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― ジョック・スタージスの写真について

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査読論文

ジョック・スタージスの写真について

―イメージと女性になること

根本 裕道

ねもと ひろみち 立教大学大学院 現代心理学研究科映像身体学専攻博士課程後期課程 映像身体学・表象文化論 

はじめに

この出会いはいくつかの動揺が重なりあったイメージの経験であった。ありふ れたヌードには還元されえない〈非有機的な裸〉という奇妙なイメージを見たか らである。はじめて見るイメージを前にして、持ち前の知覚の編成は齟齬をきた し、別様に見ることを強いられた。ここまで強烈に「見ること」を問われた写真 に、あるいは「別様に見ること」が発生してくるような写真に出くわしたことは そう多くないだろう。動揺したのは写真を見るという知覚そのものだったのだ が、「裸であること」の意味や価値の方もまた動揺することになった。こうした出 来事は写真家との出会いでもあれば、身体の知覚と機械の知覚の間で生じる出会 いでもあったのだ。

ジョック・スタージス(Jock Sturges)は、主にヌーディストビーチで親しい人物 を撮り続けているアメリカの写真家である。被写体に児童のヌードが多く含まれ ているということで、彼はFBIによってスタジオを家宅捜索された。表象として はいわゆる児童ポルノというものらしく、このことは様々な議論を呼び寄せた。

確かに、写真に写っている人物の多くは裸の少女や女性である。しかしそうと分 かるのは女性器によってであって、顔や体つきから即座に判別できるわけではな い。被写体が少女や女性であることはにわかには分からないし、決して自明のこ とでもないように思う。

こうした写真の内容が動揺を引き起こすのではない。むしろ画に写る身体がひ とつのイメージとなる仕方に揺さぶられるのだ。写真は静止画にほかならないの に、生成変化と切り離しえない。写真はただ現実を切り取ったものではなく、別

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のイメージとして見られうる。生成変化とは写真自体において言われることでも あれば、被写体の側において言われることでもある。さらにそれだけにとどまら ず、見る者の知覚も生成し、写真家自身も生成するのである。スタージスの写真 に、そうした生成の蠢きや痕跡を知覚せずにはいられない。現実に流れている時 間の一断片として切り取られ、定着させられる時間性とは別に、生成するイメー ジの時間性、イメージを知覚する身体の時間性というものがある。写真とは被写 体の記録であるほかないが、しかし別の身体が実現し、イメージとしても生成す るのである。スタージスの写真を見続けることで、イメージ、生成変化、写真 を「見ること」という系が、緩く、しかし深いところで繋がり合っていった。写 真は被写体そのものの記録や表象ではなく、その変形ないしは生成として実現す る。そう考えるのであれば、日常的な知覚とは異なる、写真に固有の知覚もまた 問われることになる。

ところで、スタージスは多くの写真集を出版している。何人もの人たちのポー トレートからなる写真集と、一人の人物を長年撮り続け、同一人物の成長を追っ たようなモノグラフがある。ファニーという名の一人の少女がいる。彼女はス タージスが長年撮り続けてきた人物である。彼女はいくつかの写真集に登場して

いるが、Fannyと題された写真集1は彼女のモノグラフである。はじめの方には少

女が写り、ページを重ねるごとに彼女は大人になっていく。1990年から2012年 の間に撮られた彼女の写真群は時系列で配置され、少女から女性への成長過程を おさめた写真集と見ることができる。例えば図11995年の、図22005年の ファニーであり、フランスのモンタリヴェにある同じヌーディストビーチで撮ら れた写真である。写真集のなかで前者はグレートーン、後者はカラーという違い はあるにせよ、両手を広げ砂浜に屈み込んでいる似た構図の写真である。同じ場 所で同じような姿勢をしているので、いっそう成長の度合いが強調されている。

あどけない眼差しを向けていた少女は確実に大人になっていく。

生成は一枚の写真の成立に関してだけでなく、こうしたモノグラフという構成 に関しても見出される。というのも、成長という流れと生成という流れとで、写 真集に流れる時間は二重化し、むしろ位相的に分裂しているからだ。少しずつ ファニーは成熟し、少女から女性になっていく。しかし徐々に成長していく一方 で、〈少女〉の度合いはいっそう強まっていく。成長とは別の流れが写真集全体を

1 Jock Sturges, Fanny, Göttingen: Steidl, 2014. 本稿で参照する図版はすべてこの写真集によるものである。

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図2 Fanny, Montalivet, France, 2005.

図1 Fanny, Montalivet, France, 1995.

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貫いている。成長に逆行する流れ、もしくは成長とは異なる生成の線が走ってい るのだ。成長の時間性と生成の時間性は並行し、こうした二つの時間が混交する 地点でスタージスの写真は成立している。

至るところで見られるファニーの裸の身体はヌードではない。ありふれた裸の 写真(ヌード)として再認できず、それとは別の裸が写っている。例えば、少女 が写っているのにもかかわらず、彼女は少年のようであり、女性器をもった少年 のように見えてしまう。もちろん、その女性器を特権化してはならないのだろ う。少なくともスタージスの写真は性やセクシュアリティとはあまり関係がな い。ヌードを取り巻いている言説や価値などから遠く離れた裸の身体は、非常に 無機質な性質をもっている。Fannyにある写真に限らずとも、ヌードという女性 の裸の表象としてスタージスの写真を見る人もいるであろう。しかし「裸である こと」は決してヌードだけには還元されない。裸は幾層ものニュアンスを含んで いる。〈非有機的な裸〉というものが見出せるとしたら、それはヌードを取り囲 む既存の意味や価値による構築物ではない。むしろそういった支配的な価値の

〈外〉として見出され、〈外〉へと向かうことでしか見出されない。

動揺は「見ること」についても言われる。「知覚の編成」や「知覚の態勢」と呼び うる何かが揺さぶられたのだ。身体の側の「見ること」は調和を失いはじめ、不 調和をきっかけとして「別様に見ること」が立ち上がる。

写真とは身体の外に成立した視覚イメージであり、それは「機械による知覚」

である。知覚に生じた不調和は機械による知覚という写真の本性に起因する。身 体を持たないカメラが身体とは無関係にイメージを産出する。写真を見ること は、カメラが見たものを見ることであり、そこで機械の知覚と人間の知覚がひと つの出会いを形成する。機械による知覚という原理が産出する写真のイメージ は、身体が自ら知覚する世界のイメージの引き写しでもなければアナロジーでも ない。それらの間には本性の差異が横たわっている。イメージが身体の外で生み 出され、それが身体に差し出される。写真とはこのような視覚的経験なのだか ら、かなり強烈な遭遇であるにちがいない。

イメージを産出する原理は機械による知覚である。しかし、それをイメージと して構成するのは写真家である。イメージは平面性という固有の特性を伴って写 真へと変形される。これは印画紙などの媒体が平面であることと同時に、単眼で あるカメラのヴィジョンには身体の複眼によって生じる深さがないことも意味す る。機械の知覚がひとつのイメージとなるとき、この平面性に向けた写真独自の

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039 変形が働いている。写真家が存在しているのは、機械の知覚によって現実が写真

平面へと変形されるまさにその間なのである。「機械による知覚」という本性は、

写真家によって様々に捉えられる。写真家の選択や決断があらわれるのはこうし たイメージの構成面においてであり、見る者は写真家が施す変形の質や形式を同 時に知覚する。写真を見ることは、機械の知覚によるイメージを見ることにほか ならないが、そのイメージは写真家の構成でもあるのだ。

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裸であること―イメージの産出

写真とは光の痕跡である。カメラは光の充満であるこの世界から一定の光を制 限し、差し引くことでイメージを成立させる。光を差し引くという点では人間の 身体の知覚も同じである2。しかし、この差し引き方には違いがあり、これが身 体とカメラを隔てる本質的な差異である。

写真とは身体の外に成立したイメージであり、カメラは身体の外にある知覚で ある。この事実は驚くべきことであって、感動的でさえある。性質を異にする二 つの知覚が写真を見るという経験を形作っている。

身体が介在しないでイメージが成立するという意味で、写真のイメージは非有 機的である。それに対して肉眼は有機的である。身体は生き、行動するのである から、知覚はそれに沿って行われる。肉眼が裸を知覚するとき、その裸は身体の 有機性の枠内で知覚される。裸体をただのモノとして見ることは難しい。身体が 働きかけうるものとして知覚せざるをえない。肉眼が知覚する裸のイメージは、

身体独自の基準にそって成立し、身体の有機的な編成のもとで引き出されてくる イメージなのである。

私たちの肉眼は全てを平等に見てはいない。関心のあるもの、意味のあるも の、有用なものを選択的に見ているのである。身体が選択的に知覚するのであれ ば、それはある基準や軸にそって選択される。知覚を身体の行動との関連で捉え

2 ルイジ・ギッリのような写真家はこのことに自覚的である。「カメラというのは本質的に私たちの目のように働きま す。私たちは気づきませんが私たちの目は、暗い場所では網膜により多くの光を取り込もうと瞳孔を開き、光が強い 時には縮み、眩しければ閉じようとします。目には生物学的な露出計のようなものが具わっていて、それにより光の バランスをとっています。カメラは、私たちの目が習慣的、日常的、理論的に24時間つねに行っていることを、機 械によって行っているだけです」。ルイジ・ギッリ『写真講義』、萱野有美訳、みすず書房、2014年、80頁。

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る考えはアンリ・ベルクソンによるものであり、この選択の軸は行動の有用性で ある3。行動するのに有用なものを知覚し、有用なように知覚している。

しかしながらカメラは身体をもたない。それにもかかわらずイメージを産出す る。〈機械による知覚〉という表現4が成り立つのはこの意味においてである。カ メラには身体がない以上、像を成立させるための光の制限に有機的で身体的な覆 い―有機性の衣―はかからない。私たちの知覚は行動と関連して行われるのであ るから、その知覚のイメージは行動との関連において有機的に圧縮されたイメー ジである。これが「知覚の有機性」や「有機的イメージ」という表現で使われる

「有機的」という言葉の内実である。

それに対して機械の知覚が生み出すイメージは「非有機的」である。カメラは 行動とは無関係にイメージを引きすのであるから、そのイメージは有機的なイ メージと本質において異なっている。たとえそれが同じ時間の幅が圧縮されたも のであったとしても、決して混同されることのない差異がある。非有機的な仕方 で結実するイメージは、身体が知覚するイメージとは別の実在性をもっている。

カメラには身体がないのだから眼差しをもつこともない。そのため、身体を身 体として見ることもなければ、身体を物体と区別して見ることもない。人物に注 ぐ眼差しがないため、人を愛でるように見ることもない。そこにあるのは、ただ 即自的な光の制限だけである。カメラはどのように4 4 4 4 4見るかを問題にしない。ただ4 4 見るだけである。「どのように」が関わるのは眼差しであって、眼差しには副詞が 発生する。あるいは「どのような」ものとして見るか、対象が「どのような」もの であるかというように、形容詞としての性質を付与することも有機的な眼差しの 在り方である。「どのように」ということに関わるのは行動の中心としての身体で あり、行動の有用性である。副詞が問題になるのはまさに行動する身体において であろう。カメラに「見方」や「見る仕方」が抜けているということが意味するの は、あらゆる人間的な有機性と無関係ということである。しかし、これは欠如で はない。むしろ写真の積極的な肯定性なのである。

写真において、「裸であること」は二重の意味をもつ。ひとつは写真の内容や

3 アンリ・ベルクソン『物質と記憶―身体と精神の関係についての試論』、竹内信夫訳、白水社、2011年(Henri Bergson, Matière et mémoire: essai sur la relation du corps à l’ esprit, Paris: PUF, Quadrige, 2012)を参 照のこと。

4 「機械による知覚」については、前田英樹『小津安二郎の家―持続と浸透』、書肆山田、1993年の特に第一章を参照 のこと。前田はベルクソンの『物質と記憶』を敷衍しながら、身体をもたない機械がイメージを生むことを「非中枢的 知覚」としている。

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041 表象に関係し、被写体の身体が裸であることを指す。もうひとつはイメージが裸

であるということであり、これはイメージの産出に関係する。機械の知覚によっ て産出されるイメージは非有機的であり、そのイメージは裸である。言い換える と、写真は原理的に有機性の衣を脱いでいるということである。機械の知覚はイ メージを裸のまま、在るものとして差し出す。これが「非有機的」という言葉の 内実であり、身体の側から表現すれば、裸であることはそれ自体で在ることの別 名となる。機械の知覚は身体の行動の有用性とは無関係にイメージを成立させる ので、イメージは裸のまま投げ出されているということだ。

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裸にすること―イメージの構成

イメージの産出(production)という次元から機械による知覚の本性を考えれ ば、写真とは原理的に裸である。しかしひとつのイメージは機械による産出であ ると同時に、写真家によって構成されるものである。写真家が機械の知覚をど のように捉え、機能させたかがイメージの構成(composition)の次元に反映され る。機械の知覚と身体の知覚の間にある差異を写真家がどのように捉えているか があらわれるところである。これを度合いの差異として捉えるのであれば、身体 の知覚に寄り添うようなイメージが構成され、イメージは有機的な編成に回収さ れる。これは裸であるイメージに有機的な衣服を着せ、着衣としてのイメージを 構築していくような方向性である。それとは反対に、本性の差異として捉えるの であれば、機械の知覚の力能を最大限発揮させる方向でイメージは構成される。

これは脱衣としてのイメージであり、イメージからあらゆる有機性の衣―物語、

意味、有用性、官能性、自我―を脱がすようにして構成される。機械による知覚 の本性はどこまでいっても非有機的であるのだから、肉眼によるイメージと決し て混同されえない。しかしそれを有機性において囲み込むのは身体の側なのだ。

機械が産出したイメージがいかに裸であり、いかに非有機的であっても、身体は 自身の有機的な編成にそのイメージを吸収してしまう。むしろ「見ること」とは そういうことなのだ。

有機性に抵抗するようなイメージを探求することは、「見ること」の変様を促 すイメージを探求することでもある。このとき写真家が「裸にする」のはイメー ジでもあれば私たちの知覚でもある。そのような写真を撮り続ける写真家の一人

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がジョック・スタージスである。彼はイメージを裸にし、私たちの知覚をも裸に する。そのため彼の写真には「別様に見ること」が発生する要素が含まれている。

むしろそれを強いるイメージである。写真のイメージが本来的に備えている非有 機性を最大限引き出すか、あるいは肉眼の有機性に従属させるかで、写真家の表 現性は変わってくる。スタージスは機械による知覚という写真の本性をしっかり 掴まえている。彼の写真は身体的な有機性に従属しない無機質な裸の写真をおさ めているのだ。そのため単なる裸ではなく、実現するのは〈非有機的な裸〉なの である。

スタージスの写真に写る〈非有機的な裸〉とは、装飾のない身体である。それ は形容詞で飾られていない身体であり、写真を見る者の「見ること」に副詞を発 生させない身体である。エロティックなものとして見ることも、欲望の対象とし て見ることもできない。ただ裸が在り、ただそれを見る。身体から副詞と形容詞 などの有機性が脱がされている。「裸であること」と「裸にすること」が意味する のは、前者は有機性が原理として脱がされている4 4 4 4 4 4 4ことであり、後者は有用性や有 機性という衣服を構成において脱がす4 4 4ということである。「裸である」イメージを 裸のまま4 4 4 4提示するために、スタージスは「裸にする」という批判的創造作業を行 うのである。

写真をイメージの構成という次元から考えれば、世界は機械の知覚であるカメ ラを通して一枚の写真へと変形される。この変形のプロセスには写真家の選択や 決断が関与する。写真を変形(transformation)として捉える見方は、写真家であ るスティーヴン・ショアーが『写真の本質』で提示したものである。ショアーが

『写真の本質』の下敷きにしたのはジョン・シャーカフスキーの『写真家の眼』5であ り、シャーカフスキーはそこで写真の特性として事物自体、ディテール、フレー ム、時間、ヴァンテージ・ポイントの5つを挙げていた。ショアーは変形を起点 にするので事物自体については言及せず、「画の内容と構成(organization)を決め る写真家の基本的な形式的手段は、ヴァンテージ・ポイント、フレーム、フォー カス、時間である。写真家が注意を払うものがこうした決断(こうした決断が意 識的であれ、直観的であれ、自動的であれ)を左右する6」と言う。シャーカフス キーやショアーが考察した写真の特性のうち、スタージスの写真では、そのいく

5 John Szarkowski, The Photographer’ s Eye, New York: The Museum of Modern Art, 1966.

6 Stephen Shore, The Nature of Photographs, London/New York: Phaidon, Second edition, 2007, p. 110.

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043 つかが「裸にする」ための機能として際立っている。では、それ自体で在る裸の

イメージを、スタージスはどのように見る者に差し出しているのだろうか。

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産毛あるいは剰余―イメージの知覚1

フレームは非有機的なイメージが成立する条件でもあり、写真家が画を構成す るときの選択や決断の境界でもある。身体の知覚にはフレームはないが、行動の 必要に応じて見るべきものや見方を変化させている。身体の知覚の境界は、当の 身体のなしうることに応じて変動する。しかし写真のフレームは「見えるもの」

と「見えないもの」の境界を、画の内部と外部を明確に画定させる。写真にとっ て、フレームは必須の要件である。図3や図4のような写真では、フレームは画 の内側へと向けて作用し、画の内部を緊張させている。フレームによって世界か ら切り離されたイメージは、画のうちに緊張の度合いが最も高まる中心を作り出 す。それがファニーの身体である。フレームは彼女の身体を囲い込み、それは見 るべきもとして強調されている。フォーカスも身体に合っているため、被写体で あるファニーの身体はいっそう強く見る者に差し向けられている。

こうしたイメージは、それを見る私たちの知覚に何をもたらすのだろうか。肉 眼で見るもの以上のものが写り、肉眼では見えないもの、見えてはいるが見てい なかったものが写り込んでいる。写真を見る者が知覚するのは、「身体の行動に とって有用な」ということとは無関係に成立したイメージである。このとき、通 常の知覚においては「見えなかったもの」、「見ていなかったもの」、「見ることが できなかったもの」を何と呼ぶべきであろうか。細部、プンクトゥム7、剰余、無 意識、潜在的なもの、ノイズというように様々に呼びうる。いずれにせよ、こう いったものが知覚を揺さぶり、変質させ、にもかかわらず写真を見る経験を成立 させていることには変わりない。このような要素は、有用性のもとで有機的に見 ることとは異なる「別様に見ること」を発生させ、知覚が纏う有用性という衣服 を脱がせてしまう。身体の知覚では見ることのできないもの、あるいは見ていな

7 ロラン・バルトは写真が含む二重性をストゥディウムとプンクトゥムに区別する。ストゥディウムが身体の知覚の 延長線上にあるものであるとすれば、プンクトゥムはその知覚を撹乱し、有機的な知覚を切断する要素であると読 むことが出来る。ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』、花輪光訳、みすず書房、1985年(Roland Barthes, La Chambre claire: Note sur la photographie, Paris: Gallimard, 1980)を参照のこと。

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いものを写真は見させるのである。「見るもの」と「見えるもの」、「見ないもの」

と「見えないもの」の間にある隔たりが写真において露になる。

スタージスの写真に写る人物たちには体毛、産毛がはっきりと見て取れる。意 図なしにそれらの毛が画に写り込む。彼は8×10の大判カメラを使用すること で、身体の細部まで捉えようとする。大判カメラは細部を写すことができると同 時に、過剰なまでに細部を写し過ぎてしまうということも意味する。精密な細部 描写は通常の知覚の態勢における「見えるもの」と「見えないもの」の境界を変動 させてしまう。

スタージスの写真における産毛は、作家の作画上の強調というよりは、描くか 描かないかという選択にかかわらず、そこに在るものとして写真に写る。また、

産毛に限らなくても、身体に付着している水滴のひとつひとつ、水に濡れた身体 の鳥肌のひとつひとつが鮮明に写っており、身体の細部が否応なく露出している。

3や図4の少女ファニーの写真を見るとき、その少女の腕に生える産毛に強 烈に目を奪われる。あってしかるべきものであるはずなのに、写真にまざまざと 図3 Fanny, Montalivet, France, 1996.

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写り込んでいるのを目にすると、奇妙な違和感と動揺を抱かずにはいられない。

おそらく、通常の知覚の態勢では見えているはずなのに見ていないからなのであ ろう。人間の身体にある毛、とりわけ頭部や手足に集中的に生えている毛は目に つくが、実際のところ全身が微細な毛で覆われているといっても過言ではない。

見える毛と見えない毛が存在する。産毛とはアクチュアルな知覚にとって潜在的 なままに留まっている毛のことである、と表現したくなるほどだ。

こうした細部は、感覚しているにもかかわらず知覚していない。知覚の中心 からは外れているという意味では剰余であり、ノイズである。「知覚することの できないもの」であると同時に、写真においては「知覚することしかできないも の」、「知覚されるべきもの」として在る。身体の知覚の中心から外れたものが、

写真においては等しく写り込んでいる。言い換えると、身体の知覚は選択的に見 るのに対し、カメラは物を在るがままに、それとして見る。フレームやフォーカ スという特性が連動し、スタージスの写真では普段は知覚しえぬ身体の細部がま ざまざと確認される。知覚を揺さぶり、視覚を動揺させるのは、こうした「知覚 図4 Fanny, Montalivet, France, 1998.

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されるべきもの」から構成される写真なのである。

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特異な姿と特異な定位―イメージの知覚 2

スタージスはフレームやフォーカスを機能させながら、被写体に何らかの姿勢 なりポーズをとらせることで撮影している。スタージス自身が撮影している様子 を記録した写真を見てみると、屈んだ被写体の目線と同じくらいか、それより少 しだけ高めにカメラを構えているスタージスを確認できる。スタージス自身が割 りと無理な姿勢で大判カメラを覗き込み、被写体も自然な行動の一断片とは見做 せない奇妙な姿勢をしている。スタージスは図1や図2をはじめ、後に挙げる図 7のように、屈み込みながら腕を広げている構図の写真を多く撮っている。繰り 返し用いられる構図である。しかしながら、低く屈んだファニーの身体と、それ を写すスタージスのカメラの間には、通常の知覚の編成において生じるような有 機的な関係性はない。スタージス特有の位置から撮られる写真は、見る者の知覚 にも有機的な再認とは別のものを垣間見せるようになる。スタージスは私たちが 知覚するような仕方でファニーを記録しているのではないのだ。端的に言えば、

行動する身体がこの高さや角度から知覚を定位することはないし、凝結するファ ニーの身体のほうも彼女が実際に行う運動とはかけ離れた姿として圧縮されてい る。むしろ私たちが現実のうちで知覚する身体のイメージは有機的なまとまりと して組織されているので、「立っている」や「座っている」というように言語的に も単位化された姿勢となる。図7のファニーを見て言えることは、せいぜい通常 の知覚に照応しながら状態指定するくらいである。屈んでいる、腕を広げてい る、うつむいている、などというように。

こうした姿は何かを意味したり象徴したりするような特権的なポーズではな い。だからといって名付けられる体勢でもない。むしろ名付けえぬ無数の身体の 在り方を、機械は知覚するのである。ここに写るのは現実的な身体の運動感や躍 動感などではなく、潜在的な生の律動なのである。

あるいは図3や図5のような写真もスタージスが好んで繰り返す構図である。

身体を捻ることで顔と背面を同時に捉えるような写真が多い。写真が決定的に肉 眼の知覚と異なるのは、顔、肩甲骨、乳房、臀部、さらには腕に生える産毛など を同時に、それも等しく写し込むということである。身体の知覚には必ず中心が

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047 ある。顔や表情が知覚の中心にな

ることもあれば、性器が欲望の対 象として中心化することもある。

身体が為すべき行為によって選択 的に知覚され、意味の中心もそれ にそって変化する。

しかしながら、様々な身体の部 位が並置されたスタージスの写真 では、 顔は中心として機能しな い。さらにひとつの器官が顔とし て中心化することはなく、意味や 象徴としても見られない。こうし た並置とカメラの定位から捉えら れる身体を、自らの身体が働きか けうるものとして見ることはでき ない。行動の有用性からは切断されているのである。というのも、この身体は次 の動作へと接続するための可能的な行動を含んだ姿をしていないからである。多 くのヌード写真では、身体の姿勢なり身振りは見る者に必ず働きかける。欲望を 刺激し、次に続く行為を連想させ、見る者は写真に同期する。そのため見る者は イメージと共感の関係を結ぶのだ。しかし図3や図5だけでなく、後に挙げる図 6のような身体のイメージは、見る者に働きかけないし、見るも者の知覚も自ら が働きかける対象としては再認できない。このイメージは見る者の有機的な知覚 にはほとんど奉仕しない。

このように構成される裸のイメージは、「見ること」の有機的編成から逸れて いく。そのため裸の意味も変化し、裸であることの価値も変質する。むしろそう いった変形を引き起こすような写真なのである。ヌード写真はクリシェとして繰 り返される身振りや姿勢からなり、その多くが身体の知覚と同期するような構成 である。しかし、スタージスはそういった共感を断ち切る姿を写している。

図5 Fanny, Montalivet, France, 1998.

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ヌードとネイキッド―男性的なもの

こうしたスタージスの写真を見るとき、知覚において更なる動揺を引き起こす のは裸をめぐる意味と価値である。「裸であること」や「裸にすること」をイメージ の産出と構成の次元から見てきたが、イメージを知覚する身体において「裸であ ること」の価値や「裸にすること」の意味が改めて問われることになる。知覚した ものに意味を見出し、価値を与えるのは身体の側である。しかし意味や価値を見 出すにもかかわらず、実のところ、それらはすでに知覚の枠組みを支配している。

裸にはヌードとネイキッドという区別されるべき二つの意味がある。ヌードは 長らく絵画の主要なテーマであった。これまで「裸」については多くのことが考え られ、相当な数の裸体画の蓄積がある。さらに写真が出現してからというもの、

それがポルノグラフィーであれ、戦争や収容所をめぐる剝き出しの裸であれ、あ るいはファッション写真であれ、多くの「裸」が表象され、生産されてきた。

多くの場合、ヌードは女の裸体を意味し、それを眺めるのは男である。ヌード が男の眼差しや欲望の対象として構築されるのに対して、ネイキッドは男の欲望 の対象としての裸ではない。男性的価値の枠組みのなかで入念に作り上げられ、

洗練されたものがヌードであって、ネイキッドはそれに与ることのできなかった みすぼらしくて、惨めな裸である。しかしこのネイキッドが意味するのは「ヌー ドではない」であって、依然として男性的価値の内部にあることに変わりない。

裸とは一切の装飾を剝ぎ取った身体であるにもかかわらず、ヌードには多くの ものが纏い付き、多くのもので飾り立てられている。そのため、ヌードは単に衣 服を脱いだ裸なのではなく、「恩寵の衣服としての無垢なる裸8」ということにな る。ケネス・クラークはこのことについて、ヌードとは「再構成されたもの」であ ると適切に言い当てている。

ネイキッドであるとは衣服が剝ぎ取られているということであり、そこに はたいていの者ならそんな状態になれば覚えるはずの、当惑の意が幾分か 含まれている。これに対してヌードという語は、教養ある使い方をすれば、

8 この表現はジョルジョ・アガンベンのものである。猥褻な裸に対置されるヌードは「光の衣服」を纏っているのであっ て、裸の完遂は決して到来せず、裸の不可能性について論じられている。ジョルジョ・アガンベン『裸性』、岡田温 司・栗原俊秀訳、平凡社、2012年、110頁。

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049 別に不快な響きを伴わない。それがわれわれの心に漠然と投影するイメー

ジは、丸くちぢこまった無防備な身体のそれではなくて、均整のとれた、

すこやかな、自信に満ちた身体、再構成された身体のイメージである。9

ヌードはそこに在るものではなく、作り出されるのである。ヌードの創造には 意識も無意識も欲望も動員され、ヌードは「男たちの妄想」の賜物でさえある。

現実的に男であるか女であるかとは無関係に、ヌードを取り巻くものはすべて男 性的なものなのだ。

知覚の側からすれば、ヌード/ネイキッドという図式が関わるのは身体の有機 的な知覚とその有機的再構成ということになる。言い換えれば、有機的なものを 有機的に見るという知覚の編成でしか問題にならない。ところが、写真という機 械の知覚が生み出すイメージは原理的に非身体的で非有機的であるのだから、そ のイメージは有機性の〈外〉を垣間見させる。

身体が知覚する以上、裸をヌードとして見るのは仕方あるまい。それが身体の 知覚の本性である。もしスタージスの写真にある裸がヌードでもネイキッドでは ないとすれば、機械による知覚の本質である非有機性を増幅させる仕方でイメー ジを構成しているからにほかならない。スタージスが構成するイメージがネイ キッドでない以上にヌードでないのは、ヌードを取り巻く男性的価値から脱して いるとともに、ヌードとして見られることに抵抗しているからである。こうした 別の裸はおのずと人間=男(homme)の〈外〉へ向かい、男性的価値と知覚の有機 性の〈外〉で見出される裸となる。男性的価値の〈外〉への運動は「女性になるこ と」と呼ばれ、この生成変化が裸の意味と価値を変形させ、さらに知覚の変質を 実行しているのだ。

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女性になること―非有機的な裸

絵画であれ写真であれ、ヌードは単に裸の身体を意味するのではなく、女の

9 ケネス・クラーク『ザ・ヌード―理想的形態の研究』、高階秀爾・佐々木英也訳、ちくま学芸文庫、2004年、18頁

(Kenneth Clark, The Nude: A Study in Ideal Form, New Jersey: Princeton University Press, 1972, p. 3)。

訳は一部変更している。

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裸の身体を意味していた。「性別を表す前置きが脱落する過程において―女性の ヌードが単なる『ヌード』となる瞬間に―、芸術家の、そして女性の身体を鑑賞 する者、創作する者、消費する者の、男性としてのアイデンティティが完全に確 立されるのである10」。このときヌードという言葉の裏に潜んでいる意味や価値 などが明るみに出る。そしてこのことに無自覚なままヌードや裸を語ることはで きず、ましてやスタージスの写真を肯定することもできない。

精神の側に付与される肯定的な価値は男性的特性に結びつけられるのに対 して、身体の否定的価値は女性的特性に関係づけられるのである。クラー クのネイキッドというカテゴリーは下位の一群、身体の方の女性的系列に 属するのに対して、ヌードは精神と結びつけられた上位の男性的特性の延 長とされる。11

この区分によれば、ネイキッドは二項対立のうちの否定項ということになる。

そのためネイキッドが否定され、価値の低いものとして規定されなければ、ヌー ドがその威厳を保つことも、価値あるものとして構築されることもないし、同じ ように、ヌードという理想的な形態が措定されなければ、ネイキッドも成立しえ ない。この構図や関係性を支えているものはたくさんあるにせよ、それらが眼差 しであれ欲望であれ、すべては男性的価値のもとで構築されていることに変わり ない。見る主体は男であり、見られる客体は女である。しかしながら、この図式 の中の女は男性的価値を内面化しているため、男性的なものと言ってもよい。こ の構図そのものが男性的価値にすぎないのである。すべてが「男たちの妄想」の もとで作動するヌードや、あるいはヌード/ネイキッドという図式に対して、当 然のように抵抗し、その〈外〉を求める人たちは少なからず存在する。特にフェ ミニズムの言説は、こうした二項対立の図式自体を転覆させようと、より強烈に 批判を向け、切り込んでいく。「ヌード写真とは、一般に文化とされてきた男の 一方的な視線が女を意味づけ、女を取り扱い、女に刻印してきたイメージであ

10 リンダ・ニード『ヌードの反美学―美術・猥褻・セクシュアリティ』、藤井麻利・藤井雅美訳、青弓社、1997年、33 頁(Lynda Nead, The Female Nude: Art, Obscenity and Sexuality, London/New York: Routledge, 1992, p. 13)。及び、引用したこの一文に付された注19(邦訳241頁、原著p. 110)を参照のこと。

11 ニード『ヌードの反美学』、35頁(Nead, The Female Nude, p. 14)。訳は一部変更している。

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051 る。そこでは男の欲望のみが問題

にされるのである12」。

ヌードが男性的価値の内部で構 築されるのであれば、別の裸を表 現するためには「女性への生成変 化」が成し遂げられなければなら ない。 男の写真家が女のヌード を撮り、男の鑑賞者へそれを差し 出す。ヌードは男性的価値によっ て構築されるので、被写体が女で あったとしても、それは結局のと ころ男性的なものである。あらゆ る男性的なものの〈外〉へ向かう ことでしか女性的なものは表現し えないであろう。しかしながら、

支配的な男性的価値の衣服は有機性の衣を極限にまで強化し、男性的自我の鎧と 化す。身体の行動との関連で構成される実用的な衣服には飽き足らず、重ね着の 最たる形態としての鎧で着飾るのだ。「女性になること」はこうした衣や鎧を脱ぐ ことにほかならない。

〈外〉を求めて表現を行い、この〈外〉を表現しようとした人たち、それらは多 くの場合、女性であった。特に写真においては、女性写真家のセルフ・ポート レートが〈外〉への思考、〈外〉への実践であった。彼女たちは男性的価値からの 脱領土化を試み、価値転換を試み、「女性になること」を目指した。フランチェス カ・ウッドマンという女性写真家は自らの裸体を含むセルフ・ポートレートを多 く残しているが、彼女の作品はそういった〈外〉を表現している。ウッドマン自 身が写真において女性への生成変化を試み、その試みは必然的にセルフ・ポート レートという形で結実した。もちろん、写真家が女性でなくとも、同じような試 みをする人はいる。ジョック・スタージスは男性であり、その男性が女性の裸を 写真におさめる。男が撮り、女が撮られるという構図であっても、写真を撮ると いう手続きの果てに、残滓のように男と女がいるにすぎない。このときスタージ

12 笠原美智子『ヌードのポリティクス―女性写真家の仕事』、筑摩書房、1998年、13頁。

図6 Fanny, Montalivet, France, 2009.

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ス自身は写真を撮ることで女性へと生成変化しているのである。図6の写真を見 ると、機械の知覚と浸透したスタージス自身が女性への生成を遂げているのが伺 われる。意味や価値はイメージそのものではなくとも、イメージの構成に関与す る。スタージスは男性的価値の内部で写真を撮らないし、男性的価値に奉仕する イメージを構成しない。こうした裸のイメージはヌードとは厳密に区別される。

もちろん、一方にヌードがあり、他方に別の裸がある、というように実体的に 区別されるわけではない。ヌードにおいて「ヌードに抵抗する裸」が生成するの である。そのため生成のイメージは、見る者の知覚を少なからず変容させ、既存 の意味や価値のなかで安定することに抵抗するイメージなのである。

「生成変化するのが女性であるときでさえ、彼女は女性にならねばならない13」 とドゥルーズが言うとき、男性的価値の枠中にある女性が優位項である男性に 取って代わることを意味しているのではない。〈男性的なもの〉とは二項対立の図 式そのものを意味しているのだから、〈女性的なもの〉はその〈外〉への運動を意 味している。「女性になること」とは〈外〉への思考、〈外〉への運動のことなので ある。女性への生成変化は裸を知覚する身体を変質させるとともに、裸の意味や 価値を変形させるのだ。

「女性」という言葉のほかに、ドゥルーズ、あるいはドゥルーズ=ガタリはそ れを様々に言い換える。「強度になること」、「動物になること」、「知覚しえぬもの になること」。そもそも、人間とは男のことであり、人間=男(homme)の〈外〉

へ生成変化するという意味において、女性や動物が肯定されるのだ。支配的な価 値に抵抗し、そこから逃走する要素を持ちうるのは、女性、動物、分子なのであ る。男性的価値の外に向けて「女性になること」、量や質として有機的に知覚さ れる以前の「強度になること」、人間=男ではなく「動物になること」、分子的な

「知覚しえぬものになること」、さらには「裸になること」。生成変化はさまざま なことを意味し、これらは生成のヴァリエーションなのである。

13 ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』、守中高明・谷昌親訳、河出文庫、2010年、13頁(Gilles Deleuze, Critique et clinique, Paris: Les éditions de Minuit, 1993, p. 11)。訳は一部変更している。

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〈少女〉の時間―生成とイメージ

知覚の有機性だけでなく、現行の意味や価値にも抵抗するようなイメージは、

新たな時間性を展開する。その時間性が生成と呼ばれる。生成は知覚についても 言われ、非物体的なものについても言われた。写真について言われるとき、生成 は一枚の写真を成立させる時間でもあるが、それは結果としてFannyという写真 集を貫く時間にもなる。

Fannyには成長過程というモル的でメジャーな過程として流れる時間と、その

たびに〈少女〉が実現する分子的でマイナーな生成としての時間がある。有機的 でモル的な知覚が捉えるのは個体である。写真に写っている身体を個体として知 覚し、そうした知覚によって繋がっていく時間が成長と呼ばれる。ファニーはア クチュアルな知覚とそれに付随する時間からすれば確実に成長している。ページ を重ねるごとにファニーは大人になっていく。しかしながら、1990年から2012 年の間のファニーは、ただの少女の成長過程ではない。潜在的な持続の層からす れば、一枚の写真はそのつど〈少女〉が実現するひとつのイメージなのである。

少女とは、男性と女性、子供と大人など、二項的に対立するすべての項と 同時に存在する、いわば生成変化のブロックである。少女が女性になるの ではなく、女性への生成変化が普遍的な少女を作り出すのだ。子供が大人 になるのではなく、子供への生成変化が普遍的な少年を作り出すのだ。14

「女性になること」は少女が女性に成長することを意味しないのだから、ファ ニーの生成のプロセスは絶えず〈少女〉を実現するプロセスとなる。それは個体 化のイメージであり、イメージの個体化なのである。

男性にも女性にも当てはまる女性への生成変化から力を引き出すのは〈少女〉

であるとドゥルーズ=ガタリは言う。「少女や女性が生成変化をとげるのではな い。生成変化そのものが少女や子供なのである15」。個体としての女性が存在し、

その個体が成長することとは別に、「女性になること」という個体化がある。この

14 ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー―資本主義と分裂症』、宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・

豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出書房新社、1994年、319頁(Gilles Deleuze et Félix Guattari, Mille plateax:

capitalisme et schizophrénie 2, Paris: Les éditions de Minuit, 1980, p. 339)。

15 ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』、319頁(Deleuze et Guattari, Mille plateax, p. 340)。

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個体化が〈少女〉と呼ばれるのであり、スタージスの写真には〈少女〉の時間が知 覚されるのである。

1995年の図1から2005年の図2へ、さらに2012年の図7へと似た構図が反復さ れている。ファニーの姿勢だけでなく、それを捉えるカメラの位置もスタージス に特有の高さから繰り返し撮影されている。ファニーの身体の大きさを推測でき るような人や物はほかに写っていないにもかかわらず、さらに画を占める身体の 面積が増えているわけではないにもかかわらず、これらの写真を見る者は確かに ファニーの成長を感ずるであろう。

これら3枚の写真では、フォーカスやシャッタースピードによって背景の環境 と身体の間の関係性は流動的になっている。そのような写真が結晶している。図 1の背景は水とも砂とも断定しがたい滑らかな平面が広がっているが、身体の 境界線ははっきりとしていて、確かに個体としての少女ファニーがいる。図2で は砂浜とそれに接触している手足との境界が辛うじて見て取れる。顔に焦点が 合っているが、顔が中心化しているというよりは、このフォーカシングによっ 図7 Fanny, Montalivet, France, 2012.

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055 て、写真の平面上に顔が立ち上がっている。さらに図7になると、カメラの位置

やフォーカスに加え、シャッタースピードやシャッターを切る瞬間などがこの写 真を生み出している。ファニーの左手は完全に水の流れのなかにあるが、彼女の 右手は水にも砂浜にも同化していない。この次の瞬間にはその右手も水の流れに 飲まれることは容易に想像できるが、この写真では流れとその境界が同時に実現 している。水だけが流れているのではなく、身体も流れであり、砂浜と波の境界 線も流動的である。画の右側を占めている水がこのような形態と化すのはシャッ タースピードという写真の特性によるものである。身体の知覚は流れる水をこの ような形態として圧縮し、知覚することはない。こうした水と身体が写真という 平面で並置されているということは、それと同じ仕方や特性を通してファニーの 身体も写真の平面に個体化しているということを示している。そのため知覚され るファニーの身体は決して安定した形態などではなく、生の律動がひとつの特異 点として結晶した姿なのである。

スタージスのこの写真において、ファニーの身体は個体の同一性として知覚さ れる一方で、生成や個体化の差異としても同時に知覚されるのだ。写真は身体が 根ざす現働性と持続という潜在性にまたがっており、その二重性を露にする。そ のため写真という機械の知覚によるイメージは、身体が自身の知覚において現働 化させるイメージとは異なるイメージを生成させるのだ。無限に振動する生の律 動は、有機的身体の形態化とは異なるリズムの結晶化を遂げる。こうした写真が 見る者を惹き付けるのは個体としてのファニーではなく、ファニーという固有名 をもった写真による個体化なのである。

このようなイメージは、有機的な眼差しの対象にならず、欲望の対象にすらな らないのだから、さらに知覚の編成も異なるのだから、そこで知覚される身体は 有機的身体とは〈別の身体〉である。スタージスが写すのはそういう身体であっ て、〈非有機的な裸〉を表現し、〈少女〉の時間性を実現しているのである。

身体を〈器官なき身体〉に作り換え、身体の非有機性を推進する試みは、

少女への生成変化や分子状女性の生産と不可分の関係をもつことにもな る。少女も、確かに器官的、モル的意味における女性になりはするであろ う。しかし、逆の見方をすれば、女性への生成変化や分子状女性は少女そ

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のものだとも考えられるのだ。16

スタージスのどの写真においても、彼女たちは紛れもなく〈少女〉にほかなら ない。〈少女〉の実現とは「女性になること」によって実行される。「女性になるこ と」はイメージの構成についても言われ、知覚の編成についても言われ、非物体 的なものについても言われる。女性になるのはファニーであり、スタージスであ り、見る者の知覚なのである。イメージを産出するのは紛れもなく機械による知 覚であるが、スタージスが行うのは生成のイメージを写すことである。しかし、

そのこと自体がすでにひとつの生成変化なのである。

おわりに

知覚を出発点としてスタージスの写真について論じてきた。写真は身体の外に 視覚的イメージを成立させるものである、という驚きと感動が根底にあるからで ある。身体は行動の必要に応じて知覚し、それによって世界からイメージを引き 出す。ところが、カメラは身体をもたないにもかかわらずイメージを引き出し、

視覚像を成立させる。写真とは原理的に機械による知覚が産出するイメージであ り、こうしたイメージは身体が有機的に引き出してくるイメージとはその本質に おいて区別される。

イメージを産出するのは機械による知覚であるが、イメージを構成するのは写 真家である。構成とは機械の知覚と写真家の関係が問われる次元であり、世界 が一枚の写真へと変形されるときの特性や属性が問われる次元である。だからと いって、イメージの産出がまずあって、それからイメージが構成される、という 順序があるのではない。写真とは、機械の知覚による産出であると同時に写真家 が構成するものであるということだ。スタージスが機械による知覚の力能をどの ように引き出し、どのように機能させたのか。このようなイメージの構成を確認 するために論じたのが、産毛という細部、特異な姿、それらを捉えるヴァンテー ジ・ポイントとしてのカメラの定位などである。さらにはフレームやフォーカス、

シャッタースピードなども連動してひとつのイメージが引き出される。スタージ

16 ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』、319頁(Deleuze et Guattari, Mille plateax, p. 339)。

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057 スは機械による知覚という本

性を、身体の知覚との共感を 切断するように機能させた。

そのようにして出来上がる写 真のイメージは、それを見る 者の知覚を変容させる。知覚 は、イメージの産出について 言われるのとは別に、「写真を 見ること」というかたちで改 めて問われることになった。

Fannyというモノグラフの 最後を飾る写真(図8)を見れ ば分かるように、これは裸の 写真でもなければ、少女の写 真でもない。 しかしながら、

この写真は裸である機械の知 覚が投げ出され、しかし最大限それを活かすように裸にされた写真である。〈非有 機的な裸〉であり、〈少女〉という生成のイメージにほかならない。

生とは流れであり持続である。そしてそれは身体も同じである。ひとつの生は 持続している。流れとして生を捉えるならば、写真に実現する身体はそのつど写 真的な仕方で定着する身体である。一枚ごとに実現する身体は、その背後にある 持続や生成を証し立てている。被写体を表象として、個体として捉えるのであれ ば、そこで知覚されるのは生成の残滓にすぎない。スタージスが写真におさめる のは生成や力であり、機械の知覚という非有機的な圧縮のされ方によってそれは イメージとなる。生成という流れである生を在るものとして写すのであれば、そ れは瞬間という等質的な点にはならない。あくまでも生成における特異点として 時間が結晶し、別の身体が実現するのである。

スタージスの写真の〈非有機的な裸〉は、ヌードに関わる有機性に抵抗するこ とで生成する〈少女〉の別名である。裸の意味は変形し、写真を見る者には「別様 に見ること」が要求される。〈非有機的な裸〉は有機的身体の〈外〉であるが、決し て超越などではなくそれに内在しているものである。なぜなら写真という非有機 的な知覚が生み出すものであり、それなしには語ることのできない〈外〉だから 図8 Fanny, Montalivet, France, 2012.

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である。あらかじめ〈外〉が存在しているのではない。〈非有機的な裸〉は、ヌー ドにおいてヌードに抵抗する裸であると理解されなければならない。そのためス タージスの写真では、衣服を纏っていようがいまいが、そのとき身体は「裸にな る」のであり、また、写っているのが少女であれ成人女性であれ、実現するのは 一人の〈少女〉なのである。機械による知覚の本性とイメージの構成を通して、

裸の形式は変形し、裸の内容は変質する。なぜならスタージスは男性的価値のも とで写真を撮らないし、裸も有機的知覚が構築するものではなく、それ自体で在 るものとして写真が引き出すからである。〈少女〉とは、スタージスが女性になる ことで構成するものであり、見る者が女性になることで知覚するものである。も し、こうしたスタージスの写真が見る者に動揺を与えたのならば、それは「女性 になること」という生成に巻き込まれたからにほかならない。

[付記]

本稿は、2015年度立教大学学術推進特別重点資金(立教SFR)からの助成を受 けて行われたものである(課題名「外への思考―文学における性の外と写真にお けるイメージの外について」)。

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