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<研究ノート>享保飢饉の疾病対策 : 江戸幕府頒布 の「薬法書」の内容と性格

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(1)

の「薬法書」の内容と性格

著者 中山 学

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 60

ページ 64‑81

発行年 2003‑09‑30

URL http://doi.org/10.15002/00011460

(2)

江戸幕府は、享保飢鐘に際して医薬書を頒布し、民衆の疾病救済にあたった。この事実は、研究史上、天明四年二七八四)五川に公布された幕府の疾病対策のための触書二11参照)より知られるものとなった。天明四年五月の疾病対策触は、享保十八年(一七一一一三)十二月付の「薬法書付」を収録したもので、幕領・私領の差別、町・村・浦の区別なくn本全土に行き渡らせることを意図して公布されたものである。そのため、今Hでもその写しは全国規模で発見されており、特に珍しいものではない。しかし、研究史上、この触書に対する関心は低く、これを具体的に検討した研究は乏しい。そのため、この触書の内容に不審な点があるということについてはほとんど知られておらず、触書の性格理解も不十分なままである。実は、この触書は、享保飢鐘時の疾病対策について言及する内容ながら、その事実関係を正確に伝えるものではない。むしろ誤っ 法政史学第六十号

享保飢鰹の疾病対策

l江戸幕府頒布の「薬法書」の内容と性格I 〈研究ノート〉

はじめに た理解を提供するものなのである。これまでの研究では、こうした点が見過ごされてきたために、享保飢饅に際して幕府が採った(1)疾病対策の実像もほとんど知られていないに等しい。そこで本稿は、享保飢餓に直面した幕府の疾病対策がどのようなものであったのかを明らかにする。本論に入る前に、以下、本稿の課題を示しておきたい。まず第一節では、天明四年五月公布の幕府触書について検討する。そして、この触書の内容にどのような問題があるのかを明らかにし、これが享保飢繊時の疾病対策に関する正確な理解を可能にする水準にないことを証明する。第二節では、享保飢鍾当時に成立した直接の史料を用いて、享保飢鯉における幕府の疾病対策を具体的に明らかにする。そして、実際に頒布されたと考えられる医薬書の内容を検討し、幕府がどのような意識で疾病対策に臨んでいたかを考察する。本稿では、以上の方法をもって享保飢饅における幕府の疾病対策を明らかにするものである。なお本稿では、天明四年五月公布

中山 学

六四

(3)

1「薬法書付」をめぐる言説の問題享保飢饅の際に江戸幕府が医薬書を作成・頒布し、民衆の疾病救済にあてたという事実は、研究史上、天明四年二七八囚)五月付の江戸幕府触書より指摘されるところとなった。次の史料は、天明飢鰻に直面した江戸幕府が全国の幕領・私領を対象とし、廻状方式で布達させた疾病対策のためのその触書である。内容は、五十二年以前の享保飢鐘の際にも町奉行に命じて板行させ、幕領村々に配布した(傍線部①)という享保十八年(一七一一一三)十二(2)月付の「薬法書付」を改めて紹介したものである。天明囚辰年五月大凹付江時疫流行候節、此薬を用て其煩を遁るへし(1)一時疫には、大つふなる黒大一兄をよくいりて壱〈口、かんそ(マ、)う壱匁、水にて前し出し、時々呑てよし、右、瞥渥二出

(2)’時疫二は、茗荷の根と葉をつき砕、汁を取、多く呑て士口、右、肘後備急方二出ル の触書の内容が享保飢鐘時の疾病対策の実像と食い違うものであることが明白になるであろう。そこで、天明飢饅に直面した幕府が、五十二年前の疾病対策のありようを民衆に対してどのように説明したのかという観点を重視し、天明四年五月公布の疾病対策触の歴史的意味付けについても考えたい。

享保飢饅の疾病対策(中山) 天明四年五月公布の江戸幕府触書 (3)一時疫には、牛房をつき砕、汁を絞、茶碗二半分宛一一度飲て、其上桑の葉を一握程火にてあぶり、黄色二成たるとき、茶碗二水四盃入、二盃二煎して、|度飲て汗をかきてよし、若桑の葉なくハ枝二ても吉、右、孫眞人食忌一一出ル

(4)一時疫にて熱ことの外つよく、気運のことく騒て苦しむニハ、芭蕉の根を春くたき、汁を絞て飲て吉、右、肘後備急方一一出ル一切の食物の毒にあたり、又いるノーの草・木・きのこ・魚・鳥・獣なと喰煩二用て、其死を遁るへし(5)一一切の食物の毒二あたりくるしむ二は、いりたる塩をなめ、またハぬるき湯にかきたて飲て吉、似、草木の葉を喰て毒にあたりたるにいよノーよし、右、農政全書に出ル(6)|一切の食物の毒二あたりて、胸苦しく腹はいり痛には、苦参を水にてよくせんし、飲食を吐出して吉、右、同断(7)|一切の食物二あたいり苦しむ二、大麦の粉をかうはしくいりて、白湯にて度々飲て吉、右、本草綱Ⅱ二出ル(8)一一切の食物二あてられて、口・鼻よりⅢ出てjbたえ苦しむには、ねきを刻て壱合、水にて能煎し、ひやし置て幾度も飲へし、出血やむ迄用て吉、石、衛生易簡二出ル(9)一一切の食物の毒二あたり煩に、大つふなる黒大一見を水にて煎し、幾度も川て吉、魚にあたりたるにはいよノーよ

‐し、

(4)

燭鬮削叩召旬凶偶付、此度為御救、右之写村々え、領主・地頭より相触候様可被致候右之趣、可被相触候(天明四年)五月傍線部②によれば、享保飢鰹の際に頒布した「薬法書付」は、年月の経過とともに村々において失われていることも想定されるため、救済を目的として再び布達する運びになったという。ところで、この触書の内容に関しては、以下二つの点で問題を指摘することができる。そして、この問題のために江戸幕府の説 法政史学第六十号(、)一一切の食物の毒二あたり煩に、赤小豆の黒焼を粉にして、蛤貝に一シ程宛、水にて用ゆへし、獣の毒にあたりたるに弥よし、右、千金万二出ル(Ⅲ)一菌を喰あてられたる二、忍冬の茎・葉とも生にてかみ、汁を飲てよし、右、夷堅志一一出ル〈寄留)右之薬方、凶年之節、辺士之もの雑食之毒二あたり、また、凶年之後必疫病流行事あり、其ため二簡便方を撰むへき旨依被仰付、諸書之内より致吟味出也、(マ、)(肘豚)享保十八辛丑年十一一月望月三英(頁機)丹羽正伯

刻板行彼l仰柵N制劉瓢凹剛勺渕綱祠偶弓右は、当時諸国村々疫病流行致し、又は軽者共雑食之毒一一中り州煩、難儀致し候趣机聞候処、前普劇倒HN刊劃刈州制

る。江戸幕府自身の説明にあるように、「薬法書付」の配布が享保 る。しかし、享保飢饅はあくまで西日本一帯に現出した飢饅であ よって全国の幕領村々が一律に共有するものとなりうるのであ らも看取される。つまり、享保十八年の救済経験は、この触書に りを見せたであろうことは、次項に見る伊奈忠尊代官所の事例か 文章構造になっているといえる。また、事実そうした認識が広が 法書付」拝受による救済経験をその歴史の一部として解釈しうる をもつ。言い換えれば、この触書は、全国の幕領一村一村が「薬 均しく「薬法書付」散逸の可能性(傍線部②)を問いかける性質

全国を対象に公布されたこの触書は、当然全国の幕領村々に対し、 であったと限定するものの、地域特定は行っていない。そのため で幕府は、「薬法書付」の配布対象を「御料所村々」(傍線部①) 第二は、江戸幕府による事実関係説明の問題である。この触書 されたものであるのかどうかは疑問である。

11

(3) 「辛阯」と誤記されている点も含めて、「薬法書付」が正確に筆写 じさせる。享保十八年の干支は本来「癸丑」であるにも関わらず、 保十八年十二月に成立したというのは、明らかに時間的乖離を感 食毒への対応をも視野に入れて作成されている「薬法書付」が享 していた。そのため、飢饅後に疫病が流行するのが常とはいえ、 西日本一帯に現出した飢饒であるが、翌十八年夏頃には既に終息 は、享保十七年(一七一一三)夏の虫害による大凶作を主因として 問題の第一は、「薬法書付」の本文に関する点である。享保飢髄 にくいものとなっている。 明は、享保飢饅時疾病対策の実像を正確に表現しているとは考え 一ハーハ

(5)

天明四年五月に公布された「薬法書付」掲載の触書は、第1項で示したように、享保飢饅時の疾病対策について正確な理解を提供するものではない。そこで、享保飢饅時に配布されたという「薬法書付」が正確にはどのようなもので、どの範囲に配布されたものであるのか調べてみると、管見の限り現時点では次のように言うことができる。(1)「薬法書付」は、小幡藩領内(上野国甘楽郡)で頒布された、浅間山の噴火した天明三年布達(月日は不明)と考えられる史料を例外として、基本的に、天明Ⅲ年五月以前の地方文謝の巾(4)には現れてこない。(2)「薬法書付」と非常に似てはいるものの、内容に異同のある医薬書が見出せる(本論二12参照)。なお、その医薬書の日付は享保十八年二月である。 飢饅対応策の一環として講じられたものであるならば、むしろそれが全国規模で行われたとは考えにくい。「薬法書付」配布による救済実績を全国の幕領村々に均しく適用するような形の事実説明がそもそも正確なものであるのかは、今一度の検証を必要とすると言えよう。以上の通り、江戸幕府による事実説明は、検討の余地を残すものである。そのため、触書に示された説明内容は、そのまま享保飢謹時の疾病対策に関する旺確な理解を提供する性質のものではないと言える。

享保飢鰹の疾病対策(中山) 2「薬法書付」をめぐる事実の検証 (3)享保十八年三月付の医薬書請書一点、同年四月付の医薬書利用報告書二点が西日本に限って見出される。以上を整理すれば、日付や内容の異なる「薬法書付」の底本と考えられる医薬書が享保十八年二Ⅱ以降に配布された事実の確認はできる。だが、それは西日本に限ったもので、「薬法書付」そのものが享保十八年十二月に全国今として布達された形跡は、現時点では確認できない。このように、「薬法諜付」は、大川三年に川地的に布達された可能性のあるものを例外として、基本的には何四年五月公布の触書に掲載された写し以外には見当たらないのである。ところで、「薬法書付」が享保十八年段階で実際に配布されたものであるのかを確認する作業は、天明四年五月の触書が公布された直後にも行われた。次の史料は、天明四年五月付の「時疫流行候(妙)節明薬御触」と記された表題をもつ史料である。本来は、書留部分・選者名を欠く「薬法書付」がおさめられているが、重複するのでここでは省略し、伊奈忠尊代官所による添書とその後に記された村(5)側の添書とを示す。一マ、}右者、享保十八辛丑年、飢餓之後時疫致流行候処、町奉行江板行被仰付、御料所村々江被下候写、此度諸国村々疫病致流行候二付、猫又今度為御救、村々江川為触知旨被仰渡候二付、(個力}得其意、触下村々名主一一写直、小前百姓共江不残様可申聞候、此触書令請印、早々順達、留村占可相返者也耐歯型辰五月半左役所

(6)

申、然処当年譜病多有之二付、猶又其触有之、勿論此節へ江戸表井私領領主・地頭、浦々迄御触有之二付、写置候天明四甲辰五月傍線部①によれば、情報源は不確定ながら、関東の農村でも享保十八年に表紙付きの印刷物形態で「薬法書付」の頒布された事実があると聞いていた。ところが傍線部②によれば、村側は、過去に頒布されたはずの「薬法書付」が見当たらないという見解を示している。もとよりこの史料は、享保十八年当時の「薬法書付」頒布の事実を否定しうる積極的根拠にはなりえないものである。しかしこうした村の反応は、これまでに筆者が行ってきた調査の結果からすれば大変興味深い示唆的な内容である。以上確認してきたとおり、「薬法書付」の流布状況からすれば、現時点では、享保十八年当時における「薬法書付」そのものの頒布という事実も、また、それによる救済が全国規模で展開したという事実も、共に立証しえない疑わしい状況にあると言える。そのことはつまり、天明四年五月の触書が享保飢鐘時の救済実態を正確に伝えるものではなかったことを示唆している。実際に、「薬法書付」とは別様の医薬書の流布が確認されたことは、それを補強する重要な事実である。そのため、享保飢鐘における幕府の疾病対策を理解するためには、享保飢饅当時の直接の史料に即して再検討する必要があると言える。 法政史学第六十号

(マ、)右之通り五拾年以前、享保十八辛丑年、御料所村々江計り、

14

様承及候処、梛則「『山一Ⅲ

1享保十八年春の「薬法書」配布享保飢鰻時に医薬書が頒布された事実は、江戸幕府の残した享保飢鐘に関する公式記録としての「虫附損毛留書」の中にも確認することができる。「虫附損毛留脅」第十四分冊は、「御勘定方留」という内題をもち、その月次によれば。、薬法書之薬用候儀ニ付書付」という項Uがある。そしてこの項目について確認すると、「薬法書之薬用候者之書付」として、享保1八年の①八月十八Ⅱ、②九月二’’日、③十二月二十Ⅱの一一一度に分けて、勘定奉行杉岡佐渡守能連・細田丹波守時以より老中松平左近将監乗邑に提出された帳面が書写されている。さらに、提出された帳面(写)のそれぞれに付された「銘書」と称された表題は以下のように記されており、江戸幕府による享保飢餓時の疾病救済に関する事実の一(6)端を理解することができる。①八月十八Ⅱ提出帳面(享保’八年)「丑八月十八Ⅱ(松平泉且〉左近将監殿江上ル」

五畿内・西国・四国・中同筋御料所村々江相渡候薬法書之薬相用、病気快気仕

銘書候もの共、御代官井御預リ所役人より申聞候書付

一能連)杉岡佐渡守

(時以)細田丹波守

五畿内・西国・四国・中国筋御料所村々江相渡候薬法書之薬 二享保十八年春の疾病対策

(7)

相用、病気快気仕候者共、御代官丼御預リ所役人より書付差出候覚②九月二十一日提出帳面(享保十八年)「任九月廿一日(松平蛎色)左近将監殿美作

備中国

備後

銘書村々、紫静相渡候薬法書之薬用、病気快気仕候

者共、先達而書上候外、又候御代官申聞候書付

(能迎)杉岡佐渡守

(時以)細田丹波守五畿内・西国・四国・中国筋御料所村々江相渡候薬法書之薬相用、病気快気仕候者共、先達而申上候外、又候此度窪嶋作右衛門書付差出候覚③十二月二1日提出帳面(享保十八年)「丑十一一月廿日一松平采邑)左近将監殿江上ル」(氏朝)北條遠江守御預リ所

銘書山城国村々、躯靜相渡候薬法書之薬用、病気

快気仕候もの共書付

(能迎)杉岡佐渡守

(時以)細田丹波守〈氏帆)北條遠江守御預リ所山城国村々、当春相渡候薬法書之薬用病

享保飢鐘の疾病対策(中山) 前項では、享保十八年の春に「五畿内・内国・川口・中国筋御料所村々」にのみ「薬法書」が頒布された事実を確認した。そこで本項では、実際に頒布された「薬法書」について検討する。これまでの調査によれば、享保十八年春に頒布された「薬法書」は、「和泉国大鳥郡上神谷豊田村小谷家文書」の中にその写しを見出すことができる。その原本は関西大学図書館に保存されているが、国文学研究資料館史料館でもそのコピーを閲覧することがで(7)き、本項では後者を利用して全文を紹介する(次頁参昭坐。それでは、実際に頒布された「薬法書」について具体的に検討を進めてみたい。まず「薬法書」は、享保十八年二月に幕府の西丸医師望月三英・小普請医丹羽正伯が作成したものである。そして、「薬法書」の末 気快気仕候者共之覚これら帳面の表題から知られる通り、享保十八年に頒布された医薬書は、「薬法書付」ではなく「薬法書」と呼ばれるものであった。しかも、「薬法書」が頒布された時期は、傍線部にあるとおり、享保十八年’二月ではなく、「春」である。さらに、その頒布対象は、「五畿内・西国・四国・中国筋」の、領り所をも含む幕領村々であった。江戸幕府は、享保飢鐘の直接の被災地にのみ「薬法書」を頒布したのであり、第一節に取り上げた天明旧年五川の触書における江戸幕府の説明が不正確なものであることは、ここに明らかである。

2享保十八年二月成立の「薬法書」

(8)

法政史学第六十号

(疫)びやう□疫のはやる節、此薬を(小見川LL(用)□て其煩をのかるべし

く一)(火)くる士め③□□粒なる黒大豆をよく(妙)かんきう□て壱谷口、甘草壱匁、(水)(に)□□てせんじ、呑てよし(マ、)方、瞥准二出ルあづき(山亘』んせう

又、赤小豆と□枡を四拾九粒シ、{の、又はと)月の節替リ□前夜、人のしらぬ様二丼の内へ入置、其水をつかひてよし方、本草綱Ⅱ一一出ル

やくびよう〈小見川し2)はやり時疫に凧る薬

ぬうがハね一襄荷の葉と根をつき、汁をしぼり呑てよし方、肘後備急方一一出ルごぼう〈一で、)又、牛一房をつきくだき汁をしぼり、茶わんに半分シ、二度くわハ呑て、又桑の葉一にぎ、叩/ほどあぶりきいる火にて妙峪Ⅲソ、黄色に成たる時茶わんに水四盃入、二盃にあせせんじ、一度呑て汗一斤}もしくわかきてよ-」、若桑の葉なく(枝にて茂右の通こしらへ用てよし方、孫真人食忌一一出ルねつ又、時疫会〆|煩ふ者、殊之外熟つよく気ちがいのごとくざハぎ

(せうくるしむに、芭蕉の根をつき汁をしぼり呑てよし方、肘後備急方一一出ル

とくあた一切の食物の毒に中恥リ、又色々きのこの草・木・菌・魚・鳥・獣類全一」喰て煩ひ、其外食物之毒一一あたりくるしむに、妙りしほたラ()塩をなめ、又ぬるき湯にかき立呑てよし、草木の葉を喰て毒に中吃りたるにハいよノⅡ~よし(『、、)方、農人政全書二出ルむね一諸色食物にあてられ、胸くるしく腹張り痛にハ、少、(幻一℃こ〃、苦参を水にて濃くせん肝‐」、呑て食をはき出してよし方、備急良方一一出ル又、大麦の粉をかうばしくいり、さゆ一一而度々用てよし方、本草綱目二出ル又、一切の食物に中り、口・坐仏介己鼻より血を出しjもたへねぎのみくるしむにハ、葱子壱〈ロ、水にてこくせんじ、ひやし置、血やむまていく度も用てよし方、衛生易簡方一一出ル又、食物諸毒に中り煩ふに、つぷまめ大粒成黒大豆にてせんじ、いく度も用、魚毒二いよ』〃く、吉

方、衛生宝鑑二出ル又、一切食物諸毒にあづきくるあたりたる二、赤小豆を黒。」やきにして粉に}」しらへ、かいはまぐり貝に一シ程水にてけもの呑くし、獣に中りたるニハ

いよノーよしくどのそこのやけつちのこ又、伏龍肝粉にして、はまぐりかいに一シほど、水――て呑、はきていゆくし方、千金万二出ルきのこ又、一切の菌を喰あたりすいかつらハくきたるに、忍冬草、葉・茎ともに生にて喰てよし方、夷堅志二出ル右之薬方へ凶年の節、邊土之者雑食之毒に中り、又必疫病流布する事あり、其ため簡便の方可撰之旨、依台命、諸書之内(蹟)考出し、且亦普救□方に出たる方を茂書記者也享保十八丑二月東江瞥師(君彦)望月一二英〈貞橿〉丹羽正伯江戸御書物所出雲寺和泉橡発行 七○

(9)

表1「薬法書」処方菱の「普救類方」転用状況

「普救類方」

処方菱出典 薬法

処方菱

享保飢鰹の疾病対策(中山

(注)①出典として「肘後備急方」を指す②出典として「備急良方」を指す③出典として「本草網目」を指す

尾に記されたとおり、これは御用書物師出雲寺和泉橡が発行したものである。「薬法書」が印刷物仕立てで頒布されたことは間違いないと言ってよかろう。次に作成・布達にあたった江戸幕府医員両名による「薬法背」の位置づけを確認したい。重複を厭わず改めて引用すれば、「薬法書」は、「凶年の節、辺土之者雑食之毒に中り、又必疫病流布する事あり、其ため簡便の方可撰之(薊)]日、依台命、諸書之内考出し、Ⅱ亦普救□方に出たる方を茂書記者」である。以上、「薬法書」の位置づけを確認したところで、今度は内容を具体的に確認してみたい。まず「薬法書」の成立に関係することであるが、望月三英・丹羽正伯の説明によれば、収録された処方菱の中には既に「杵救類方」で紹介したものが含まれる。「普救類方」とは、将軍徳川吉宗の命を受けた林良適・丹羽正伯が享保十二年(一七二七)より編纂を開始し、享保十四年(一七二九)十川に完成、同十五年(一七三○)二月に「官刻普救類方」として売りに出された庶民向けの医薬書である。その内容は、「本草綱目」を中心とする中国伝来の複数の医薬書

「薬法害」

処方菱 「薬法谷」収録処方菱 「普救類方」収録処方菱 「普救類方」

処方菱出典 小見出し2-a -,茗荷の葉と根をつき、汁を

しぼり呑てよし、方、肘後備急 方二出ル

(時疫煩につき、熱つよく頭痛 し、項こわり腰いたむなとに)又 方、茗荷根と葉とを搗汁をしぼ

りとり、多く飲てよし、同①

「普救類方」巻 之三上「時疫」

小見出し2-c 又、時疫を煩ふ者、殊之外熱つ よく気ちがいのごとくざハぎ くるしむに、芭蕉の根をつき 汁をしぼり呑てよし、方、肘後 備急方二出ル

(時疫熱甚つよく狂乱のごとく にして、火をも水をも見わけざ るに)又〃、芭蕉の根を搗汁をし ぼりとり、のみてよし、肘後備急 方

「普救類方」巻 之三上「時疫」

(小見出し無)-b 一、諸色食物にあてられ、胸く るし〈腹張り痛にハ、苦参を 水にて濃くせんじ、呑て食を はき出してよし、方、備急良方 二川ル

(飲食の後、心悶、腹はりみち、何 の毒にあたりたるとも辨ざる に)又方、苦参を水にて濃煎じ、

飲て食を吐出してよし、同②

「普救類方」巻 之三下「飲食傷

<一切食傷>」

(小見出し無)-c 又、大麦の粉をかうばしくい り、さゆ二而度々用てよし 方、本草綱目二出ル

(何にても食物を喰過て腹大に はり、或は痛などするに)大麦麺 を熱、香しくして一匁、白湯にて 用ゆ、本草網目

「普救類方」巻 之三下「飲食傷

<一切食傷>」

(ノI、見出し無)-. 又、一切の食物に中り、口鼻よ り血を出しもたへくるしむに ハ、葱子壱合、水にてこくせん じ、ひやし置、血やむまていく 度も用てよし、方、衛生易簡方 二出ル

(諸の毒にあた1)熱して悶、「1.

鼻より血を出しなどして死なん とするに)又方、葱子二合半水に て煮、其汁を冷して飲くし、ml上 まで用てよし、肉毒にあたり1m を吐に用ゆ、衛生易簡方

「普救類方」巻 之三下「飲食傷

<一切食傷>」

(小見出し無)-h 又、一切の菌を喰あたりたる に、忍冬草、葉・茎ともに生に て喰てよし、方、夷堅志二出ル

(一切の菌の毒にあたりたるに)

又方、忍冬草を畷食してよし、

同③

「普救類方」巻 之三下「飲食傷

〈野菜中毒附 菓・瓜・菌>」

(10)

から処方菱を選び出し、これを平仮名・読み仮名を多く交えた平易な日本語に訳したものである。これに加えて、処方菱の出典を明記するなどの方法で医薬情報に保証を与える配慮も徹底して(8)いる。では、「薬法書」のどの処方菱が「普救類方」からの転用なのであろうか。照合の結果を示すと、[表1]の通りである。食傷対症療法に含まれるhの処方菱について出典が一致しないほか、dについても葱子の分量に違いが見られるなどの問題が(9)残る。だが、「薬法書」に収録された処方菱のうちの六種が、「並日救類方」からの転用であることは間違いない。「薬法書」は、『普救類方」巻之一一一上にある「時疫」、および巻之三下にある「飲食傷」という項目から処方菱を抜粋して作成されたのである。次に、「薬法書」の構成について検討してみたい。「薬法書」には、時疫と食傷に対処するための処方菱が計一三通り収録されている。また、二つの小見出が設けられており、用途に応じた処方菱利用が明確に提示されている。具体的には、時(時〉(川)疫に対処するための処方菱が「□疫のはやる節、此薬を□て其煩をのかるべし」{小見出し1)ものと、「はやり時疫に用る薬豈小見出し2)とに分類されているのである。これら小見出しは、時疫に特効のある処方菱を予防法と治療法とに区別するために設けられたものであり、例えば次の史料は、そうした使い分けが実際に(、)行われた事実を伝違えるものである。一御薬法書被成下候二付、村毎二壱枚宛相渡シ、私廻村之節委細申聞、又々廻郷仕候節病人有無之儀逐一相尋候処 法政史学第六十号

ハ左様之病人無御座、其外食傷等之薬、御薬法之通腹用仕、早速本腹仕、難有奉存候旨於村々申之候、快気之者之書付、先達而書上候通二御座候これは、幕府代官の坂本新左衛門正留が飢鰹関連の川務を完了して帰府した際に勘定方へ提出した用務報告の一節である。これによれば坂本正留は、「薬法書」を村ごとに一枚ずつ配布し、廻村して「薬法書」利用に関する指図をした。指図の具体的な内容は不明であるが、「薬法書」頒布の子細や利用方法などを説いて回ったのであろう。そして、再び廻郷した際には病人の有無を調査して歩き、あわせて廻村先の「薬法書」利用の実態を知ることになった。傍線部によれば、村々では「御薬法書之内疫病除ケ候ため之薬法」として「ふち形井之内江入置」くという処方菱を利用しており、その結果、疫病患者を出さずに済んだのである。ここで、「ふち形井之内江入置」く処方菱とは、文言の類似性から判断して小見出し1によってまとめられているbの処方菱、すなわち「赤小豆と山枡を四十九粒づ、、節かはりの前夜人のしらざる様に丼の内へいれ置て、其水をつかひてよし」を指すものであると考えられる。つまり、小見出し1に含まれる処方菱bは、疫病予防を目的として利用されたのである。さらに次の史料も、小見出し1に含まれる処方菱が、疫病予防(、)法として利用された事実を伝二える。(定英)松平隠岐守御預リ所 内江入置候処一一、例年疫病相煩候者多ク有之候得共、当年 一一御薬法書之内疫病除ヶ候ため之薬法、村々ふち形井之

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伊予凶村々右村々江御薬法書相渡候処、兼而為用心、黒大豆を妙甘草を人煎し□々二用ひ候故鰍、はやり煩等無御座、例年よりハ病人少キ万二耐百姓共難行かり候由、役人書付差出巾候これは、伊予国幕領の預り支配を担当した松山藩主松平隠岐守定英の役人が、「薬法書」の利用結果を報告したものである。これによれば、松平定英の預り支配した村々では、「黒大豆を妙、甘草を人前し」る〃法をあらかじめ「為用心」に川い、「はやり煩」の難を逃れたという。この処方菱は、小見出し1に含まれる処方菱aである。以化の検討から、小見出し1がどのように理解されるべきものであったのかは明白である。小見出しlは、疫病を予防するのに特効のある処方菱を指し示す標語である。小見出し1の意味が明らかになった今、小見出し2の意味するところは、ずと明らかである。3番Ⅱに登場する処方菱cのW頭に「時疫を煩ひ」とあるように、それは、疫病罹患者を治療するための対症療法を提示すべく用意されたものである。このように「薬法書」は、小児州しの標織機能によって収録した五つの時疫用処方菱を予防法(2種)と対症療法(3種)とに分類するものであった。また、処方菱に対するこうした分類意識は、各処方菱提示の様式にも強く反映している。それを示すのが、「一~」として提示される処方菱と「又~」として提示されるそれとの関係である。「薬法書」では、食傷対症療法aとbとの関係を例外として、

享保飢鰻の疾病対策(中山) 第2項では、村方文書の中に残された「薬法書」の写しを頼りとして、実際に板行・頒布されたものがどのような内容であったのかを検討した。その結果、「薬法書」は、利川者の読み方を規定し、収録処方菱が時疫予防法・時疫対症療法・食傷対症療法に区別されていることを明確に認識させるものであった。こうした工犬は、明らかに利川肴の処方菱利川に対する配慮から組み込まれたものであり、江戸幕府による飢鰹時の疾病対策が効果的観点から実践されていたことを物語る。 基本的に。~」として提示される処方菱のもとに「又~」として複数の処方菱を配置する書式が採用されている。この書式は、明らかに処方菱の分類・整理を進める方法である。「薬法書」は、この方法を採用することにより、時疫予防法・時疫対症療法・食傷対症療法といった三つの処方菱集合を生み出し、処方菱分類の視覚化を進めたのである。さて、これまでの検討を整理すれば、享保1八年二月成立の「薬法欝」は、次のように理解することができる。①「薬法書」は、「普救類方」を参考にしながら享保十八年二月に作成され、御用書物師出雲寺和泉橡によって発行された。②「薬法書」は、時疫予防法・時疫対症療法・食傷対症療法を提供するものであった。また、それは、処方菱を小見川しの設定や書式工夫によって分類・整理し、利用者に処方菱分類の存在を視覚的に認識させようとする効果をもつものであった。

3「薬法書」内容の改訂

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ところで、史料学的観点から言えば、「薬法書」にはもう一つ別の版が存在する。大石学氏が既に存在を確認している、「虫附損毛留書」第十一分冊に含まれるものがそれである。「虫附損毛留書」第十一分冊の内題は、「御石筆部屋御勘定方留帳二無之、左近将監留二有之分書抜」とあり、この中に「薬法書」の写しが記録され(旧)ている。(前香)「写町奉行二而巾付、令板行、御料村々江配、板木ハ商人江被下」(小見出l)・時疫の多くはやる節、此薬を用ひて其煩をのかるべ

(1)一大つぶなる黒豆をよく妙て壱〈口、甘草壱匁、水にてせん(マ、)じ出し時々呑てよし、o瞥派ニ出る、(2)一赤小豆と山枡を四十九粒づ、、節かはりの前夜人のしらざる様に丼の内へいれ置て、其水をつかいてよし、・本草綱目一一出る、(小見川2)oはやり時疫にもちゆる薬(1)’襄荷の根と葉とをつき汁をしほりとり、多く呑てよし、・肘後備急方二出る、(2)一牛房をつきくだき汁をしぼり、茶わんに半分づ、一一度呑て、其上に桑の葉一にぎりほとを火にてあぶり、黄色になりたる時、茶わんに水四はい入、二はいにせんし、壱度に呑て汗をかきてよし、若桑の葉なくハ枝にてもよし、。孫真人食忌一一出る、 法政史学第六十号七四

(3)一時疫を煩ひ熱ことのほかつよく、気ちかいのことくさはきくるしむに、芭蕉の根をつき汁をしほり、呑てよし、・肘後備急方一一出る、〈小見川3)一切の食物の奎母にあたり、又ハ色々の草・木・菌・魚・鳥・獣などをくひてわづらふに、(1)|一切の食物の毒にあてられくるしむに、抄たる塩をなめ、又ハぬるき湯にかきたて呑てよし、但し草木の葉をくひてどくにあたりたるにハいよノー~よし、・農政全書一一出

る、(21Z一一切の食物にあてられ、胸くるしく腹はりいたむに、苦参を水にて濃セんし、のミ、食をはき出してよし、・備急良方一一出る、(21J又、大麦の粉をかうばしく妙てさゆにて度々呑てよし、・本草綱目一一出る、(3)|一切の食物の毒にあてられ、口・鼻より血出もたへくるしむに、葱子壱合水にてこくせんし、ひやし侭ていく度も呑へし、血やむまて用てよし、・衛生易簡方二出る、(4)一一切の食物の毒にあたり煩ふに、大つふなる黒一丘を水にてせんし、いく度も用ひてよし、魚にあてられたるにハいよノー~よし、・衛生寶鑑一一出る、(51Z一一切の食物の毒にあたり煩ふに、赤小一兄の黒焼粉にして、はまぐり貝に一つほどづ、水にて呑へし、獣にあたりたるにハいよノーよし、○千金方一一出る、(514又、伏龍肝粉にして、はまぐり貝に一シほど水にて呑、

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はきていゆへし、○千金方一一出る、(6)一菌をくひてあてられたるに、忍冬草茎・葉ともに生にて食てよし、・夷堅志一一出る、右之薬法ハ、凶年之節遡士之者雑食之毒に中り、又必す疫病流布することあり、其ため簡便之方撰べきの旨仰付らる、によりて、諸書之内考たし、Ⅱ杵救類方に出たる方をもかきのする者也、〈(豚)

享保十八僕年一一月

望月一一一英(n機)丹羽肛伯この史料のうち、「前書」部分を除いて「o時疫の多くはやる節~」以降が「薬法書」の本文である。さて、前書によれば、この「薬法書」は、町奉行の指示で板行された後(板木はそのまま商人へ下された)、幕領村々に頒布されたものであるという。しかし、この「薬法書」の写しをよく観察すれば分かるとおり、村方文書の中に見い出せる「薬法書」とはだいぶ趣を異にする。以下、それぞれの「薬法書」全文の対応関係を示した[表2]を見ながら、異川のある点を検討したい。①小見出しの異同村方文書の中に兄出せる「薬法書」の写し(以下、便宜上「小谷家薬法書」とする)には、時疫用処方菱を分類する二つの小見出しは確認できるが、食傷対症療法を指し示すための小見出しは見出すことができない。それに対し、「御右筆部屋御勘定方留帳二無之、左近将監留二有之分書抜」の中に見出せる「薬法書」(以下、「左近将監留薬法書」と呼ぶ)にはそれが明確な形で存在し、処

享保飢鍾の疾病対策(中山) 方菱を三分類する点で明解である。両者にこうした違いが生じた理由は、左近将監留薬法書が小谷家薬法書に見られる食傷対症療法処方菱aの。切の食物の毒にあた中り、又色々の草・木・菌・魚・鳥・獣類を喰て煩ひ」という文言を切り取って小見出しを作り出し、切り取られて生まれてしまうはずの処方菱文言の空白部分に「一切の食物の毒にあてられくるしむに」という新たな文一言を埋め合わせたからである。このことは、左近将監留薬法書が小谷家薬法書の欠点を改め、これをより整理したものであり、小谷家薬法普の改訂版に位置することを示そう。左近将監留薬法書のこうした性格は、処方菱の書式においても確認できるもので、特に食傷対症療法処方菱の冒頭文言が「一切の食物の毒に」という文言でほぼ統一されつつある状況は、小谷家薬法書以上に書式整理が進みつつあったことを示すものと理解される。②処方菱書式における異同小谷家薬法書と左近将監留薬法書との間に見られる顕著な相違点の第二は、処方菱の書式である。小谷家薬法書の〈小見Ⅲしl)lb、(小見出し2)lb・c、(小見出し無)1..e・f.hの各処方菱に相当する部分を比較してみれば明らかなとおり、「又~」形式で記載する小谷家薬法書に対し、左近将監留薬法書ではそれらは全て。~」として記されている。まず、小谷家薬法書で。~」として書き出される処方菱は、基本的に時疫予防法・時疫対症療法・食傷対症療法それぞれの初発処方菱であり(ただし、食傷対症療法bについては例外)、他は

七五

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表2小谷家薬法書・左近将監留薬法書・「薬法書付」照合表

」て其悸 法政史学第六十号

」枡を四拾九粒ツ、月の:

○はJ1

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ほぼ全て「又~」として追記されるものであった。小谷家薬法書においてこうした書式が採用された理由は、先述した通り、処方菱を時疫予防法・時疫対症療法・食傷対症療法のそれぞれに分類・整理することに目的があったためである。つまり小谷家薬法書は、処方菱全文をそれぞれ時疫予防法・時疫対症療法・食傷対症療法の三つのカテゴリーに分類する意識が極めて強く反映した書式形態を採るものであった。一方、左近将監留薬法書は、処方菱全文を時疫予防法・時疫対症療法・食傷対症療法の三つに分類することにおいて小谷家薬法書と相違しないものの、。~」として提示された処方菱と「又~」として追記される形で提示されたそれとの関係は、小谷家薬法書とは全く異なる意味合いをもつと思われる。左近将監留薬法書で「又~」という追記語法形式が採用された箇所は、食傷対症療法(2)lイおよび(5)Iイであるが、それぞれは明らかに直前の処方菱とのみ何らかの関係を有することを示している。その関係がいかなるものかについては未だはっきりしない面もあるため断定は避けるが、恐らくは病状・症状または原因において共通関係をもつものと考えられる。例えば(2)lイは、直前に位置する(2)lアに示された「胸くるしく腹はりいたむ」という症状に用いるべき処方菱ではなかったかと考えられ、(5)lイは、(5)lア同様に「獣にあたりたるに」特効の期待できる処方菱であったと思われる。それでは、。~」として提示される処方菱どうしは、どのような関係にあるだろうか。

享保飢鰹の疾病対策(中山) まず時疫対症療法用の処方菱であるが、実は、(1)と(3)とは適用されるべき病状を異にするものであることが分かっている。「薬法書」では、(3)を例外として適用すべき症状に関する説明がないものの、(1)は、「普救類方」によれば「熱つよく、頭痛し、項こわり、腰いたむ」ときに利用すべき処方菱として理解されているものであり(「並円救類方」巻之三上「時疫」)、(3)のように高熱で半狂乱状態の病人に対して特効薬としての効果を期待できるものではない。また、食傷対症療法でも、.~」として提示される処方菱どうしは、適用されるべき症状や食傷の原因に異同が見られる。このように、。~」として記される処方菱それぞれの関係を追うと、基本的に適用されるべき主な症状・病状または原因に違いをもっていることが窺われる。以上のことから、左近将監留薬法書においては、。~」として提示される処方菱と「又~」として提示されるそれとの関係は小谷家薬法書とは異なるものであり、複数の処方菱を適用すべき痂状・病状や原因の共通性においてグルーピングするものであった。つまり左近将監留薬法書では、一三の処方菱を時疫予防法・時疫対症療法・食傷対症療法に大分類しつつ、症状・病状ないしは食傷の原因に応じて処方菱を使い分けることが観念されており、利用者に対しても、処方菱のそうした使い分けを求めようとするも(旧)のであったと想定することができる。以上、二つの項目をたてて、地方文書の中に見出せる「薬法書」の写しと『虫附損毛留書」に記録されたそれとを比較検討してきた。その結果、左近将監留薬法書が小谷家薬法書の発展形態に位

七七

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本稿では、享保飢瞳に際して江戸幕府が採った疾病対策とは具体的にどのようなものであったのか明らかにすべく検討を進めてきた。そこでこれまでの検討の結果を振り返っておきたい。第一節では、享保十八年十二月付の「薬法書付」を収録した犬明四年五月公布の江戸幕府触書について考察した。そして、それが享保飢鰹における江戸幕府の疾病対策の実際を正確に伝える内容でないことを指摘した。特に「薬法書付」の享保十八年十二月当時の流布が史料的に一切確認し得ないという現状は、天明四年五月の触書における江戸幕府の事実関係説明に疑問を投じる十分な要素であった。ここへきて本稿では、享保飢餓における江戸幕府の疾病対策の実像を、享保飢饅当時成立の直接の史料に即してして明らかにする必要を提唱した。第二節では、第一節で浮上した問題に従い、享保飢餓における江戸幕府の疾病対策について検討した。その結果、享保飢饅時には「薬法書付」とは内容的に異同のある享保十八年二月付の「薬 置し、両者が新版・旧版の関係にあることは明らかである。享保飢饅時には、小見出し・処方菱文言が未だ未整理の段階にあり、収録処方菱の取り扱いにおいても時疫予防法・時疫対症療法・食傷対症療法に大別するだけの、最も基本的(単純)な分類意識にのみ従って構成された「薬法書」が頒布されたが、江戸幕府はこれに改良を加え、医薬知識をより正確に伝えることのできるものへと作り替えていたということができよう。 法政史学第六十号

おわりに 法書」が同年春のうちに頒布されており、しかもその頒布対象が「五畿内・西国・四国・中国筋御料村々」といった飢饅の直接被災地に限定されるものであったことが明らかになった。また「薬法書」の内容についても検討し、それが時疫予防法・同対症療法・食傷対症療法を紹介するもので、後に内容が改訂された事実を明らかにした。以上の検討から本稿では、享保飢鰹における江戸幕府の疾病対策がいかなるものであったか明らかにすることができた。その結果さらに、享保飢鐘に直面した当時の江戸幕府が、いまだ手を加える余地のある「薬法書」を改訂し、より完成度の高いものに書き換えていた事実を確認することもできた。内容が一三の処方菱を紹介する程度の簡素なものとはいえ、「薬法書」には、人々の実際の利用場面を想定し、医薬知識をより正確に提供しようとする、幕府の積極的な姿勢が表われているということができよう。享保改革期における江戸幕府の疾病対策には、人々の生命を保護するためのこうした細やかな配慮がプログラムされていたのである。その意味で当時の幕府は、生死の境を妨僅う人々の間に生まれ高まるはずの生存欲求を、こうした配慮によって満足させようとする質の権力を手にしつつあったと捉えることができよう。ところで天明四年五月公布の触書は、享保飢漣時の事実関係とはかなり食い違う情報を流布させたことがいまや明白になった。特に享保飢鍾時の事実関係として、江戸幕府は全国規模での疾病対策を実践したかのような印象を広めたが、これは明らかに事実ではない。それでは、「薬法書付」の享保十八年十二月時点での成 七八

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立・頒布についてはどのように言うことができるであろうか。最後にこの点を整理して締め括りとしたい。まず「薬法書付」の成立についてであるが、現時点では、天明四年五月の触書にその写しが収録された限りにおいて、これを全面的に台定しうる段階にはない。しかし、本論では詳述し得なかったが、「薬法書」と処方菱の出典に異同が見られる点、「善救類方」に関する言及が削除された点などは、干支の誤記をも含めて、享〈M)保十八年十二月当時に発生するとは考竪えにくい性質のものである(以上、表2参照)。第一節で指摘したとおり、「薬法書付」については原本・版本のみならず写しの全てが未発見の状態であり、その頒布は既に疑問視せざるを得ない状況にあるが、今やその成立にも疑問をもたねばならない。つまり「薬法書付」は、早くても天明三年の小幡藩領内における局地的布達の段階で「薬法書」に修正を加えて成立し、犬明四年五月公布の触書によって一般化したものである可能性が高い。このように「薬法書付」の享保十八年十二月当時の成立・頒布という事実は、ともに疑わしいものである。「薬法書付」の享保十八年十二Ⅱ当時の成立や全国規模での頒布の事実が今後も立証し得ないとすれば、この触書は、江戸幕府の救済の歴史を修正し、全国規模での救済実践という輝かしい実績を創出する機能を果たしたということになる。言い換えれば、江戸幕府は、歴史修正によって全国規模の救済義務が果たされてきた事実を立証し、その政治的正当性を主張するに至ったということにさえなろう。つまり天明四年五月公布の疾病対策触は、その見せかけl一般的には

享保飢謹の疾病対策(中山) 天明飢饅における民衆の疾病救済を目的として布達されたものと理解されやすいlとは異なり、江戸幕府の支配の正当性を強く認識させるべく布達されたものであったのではないかと疑われるものである。

一三ロ(1)天明旧年五月に布達された江戸幕府の疾病対策の触書について言及した研究には、おおよそ次のようなものがある。昼川源四郎『疫病と狐懸き」(みすず書房、’九八五)・塚本学「近世再考」(日本エディタースクール出版部、一九八六)・大石学「享保改革の地域政策」(吉川弘文館、一九九六)・菊池勇夫「近世の飢饅」(吉川弘文館、一九九七)・立川昭二「江戸病草紙」(平凡社、一九九八)(2)高柳眞三・石井良助編「御鯛書天明集成」(岩波書店、’九七六)七○三~七○四頁。なお本稿では、天明四年五月公布の疾病対策触に収録された享保十八年十二月付の医薬書を、史料中の網掛け部分に従い「薬法書付」と呼ぶ。また、同様の触書が天保八年(一八三七)Ⅶ月にも布達されており、同一の「薬法書付」はその中にも確認することができる(高柳眞三・石井良助編「御鯛書天保集成」〈岩波書店、’九七六〉)。(3)「辛丑」という誤記がそのまま伝えられたことは、各地に残された地方文書や藩政史料の中に確認することができ、天保八年四月に再利用された際にも訂正されていない

七九

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ことが確認できる。(4)天明三年に小幡藩領内で「薬法書付」が頒布されたことを示す史料は、「群馬県史」資料編9近世1(九八一頁~九八二頁)に掲載されている。なお、その史料の表紙には「浅間山焼後飢鐘年、辺士之もの、ために公儀より御触之薬方」として「天明三卯年」の日付がある。(5)「神奈川県史」資料編7近世(4)幕領2つ九七五)二五八~二六○頁(6)「虫附損毛留書」下(国立公文書館内閣文庫、一九八○)、一五四・一七八二八○頁(7)「薬法書」本文の提示にあたっては、字配り・読み仮名を史料そのままに残した。なお、福井保氏によって享保飢饅時頒布の医薬書は現存しないとされたがS江戸幕府編纂物l解説編」〈雄松堂川版、一九八三〉、二○五頁~一一○六頁)、本稿ではその写しを提示し、医薬書頒布が事実であることを改めて確認しておく。(8)「普救類方」については大石学氏前掲書および塚本学「都会と田舎」(平凡社、一九九四)に詳しいが、その〈知〉としての受用については横川冬彦「近世村落社会における〈知〉の問題」二九九七年度大阪歴史学会大会個人報告/「ヒストリア」第一五九号)なども併せて参照されたい。なお、「普救類方」の販売については、次のような触書によって宣伝された{出典は、高橋眞三・石井良助編「御鯛書寛保集成」〈岩波書店、一九七六年〉九九四頁)。 法政史学第六十号

享保十五戌年二月一病薬を委細二認候普救類方と申書物十二冊、今度板行被仰付候、一部二付代銀九匁八分充一「書物問屋井小売之ものも同直段二売渡候筈二候問、望之ものは可相調候、此段町中え可触知者也二月(9)葱子(ねぎのみ)の分量については、物資の不足した飢鑓という状況に合わせた対応であったと思われる。(u「虫附損毛留書」中(国立公文書館内閣文庫、一九七九)、四九五頁(Ⅱ)「虫附損毛留書」下(国立公文書館内閣文庫、’九八○)、’七七頁(Ⅲ)「虫附損毛留書」中(国立公文書館内閣文庫、一九七九)、川六一~四六三頁。大石学氏は既にこの「薬法書」について言及しているが(「徳川吉宗・国家再建に挑んだ将軍」〈教育出版、二○○一〉八三頁)、これを実際に配布されたものと位置づけている点で筆者の見解とは異なる。なお同氏は、「薬法書付」を「薬法書」の直接の補訂版に位置するものとし、これが享保十八年十二川に改めて配布されたとする見解もあわせて提示している。しかし本稿が明らかにするように、「薬法書付」の享保十八年十二月当時の配布は、現時点では一切確認しえない状況にある。大石氏は、享保十八年十二月当時に配布された根拠として「牧民金鑑」をあげるが、そこに収録された「薬法書付」の日付の干支は「辛 八○

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丑」である。享保十八年の干支を「辛丑」と誤記する現象は、現時点では犬明四年五月の触書で発生したと考えられるため、「牧氏金鑑」は、享保十八年十二月当時に「薬法書付」が配布された事実を立証する有力な根拠にはなりえないと考える。(⑬)病状・症状に応じた処方菱利用を行うべきとする考え方は、例えば「普救類方」にも示され、「凡例」の一節には次のようにある。|凡此書にのする薬方、病のおもきかるきにより用ようの差別、大概それくの病症にしたがひしるす、しかれども猶又病のおもきかるき、病人の強き弱きにしたがひ、医師の了簡をうけて用くし(皿)「薬法書付」の「十二月」という日付も、「薬法書」の「二月」という日付を誤写したものである可能性がある。

享保飢鰹の疾病対策(中山)

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