサマリア人の愛の行為を契機として、このサマリア人と彼に 介抱されたイスラエルの人との間の関係性において〈神の国〉が生起したと見るからで ある32。そうだとすれば、我々人間の世界における〈神の国〉の現在をイメージとして 訴えるルカ 10:25-37 の記事は、〈神の国〉のテーマを追求するルカ福音書全体によって 醸し出される物語世界の中で、重要な役割を担っていると見なすこともできよう。
ところで筆者は上記で、人と人との愛の関係性の中に〈神の国〉は生起すると述べた が、人と人との愛の関係性とは、我々のテクストで言えば、旅人であるサマリア人が傷
んだユダヤ人に向けた態度によって表現されている事柄である。それは、眼前のひとり の人に関心を集中して向き合うことに他ならない。このことが、「良きサマリア人」の譬え 話の場合、〈神の国〉の出現、すなわち、〈救い〉と〈神の祝福〉の実現の契機となるので ある。眼前のひとりの人に関心を集中するこの姿勢は、次の単元である「マリアとマルタ」
の物語の中の、マリアの態度とも一致する。この点に限って言えば、この 2 つの単元は、
次のような共通の倫理的な戒めを含んでいるとも見なしうる。すなわち、この 2 つの単 元では、二度とありえない〈今、ここ〉に集中することを疎かにして、「良きサマリア人」
のテクストの祭司やレビ人のように、また、「マリアとマルタ」のマルタのように、職務や 仕事などによって、眼前の人や事柄から意識をそらすことが批判されているのである。
5 結び、あるいは方法論的反省
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聖書を〈物語〉として読もうとするとき、読者の前に〈物語〉としてのイメージが 広がるが、それだけにとどまず、〈こころ〉の中には、他の様々な思いが生じてくる。
それは読者がテクストと出会うことによって生ずる〈言葉の出来事〉である。テクス トを読んでいて不思議に思うことや怪しく感じることも、それは〈読み〉にとって
〈つまずき〉ではあるが、〈こころ〉の中で生じた〈言葉の出来事〉のひとつであり、
知られざる隠れた意味から発せられたシグナルへの応答であるのかもしれない。それ は、〈読み〉を変質させる重要な契機となるかもしれないのである。
本稿における探求は、筆者がルカ福音書の文脈の中で「良きサマリア人」を読み、「隣人 となる」という表現に――すでに常々感じていたことではあるが――違和感を覚えたこと から始まる。この違和感は、〈物語〉の流れを滞らせるひとつの〈言葉の出来事〉であり、
この〈言葉の出来事〉すなわち〈つまずき〉を巡って本稿の考察は進められてきたのである。
ルカ 10:36 の には、「誰かに近づく」の意味と「誰かの隣 人となる」の二重の意味がある。「『隣人を愛せよ』という律法の『隣人』とは誰なの か」と問う律法学者に対して、テクスト内の〈イエス〉は、「良きサマリア人」の譬え 話を語ったあと、 の意味の二重性を知りつつ、次のように 逆に問うた。「追い剥ぎに襲われたイスラエルの人『の隣人になった/に近づいた』の は、彼を避けて通りすぎた同国の祭司とレビ人か、あるいは、彼を介抱はしたが、彼 にとって忌むべき異国のサマリア人の方か」と。律法学者はその問い掛けの中 の を日常の用法(「近づく」)で理解し、「サマリア人の方で
す」と答えた。〈イエス〉は律法学者が を「近づく」という 意味で理解して答えたことを知りながら、彼の答えを「サマリア人が、傷んだイスラ エルの人の『隣人になった』」という意味で受け取る。
ところで、 はこの場合「隣人」というより、「同胞」の意味である。〈イエ ス〉は律法学者の答えを通して、「サマリア人がイスラエルの人の『同胞となった』」 と主張するのである。当時、隣人愛の律法は一般に、「同胞を愛せ」という民族主義的 な愛と解釈されていたが、〈イエス〉はこの解釈を退け、互いに憎しみ合うユダヤ人と サマリア人とを〈同国〉の者と規定することによって、第3の〈国〉の概念を浮び上 がらせる。我々のテクストのサマリア人とユダヤ人は同じ〈神の国〉の「同胞」なの である。
〈イエス〉が語った「良きサマリア人」の譬え話の中では、民族主義的で相対的な
〈国〉意識にとらわれない旅するサマリア人の無私の行為によって、人間の世界に、
〈神の支配〉、〈神の国〉が現出してくるのである。
我々のテクストのテーマは、〈国境や憎しみなどの人間的な感情を超えて人間同士で 愛を示しあおう〉という教会生活のための倫理的勧めにとどまらない。むしろ、〈神の 国〉がテーマなのであり、譬え話を語る〈イエス〉は、テクスト内の律法学者を〈神の 国〉に招くことを通して、テクストの読者をも〈神の国〉に招き入れているのである。
福音書を(物語)として読もうとするとき、読者の〈こころ〉に〈物語〉が成立し てくるのと並行して、いや、それ以前に、〈こころ〉に様々な〈言葉の出来事〉が生じ る。ここで言う〈こころ〉とは、読者が感覚する〈世界〉全体である。テクストの
〈言葉〉に出会うことによって、読者の〈世界〉に何らかの〈出来事〉が出来するので ある。
本稿は、この〈言葉の出来事〉を出発点とし、これにこだわりながら論を進めて来 た。この限りで、本稿が歩み採った方法論は、読者反応批評(読者志向批評、読者論 的批評)の範疇に分類されるであろうか33。
読者反応批評は、聖書学の分野ではまだまだ市民権を得ていないように思われる。
それは方法論としてもいまだ確立していないし、この方法を用いてダイナミックに飛 翔する強力な解釈の実例も見当たらない。したがって、〈こころ〉に生じた〈言葉の出 来事〉を〈研究〉の領域に招くことは、大いに冒険なのである。しかしながら、聖書 の言葉の力を実感して、その正体を知ろうとするときに、その言葉と出会う側の〈こ ころ〉を抜きにし、そこで生じる〈言葉の出来事〉を無視してしまっては、聖書の言 葉についてそもそも何も語り始めることができないと考えられる。たとえ、方法論と して歴史批評的なアプローチを用いる場合でも、〈こころ〉における〈言葉の出来事〉
がまず研究者の注目すべき探求の出発点となっているのではなかろうか。
〈こころ〉は主観的だと言っても、絶対者の視点から見れば客観である。それは
〈読み〉の実験場であり、また、それ自体読まれるべきテクストなのである。聖書のテ クストと〈こころ〉というテクストの出会いによって生じる〈言葉の出来事〉を我々 は批評し、記述すべきだと考える。
我々は〈こころ〉の中の〈言語の出来事〉――ここから出発する他ないのではなかろ うかと述べた。〈こころ〉の中の〈言語の出来事〉に関わり、これを批評・記述するこ とは、他の方法論と競い合うものでもないし、ましてや、それらと矛盾するようなも のでもない。聖書学の方法論はむしろ、その〈言葉の出来事〉を発展させ、深め、時 には軌道修正するために必要な技法なのである。字句の歴史的な意味や象徴的な意味 の探求、歴史批評的方法の成果、心理学的・病理学的なアプローチ、文脈の観察、物 語批評、修辞やメタファーなどの文学的な技法なども、〈言葉の出来事〉の射程範囲を さらに深め、広げるために、また、それを吟味検討するために用いられねばならない。
聖書学の様々な方法論やその成果によって〈こころ〉の中でさらなる変化を遂げた
〈言語の出来事〉は、次に、分析され記述されるのであるが、この際、その記述を根拠 づけ、普遍化するために、テクストそのものの厳密な観察や歴史批評的な方法による 成果、文学批評的な方法論などが再び用いられる。例えば、聖書の言葉によって〈癒 し〉や〈救い〉という〈言葉の出来事〉が生じたとすれば、心理学における症例報告 のように、それは聖書学の方法論に検証されながら語られる必要があるのである。
様々な方法論は、より力強い〈言葉の出来事〉への道筋であり、また、〈言葉の出来 事〉を吟味し根拠づけるスキルなのである。
〈こころ〉の中でどのような〈言語の出来事〉が生じるのかは、読者の志向性によ って決定的に左右される。読者が聖書の背後にある歴史的な状況に関心を持つのか、
聖書の霊性に目を向けるのか、あるいはテクストを通して絶対客観他者との出会いを 望むのか(などなど)によって、解釈は明らかに異なってくる。
聖書の読者としての我々は、何を志向すべきであろうか。筆者自身はあくまでも
Sacheに向かいたいと思う。そして、聖書が宗教的な文書であると認められる限りで、
聖書が示すSacheとは、過去の歴史の〈事実〉というよりも、〈今、ここ〉に現在する 根拠、Ur-sacheとしてのSache、すなわち我々の目には隠れた〈神〉であらねばならな いと考える。
注
1 〈イエス〉が律法学者に語った「良きサマリア人」の話の類型については、いくらかの議論はあるが、
ここではこの点に深く立ち入ることをせず、暫定的に「譬え話」と表記しておく。
2 本稿で言及するイエスは、史的イエスや他の聖書箇所のイエスと区別されるべきなので、〈イエス〉と 表記する。
3 ここで言う〈体験〉とは、聖書を身体をもって〈味わう〉こと、敢えてさらに言えば、〈神〉に関する 知識、〈神〉の救いと祝福、〈神〉との出会い、〈神〉からの福音などを体得することである。
4 H・バルツ、G・シュナイダー編『ギリシア語 新約聖書釈義事典III』(教文館、1995 年)、144 頁。
5 上掲箇所。
6 例えば、ルターの場合は、短い論評は別にしても、このテクストを扱った説教は 10 以上にも及ぶ
(F.Bovon, Das Evangelium nach Lukas (Lk 9,51-14,35) (EKK III/2), Zürich, Düsseldorf und Neukirchen- Vluyn, 1996, S.97)。
7 F.Bovon, Das Evangelium nach Lukas, S.93-97。
8 F.Bovon, Das Evangelium nach Lukas, S.98。
9 例えば、D.L.Bock, Luke volume 2(BECNT 3B), Grand Rapids, 1996, pp.1018-1036 を参照。
10 詳しくは、例えば、月本昭男『目で見る 聖書の時代』(日本基督教出版局、1994 年)、102-104 頁参 照。
11 ルカによる福音書の著者を便宜的に〈ルカ〉と表記する。
12 H・バルツ、G・シュナイダー編『新約聖書釈義事典III』、上掲箇所。
13 F.Bovon, Das Evangelium nach Lukas, S.92。
14 「1 問題の所在」を参照。
15 言うまでもなく、レビ 19:18 からの引用である。
16 Hebräisches und aramäisches Handwörterbuch, Berlin/Göttingen/Heidelberg, 1962(17.Aufl.)の の項。ちな みに、 が「隣人」の意味でありながら、なお「同胞」の意味を含んでいる例として、W.Geseniusは レビ 19:18 の他、出エ 20:16f.; レビ 19:13,16; 申 23:25f.; 24:10 を挙げている。
17 E.Jenni/ C.Westermann, Theologisches Handwörterbuch zum Alten Testament, Bd.2, München/Zürich, 1984 (3.Aufl.), Sp.790 参照。
18 上掲箇所によれば、レビ 19:18 の隣人愛の律法の「隣人」には、イスラエルに住む外国人も含まれると いう。レビ 19:34 を鑑みた上での説である。
19 この場を借りて、「隠された引用」(あるいは「非引用の引用」)の問題を提起しておきたい。新約聖書 に限らず、ヘブライ語聖書においても他の聖書箇所からの引用は数多い。これらの引用の際には、実際 に引用された箇所にとどまらず、その文脈もが意識されていた可能性がある、という問題である。例え ば、臨終のときにイエスは詩編 22:2 を引用したが(マルコ 15:34; マタイ 27:46)、彼はこのときそれ に続く詩編の箇所を意識していたと福音書が設定しているのかどうか、は解釈の上で大きな問題なので
ある。詳細はまた他稿に譲りたい。
20 ここで言う〈国〉は必ずしも行政区分による国概念ではない。或る王に属す場合もあれば、或る民に属 す場合もある〈地域〉という意味である。ヘブライ語では に相当する。七十人訳はそれを と 訳す。本稿では、イスラエルの人々が住む地域、サマリア人が住む地域をそれぞれ〈国〉として捉え る。
21 〈神の国〉の〈国〉は、〈王国 〉に他ならない。ひとつの〈国 〉とそれとは別のひとつの
〈国 〉とが結びつくことによって、それを包含統治する第3の〈王 , 統治 〉が浮 かび上がるのである。
22 表現の中で異質なものが結合することによって、テクスト外の別の対象への指し示しが起こるメタファ ーの働きについては、リクール『生きた隠喩』(岩波書店)などを参照。また、拙論「詩篇の文芸学的 解釈試論――詩篇 42-43 篇を例として」(『基督教研究』第 47 巻第 1 号所収、1986 年)も参照された い。
23 この譬え話の中で神の愛が露わになっているとすれば、良きサマリア人をキリストの比喩と見なす中世 以前のアレゴリカルな解釈も的外れであるとは言えない。アレゴリカルな解釈の展開をさらに許せば、
それとは逆に、追い剥ぎに襲われたイスラエルの人の方が、神の愛を引き寄せるという役割を演じたと いう意味で、キリストの比喩であるとも言える。アレゴリカルな読み方は、解釈者の恣意性に強く拘束 されるという点で方法論的に大いに問題があるが、多くの示唆に富んでおり、簡単に処理すべきではな いと思われる。アレゴリカルな解釈を方法論的に理論づけ、整備する作業がいずれの時か必要なのでは なかろうか。
24 O.Merk, Das Reich Gottes in den lukanischen Schriften, in: E.E.Ellis und E.Grä er (Hrsg.), Jesus und Paulus (Festschrift für Georg Kümmel zum 70. Geburtstag), Göttingen, 1975, S.205。
25 新共同訳聖書の区分と小見出しを利用する。
26 L.T.Johnsonはその注解書(The Gospel of Luke (Sacra Pagina Series, Volume 3), Collegeville, 1991, pp.171- 176)のなかで、「良きサマリア人」の単元と「マリアとマルタ」の単元を「拒絶と受容」という共通項 でまとめ、論じている。他者を拒絶したのは、前者では祭司とレビ人と「自分を正当化しようとした」
律法学者であり、後者ではマルタである。他者を受容したのは、サマリア人であり、マリアである。
F・B・クラドック(『現代聖書注解 ルカによる福音書』(宮本あかり訳、日本基督教団出版局、1997 年、247-254 頁)も、ルカ 10:25-37 と 38-42 を「聞くことと聞かないことについての二つの物語」と いう表題のもとにまとめている。しかし、両者は〈神の国〉のテーマで結びついているのではないだろ うか。
27 O.Merk, Das Reich Gottes, S.206 の記事による。この指摘をしたU.Wilckensの論文は、Kerygma und Evangelium bei Lukas (Beobachtungen zu Acta 10,34-43), in: ZNW49(1958), 224ff.であるが、筆者はこれを 直接確認していない。
28 マタイ 12:8 とほぼ共通しており、Q資料によるのではないかと推測される。
29 O.Merk, Das Reich Gottes, S.210f.。
30 を「の間に、の真中に」と訳す。
31 O.Merk, Das Reich Gottes, S.211。
32 この関係性は、サマリア人とイスラエル人というふうに、異国の者同士である必要はない。「良きサマ リア人」のテクストが2国の者の出会いを設定したのは、第3の国である〈神の国〉の概念を浮かび上 がらせるための修辞である。また、それが、互いに憎しみ合う国同士であることは、〈愛〉の概念をよ り明確にするのに役立っている。
33 読者反応批評については、太田修司「文学批評――物語批評と読者反応批評を中心に」、木幡藤子・青 野太潮編『聖書学の方法と諸問題』(『現代聖書講座』第 2 巻)所収(日本基督教団出版局、1996 年)、
244-247 頁に簡単な解説がある。