26 Field+ 2009 07 no.2
トルコ語・オスマン朝史と出会うまで
【太田】 最初にオスマン朝史研究を志すようになった経緯についてお聞かせ ください。
【髙松】 そもそものきっかけは、高校の世界史の時間に、かつてトルコ人 や日本人をはじめウラル・アルタイ系諸民族が、欧米の帝国主義に対抗す るためユーラシアを横断して大同団結しようという思想があったと聞いた ことです。それで日本語にどうも似ているらしいということでトルコ語に興 味をもって、自分で文法書を買って勉強し始めました。
【太田】 高校生の時から、外国語を独学で学ぶというのはすごいですね。
【髙松】 もともといろいろな外国語に関心があったんです。生まれたのが 東京オリンピックの年で、小1の時には大阪の万博があったせいか、幼な 心に「世界のいろいろな国々に様々な人がいるのは素晴らしい」と刷り込 まれてしまったからかもしれません。ここで普通は中学に入って一生懸命 英語を勉強するのでしょうが、残念ながらなんだかピンときませんでした。
世界にはほかにもたくさん言葉があるぞと、その頃からひねくれてNHKラ
ジオの中国語講座を聴いたりしていましたので、自分としては自然な流れ だったのです。ただおかげで英語はあまり勉強しませんでしたから、今で もすごく苦手です。
【太田】 トルコ語は、日本ではあまり馴染みのない言葉だと思うのですが、
高校生で勉強してみて難しくありませんでしたか。
【髙松】 いえ、英語よりよっぽど簡単でした(笑)。語順とか発想が日本語 と近いので、古文の勉強をしているような感覚でした。現在ではウラル・ア ルタイ語族の存在や、トルコ語や日本語が共通の祖先から分かれたという学 説は否定されていますが、日本語を知っている人にはトルコ語は一番勉強し やすい言語のひとつでしょうね。今のトルコ語はローマ字表記ですし。
【太田】 大学でも、トルコ語を勉強しようと。
【髙松】 ええ、当時はトルコ語学科のある大学はなかったのですが、トルコ 語が開講されているところを選びました。ただ入学後は、トルコ語をよく読 めるようになるためにほかの語学も必要だとわかったので、毎年必ず1つか2 つは新しい語学をやるようにしました。今思うと学生時代にたくさん語学を かじったことが後ですごく役立っています。
【太田】 しかしなぜ言語学ではなく、歴史を研究しようと思ったのですか。
【髙松】 大学3年で専門を決める時、トルコ語を使って何か研究できそうだっ たのが東洋史学科だけでしたので。それにトルコ語そのものよりも、トルコ 語で書かれた文献を正確に読むことの方により興味がありました。
今回は、
AA
研所員である髙松さんに、専門とされているオスマン朝の文書や、古文書学、アーカイブズ学について話をうかがいました。
オスマン朝は、
1300
年頃現在のトルコの地で建国され、15
世紀にイスタンブルを都としてからはヨーロッパ、アジア、アフリカに またがる大帝国となり、様々な民族を抱えつつ1922
年まで続いた国家です。オスマン朝は膨大な数の文書や帳簿を残していますが、西欧以外で これほど多く史料がオリジナルのかたちで伝わっている国はまれです。
そうしたオスマン朝の文書を研究されている髙松さんに、「フィールド」である 文書館での調査の一端や、古文書学などについて紹介していただきます。
インタビュー
オスマン文
も ん書
じ よの 世界
イスタンブルの古本屋とアーカイブズ 髙松洋一 たかまつ よういち/AA研
インタビュア--太田信宏(編集部)
イスタンブルの古書 店で 記 念 撮 影。後 ろに並ぶ革背表紙の 本はオスマン朝の上 院議長の旧蔵書。
オークションにて。
女性が手にしている のは1680年刊アラビ ア・ペルシア・トル コ語=ラテン語辞典。
同じ本が去年のサザ ビーズでは600万円 を超す高値で落札さ れた。
17世紀に建てられたイスタンブル旧市街のスルタン・アフメト・モス ク(通称ブルーモスク)。首相府オスマン文書館もこの近くにある。
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オスマン朝の文書の世界へ
【太田】 それではオスマン朝について研究しようと思ったきっかけは。
【髙松】 トルコ系の国家は歴史上たくさんありますが、トルコ語で大量に史 料を残しているのはオスマン朝だけだとわかったからです。あと多民族国家 だったことにも興味をひかれました。中東やバルカン半島など、今日紛争の 絶えない地域を、まがりなりにも長い間まとめていたオスマン朝とはどんな 国家だったんだろうと。
【太田】 史料としては、当初から文書を利用していたのですか。
【髙松】 いいえ。修士論文を書くまでは印刷された年代記ばかり読んでいま した。日本にいたら文書のオリジナルは見られませんから。世界のオスマン 朝史研究の水準では文書の利用が当たり前なのに、情報量の限られた年代記 しか使えないのがつらかったです。
【太田】 では文書の研究は、留学した時に本格的に始めたのですね?
【髙松】 そうです。博士課程に入って半年ほどでイスタンブルに留学して、
初めてオリジナルの文書に触れることができました。
【太田】 手書きの文書は、誰もが簡単に読めるものではありませんよね。
【髙松】 ええ。私の場合も、留学前からアラビア文字で書かれた古いトルコ 語を読めるようになってはいましたが、独特の書体の手書き文字を判読でき るようになるのには苦労しました。初めて文書館で文書の実物を見た時など、
全くわからなくて、1日眺めてやっと単語が1つだけわかったという具合です。
でも不思議なものでしばらく通って苦しんでいるうちに、ある日突然すらす ら読めるようになりました。
【太田】 オスマン朝の文書は具体的にどのような内容なのですか。
【髙松】 現在残っている文書のほとんどは、政府で作成されたか、政府に提 出された公文書ですので、行政に関する命令や報告のほか、政府にお金を下 さいと頼んでいる嘆願書などが多いです。皇帝直筆の命令もたくさん残って いて、慣れてくると筆跡を見ただけで誰が書いたか、すぐわかるようになり ます。ほかには税金や俸給に関する帳簿、裁判記録などもあります。イスタ ンブルにある首相府オスマン文書館には1億5千万点を超える資料が収蔵され ていて、書架を横につなげると200キロメートルにもなるそうです。
【太田】 それでは留学中は、そうした文書の解読に集中していた?
【髙松】 だとよかったのですが、毎日本屋で遊んでばかりいました(笑)。
イスタンブルはオスマン朝の首都になってからは戦火にあっていませんから、
古書もたくさん残っているのです。おまけに私が留学していた90年代前半は 経済が混乱していて、トルコ・リラの価値が1日で半分以下になったり、イ ンフレ率が年間100パーセントを超えたりという時代でしたから、蔵書を手 放す人も多かったのです。油断していると値段が突然倍になりますが、一介 の留学生でも結構本が買えましたし、オークションも盛んでよく行きました。
こうして古書相場を研究した結果、しまいには本屋から本の値段を訊かれる かつての首相府オスマン文書館の外観。現在では、オス マン朝時代の大宰相府の敷地内に移転している。
首相府オスマン文書館の整理部門。机の上の帳簿を点検 しているところ。
帳簿を黙々と撮影 する文書館員。全 資料のデジタル化 が完了するのは気 が遠くなるような 将来のことだろう。
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ほどになってしまい、転職を真剣に勧められました(苦笑)。もっとも3年間 の留学を終えて帰国する時には部屋中本だらけで、どうやって日本に送るか 途方に暮れましたけど。ただ、本屋に入り浸っていたおかげで、常連客とも 親しくなり、お茶をすすりながら彼らの会話にずっと耳を傾けることができた のは良い経験でした。トルコの愛書家には大学の先生でもないのに驚くほど 学識のある人がいますので、写本の年代の見分け方とか、ずいぶんいろいろ なことを教えてもらいました。
【太田】 楽しい留学生活を過ごしたのですね。
【髙松】 もちろん生活や研究をするうえでのトラブルも少なくありませんで した。部屋を借りていた大家が悪い奴で、階下に水漏れが起こったのに知ら ん顔をして、もう少しで私が告訴されそうになりました。また研究許可や滞 在許可証をとるのもたいへんで、いちいち嘆願書を書いたり、警察に年に30 回も通ったり、私の申請書類がどうなっているのか、アンカラの文化省に何 度も長距離電話したり。官僚主義はオスマン朝の昔からそうなのですが。そ のうちに警察の人より書類の流れに詳しくなってしまって、これがあとで研 究に役立ったかもしれません(笑)。
古文書学とは
【太田】 そうした苦労をしながら、留学中に古文書学を専門とするようになっ たのですね?
【髙松】 いえ、留学中は修士論文で扱ったテーマに関する史料をひたすら集 めていただけで、そんなつもりは全くなかったんです。古書市場の調査が忙 しかったせいもありますが(苦笑)。古文書学を志したのは留学から帰国して からです。集めてきた文書のコピーを読んでいるうち、日付も見かけの様式 も全く違っているのに、文章がそっくりな文書が複数存在することに気がつ いたのがきっかけです。そこで、なぜわざわざ同じテキストでいろいろな様 式の文書が作られなければならなかったのか、内容はさておきそれぞれの文 書がそれぞれの様式で作られたのはなぜなのか、ということに疑問をいだき ました。そこがわからなければ文書を正しく理解できないぞと思ったわけで す。そこでこうした疑問を解くためには古文書学を勉強しないといけないと わかったのですが、当時日本にはオスマン朝の古文書学の専門家がいなかっ たんです。ではいっそのこと自分が古文書学をやって皆の捨て石になろうと 思い、日本史の古文書学入門なども参考にしながら、手探りで勉強を始めま した。もともと文献そのものをいかに正確に読むかということにこだわりがあ りましたので、私に古文書学はちょうどあっていたのかもしれません。
【太田】 そもそも古文書学とはどういった学問なのでしょうか。
【髙松】 文書というのは自分勝手に書いてよいものではなく、どんな紙やイ ンクを使うのか、どの書体で書くのか、どういう言葉遣いをするのか、「手紙 の書き方」のようなあらかじめ決められた約束事があります。それによって 文書は数多くの様式に分類されるのですが、そのような様式の使い分けは、
それぞれの様式が独自の機能をもっていたからにほかなりません。こうした 文書のいろいろな様式の分類や、機能の解明といったことが古文書学の研究 の中心的な課題です。私の場合は、現存する個々の文書を検討して、それぞ れの文書の様式のもつ働きや作成手順を再構成することをテーマにしていま す。オスマン朝の役所では先輩が師匠になって若い見習いに口伝で仕事を教 えていたので、文書作成のマニュアルがほとんど残されていませんから、実 例から積み上げて明らかにする必要があるのです。
【太田】 オスマン朝の古文書学研究者はトルコ人以外には珍しくありませんか。
【髙松】 そんなことはありません。オスマン朝の支配が東欧に及んでいたせ いで、基本となる研究はハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどで出版さ れています。今でも一番研究が進んでいるのはブルガリアなので、ブルガリ ア語を勉強しておいて本当によかったと思います。ちなみに英語で書かれた 研究は、どういうものか全くといっていいほどありません。
【太田】 具体的にトルコの文書館に行ってどんな調査をするのですか。
ムスタファ3世(在位 1757〜1774年)の勅 許状。本文の上部に 黒々と描かれているの はムスタファ3世の花 押(トゥーラ)で、「常 勝者アフメトの息子 シャー・ムスタファ」
と読むことができる。
本文は金色や赤のイン クを使って豪華に作ら れている。
留学中のノートから、王 冠と盾をかたどった文 書の透かし。3つ並んだ 三日月はオスマン朝のシ ンボル、IMPERIALはイ タリア語。文書に日付は ないが、1783年頃のも のであることがこの透か しだけでわかる。この文 書も今ではオリジナル を閲覧することができな くなってしまった。
地方総督から届いた通信を中央政府で5段落 に要約した梗概。黒インクで記されているの が本文の要約で、赤インクで斜めに記されて いるのは内容についての註釈。
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【髙松】 ふつう文書館を訪れる研究者は「自分のテーマに関する文書が何か ないかなあ」と探すのでしょうが、私は「この案件についてこの日付のこれ これの様式で書かれた文書があるはずだ」というふうに文書を探して、ひた すら画像を集めるということをしています。文書というのは単独で作られる のではなく、ひとつの案件について複数の様式の文書が一定の手順をおって 作成されますから、既に発見した文書を分析して、同じ案件について別の様 式の文書が存在しているはずだと仮説を立てるわけです。ただ実際には散逸 してしまっていることが多いので、なかなかぴったりのものが見つかる幸運 にはあえません。カタログも部分的にあるにはあるのですが、不十分なので とにかくたくさん請求して探します。
【太田】 文書館ではほかにどんな苦労がありますか。
【髙松】 オスマン朝は19世紀半ばまで文書の用紙を主にイタリアから輸入し ていたのですが、当時のイタリアの紙には業者や年代によって異なる「透かし」
が入っていて、そのデザインから用紙の製造年代をほぼ特定できるんです。
文書に日付がない場合、これが年代を知るのに重要な手掛かりになります。た だ透かしは写真に写りませんので、私はいつも文書館の窓際に座って「陽光 紙背に徹す」とばかり文書を空中にかざして、透かしをせっせと手で写し取る という怪しい(笑)作業をしています。ところが最近は電子化が進んでパソコ ン上の画像でしか見せてくれない文書が増えたので、透かしがわからなくなっ てしまったのが残念です。保存のことを考えると仕方がないのですが。
「歴史」を伝えるアーカイブズ
【太田】 古文書学とともに、アーカイブズ学を髙松さんは専門とされていま すが、アーカイブズ学とはどういったものですか。
【髙松】 「アーカイブズ」とは、組織や個人が作成したり受け取ったりして 保存してきた記録をさしますが、それらの保存・利用に役立つように、アー カイブズの成り立ち・伝来や管理の方法などについて研究するのがアーカイ ブズ学です。もっともオスマン文書館のように、こうした記録を保存する機 関のこともアーカイブズと呼ばれます。アーカイブズ学の対象は歴史的な古 文書だけではなく、現代の役所の公文書や個人の書類もそうですし、紙に限 らず最近では電子媒体記録も含まれます。私自身の研究対象は、オスマン朝 中央政府のアーカイブズですが。
【太田】 髙松さんは、もともとアーカイブズ学に関心があったのですか。
【髙松】 いいえ、トルコに留学するまでそんな学問があるとはちっとも知り ませんでした。実は私のついた指導教官がたまたまアーカイブズ学科の主任 だったのですが、アーカイブズ学とは何であるのか理解できるようになった のは帰国した後でした。最初はオスマン文書館を利用するのに整理・分類の 原則がきちんとわからなければと思って勉強を始めたのですが、そのうち現 在オスマン文書館に収蔵されている文書がどんな経緯で収められたのか、ま たそれらの文書が実際に使用された当時どのように保管されていたのかを知 ることが、文書の機能や作成手順を考えるうえで不可欠だとわかって、専門 的に研究するようになったのです。
【太田】 アーカイブズ学というのは、あまり耳にしたことがありませんが。
【髙松】 そうかもしれませんね。6年前にようやく学会が設立されたくらい ですから、この分野では日本は残念ながら「後進国」です。そもそもアーカ イブズが後世に伝えるべき人類の共有財産であるという考えが、社会にあま り根付いていません。最近の薬害問題などを見ても明らかですが、日本の公 文書保存・管理のあり方には多くの問題があります。福田前首相は、アーカ イブズの整備に熱心だったのですが。ところがオスマン朝の役所では、18世 紀には既に文書は説明責任を果たすために保存すべきものと考えられていた のです。今日オスマン朝の文書が膨大に残っているのは、そうした認識のお かげもあると思います。
【太田】 まさしく文書のあり方は、その国の政治や文化の一面を映す鏡です ね。どうもありがとうございました。
1906年イスタンブル刊『日本のアル ファベット』より。「いろは」の発音を さまざまな文字で説明している。右から トルコ語、日本語、フランス語、ギリシ ア語、アルメニア語。オスマン朝では多 様な言語と文字が使われていた。
知行の相続を請願する書類を要約 した梗概。上部右隅にはアブデュ ルハミト1世(在位1774〜1789 年)の直筆により、請願を承認す る旨が金粉の混じった黒インクで 記されている。