月と日と天上神座 : 沖縄での思考
著者 中村 哲
出版者 法政大学沖縄文化研究所
雑誌名 沖縄文化研究
巻 6
ページ 55‑103
発行年 1979‑06‑30
URL http://doi.org/10.15002/00013101
月と日と天上神座
|
|沖縄での思考
l
ー中 キ ナ
哲
宮古島の月神
年の今日になって︑ 一九四五年に不幸な政治の犠牲となっ
たネアスキーの吋伝記﹄とその宮古
島の歌謡研究が戦後三十
︵l︶ ソ連において公刊の運びとなった︒これは加藤九一昨の解説による岡正雄編ネフス キl著﹃月と不死﹄のなかに︑一足早く日本語によって︑ひとびとの目に触れることになっていた西 比利亜系シャーマニズムの東方に及んだ信仰の研究で
ある︒このなかで︑彼はロシア文学の伝統であ
る生を讃美
し︑太陽を讃えるモチーフが中国や日本においては欠如しており︑かえって物化びし気な 月への感傷がその文学の特徴となっていることを挙げて︑ここに中国人及び日本人の潜在的な感情が 月に向けられていることを描写している︒日本における月の擬人神は月読尊として知られており︑そ
の意味は﹁時を算へる者﹂の意味であるとして︑日の女神である天照大神の弟とされていることに注 目する︒月神の﹁影が薄いのは古代記録作成者に特別の理由があったのであろう﹂と大へん控え目に
語り︑日神伝説が月神の存在を︑その背後に押し隠してしまった由来を指摘している︒日本木島にあ
ってすでに消滅した幾多の古代伝承は今なお︑沖縄列島においては残されており︑とくに宮古群島に
おいて︑月に対する始原の人々の信仰が発見されると彼はいう︒
宮古群島の多良間烏の伝承では妻である月の光りは夫である日の光よりも︑もとは強く明るいもの
であったといわれ︑大和神話においては姉なる日神と弟なる月神となっているのに︑ここでは夫婦と
︵2︶ されており︑それにはさらに日蝕月蝕の説話が結びついていることを探索している︒そして︑これに
は人聞は若返えらないが︑冬眠し脱皮する蛇と循環する月の不死とを対照させて︑﹁月又は天帝が永
久の世命を布告する者として使者を人間に遣した﹂として︑月崇仰が北方シャーマニズムの系統をひ
く島々の人間の始原的なれ仰であったことを追究している︒
農耕社会の形成される以前の狩猟民族の現俗を︑西比利直シャlマンに発して︑同系統のアイヌ族
とつらなる日本のん土地域にわたって︑その原信仰を﹁月神信仰﹂のなかにみようとする︒それは農耕
の政治社会の神話が太陽を尊草するのあまり︑月の固有信仰を圧殺してしまったことを詰ろうとする
ものに他ならない︒南西諸向の歴史においては政治国家の形成と結びついた日神信仰の尚王朝支配が
宮古島には︑及︑はぬところがあって︑この離島には月神の原信仰がのこされているというのである︒
彼の研究活動は大正初期のことであって︑当時の日木は天照大神の政治神話の強い時代であったから︑
日本神話についても︑月神が︑日の神である天照大神の弟とされることになっているのは︑﹁古代記
録作成者に特別の理由があったのであろう﹂と疑義のあることを焼山に話っていることを発見する︒
月神については折目的夫が﹁琉球国王の出自﹂のなかで︑詩情をこめて語った佐敷の月しろの雰石
︵リJ﹀祭記についての思考があり︑また︑これについては伊波普俄の﹁っきしろ考﹂がある︒月しろという
言葉については︑月白という漢字があてられているが︑これは月神の滋依するものという意味である
ことは︑伊波の述べることで︑形しろ︑霊しろと同様によりましの意味であった︒琉球木陪において
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
は︑日神のてだしろと対称的にいわれているのが月しろで︑てだしろ︑っきしろといって太陽と月の
神が並列的にいわれており︑必ずしも月が本原的には上位の神として取り扱われているものではない︒
・3たきには離品の沖永良部の御獄について
﹁お
もろ
﹂
﹁月しろの大主山端治めかちへきくゃなき獄から
上がて照る月しょ否が成さが
え
上がる様にせひき永良部照る月しよ﹂ハ船ゑとやひき
のお
もろ
御さ
うし
︶と
あっ
て︑
自然観察をこめて詠っているものであるが︑月が下界の﹁山端治めか
ちへ﹂といって︑月神が夜の世界を支配することを詰っている︒これは永良部島について詠っている
もの
であ
るが
︑
また八市一山のおもと獄の神女が久米島に降りて︑﹁世直し﹂することを求めた﹁おも
ろ﹂にも︑最後のくくりが﹁船子選で乗せて手柑選て乗せて月の若清らがてだの若清らが﹂と
いって︑月を太似の前に︑あたかも優先するように詠っている︒これは多分に文学的な表現とは思う
が︑これが沖縄本向のことではなく︑離昂の品人の心的であることは︑宮古島と同じように︑尚王
の太陽信仰の及ばぬ小品には︑月神が優先する原信仰をのこしているという証明になるのであろう
か︒あるいは︑尚王朝が太陽信仰を振りかざしていることへの離島の傑かな抵抗であるのかとさえ
の思うのは︑思いすごしであろうかGもっとも凱旋に詠われたものと訴っている﹁おもろ﹂の一つに
﹁月
しろ
はさ
だけ
で︑
物知りはさだけて﹂と結んでいるところがあり︑﹂こでは太陽が述べられてい
ないのは︑夜の情景を文学的に語るためであ
るか
もしれない︒また﹁おもろ﹂には﹁望月﹂と﹁月の
数﹂に触れた伺処がそれぞれ若干の個処にあるが︑それは深い意味から語られているようにはみえな
ネアスキーの注目する月に対する崇仰は︑この島々の太陽信仰に比べると比較い︒こうしてみると︑
にならないもののように思われる︒﹁月の数﹂は﹃記紀﹄にいう﹁月読﹂といわれる言葉
と類似した
発想とみられるが﹁一つ山紀﹄の伝承では月読命は夜の国だけでなく︑ものみな死する国の支配者として
描かれている点が特徴的である︒
﹃古
事記
﹄
イマ
シミ
コトオスには月読命に対しては伊邪那伎命は﹁汝命は夜の食国を知らせ﹂と語り︑建速須佐之男命
には﹁汝命は海原を知らせ﹂として︑前者は夜を支配し後者は海を支配するものと命じている︒月読
の﹁読﹂が黄泉のヨミと同音であることからして︑黄泉すなわち死者の国である根国と同一であ
り ︑
批の国︑根之堅津国といわれるものにかかわりあるという説が江戸時代の国学者の問には語られてき
︵4
﹀ う る は つ な ら
た乙しかし︑﹃日本書紀﹄には月の神が﹁其の光彩しきこと︑日に亜げり︑以て日に配べて治すベし︑
故︑亦天に送りまつる﹂とあり︑ここに注して﹁一書に云はく︑月弓尊︑月夜見尊︑月読尊といふ﹂
とあって︑必ずしも月誌という漢字にこだわっていないことが判るQネアスキーもいうように︑月の
観念には︑その暦である大陰暦に関係があって︑そのために﹁月読﹂とか﹁月の数﹂という観念が結
中同の神話にも︑﹁月に弓形あり﹂として弓を射ることに結びついているものにちがいない︒また︑
びつけるものがあるが︑これは三日月からの連想でわが国においてもツキヨミが月弓神だとすお異説
の出てくる理由であろう︒
﹃日本書紀﹄においては顕宗帝三年の記事に月神が人に窓依して︑わが祖である高皇産主尊の功によ
って︑月神を祭り︑祭岡を設けよといい︑ついで日神が︑高皇産主尊のために祭田を設けよといって
いるところがあるが︑それは︑天皇氏の政治祭記である天照大神が最高神として設定される以前には
月神が日神に優先するものであった原信仰を伝えているかのようにみられる︒ネアスキーは官古群島
の多良間島では︑始原の時代に妻である月の光が夫である日よりは強く明るいものであったことを示座す民話の残っていることをのべているが︑これは母権制社会の先行したことを物語るかのようである
Q
天
M
月 と 井 ﹂ 沖縄列島においては︑それまで地方の支配者を讃える言葉としていわれた太陽のテダの品小一人称を尚王
権の成立とともに︑独占したように︑大和王朝が天照大神という名の日神信仰を独占したが︑それ以
前一
には
︑
各地方において天の日を名乗る日神信仰が行われていたのである︒たとえば︑吋天神本紀﹄
には天日神命対馬県主等の杭として︑この離島には天皇支配が成立してからでも日神信仰をのこして
ハ5 v
いるし︑また月神の伝仰も︑ここにあったと伝えられている︒ネフスキ!のいうように︑日本の鳥々
月への愛情が文学的感情として強くみえるにもかかわらず︑﹃記紀﹄
こ干
h
︑ t t
の神話などが月神伝仰を日神信
仰の
陰に押し
やっ
てしまったのであるとすれば︑それは古代史記録の編集者たちが天泉統治
正統性を示すために︑日神信仰を独占していったからである︒
﹁お
もろ
﹂
においては日に先ずるかの
ように月を詠ったものを︑なおいくつかみることができる︒﹁阿嘉のお祝付きや鏡波のお祝付きや︑
月てだの様に︑照で︑師ちよわれ︑夜は月照る︑尽
一は
て
だ照る
月てだ様に﹂︵八
巻四
五九
︶
とも詠っている︒ 月の様に︑月や穏し人てだは世の
主
月に対する信仰の特徴は︑その充ち欠けるなかで循環して
︑氷
久に
そ
の存在をつづけてい
ると
いう
とにある︒ネアスキーは︑また︑この循環にあたるものを生物の脱皮現象と結びつけて︑官古島にあ
る蛇と月とを結ぶ民訴に日を向けている︒そして︑この二つを媒介するものとしてアカリヤザガマと
いう名のものが天から長い旅をして降り︑ふたたび天に昇って︑蛇の仕草を報告することを述べてい
る︒現在︑宮古訴の﹁ガマ﹂は接尾辞とされているが︑この場合の﹁ガマ﹂は蛇に対する批判者であ
り︑被害者でもあるガマのことではないかとも思う︒月の中の斑点をガマとみる思想は︑兎とみる発
想と並んで︑中岡など
には
ある
︒
﹃惟南子﹄には﹁月中に炉H蛤あり﹂といっており︑これは私の解釈
では︑月と蛇とが結びつけられたとき︑蛇の犠牲となったガマを月神が永遠に救済し︑陵く労わる姿
に他ならないと考える︒劉向﹃五経通義﹄には﹁月中兎興的除﹂と
あっ
て︑兎とともに︑月の斑点に
︵6︶ 舵蛤を加える説話が中国にはあるが︑日本には︑あまり聞くことがないuもしこのガマの民話が宮古
島の伝承にみられるとすれば︑それは︑沖縄本島とは違って︑この大陸との関係が深かったことに原因
するのであるうかω古代日本では桓武帝のとき︑大陸からの渡来の豪族であった秦氏の勢力下にあっ
︵7︶ た山城に︑平安京を創ろうとしたとき︑ガマの大群が南下して移動したという口碑がのこされているQ
これも土地神である蛇神の身に振りかかる災難があって︑ガマ︑がそれを恐れて︑当時盛んであった社
会不安と結びついて怨霊思想が流布した時代がある︒月の不死に蛇︑蟹︑附暢の脱皮現象が知推され︑
この二つを結びつける原始の思考はひろくフレーザーの挙げる事例であるが︑それだけでなく社市天
︵UP︶ は越市︑英領ギアナ︑太平洋諸島にひろくみられることを報告している︒そして︑蛇の不死と人間の死
が対照的に考えられて︑蛇の不死が実現したために︑人間には死が漏らされたという敵対関係の民話
が多いのは︑原始生活において︑住民たちは︑いかに多く蛇の害に悩まされたかを物語っている︒
ネアスキーはこの種の太平洋系の民話を沖縄の離島に見出すとともに︑四比利亜︑北海道をへて︑
白人系の神とされている﹁オシラ様﹂や白神の信仰をシャーマニズム文化の南下の実態として︑南西
諸島にも求めようとするもので︑その際︑﹃琉球国旧記﹄にみられる神々の名として真志日威部︑白
良姑威部︑真白姑威部︑石良姑威部︑石良呉真白粉威部︑石多呉威部︑石中呉虎威部の木休が何もの
︵9﹀であるかについて︑追い求めようとしているが︑結論を出すまでに至っていない︒が︑これは不幸な
最後をとげたために︑彼にとっての永遠の課題となったのであるu
注︵1︶︑不アスキーは︑東北地方の米訪神﹁おしらさま﹂︑白山神社のい仰などに︑白人漂流のあとをみよう
とするもののようにみえる︒彼の伝記については加藤九昨﹃天の蛇﹄がある︒ソ連の政治の犠牲とな
といわれており︑一
九六
二年
に復権して︑今日のレ1
ニングラ
lドの東持研究所は︑彼の﹁両足品研究﹂
と日本研究の伝統を継いでいる︒
︵2︶共に寝ている夫が妻に片足を投げたとき︑月蝕がおこり︑妻が夫に川知びたとき日蝕が現われるとして
夫が目︑妻が月とみられている︵ネアスキー﹃月と不死﹄東洋文庫︑六頁三
︵3︶﹃伊波普猷全集﹄第五巻一二九頁参照﹃おなり神の島﹄の
一文
︒
ザ サ ラ
ハ4︶平田篤胤は月読命が黄泉の同に関係あり︑﹃万葉﹄六巻に月を︑止して︑その別名を佐散良長衣壮土と
サ ラ エ
あることを以て︑佐々良衣はさすらうことであって︑根の国に漂遊する素昆之列命と同一人であるという
説に傾いている︵天説弁々・下巻﹃ポl問篤胤全集﹄第七巻・名著山版社・四七頁︶
︿5﹀顕宗紀三年の項で月神の祭田は山城国葛野郡葛野坐月読神社のことであり︑日神のことは川じ持野郡
木山坐天照御魂神社のことで
︑い
づれも壱岐と対馬にあった月神と日神をここに移したものとみられてい
るο日神信仰が伊勢神宮に独占される前の状況が︑これによって推測されるUここでは︑日神も月神も共
に﹁我祖高皇産霊﹂とあって︑ここにいう高皇産とは天の創造神をいったもので︑これが﹃古山中J
山﹄
いては天御中主尊にあたると思われる︒
︵6
︶山
h.誠彦﹃支那神話伝説の研究﹄八四頁︒山石は︑これが後に陰防司と結びついて﹁月除也的︑
也而興兎革明陰係陽也﹂という説となったというοなお︑出石は的蛤が水に紋があり︑請耐の祭儀に用い
られることをいって︑水を月の精とするためではないかというが︑そうではなくて︑私はこれも雨乞が蛇
と結びついて︑その犠牲となることに原凶すると考える︒
︵7︶佐伯有消﹃日本古代の政治と社会﹄二
O
四頁
︒
ハ8︶杜而天﹃昆尚文化興不死観念﹄︵台湾・学生書房︶一五八頁︒一六
O
頁以
下む
︵9︶M
・ネ
アス
キー
﹃月
と不
死﹄
一四
七頁
︒な
お︑
彼は
沖縄
方一
一一
一口
の白
をい
う閉
山口
は 12 um
巳2
ではなかったかという︵五九頁︶︒漢字の素は臼と同じ意味に使用されている場合がある︒ で素色
上帝と星座
台湾の新らしい民俗学者として杜而天は月神が中国における最高神であったとして︑天空神として
の天の信仰とは系統を異にするもので︑上帝とよばれる擬人神は月神であるとする新説をのべているu
西欧には︑太陽を中心に思考するマックス・ミュラ宮
ZZ52
︑ フ ロ ベ ニ ウ ス
?
o
5
の神話学g
己に対して︑月を中心に考察するエlレンライヒ開﹃円
g
﹃忠吾やヴインクラl当宮
島−
2の系統の神話学
があって︑その結論にはただちに賛成できないが︑彼が展開している論述の過程のなかには︑さまざ
まな教一不をうけるものを含んでいるυ天と上帝とが︑その形成過程において別系統の思恕とん
︑る
彼は
祭天の儀礼が周代になってからのことで︑これには牛が犠牲として用いられたにかかわらず︑上帝を
祭る前時代の股においては狸が犠牲とされたのであって︑これが月神を祭る始原の祭配であったと述
︵l︶ べている︒中凶では︑農耕のために欠くことのできない牛を犠牲にすることは︑﹃准南子﹄﹁品山訓﹂
のいうように禁止されているのが建前であって︑これが解除されるのは原則として帝主の祭儀に限定
︵2
︶
︿
3﹀されていたもので︑古代祭儀に用いられるのは︑むしろ犬であり︑さらに洲れば︑人閉そのものであ
った時代がある︒犬は﹃ヘロドトス﹄にみられるように︑古代では食用であって神に奉献する﹁献﹂
の字が犬の芳であることも︑それを物語っていると思う︒﹃周礼﹄には市郊において行う祭りには赤
牛を用い︑陰把には黒牛を用いるとあり︑これは南郊は日神の祭りであるから︑止雨の祭耐と結びつ
にも黒の牝牛不死という思想があって女神山市拝と結くことがあったと思われるが︑﹁老子﹂︵第六章︶
びついている︒周の祭儀においては︑生牛をでなく︑焚いたものであるから︑神とともに共食したも
のであった︒わが国においても︑古代祭儀として﹃江家次第﹄は長雨のあと日を紀る祭りには赤牛を
用い
︑
一山
乞の
祭り
に
は黒牛を用いるとして︑中国流の思想が陰陽道の名で移入され︑その方式
に従
︵4︶ ているが︑これはすでに形式化して︑君主の使用する牛のことになっているQ中国においては︑この
祭出には﹃礼記﹄﹁郊特牲﹂に﹁周礼之法郊天川市柴を始めとす﹂
祭儀を伴っていたのであって︑天に対する意思表示であった︒
とあ
るよ
うに
︑
煙を天空に界らせる
杜而天は周代の祭天思想は太陽に関係があるのに対して︑股代の上官忠惣には月神と関係があると
いう類型化した立論をしている臼これは﹃国語﹄に﹁日祭月享﹂とか﹃初子﹄に﹁日祭月杷﹂とか月
の祭りのあったことを例証として︑股代の上帝思想を周代に入ってからの祭天思想とは
K
別する見方であ
る
υ日を祭り︑月を祭ることはいづれの時代にもあることだが︑それを天と上帝のそれぞれに当
てはめて論証するのは無理があるυ彼はこれらがそれぞれ関係ありといっているにはちがいないが︑
神話の黄帝までを黄金色のゆえに月神を意味するというのは誤りである︒黄帝の黄は中国大陸の黄土
の色から来る古代人の着想としていわれたにすぎなかったと思うQ彼によれば︑上帝
Jh
黄帝も︑月神
を意味するというのであるが︑その論証として﹃惟南子﹄﹁土形訓﹂に﹁有神二人
在其西南方﹂とあるので︑女性の二神がひ︑ちをつらねて天にある上帝を護っているということに目を
向ける︒高誘の注は腎を連ねて大いに呼び合って夜を行く姿であって︑夜番をしている様を述べたも
のと解しているので︑この神は夜も天上にあるものである以上︑月神だという︒そして︑これを立証 連噛為帝
するために︑天の祭儀において捧げられる米が﹁一存二米﹂という特別な種類のものを用いているこ
とを挙げる︒祭りの際の閉﹈酒といわれる祭酒がなぜ二米を要求しているかといえば︑一つの月体の中
に二人の神があることに関係ありというむもともと﹃説文解文﹄には﹁佐﹂は﹁米︑粟実なり﹂とあ
って︑米は当時必しも稲米に限られた言葉でないため︑アワ︑キビの類をいったものとみられている
一つのもみがらの中に突が二つというのは︑農学者にとっては神話の想像にすぎぬと人られてい守︑ ︑
品μ
︿6︶るQ
二女のことは﹃山海経﹄の﹁海内北経﹂に帝舜といわれる天の主宰者の妻が登比氏であって︑これ
が宵月を生み︑二女の霊があって︑よく里を照らすといっている説話にもみられる︒この二女が月を
護るというのは﹃周書﹄﹁武惨篇﹂がいうように三五は盈ち︑一五は附くとして月を二分して月体が
侯 夜
充ち欠ける月相をとらえたものといえるυ﹃惟南子﹄にも登比氏という女神があって︑天の頂点にある
と伝えており︑﹁登比氏乃神是謂大帝之居﹂とあって︑天帝の居る場所に共にある妃という見方をして
いることが判るυこれは後にも述べるように︑天の宮を語っているものであるが︑ここは﹁日中無景
呼而無響︑蓋天地之中山﹂とあって︑太陽が中央に登ったときに呼んでも反響しない世を絶した天地
の中心だというのであるυここでは夜の記述としてでなく︑昼夜をこえて宇宙の中心が天需の頂点に
あるという中国の伝統的な構想に立っていることを発見するω
同じ書の﹁時則訓﹂では︑中国の地形を記述した上で︑その上空に︑その中央の極といわれる場が
︵7︶ 考えられており︑これは伝説上の神山である昆南山の思想と結びつけられている︒天の神と山の信仰
が結びつけられていることであるが︑この構想は中国の原信仰のなかにあったものとして注目される︶
ただ杜而天は︑この路市山をも月神と関係のある月山であるとしており︑このことを割り引きしてみ
ても︑天なる宮殿に神があり︑それと地上とが関係をもっという構恕は中国といわず︑
アジア社会に
ある原思想の一つであることを怨わせるUこのような天上に宮殿ありとする思想は︑占星術と結びつ
いた星座についていわれる場合の基礎になっており︑星であろうと月であろうと地上における君主と
諸侯との関係に類似したものを想定していることが判るQその典型的な主張は﹃惟南子﹄にみられる
ところであって︑これが文献にのこる中国のもっとも古い記録であるυその﹁天文訓﹂は天界を支配
する五
星に
ついて解説して﹁東方は木也︑其帝は太陣︑其の佐は句在︑規を執りて春を治む︑其神は
歳星たり︑其獣は蒼屯︑其点目は角︑其日は甲乙なり︑南は火也︑北ハぃ怖は炎帝︑其佐は朱明︑衡を執り
て夏を治む︑其神は焚惑たり︑其獣は朱鳥︑其音は徴︑其日は川丁なり︑中央は土也︑其帝は黄帝︑
其佐は后土︑縄を執りて四方を制す︑其神は鎮星たり︑其獣は黄也︑其音は官︑其日は戊巳なり︑出
ジヨクンヴ方は金なり︑其帝は小兄︑其佐は持収︑矩を執りて秋を治む︑共神は太白たり︑其獣は白虎︑其音は
カソギヨタ商︑其日は庚辛なり︑北方は水也︑ーハ帝は願墳︑其佐は玄冥︑権を執りて冬を治む︑其神は辰星た
り︑其獣は玄武︑共音は羽︑其日は壬炎なり﹂といっている︒これをみると東西南北が︑
木︑火︑金︑水にあたり︑その中心に土があって︑ここに黄山怖が位して︑それを后土が協力するとい
そ れ ぞ れ
う構想である︒五星といわれるものの中で︑中央に位するものは黄帝で
ある
というのであるから
K
︑ .体の星座を描くことによって︑実は当時の君主制思想を投映したものに他ならず︑それには妃までが
配置されている︒これは当時の天子の地位を天体によって基礎づけようとしたもので︑小島祐馬は解
説して﹁これは天の大微官に在る五帝陸の星であって︑王者と為る者の組先は此五星のいづれかの精
に感じて生れたものである︒すなわちこれらの星は王者たるものの先制の白って出づる所であるとす
る︒この五帝は又上帝とも呼ばれる﹂といっている︒これはまた︑尚松塚古墳等において︑その時面
に描かれているものの原型で︑蒼竜︑朱鳥︑黄竜︑白虎︑玄武の絵耐はこの帝王尊崇の思想を描き付
けたものであったと思われるω中国においては易姓革命により王朝の移動した場合︑そのいづれかの
担が祖先の霊を一不すものとしてその正統性を授ける運命の足であるとするものであった︒後漢になっ
︵8︶ てから︑都玄は︑この五帝の上位に夫天上帝と称する星をさらに加えて︑これまでの同輩中の首席
にすぎなかった貰帝の地位に止まらず︑これらの五星の上に優越する北極紫微宮
中の耀脱宝という星を加えて六天を述べたのであった︒これが後漢以後の説となったが︑天文学的観
同 ︶ ユ
55
宮ZH
吉宮
田
察に便乗して︑星占の呪術思想を盛り込み︑秦始皇帝の中国制覇について︑その正統性を説くために
作りあげた政治的イデオロギーを反映したものであった︒黄帝を中央にすえたことは︑すでに︑老子
の学が黄老から発すといわれていたように黄帝崇拝が道家の思想にあったからであるが︑それだけで
は秦始皇帝の天下制覇を基礎づけるには充分でなかったために︑上帝の上にさらに芙帝上帝という最
高の星を加えたものであったQこの帝という名称からして︑始皇帝が︑王の名称を諸侯もまた名乗る
ようになってきたために︑これとは区別するために用いた称号であった︒
天上の星座に擬人神としての王とその妻があって︑しかも︑その中心に優越する強大な帝王が存在
するということは︑正に︑当時における地上の天子と諸侯との関係を投映したものであることは明ら
かである︒これらの思想的操作は︑大和王朝には陰陽道の名の下にこの中国思想から貸りてくるので
あって︑これまで大王と称せられていた大和王朝の支配者が天皇の名称をもって称ばれることになる
のもこの一連の中国の政治思想があってのことであったο
星座の構図はすでに発達していた天文学の成果を反映するものであったが︑これに民間の宵俗にあ
る星占いが組み入れられたもので︑全体としては︑政治社会の支配態を天上に投映し︑これによって
自らの正統性の根拠とするという仕組みに立っている︒それは︑あくまで︑中国の専制君主制の中央
支配を基礎づけるものであったから︑これを辺境の諸国家がそのまま採用することはなかったQ日本
には陰陽道がこの天上の構図を伝えたとしても︑それはすでに︑中国本来の意味を離れて︑著しく形
式的な思想的装飾に終ることになったQ高松塚古墳における方位図のように︑正に︑それは壁画の模
様として形式化されていることを識るのである︒沖縄の島国においては海洋生活者の日常生活からい
って︑星座には無関心ではなかったと思うけれども︑﹃おもろ﹄
あって︑﹁天に照る星しょ︑足しゅ︑算しよわれ﹂︵八巻四一八︶といって︑星空を詠っている︒これは︑
のな
かで
︑
星を詠ったものは僅かで
沖縄が島国として固有の思想︑文化をまもりつづけたために︑中国大陸の思想は近世に入って︑対岸
からの影響はあったとしても︑星座の知識については︑
ほと
んど
︑
みとめることがなかった︒そのこ
とが逆にいって︑沖縄文化の固有性の強さを意味することでもあったQ
注︵1
︶杜
而天
﹃中
国古
代宗
教系
統﹄
︵台
湾・
学生
書房
︶八
五頁
︒
︵2
︶﹃
国語
﹄﹁
楚語
下﹂
には
大夫
以下
が禁
じら
れて
いた
とあ
る︒
︵3︶﹃呂氏春秋﹄季秋記に天子は季秋の月に白の衣装をもって﹁麻と犬を食ふ﹂とある︒封禅書には︑秦
の嚢公がはじめて諸侯に列したとき西時を作って白帝を洞ったとあるが︑このことに関係があるのであろ
うか
︑飯
島忠
夫は
﹁白
帝金
徳﹂
の縁
起あ
りと
いう
︵﹃
支那
古代
史論
﹄四
四五
頁三
︵4
︶﹃
江家
次第
﹄︵
増訂
故実
叢書
︶ゴ
一七
二頁
︒宮
中祭
儀と
して
︑祈
雨に
は黒
毛馬
一疋
を用
ひ︑
﹁雨
時用
二赤
ちことある︒里山が雨主を怠味することはいうまでもない︒︵5︶女神の伴うこと社而天﹃山両経神話系統﹄︵台湾・学生書一局︶一
O
一 頁 ︒
︵6︶漢の李巡は黒黍のなかで︑一つのもみがらに二つの粒を有するもので︑その別種であるとしており︑
従来クロキビの変種とみられている︵天野一五之助﹃中国農業史研究﹄御茶の水書房・二一頁︶︒︵7︶杜而天﹃昆崩文化問不死観念﹄︵台湾・学生書房︶一六六頁⑥
︿8︶回天天なるものが︑帝の概念とは別な天の概念であることについて︑この論文の第三章の本文参照︒︵9
︶小
島祐
馬﹃
古代
文郎
研究
﹄六
一一
一頁
︒
︵叩
︶﹃
推南
子﹄
﹁天
よ訓
﹂は
仰天
候が
作ら
れて
から
の説
であ
るこ
と︵
飯島
忠夫
・前
掲書
・一
一一
五頁
︶
Q
天と日とロゴス
古代中国にあっては︑
n
然の天空の印象から来るひろがりのある天と︑その中心部にある上帝とは 来歴を異にした別の観念であるが︑天が天なる神あるいは天の意思あるものとしていわれる時代にな って混同されて用いられてきたことも︑また事実であった︒天の象形文字は人が手足をひろげた正.面 の姿を描いた大の字から発し︑この大の上に円い頂点を付けて揃いたものが︑金石文にみられる天で
あって︑人が手をひらいて大の字になった頭のところに︑
より上位なるもののあることを強調したの
であるυ
この部分が後に横の一線となったもので︑金石文では上位にある円形の個処に天の観念のす
べて
が象徴されている︒人を意味する象形文字には︑もう一つの表記があって︑人偏の示すように︑
人を側面からみて足をひらいたところを描いたものである︒しかし天を意味するのは大の文字から作
ハl︶られたものであって︑このため大そのものが︑すでに天の意味であるとする郭沫若の説がある︒これ
が天の自然概念であって︑これとは別の思想系統として︑上帝といわれるものが︑天にある神的なも
のとして︑別に構想されてきた︒上帝はもともと帝なる観念に上の字を付して天に昇った帝であるこ
とを示した観念で︑これには祖先崇拝とかかわりがあり︑上帝は天に昇った祖先であり︑とくに始祖
︵2︶ を意味するものと考えられている︒家父長制社会の形成されたあとに結回附してきた祖先崇拝はその始
祖を祭るものであるから︑上帝は帝なるものの始祖を意味するものと考えるのが正しいと考える︒中
国の金石文には天の文字をかなり私は見受けるが︑論者によってはあまり用いられていないというけ
れども︑そ
うで
はない︒ただ︑中国の思想史において天の思想が強調されるようになるのは周の時代
からである︒それは初期には自然の天空をいう視覚的な概念であったにすぎない︒
︵3︶ これに対して帝の観念は全く別系統のものとして︑深く祖先崇拝と結びついている︒帝の文字その
ものが本来は降神をする祖先神の窓依となるものを示しており︑帝の文字の基礎となっているのは示
の文字であるとされている︒一不が組先をいうとされるのは祖先の霊の宿る位牌の原型だからである︒
位牌は形のあるものであるが︑神が降りて来るときのよりましから形づくられたものであった︒こう
してみると︑天のほうは自然の天空から作られた観念で︑祖先の一室とは関係がないのに︑帝は祖先神
とかかわりがあるという区別があり︑したがって天と帝とは別系統の観念であった︒しかし︑これは
混同されて︑後世においては天の意思あるものをいうときに︑天とも帝ともいわれるようになってい
る︒中国の古代君主にあっては血統主義ではなく︑血統を異にするものが天子の位につくことがある
ので︑この君主の地位に正統性を与えるものが天であった︒天は世襲をただ正当化するものではない
から︑祖先神の観念は関係のないものである︒このことは古代の氏族制社会ということからいえば︑
中国の古代君主は氏族共同体の上に立つがゆえに︑父子という親族の関係によって︑君主が世襲とな
るのではなく︑氏族共同体において︑その聞の力あるものが君主の位につくのであって︑これが中国
では天子とよばれている︒それはひろい意味の同族の原理によるけれども︑世襲ではない︒したがっ
て天子の正統づけは世襲の原理以外の別の原理を必要とし︑このため︑天によって正統性を受けると
いう必要が生じてくる︒天は超氏族的な原理に立っており︑また超血族的であるがゆえに︑﹁凶天
︸大
﹂あ
るい
は﹁
史天
降凶
﹂と
いう
一一
一口葉で︑天が人の親の死を語るときに用いられている口天は︑孝の
天の意思を示すとされており︑ 対象である親にも凶をもたらすという意味でいわれている︒央天は祖先による血統主義とは対立する
血縁者の死をも肯定するのであって︑血統主義とは別の原理であった︒
祖先崇拝といわれるものは生ける孝の思想を死後の祖先に向けたものであるがゆえに︑孝の思想の延
長である祖先崇拝は一神教のキリスト教とも矛盾しないという解釈を中国に入ったキリスト教の宣
師は採用した︒これがジェスイットの見解であって︑この見解に対しては︑同じキリスト教宣教師の
間同 こ士 見込 岡工 ちっ と
Q
f i l J t l i l
儒教思怨はやはり︑ ブランチスカン・ドミニカン派らはこのような解釈をとらず︑祖先崇拝をいう一伺の宗教思想だとみたのであったQこのような論争が生ずるのは︑天なる神の
イスラエル思想を背後にもつキリスト教宣教師にとっては︑中国の天の思想を容認するけれども︑祖
︵5︶ 先崇拝の要素をもっ上帝の思想には寛容であるわけにはいかないというのであった︒ゼェデルブロl
ムも﹃神信仰の生成﹄のなかで︑中国には天と上帝の二系統の思想のあることを認めており︑欧州に
︵6﹀おける中国思想の研究には︑このことが中心の問題とされてきたのであった︒
それでは︑中国においては日神崇拝がなかったかといえば︑少くとも︑有史以後の中国思想史に登
場する上帝の観念は太陽とは関係のないものであり︑また天の祭記も結びつくものではなかったQし
ただゼェデルプロlムは天の象形文字が大の字の頂点に円形の頭を大きく描いて︑これを付し
ているため︑天の観念は太陽崇拝と結びついて発展したものという推定をしている︒肢の金石文の天
台、
し
が頭部の円形にあるから︑ の字をみると︑この頭の部分に相対して︑二匹の対の馬と一匹の牛を配したものがあって︑その焦点
︵8︶ 日の祭りとして伝えられているものと無関係なようにも思われない︒それ
に︑この二匹の犠牲を配したことは先に述べた月神にまつわる二女というのに同じ始原的な発想であ
り︑祭俄であることを思わせる︒しかし天の文字の全体を観察すれば天という字は上部の円だけでな
く︑それを包括したひろがりのある宇宙的なものを示そうとしていることを感じさせる︒
問題は天の象形文字を︑その上部の一点にみるか︑それを支えている全体をみるかということにか
かつてくるυ象形文字は素朴な自然観察から発したものであるから︑上部の一点を重視すれば︑太陽
を意味する可能性があるが︑太陽そのものの観念としては︑中国ではその移動する動態についての観
察が特徴となっており︑始原の観念はともかくとして︑固定した一点として把握されなかった︒太陽 が竜の川車に乗っているとみられたり︑複数の太陽が一本の木から次々に離れてゆくとみたりする中
国思想は太陽を静止したものとは考えなかったからである︒
もっとも︑中国では天の思想が展開していった段階においても︑太陽崇拝の思想がなかったかとい
えば︑そうではなく︑周礼を復古した﹃礼記﹄のなかにも︑天子が﹁天に報ひて日を主とする﹂︵郊
特性篇︶として郊の祭を記して﹁市郊に兆するは陽位に就くなり﹂﹁南黙するは陽に答ふるの義なり﹂
とい
って︑天子が南面して日に向って祭記することを述べている︒これは自然の太陽崇仰のことであ
るにはちがいないが︑日本神話が伝えるように日神と組先神とを結びつける思想は形成されなかった︒
そして︑天を尊ぶ場合でも﹁喪悶の社は之を屋して天の陽を受けず﹂というときなどは︑天は自然の
天空
のこ
とで
ある
にす
︑ぎ
ず︑
日はそのなかの自然の太陽をいっているにすぎない︒この中国の発想
しかも王朝の祖先神であるとする日本流の思想系列とは別系統の思考方法
に立つものであった︒このような中国君主制国家の天の思想と︑日本の体制神話が信奉する日の思想
の差違については︑私はすでに︑それぞれ別個の論文において述べてきたことであるので︑ここには
︵ リ
﹀触れることを略する︒しかし︑いずれにしても太陽でなく︑月が天の思想の起源であるとする説は中 は︑日沖を最高神として︑
国思想においては発達しなかった︒
ひろがりのある天空の中の一いれ一に神をみとめるときに︑これを日とみたり︑月とみる考え方は︑中
国思想としては定着せず︑このような視覚的な概念に止ることなく︑早くから科学的な思考に発燥し
てい
ったνしたがって天における集中的な一点をいう意味の上帝は日でもなければ︑月でもなかっ
た ︒
上帝は天文学のいう天頂
2 Z 2
という科学的な概念に結びつく可能性の方がつよく︑天の頂点にあ
る唯一者穴る精霊
とい
う考え
方に
なっ
てくる︒また一方において自然の天
空を
一
つの秩序によって運
行されるものと考えるように天文学的観察が進み︑天のロゴスであり︑一つ規範として天道の観念に
発展してゆく方向をとるQこのごつの抽象的思考はかなり高度な中国官学の展開を待って発展するも
ので
あっ
た︒このようにして追究していった場合に︑この二様の天の観念を貫いている原理はコスモ
スを意識した宇宙観となって︑カオスのまま天体をみるという始原の人々の思考は︑﹃楚辞﹄
や
﹁ 惟
市子﹄のように︑社会の底辺や辺肢の思想として残存したにすぎない︒
祖先神の多ということも近代社会の例の意識がなかった時代であるから︑血縁共同体を基休としたも ただ︑ここに無視できないのは帝の観念を祖先神の要素をもつものとみた場合には︑相先神がその
本質においては同質のものであっても︑多神となら︑ざるを得ないこととの関係如何ということである︒
ので
あっ
て︑祖先神の観念そのもののなかに︑ある秩序の意識があって︑無数なる混沌の多神となる
ことはなかった︒そのことを端的に示すのが︑なお呪術的な出足術の思想で︑なんらかの集同にはそ
れぞれ運命の星が天上にあると考えられ︑政治社会の形成された後においても︑王侯はそれぞれ足座
のなかに︑自分の運命の足をもっと考えられていたのである︒だが︑それにしても帝というものが祖
先山口市拝と結びつく場合には︑昇天した祖先たちは星のように多く存在することになる可能性があった︒
帝の観念は祖先神と無関係なものではなかったが︑中国においては︑これが天に昇って上天の観念を
形成する段階では︑地上における帝王の国家秩序と同じように︑これを反映して︑一つのコスモロジ
ーを
形成
し︑
カオス的な祖先神の多数を反映するままには止り得なかった︒このことは天文学が世界
においても︑もっとも早く発達したことと関連をもっている︒そして︑ここに︑コスモスの自然規範
であ
り︑
ロゴスであるものが自然哲学として形成されて︑経学においては︑これが倫理的な天道の思
想に展開されていったのである︒
天が一つの一コスとして考えられて︑自然哲学を発展させ︑他方において天文学の科学観察が発達
したときに︑これが地上の政治社会と結びつけられた場合︑君主統治の上位には︑これを規制する自
然規範の概念構成を可能にし︑それが中国特有の天の思想として︑あたかも︑西欧中世における自然
法的な法
F
∞にあたる概念を発展させたのであったQ十六世紀の君主思想においても︑ジァン・ポiダ
ン﹄
・ロ
OLZ
が君主の絶対的な主権を主張し︑いかなる制定法一
2
によっても拘束されないものとしたが︑その場合でも︑その背後には根本法としての神の法としての
H 5
の存在を前提としていた
のであった︒これを中国についてみれば︑天の規範としていわれているものに比敵する︒これが西欧
中世においては神権君授説の基礎であった︒しかるに︑太陽の光りの圧倒的な威力を賞讃して︑君主
そのもののカリスマを認め︑君主を神そのものにまで高める素朴な政治思想は君主神性説に他ならな
かった︒これは君主が上位なる神によって正統性を与えられる神権君投説とは別個の思想であったν
この君主神性説は大和王朝および尚王朝を貫く共通の思想系統であって︑それは有主の上に天の規範
をみとめる中国固有の政治思想とは異っており︑君主絶対の思想であって︑中国のような王朝の変更
をみとめる易姓革命の思想とは相容れなかったu
沖縄においては太陽はテダ︑テルカl︑テルシノなどとよばれて︑それが政治支配者の絶対性を志
味するための呼称となったが︑尚王朝が︑これを独占したことは︑大和王朝の日神信仰と同じ経路を
たどった︒このことは中国のように︑科学と哲学が形成されることなく︑自然の観察が情緒的にしか
仰と結びついて︑ 処理されなかった自然感情に立つからであって︑そのことは沖縄においては久しい問︑島人の固有信
日常生活のなかに支えられていた意識だったのであるQそのことを端的に示すのは︑
かった︒テダとよばれる言葉も同様であって︑それは天道といわれる中国のように︑天のコスモスを 沖縄において太陽を意味するテルシノ︑テルカ!という言葉であって︑これはテダと称ばれる場合よりも︑より年代は始原のもののように忠われるQそれは太陽を素朴な自然観察において把え︑照るも
の︑光るものとみることを意味し︑白人の視覚的な概念ではあったが︑天文学的な観察とは関係がな
前提とする思想概念ではなかったのであるQ
テダの語原について︑これをわが国の中世文学の﹃大鏡﹄などにみられる天道の概念から由来した
とする一言語学的な解釈があるuしかし︑このテンドウとかテントウという単語の称び名はテダという
単一誌の発音に類似するという点見的な理由だけからいわれているもので︑それが意味する一一円高思考の
構造を捨象した推測であるにすぎぬυそれはただ︑発音上の類似性をいうに終っているοその意味の
発音だけの類似性によって︑テダを中世文学の天道に由来するとし︑わが国で童歌などにみえる﹁オ
テントウサマ﹂のテントウとテダとを結びつけるのは︑東洋の思出史的考察をぬきにした一品目合せの
一種にすぎないυ言語は一一一一口語体系や思考体系をぬきにしては考察し得ないもので︑単語の類似は︑無
関係な地域にもみられることであるυもし単語の類似性だけをいうならば︑それこそ﹃海上の道﹄の
いう地域的なつながりをもっ南方訴のなかには︑このテダに類似する太防話の呼称は脈々とつながっ
ており︑それとの関連をみることの方が先決問題であるωそのことのほうが中国の経学思想と不可分
に展開されてきた日本の中世文学の天道との連鎖をいうよりは︑はるかに血脈的なつながりを感じさ
せられるのであるu
注︵1
﹀郭
沫若
﹃先
泰学
説述
林﹄
︵甫
一慶
・東
市山
版社
︶一
一一
二頁
Q
︵2
︶小
島桁
馬・
前掲
書一
一二
頁
υ
し怖
が始
机︑
遠但
の意
味で
あっ
たこ
とを
のベ
︑一
不の
文字
は甲
骨文
では
先公
先王の意味であったというυ先に逝ける者のよりましというべきかUなお柳田国男は﹁先担の店﹂のな
で︑祖先山市川作は始組栄作であることを︑日本の例として説いているν
︵3﹀帝は︑もともと祭る作用をいったものであって︑銅時銘においては祭る作用は︑むしろ内の字が用い
られており︑咋は常ができてから後に作られた言葉であるとされている︵平岡武夫﹃経書の成立﹄一二:一
頁 ︶ ︒
︵4︶天の摂煙と人間界の事象を︑このように割り切って解釈するのは﹃孔氏伝﹄などの古い時代の見解で
あるが︑平附は﹁これがより珂知的﹂な解釈として批評している︵州尚喜二
O
一頁
︶︒
なお
日
F.
天は
帝の
思
想とは全く別系統の天の思惣としていわれている︒﹃持続﹄のいう﹁不引只天﹂は祖先の祭耐とは別のこ
とをいっている︒
︵5
︶狩野直喜﹃
いえ
那学
文薮
﹄
中の﹁支那研究に就て﹂四一一九頁υ
︵6
︶当
・開
−
F E
−
E
HZ
︐叶 ﹃ 円
2
月色
一色
0 5 0
﹃
2
E L
・−
g z
︵7﹀天が自然柴村であり︑帝が机先山市伴のアニミズムであることはゼェデルブロl
ムも 認
めているがこれ
が一つになっていったことを述べている︒自然崇拝としての.天の思訟はマレットのいうアニマティズ系の
思考と私は考えるQ中凶学者として高名なシャパンヌ開門Y
の冨
2
︿5 m
も︑この起源論としての二元説に
立っ
て ︑
先M m
山
川作としての帝が社複の祭組から出発していることを訓くものであったとみられる︵ゼェデ
ルブ
ロ
l
ム ・
三枝義夫訳﹃神信仰の生成﹄宗教の発端に関する研究・下巻岩波文庫・二一
頁 以 下 三 し
かし帝の思想の解明には︑社硬い仰がいかにして︑天へつながっていったかという点が問題となる︒ここ
にシャーマニズムとの関係が問題となってくる︒
︵8︶﹃平凡社書道全集﹄巻一
の十
:
一凶︑その後の天の象形文字としては似点の門の部分を︑中間のあいた
四角としているものが多く︑これは太陽の形を思わせるところがあるu
︵9﹀東洋における天の思惣の民開については︑私の﹁宇宙神話と社主権力の起源﹂ハけり﹃法学志林﹄第二
十七巻︑第一二・凹合併号︑第七十三巻︑第三・四合併号︒日本国家の日神い仰については︑私の﹁社主虚政と
農耕祭配﹂ハけはけ﹃法学志林﹄第七十五巻︑第二了四合併号︑第七十六巻第一号及び第七十六巻︑第四川
︵叩︶ボlダンの神の法のこと∞一回目
oo ro hF
めの
05 5︒ ロ
J 4 2 r r
公 司 ・
ζ・ ﹈ −
H︐
4
o o−
︶句
︒叶
・ 四
テダと天の宮
太陽を意味する沖縄の﹁テダ﹂という一一一口葉は﹁照る﹂という動詞から出たもので︑照るものという
名詞となったという解釈はネアスキーにしても︑柳田国男にしても︑共通しているが︑この一一一日葉が南
方語と脈絡をもち︑ひろく太陽や光りをいう言葉と同一系統のものであることについては今日では兵
論のないことと考えるυ台湾の高山族のなかの一部族であるアミ族は太陽を宮正月といい︑
︵l︶
マレ
l語の回一円高円と同一系統のものであることは台北大学にあった小川尚義の説くところで︑
﹂れ
イ ン
ネシ
ア語
でも
︑
メラネシア語でも︑これは光とか光るという意味で用いられており︑それが光るもの
という物体となったとき太陽を意味すると安藤正次は﹁登陀流・知陀流考﹂で明らかにしている
のことからして︑﹃古事記﹄上巻の大国主神の国譲りの個処にみえている天神の御子の天津日献を知食
ト ダ ル ア メ ノ ミ ス
す皇居について﹁投陀流天之御巣﹂と記していることや︑同書中巻応神帝の作歌が引用されている
モ モ チ ダ ル ヤ ニ ハ ヤ ユ
なかに﹁毛毛知陀流夜遡波﹂とあるのも家庭を修飾する言葉としていわれているものであるが︑﹁光
︿ ハ ソ
︼
︶ チ ダ ル
る︑輝く﹂と解して支障はないと安藤はいうQまた﹃延喜式﹄第八祝詞には﹁天日血垂飛鳥﹂とある
このような仮名書きのまま歌話などが記載されている場合には︑﹃古
事記﹄編纂の当時においても︑すでに廃語となっていたために︑いくらか意味不詳でわずかに伝承さ
の も
漢文体の文章のなかに︑
れていたものとみられているU
安藤は宮良当壮﹃市れ川悦川葉第一しによって︑太陽を意味する琉球列仏の
一 一 一 一
口葉がティlダ︑ティダ︑
ティラ︑ティlラ︑テダと挙げられているのは同一系統のものであろうとしながらも︑ただ琉球訴の
︵ 叶J︶
5E
が古い形のままであるかどうかは断定しえないとしているU一一川語学上の究明はともかく
とし
て︑
これらが広くいって共通した語系のものであることは認められることであり︑とくに仲原青山むが久米
テルカーであったとしており︑﹃おもろし
︵4﹀︿二十
二哲 一
四五七︶にも﹁テルカワ﹂﹁テルシノ﹂と対句で用いられて
いる
ので
︑ 一層
︑マレl語の光
るものを意味するシナルなどと同系のものであることを思わせるU光る︑照るという動詞が光体の版 島において太陽をいう
一 一 一
u柴がテダのみならず︑
テル
シノ
︑
型になるものとして太防をいう言葉に集約されてゆくことは極めて日然であろう︒
ここ
では
一 一 一
H語学の
詮索をするものではないので︑これ以上は触れないが︑光るもの︑照るものという意識の結晶は︑始
原の社会においては天空についていう場合には太陽のことであっ
て ︑
天笠そのもの︑及びそれから形
成された思想観へふとしての天をいう
一 一
一
n葉ではありえないυ
オy沖縄において天空をいうけ葉はそれとは系統を異にする天という漢語の音としていわれる一
一 一日
葉が
あ
るだけで︑これは中国語の三
g
︑対岸の福建語のH r −
にあ
たる
もの
で︑
大陸からの移入語である︒
したがって︑自然観察の言葉
から
︑
さらに天の観念が形成されたのは外米の知識によって触発された
ものと思われる︒この点︑本店立長は﹃古事記伝﹄において︑日本の古ぷにはソラという観念はあっ
たんに雲のある青
︵5空をいうだけでなく︑なんらかのコスモロジーを伴う高度な思想的概念であることは否定できない たが︑天という観念はなかったといっていることを思い起させるω天というのは︑
日本には︑天について︑﹁あま﹂とか︑﹁あめ﹂の読みがあてられているが︑沖縄でいう﹁あま﹂も
﹁あめ﹂も天の概念とは関係がないυ国語の﹁あめ﹂とか﹁あま﹂
︵6﹀
﹁あ
ま﹂
は海
で︑
﹁あ
め﹂
は
a大という方向で理解しようとしている︒凶訴の﹁あ
ま﹂
︑﹁
あめ
﹂が
一 大
を意味 というA一
一一
口葉
につ
いて
︑
柳田国男は
するのと近似的な討葉として用いられていることは知られている通りであるuこれに対して︑沖縄で
は﹁あま﹂は海︑﹁あめ﹂は
一山という意味で使われているだけで天とか大空を意味する言葉ではない
伊波普猷の﹁あまみや考﹂は沖縄本向の北部︑とくに西北諸白に多く保存されている南島の高天原
ともいうべき﹁あまみや﹂を冠する以名や神名や神女の称号などの分布の南漸について考察したもの
であるが︑これは﹃混効験集Lに﹁あまみやから﹂とは﹁むかしよりと云心﹂とあるように︑沖縄の
民の源流というべき海部の民の移動原流を逐ったものであって︑天上の思怨を語っているものではな
い︒この論文は伊波としても晩年の整理された分析を示しているとはいえず︑どちらかといえば︑沖
縄研究の開拓期の試論であるが︑ここで取扱われている﹁あまみや﹂は︑古き時代に﹁アマミキヨが大
和︵あまみや︶から︑この品に渡米した﹂という惣定に立って海部の氏の市下を大へん文学的に語った
ものであったuこれに対して久米向の神歌を伝えた﹃仲里旧記﹄において
ではあまのみやとか︑あめのみやとは読まれることはなく︑天は中国渡米の発音のまま︑
天の
宮
しー
と て、るあ ん、の と は よ 沖 ば 縄
れており︑その反.由︑この天の用法は尚王朝下の﹁おもろ﹂には︑ほとんどみかけない︒これは︑久
米島における﹁天の宮﹂の思想がすでに中国流の民間信仰の影響を後来的に受けているもので︑天と
いわれるものは︑この離品の凶有思想としであったものではないためであろう︒﹃仲里旧記﹄
は 一
七
一三年に首里王府が﹃琉球国由来記﹄を編集したとき︑久米烏・仲間間切役場が蒐集した原資料であ
アガリカタヂって︑この旧記については︑伊波は﹁琉球古代の祭・記の模様の︑第一尚氏の勃興とともに所謂東方地
に道教的色彩を匂はせた︑首虫親国色で塗りつぶされた﹂と評しているように︑火の神の信仰を鮮か
に伝えているものであったむこの火の神信仰が︑第一尚氏の時代から︑附有信仰における女神に加え
て︑男神を配したのは道教的な思惣の影響だという見方であったυ
同時に︑それとは並行して﹁あまみや﹂を語っており︑たとえば︑﹁あまみや︑あろやに︑
しね
りや
︑
このような中国思想との接合が行われたのは︑対岸の福建から渡米した人々の先づ︑足場となった
久米島のことであって︑ここには渡来の中国思想が加えられたのであったυそのことが天の観念に集
約的に現われているωそのことを裏付けるかのように久米鳥の神歌が夫の宮を語っているときでも︑
あろ
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あまのきみがなし﹂にはじまる神歌が︑同有信仰の﹁あまみや﹂﹁しねりや﹂について語りながら︑同時に︑すぐ︑ひきつ手ついて﹁でこのさみがなしと︑えり︑ちょ︑とこゑ︑
・あわせぬしよわちへ︑天のみや耐のみやの﹂といって︑﹁あまみや﹂と﹁天のみや﹂という別個の系
︵7︶ 統の観念が並列されているυ前者は﹁しねりや﹂の対句に用いられた﹁あまみきよ﹂﹁しねりきよ﹂
系統の観念であり︑﹁天のみや﹂は
﹁一
巾の
みや
﹂
の対句とされて川乞いの対象となる天上の神との関
係をいうもので︑別系統の伯仰であったυ前者は根の国信仰とつらなる地表における来訪神の思想で
あり︑後者は天空と地上の縦のいい仰系列であると知られているυこれについては︑多くの人々が近年
︵8︶ は述べているところであるが︑そのことは平くから伊波の識別するところであった︒
いま︑ここに根の国の思想については本題となることではないので︑省略し︑この天と地の上下閃
係の信仰のなかで︑この品々に外来なるものと︑回有のものとを明確に識別しておきたいと思う
﹃旧記﹄は︑太陽について﹁てだ﹂とよぶ場合でも﹁天のてだ﹂と詠って︑天とてだとが同一の観念
であるとはしていないω中国において天と日とは別個の概念であることについて︑これまで私は機九五
あるごとに述べてきたことであって︑このことは﹃おもろ﹄における場合よりも︑
ている︒沖縄の間有信仰には日神信仰はあっても︑天の信仰は︑中凶におけるように︑判っきりと仙 一層︑明確にされ
王府のあった首都那覇の文化状況としては︑尚王朝が中国との政治交流を
行ったがゆえに︑自然に︑思想の交流︑接合が行われているけれども︑久米島においては︑まだ︑こ
の二つの要素がはっきりと区別されている段階の記録がのこされているυそれを示すのは中国の天の 想されなかったυ
しか
し︑