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ハイエク社会理論体系の研究(五)

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ハイエク社会理論体系の研究︵五︶

ハイエクの経済理論一

古 賀 勝 次 郎

 目   次

はじめに9 情報システムとしての市場

 ω 知識とカタラクティックス

 ω 発見的方法としての競争

 価市場メカニズムの機⁝能

口 計画経済理論批判

 ω 計画経済論争

 ㈹ ハイエクの批判

日 ハイエクの景気・資本理論

 ω 生産構造論   .

 ㈹ リカード効果

 ㈹ ハイエク経済理論の再評価

むすび

1

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2

はじめに

 既に述べたごとく︑ハイエクは︑自発的秩序︵巷︒茸きΦo易︒巳Φ500ωヨ︒ω︶としての社会的秩序の経済的側面

を︑ ﹁エコノミー﹂ ︵①8づ︒日︽︶ではなく︑ ﹁カタラクシー﹂︵o舞巴冨×団︶と表現している︒従って︑ ﹁カタラクシ

ー﹂をその研究対象とする分野も﹁経済学﹂︵①88巨Oω︶ではなく︑ ﹁カタラクティックス﹂ ︵8冨一下×二〇ω︶と呼        ︵1︶ぶ方がよいであろう︒ ︵以下︑必要に応じて︑ ﹁経済学﹂という用語を用いることがあるが︑それは︑ ﹁カタラクテ

ィックス﹂という意味で使われていることを予め断っておく︒︶

 さて︑ハイエクが︑カタラクティックスにおいてなした貢献の中で︑最も重要なものは︑何よりも︑市場を情報シ

ステムとする理論である︒それは︑第二次世界大戦後に発達した情報理論︵一昌8目ヨ簿二〇昌島Φo蔓︶の先駆をなすもの

と言ってよいが︐しかし︑問題に対する接近の仕方や︑その内容において︑今日の情報理論とは違った独自性をもっ

ている︒しかも︑この理論は︑今世紀二〇年︑三〇年代に行われた所謂﹁計画経済論争﹂を通して明確にされていっ

たものであるだけに︑その基本的な考えは︑現在でも計画経済理論を論ずる場合︑その意義を失っていない︒そして

事実︑近年のハイエク経済理論に対する再評価も︑そのような方向からなされている︒

 けれども︑ハイエクが理論経済学者として︑多くの時間を費したのは︑そうした問題より︑寧ろ︑景気理論︑資本

理論においてであった︒だが︑彼の景気・資本理論は︑第二次大戦後の︑ケインズ経済学の圧倒的優勢の中で︑殆ど

顧みられることがなかった︒恐らく︑その理由の一つは︑彼の景気・資本理論と︑先に述べた市場理論−市場を情報

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      ︵2︶システムとするそれ一との関係が不明瞭であったからであろう︒しかし最近︑O.勺●O︑Uユω8=・旨などが︑この間

の関係を明らかにせんとして注目されている︒また︑これとは別に︑J.ピックスなどに見られるように︑オースト      ︵3︶リア学派の経済理論を再検討しょうとする動きの中で︑ハイエク理論に対する評価も次第に変わりつつある︒それ

故︑われわれも︑そうした面から︑ハイエクの景気・資本理論を取り挙げる必要があろう︒

 以下︑わたしは︑ハイエクの経済理論を︑情報システムとしての市場︑計画経済理論批判︑そして景気・資本理論

という順序で素描してみたい︒

︵1︶ =亀︒ピ閃﹀・⁝Zo≦ωεaoω冒℃三δωo喜ざ℃o葺δω矯国8昌︒ヨ8ω四a誓①田ω8蔓oh置$9Hミ︒︒噂O・㊤9

︵2︶○.∪器8戸︒・即ぎb8コ口邑8霧O︒︒匪9沖言口δσδ黄O弓長σ鼠8ω︒h牢巨﹁喜鋭出翅①ぎお刈萱・

︵3︶ 田︒困ω・︸二︑︑目ゲ︒国ミ①犀ω8qu⁝言O降ざ巴国ωωo団ωヨ竃︒づ︒富q目﹃①o藁讐H⑩①Sまた同じくOp℃二巴碧α目一30

 >Zo?﹀信曾﹃冨昌目ケoo蔓閣HO蕊.など参照︒

ハイエク社会理論体系の研究(五)

e情報システムとしての市場

 近代初期の経済学者達は︑近代社会の著しい特徴である分業の発達に着目して︑彼らの経済理論を展開していっ

た︒ハイエク経済理論の新しさは︑この分業︑即ち﹁労働の分割﹂ ︵傷一く一ω一〇づ  Oh 一9σO偉﹃︶という現象を︑ ﹁知識の      ︵1︶分割﹂ ︵9<巨80h巨︒乱9σqo︶と解釈し直したところに認められる︒ つまり︑入々が経済活動を営んでいく上で

必要な知識は︑ある特定の人︵あるいは機関︶に集中して存在しているのではなく︑無数の人々︵集団︑組織など︶

の間に広く分散している︑という洞察である︒だから︑ハイエクによれば︑カタラクティックスの中心問題は︑その

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ように無数の人々に分散されている知識が︑どのようなメカニズムによって︑各経済主体に伝達されるのか︑しかも

それが︑いかにして一定の経済秩序であるカタラクシーを形成するのか︑でなくてはならない︒

  ω 知識とカタラクティックス

 ハイエクが︑A・スミス以来︑経済学の基礎に据えられて来た分業口労働の分割の問題を︑ ﹁知識の分割﹂として

捉え直し︑彼のカタラクティックスの中心問題に置いたのは︑近代社会における社会現象︑とりわけ経済現象をでき

るだけ具体的に把握するためである︒そのような意味で︑またこれまで述べて来たところがら既に明らかだと思う

が︑知識に対する洞察が︑彼の社会︑経済現象分析の出発点をなしているのであって︑特にその帰一ラクティックス

への適用において︑従来の経済学とは異った方向を与えている︒そして︑近代社会における﹁知識﹂の性格︑状態︑

種類への考察が︑人間行為の主観的要因や︑その社会全体との関わりとの関連で捉えられているところに︑ハイエク

経済理論の最も優れた特徴があるといえよう︒そこで先ず︑L・ワルラス以後︑現代の新古典派経済学に至る﹁一般

均衡理論﹂が前提としている考えに対するハイエクの批判から見ていこう︒

 一般均衡論においては︑人間の嗜好や技術︑あるいは資源などが与えられるならぽ︑市場は一義的に均衡を保ち得         ︵2︶る︑と考えられている︒それがいかに高度な数学によって説明されていようが︑ハイエクによれぽ︑それは︑単なる

同義反復の体系に過ぎない︒それは︑極めて限定された諸仮定の下でのみ成立し得る︑全く形式的な均衡分析であ

る︒問題は︑一般均衡分析において︑市場での均衡というものが︑予め計測し得ると考えられていることである︒だ

が︑実際に市場に存在するのは︑均衡へのプロセスであって︑色々な﹁データ﹂︑即ちハイエクのいう﹁知識﹂が︑

変化するならぽ︑市場は何時でも麗乱される︒つまり︑市場での均衡が予め計測し得るとするのは︑そのようなデー

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ハイエク社会理論体系の研究(五)

タが︑すべての人々に等しく与えられている客観的な事実と考えられているからだと言える︒だが︑そういった場合

のデータとは︑観察者である経済学者が︑人々に与えられていると仮定しているものでしかないであろう︒けれど

も︑われわれが経済現象を理解する上で重要なのは︑そうしたデータではなく︑経済学者が説明しようとしている各

人に与えられている︑言わば主観的意味でのデータである︒

 ハイエクが﹁データ﹂ ︵α鋤8︶という用語を使わないのは︑それが文字通り所与のもの︑従ってその不変性が暗黙

裡に前提とされているからである︒言うまでもなく︑近代社会においては︑いかなるデータも不変ではあり得ず︑常

に変化して止まない︒それ故に︑そうしたデータが︑客観的事実として人々に与らえれていると言っても︑何ら意味

はないのであって︑問題は︑そのようなデータを人々がいかにして獲得しているのかという点にある︒ハイエクが︑

分業11労働の分割を︑ ﹁知識の分割﹂と新しい解釈を施し︑彼の経済理論としたのは︑まさにこのためであった︒分

業が発達するということは︑社会全体から見れば︑それは︑われわれが社会を維持︑発展させていく上で必要な知識

が︑社会を構成している無数の人々の間に広く分散している︑ということである︒そして︑それを個々の入々の立場

からすれぽ︑各人が有する知識は︑その量において︑社会に存在しているうちの非常に僅かの量であり︑またその内

容において極めて断片的な知識に過ぎない︒しかも︑そのようにして︑社会全体に︑また各個人に存在している知識

が︑どちらも︑時々刻々として変化に晒されている︒それは︑一般均衡分析を以ってして到底解明し得ない現象であ

る︒ では︑このように﹁知識の分割﹂が進んだ社会にあって︑各経済主体は︑いかにすればその経済活動を可能にして

いくことがでぎるだろうか︒考えられるのは︑各経済主体が︑そのようなかたちで存在している知識を︑自己の周辺

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に見い出した目的のために利用していくことである︒多分︑それ以外には考えられないのであるが︑しかし︑それ

は︑入聞の本性とも叶って︑最も確実な方法だと言えるだろう︒ここに人間の本性というのは︑かのス︑・・スの説いた

﹁利己心﹂ ︵ωΦ一hI凶一P一①門Φω一︶のことであり︑いかなる人間も︑その行為は︑自己に最も関心のある事柄に向けられ

る︒極く僅かな︑断片的な知識が︑その有効な利用を期待し得るのは︑この人間の本性に訴えることによってであ

り︑それによって︑その効果は一層強められる︒従って︑その過程で︑そうした知識に加えられる各経済主体の主観

的判断は︑その正確さという点でも︑最も信頼し得るものと考えられる︒

 ところで︑以上述べたように︑ハイエクは︑そのカタラクティックスの出発点に︑各経済主体が有する知識を置い

ているが︑通俗的に表現すれぽ︑それは一種の﹁現場主義﹂である︒ハイエクが問題とするのは︑まさにそこで︑彼

は︑入々が経済活動を行なっていく際︑いかなる種類の知識を必要とするかが︑経済学の最も重要な問題であると考

える︒ハイエクによれぽ︑各経済主体が︑その経済活動を行なう場合必要なのは︑時間と空間によって限定されてい

る1勿論︑変化を伴なうが1知識︑あるいは︑特殊な知識︵例えば︑職人のワザやカンなど︶︑つまり︑個別的︑具

体的知識である︒そうした個別的︑具体的知識は︑各経済主体が有しているものであるから︑いかに断片的な知識と

いえども︑経済活動を行なう時︑それに加えられる主観的な判断に問題がないとすれば︑人々の経済活動は︑少なく

ともミクロ的には︑保障されることになるであろう︒

 以上の事実を︑そのカタラクティックスの出発に置いて︑ハイェクは︑次に︑ではそうした個別的︑具体的な知識

に基づいて行なわれる人々の経済活動が︑その全体において︑つまりマクロの次元で︑経済秩序としてのヵタラクシ

ーを形成しているのか︑ということを問題にする︒ハイエクは︑この問題に答えるに︑先ず︑経済活動における競争

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ハイエク社会理論体系の研究(五)

の意味から明らかにしている︒

  ㈹ 発見的方法としての競争

 競争についても︑ハイエクは︑ワルラス以後の﹁完全競争﹂ ︵Oo鳶Φ9 8目①葺陣︒口︶の概念に対する批判から始

める︒完全競争モデルにおいては︑生産者は︑いかなる方法を採れば︑生産する財が最低のコストで済むか︑また消

費者も︑どのような財やサービスを必要とし︑どれだけの価格であれぽ買うかについて︑予め知っていることが仮定

されている︒ハイエクによれば︑かかる仮定に基づいた完全競争モデルは︑競争という意味が全く見落された︑恰も

競争が終了した状態を記述したもののごとくである︒このような︑一見︑形容予盾を誘うような表現の批判が妥当す

るのは︑上述したように︑新古典派経済学において︑ ﹁データ﹂が︑その語の示す通り︑人々に既に与えられている

事実と考えられているからで︑これが︑ ﹁完全競争﹂という概念から︑競争の意味を奪っているといえるだろう︒要

するに︑完全競争モデルでは︑ ﹁完全知識﹂ ︵bΦほΦ9喜〇三Φ島σq①︶が仮定されているのであるが︑しかし︑既に与

えられているとされる﹁データ﹂︑即ち知識は︑競争の過程を通してはじめて発見され得るのだ︑とハイエクは考え      ︵3︶る︒これが︑ ﹁発見的方法としての競争﹂ ︵8日bo葺δ口切鋤α一ωoo︿o曙只08α霞①︶の意味である︒

 完全競争モデルでは︑丸々は︑その経済活動を行なう上で必要な事実について︑完全なデータ︑つまり完全な知識

をもっている︑と前提されている︒しかし︑競争が意味をもつのは︑人々が︑経済活動を規定している事実︑また︑

当然だが︑その結果︑について予め知らないからなのである︒ハイエクは︑ ﹁競争は︑データの連続的変化に関わる

過程であ鉾と言っている・即ち・競争は・各経済主体が不完全にしかもたない知識を︑現実に起・る事実の変化

に対して︑その調節を保障するプロセスである︑と考える︒例えば︑新古典派経済学では︑稀少財の供給といったこ

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とが︑既に与えられたこととして議論がはじまる︒だが︑どのような財が稀少であり︑あるいは価値があるかなどと

いったことは︑既に与えられたことがらではなく︑まさしく競争が発見しなくてはならないことなのである︒また︑

消費者が︑その消費に対してもつ選択の可能性に関する知識も︑市場においてなされる競争の結果得られる︒つま

り︑生産者も消費者も︑各々その必要とする知識は︑市場における競争過程を通して発見されるのである︒

 競争が︑人々のもつ知識の完全でないところに︑その重要な意味を有するものであれぽ︑社会環境が複雑化し︑不

完全になっていけぽ︑それだけ競争の重要性も増してくる︒そうなれば︑広告やセールスマンの説得︑経済雑誌︑そ

の他いろいろな情報︵機関︶の役割も増大するであろう︒それらが︑生産者︑消費者︑その他の経済主体に︑それぞ

れ必要とする知識︑情報を伝達するのである︒このようにして﹁競争的市場﹂は形成されるのであるが︑その中で演      ︵5︶じられている競争は︑従って︑﹁世論﹂︵Ob言δづ︶形成的なものと考えてよい︒即ち︑競争は︑市場に参加している

各経済主体に︑何が最適で︑何が最も確実な方法であるかについて︑彼らの考えを形成していく︒このように競争

は︑一方で︑各経済主体のもつ知識の不完全さを補っていく過程であるが︑他方では︑利益を求める彼らの利己的動

機を自ずから調節していく過程でもある︒競争的市場で︑人間の本性が最大限に活用されるのであるが︑またそれ

が︑適当なところで規制されるところに︑競争のもついま一つの意味が認められる︒そして︑社会が複雑化し︑人々

の要求が︑ますます多様化してくれぽ︑競争こそ︑恣意的な手段︵国家権力などの︶を用いずに︑それらの諸要求を

調節していく︑最も有効な方法である︒

 経済活動に必要な知識は︑個別的︑具体的な知識であるが︑しかし︑人々が有しているそれらの知識は︑断片的

で︑不完全である︒競争は︑そうした心々の不完全な知識を︑各人の目的に沿うよう補うべく︑いろいろな知識を発

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ハイエク社会理論体系の研究(五)

見していく過程である︒これが︑ハイエクのいう﹁発見的方法としての競争﹂の意味である︒そして︑広告やセール

スマンの説得︑経済雑誌︑その他の情報手段によって︑各経済主体は︑より確実な知識と︑それによって生まれるよ

り大きな可能性を獲得することがでぎる︒だが︑そのような競争的市場の中で︑人々が信頼し得る︑最も確実な知識

は何であろうか︒ハイエクによれぽ︑それは︑ ﹁価格﹂︵娼コO①︶という知識である︒価格は︑言うまでもなく︑連続

的に変化する︑個別的︑具体的知識であるが︑しかしまた︑一般的規則としての﹁法﹂ ︵閃Φo窪︶のように︑一般的

知識に類するものとも考えられてよいのかもしれない︒それで︑次に︑このような価格を中心とした︑ハイエクの市

場メカニズムについての考えを見ることにしよう︒

  圃市場メカニズムの機能

 スミスは︑分業の高度に発達した近代社会が︑自発的秩序を形成していることを最も早く洞察した社会科学者の一       ︵6︶入である︒彼は︑それが︑神の﹁見えざる手﹂の導きによって形成されていると︑些か素朴な表現をしたが︑それ

は︑その後の経済学者によって︑市場メカニズムに関する理論として展開されていった︒ハイエクの市場メカニズム

についての理論は︑その展開の中で︑最も画期的なものであり︑それは更に︑今日︑M.フリードマン等によって発

展されている︒

 分業が発達しているということは︑社会を維持していく上に必要な知識が︑社会全体に広く分散されているという

ことであり︑これを個々人について見れば︑そのうちの鋤く一部の︑しかも断片的な知識しか持っていない︑という

ことである︒従って︑社会の秩序を維持し︑更にその発展を期すためには︑そのように社会に広く分散されている知

識の有効な利用が計られねばならない︒個々人について言えば︑社会全体からすれば︑非常に僅かなしかも断片的で

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ある知識が克服されなくてはならない︒個々人は︑そうした言わば︑無知の領域の拡大を︑競争を通して︑彼らが必

要とする知識を発見していくことによって克服するのであり︑そうしたことが社会全体においてなされているところ

が市場︵日巽犀①け︶である︒つまり市場は︑社会に広く分散して存在している知識を︑伝達︑収集し︑その効果的な

利用を行なうところであると言うことができる︒そしてその中で︑広告をはじめ︑セールスマンの説得︑その他の情

報が︑大きな役割を果たしていることも見逃せない︒しかし︑さまざまな知識︵情報︶の中で︑最も信頼し得る︑確

実なものは︑価格のそれである︑そうハイエクは考える︒

 ハイエクによれば︑価格の機能は︑各経済主体が必要とする知識を伝達︑収集し︑またその価格を通して︑社会に

行われている無数に近い経済活動を調節していくところにある︒各経済主体は︑価格から︑何を︑どのように生産

したらよいか︑また自分の有している資源を最も低い費用で利用するには︑どうずればよいかなどを知ることがでぎ

る︒だが︑この場合︑注意されるべきは︑価格という知識が︑他の直接経済活動に必要な個別的︑具体的︑あるいは

特殊な知識とは︑かなり異った性質をもっているということである︒つまり︑価格は︑個々の商品の価格を示す知識

としては︑個別的︑具体的な知識を提供するが︑同時に︑価格は︑無数の商品間の相対的関係を表わしているから︑

抽象的︑一般的知識として機能している︒だから︑価格は︑社会に存在している非常に多くの知識や情報を凝縮した

形で表現しているシグナルだと言える︒各経済主体は︑その時々刻々と変化していく価格というシグナルに︑自分の

経済活動を調節していけぽよい︒そのように︑すべての経済主体によって︑等しく利用され得るという点で︑価格

は︑一般的規則としての法と似ている︒ただし︑後者が普遍的な性質を有しているのは対し︑前者は︑時々刻々変化

する︒

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ハイエク社会理論体系の研究(五)

 以上が︑価格に中心的役割を与える︑ハイエクの︑市場を﹁情報システム﹂ ︵冒h自ヨ9︒江︒口自oo目垢§団︒面一〇口

  ︵7︶ω誘8ヨ︶とする基本的な考えである︒何より︑市場は︑社会に広く分散している知識を伝達︑集収し︑その効率的な

利用を可能にする情報システムと考えられている︒フリードマンは︑価格の機能として︑情報の伝達の外に︑生産者

に対する誘因の提供︑更に︑所得分配を規定する機能をあげている︒これは勿論︑ハイエクの考えを︑フリードマン       ︵8︶なりに展開したもので︑現実に沿った具体的な説明になっている︒しかし︑ハイェクは︑そうした市場の機能がもた

らすいま一つの利点を指摘する︒即ち︑市場は︑人々の個々別々の目的を︑時には︑相い対立する目的を︑同時に実        ︵9︶現することができる︒言うまでもなく︑それらの諸目的が︑各人にとって同じ程度で実現できるとは限らない︒それ

は︑市場を支配する偶然に︑その多くを依存しているからであるが︑一方︑市場メカニズムの動きによって︑思いも

よらない成果を得ることも多い︒重要なのは︑市場が︑各人のもつさまざまな目的を︑恣意的な調節によらず︑同時

に実現させるところにある︒近代のように分業の発達している社会では︑人々は︑自分の周辺に各々の目的を争い出

すしかないので︑社会に︑非常に多くの目的が共存することを避けることがでぎない︒けれども︑知識は︑社会に広

く分散していて︑いかなる人︵機関︶にも︑集中したかたちで存在していないから︑人々のもつ諸目的問の相対的重

要性を明らかにすることは不可能である︒それらの諸目的は︑市場において︑競争︑価格︑その他の情報によって︑

自ら規制調整を受け︑実現される︑とハイエクはいうのである︒

 このようにして︑ハイエクのいう経済的秩序であるカタクラシーは形成されていく︒その特徴は︑恣意的強制力を

用いることなく︑市場メカニズムの機能によって︑自発的に形成される秩序ということである︒各人は︑それぞれ自

分の所有する知識を︑自分の求める目的のために︑自由に使用してよい︒そのような自由が各人に認められる限り︑

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そうした社会の自由な人々の無数の行為によってもたらされる成果は︑恣意的強制力を用いて作られた社会よりも︑

より大きな成果を獲得できる︒その理由については︑次のところで述べるとして︑自発的経済秩序としてのカタラク

シーに関していま一つ述べておきたいことがある︒それは︑カタラクシーである自発的経済秩序が経済主体の何の制

約をも受けることのない行為によって形成されるというのではないということである︒既に︑社会的秩序について論

じたところであるが︑カタラクシーは︑各経済主体が︑ 一般的規則としての法に従って行為する場合のみ形成され

る︒何故なら︑一般的知識であっても時々刻々変化する価格と異なり︑一般的規則としての法は︑より普遍的であ

り︑従ってより確実性を保障するものだからである︒要するに︑各人が︑一般的規則としての法に従って︑各人の所

得する知識を利用する場合に︑自発的経済秩序であるカタラクシーは形成される︒

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 注︵−︶

︵2︶︵3︶

︵4︶︵5︶

︵6︶

︵7︶

︵8︶

︵9︶ 国薗団Or国﹀こ↓ずΦOo昌ω寓ε鉱OロOhピま①二ざHO①9℃・嵐刈●=9︒閑①ぎ周・﹀こ冒島く置口9一冨日9︒づ臼国8昌OヨざO﹃α05HOお嚇唱・ω㌣9団P団Oぎ蜀・︾こZO≦ωεaOgHO刈QQ悔戸H刈O.閏㊤団①き周●﹀こ冒a<置ロ9一δヨ鋤昌ら国Ooづ︒ヨざO﹃α①5HOお℃O・りら・囲σ置こ灼.δ①・ωヨ謬F︾住魯ヨ噂↓げ①≦o巴普ohZ舞ご昌9↓ゴ①ヨ︒α①葺=σ話Hざ娼・おω.国9団︒ピ司・︾こZ①≦ω言巳①9δ刈Go匂Pω︽・﹁二①砧日餌戸﹈≦崔8昌節菊OωO二哨円OO80げOOωρおG◎9つ㊤●国薗団Oぎ団.﹀二2①≦ωε&09お刈co℃弓.目cQω●

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口 計画経済理論批判

ハイエク社会理論体系の研究(五)

 ハイエクが問題とし︑批判の対象としているのは︑中央当局が︑すべての経済活動を︑一つのプランの下に︑指導       ︵1︶し︑運営する計画経済である︒従って︑それは︑多くの社会主義が唱える経済制度なのだが︑しかし︑十九世紀中葉

以降の社会主義の隆盛にも拘らず︑計画経済の問題について︑合理的議論と呼び得るようなものは︑殆どなかった︒

その理由の第一は︑社会主義に対する議論が︑主として︑倫理的︑あるいは心理的な側面から行われるに止まり︑現       ︵2︶実の経済制度をどうするかといった問題までには至らなかった︑ということ︒第二は︑マルクス主義に最も顕著に見

られるように︑その拠って立つ﹁歴史主義﹂︵三ω8ユ9ωヨ︶のために︑資本主義は特殊歴史的な産物と考え︑経済問

題という人類の永遠の問題が社会主義においても生ずるということへの洞察へ導かなかったからである︒計画経済に

関して︑その合理的議論がなされるようになったのは︑ようやく今世紀に入ってからであり︑また第一次大戦中の戦

時経済の経験︑それに続くロシアでの社会主義社会の実現によって︑それは著しく現実味を帯びた論争へと発展して

いった︒ハイエクは︑L・︑・・ーゼス︑O・ランゲと並んで︑この所謂﹁計画経済論争﹂と︑最も深い関わりをもった

一人であり︑またこの論争は︑その後の彼の経済理論の展開にも大きな影響を与えることになった︒

  ω 計画経済論争      −

 今世紀に入って︑最初に︑計画経済の問題について合理的議論を行なったのは︑オランダのN・G・ピアソンであ

︵3︶る︒ピアソンは︑社会主義社会における計画経済の実行不可能性を説き︑当時のマルクス主義の理論的指導者カウツ

キ・1に影響を与えた︒しかし︑計画経済論争が本格的になるのは︑戦時経済の経験を経た︑第一次大戦後であった︒

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オーストリアのマルクス主義者0・ノイラートは︑戦時経済の経験に学んで︑中央当局は︑ ﹁価値﹂に対して何らの      ︵4︶考慮も払わずとも︑すべての計算は﹁実物﹂で行ない得ることを証明しようとした︒同じオーストリアの社会民主党

の指導的理論家であった0・パウエルも︑ほぼ同様な考えを表明している︒けれども︑マルクスやエンゲルスが抱い

ていた素朴な考えを少し具体的にしただけの計画経済理論は︑ドイツのM︒ウェーバー︑ロシアのB・ブルックス︑

オーストリアのミーゼスなどから激しい攻撃を受けた︒時に︑ミーゼスの批判は理論的に最も鋭く︑徹底したもので

あっ︵やミーゼスの批判の要点は︑実物︵石炭や鉄などの現物︶や労働量が︑経済活動を合理的に行なう上での計算

単位にはなり得ないということである︒彼は︑複雑な社会において合理的な経済運営を行なうためには︑貨幣に表現

された価値が︑唯一の客観的な計算単位であるとした︒そして︑そのような価格形成が︑最終生産物ぽかりでなく中

間生産物や生産要素にも適用される競争的市場においてのみ︑利用可能な諸資源の合理的使用が可能であることを論

証したのである︒      ︵6︶ ミーゼスのこのような批判に対して︑反批判が試みられたが︑それは︑M・ドップを唯一の例外として︑伝統的な

社会主義者かぢではなく︑パレートやマーシャルの流を汲む経済学者の中からであった︒ドイツのG.ハルム︑アメ

リカのF・M・テイラー︑W・C・ローバー︑オーストリアのH・D・ディッキンスンなどがこれである︒彼らは︑

消費者の需要︑生産技術︑利用可能な資源などに関して完全な知識が仮定されれば︑生産されるべき商品の価格と数

量は︑理論経済学が競争体制の下に︑価格形式と生産の指導を説明する場合と同じ道具によって決定されるというこ

とを示そうとした︒この主張は︑ミーゼスが批判した点を︑ ﹁数学的解決﹂ ︵ゴP鋤一げ①廿P鋤一一〇P一 ωO一高一戸O口︶によって回

芒ようとしたものであっ.章明らかに・E●バ〒ネによ・て展開され譲論︵方程式体系による解決︶に奉つい

14

(15)

ハイエク社会理論体系の研究(五)

     ︵8︶たものである︒ハイエクは︑彼らの議論がかなり高い水準のものであることを認め︑またその数学的解決も論理的に

は予盾はないとしながらも︑現実には実現不可能であるという意味で︑ミーゼスの指摘した問題点に答えるものでは       ︵9︶ないという︒そして︑ハイエクは︑それが現実に不可能である理由を次のように述べている︒一︑中央当局が︑個々

の企業管理者に代わってイニシアティブを採るためには︑単に一般的指導だけでは不十分で︑細部にわたって指示し︑

その責任をとらなけれぽならないが︑それは実際には不可能である︒二︑理論経済学において︑技術的知識は︑ ﹁既

に与えられているもの﹂として仮定されているが︑これを計画経済に持ち込んだ場合︑それは︑そうした知識のすべ

てを中央当局が︑集中して所有していなくてはならないことを意味する︒そのようなことは実際にあり得ない︒三︑

パレートも指摘しているように︑現実の発展した社会においては︑無数に近い方程式を解かねぽならないが︑技術的

に見て不可能であろう︒

 ハイエクのこの批判は︑︑ミ一軍スのものに比して︑より具体的で︑突込んだものであったが︑ディッキンスンや0

   ︵10︶.ランゲなどは︑更に︑これに反論を加えた︒彼らの反論の骨子は︑ハイエクが批判した現実の困難を﹁試行錯誤の

方法﹂ ︵㊤ 冒POけげOq O︷ け︻一二一 一八O ①同﹁O﹁︶によって解決しようとしたところにある︒つまり︑中央当局が経済計画を

仮定する場合︑鷹大な方程式体系は必ずしも不可欠のものではなく︑試行錯誤の方法によって︑競争的市場と︑全く

同じではないが︑類似した方法で︑計画経済は現実に実行可能である︑と計画経済の﹁競争的解決﹂ ︵ooヨ℃①葺ぞ①

ωo冒江8︶を試みた︒これに対しハイエクは︑﹁競争的﹂社会主義を構想すること自体︑資本主義の利点を暗黙に認

めることであるが︑しかし問題は︑ ﹁完全競争﹂の概念をそのまま社会主義に適用しているところにある︑と批判し

  ︵11︶ている︒それは︑理論経済学でいう静態的均衡の理論を︑試行錯誤の過程に当嵌めようとするもので︑経済を廻る諸

15

(16)

条件が絶えず変化している︑下では︑そうした方法よりも︑自由市場の方が遙かに対応力がある︑とハイエクはいう︒

 以上︑ハイエクの整理に従って︑おおまかに︑計画経済論争史といったものを見て来たが︑いま少しく︑ハイエク

の計画経済批判について詳しく論じてみょう︒

  ㈹ ハイエクの批判

 ハイエクは︑批判の対象とする﹁計画経済﹂の正確な意味を明らかにするために︑先ず︑ ﹁計画化﹂ ︵宮き巳ロσq︶

という用語の吟味から始める︒ハイエクによれば︑ ﹁計画化﹂という用語を︑存在する利用可能な資源の分配につい

ての決定と解するなら︑すべての経済活動は計画化によるものであると言うことができる︒しかし︑分業が発達し︑

知識が広く分散している社会では︑誰がこの計画化を行なおうとも︑他の者に与えられている知識に基づかなくては

ならない︒そして︑その他の者が︑計画者の必要としている知識を伝達することによってその計画化は遂行される︒

それで問題は︑この計画化を誰が行なうかということになるが︑この場合︑二つの答えが考えられる︒一つは︑中央

当局が︑すべての経済活動を一つの統一されたプラン︑あるいは︑ ﹁青写真﹂に従って実行するか︑いま一つは︑多

数の人々による分権的計画化︑つまり︑彼らの計画化を市場に従って行なうか︑この二つの答えが考えられる︒即ち︑

前者のような中央計画経済か︑後者のような市場経済の︑どちらかしかない︒ハイエクがいう﹁計画経済﹂は︑前者

     ︵12︶を指している︒

 マルクスやエンゲルスが抱いていたような計画経済が現実に遂行不可能であることは︑既にミーゼスが論じていた

ことで︑ハイエクもこれを支持する︒ハイエクが問題とするのは︑中央当局によって指導される計画経済が︑社会主

義者達がいうように︑市場経済よりも優れているか︑ということである︒ハイエクによれぽ︑それを決めるのは︑ど

16

(17)

ハイエク社会理論体系の研究(五)

ちらの制度の方が︑広く社会に分散している知識を伝達︑収集︑利用することにおいて︑より効率的であるかに依存

している︒それは︑彼が︑計画経済の﹁数学的解決﹂を批判した時から︑一貫した問題の立て方であった︒市場経済

においては︑社会に分散されている知識は︑価格をはじめ︑広告︑セールスマン︑その他の情報によって︑伝達︑収

集︑利用されるのである︒計画経済では︑それらはすべて︑中央当局によって行われるのであるが︑果してそれは︑

市場経済以上に︑あるいはそれと同程度の効率性をもち得るであろうか︒

 経済活動を営むために必要なのは︑個別的︑具体的な知識である︒しかも︑それらの知識は︑時々刻々変化し︑ま      ︵13︶た︑ ﹁瞬間的に﹃存在﹄する﹂ような知識も含まれている︒それ故︑中央当局が︑そうした時間と空間によって規定

されている知識を︑その細部にわたって集中することができるか︑という問題になる︒計画経済論者は︑これに︑高

度の科学︑技術を用いることをもって答えようとする︒しかし︑科学的知識にしろ︑ランゲの唱えるようなコンピュ       ︵14︶ーターの使用によっても︑そこには︑自ら限界のあることを認めなけれぽならない︒確かに︑科学的知識は︑少なく

とも︑これまでに様々な検証を経て来たものであるから︑またそうした意味で︑普遍的妥当性をもっているので︑こ

れを組織化したり︑集中化することは︑かなりの程度可能である︒だが︑科学的知識といえども︑あくまで仮説であ

り︑また︑経済活動に必.直な知識の一部を占めているに過ぎない︒経済活動に必要な知識の大部分は︑個別的︑具体

的な知識で︑科学的知識のように︑組織化︑集中化の困難な知識である︒また︑いかに精度の高いコンピューターを

用いるとしても︑次のようなハイエクの考えは︑妥当するであろう︒それは︑経済活動に必要な知識の中に︑人間の

嗜好をはじめとして︑統計に上ってこない知識があるということである︒それに︑たとえ︑必要な知識を得たとして

もや現実に対応しなくてはならない丁度その時にそれが利用できるかはわからない︒経済条件の様々な連続的変化へ

17

(18)

の対応は︑いかなる科学的知識︑あるいは技術といえども︑競争的市場で価格というシグナルが果す機能には及ばな

い︑とハイエクは考える︒

 このようにハイエクは︑社会に分散されている知識の伝達︑収集︑利用の効率性の面から︑計画経済の非効率性を

論じたが︑ハイエクの批判には︑もう一つ重要な点がある︒それは︑計画経済が首尾よく運営されるには︑社会の様

々な目的の間に︑相対的重要性に関する合意が存在していなくてはならないAということである︒確かに﹁技術的問

題﹂ ︵冨︒げ旨900q8巴胃〇三①ヨω︶であれぽ︑目的と手段に関して一義的な決定をすることは可能であるが︑色々な目

的が競合しながら並存している﹁経済問題﹂ ︵①ooぎヨ一︒冒〇三〇目ω︶においては︑それは不可能に近い︒計画経済を       ︵15︶主張する人々の思考様式は︑その根本において︑エンジニアのそれに似ている︑とハイエクは述べている︒しかし︑

中央当局が︑計画経済を遂行するためには︑目的ヒエラルキーというものを作り︑そして︑すべての人の行為を︑そ

の目的ヒエラルキーに従わせなくてはならない︒それは︑不可能なことを︑強いてするのであるから︑中央当局の恣

意的決定を避けることはできないであろう︒そして︑それは更に︑各人が︑そのように恣意的に決定される中央当局

の目的に従わねぽならないということで︑当然︑個人的自由の問題と抵触せざるを得ない︒各人は︑自分の所有して

いる知識を︑自分の目的のために使用することができないからである︒それ故︑計画経済は︑不可避的に全体主義社

会へと向わざるを得ないであろう︒ハイエクは︑スターリンや︑ヒットラーの方が︑ディッキンソンの﹁自由社会主       ︵16︶義﹂ ︵嵩げO目一9械一9づ ωOO一匹一一ω巳P︶よりも︑現実的で首尾一貫していると皮肉っている︒要するに計画経済は︑社会が一

つの﹁組織﹂ ︵富×一ω︶である場合のみ︑実行可能だと言える︒もともと︑社会主義は︑サンーーシモン主義者の発明し

たものだが︑それは︑会社という組織を︑社会全体に拡大したものであった︒何れにしても︑ ﹁自由の問題﹂は︑計

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(19)

ハイエク社会理論体系の研究(五)

画経済︑社会主義にとって︑逃れることのできないジレンマであることに間違いないであろう︒

 注︵−︶ 出9嘱①閃層閃︒︾こ目げO因09侮一〇ωO窪αOヨ・

︵2︶ 出塁①r周・﹀こ︑︑↓ずoZ舞葺①雪住田ω8蔓︒︷9①津〇三Φヨ.︑冒Oo=①9ぞ凶生国8旨︒ヨ8℃冨ロ巳ロ伽q悔一りω9︵以下︑

  O国℃と略す︶サb︒・

︵3︶ 勺δ円ωO昌輸Z●O二..目げΦ剛同〇三〇ヨO︷<巴二〇一昌けずOω09巴冨けω090一団.矯⁝一つO国℃層弓︒心一●

.(S︶ 出9︒矯①ぎ団●﹀二.︑↓げoZ曽εお9づα国♂ざ﹃団oh一げ①団機〇三①ヨ⁝ぎO国ぎO.ωO山畳

︵5︶竃蕗9いこ︑︑国88巨︒9客巳註︒ロ一旨け冨ωo︒芭凶ωけOoヨヨ呂≦①餌#ず篭⁝ヨO国℃噂娼・︒︒刈●

︵6︶uoσ∬罫=●\.︾Zo80口9二躍9巳ぎく︒︒︒件目︒三無餌ωo︒芭聾国8ぎヨ昌昌⁝冒ω8芭馨国8ぎヨざお鳶も.=ω■

︵7︶ 出90望①吋層国●﹀二︑.日70憎械Oω①昌けωけ曽けΦOh一﹃O一︶Φσ拶けΦ旨⁝一昌 O国防﹁ONO刈●

︵8︶ ヒd帥﹁O昌ρ国二︑︑日70﹈≦一づ﹃茸網O︷℃﹁O住犀O菖O昌一置け﹃OOO=①O江︿冨けωけ9けO評凶昌O国℃噂噂︒N心9

︵9︶国塁︒ぎ男﹀こ︑.目冨津︒ω︒三ω冨8︒=冨∪︒σ讐︒遷⁝冒O国担噂︒卜︒O︒︒一㊤.

︵10︶ ピ餌昌oqo℃O二..O昌一げ︒国ooロ︒ヨ8↓ずoo同盟ohω09巴δヨ召⁝冒O昌けゴ︒国oo昌︒ヨ8目げ①o同矯ohωoo冨臨︒ロ§噛μO器糟娼●窃9

︵11︶ =脚団O閃り聞●︾・℃儀︑目ゴ①勺同Oωo昌酔ωけ餌けOOh酔討OUoσ9一〇旨⁝一目O国勺鰯層・卜⊃ωS

︵12︶前に述べた﹁中央指令経済﹂︵9︒8口霞㊤ロ団αヰΦ90α08昌︒ヨ鴫︶と同じ︵﹁ハイエク社会理論体系研究﹂日参照︶

︵13︶ =9嘱︒ぎ団︒﹀・曽︑︑↓ザ︒℃﹁oωoロけω欝けooh仲げoUoび9酔①︑.り冒O国℃り℃.

︵14︶ ピp昌︒笥ρO二︑.↓﹃oOoヨ灼ロけ︒円凶昌住↓ず︒一≦9﹃犀︒け旨U一づωoo冨嵩ωけ国oo昌︒ヨざ9μO刈卜⊇噂サらO目.

︵15︶ 出︒団︒ぎ聞●﹀二 ︑︑目ずoZ9け二﹁㊦9昌住︼出ω8﹁団oh件げ①勺同09Φヨ︑.⁝冒O国勺︒サら19

︵16︶ =9団︒吋℃団・﹀二一昌巳く乙ロ9嵩ω日帥昌侮国oo目︒ヨ80目ασさμO艀㊤℃O・トコOメ

ロ ハイエクの景気・資本理論

       19第.二次大戦後︑ケインズ経済学が圧倒的な支配を確立していく中で︑ハイエクの経済理論は︑.極く少数の経済学者

(20)

を除いて︑殆ど忘れ去られていた︒だが︑七〇年代に入って︑各国がスタグフレーションに見舞われ︑ケインズ的処

方箋では︑十分これに対処できないことが明らかにされるに伴い︑ハイェク理論に対する再評価の動きが出て来た︒

上に述べた︑市場を情報システムとする理論は︑その中で特に注目されているものであるが︑しかし︑彼が大戦前

に︑最も力を注いだ景気・資本理論も︑今日の時点から見ても︑決して無視し得ない理論である︒ハイエクの景気・

資本理論で重要なのは︑その貨幣分析であって︑それは︑市場を情報システムとする理論と密接に関連していると思

われる︒   ω 生産構造論

   ・:﹂       ハイエクの景気・資本理論は︑オーストリア学派の伝統を受   一   ・       け継ぎ︑更に発展させたものである︒ハイエクは︑景気変動の   叩:.  段⁝       オ  過程を︑オーストリア学派の伝統である生産構造論と貨幣下側       貝

図1     原始的生産手

r  一 一  一 「 一 一 騨  一P 層  一 一  「 胃 8      巳      1      亀 1      5      「      9 L 一 _ 曽 」 _ 曽_ _L __ _ 層■_

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宦@  r  一  一  r   一  一  一   一  鴨

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@ :

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24

32

40

中間生産物︵資本財︶

(完成)財臼

歯の変化との関係から明らかにしょうとした︒生産構造論の基

となっているのは︑迂回生産の理論であるが︑それは︑近代の

技術の発達︑資本量の増大といったものを背景としていて︑生

産量と迂回期問の長さとに注目したもので︑極めて現実的な理

論だと言える︒

 さて︑ハイエクは︑べーム・バベェルクの資本理論に基づい

て︑生産構造の変化︑即ち迂回の程度を異にする生産方法への

20

(21)

ハイエク社会理論体系の研究(五)

      ︵1︶移行が︑どのような問題をもっているかを次のように説明する ︵図−参照︶︒図1の一番上に点線で解れている長方

形は︑本源的生産手段︵土地︑労働︶を表わしている︒斜線の入ったところは︑各生産段階において︑本源的生産手

段を購入して生産される中間生産物︑または資本財である︒そして︑一番下の長方形が︑その期間における消費財の

産出量を示している︒本源的生産手段と資本財が上から下へと流れるのに対し︑貨幣は下から上へと反対に流れる︒

またここでは︑完全雇用を前提としているので︑中間生産物はすべて完成消費財になる︒更に︑この生産期間におい

ては︑貨幣量が一定であるとされているので︑下中の数値は︑各生産手段および生産物の価値を表わしているぽかり

でなく︑それらに費された貨幣の数量も示している︒従って︑消費財に費される貨幣量と中間生産物に費されるそれ

との割合によって︑消費財の需要と中間生産物の数量の関係を表わすことができる︒

 ところで︑ハイエクが問題としたのは︑かかる生産構造が変化する場合︑つまり︑迂回の程度の異った生産方法へ

と移る場合に︑それが︑自発的貯蓄︵<o冨昌$曼鍔くヨσq︶によるか︑あるいは︑貨幣量の変化即ち︑信用創造︵︒〒

①僻菖︒昌︒︷自︒αδによるかで︑いかなる結果の相違をもたらすか︑という点であった︒先ず︑前者の自発的貯蓄に

よった場合について述べてみよう︒いま消費者が︑消費に向ける貨幣量四〇のうち︑一〇だけを貯蓄に向けるとしよ

う︵貯蓄は連続的に行われると仮定する︶︒そうすると︑消費財需要と資本財需要との割合は︑図1の均衡状態の下

での四〇対八○から︑三〇対九〇︑即ち一対二から一対三に変化する︒そして︑完全雇用が得られるには︑生産段階

の数も︑その変化した割合に比例して︑二から三︑または四から六に増加し︑各生産段階の数値も上から下へ︑四・

三︑八.六︑=一・九︑一七・一︑二一・四︑二五・七となり︑合計九〇となるであろう︒この変化が︑生産構造の

長期化に外ならない︒自発的貯蓄が連続的に行なわれ︑生産構造の長期化がはかられるならば︑完成消費財はより低

21.

(22)

い生産費で生産されるようになる︒であるから︑消費財需要に向けられる貨幣量が減少しても︑消費財部門は何らの

損失を受けない︒つまり︑自発的貯蓄による生産構造の変化は︑景気変動を伴うことなく進行すると考えられる︒最

初の間は消費財に向けられる貨幣量が減少するので︑消費水準の低下は避けられないが︑生産期間の長期化によって

生産力が拡大するから︑実質的な消費水準は上がる︒

 次に︑銀行の信用創造によって︑生産構造に変化がもたらされた場合はどうであろうか︒いま︑企業家に信用が四

〇供与されたとすると︑消費財と資本財との需要の割合は四〇貫首○︑即ち一対二から︑四〇対=一〇︑即ち一対三

に変化する︒この場合も︑生産段階の数は四から六に増加し︑・各生産段階の数値も︑上から下へ︑五・七︑=・      ︵3︶四︑一七.一︑跳鼠・八︑二八・六︑三四・三となり︑合計一二〇となるであろう︒こうして︑社会における貨幣量

は一六〇︵二一〇+四〇︶となるが︑消費に向けられる貨幣量は四〇のままであるので︑社会における貨幣量に対し

て︑消費者が自由にでぎる貨幣量の割合は︑%から%に低下する︒それは︑消費者が自ら進んで貯蓄を行なって消費

水準を引き下げるのと同じ結果をもたらすことになり︑ハイエクは︑これを強制貯蓄︵8﹁8q 窪く冒αq︶だとしてい

る︒確かに︑強制貯蓄による効果も︑自発的貯蓄の場合と同じく︑消費の節約と生産量の拡大という結果をもたら

す︒だが︑ハイエクによれぽ︑銀行の信用創造による生産構造の変化は︑自発的貯蓄による場合と違って︑常に混乱

を伴い︑早晩破綻せざるを得ないという︒

 信用創造によって投資された貨幣は︑やがて消費者の新しい所得になって︑消費財に向けられる貨幣量の割合︵社

会における貨幣量に対する︶ははじめの%になる︒従って︑貯蓄に向けられる貨幣量は一〇六・七に減少するので︑

資本財に向けられる貨幣量と消費のそれとの割合は二対一となる︒これは︑生産期間の短期化を促がす︒その結果︑

22

(23)

ハイエク社会理論体系の研究(五)

生産段階の数は六から四に減少し︑各生産段階の数値は上から下へ︑一〇・六︑二一・三︑三二・○︑四二・六とな

︵4︶る︒それは︑生産段階が四つになっているが︑各段階で使われる貨幣量は前よりも増加している︒もし︑不況の原因

である迂回生産の短縮化を避けなければならないとすれぽ︑再び信用供与が行われねぽならなくなる︒生産段階を六

段階に維持しようとすれぽ︑五三・三︵一六〇−一〇六・七︶の信用供与がなければならず︑次には︑七一・一の信

用供与を必要とする︒かくして︑インフレーションは避けられず︑経済は混乱し︑破綻へと向わざるを得ない︑とこ

のようにハイエクは論ずる︒

 要するに︑ハイエクは︑自発的貯蓄による場合のみ︑経済の順調な進行が期待され︑信用創造による場合には︑経

済の混乱︑破綻は避けられないというのである︒

  .㈹ リカード効果

 以上のように︑ハイエクは︑オーストリア学派の伝統に従って︑景気変動の過程を︑生産構造の変化によって説明

しようとしたが︑しかし︑そこで展開されている理論は︑アングロ・サクソン系の経済学が教えるところと著しく異

なり︑一見︑逆説的に思われる程である︒普通︑アングロ・サクソン系の資本理論においては︑資本財需要は︑消費

財需要と同じ方向に変化すると説かれている︒所謂﹁加速度原理﹂ ︵碧ooδ冨二〇昌胃貯08一①︶という考えがそれで

ある︒これに対し︑オーストリア学派の伝統に従うハイエクは︑資本財需要は消費財需要と反対の方向に変化する場

合がある︑と考える︒そしてこの考えは︑ハイエクの景気理論の中心的位値を占めるものである︒だが︑この考えに

は︑既に述べたように︑完全雇用という前提があって︑極めて非現実的なため︑ひどく説得力を欠くことになった︒そ

こでハイエクは︑不完全雇用下においても︑この考えが妥当することを︑ ﹁リカード効果﹂︵↓ゴ︒困︒舞畠︒国自09︶

2亀

(24)

 図II

リカード効果

A 労働の臨月 2年 1年 6ヵ月 3ヵ月 1ヵ月

B 毎回転の最初の利潤率

kすべて年6%ノ 12% 6% 3% 1壱% ム%

C 物価ヒ乙鳥の利潤率 14% 8% 5% 3者% 2毒%

D その年利潤率 7% 8% 10% 14% 30%

なる概念をもって説明した︒

 ハイエクのいうリカード効果とは︑ ﹁賃銀の上昇は資本家をして労働の

代わりに機械を用いせしめるであろう︒また︑その反対の場合は︑その逆      ︵5︶となる﹂︑というものである︒それは︑D・リカードの理論に基づくもの

で︑リカードによれぽ︑機械はしぼしぽ賃金が上昇するまでは使用され得

ない︒そこで︑消費財需要の増大が資本財需要の減少をもたらすことを︑

リカード効果を用いて説明しよう︒いま︑図皿のように財貨を市場に出す       ︵6︶までにA欄のような期間を要する五つの産業があるとする︒そして利子率

を年六%︵最初の状態においては︑労働に投下される資本に対する年利潤

率は︑利子率に等しいと仮定︶とすると︑B欄のような利潤が得られる︒

しかし︑貨幣賃金が不変であるのに反して︑生産物の価格がすべて二%だ

け上昇︵実質賃金の下落︶するとすれぽ︑さまざまな労働に対する利潤率

に及ぼす結果はC欄のようになる︒これを一年に直した利潤を求めるなら

D欄のようになるであろう︒以上から︑迂回の程度の低い産業ほど︑物価

が上昇した時︑利潤率が増加することがわかる︒そしてハイエクは︑この

ようなリカード効果が最もよく作用するのは︑消費財価格が上昇し︑実質

賃金が下落する︑好況の後半の段階であると考える︒即ち︑好況の後半に

24

(25)

ハイエク社会理論体系の研究(五)

おいて︑機械に代わって︑不完全雇用にある労働が用いられ︑機械などの生産手段の過剰が現われる︒これがハイエ

クのいう恐慌である︒

 消費財需要の増加が資本財需要を増加させず︑反対に減少させるというハイエクの考えには︑また︑いま一つ︑信

用供給の不完全な弾力性︑ということが前提とされている︒つまり︑消費需要の増加に比例して︑資本財需要を増加

させるような程度に︑信用供給が弾力的でないという意味である︒ハイエクは︑信用供給の弾力性が完全な場合も考

察しているが︑それは非現実的であるので︑ここでは︑信用供給の弾力性が不完全な場合を述べるに止めておこう︒

ハイエクはここで︑利潤という用語を避けて︑内部収益率︵一﹈口け①﹃一P四一 吋Φ一Φ Oh ﹃Φ一=同昌︶という用語を使っている︒内

部収益率とは︑純収益の全資本に対する年比率である︒ハイエクによれば︑利子率は市場によって決まるが︑資金需

要の増加に応じて︑即時に比例的に変化しない︒従って︑リカード効果をもたらすのは︑利子率ではなく︑内部収益

率だと考える︒内部収益率が各企業の投資を支配し︑しかもそれは︑殆ど変化しない利子率よりも高いからである︒

だから︑内部収益率の上昇は︑一般的に︑より迂回の程度の低い生産方法へ移行し︑またその程度も各企業の内部収       ︵7︶益率の変化に応じて異なる︒

 ハイエクは︑好況︑特にその後半についてリカード効果によって︑詳しい分析をしているが︑不況についてはあま

り関心を示していない︒それは︑不況が好況の単なる反作用︑あるいは生産構造の調整過程に過ぎないものと考えて

いるからであろう︒それ故︑不況に対しては︑いかなる介入も︑事態を一層悪化させるだけであるから︑これを放置

しておいた方がよいという︒つまり︑均衡状態は︑銀行が︑信用創造を行わない限り維持されると考える︒このよう       ︵8︶なところがら︑J・ピックスなどにおいても見られるように︑不況時には︑ハイエクの政策は適切でなく︑ケインズ

25

(26)

的政策の方が採られねぽならない︑といった見解が出てくるのである︒けれども今日のように︑スタグフレーション

が進行している場合には︑どうであろうか︒それが︑不況時における︑安易な信用膨張政策によってもたらされたも

のであれば︑ハイエクのリカード効果の分析は︑少なくともそうした政策に対する批判的議論として役立つだろう︒

 しかし︑今日のハイエクの経済理論に対する関心にも見られるように︑彼の生産構造論︑リカード効果などは︑も

っと積極的に評価されるべきであろう︒

  面 ハイエク経済理論の再評価

 繰り返し述べたように︑第二次大戦後のケインズ経済学の圧倒的支配の中で︑ハイエクの名は︑久しく経済学の分

野において忘れられていたが︑最近︑ケインズ経済学の衰退に伴い︑ハイエクの経済理論に対する伊野価の動きが高

まって来た︒ピックスは︑最も早い時期に︑ハイエクの経済理論を再評価した一人である︒ピックスの再評価は︑広

い意味でいえぽ︑オーストリア学派に対する再検討の一部として行なわれたと見倣してよいかと思われる︒彼は︑生

産構造論とリカード効果について︑慎重な検討を加え︑景気が過熱し︑インフレーションが進行している時には︑ケ

インズ的政策は有効でなく︑ハイエクの経済理論が妥当すると論じた︒だが︑ピックスは他方で︑上にも述べたよう

に︑不況時には︑ケインズ的政策の方が有効で︑ハイエク理論の不適切さを指摘した︒ハイエクは︑このピックスの      ︵9︶批判が︑現代の経済学に共通して見られる誤謬に基づいたものだとして︑再批判を試みた︒その再批判の主要な論点

は︑信用創造︑つまり貨幣量の増加が︑経済全体に及ぼす効果についてを廻るものであったが︑それは︑後に︑ ﹁貨      ︵10︶幣﹂ ︵ヨO口①嘱 O﹁ O段H同Φ昌O曳︶を︑価格がもつ情報機能を最も正確に果たすものとする考えへと導いた︒即ち︑ハイ

エクによれば︑信用創造によって︑貨幣量が増加することにより︑そうした貨幣のもつ情報機能を妨げ︑相対価格の

26

(27)

ハイエク社会理論体系の研究(五)

歪みを生み︑それが資源︑労働などの需給関係を誤った方向へもたらす︒インフレや失業は︑その結果として起こ

る︑このようにハイエクはいう︒しかし︑先に述べた生産構造論から︑かかるハイエクの考えを出すには︑一ここで

はこれ以上立ち入らないが1単に迂回期間の長期化︑あるいは短期化といった面からだけではなく︑もっと複雑な説

明が必要となろう︒

 経済学の主要問題が︑社会に存在している﹁知識﹂の問題であるというハイエクの考えを再評価し︑それを更に発

展させようとしているのが︑A・レイヨンフープッドや一・M・キルツナ!︑¢●勺.○.Uユωoo=.冒などである︒彼

らは︑ピックスが再評価したのは︑ハイエクの経済理論の一部であって︑そのより重要な部分は︑﹁知識﹂の問題であ

ると飯魏︒レイヨンフープッドは・そうした視点から・ケインズ経済学に新しい照明をあて・キルツナーも馬それを企       ︵12︶業家の問題と関連づけて︑それぞれハイエク経済理論を発展させている︒最も注目されるのが︑O︑Uユω8一一で︑彼は       ︵13︶経済学の主要問題を﹁調節問題﹂︵80a首9︒昌︒づ買〇三①ヨ︶であると捉え︑そうした考えから︑ハイエクの経済理論

を高く評価し︑その発展を試みている︒何れにせよ︑ハイエクの経済理論の最も重要な部分は︑彼らの言うごとく︑

知識の問題にあることは問違いない︒分業が高度に発達している社会では︑知識が社会に広く分散しているので︑い

かなる人︑またいかなる機関も︑そのような知識を︑集中して所有することができない︒それは︑人々の経済活動に

必要な知識が︑科学的知識とは違って︑個別的︑具体的な知識だからである︒それ故に︑経済学︑即ちハイエクのい

うカタラクティックスの主要な問題は︑社会に広く分散している︑そのように経済活動に必要な知識が︑いかにして

伝達︑収集︑利用されるか︑それがどのような方法を採った場合︑最も効率的に行われるか︑ということになる︒      流 ハイエクによれぽ︑社会に分散して存在している知識を︑伝達︑収集︑利用するのに︑最も効率的なシステムが市 2

(28)

場である︒ハイエクは︑市.場を﹁情報システム﹂だと考える︒広告やセールスマンの説得︑とりわけ価格というシグ

ナルによって︑社会に分散されている知識は︑伝達︑収集︑利用される︒そして︑価格のもつ情報機能として最も正

確に果たすのが貨幣である︒ハイエクのこのような市場を情報システムとする考えは︑フリードマンやブキャナンな

どの自由経済を擁護する多くの経済学者によって次第に受け容れられ︑更に発展せられている︒また︑それは︑単

に︑自由経済の立場に立つ経済学者ぽかりでなく︑ ﹁計画経済﹂を論ずる人々においても︑最も基本的な問題提起と

して評価されている︒が︑ハイエクの市場理論の特徴は︑そうした客観的な側面ばかりではなく︑入間の本性といっ

た主観的な側面からも同時に︑アプローチされているところにある︒

  注

 ︵1︶ 出9望①ぎ聞・﹀こ℃二8ω画昌匹勺δ含︒菖︒炉HOωピO●藍・

 ︵2︶ 守奔幅や●鵠・なお以下の説明において︑一谷藤一郎﹁オーストリア学派経済学の新展開﹂︵﹃経済学説全集L⑳昭和三十

   一年︶同﹁消費財需要と資本財需要との逆行関係一特にリカアドォ効果について﹂︵﹃ハイエク資本の純粋理論﹄に付載

   してある﹁訳者後期﹂昭和二十七年︶︑矢島保男﹃貨幣と金融﹄︵昭和五十年︶などを参考にした︒

︵3︶

︵4︶

︵5︶

︵6︶

︵7︶

︵8︶

︵9︶

︵10︶ 一σ三二喝・9●一σ乙・︾眉.αO.国四︽oF喝・諺二℃3h詳9一5け2$一僧コ匹ぎく︒馨ヨ︒づrHりω㊤℃戸Q︒・一σ筐二〇・O.出拶団︒ぎ閃●︾二ぎ島く乙§一冨ヨ9昌餌 国8昌︒ヨざOa①び日OおbO.8㎝一︒︒●出ざ閃9一二〇ニユ8一国ωω9誘ぎ﹈≦o昌9曽団日﹃8蔓℃戸83掌b⊃嵩.出ρ図①〆男︾・植 Zo≦ω言巳︒ωお刈Q︒︾Pδり1目録︒国鎚︒ぎ劉単二uo§自§甲山δ彗ご昌oh寓80ざHO刈①・参照︒また︑拙稿﹁ハイエクの﹃貨幣の非国有化﹄案﹂︵﹃世界経

28

(29)

  済﹄昭和五十二年四月︶も参照されたい︒

︵11︶ ピ︒ご8ゲ坦くロ阜﹀二〇幽閑①団昌Φω冨昌国8昌︒ヨざの帥昌α爵︒国oo昌︒ヨ一〇ωoh国︒団長乙︒

︵12︶ 閑冒Nロ︒さ一.竃二知︒﹁oo箕一〇POOロ自ε巳δ.℃きα℃3hぞH㊤刈O.参照︒

︵13︶ ○.Uユω8貫9国冒二国8昌︒ヨざω器908円巳§二§勺δ窪︒ヨH皇尊O.ま. 一〇①OQ℃P軽O一︒

む す び

ハイエク社会理論体系の研究(五)

 ハイエクが︑現代の経済学になした貢献の中で︑経済学を知識の問題として捉え︑情報システムとしての市場理論

を展開したところに︑その最も大きな功績が認められる︒従って︑最近のハイエク経済理論に対する再評価が︑そう

した側面から行われているのは当然のことである︒しかし︑これまで述べて来たところがら明らかなように︑知識の

問題はただ︑経済学だけの問題ではなく︑社会科学方法論︑自由の問題など︑あらゆる面で︑ハイエクの社会理論体

系の中心的位置を占めている︒他言すれぽ︑ハイエクの社会理論体系は︑知識の問題を中心に展開されているといっ      ︵1︶てもよい程である︒要するに︑ハイエクの社会理論体系は︑ ﹁抽象的なるものの優位性﹂という認識論と︑この知識

の問題に基づいて体系化されている︑とわたしは考える︒そして︑それによって︑現在いかなる人もなし得ていない

社会科学の総合化に︑それなりの成功をもたらすことができたのである︒

  注

 ︵1︶ 拙稿﹁ハイエク社会理論体系の研究﹂四︵﹃早稲田社会科学研究﹄第二十号昭和五十五年二月︶参照︒

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参照

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