1. はじめに
2007 年度より学校現場では本格的に特別支 援教育が導入されることとなった1)。導入から 8 年目を迎え,特別支援教育の成果が一定程度 明らかになってきたと同時に,課題についても 見出されてきており,こうした点について検討 する必要性が高まっていると感じられる。
筆者は都内某区においておよそ8年にわたり,
「発達支援アドバイザー」(初期は「特別支援教 育巡回相談員」)として公立幼稚園,小学校,
中学校を対象に,特別支援教育の面から,幼児 児童生徒に対する直接的な支援,その保護者を 対象にした面談と指導助言,担任教諭等への指 導助言を行ってきた(伊藤 , 2011)。本稿では,
それらの経験を踏まえ,現時点で筆者が感じて いる特別支援教育に関する検討すべき事項をい くつか取り上げ,若干の考察を行うこととす る。
2. 特殊教育から特別支援教育へ
すでに周知のことであるが,我が国の障害の ある幼児児童生徒に対する教育の枠組みは最近 10 年で大きな変化を遂げた。その概要をたど れば, 2002 年に文部科学省が実施した「通常 の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とす る児童生徒に関する全国実態調査」の結果を踏 まえ,「今後の特別支援教育の在り方について
(最終報告)」が出された(特別支援教育の在り
方に関する調査研究協力者会議,2003)。これら を受けて,「特別支援教育」の理念や概念が整 備され,中央教育審議会の答申(「特別支援教 育を推進するための制度の在り方について」(答 申)平成 2005 年 12 月 8 日)では,特別支援教 育は,「障害のある幼児児童生徒の自立や社会 参加に向けた主体的な取組を支援するという視 点に立ち,幼児児童生徒一人一人の教育的ニー ズを把握し,その持てる力を高め,生活や学習 上の困難を改善又は克服するため,適切な指導 及び必要な支援を行うものである。」とされた
(中央教育審議会,2005)。
特別支援教育と従来の特殊教育との相違点 は,各自治体及び関係機関宛に出された文部科 学省初等中等教育局長からの通知(「特別支援 教育の推進について」(通知)19 文科初第 125 号(2007 年 4 月 1 日))によく表れている。こ の通知では,「特別支援教育は,これまでの特 殊教育の対象の障害だけでなく,知的な遅れの ない発達障害も含めて,特別な支援を必要とす る幼児児童生徒が在籍する全ての学校において 実施されるものである。さらに,特別支援教育 は,障害のある幼児児童生徒への教育にとどま らず,障害の有無やその他の個々の違いを認識 しつつ様々な人々が生き生きと活躍できる共生 社会の形成の基礎となるものであり,我が国の 現在及び将来の社会にとって重要な意味を持っ ている。」と述べられており,「知的な遅れのな い発達障害」のある幼児児童生徒への教育的支 援と「障害の有無やその他の個々の違いを認識」
特別支援教育の現状と課題
−学校現場での経験を踏まえて−
伊藤 直樹
すること,さらには「共生社会の形成」が強く 意図されている。こうした流れの中で,学校現 場では,障害の有無を同定し,その障害特性や 障害の程度に着目して障害のある幼児児童生徒 のみを対象に教育を行うという従来の枠組みか ら,障害の有無の同定には必ずしもこだわら ず,特別な支援の必要な程度に応じ,教育を行 うという方向にシフトしていった。
3. 学校におけるいくつかの問題
前節で述べた変化を踏まえ,学校現場で問題 となってきた点について,以下に述べる。
(1) 「個別性」と「集団教育」の対立に寄因す る問題
学校教育の基本的な枠組みとして「集団教育」
が挙げられる。日本では1学級40人を上限とし,
原則的に,そうした集団の中で教育活動が行わ れる。仮に 40 人のうちの 2 ~ 3 割の児童生徒が 教師の指示に従わず,ばらばらな行動を取れ ば,すぐさま学校教育における「集団教育」と いう枠組みは崩壊する。学級崩壊はその典型で あろう。一方,特別支援教育は「個別性」の重 視を前提としている。対象となる幼児児童生徒 のひとりひとりのニーズに合わせた教育を行う ことが必要不可欠となるから,それは当然であ る。
「集団教育」を行う上で非常に重要な原理は
「公正性」「公平性」「平等性」といえよう。も し,教師が特定の幼児児童生徒に教育的関わり を頻繁に持ち,他の幼児児童生徒には教育的関 わりをあまり持たないとしたら,それは好まし いことではない。学級集団はこうした教師の動 きに敏感に反応する。教師が個人的な感情に基 づき,特定の幼児児童生徒を優遇,すなわち,
俗にいう「ひいき」をしたとしたら,また,そ うした「不公正」「不公平」「不平等」が維持さ れ続けたとしたら,学級内の集団形成,生徒同 士の人間関係には大きな歪みがもたらされ,こ の歪みは子どもたちの様々な問題行動の引き金
となっていくであろう。
普通学級において特別支援教育を行う場合,
「個別性」と「集団教育」の対立の問題への対 応を避けて通ることは難しい。なぜなら,特別 な支援を要する幼児児童生徒への対応は,たと え,その理由について学校側から説明があった としても,その学級の他の子どもたちからする と,「不公正」「不公正」「不平等」と感じられ ることがあるからである。特別な対応が多岐に 渡ったり,長期に及んだりする場合は,そうし た受け止めはさらに強くなる。筆者の経験では,
特に,思春期を迎える小学校高学年から中学生 で,この傾向は非常に強くなるように感じられ る。まして特別な対応を行ってもそれが十分な 効果をもたらさず,結果として,対象となった 幼児児童生徒の「問題行動」により,周りの子 どもたちが心理的,身体的ダメージを負うよう な事態がもたらされれば,さらに深刻な状況に なる。学級の混乱が長期化,深刻化すれば,保 護者から学校に不安の声が寄せられることにも なるだろう。このような場合,学級だけでなく,
学年全体にも影響が広がることもありうる。
こうした問題について,特別支援教育が何か 具体的な対策を用意しているというわけではな い。特別支援教育は,学校側,教師側が特別な ニーズに適切に対応すれば,その子の「問題行 動」は収まり,学級がよりよい学習空間として 機能することを前提として全体の枠組みが構成 されている。「個別性」と「集団教育」の対立 について,先に述べた文部科学省の一連の報告 書や答申等で突っ込んだ考察がなされているわ けではないし,その後もこの問題はなかなか正 面切って取り上げられることがないように思わ れる。
(2) 学校という組織の特性に寄因する問題 次に,特別支援教育と組織としての学校との 関係について見てみたい。校務分掌として特別 支援教育を担うのは,「特別支援教育委員会」
や「教育相談部」,「生徒指導部」といった名称 の組織であることが多いだろう。この7年で,
こうした校務分掌の特別支援教育の面での必要 性は校内においてかなり認知されてきたといえ るだろう。しかし,組織の実質的な位置づけは 学校によって大きく異なっている。校務分掌と してそれが明確化され,認知されることと,学 校という組織の中で十分に機能するかどうかは 別の問題である。特別支援教育を校内で機能さ せる際にキーマンとなるのは,「特別支援教育 コーディネーター」と呼ばれる教員である。本 来は,特別支援教育に関する知識や経験が豊富 な教員がなるべきであるが,実際には,そうし た人材がすべての学校に配置されているわけで はなく,経験が浅い教員が担当することもあ る。こうした場合,校務分掌はあっても実質的 に効果的な支援になかなかつながらないことも ある。特別支援教育コーディネーターの果たす 役割については,伊藤 (2011) も参照されたい。
特別支援教育に関連する教員以外のマンパ ワーとして,スクールカウンセラーや,支援員,
スクールソーシャルワーカー,学校ボランティ アといった人々が挙げられる。以前に比べれば,
学校に教員以外の職種が配置されるようになっ ている2)。そうした意味では専門性を発揮した 支援が行いやすくなっているように見えるわけ であるが,実際には,「多職種の配置」イコー ル「支援の充実」ではない。それぞれの専門性 が立脚する理念や原則が異なるという場合も多 いため,学校に多くの職種が配置されるほど,
それらの人材のマネージメントは困難度を増し ていく。
(3) 「保護者の理解」及び「本人の理解」とい う前提の持つ意味
特別支援教育は基本的に本人や保護者の理解 を前提とした教育的支援である。古屋 (2002) は特別支援教育の導入に際しての保護者の理解 の重要性について「子どもの望ましい成長・発 達を実現するには,保護者等の思いを受け入れ つつ,連携した教育活動がいかに展開できるか にかかっている。乗り越えるべき課題は多いが,
理解・連携への取り組み抜きには,この教育は
成立しないとも言える。」と述べている。
周りから見て,「特別な支援が必要だ」と感 じられる場合であっても,本人や保護者が「特 別な支援は必要ではない」と感じていれば,支 援を無理強いすることはできない。そうした場 合,時間をかけて,根気強く,支援の必要性を 本人や保護者に繰り返し伝え,理解と協力を求 めていくということになる。しかし,そうした 試みをしても,残念ながら本人や保護者の理解 が得られない場合が一定数ある。「障害児」と いうレッテルを貼られ,本人や兄弟姉妹がいじ めを受けるのではないかと不安を抱く場合,保 護者自身が精神的問題を抱えていて学校とのコ ミュニケーションがうまく取れない場合,虐待 の発覚をおそれ,支援を拒絶する場合,経済的 な問題を抱え,保護者が昼夜働き詰めであるた め連絡がつかない場合など様々なケースがあり うる。
こうした場合には,原則論を言えば,特別支 援教育の対象とすることができず,他の幼児児 童生徒と基本的に同じ教育的対応を取らなけれ ばならないことになる。しかし,そうはいって も,実際にはその子の様々な特性や言動によ り,本人の成長や学習が妨げられたり,友人関 係に支障が出たり,身体的な危険が発生したり する場合もあるため,生活指導・生徒指導ない し学習指導的な枠組みの範囲内で,「見守り」
的なスタンスにより現実的で控えめな対応を取 ることとなる。こうした場合,本人にもクラス メートにも教員が特定の幼児児童生徒を支援し ていると悟られぬよう,あくまで全体への指導 の中の一つとして位置づけるような配慮が必要 となり,本格的な支援を行えず,歯がゆい思い をすることになる。
伊藤 (2013) でも述べたが,小学校では特別 な支援を受け,学習,生活面で比較的良好な適 応状態であった児童であっても,中学では支援 を受けることを拒否するという場合もある。本 人や保護者がその必要性を認め,学校とよい協 力関係にある場合には,特別支援教育は比較的
スムーズに展開する。この場合,特別支援教育 に関する研修をある程度受けている教員であれ ば,かなりの部分,適切に対応できる。学校現 場で教師が最も困るのは,そういったケースで はなく,本人や親が頑なに支援を拒否するよう な場合である。こうした場合にどのような対応 が効果的となり得るのかについて明らかにする ことが必要となるだろう。それには,保護者や 本人の理解が得られなかったケースの詳細な事 例研究の積み重ねが効果的なのではないかと思 う。水野・徳田・西館 (2014) は,こうした事 例について,①子どもの状態を伝えようとする 人との接触を避ける,②「子どもに発達障害の 傾向はない」と言ってくれる人を探す,③障害 受容を促そうとする人を攻撃する,④子どもの 問題は発達障害以外に原因があると考える,⑤ 子どもに特訓を強いて,定型発達児に追いつか せようとする,⑥「障害が治る」と謳う教室な どに子どもを通わせる,の 6 類型に整理し,そ れぞれについて対応の指針を述べている。しか し,現時点では,書店に並ぶ特別支援教育に関 する膨大な書籍や専門書は,教育的支援の原則 やうまくいった実践的工夫を紹介するものがほ とんどである。保護者や本人の理解が得られな いケースへの対応を中心に据えて,その方法論 に関する議論をじっくりと展開する研究がさら に蓄積されることが必要である。
4.「障害」をめぐる考え方の変化
(1) 「障害」概念の連続性が持つ意味
特別支援教育の導入の際に,最も焦点が当て られていたのは,「LD,ADHD,高機能自閉症」
とよばれる発達障害である。発達障害の特徴の 一つは他の障害に比べて障害の有無がわかりに くいということである。それゆえ,これまで学 校場面では本人の努力不足や親のしつけの問題 に原因があると考えられてきた。一部の典型的 な発達障害の症状を持つ子どもは例外として,
それ以外の場合,「発達障害」の有無を判断す
ることは容易ではない。また,典型から非典型 まで発達障害的な症状が連続性を持って存在す ることを想定することは,さらに進めば,発達 障害という障害自体が「障害のない」子どもと 連続性を持つ障害であるという認識につなが る。「障害」と「健常」の「ボーダーレス化」
ともいえるだろう。
視覚障害,聴覚障害も実は「障害」と「健常」
という状態は連続している。前者は視力,後者 は聴力を考えればわかりやすい。どこからが視 覚障害でどこからが聴覚障害かということにつ いては,例えば,「学校教育法施行令第二十二 条の三」に規定する就学基準では,「盲者」は「両 眼の視力がおおむね 0.3 未満のもの又は視力以 外の視機能障害が高度のもののうち,拡大鏡等 の使用によっても通常の文字,図形等の視覚に よる認識が不可能又は著しく困難な程度のも の」,「聾者」は「両耳の聴力レベルがおおむね 60 デシベル以上のもののうち,補聴器等の使 用によっても通常の話声を解することが不可能 又は著しく困難な程度のもの」と定められてい る。しかし,視力が0.3の場合は障害がなく,0.2 の場合は障害があるというふうに,数値により 厳密に区分することに必然的な意味があるわけ ではなく,就学相談では,上記の基準を踏まえ つつ,その子どもの生活状況を確認の上,もっ ともよい教育の場を考えることになる。
しかし,視力や聴力が連続性を持つ概念だと しても,そこには一応,明確な基準がある。発 達障害の場合にも診断基準はあるのであるが,
操作的に判断できる面が小さく,生育歴や行動 観察,様々な検査結果を総合して「診断」され るものである。筆者の経験では,医療機関,医 師により,その診断基準の運用にはかなり差が あると感じられる。例えば,片岡・菊池 (2014) はアスペルガー症候群(ASD)当事者の視点か ら「ASD 診断にほぼ必須な母親などの養育者か らの生育歴聴取の構造化面接,あるいは自閉症 診断観察検査(ADOS)等の国際的に標準化され た ASD 診断ツールによる評価をせず確定診断が
行われがちな現状は『ASD 過剰診断』の弊害を 引き起こしている」,「このような粗い診断では,
ASD とはまったく別軸のさまざまな育ちの問題 に由来する生きづらさを抱えた『生きづらさス ペクトラム』というべき人たちを抽出するにと どまり,診断という行為が ASD の人たちの困難 を解消するフラグとして機能しない」と指摘し ている。
ち な み に, ア メ リ カ 精 神 医 学 会 (2013) の
「DSM-5」からは,「アスペルガー症候群」とい う診断名はなくなり,他の自閉的障害とともに
「自閉スペクトラム症/自閉症スペクトラム障 害」に統一されている。現在でも,診断基準が 大幅に見直されることは,「発達障害」や「自 閉症」とは何かを理解すること,また,その診 断基準を定めることが難しいことを示している といえるだろう。
ノーマライゼーションやインクルーシブ教 育,「障害は個性」というキャッチフレーズに 見られるように,障害のある人とそうでない人 の境界を取り払っていこうという社会の動きに より,こうした「ボーダーレス化」したとらえ 方はより一般的になっていった。それはこれま での障害のある人への差別と偏見の歴史を考え れば,非常に好ましい動きであるといえる3)。 一方では,この「ボーダーレス化」の動きは
「誰」に「どのような支援」を行うべきなのか についての認識をあいまいにすることにもつな がっているように思われる。先述の「アスペル ガー症候群」を例に挙げて考えてみよう。例え ば,学校現場では,対人関係をうまく持つこと ができない子どもがいた際に,「あの子はアス ペルガー症候群ではないか」というような教師 の発言が聞かれることがある。このような視点 は,特別な支援を必要とする子どもへの対応を 早めに行うという点で有用である。しかし,そ うした視点が対人関係に「問題」がある子ども がいるとすぐに使われる結果,その対人関係の
「問題」が実際の発達障害に起因するのか,成 長の途上の発達課題に起因するのか,いじめに
起因するのか,クラス内の一時的な人間関係の 変化に起因するのかといった様々な面が混同さ れやすくなる。障害特性の正確な理解なしには 適切な支援は難しいのであるが,このように障 害概念が「ボーダーレス化」することにより,
支援の際の視点の「曖昧化」とでもいうべき問 題が起きることが多くなっているように感じら れる。
(2) 「合理的配慮」をめぐるいくつかの問題 2006 年 に 国 連 に お い て 採 択 さ れ, 日 本 で 2014 年に批准された「障害者の権利に関する 条約」では,「合理的配慮」というキー概念が 登場している。日本では中央教育審議会の中に
「合理的配慮等環境整備検討ワーキンググルー プ」が設置され,ここで日本の学校教育におけ る「合理的配慮」の取り扱いが議論されている
(合理的配慮等環境整備検討ワーキンググルー プ,2012)。この中で,「合理的配慮」は「障害 のある子どもが,他の子どもと平等に『教育を 受ける権利』を享有・行使することを確保する ために,学校の設置者及び学校が必要かつ適当 な変更・調整を行うことであり,障害のある子 どもに対し,その状況に応じて,学校教育を受 ける場合に個別に必要とされるもの」と定義さ れている。ただし,この配慮は「学校の設置者 及び学校に対して,体制面,財政面において,
均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」
であるとされる。障害者の権利に関する条約で は,「障害を理由とする差別には、あらゆる形 態の差別(合理的配慮の否定を含む。)を含む」
とされており,「合理的配慮」を否定すること 自体も差別ということになる。
「合理的配慮」の「合理」の指す内容は時代 や国により異なってくるであろう。現時点では,
この点について,少なくとも日本において社会 的な合意が形成されているとはいえない。本人 や保護者のニーズにできるだけ十分に応えるよ うな教育的配慮を行うことが,もっとも重要な ことであるのは間違いないが,学校の提供でき る教育的支援に限界があることからも,どのよ
うな「合理的配慮」を行うかについて,本人及 び保護者と学校側の十分な話し合いの場を持つ ことが必須となる。つきつめて考えれば,本人・
保護者と学校との間に一定の協力関係がなけれ ば「合理」を設定できず,したがって,「合理 的配慮」による教育は困難となるといえる。ま た,「合理的配慮」における「必要かつ適当な 変更・調整を行う」ためにも本人の障害特性の 正確な理解が必要になる。こうしてみると,「合 理的配慮」は,「誰」に「どのような支援」を 行うかが明確化されることが前提になっている といえよう。「アスペルガー症候群ではないか」
という視点だけでは,「合理的配慮」は難しい のである。
筆者が教職課程の教員であることを踏まえ,
この「合理的配慮」についてさらに考察を深め るために架空の事例を提示したい。
「アスペルガー症候群」があると思われるあ る大学生は1年次より教職課程を履修していた。
順調に講義系科目の単位を取得し, 4 年次の教 育実習に向けて 3 年次から準備を始めた。しか し,学内における度重なる対人的なトラブル,
些細なこと(本人にとっては「些細なこと」で はないのであるが)から起きる激昂とパニック,
独自のこだわり等については改善されない。本 人は診断も受けていないし,自分自身に障害が あることを認めていないため支援も受けない。
取得単位要件上,形式的には教育実習を行いう るのであるが,大学側としては教育実習中に生 徒や教師との間でトラブルが発生する可能性が 高いと感じている。
こうした例は,学校の教師だけでなく,医師,
社会福祉士,介護福祉士,保育士等,専門職養 成のために対人的な場での実習が必要となる場 合には十分起こりうる事態である。この事例の 場合,本人が障害という診断を受けておらず,
また,本人にもそれを認める意思がないため,
双方の話し合いによる「合理的配慮」がなしえ ない。
では,仮に診断を受けており,本人がそれを
認め,自らの障害特性について理解を有してい るが,良好な対人関係を築くことができない状 態であったらどうであろうか。教育実習を行わ せるべきであろうか。
実習校側に「合理的配慮」を求めることは,「均 衡を失した又は過度の負担」を課すことになる おそれがある。ましてこの実習生の授業を受け,
学校生活の中でこの実習生に接する生徒に「合 理的配慮」を求めることはできないであろう。
教師は本質的に対人的な専門職であり,その資 格付与には一定の対人的な能力が必須要件とし て組み込まれていると考えられる。それゆえ,
その必須要件に対して「合理的配慮」を行うこ とは資格に必要な要件を損なうことにつながる といえよう。
Wolf, Brown, & Bork(2009) は,アスペルガー 症候群の学生に対する大学側の支援方法につい て述べる中で,学生及び大学の義務と権利につ いて,表 1 のようにまとめている。この中で,
<学生の権利><大学の責務>に加えて,<学 生の義務>として,「キャンパスの指定された 部署に自己開示すること」「キャンパスのポリ シーを遵守して障害を証明する合理的文書を提 供すること」「合理的ポリシーと手続きに従う こと」「必要とされる学問的,行動的水準を満 たすこと」が挙げられている。また,<大学の 権利>として,「学問の水準,統合性,自由を 維持すること」「コースとプログラムの基本的 必要条件を決めること」「行動規範を維持し遵 守させること」が挙げられている。障害のある 学生への合理的な配慮を考える上で参考にな る。
まとめ
本稿では,特別支援教育の現状と課題につい て,筆者の発達支援アドバイザーとしての経験 や教職課程の教員としての経験を踏まえつつ,
その中で課題として浮かび上がってきたことを 整理した。筆者自身,学校を訪れるたびに「特
別支援教育」の難しさを痛感している。
いうまでもないことであるが,障害のある子 ども,障害のない子どもがともに学ぶ学校を作 ることが最も大切なことである。日々の実践に は数多くの困難や矛盾が横たわっているが,特
別支援教育に関する研修に加えて,根気よく実 践を積み重ねていくことが学校の教師や援助者 に必要とされる専門性のひとつといえるだろ う。
表 1 アスペルガー症候群のある学生の権利と義務及び大学の責務と権利
<学生の権利>
・ すべての大学のプログラムと活動への平等なアクセス
・ すべての教育的活動への平等なアクセス
・ 合理的で適切な配慮
・ プライバシーと秘密の保持
<学生の義務>
・ キャンパスの指定された部署に自己開示すること
・ キャンパスのポリシーを遵守して障害を証明する合理的文書を提供すること
・ 合理的ポリシーと手続きに従うこと
・ 必要とされる学問的,行動的水準を満たすこと
<大学の責務>
大学は障害があると認められた学生に対して以下の点を保障しなければならない。
・ すべての教育的プログラム,サービス,施設,活動に対する平等なアクセス
・ 合理的配慮,学業的適応,そして/ないし,補助的支援とサービス
・ 学生の秘密の保持
・ 文書化されたポリシーと手続き(苦情申し立て含む)
<大学の権利>
・ 学問の水準,統合性,自由を維持すること
・ コースとプログラムの基本的必要条件を決めること
・ 行動規範を維持し遵守させること
注)Wolf, Brown, & Bork(2009) より該当箇所を抜粋し,筆者が邦訳した。
[ 注 ]
1) 導入に先立ち,2005 年度より各都道府県に対 して「特別支援教育の推進体制整備事業」が 委嘱されており,先行して行った自治体もあ る。
2) ただし,これには地域差が大きい。比較的 財政基盤がしっかりしている自治体の公立学 校であっても,学校数が多い地域では十分な マンパワーがないのが現状である。
3) 余談であるが,筆者の本務校の教員免許取
得を目指している学生の中には,障害のある 子どもと接した経験がほとんどないにもかか わらず,「自分には障害のある子どもに対す る偏見はない」と述べる学生が案外多い。実 際には,介護等体験の中で自分が思い描いて いた「障害」と実際の「障害」の違いに大き なショックを受けたり,逆に,「障害」のあ る子どもたちの学ぶ姿,また,子どもたちに 真摯に向き合う教師や指導員の姿に心を動か
されたりして帰ってくる。介護等体験が学生 に与える影響についての詳細は,伊藤 (2010) を参照されたい。
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