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西郷菊次郎の来歴に関する再検討 : 横浜・米国・ 台湾・京都

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西郷菊次郎の来歴に関する再検討 : 横浜・米国・

台湾・京都

著者 佐野 静代

雑誌名 人文學

号 202

ページ 1‑58

発行年 2018‑11‑25

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000345

(2)

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

│ 横浜

・ 米 国・ 台 湾

・京 都

佐 野 静 代

. は じ め に

⑴ 本稿 の目 的 西 郷菊 次郎 は︑ 西郷 隆盛 の奄 美大 島流 謫時 代に

︑龍 愛︵ りゅ う・ あい

︶と の間 に生 まれ た長 男で ある

︒後 に第 二代 京都 市長 とな り︑ 京都 の近 代化

︑都 市基 盤の 整備 に尽 くし たこ とで 知ら れる

︒西 南戦 争を 生き 延び

︑激 動の 人生 を歩 んだ 人物 とし て著 名で ある が︑ しか しそ の事 績に 関す る学 術的 研究 は意 外に 少な い︒ 西郷 菊次 郎に 関す る学 術論 文の 多く は︑ 京都 市 長 時代 の 都 市 改造 事 業 を対 象 と して お り

︑ そ れ 以前 の 彼 の来 歴 や 事績 そ の も のを 検 証 する 作 業 は︑ まだ 十分 とは いえ ない のが 現状 であ る︒ 西 郷 菊 次 郎 に 関 す る 史 料 と し て は

︑鹿 児 島 県 立 図 書 館 に 子 孫 の も と に 伝 わ っ た 履 歴 書・ 辞 令 類 の 写 し が 所 蔵 さ れ

︑ また 別に 一部 書簡 も公 刊さ れて いる

︒こ れら をも とに 数種 の伝 記が 刊行 され てい るが

︑そ の中 で最 も詳 細な

― 1 ― 西

(3)

検討 がな され てい るの は佐 野幸 夫氏 の﹃ 西郷 菊次 郎と 台湾

﹄で あろ う

︒こ の 伝記 は

︑台 湾 総 督府 で の 宜蘭 庁 長 時代 の治 水事 業な どの 功績 に詳 しく

︑彼 の再 評価 のき っか けを つく った 著作 とい える

︒し かし 個々 の事 績の 出典 が明 記さ れて いな いこ とや

︑下 記の よう な点 で︑ なお も検 討の 余地 が残 って いる

︒ 西 郷菊 次郎 研究 に関 する 最大 の問 題点 は︑ これ まで の伝 記・ 論文 のい ずれ にお いて も︑ 彼の 経歴 の空 白部 分を 埋め られ てい ない こと であ る︒ 例え ば︑ 彼が 外務 省に 採用 され る以 前の 明治 十四 年か ら十 六年 まで の三 年間 や︑ 明治 二十 四年 に外 務省 を致 仕し た後 の三 年間 など

︑彼 の人 生に は詳 細不 明な 時期 があ る︒ また

︑外 国滞 在中 の事 績に つい ても 検討 が尽 くさ れて おら ず︑ 特に 明治 二十 年か らの 二度 目の 米国 留学 につ いて は︑ その 所属 先の 大学 名や 専攻 分野 など に関 して これ まで 全く 検討 され るこ とは なか った

︒近 年注 目さ れて いる 台湾 での 事績 につ いて も︑ 宜蘭 庁長 とな るま での 赴任 初期 の事 績に つい ては

︑ほ とん ど検 証さ れて いな いの であ る︒ しか し後 述の よう に︑ この 空白 の期 間に は彼 のそ の後 の人 生に 大き な影 響を 与え た出 来事 があ り︑ 特に 彼が 明治 十四

・十 五年 に横 浜居 留地 に居 住し てい た事 実に は︑ 重要 な意 味を 見出 せる と筆 者は 考え る︒ こ のよ うな 未検 討の 時期 の足 跡を たど るこ との でき る一 次史 料は

︑断 片的 なが らい くつ か存 在す る︒ 横浜 時代 の活 動は 当時 の英 字新 聞に も一 部記 載が 見ら れ︑ また 菊次 郎の 米国 留学 に関 して は︑ 外務 省外 交史 料館 や留 学先 大学 に関 係史 料が 所蔵 され てい る︒ 特に 今回

︑米 国で 菊次 郎の 未公 開 の 自 筆英 文 書 簡四 通 が 保管 さ れ て いる こ と を確 認 し た︒ また 台湾 では

︑国 史館 台湾 文献 館所 蔵の 台湾 総督 府関 係文 書に 菊次 郎の 台湾 にお ける 記録 が散 見さ れる

︒さ らに 同時 代の 薩摩 出身 者た ちの 日記 や書 簡︑ 当時 の新 聞記 事に も︑ これ まで 触れ られ てい ない 菊次 郎に 関わ る記 述を 見出 すこ とが でき る︒

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

― 2 ―

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そ こで 本稿 では 上記 の史 料か ら︑ 先行 研究 では 未解 明の 彼の 経歴 の空 白部 分を 補い

︑さ らに 海外 滞在 中の 事績 とそ こで 培っ た人 脈に つい て分 析し たい

︒こ のこ とは

︑後 年の 京都 市長 着任 へと 至る プロ セス を明 らか にす るこ とに つな がる から であ る︒ 以上 のよ うに 本稿 は︑ これ まで ほと んど 未検 討で あっ た西 郷菊 次郎 の横 浜・ 米国

・台 湾で の事 績と 京都 との 関わ りに つい て検 討す る︑ 基礎 的な 作業 ノー トと いえ る︒

⑵ 西郷 菊次 郎の 略歴 具 体的 な検 討に 入る 前に

︑こ れま でに 明ら かと なっ てい る西 郷菊 次郎 の略 歴に つい てま とめ てお きた い︒ 京都 市長 就任 まで の彼 の半 生は

︑お およ そ三 期に 大別 する こと がで きる

︹ 第一 期

︺ 誕 生 から 西 南 戦争 後 の 上京 ま で で ある

︒万 延 二 年︵ 一八 六 一︶ に 奄美 大 島 の 龍郷 に 生 まれ た 菊 次 郎 は︑ 明 治二 年 に 鹿 児島 に 引 き取 ら れ︑ 明 治四 年 に 上 京︑ 明治 五 年 二月 よ り 開 拓使 の 留 学生 と し てア メ リ カ へと 派 遣 さ れ た︒ 明治 7年 の帰 国後 には

︑下 野し た父 を追 って 鹿児 島へ 戻り

︑や がて 十七 歳で 西南 戦争 に従 軍し

︑熊 本攻 防の 折に 高瀬 で右 足に 被弾

︑膝 下を 切断 する 重傷 を負 って いる

︒官 軍に 投降 し︑ 鹿児 島に 帰還

︑そ の後 明治 十四 年に 上京 して 叔父 西郷 従道 の庇 護を 受け るこ とと なっ た︒

︹ 第二 期︺

明 治十 七年 から の外 務省 勤務 と︑ 翌年 以降 のア メリ カ滞 在の 時代 であ る︒ 彼の 官歴 の始 めは

︑明 治十 七年 の外 務省 御用 掛で あり

︑翌 年に は米 国公 使館 への 勤務 を命 じら れて い る

︒ 明 治二 十 年 に 依願 免 官 とな っ た 後︑ 明治 二十 三年 には 宮内 省式 部官 とな り︑ さら に翌 年に 再び 外務 省試 補・ 外務 省翻 訳官 に任 じら れた が︑ 同年 中に 依願 免官 とな って いる

︒伝 記に よれ ば︑ 明治 二十 年の 依願 免官 から 二十 三年 の式 部官 登用 まで の間 に︑ 二度 目の アメ リカ 留学

― 3 ― 西

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があ った とさ れて いる が︑ 大学 名な どの 詳細 につ いて は説 明さ れて いな い︒ また 国立 公文 書館 所蔵 の履 歴書 には

︑こ のア メリ カ留 学の 記載 自体 がみ られ ない

︹ 第三 期︺

外 務省 免官 後の 鹿児 島で の生 活を 経て

︑台 湾総 督府 で活 躍す る時 代で ある

︒明 治二 十四 年の 外務 省翻 訳官 の免 官後 は︑ 三年 余り を鹿 児島 で過 ごし たと され る

︒ やが て二 十八 年四 月よ り 陸 軍省 雇 員 と して 澎 湖 島混 成 枝 隊へ 派遣 され

︑五 月よ り台 湾総 督府 の参 事官 心得 とな り︑ さら に七 月に 台湾 南部 の安 平出 張所 長を 命じ られ てい る︒ 翌年 四月 より 台北 県支 庁長

・台 北県 基隆 支庁 長を 命ぜ られ

︑明 治三 十年 五月 に宜 蘭庁 長と なる

︒臨 時台 湾土 地調 査局 事務 官を 兼任 の後

︑明 治三 十五 年十 一月 に依 願免 官と なっ てい る

︒ そ の後

︑明 治三 十七 年十 月に 京都 市会 にお いて 市長 候補 者に 推薦 され

︑京 都市 長に 就任 する

︒四 十二 年に 再任 され るも

︑任 期途 中で 病気 を理 由に 退任 して いる

︒鹿 児島 での 静養 を経 て︑ 明治 四十 五年 に島 津家 の永 野金 山の 鉱業 館長 に任 命さ れ︑ 大正 九年 に退 任︑ 昭和 三年 に六 十八 歳で 死去 して いる

︒ 以 上 の よ うな 彼 の 生涯 の 中 で最 も 知 ら れて い る のは

︑京 都 市 長時 代 の 事 績︑ すな わ ち 京都 三 大 事業 の 実 施 で あ ろ う︒ 第 二琵 琶 湖 疏 水の 開 削︑ そ れに よ る 上水 道 の 整 備︑ さら に 市 街地 の 道 路 拡張 と 市 電敷 設 と いう 都 市 基 盤 の 整 備 は︑ 衰退 しつ つあ った 京都 を再 生さ せた 近代 化政 策と して 高く 評価 さ れ てい る

︒そ の 彼 の擁 立 に は︑ かつ て 京 都府 知事 とし て琵 琶湖 疏水 事業 を推 進し

︑そ の後 も京 都の 都市 整備 に心 を寄 せて いた 北垣 国道 の力 が大 きか った こと が重 視さ れて いる

︒ こ の北 垣と 菊次 郎と の関 わり につ いて は︑ 彼の 人生 の様 々な 局面 にお いて 見出 せる もの であ る︒ 例え ば︑ 上記 の第 一期 にお いて も︑ すで にそ の萌 芽が 見出 せる

︒そ こで 次章 では

︑菊 次郎 の第 一期 にお ける 海外 体験 およ びそ の後 の人

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

― 4 ―

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脈形 成に つい て分 析し たい

︒ 2

. 明治 初 期 の菊 次 郎 と横 浜 居 留地

⑴ 開拓 使派 遣に よる 留学 と北 垣国 道 明 治五 年二 月︑ 初回 のア メリ カ留 学時 には 菊次 郎は まだ 十二 歳で あっ た︒ 重視 すべ きは

︑こ の留 学が 開拓 使か らの 派遣 によ るも のだ った こと であ る︒ 北垣 国道 は︑ 明治 四年 八月 から 明治 七 年 九月 ま で 開 拓使 に 出 仕し て い る

︒ 設立 当時 の開 拓使 は︑ 次官 黒田 清隆 の下 で薩 摩閥 が強 く︑ 留学 生に も薩 摩出 身 者 が多 か っ た こと が 指 摘さ れ て いる

︒し かし 北垣 は明 治五 年三 月に は黒 田不 在時 の代 理に 任じ られ てお り︑ 実質 的 に は黒 田 に 次 ぐ地 位 に あっ た た め

︑ 留学 生の 選抜 にも 関わ って いた 可能 性が 考え られ る︒ 北垣 は維 新前 から 西郷 隆 盛 と交 流 が あ り

︑ 西郷 の 息 子が 留 学 生に 選抜 され たこ とを 把握 して いた 可能 性は 高い

︒ 一 方︑ この 時期 の開 拓使 には 旧幕 臣の 榎本 武揚 や大 鳥圭 介ら も出 仕し てお り︑ 北垣 とも 親交 の厚 かっ たこ とは よく 知ら れて いる

︒そ のう ち大 鳥圭 介は

︑こ の開 拓使 の留 学生 派遣 に深 く関 わっ てい たこ とに 注目 した い︒ 開拓 使の 留学 生た ちは 明治 五年 二月 十八 日に アメ リカ 号で 横浜 から 出航 して いる が︑ 大鳥 圭介 は留 学生 の引 率お よび 大蔵 少輔

・吉 田清 成の 随行 員と して これ に同 乗し てい たこ とが 明ら かに され てい る

︒大 鳥 は帰 国 の 後︑ 工 部省 勤 務 を経 て 工 部大 学校 の校 長と なっ てお り︑ その 教え 子で あっ た田 邉朔 郞︵ 琵琶 湖疏 水お よび 第二 疏水 の設 計者

︶を 北垣 に引 き合 わせ る人 物で もあ る︒ なお 榎本 武揚 も︑ 後に 外務 省で の菊 次郎 の擁 護者 とし て登 場す るこ とに なる

︒こ のよ うに 開拓 使を

― 5 ― 西

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通じ ての 大鳥

・榎 本・ 北垣 ルー トの 一端 に︑ 西郷 菊次 郎の 名前 が現 れる こと に留 意し てお きた い︒ 西 郷菊 次郎 の初 回の アメ リカ 留学 につ いて は︑ その 滞在 地が 重要 とな る︒ 開拓 使の 留学 生の 一行 には

︑菊 次郎 の従 兄に 当た る市 来宗 介や 村田 新八 の息 子で ある 岩熊 も含 まれ てい たが

︑伝 記に よれ ば菊 次郎 は市 来・ 村田 とと もに

︑フ ィラ デル フィ アで 生活 した とさ れて いる

︒そ の出 典に つい ては 明ら か に され て い な いが

︑こ の 時 期︑ 同じ く フ ィラ デル フィ アに 滞在 して いた 大久 保利 通の 息子 たち の動 向が 参考 とな る︒ 大久 保の 二人 の息 子︑ 長男 利和 と次 男の 牧野 伸顕 は︑ 前年 の岩 倉使 節団 とと もに 渡米 し︑ フィ ラデ ルフ ィア の中 学校 に留 学し てい た︒ 牧野 の回 想に よれ ば︑ 菊次 郎と の関 係に つい て﹁ 私と は子 供の 頃か らの 友達 で︑ 菊次 郎も 十歳 から 十二

︑三 歳ま での 間米 国に 留学 し︑ 米国 でも 附合 い︑ 又米 国か に帰 って 来て から 私が 英国 に行 くま で︑ それ から 私が 帰朝 して から も︑ 前と 少し も変 わら ずに 交際 し 続け た

と い い︑ ア メリ カ 留 学 中に も 度 々接 し て い たこ と は 確か で あ る︒ この フ ィ ラ デル フ ィ アは

︑ア メ リ カの かつ ての 首都 であ り︑ 早期 から 鉄道 網の 整備 され た先 進的 都市 とし て︑ 明治 初頭 の日 本人 の留 学先 に選 ばれ たも のと みら れる

︒ こ の大 久保 兄弟 の受 け入 れに 際し ては

︑す でに 明治 三年 から 当地 にあ った 高橋 新吉 ら︑ いわ ゆる

﹁薩 摩辞 書﹂ の刊 行メ ンバ ー が 世話 係 と な って い た こと が 知 られ る

︒こ の 高 橋新 吉 は︑ 村 田新 八 と は従 兄 弟 と して 深 い 交流 が あ り︑ その 息子 岩熊 の留 学も 世話 した こと を述 べて いる

︒さ らに 高橋 は︑ 薩摩 辞書 の 刊 行に は 西 郷 隆盛 の 力 も大 き か った とし てい るこ とか ら

︑ 西郷 菊次 郎の フィ ラデ ルフ ィア 受け 入れ に当 たっ て も︑ 同 様に 窓 口 に なっ た こ とが 推 定 され る︒ 高橋 新吉 は︑ 明治 九年 に開 催さ れた フィ ラデ ルフ ィア での 万国 博覧 会に も派 遣さ れて おり

︑フ ィラ デル フィ アと の関 わり が深 い人 物と いえ る︒ この 高橋 は︑ 後に アメ リカ 領事 とな り︑ 菊次 郎の 二回 目の 米国 滞在 にも 関わ って いる

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

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点に 留意 して おき たい

⑵ 中井 弘と の面 識 西 郷菊 次郎 は︑ 明治 七年 に帰 国し た後

︑西 南戦 争で 重傷 を負 い︑ 敗戦 後は 鹿児 島と 奄美 で療 養に つと めて いる

︒明 治十 四年 に西 郷従 道の 誘い に従 って 上京 し︑ その 姿が 薩摩 関係 者等 の日 記に 現れ るよ うに なる

︒本 節で はこ の明 治十 四年 の菊 次郎 の動 向と

︑そ こに 現れ る人 脈に つい て考 えて みた い︒ こ の 時 期 の菊 次 郎 につ い て は︑ 西郷 隆 盛 の 名誉 回 復 を図 る 勝 海舟 と 吉 井 友実 の 日 記に 登 場 する こ と が 知ら れ て い る

︒ 本稿 では これ らの 先行 研究 に従 うと とも に︑ 従来 見落 とさ れて きた 点 に つい て も 分 析し て み たい

︒ま ず 西 郷菊 次郎 の名 が最 初に 現れ るの は︑ 吉井 友実 の﹃ 三峰 日記

﹄明 治十 四年 八 月 十五 日 条 で ある

︒そ の 前 日︑ 西郷 隆 盛 の忠 僕で あっ た熊 吉が 吉井 を訪 ねて きて

︑﹁ 南 洲の 子 供 の件

﹂を 相 談 した

︒そ こ で 吉井 は

︑そ の 夜 西郷 従 道 邸を 訪 ね ると とも に︑ 翌日 の午 餐に

﹁宮 島

・中 井・ 西 郷 菊・ 大久 保 利 和等

﹂を 招 い た︒

﹁宮 島

﹂と は 宮 島誠 一 郎 であ り

︑大 久 保利 和は 前述 のよ うに

︑菊 次郎 と同 じ時 期に アメ リカ に留 学し

︑交 流の あっ た間 柄で ある

︒ 本 稿で 注意 した いの は︑ ここ に同 席し てい た も う 一人 の 人 物︑

﹁中 井

﹂で あ る︒ これ は 薩 摩 藩出 身 で 志士 と し ても 知ら れる 中井 弘で ある

︒維 新後 は外 務官 僚を 経て 後に 工部 省大 書記 官と なり

︑工 部卿 であ った 吉井 と親 しく

︑そ の日 記に 頻出 する 人物 であ る︒ 中井 は︑ 明治 六年 にア メリ カお よび ヨー ロッ パ視 察に 派遣 され てい る︒ 維新 以前 から 西郷 隆 盛と も 接 点 があ り

︑か つ 菊次 郎 と ほぼ 同 時 期 にア メ リ カ 滞 在 し て い た こ と か ら︑ こ の 席 に 呼 ば れ た も の で あ ろ う︒

― 7 ― 西

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注 目す べき は︑ 中井 はこ の後 明治 十七 年に 滋賀 県知 事に 転じ てお り︑ それ は琵 琶湖 疏水 計画 に強 く反 対し た籠 手田 安定 前知 事を 更迭 し︑ 北垣 国道 と連 携し て疏 水事 業を 推進 する ため の伊 藤 博 文ら に よ る 登用 だ っ たこ と で ある

︒中 井は 北垣 の盟 友と して 深い 交流 を重 ねて いる が︑ その 後明 治二 十六 年に は中 井自 身が 第五 代京 都府 知事 とな り︑ 平安 遷都 千百 年紀 念祭

︑第 四回 内国 勧業 博覧 会

︑京 都 舞 鶴間 鉄 道 建設 と い う﹁ 京都 三 大 問 題﹂ に取 り 組 んで い る︒ 翌 年︑ 中井 は在 職の ま ま 急死 す る の であ る が︑ し かし こ れ ら大 事 業 の 成功 へ の 道筋 を 整 えた 手 腕 は 高く 評 価 され て い る

︒ 周 知の よ う に︑ 明 治三 十 七 年よ り 京 都市 長 と し て菊 次 郎 が手 が け る こと と な る﹁ 京都 三 大 事 業

﹂と は

︑こ の 中 井 の

﹁ 京都 三大 問 題﹂ をふ ま え て命 名 さ れ たも の で あり

︑市 制 特 例 期の 京 都 市長 を も 兼ね て い た 中井 の 事 績を 意 識 した もの とも いえ る︒ その 中井 と菊 次郎 の間 に直 接の 交流 があ った こと を示 す点 で︑ 注目 すべ き記 事と いえ よう

︒ な お︑ この 明治 十四 年の 菊次 郎の 姿は

︑他 の薩 摩 関 係 者の 日 記 中に も 見 るこ と が で きる

︒﹃ 樺 山 資紀 日 記﹄ の 明治 十 四年 十 月 二 日条 に は︑

﹁ 王子 村 制 紙社 ニ 赴 キ 縦覧

﹂︑

﹁ 藤 島正 健 誘 導︑ 西郷 菊 次 郎 並文 蔵

・荒 川 同 行

﹂と あ る

︒こ の当 時の 樺山 資紀 は警 視総 監の 地位 にあ り︑ 同日 記の 前日 条に

︑﹁ 贋 札犯 人供 出機 械等 点検

︒精 工ヲ 尽シ タリ

︵中 略︶ 印刷 局長 来庁 点検 アリ

﹂と ある よう に︑ 贋札 問 題 へ の対 応 を 迫ら れ て いた

︒﹁ 印 刷 局 長﹂ とは

︑同 じ 薩 摩出 身 の 得能 良介 であ る︒ 当時 王子 村に は日 本最 初の 洋紙 工 場 と︑ そ れに 隣 接 して 印 刷 局の 印 刷 所 があ り

︑﹁ 誘 導﹂ の藤 島 正 健と は紙 幣寮 勤務 経験 のあ る大 蔵官 僚で あっ た︒ この 贋札 事件 と関 わっ て洋 紙製 造の 視察 が行 われ たも ので あろ う︒ ま た同 行者 とし て文 中に

﹁文 蔵﹂ とあ るの は︑ 樺山 資紀 の甥 に当 たる 橋口 文蔵 であ る︒ 後に 札幌 農学 校長 とな る橋 口文 蔵は

︑こ の年 留学 先の マサ チュ ーセ ッツ 農業 大学 から 帰国 した ばか りで あっ た︒ 洋紙 の製 造技 術が 関係 する 事件 のた め︑ これ ら洋 行帰 りの 二人 を伴 った ので あろ うか

︒樺 山資 紀は 西郷 隆 盛 の幼 な じ み であ り

︑菊 次 郎を 後 見 する

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

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立場 にあ った とみ られ るが

︑こ の樺 山資 紀と 甥の 橋口 文蔵 につ いて は︑ 後に 菊次 郎の 台湾 総督 府へ の赴 任に 際し ても 関わ りを 持つ こと にな る点 で注 意し たい

⑶ 横浜 居留 地に おけ るフ ァブ ルブ ラン トと の関 わり 従 来の 研究 では

︑こ の明 治十 四年 から 三年 ほど の間

︑菊 次郎 は東 京永 田町 の西 郷従 道邸 に滞 在し たと され る︒ しか し実 際に は︑ この 時期 の菊 次郎 は︑ 横浜 の居 留地 で生 活し てい たこ とを 以下 に示 した い︒ この 横浜 での 経験 は︑ 彼の 後の 人生 に大 きな 影響 を及 ぼし たと 考え られ るか らで ある

︒ 菊 次郎 の横 浜居 住に つい て記 すの は︑ 明治 十五 年三 月四 日の

﹁東 京日 日新 聞﹂ であ る︒ 兼て

横浜 本町 五丁 目七 十三 番に 寄留 する 鹿児 島県 士族 にて

︑同 港郵 便局 在勤 の高 橋良 教氏 に同 居せ らる ゝ西 郷菊

郎 氏は

︑何 か都 合あ りて か一 両日 中本 町通 居留 地八 十三 番館 仏人 某の 許へ 転寓 せら るゝ よし

︑又 本年 一月 に同 氏の 許へ 来り たる 名刺 の数 は︑ 内国 にて 八百 余︑ 海外 より 七百 余︑ 都合 千五 百余 枚な りし よし

︑以 て氏 が交 際の 広き と亡 父が 名望 の猶 今日 に存 する を見 るに 足る べし

︒ 文

中の

﹁同 港郵 便局 在勤 の高 橋良 教氏

﹂と は︑ 明治 十年 に大 蔵省 関税 局御 用係 とし てア メリ カに 留学 し︑ 後に 駅逓 官や 逓信 参事 官を 経て

︑横 浜郵 便電 信局 長や 逓信 省会 計局 長な どを 歴 任 する 人 物 で ある

︒注 目 す べき は

︑彼 が 明治 十二 年に

﹁亜 米利 加合 衆国 ヘン シル ヴエ ニア 洲ヒ ラデ ルヒ ア府 人ヂ ーベ ーク エル

︑オ ルプ 次女

︑ア ナ︑ ニー トン

︑オ

― 9 ― 西

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ルプ

﹂と 国際 結婚 して いる こと であ り︑ その 願書 には

﹁鹿 児島 県士 族 高 橋良 顕 四 男﹂ と ある

︒し た が って 高 橋 良教 とは

︑高 橋新 吉の 弟で あっ たこ とが 判明 する

︒菊 次郎 のフ ィラ デル フィ ア留 学時 に窓 口と なっ た高 橋新 吉が

︑横 浜居 住に 際し ても 仲介 役と なっ てい た可 能性 が推 測さ れる

︒ 菊 次郎 はさ らに 居留 地の フラ ンス 人の もと に転 居す るわ けで ある が

︑そ の 理由 は 何 だ った の だ ろう か

︒手 掛 かり とな るの は︑ かつ て村 野守 治氏 が紹 介し た西 郷従 道よ り菊 次郎 宛て の 五 通の 書 簡 で ある

︒こ れ ら は︑ 横浜 居 留 地の 外国 人で ある

﹁フ ァブ ール

﹂﹁ シ ョネ ノ﹂ や﹁ サラ ヘ ル﹂ ら との 交 際 に関 わ っ て︑ 横浜 在 住 の 菊次 郎 に 手助 け を 求め る内 容で ある

︒い ずれ も年 不詳 であ るが

︑村 野氏 はこ れを 菊次 郎が 外務 省に 勤務 した 時期

︑す なわ ち明 治十 七年 のも のと 推定 して いる

︒し かし 以下 の考 証に よっ て︑ これ らは 明治 十四

・十 五年 の書 簡で ある こと が判 明す る︒ 村 野論 文で 番号 20と され る従 道の 書簡 は︑ 十一 月三 日 付 け で︑

﹁其 地 之 競馬 も 已 ニ明 日 ニ 相 成候 得 共 いま た 医 師よ り他 出差 留ら れ︑ 此度 ハ乍 遺憾 出濱 いた し難 く御 座候 間︑ 何卒 貴公 より ファ ブル 様并 ショ ネノ 様江 も申 上候 様御 伝声 被 下度

﹂と あ る

︒﹁ 出 濱﹂ とあ る こ と か ら﹁ 其 地 之 競 馬﹂ と は 居 留 地 近 く の 横 浜 根 岸 の 競 馬 で あ る こ と が わ か る

︒ 明治 十年 代で 横浜 競馬 が十 一月 四日 に行 われ てい るの は明 治十 四年 に限 ら れ るこ と か ら

︑ こ の書 簡 は 十四 年 の もの であ り︑ この 時点 で菊 次郎 が横 浜に 居住 して いた こと が判 明す る︒ 同様 の考 証は

︑番 23号 の十 一月 十七 日付 け書 簡に つい ても あて はま る

︒ さ らに 注目 され るの は︑ 番号 19の 十一 月十 三日 付け 書簡 であ る︒ 従道 は﹁ 今日 者横 浜へ 罷越 候而 ファ ブー ル君 江直 に御 悔可 申述 含に 御座 候処

︑公 用多 岐﹂ につ き︑ 同封 の書 状を 手渡 すよ うに 菊次 郎へ 依頼 して いる

︒他 の書 簡に も頻 出 する

﹁フ ァ ブ ー ル﹂

﹁フ ァ ブ ル﹂ とは

︑横 浜 居 留地 の ス イ ス 商 人 フ ァ ブ ル ブ ラ ン ト︵JamesFavre-Brandt

︶ で あ り︑

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

― 10 ―

(12)

後述 する よう に西 郷家 や大 山巌 とは 幕末 以来 長く 交流 があ った

︒フ ァブ ルブ ラン トの 妻で あっ た松 野久 は明 治十 五年 十一 月八 日に 死去 して いる こと から

︑書 簡は この 葬儀 にか かわ るも のと 推 定 され る

︒よ っ て 明治 十 五 年の 十 一 月段 階で も︑ 菊次 郎が 横浜 在住 であ った こと がわ かる

︒ 重 要な 点は

︑そ の宛 先の 住所 であ る︒ 表書 きは

﹁横 浜外 国人 居留 地山 手ノ 弐百 四十 一番 地サ ラベ ル氏 内 西郷 菊次 郎 殿﹂ とな っ て い る︒ この 山 手 居 留 241地 番 の サ ラ ベ ル 氏 宅 と は

︑当 時 のDirectory

に よ れ ば“BayViewHouseAcad-

emy”“Mons.X.Salabelle”

と な っ て おり

︑サ ラ ベ ル学 校 と も 呼ば れ た 私 設 の 語 学 学 校 で あ っ た

︒サ ラ ベ ル 学 校 で は︑ サラ ベル 夫人 が主 に外 国人 生徒 を対 象に フラ ンス 語を 教え てお り︑ 校内 はフ ラン スで 過ご すの と変 わら ない 環境 であ った とい う

︒ 菊次 郎は フラ ンス 語の 習得 を目 指し て︑ ここ に寄 宿し たこ とに なる

︒ こ の間 の事 情に つい て︑ 平野 光雄 氏に よる ファ ブル ブラ ント の伝 記に 注 目 すべ き 記 述 があ る

︒フ ァ ブル ブ ラ ント は一 八六 三年 の来 日以 前に は︑ スイ ス射 撃隊 の下 士官 であ り︑ 幕末 には 大山 巌を 通じ て薩 摩藩 へ銃 器を 供給 する とと も に︑ 藩兵 の 射 撃 指導 に も あた っ て いた

︒こ れ を 契 機と し て 西郷 隆 盛 と のつ き あ いが 始 ま り︑ その 息 子 の 菊 次 郎 を

﹁ 我が 児の よう に可 愛が った

﹂と いう

︒菊 次郎 は︑ 西南 戦 争 後﹁ 難を 遁 れ て暫 く 横 浜租 界 の フ ァブ ル 商 館に か く まわ れ﹂

︑ 後 に﹁ フ ァ ブ ル の 世 話 で 同 地 の サ ラ ベ ル 学 校

︵仏 人 経 営

︶を 卒 業 し︑ 更 に ア メ リ カ に 留 学 し た

﹂と さ れ て い る

︒ この 伝記 は︑ 昭和 期の ファ ブル ブラ ント の四 男か らの 聞き 書き によ る も ので あ り︑ そ の 利用 に は 慎重 さ が 求め られ るが

︑し かし 菊次 郎と ファ ブル ブラ ント との 間に 個人 的な やり とり が あ った こ と は︑ 明 治二 十 年 にフ ァ ブ ルブ ラン トが 米国 滞在 中の 菊次 郎に 書簡 を送 って いる こと から も明 らか で あ る

︒ さら に

︑こ の 横 浜居 住 時 代に す で に両 者に 親し い交 流の あっ たこ とは

︑当 時の 一次 史料 から 裏付 ける こと がで きる

― 11 ― 西

(13)

そ れ は 横 浜居 留 地 で発 行 さ れた 英 字 紙TheJapanGazette

の 記事 で あ る︒ そこ に は︑ 明 治 十四 年 十 月二 十 一 日に 開 催さ れた 横浜 のス イス ライ フル 協会 射撃 大会 の結 果が 掲載 され てお り︑ 第1 カテ ゴリ ー競 技の 優勝 者と して ファ ブル ブラ ント があ げら れる とと もに

︑第 2 カテ ゴリ ーの 第三 位に

︑Mr.Kikujiro

の名 がみ え︑“Mr.Kikujiro,ayoungmanof

20yearsage,isthesonofSaigoTakamori”

と の 注記 が あ る

︒ ス イス ラ イ フル 協 会 は横 浜 居 留 地の ス イ ス人 か ら 構成 され てお り︑ ファ ブル ブラ ント はそ の会 長で あっ た︒ この 協会 の射 撃会 に参 加を 許さ れた 日本 人と して は村 田銃 の発 明者

︑村 田経 芳が 知ら れて いる が︑ その 前年 十月 に行 われ た競 技会 では 村 田 は第 七 位 で あり

︑続 く 八 月の 第 二 回競 技会 では 優勝 して いる

︒こ の記 録と 比較 して も︑ 菊次 郎が ライ フル 射撃 につ い て 相当 の 腕 を 持っ て い たこ と が 理解 され る︒ 西南 戦争 時の 訓練 だけ でな く︑ 横浜 に来 てか らの ファ ブル ブラ ント との 交流 の一 端が 垣間 見え る記 事と いえ よう

︒ こ のよ うに

︑菊 次郎 が明 治十 四・ 十五 年の 横浜 居留 地 に 滞 在し て い た事 実 は︑ 重 要な 意 味 を 持つ と 筆 者は 考 え る︒ この 時期 の横 浜で はコ レラ が大 流行 して おり

︑そ の対 策と して 近代 水道 が計 画さ れた 年代 に当 たる から であ る︒ 江戸 末期 に日 本に 入っ てき たコ レラ は︑ 横 浜で は明 治十

︑十 二

︑十 五 年に 猛威 をふ るっ てお り︑ 明治 十四 年に はTheJapan

Gazette

紙 上 に﹁ 横 浜の 給 水 問 題﹂ が掲 載 さ れ︑ 居留 地 の 水源 で あ る 浅井 戸 の 汚染 が 大 き な 問 題 と さ れ て い る

︒特 に明 治十 五年 のコ レラ パン デミ ーの 際に は︑ 七月 の条 約改 正予 議会 にお いて 英国 公使 パー クス が横 浜居 留地 の外 国人 三百 名余 の署 名・ 建言 書を 提出 し︑ 水道 の敷 設を 強く 迫っ てい る

︒ 日本 側は こ れ を条 約 改 正 にか か わ る問 題 と とら え︑ 水道 設置 を確 約し たこ とか ら︑ 以後 水道 計画 が具 体化 して いっ たの であ る︒ この 時期 に居 留地 で生 活し てい た菊 次郎 は︑ 以上 のよ うな 経緯 を間 近で 体験 して いた と考 えら れる

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

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こ の結 果︑ 明治 二十 年に 日本 最初 の近 代水 道で ある 横浜 水道 が竣 工す るの であ るが

︑こ れ以 降各 地に 設置 され てい った 近代 水道 は︑ 函館

・長 崎・ 大阪

・神 戸な ど︑ 開港 場・ 開市 場の 地か ら は じま っ て い るこ と を 指摘 で き る

︒ この よう な横 浜の 開港 場で の伝 染病 流行 によ る水 源汚 染と

︑外 国人 居留 地の 衛生 環境 整備 につ いて の経 験は

︑そ の後 の菊 次郎 の人 生に も影 響を 及ぼ した と考 えら れる が︑ この 点に つい ては 第4 章に て詳 述す るこ とと した い︒ 3

. ジョ ン ズ

・ホ プ キ ンス 大 学 への 留 学 に関 す る 新知 見

⑴ 再渡 米と 三島 弥太 郎と の交 流 本 章で は菊 次郎 の半 生の 第二 期の うち

︑明 治十 八年 から の米 国公 使館 勤務 と︑ さら に二 回目 のア メリ カ留 学の 実態 につ いて 明ら かに した い︒ 特に 留学 先に つい ては 従来 の伝 記等 では 全く 未検 討の ため

︑こ れま で知 られ てい なか った 史料 も用 いて 分析 を試 みた い︒ ま ずは 前提 とし て︑ 菊次 郎の 再渡 米の 経緯 につ いて 確認 して おき たい

︒渡 航時 には

︑彼 の弟 でド イツ 留学 を命 じら れた 西郷 寅太 郎︵ 隆盛 次男 で嫡 子︶ と︑ 彼ら の従 兄弟 にあ たる 西郷 隆準

︵隆 盛の 弟吉 次郎 の長 男︶ とが 同行 して いた こと が松 浦玲 氏に よっ て明 らか にさ れて いる

︒そ の経 緯と して

︑ま ず明 治 十 七年 四 月︑ 寅 太 郎に 天 皇 下賜 金 に よる ドイ ツ留 学の 話が 持ち 上が った が︑ 彼は 当初 政府 側へ の反 発も あっ て返 答を 保留 し︑ いっ たん 鹿児 島に 帰郷 した

︒十 二月 に再 度上 京し て留 学の 意志 を示 した が︑ ただ し従 兄弟 の隆 準も 伴い たい との 希望 を出 す︒ 勝海 舟・ 吉井 友実 らは その ため に奔 走す るが

︑こ の寅 太郎 たち の留 学実 現の プロ セス には

︑菊 次郎 も深 く関 わっ てい る︒

― 13 ― 西

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松 浦氏 がす でに まと めて いる よう に

︑ 明治 十八 年一 月十 二日

︑菊 次郎 に 対 し在 米 公 使 館勤 務 の 辞令 が 下 ると

︑そ の翌 日に 寅太 郎は 海舟 宅を 訪ね

︑自 分と 隆準 が菊 次郎 の渡 米に 同行 する こと を相 談す る︒ 十四 日に は︑ 菊次 郎自 身が 海舟 宅を 訪問 し︑ 同様 の依 頼を する

︒海 舟 は﹁ 吉 井 へ談 ず べ き事 共 な り﹂ とし て

︑す ぐ に 吉井 宅 へ 向か い

﹁早 々 談﹂ じた とさ れる

︒こ こで 本稿 では

︑当 日の 吉井 友実 の日 記に 注目 した い︒ こ の十 四日

︑海 舟は 急に 思い 立っ て吉 井宅 を訪 問し たの では ない

︒海 舟の 四日 前の 日記 に﹁ 吉井 より

︑来 る十 四日 招 かる

﹂と あ る よ うに

︑そ こ で は﹁ 近衛 篤 麿 殿近 日 訪 欧 に 付︑ 送 別 会﹂ が 開 催 さ れ た の で あ り

︑参 集 者 は

﹁勝

︑税 所︑ 西郷 兄弟

︑北 岡等

﹂で あっ た

︒ つま り海 舟は 菊次 郎と 連れ 立っ てこ の 会 に向 か っ た ので あ る︒ 近 衛篤 麿 の 欧州 出発 は四 月十 九日 であ り

︑ 送別 会と して はか なり 早期 の開 催と いえ る

︒同 じ くド イ ツ に 向か う 寅 次郎 を

︑島 津 家と 縁の 深い 近衛 家の 次代 当主 に引 き合 わせ よう とす る吉 井ら の配 慮だ った のだ ろう

︒篤 麿は この 後三 月の 書簡 で︑ 寅太 郎と のド イツ での 交誼 を望 む旨 を吉 井に 示し てい る

︒ な お当 日の 会で は︑ 西幸 吉が 薩摩 琵琶 を 弾 じ たこ と も 記さ れ て いる が

︑海 舟 に よれ ば

﹁西 は︑ 南 洲死 時 に 側︹ に︺ 在り し人

﹂で ある

︒篤 麿が 主賓 の会 とは いえ

︑西 郷兄 弟を 意識 した 場 で あっ た こ と がう か が えよ う

︒な お︑ も う一 人の 隆準 の留 学を めぐ って は︑ この 九日 後︑ 西郷 従道 が費 用を 負担 する こと で実 現の 運び とな って いる

︒ さ らに

︑松 浦氏 の研 究で は︑ 海舟 の日 記お よび 海舟 宛て の菊 次郎

・寅 太郎

・隆 準連 名書 簡に よっ て︑ この 三人 が二 月十 九日 に出 航し

︑三 月十 六日 にワ シン トン に到 着し たこ とが 明ら か に なっ て い る

︒ 本 稿で は

︑そ の 後の 彼 ら の足 取り につ いて 記す 史料 に注 目し たい

︒そ れは 当時 アメ リカ に留 学中 であ った 三島 弥太 郎の 書簡 であ る

︒ 三 島弥 太郎 は薩 摩藩 出身 の三 島通 庸の 長男 であ り︑ 菊次 郎よ り六 歳下 の慶 応三 年︵ 一八 六七

︶生 まれ であ る︒ 駒場

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

― 14 ―

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農学 校卒 業後 の明 治十 七年 九月 に渡 米し

︑翌 年マ サチ ュー セッ ツ農 業大 学に 編入

︑二 十一 年の 卒業 まで に家 族宛 ての 書簡 を多 数残 して いる

︒三 島通 庸は 西郷 隆盛 の引 き立 てに よっ て名 を成 した こと から

︑息 子た ちも 親し く交 際し てお り︑ 書簡 から アメ リカ にお ける 菊次 郎と のや りと りを 知る こと がで きる

︒ 弥 太郎 の第 一信 によ れば

︑菊 次郎 は大 久保 利和 とと もに 明治 十七 年九 月十 四日 の弥 太郎 の出 発︵ 九鬼 隆一 公使 と同 船︶ を横 浜ま で見 送り に来 てい る︒ 翌年 二月

︑菊 次郎 自身 が米 国に 向け て出 航す るが

︑弥 太郎 の明 治十 八年 三月 二十 六日 付け 書簡 には

︑﹁ 西 郷菊 次郎 さま 方﹂ が去 る十 六日 に ワ シン ト ン に到 着 し たこ と

︑し か し 多忙 ら し くま だ 会 えて いな いこ とが 記さ れて いる

︒ 一 方︑ 菊次 郎自 身の 筆に なる 前述 の三 月二 十六 日付 け勝 海舟 宛て 連名 書簡 によ れば

︑三 月十 六日 の﹁ 当府 安着

﹂の 後︑

﹁ 小生 共儀 も二 十二 日よ りベ ルツ 学校 と申 す処 へ 語 学稽 古 之 為め 通 学 罷在 候

﹂と し て︑ 彼 らが ワ シ ント ン 付 近の 語学 学校 に入 学し たこ とが わか って いる

︒菊 次郎 はそ のま ま公 使館 勤務 に入 るわ けで ある が︑ 残る 二人 の消 息に つい ては

︑三 島弥 太郎 の十 一月 七日 付け 書簡 から 知る こと がで きる

︒そ こに は﹁ 西郷 寅太 郎さ まと 隆準 さま は︑ 先日 欧州 へ参 られ

﹂と あり

︑寅 太郎 らが 秋ま でア メリ カに 滞在 して いた こと が判 明す る︒ 彼ら はプ ロイ セン の陸 軍士 官学 校に 向か う前

︑ア メリ カで 七ヶ 月ほ どド イツ 語の 準備 を行 って いた こと にな る︒ 寅太 郎は この 後明 治二 十七 年ま で留 学を 続け るが

︑彼 ら三 人の 名は この 約十 年後

︑台 湾に おい て再 び揃 うこ とに なる

⑵ 大島 仙蔵 とモ リス 家 三 島弥 太郎 の書 簡に よれ ば︑ 彼が アメ リカ にお いて 菊次 郎と 再会 でき たの は︑ 明治 十八 年四 月二 日︑ フィ ラデ ルフ

― 15 ― 西

(17)

ィア での こと であ った

︒弥 太郎 は九 月に アマ ース トの マサ チュ ーセ ッツ 農業 大学 に編 入す るま で︑ この フィ ラデ ルフ ィア の中 学校 マウ ント

・ア カデ ミー に在 籍し てい たが

︑そ こは まさ しく 大久 保利 和・ 牧野 伸顕

・村 田岩 熊ら が通 った 中学 であ り︑ その 時と 同様 にこ の中 学校 を弥 太郎 に推 薦し たの は︑ 今回 はア メリ カ領 事と して 赴任 中の 高橋 新吉 であ った

︒ 菊 次郎 は再 渡米 の翌 月に

︑自 分も かつ て滞 在し たフ ィラ デル フィ アを 訪ね

︑弥 太郎 の下 宿先 に一 泊し てい る︒ 注目 した いの は︑ その 翌日 に彼 らが 連れ 立っ て︑ 当地 の﹁ 大島 氏﹂ の病 床を 見舞 って いる こと であ る︒ この

﹁大 島氏

﹂に つい て弥 太郎 は︑

﹁ 鹿児 島県 大島 の人

︑工 部大 学を 卒業 し て 当地 へ 実 地研 究 の ため に 来 て おり

︑大 山 陸 軍卿 の お 引立 てに あず かっ てい る人

﹂と 注記 して いる

︒こ れは 奄美 大島 出身 の大 島仙 蔵の こと であ ろう

︒ 大 島仙 蔵と は奄 美初 の学 士で

︑鉄 道技 術者 とな った 人物 であ る︒ 名瀬 に生 まれ

︑奄 美大 島の 代官 であ った 伊東 仙太 夫に 見出 され て明 治四 年に 島を 出て

︑鹿 児島 の本 学校 に入 学し た︒ 明治 八年

︑帰 省中 の大 山巌 の目 に止 まり

︑上 京し て工 部大 学校 へ入 学︑ 明治 十五 年に は土 木科 を首 席で 卒業 して いる

︒卒 業と 同時 に同 校の 助教 をつ とめ たが

︑明 治十 六年 にア メリ カへ 留学

︑フ ィラ デル フィ アの ペン シル ベニ ア鉄 道会 社に て実 地研 究に あた って いる

︒明 治二 十年 に帰 国︑ 日 本土 木 会 社 を経 て 山 陽鉄 道 会 社の 技 師 長 兼建 築 課 長に 招 聘 さ れた が

︑明 治 二十 六 年 に三 十 五 歳 で病 没 し て い る 大 ︒ 島仙 蔵は 鹿児 島時 代か ら奄 美出 身の 異才 とし て有 名で あり

︑工 部大 学校 在学 中に は西 郷隆 盛の 落胤 とも 噂さ れた とい う

︒ 西郷 家の 親戚 であ る 大 山邸 に 寄 宿し て お り︑ ま た大 久 保 利通 邸 に も親 し く 出 入り し て いた こ と から

︑菊 次郎 とも 同じ 奄美 出身 者と して 旧知 の間 柄で あっ たと 考え られ る︒ なお

︑仙 蔵は 工部 学校 の第 四期 生に あた るが

︑同

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

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じ土 木科 の一 年下 には 田邉 朔郞 がい た︒ 彼ら が懇 意に して いた こと は︑ 仙蔵 の急 逝後 に設 けら れた 遺児 の義 援金 募集 の発 起人 のう ちに

︑田 邉朔 郞の 名が ある こと から 明ら かで ある

︒ こ の 大 島仙 蔵 の ア メリ カ 留 学に つ い ては

︑﹁ 大 学 当 局や 米 国 公使 等 の 懇切 な る 斡 旋に よ る﹂ と され て い るが

︑工 部大 学 の 後輩 た ち は 彼の ア メ リカ で の 様子 を

︑﹁ 高 橋 領事 よ り 吉井 社 長 への 寄 書 中 にて 承 知 仕候

﹂と し て いる

︒し たが って 仙蔵 のフ ィラ デル フィ ア滞 在に も︑ やは り高 橋新 吉が 関与 して いた こと が判 明す る︒ 高橋 はア メリ カの 鉄道 事情 に通 じて いた こと でも 知ら れる 人物 であ る

︒ こ こで

︑大 島仙 蔵の 派遣 先が フィ ラデ ルフ ィア のペ ンシ ルベ ニア 鉄道 会社 であ った こと に注 意し たい

︒当 時︑ この 鉄道 会社 の重 役で あっ たウ ィス ター

・モ リス がフ ィラ デル フィ ア近 郊に 邸宅 を構 えて いた が︑ 彼こ そは 日本 人留 学生 た ちに 多 大 な 援助 を 与 えた こ と で著 名 な モ リス 家 の 当主 で あ っ た︒ 大島 仙 蔵 は滞 米 中 にこ の モ リ ス夫 妻 の 厚遇 を 受 け︑

﹁ まる で実 の子 のよ うに

﹂接 して もら った とい う

︒ 富 裕な 実業 家で あり

︑か つ敬 虔な クエ ーカ ー教 徒で あっ たモ リス 家で は︑ 毎月 第一 土曜 日に 聖書 の集 会と 晩餐 会を 開き

︑多 数の 日本 人留 学生 を招 待し てい た︒ モリ ス夫 人の メア リは

︑津 田梅 子や 新渡 戸稲 造︑ 内村 鑑三 らを 支援 して いた こと でも 有名 であ る

︒ この モリ ス家 の日 本人 留学 生へ の支 援活 動 は︑ 新 渡戸 や 内 村 を迎 え た 明治 十 八 年︵ 一八 八五

︶頃 から 本格 化し たと され るが

︑大 島仙 蔵の モリ ス家 との つな がり はそ れに 先行 する もの であ り︑ 初期 の日 本人 留学 生と モリ ス家 との 関係 を示 すも のと して 注目 され よう

︒ 三 島弥 太郎 も明 治十 八年 以降 この モリ ス家 の集 会に しば しば 参加 して おり

︑こ こで 多く の留 学生 達と 交流 し︑ キリ スト 教へ と傾 倒し てい く様 相が 認め られ る︒ 彼の 書簡 中に は︑ 東京 の有 馬学 校で の同 級生 でも あっ た内 村鑑 三や

︑そ

― 17 ― 西

(19)

の親 友で 当時 太田 姓を 名乗 って いた 新渡 戸稲 造ら の名 前も 登場 する

︒ま た︑ 高橋 領事 夫妻 がモ リス 邸に 滞在 した こと も記 され てい る

︒ 菊 次 郎 自 身が こ の モリ ス 邸 に出 入 り し てい た か どう か は 明ら か で は ない

︒し か し 親し か っ た大 島 仙 蔵 や三 島 弥 太 郎︑ 高橋 領事 らを 通じ て︑ モリ ス家 に集 う新 渡戸 ら留 学生 の情 報を 耳に して いた 可能 性は 高い と推 測さ れる

⑶ ジョ ンズ

・ホ プキ ンス 大学 留学 と新 渡戸 稲造 との 関係 渡 米直 後の 菊次 郎に つい て︑ 一八 八六 年発 行のCongressionalDirectory

には

︑ワ シン トン の公 使館 勤 務の 日 本 人の うち に﹁Mr.KikujiroSaigo,Attaché

﹂ とあ り︑ その 居住 地は

﹁17IowaCircle

﹂と され て い る︒ 公使 館 の 同僚 と し て赤 羽四 郎と 三崎 亀之 助︑ 後に 首相 とな る斉 藤実

︵留 学兼 駐在 武官

︶ら の名 前が ある

︒ 菊 次郎 はこ の明 治十 九年 三月 に交 際官 試補 に任 じら れた が︑ 翌二 十年 六月 三十 日に はそ れを 辞し

︑国 立公 文書 館所 蔵 の履 歴 書 で はこ の 後 明治 二 十 三年 ま で 空 白の 期 間 とな っ て い る

︒ し か し 外 務 省 外 交 史 料 館 所 蔵 の 諸 記 録 に よ れ ば︑ この 間は 公使 館勤 務の 身分 のま まで

︑留 学に 切り かえ とな って いた こと が判 明す る︒ 外 務省 外交 史料 館に は︑ 明治 二十 年五 月付 で九 鬼隆 一公 使か ら外 務大 臣あ てに

︑菊 次郎 の官 費留 学生 への 採用 を願 い出 た際 の関 係書 類が 残さ れて いる

︒そ こで は高 橋前 領事 にも 問い 合わ せた 上 で 菊次 郎 の 人 柄や 能 力 につ い て 述べ られ てお り︑ 資質 温厚 であ るこ とや

︑﹁ 本 人ハ 英語 ニ 長 ジ︑ 仏 語モ 亦 少 シク 学 習 致シ

﹂︑

﹁ 其 英 語之 音 調 ノ如 キ ハ 日本 人中 稀有 ノ善 ナル モノ

﹂で あり

︑こ のま ま米 国に 留学 し︑ 英語 英文 に通 じた 上で

﹁米 国公 法中 殊ニ 外交 ニ緊 急ナ ルモ ノヲ 学習 致シ 度﹂ 志願 した こと が書 かれ てい る︒ 九鬼 の文 案で は︑ フラ ンス 語の 能力 に関 連し てか

︑白 耳義 国︵ ベル

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

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(20)

ギー

︶へ の留 学の 可能 性に つい ても 言及 され てい る︒ この よう な九 鬼の 強い 推薦 によ って

︑菊 次郎 は明 治二 十年 七月 一日 より 三年 間の 官費 留学 生の 資格 を得 るこ とが でき たの であ る︒ さ らに この 史料 中に は︑ 先行 研究 では 全く 触れ られ てい ない 菊次 郎の 留学 先大 学に 関す る記 述が みら れる

︒明 治二 十二 年七 月九 日付 けの 陸奥 宗光 公使 によ る報 告中 に︑ 菊次 郎に つい て﹁ 留学 拝命 後ハ

︑ボ ルチ モー ル府 ジヨ ンス

・ポ プキ ンス 大学 校ニ 於テ

︑只 管政 治及 歴史 ノ両 学 科 ヲ 専脩 罷 在﹂

﹁ 今一 ヶ 年 ヲ以 テ 卒 業 すへ き 筈 ノ由

﹂と あ る︒ こ のジ ョン ズ・ ホプ キン ス大 学の 政治

・歴 史学 科と は︑ 新渡 戸稲 造の 在籍 した 学科 であ った こと に注 目し たい

︒ ジ ョン ズ・ ホプ キン ス大 学と は︑ 一八 六七 年に 創設 され たア メリ カ初 の大 学院 大学 であ る︒ なか でも

︑ハ ーバ ード

・B

・ア ダム ス︵ 政治 学︶ とリ チャ ード

・T

・イ ーリ ー︵ 経済 学︶ を擁 する 歴史

・政 治学 科は 有名 であ り︑ 特に 大学 院生 を主 体と する 二人 の合 同ゼ ミは

︑第 二八 代大 統領 とな るト ーマ ス・ W・ ウィ ルソ ンが 在籍 する など

︑多 くの 注目 を集 めた

︒こ のゼ ミに は札 幌農 学校 を卒 業し た佐 藤昌 介が 一八 八三 年に 入 っ てお り

︑そ の 誘 いに よ っ て一 八 八 四年 から 太田

︵新 渡戸

︶稲 造が 進学 して いた

︒そ の後 一八 八七 年に は︑ 同志 社を 経 て オベ リ ン 大 学を 卒 業 した 家 永 豊吉 も当 ゼミ に入 って いる

︒ 西 郷菊 次郎 がこ の歴 史・ 政治 学科 に入 った 時期 は不 明で ある が︑ 大学 側に 残る 在籍 記録 によ って

︑一 八八 七年 の第 一学 期か ら一 八八 九年 の第 一学 期ま での 学生 名簿 に記 載の ある こと が わ かっ た

︒指 導 教 授は ア ダ ムス で

︑下 宿 住所 は615St.PaulSt.

と な っ て いる

︒彼 の 位 置づ け は この 間 ず っ とspecialstudents

で あ り

︑大 学 院 生 で あ っ た 佐 藤

・新 渡戸

・家 永と は異 なり

︑ゼ ミの 履修 はみ られ ない

︒し かし アダ ムス とイ ーリ ーの 講義 を中 心に

︑第 1表 にみ るよ うな 授 業を 受 講 し てい た こ とが 確 認 でき る

︒英 文 学 や歴 史 科 目の 履 修 が 多く

︑彼 の 関 心の 在 処 をう か が う こと が で き よ

― 19 ― 西

(21)

う︒ 家 永豊 吉に 関す る太 田雅 夫氏 の研 究に よっ て︑ 一八 八九 年四 月段 階で ジョ ンズ

・ホ プキ ンス 大学 に留 学中 の日 本人 の名 前が 明 らか に な っ てい る

︒こ の 時 点 で す で にPh.D

を 取 得 済 み の 者は

︑久 原躬 弦︑ 箕作 佳吉

︑元 吉勇 次郎

︑佐 藤昌 介の 四名 であ り︑ 当時 在籍 中の 者と して は下 記五 名が 上が って いる

︒ 家永

豊 吉 哲学 士 一八 八七 年オ ベリ ン大 学︑ 歴史

・政 治の 大学 院生 太田

稲 造 理学 士 日本

︑札 幌農 学校 助教 授│

││ 休暇 で不 在 西郷 菊次 郎 日本 公使 館員

ワ シン トンD.C

︑歴 史・ 政治 の特 別学 生 下 村孝 太 郎 理 学 士 一八 八 八 年ウ ス タ ー理 科 専 門 学 校︑ 化学 の大 学院 生 渡瀬 庄三 郎 理学 士 一八 八四 年札 幌農 学校

︑一 八八 六年 東京 大学

︑一 八八 八年 大学 奨学 生︑ 一八 八八

第 1 表 ジョンズ・ホプキンス大学で西郷菊次郎が履修登録した授業名 第 2 学期

Fourteenth and Nineteenth Century Literature English Literature :(P.H.E.)

Minor French Church and Empire

Elements of Political Economy Continental History

濃い網掛けはアダムス、薄い網掛けはイーリーの担当授業を示す

※家永と同クラスでの履修科目 第 1 学期

Elizabethan Literature : Nineteenth Literature Elizabethan Literature :(P.H.E.)

Oriental History(P.H.E.course)

Europian History(P.H.E.course)

Elocution Minor French Church History

Elements of Political Economy Oriental History

Elocution

International Law ※

Political Economy :(Advanced) ※ English Constitutional History ※ Logic :(L.E.P.)

1887- 88 年

1888- 89 年

1889- 90 年

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

― 20 ―

(22)

│八 九︑ 生物 学特 別研 究生 こ

れを 見る と︑ 当時 のジ ョン ズ・ ホプ キン ス大 学へ の留 学に は︑ 佐藤 昌介

・太 田︵ 新渡 戸︶ 稲造

・渡 瀬庄 三郎 らの 札幌 農学 校出 身│ 東京 大学 ルー トと

︑元 吉勇 次郎

・家 永豊 吉・ 下村 孝太 郎ら の同 志社 出身

│ア メリ カの 大学 卒業 者と いう 二つ のル ート が存 在し たこ とが わか る

︒ この 二つ のル ート をつ なぐ 役割 を 果 たし て い た のが 新 渡 戸で あ っ た可 能性 のあ るこ とに 注目 した い︒ 例え ば新 島襄 が一 八八 五年 にジ ョン ズ・ ホプ キン ス大 学を 訪れ た際 には

︑新 渡戸 はキ ャン パス を案 内し

︑学 長ギ ルマ ンら とと もに 会食 して いる

︒さ らに 新渡 戸 は︑ 同 志社 を 代 表 する 文 化 人で あ る 徳富 蘇峰 とは 東京 英学 校時 代の 同級 生で あり

︑こ の蘇 峰は 同志 社時 代の 最も 親し い友 人と して

︑杉 田︵ 元吉

︶勇 次郎

・辻

︵ 家永

︶豊 吉 の名 を あ げて い る

︒こ れ らを 勘 案 すれ ば

︑新 渡 戸 が当 大 学 の日 本 人 ネッ ト ワ ー クの 結 節 点に い た 可能 性が 出て くる

︒ 新 渡戸 は学 位取 得前 の一 八八 七年 に札 幌農 学校 助教 授と なり

︑そ の官 費派 遣と して ドイ ツの ボン 大学 へと 留学 先を 変え たこ とか ら︑ ジョ ンズ

・ホ プキ ンス 大学 での 滞在 は一 八八 七年 五月 まで とな って いる

︒し たが って 一八 八七 年七 月よ り官 費留 学生 とな った 菊次 郎と は︑ 在学 期間 は二 ヶ月 の差 で入 れ違 いで ある

︒し かし 今回

︑菊 次郎 はす でに 一八 八 七年 四 月 段 階で

︑ジ ョ ン ズ・ ホプ キ ン ス大 学 付 近 の下 宿615St.PaulSt.

を確 保 し てい た 事 実 を確 か め るこ と が で きた

︒よ って

︑新 渡戸 と菊 次郎 の間 には 直接 の接 触が あっ た可 能性 が出 て く る︒ そこ で 新 渡 戸側 の 史 料を 調 べ たと ころ

︑一 八八 七年 十一 月に ドイ ツか らア ダム ス教 授に 宛て た書 簡中 に︑ 日本 人留 学生 たち の消 息を 知ら せて くれ たこ とへ の返 信と して

︑“Saigo,Iknow,havingmetinWashington”

と ある のを 見出 した

︒や はり 菊次 郎と 新渡 戸は 直接 の

― 21 ― 西

(23)

面識 があ った ので ある

︒菊 次郎 は米 国公 使館 在勤 中か ら︑ 新渡 戸を 通じ て本 学の 政治

・歴 史学 科の 情報 を入 手し てい たと 推定 され る︒

⑷ 留学 時代 の人 脈形 成と 自筆 英文 書簡 によ る新 知見 菊 次郎 と同 時期 に同 じ歴 史・ 政治 学科 に在 籍し てい た同 志社 出身 の家 永豊 吉は

︑同 クラ スで の履 修も みら れる こと から

︑留 学生 仲間 とし て最 も近 い存 在で あっ たと 考え ら れ る︒ 家 永の 博 士 論文 の テ ーマ は 日 本 の憲 政 史 であ っ た が︑ 一八 八九 年二 月に はジ ョン ズ・ ホプ キン ス大 学に 日本 公使 館よ り大 日本 帝国 憲法 の英 文公 式副 本が 寄贈 され

︑こ れを 受け て四 月十 七日

︑当 大学 では 日本 公使 陸奥 宗光 らの 臨席 のも とに

︑大 日本 帝国 憲法 発布 記念 祝賀 会が 開催 され てい る

︒ これ は家 永の 研究 テー マと の合 致性 とと もに

︑菊 次郎 の公 使館 ルー トが 存 在 した か ら こ そ実 現 し た催 し と いえ よう

︒席 上で は菊 次郎 によ る当 大学 日本 人留 学生 の紹 介が あり

︑ア メリ カ側 の専 門家 の講 演に 続い て︑ 家永 がメ イン ス ピー カ ー と して 憲 法 制定 に 至 るま で の 日 本 の 政 治 的 変 化 に つ い て 講 演 し て い る

︒式 典 後 は 図 書 館 に 会 場 を 移 し︑

﹁ 目下 同大 学ニ アル 西郷 菊次 郎君 ノ会 主ニ テ日 本ノ 茶会 ヲ 開 キタ ル 由 菊 次郎 君 ハ 西郷 隆 盛 ノ 長男 ナ ル 由ニ シ テ 同氏 ノ在 学ア ル事 ニ依 リ一 シオ ノ興 ヲ増 シタ ル由

﹂を

︑家 永は 親友 の小 野英 二郎 に書 き送 って いる

︒ 太 田雅 夫氏 によ れば

︑九 州柳 川の 家永 家の 養子 とな って いた 豊吉 は︑ 本姓 を辻 とい い︑ 広島 藩家 老の 辻維 岳の 庶子 であ った とさ れる

︒辻 維岳 は︑ 薩長 芸三 藩同 盟の 締結 や大 政奉 還に 活躍 し た 人物 で あ り︑ 西 郷隆 盛 と も交 流 の あっ たこ とが 知ら れて いる

︒菊 次郎 がこ のよ うに 異国 で親 子二 代に わた る交 友 を 深め て い た こと は 興 味深 い が︑ こ の家 永豊 吉と さら に新 渡戸 稲造 は︑ 後に 菊次 郎と も重 なる 時期 に台 湾総 督府 へ赴 任し てい るこ とも 注目 され よう

西 郷 菊 次 郎 の 来 歴 に 関 す る 再 検 討

― 22 ―

(24)

菊 次郎 がこ の留 学時 代に

︑も う一 人の 同志 社関 係者 とも つな がり を持 った と推 定さ れる こと にも 注意 した い︒ 菊次 郎・ 家永 豊吉 と同 時期 にジ ョン ズ・ ホプ キン ス大 学で 有機 化学 を専 攻し てい た下 村孝 太郎 は︑ 家永 と同 じ熊 本洋 学校 の出 身で あり

︑両 者は 以前 から 親し い間 柄に あっ た

︒ 家永 を通 じて

︑菊 次郎 は 下 村と も 面 識 を持 っ た こと が 推 定さ れる

︒そ の後 下村 は新 島襄 に請 われ て明 治二 十二

︵一 八八 九︶ 年十 二月 に帰 国す るが

︑二 十四 年七 月に は北 垣国 道の 娘︵ 養女

︶徳 子と 結婚 して おり

︑明 治三 十七

︵一 九〇 四︶ 年三 月 に は同 志 社 社 長︵ 総長

︶と な っ てい る

︒後 年 の菊 次郎 の京 都時 代へ と続 く人 脈が

︑こ のジ ョン ズ・ ホプ キン ス大 学時 代に も見 出せ るこ とに 注意 した い︒ さ らに 今回 の調 査で

︑ジ ョン ズ・ ホプ キン ス大 学に はこ の留 学時 代に 書か れた 菊次 郎の 自筆 英文 書簡 四通 が保 管さ れて いる こと がわ かっ た︒ これ らの 書簡 は旧 来の 所蔵 者ElizabethRussellLindsay

か ら︑ 歴史 学者HughHawkins

を通 して 大 学に 寄 贈 され た も の であ る

︒書 簡 の宛 先 はMiss.Nannie

︵AnneArmourPerkins

︶ が三 通

︵一 八 八八 年 七 月二 十一 日付

︑年 不詳 九月 二十 三日 付︑ 同九 月二 十五 日付

︶︑ そ の姉 妹のMrs.L.Mackinzie

宛 が一 通

︵一 八 八八 年 五 月十 四 日付

︶で

︑こ の 二 人 は菊 次 郎 の下 宿 先615St.PaulSt.

の 経 営 者 夫婦 に よ って 育 て られ て い た 姪た ち で あ っ た

︒各 書簡 から は︑ 菊次 郎が 下宿 先の 家族 と一 緒に 旅行 する など 深い 交流 をし てお り︑ この 姉妹 とも 親し かっ たこ とが 読み 取れ る︒ 特 に一 八八 八年 七月 二十 一日 付で 旅行

先のLuray

か ら615St.PaulSt.

のAnne

へ宛 てた 書簡 には

︑有 名 なLu-

ray

の鍾 乳洞 を家 族た ちと 訪れ たこ とと とも に︑ 以下 のよ うな 記述 のあ るこ とが 注目 され る︒

IheardthatMissNannietoldsomeonethatshewonderedhowwesentimentalpeoplecouldgetalong.MissNannie

pleasedonotworryaboutme.Ialmostforgotwhatthesentimentalis.Iamgettingshylikecountryfolks,whoeverut-

― 23 ― 西

参照

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