「桶物語」の背景と意味 : スイフト的世界へのア プローチ
著者 高山 修
雑誌名 主流
号 17
ページ 11‑42
発行年 1954‑05‑31
権利 同志社英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016616
﹁ 桶 物
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スイブト的世界へのアプローチ
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﹃桶一物語﹄の作者は︑云うまでも友く﹃ガ
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ソア
旅行
記﹄
を書いたスイフトである︒﹃ガpヴァ旅行記﹄を書いたが︑六十六才に近いスイフFであるのに反して﹃桶物語﹄の作者
は︑三十才に友ったぽかりの若いスイブトである︒
﹃ ガ
pヴァ旅行記﹄と一式えば︑誰でも知っている︒しかし
本の名や物語の筋がよく知られている割に︑作品の真意や真
価については︑案外知られていない︒子供のころに︑絵本や
古−I可
修
−H斗
物語の木を通して︑﹃ガリヴァ旅行記﹄に接した多くの人
が︑大人に友って︑その河じグイトルの﹃ガリヴァ旅行記﹄
を読むことに︑二種のてれくささを感じるからである︒有害
友てれくささである︒スイフトの世界はた伽噺の世界では友
ぃ︑近代のイ官一マーを予言したきびしい世界である︒
﹃ガ日ソヴァ旅行記﹄は︑すぐれた文学作品である︒物語の
筋だけを追えぽ︑他愛も友い物語である︒しかし︑よく読む
ことによって︑あたらしい意味が︑絶えや見つけだされる作
品である︒現代の読者は︑馬の閤に興を馳せている時︑ヤフ
ーのみにくい姿に自らの婆を見出して︑ぞっとするだろう︒
それだけに︑むつかしい作品である︒そして︑﹃桶物語﹄
は言もっとむつかしい作品でるる︒スぷフトと同時代のヴオ
ール一アールは︑﹃哲学書簡﹄の書笥第二十二で︑﹁ィギり/ス
の一
フプ
レ
1﹂としてスイフトをとりるゆ︑﹃桶物語﹄が︑ブ
ラシスでは﹁ちんぷんかんぶん−なものしであるとのペ︑﹁佼
を充分理解するためには︑彼の薗へ一寸行ってみ友けれぽな らぬ
Lとその難解さを説いている︒その﹁彼の国﹂である英
国に沿いてさえ︑一初版後数年して出版された﹃橋物語﹄の第
五版には︑この作品についてのスイフト自身のE﹀
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− ︒ ぬ 可
自己
開以
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由主がつけられ︑作品理解の一助とさ
れた︒また︑これと殆ど同時に︑除︒︒送︑同町庶民ご皆同窓
吋ね
なミ
︐
hN吋忘と題する小冊子が発行されて︑﹃桶物語﹄
の註釈書の役目を果した佼どである︒だから︑われわれにと
って﹃桶物語﹄の意味を把握することは︑容易なことではな
﹃語物語﹄は︑重要な書物である︒﹃ガリグァ旅行記﹄とと い ︒
もに︑スイフト的世界の金字塔でるる︒﹃桶物語﹄執筆当時
すでに︑思想的花︑また文学的投法に沿いて︑成熟の域に達
していたスイフトは︑この作品に︑伎の天才を遺憾友く発揮
した︒伎の天才は︑放の時代に安住するものではない︒彼の
天才は︑伎の生活と思想とが︑殺の時代の社会的環境と時代
思想の幹のなかで︑説りながらたてる不協音の友かに感ヒと
られるのである︒絢糟たる天才でも︑誇れる天才でもない︒
孤高の天才でも友い︒近代の子として生れ友がら近代人にな
りえ4広かったスイフトの天才は︑友やめる天才である︒友ゃ
ある非近代的近代人のうめきは︑現代人の魂のなかに︑占なま
なましく余韻している︒
スイフトの時代は︑現代人にとって︑とくに意味深い時代 である︒それは︑ョIロ?パ文化の近代化の方向を決定した
時代であると一疋う意味にないで︑現代に直接むすびっく︒時
代の川底に足をふ︑亨えながら︑時代の流れに抗したスイフト
は︑彼の時代の鋭い批判者である︒と同時花︑現代の批判者
でもるる︒︒ヘシミス一アイ?クな批判者である︒余りにも︑非
近代的である︑そして︑現代的でるる︑現代文化の明日につ
いて︑われわれが感じる危機を︑スイフトがすでに感じてい
たと云う意味にむいて︒しかし︑彼は︑形而上学的思想家で
も︑哲学者でも友かった︒すか仏わち︑近代的人間に反逆し友
がら︑それにかわる人間像をつくりえも仏かったと云う点︑い
いかえれば︑近代的価値忙危機を感じ友がら︑それにかわる
価値体系を提起しえなかったと云う点に︑ベシミステイ?ク
友モラリストとしてのスイフトの限界がある︒実に︑友やめ
るスイブト的世界は近代ではヒまり︑現代で終るべき近代的
イロ品!の世界である︒
この小論にゐいて︑私は︑﹁縞物語﹄の歴史的背景と意味とをとらえることによって︑かかるスイフト的世界へのアプ
ローチを一試みた︒もちろん四苦八苦のアプローチである︒
英↓文学史上︑十七・八世紀は︑最近︑まで︑案外かえりみら
れφ広かった︒ことに︑私がこの小論にないで試みたよう友ア
プローチは︑いまだ充分完成されていない︒全くの
2
5
ロ 件 ︒にある︒この点︑米国の諸大学にたける一連の英文学研究者
たちーその多くはのき円ぬ
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司昨 日苦 吋問
・凸 凶器 など の門 下た ちー によ って 続
けられてきた研究の成果は︑極めて注目に値する︒そして︑
私が︑この小論を書含あけるまでには︑これらの人Kの研究
から︑多くの貴重注示唆と援助とをうけたことを︑はじめに
申しそえてなく︒
中世から十八世紀へ
l
近代化の歩みi
句•'.-'
ジョナサン・スイフト
CC E笹
川目
ω
司氏仲
︶は 十七 世紀 の後
半から十八世紀の前半にかけて︑アイルランド及びイングラ
ンドを舞台に︑七十八才の生涯を送った︒英v文学史上︑スイ
フトは︑いわゆる﹁十八世記英文学しの分野でとりあっかわ
れるのが普通である︒私はこのことに対して︑とりたてて異
議を唱えはしないが︑一般に︑歴史的叙述にたける時代区八万
円かそうでるるように︑︐文学史上になげる時代区分も︑極めて
陵味なものである︒そして︑この陵味さが︑ときどき途方も
友い誤解や先入観︑乞植えつけることがある︒とくに︑スイフ
トの場合のように︑作品が時代と切ってもきれぬ関係にある
場合にはその時代的な位置づけに関しで︑極めて慎重ぜるら
ねば 友ら ない
︒
近代作家とか︑近代詩人とか︑近代文学とか一五うことぽが
使われる︒スイブトが近代作家であり︑スイフトの文学が近
代文学医属すると一五うことには︑異論は友さそうだ︒それで
は近代
l
ヨiロザパ文化の歴史になげる!とはいつ頃はじま るのか︒そして︑スイブトはこの近代のいかたる時期に位置するのか︒かかる問題について︑まや考えてみたい︒近代文化の出発点⁝について︑ルネ?サンス期及び宗教改革
の時代をもって︑近代文化がはじまると云う見解が︑も勺と
も常識的であるようだ︒しかし︑一概に︑近代文化と一式って
も︑それが今日の現代文化の諸様式を形成した母胎でもるる
ことを考えるとを︑ルネyサンス期をもって近代文化がはじ
まるとをめつげるのは︑すこし無謀であ一る︒近代文化の形成
過程には︑その様相の変化にしたがって︑いくうかの段階が
認日められる筈である︒勿論︑複雑友過程である︒ニの複雑左
近代化の過程の友かに︑スイフトの人間像なよびスイフト的
世界の背景を︑できるだけ正確忙とらえるために︑主として
ハl
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lド大学のヨ1ロ?パ思想史の教授の
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切む昌弘出向町︑時︿︺戸川町︶にしたがって︑ヨlNωQ
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︒ハ文化の近代化の過程に一瞥を与えたい︒
結詣的友ことから一去ってみれば︑こうである︒中世的世界
は︑一四五O
年を 中心 とす るル
︑ネ
γサンスの勃興期とともに
決定的友変容をは巳める︒しかし︑同時に近代世界が完成し
たのでは左い︒現代文化の直接的な母胎となった近代文化の
基調は︑十八世紀を中心とLずる﹁啓蒙時代1一にほとんど完全
に整うのである︒す宏一わち︑一四五O年から一七
OO
年に
否一
る間は︑中世的世界から近代的世界への過渡期である︒以上
のことを︑もう少し詳しく説明してみよう︒
ω
中世世界の基調︒l
戦争︑封建的束縛︑経済的不平等色などに満ちる中世世界は︑政治的︑経済的には︑決して安定
した世界ではない︒しかし︑中世人は︑一種の安定感の4な
か
に生をていた︒この矛盾したよう友世界を支えた基調につい
て︑三つの点が挙仲られる︒第一に︑超自然的なもの!神ー
に対する信仰でるる︒第二は︑想像力のゆたかさ︑ナιな
わち
出異常なもの︑無隈的なものへの真撃ち仏追求心でるる︒第三は
度重友る暴挙一・である︑ず友わち戦争や殺人は︑政治的︑経済
的に極めて不安定ゑ世界に怯んでいた中世人にとって︑それ
ほど珍しいことでは4広かった︒この三つの点を中世文化の基
調であると一式われてみると︑われわれば︑そこに大きな矛盾を感じるでるろう︒す友わち︑神への深い信仰や無限的友も
のへの追求心に基礎づけられる安定感とともに︑極めて残忍
及︑不安定左現実が存在したと一式うこと︒しかし︑この矛盾
こそ︑中世文化の基盤を理解する鍵なのである︒
中世人の生活における安定︵ωゅ
の口 氏弓
︶は
︑わ れわ れサ 世
紀人が考える安定とは︑根本的に異る︒中世人は地上にたりる天国を︑当てにし友かった︒日常生活にたける蓑沢︑医学
の進歩︑道路の改良友どの如き世俗的危安易さを︑現世に求
めようとはし友かった︒むしろ︑陰惨友現実が︑来世的友求
法への彼らの憧れを︑たかめたとも一式える︒中世入にとって
披らの生活を左右し︑彼らの運命を決定する力は︑彼ら白身 の手中には友く︑神の手中にある︒この世は︑人聞の魂にとっての試療の場所であり︑ローマ教会が教える戒律にしたがって︑五しく生をることに上って︑この試煉に堪えた人々には﹀来世になげる救韓日か約束されるのである︒そして︑この来世的友救済への深い憧れこそ︑中世人のキリスト教的信仰の核心を支えるものである︒ず友わち︑キリスト教は︑中世人に︑来世になげる一大国を約束すると同時に︑品ずいや不安左物質的扶乏に満たされた現世の生活に︑意味と目的とを与えた︒ず友わち︑彼らは︑神の訴になげる人閣の弱さや限界を知れぽこそ︑神への帰依を通して︑現世的友不安定を︑一種の安定感に変えることができたのであ一る︒このように︑人聞が根本的に自らを神にゆだね得た世界であったが故に︑社会的には不安定であった中世世界も︑八神の世界
V
であり得たので ある
︒
そして︑人々と神との聞にたって︑このキリスト教的世界
を統一したのは︑ローマ教会一である︒教会は︑強力た権力と
きびしい戒律によって︑人Kの自由左思考を束縛した︒しか
しそのことが︑かえって︑入︑々の神への帰依を深めたことは
疑えない︒かかる世界のも仏かで中世文化が育ったのであ
近代化のきざ
ω Li
る ︒ヒュ
iマ︸一ズム!︒しかし︑一四五O年頃から十七世紀の後半にかけての時代︑すなわちル︑不吋ノ
サンスや宗教改革を中心とする時代は︑中世世界の基調の変
質と分解とを決定化し︑ここに近代世界の育成期がはじまる︒
一般に︑学芸の復興︑宗教改革︑自然科学の勃興︑貨幣経済
に基く新しい経済体制などが︑近代化の基盤として︑とりあ
ゆられるが︑かかる現象画だけをとりあけるだけでは︑近代佑
の基調をあきらかにするのに︑分で不充ある︑と剖ユコ件︒ロ教
授は説く︒もちろん中世から近代への推移の過程にある文化
の諸要素をとらえることは︑容易友ことでは友いが︑同教授
は︑近代化の基調を︑つぎの三つの点からとらえようとす
る︒すなわち︑ヒュiマユズム︑プロテスタンヂズム︑ム口理
主義である︒その各々について︑考えよう︒
まや
︑ヒ ュ
iマユズムについてでるるが︑ここで云うヒユ
lマユズムとは︑ル︑ネササンス期のヒュl
マ一 一ス トの 態度 で
ある︒どのような態度か︒ヒユi
マ一 一ス トは
︑世 界観 にな い
で︑第一義的に︑神学的でも︑合理主義的でも左い︒す友わ
ち︑中世的でも︑近代的でも友い︒彼らは︑神学中心の中世
的理念︑すなわちスコラ哲学に具現されている中世的友思索
態度を許容しないが︑中世的友価佳にかかわる価値を発見し
たプロテスグγト的世界観や合理主義的世界観をも︑うけい
れない︒ナ友わち︑ピューマユストは︑中世的左宇宙観に対
する意識的な反逆者ではあったが︑それにかわる新しい宇宙
観乞築きあけたのでは友い︒彼らは︑教会の権威から人間を
解放した︒徹底的な個人主義者!自己中心主義者
i
でるるヒュ1マ一一ストは︑自分自身に友ろうと努めた︒しかし︑その 自分自身から何をつくりだすべをかについては︑明確な結論・をもっていたかった︒
ルネッサγ
ス左 舞台 花︑ 活躍 する ヒュ
1マエストは︑特権階
級︑ナ友わち一般大衆とは遊離したエリザトたちであり︑彼
らが友したF中心的左仕事は︑ギリシャ・ロIマ文化ま再発見
し︑古典を通して大いに学識を高め︑学芸の諸分野化︑ル︑ネ
ヲサシスの華を咲かせたことである︒
ヒ ュ
iマ己アムは︑ル︑不?サンスの華を咲かせたと同時
に︑中世への反逆でもあった︒ルネ?サンスを招来した条件
については︑政治的︑経静的諸条件を無視することはでき左
ぃ︒しかし︑ヒュlマエズムが︑中世への反逆として生れる
のは︑中世世界に沿いてロIマ教会の権威に支えられてきた
理想と現実の大きなギヤ?プ︑すたわちキリスト教的理念
と︑戦争や封建的桂槽に満ちる現実との聞によこたわる大き
友ギヤザ︒フが︑限界に達したことを意味する︒ヒュIマ一一ス
トは不安定のなかの安定と一式う矛盾に基礎を烏く重苦しい中
世的世界の窓をあげて︑新鮮友昼気を吸い込んだのでるる︒
もちろん︑彼らの態度には︑生新の気に溢れ︑ひたすら人
間中心を謡歌して止まぬ放逸友態度から︑古典的秩序の友か
に調和を求めようとした抑制的友態度まで︑種々相がみられ
る︒きた︑政治思想の見地からみれぼ︑ヒュi
マ一
一ス
トの
ヱ
リ?トとしての強い自意識が︑貴族主義的︑君主主義的傾向
を生んだと云うことも認められる︒しかし︑すでに云ったよ
うに︑彼ら自身の新しい価値体系をもって︑自らの世界観を
うくりあけなかったと一五う意味にたいて︑彼らの世界には︑
ロlマ教会に支えられた中世的危統一も︑合理主義に基礎づ
けられた近代的な前進も友かった︒しかし︑ヒューマニズム
は︑神学的及︑来世中心的友中世界界からの脱却を試み︑人
間中心の︑現実的友︑世搭的な世界への途をひらいたと一耳う
意味にないて︑中世の破壊者であるとともに︑近代化の推進
者でもあった︒しかし︑ヒュI
マ− 一ズ ムは
︑中 世的 なも のを
完全には︑清算しきっていなかったし︑十七・八世紀の啓蒙
主義者や合理主義者の如く︑人間の進歩を確信して︑地上の
︑天国を夢みる近代的オプティミストでもなかったと一古う意味
に沿いて︑決して近代的人間像の完成者ではるり得左かっ
ω
プロテスグンチズム︒i
プ甘テスタントによる運動は た ︒歴史的事件としては︑十六世紀の一初頭から︑ルッターやカ
ルヴアシを中心として行われた宗教改革とゑつであらわれる
が︑
︒フ ロデ スク ンチ ズム も︑ ヒュ
1マ品ズムと同ヒく︑中世
世界に占なげる神学的!キりスト教的
l
理想と︑争いの絶えぬ現実との矛盾を︑ぎりぬけようとするるがをの一つのあらわ
れである︒勿論︑
内一君︒ぴ需によって究明された重要な
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点︑すゑわち宗教改革と資本主義勃興に伴う経済的諸条件と
の関係︑あるいは︑ナショナりズムの勃興に伴う政治的条件
との関係が︑プロ一アスタンチズムの展開を理解する上に︑ 重要な意味をもつことは疑えないが︑プロテスグシトの運動は︑本質的には︑やはり神学的︵
S o o
−︒
ぬ向
︒色
︶な
もの
であ
っ
プロテスグンチズムの運動は︑宗教改革と呼ばれるけれど た ︒
も︑運動に参加したプロテスタントたちは︑決して改革を行
っているのであるとは考えてい注かった︒彼らは︑ローマ教
会の権威によってまけられたキりスト教から︑真のキリスト
教への復帰︑ず友わち究極的には︑イエスへの復帰を試みているとの自覚をもっていた︒しかし︑彼らの運動が︑結局︑
種Kの教会︑各種の分祇を生み︑必やしも彼らがいだいた理想的友自覚が果されたのでは友かったと云う事実は注目に値
する
勿論すでに縄れたように︑プロテスグシチズムは︑規律︑ ︒
儀式︑組織︑伝統など外的友附属物をもっロIマ教会の既成
権威に対する反抗として︑生れた︒ローマ教会が︑人間と神
との聞に存在する障碍物であることに気づいたルγグーやカ
ルヴァンは︑教会一の権威に反抗し︑人Kに︑教会の媒介を通
してではなく︑官一接に聖書を通して︑神の意士山を教えようと
試みた︒たしかに︑改革者たち
i
ウィ?クリフ︑フス︑ル?︑グ
i︑カルヴァン友ど
l
は︑人Kの聞に︑母国語の聖書を普及させ︑ロiマ教会の権威のかわりに︑聖書の権威︑す友わ
ちイエスの権威を与えようと試みた︒しかし︑人kは︑聖書を通して神の意志を知るためには︑聖書の解釈を必要とし
たe改革者たちが︑その解釈老の役目をつとめたσル?ター は︑ ル
γグI流に聖書を解釈することによって︑﹁ル?グI
教会しの権威をつくりるけたのである︒既成の権威に従わぬ
革命的友プロテスタントたちが︑結局は自分自身の権威をつ
︿りあけて︑他に強制する結果と友るのである︒これは皮肉
友結果である︒しかし︑これは︑フランス革命やロシヤ革命
に沿ける革命者たちが辿りついた皮肉友運命でもある︒
では︑プロテスタンチズムの指導者たちは︑いか友る態度
で︑ 聖書 を解 釈し たか
︒﹈ 凶円 山口 件︒ ロ教 授の 見解 によ れば
︑根 本
的友態度忙ないては︑中世的なキリスト教の態度と大差は泣
かった︒第一に︑原罪についての伝統的友キリスト教的の教
理を︑プロ一アスタンチズムはとりいれた︒たとえば︑ヵルグ
アンは︑人間の獣的危性格にういてのカト
py
ク的な考えを
一そう強化したとも一疋える︒ル?グーにふ同ぬいても︑この傾
向はみられるのであって︑︒フロテスグンチズムの友かには︑
人間は生れ友がらに義友るもの・で︑完全に向って無限の進
歩をとけるのであると云う啓蒙時代|十八世紀を中心とする
ーのオプ一アィミズムは︑みられ友いばか︑りか︑人間の完全性
︵吉広宮内守口広三に対する否定的態度がみられる︒第二に︑
プロ
一ア
スタ
γチズムは︑入閣の理性にあらゆる権威を集中す
る合理主義的立場︑芝︑ろげいれない︒むしろ中世後期のロー
マ教会の安易〜な形式主義的戒律から脱して︑個人の魂のなか
に︑深い宗教的感情をはぐくんだと一式う意味に・沿いて︑非合 理的友情念を︑人kに植えつけたとも一式えるのである︒第三
化︑初期のプロテスタントたちは︑異端に対して︑決しで寛
大 会
OH
03
η仲︶では友かった︒勿論︑キリスト教史上に九叩い5
て ︑
Z Z
門印
2 3 2
がはじめて公忙認められたのは︑プロテスタ
シトの国々!とくに英国!にないででるったが︑それは︑ヵ
トp
y
ク教徒やプロテスタントの分訳の聞に長ける争いを避
けるために生じたのであって︑決しでプロ一アスグシチズム本
来の態度ではなかった︒
このように︑三位一体説に基く蟻烈友超自然的態度︑原罪
についての深い意識︑他の宗祇K対ずる排他的態度を一不すヅ
ロテスタシチズムは︑根本的にキリスト教的であると一式う点
にないては︑中世的友キリスト教と本質的に変ら友いが︑中
世のカトり?ク的世界よりも︑一そうきびしい世界であった
と一式える︒被らの神は︑中世の神よりも︑もっと暗い︑もっ
と神秘的住なものであったに違い左い︒しかし︑彼らが人々を
ロiマ教会の桓桔から解放して︑神と人間との直接的友交わ
りを試みたと一再う点一に沿いて︑中世への反逆者であり︑近代
化の推進者であった︒
ω
合理主義l
近代科学の勃興i
︒ 近 代 化 の 第 三 の 基 調
は︑合理主義と︑それを確証づけた近代科学である︒この第
一一
一の
基調
こそ
︑ヨ
iロVパの近代化を決定したものであり︑
この小論がとらえようとナるスイフト的世界を理解するため
の大さ友鍵でるる︒
合理主義︵
ER OD
色目的自︶は︑多種多様に定義されるが︑
∞ユ昇︒ロ教授にしたがえぽ︑この合理主義と一五う抽象名詞は宇宙i自然界
i
の動きは︑人間の合理的︑客観的友思案作用に相通やるものでるり︑われわれは︑数学上の問題を解ぎ得
ると同じく︑人間のるらゆる経験を理牲によって︑解を得
る ︑
﹂L z
一再 う信 念に 基く 諸理 念を 抽象 した もの であ 一る
︒こ のこ
とは︑論をすすめるにしたがって︑次第にもっと明かになる
であ ろう
︒
合理主義の哲学的基礎をきづきあ仏げた代表者として︑フラ
ンシ ス・ ベ
iコγ︑デカルト︑ホ?プス︑ロック友どが挙怜られる︒十七世犯のはじめに︑ベーコンが確立した帰納法は
合理主義的態度への大きな接近でるる︒しかし︑合理主義哲学の基盤を確立したのは︑べI
コシ の後 継者 とも 一五 うべ き
デカルト︑及びホップスである︒彼らが示した合理主義的議度は︑決して一様のものでは友かったが︑合理主義の哲学一
般に通やる特性は︑次のようなものでるる︒合理主義者は︑
ヒュ
i
マ一 一ス トや プロ テス グ
γトの両者よりも︑遺かに徹底的に︑官Iマ教会のカトリシズムによって代表される中世的伝統を拒否する︒勿論︑個︑ペの合理主義者の態度には︑いろ
いろ友点で︑合理主義とキリスト教的信仰との妥協が見出せ
るが︑本質的には︑合理主義は︑キリスト教と相反する︒合
理主義者は︑宇宙から超自然的たものを抹殺する︒自然の薄
造や桂則は︑理性によって︑解明できるものであり︑自然的 なものは︑ナペて合理的なものであって︑超自然的友ものは存在し泣い︒ず友わち︑合理主義は︑人聞を︑完全に自然の機構﹇物質的世界
i
の喝なかになく︒そして︑あらゆる人聞が具有する理牲によって︑人間は自ら︑自然の法則の左かに︑
善悪の基準を発見し︑その規準に上って︑自らの行動を正し
い方向に道?と︑べをでるる︑と説く︒いいかえれば︑中世人が
ロ!マ教会の教理や慣習の左かに見出した指導原理や価値基
準を︑合理主義者は︑感覚に映やる物質的世界や経験の世界
に見出さんとした︒Eのようにして︑見出さんとしたのか︒
われゐれが︑数学上の問題を解く場合の鍵と友る合理的精
神︑す友わち理性にもとやく辛抱づよい研究心を働かせるこ
とによってである︒この点に沿いて︑合理性は︑形而上学的
性格から実験的︑実証的性格をもつに至る︒︵このことは︑
合理主義忙対するスイフトの態度を理解する場合に重要た意
味をもつものである︒︶この合理主義の実験的性格を決定的にしたのは︑近代科学でるる︒合理主義は︑近代科学を背景
忙して育つ︒そして︑近代世界の思想的基礎は︑実に近代科
学に支えられる合理主義であり︑近代世界の技術文明の基礎
は︑合理主義を支えている近代科学友のである︒それでは近代科学は︑どのようにして起ったのか︒
自然科学の起源は︑二千年前のギリシャ文化にさかのぼる
が︑古典時代に続く暗黒時代と中世は︑自然科学に背を向
け︑その発達を拒んだ︒それ故︑現代の自然科学の母胎であ
る近代科学の基盤は︑十六︑七世記を中心とする近代の過渡
期に沿いて︑若々と築かれたのである︒十六世紀にはコペル
品クス︑ガリレオがあらわれ︑天文学になける彼らの業績は
中世的宇宙観に鋭いメスを加えた︒十七世紀には︑一一ュ!トシ︑クプラi
︑八
iヴェィ︑パスカルιなどの名とともに︑
切ユ 昨日
ω v m o
苫H
∞言 問︒ 与の 設立
︵一 六六
O年﹀及び
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仏bHHMぽ
倉 田
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立 ︒ ロg m
の設立︿一六六八年︶が注目される︒この時
代に烏ける科学の勃興は︑ただちに知識人の注目を浴びたわ
けではなく︑初期のヒュI
マ一 一ス トや プロ テス タ
γトたちはこれに背を向けたほどであったが︑次第に︑知識人の心にく
い込み︑合理主義的精神の育成を助長した︒
この時代に何故自然科学が進歩したのかと一再う問題につい
て︑外的条件としては︑中世に・なける火薬や新しい兵器の発
明工夫︑︑地理上の発見や貨幣経済の勃興に伴う交易手段の
改良など︑種々あ特られるが︑心理的背景としては︑中世的
権威からの解放が促した未知のものへの好奇心ゃ︑経済機構
の変化とともに高まる物質への関心が︑人聞を︑物質や自然
現象の解明へ駆りたてたことが考えられる︒また︑同時に︑
形式自注権威に対する尊敬が失われ︑既成の権威にたよら注
いで︑実験や観察によって︑未知のもの︑不確かなものを解
明しようとする実証的態度が︑科学の進歩を大いに助長した
と考 えら れる
︒
しかし︑近代科学と合理主義との関係が︑如何に密接友も のであろうふ一︑科学そのものが合理主義と同じものぢるると考えては友ら危い︒近代科学を︑中世のスコラ哲学にかわる
Z σ
当司 詑−
03
0℃廿司としてとらえた当時の人々には︑この
区別は明確に自覚されていなかったが︑これは︑大切注問題
である︒科学は︑根本的には︑形而上学と結びつか友い︑す
なわち︑科学は︑宇宙観や世界観や運命倒閣についての形而上
学的問題に答えるものでは友い︒その対象は︑自然的−なも
の︑物質的友ものであり︑その所産は︑新しい知識︑新しい
技術︑新しい製品としてあらわれる︒これに反して︑合理主
義は︑既述のように︑宇宙観や世界観についての解答を準備
する︒そして︑この解答が︑実証哲学︑無神論︑理神論︑唯物論︑民主主義として︑あらわれるのである︒科学と合理主
義との聞には︑根本的には︑以上のよう友区別が友されねば
友ら ゑい
︒
しかし︑自然科学発達の助成者と友ったのは︑いまは未知
であるものも何時かは理性の働きによって解明されるであろ
うとの合理主義的確信でるり︑そして︑逆に合理主義的精締に確証を
LA
えたのは︑自然科学の業譲である︒ことに︑十七J
世紀の後半になげるニュートンの出現は︑科学上の大規模な
知識に基く﹁宇宙の統一的原理﹂によって︑中世的世界観を完全に打破し︑合理主義そのものに実証性を与えた︒このよ
うに︑近代科学の影響のもとに︑合理主義が実証的︑実験的
性格を及びるに至って︑近代の世界観は︑形而上学的なもの
から︑︐自然科学の所産である技術文明に基く現実的危世界観
と友
る︒
近代人︑とくに十八世紀の啓蒙時代の人々の世界観︑人間
観の 根抵 に一 よこ たわ るも のは
︑﹁ 進歩
﹂の 理念
︵昨 日同
⑦広
20
同H VH0・
ぬ 円0
8︶で一ある︒すたわち︑人間は生れ友がらに完全性を
具有してたり︑人聞の文明は︑完全の方自に絶えや進歩しつつある︑と云う考えである︒十六・七世紀の合理主義と科学
l
ヒューマニズム︑プ口一アスタンチズムも︑間接的には︑その要因として含まれるがーによって準備され︑十八世紀の啓
蒙主義者によって︑確立された﹁進歩﹂の理念は︑近代が辿
らねば友ら・なかった運命を解く大き左鍵である︒この問題に
ついては︑追って噛一れることになろう︒
以上︑主として︑∞ユ昇︒ロ教授の見解にしたがって︑中世
から近代への思想的背景を簡単にのペた︒この近代化の育成
期を経て︑十八世結の啓蒙時代がはじまるのであるが︑スイ
フトが生れるのは︑まさに︑十七世記が終り︑十八世紀がはじまろうとする時である︒
︵ 詮 ﹀ l
︒
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友ぜ﹃橋物語﹄が警かれたか
スイフトの﹃稿物語﹂︵hMJQNh
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﹃ 一 一 一
一 一 一 一
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戦
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巻にまとめられて︑出版されたのは︑一七O
四年である︒
﹃桶物語﹄の執筆年代については︑種K異論があるが︑一六九
六年から一六九九年までの間とずる﹀・凸・のEHHW
色︒ げ及 び
T− 0・2
目 ︒ 何 回 o−
ω
日 目 昨 日
Hの見解に従うのが︑妥当であると考える︒
だから︑この作品は︑十七世記の黄昏に書かれ︑十八世紀の
夜明けに出版されたわけである︒一六六七年生れのスイフト
は︑当時︑三
O
才に友ったばかりの若者でるった︒因に︑この墳の白木は︑ちょうど西鶴や芭蕪や近松の時代でるった︒
ーさて︑可桶物語﹄執筆当時までの︑スイフトの身の上を︑
簡単にたどってみよう︒
巾スイフトの青年時代︒
l d
ジョナサン・スイフトは︑一
六六七年十一月に︑アイルラシドの︑一土都グプリγ
で生 れた
︒
父は同ヒ名のジョナサシ・スイフト︑母はアピグI
ル︵
﹀
Z z
ぬωロ︶︑兄弟は友く︑姉が一人いただけである︒父ジョナサ
シは︑スイフトが生れる七ク月前に︑死んだ︒父親をもたぬ
スイフトの幼少年時代は︑叔父ゴ?ドウイン︵の︒︻凶考古
∞者向同伴︶の世話になったり︑乳母のもとで育てられたり︑決
してめぐまれたものではなかった︒グプリンの関口付︒ロロ可
ω
H o の 円
c −を終えて︑同市のトリ一一一アイ・ヵレ?ジ︵吋江区与
の三宮津︶に入学したのは一六八二年︑十五才の時である︒
学生時代の伎は︑決して︑出来のいい学生では友かった︒後
年になって発見された一六八五年の同大学の戎語表によれば
スイフトはギリシャ語やラテン語にないては優秀友成績で
あったが︑哲学︵当時︑ォクスフォードやクシプ
p γ
ジ に 占 同
布 いて は︑ すで にル
︑ネ
?サ
γスの影響のもとに︑新しい哲学の
風潮がなこりつ︑つあったが︑トリユティ・ヵレザジに沿いて
は︑いまだに白l世的友スコラ哲学が重被されていた︶や神学
にたいては︑てんでた話にならぬほどの悪い成績であったら
しい︒しかし︑歴史や詩作の勉強には︑か友りカをうち込ん
でい た︒ 噌な んと か骨 恥争
︵由
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℃E
山ぬ門
出件
目岱
︶の
恩裏
に浴
して
出・﹀・の称号をもらって︑卒業したのが一六八六年︑それ
から再に三年間宮﹀・の称号をとるために︑同大学!大学
院とでも云うべきところだがーにとどまったのであるが︑そ
の簡の彼の口問行は故時をまわめ︑大学の礼拝はさぼる︑会そ
︿まで巷をぶらついて︑寮の門限には間に合わぬ︑点呼はさ
ぼる︑と一式う有様で︑大学当局の詰責一処分をうけること幾度
か︑ 結局 豆一
−
K戸・どころではなく︑一六八九年︑アイルラ
ンドに内乱がなこり\グプリγ市中が争いの渦中に巻き込ま
れるに至ったのを機に︑プイルラシドを﹃去って︑イシグラシ
ドへ渡った︒もちろん︑はっきりした当てがあったわけでは
友い︒今まで︑友んとか世話をしてくれた叔父ゴ?ドウイン
は八八年に死んだし︑これ以上他人の世話に友る卑屈さに我
慢ができや︑母アピグlルが移り住んでいるイシグラシドへ
渡って︑うだつをあけよろとでも考えたりであろう︒
ィングランドに渡った被は︑母をレスグl︵
F a n g E C
の 町に訪ねるが︑同年の春︑彼の生涯を通して彼の思想に多大の感化︑宇あたえたウイりアム・テンプル︵盟円者自目白号︑円︒自立︒︶と相知るに至る︒サ一才の時である︒スイフトの叔父ゴ?ドウイシがテンプルの友人であったことや︑テンプル夫人がスイフトの母と血縁関係にあったことが議で︑スイフトは︑一アンプルの室田記として︑ロンドシに近いサリ1
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ちつくことに友った︒二ハ九
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年︑九四年︑九五年の三度にわたって︑しぼらくアイルラシドへ渡った以外︑一六八九年
から︑テシプルが死ぬ一六九九盆ーまで︑ムア・パークでの生
活が続くのである︒
スイブトの生涯になげるこの時期は︑いろいろ友点で︑彼
の生涯中もっとも重要友時期であるといえる︒一アシプルとの
個人的接舗によって︑大雪友影響をうけたことは勿論︑テγ
プルの蔵書を読み漁ったのも︑この時期においてであるし︑
﹃ステラへの書簡﹄︵吋
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﹃
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芯め於
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︶によって後代
に名をのこし︑スイフトの奇妙な恋愛事件の主人公として後
代の伝記作者や好事家たちの注目を浴びたステラハ本名は 何回 忌号
﹄ OF 50
口一︶と相知?たのも︑この時期でるる︒そし
て︑﹃ガリノグア旅行記﹄とともに︑スイフトの最大傑作の一
つである﹃桶物語﹄の構想をねり︑執筆を企てたのも︑この
時期である︒﹃桶物語﹄の直接的な背景及びその執筆の要因
に摺れるまえに︑テンプルについて︑少し鯖れて沿く必要が
あろ
う︒
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ウィリアム・テンプル︵一六二八l
九九 年︶
︒
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プルは︑その壮年時代を︑政治家︑外交官としで一︑英本国及
びヨ
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ハ大陸を舞台ーにしで活躍したが︑その晩年は︑ムo
ア・パークの隠居で︑悠k自適の文筆生活を送った︒スイフ
トが彼の書記をつとめたのは︑テシプルの晩年時代︑ナ友わ
ちムア・パークの時代でるる︒
E S E O C E
再告白が指摘している如句︑テンプルについ
ての後代の評価は一様で友い︒しかし︑彼が︑典型的危十七
世紀的紳士であったことは︑種々の点から︑充分想像できる
ことである︒伎は︑政治家︑外交官としての多忙友生活のう
ちにも︑絵画︑音楽︑彫刻︑庭菌友どに趣味をもっていた︒
そして︑自分の高い地位にもかかわらや︑あらゆる階級の人
人と親しく交ったと一式われている︒読書範囲もひろかったう
えに︑海外に沿いても見聞をぴろめたテンプルは十七世紀の
知識人の一つの型を代表する︒では︑彼の思想的立場は︑ど
のようなものであったか︒彼のモラリストとしての立場と伎の歴史的立場とのこつの面から︑眺めよう︒
モラりストとL
ての 彼の 興一 味の 中心 は︑ 人聞 の精
﹂仰 に占 なげ る理 性と 情熱
︵古 川凶 器官 ロ︶ との 働き をめ ぐる 問題 でる った
︒こ
の問題は︑当時の知識人にとっての共通の問題であったが︑
破は︑理性は惰熱を適当に調節することにより︑人間生活主
正しい方向に︑ナ友わち白然の求める方向に導くべきである と考えた︒披の態度は︑情熱は理性によって完全に抑制されるべきである︑とのストア哲学の態度でも友く︑理性は人間の精符のみ友らや自然の秩序をも保つ最高権威である︑との合理主義的態度でも友い︒理性を情熱との均衡によって王しい生活を送ろうとするエピグロス的態度︑ナ友わちル︑不y
サン ス的 ヒュ
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マニストの流れを汲む当時の入自白人
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〜v町三宮︶の態度である︒それ故︑人聞の精神に興味の中心をもっテンプルは︑自然界を対象とする自然科学には︑積極的
友興味をいだかや︑むしろ︑科学による人間の進歩について
は︑懐疑的︑否定的でさえるった︒
役の歴史観︑ず友わち文明の進歩についての彼の態度は︑
このよう友モラりストとしての彼の態度に相通じる︒彼は
﹁人聞は︑何時の時代にないても︑本質的には同一である﹂
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人間の精紳には進歩も退歩も友いと考える︒この彼の態度は
彼の代表的たエVセイである
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ロ の 目 ︒
己 き仏 言︒ 宏司 ロ
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58
可にあきらかである︒
これは︑古代人と近代人の優劣論をめぐって︑学問芸術に沿
ける人間の﹁進歩﹂の問題を論じたものである︒この﹁進歩﹂
をbぐる問題こそ︑スイフトの﹃桶物語﹄なよび﹃書物の
戦争﹄にふ目指ける中心問題の一つである︒この問題は︑スィブ
ト的世界の背景にないで︑重要な位置を占める︒もちろん︑
一アンプルが︑前記の論文ではじめでとらえたのでは友く︑
当時の知識人の間に占設ける論争の中心課題であった︒ーテン
プルの歴史観︑そして究極的には︑スイブト的世界へのアプ
ローチの一つの鍵を理解するために︑ここで︑少したちいっ
て︑この問題が当時の知識人の聞でいかに展開されていたか
を眺めてみよう︒
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一 2進歩︶の理念f i
古代人と近代人の優劣論をめぐって
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前章 にも
4いて︑すでにのぺたように﹁進歩﹂の理念が︑
ヨiロ?パ人の思想のたかに育ちはじめるのほ︑ルネザサン
スにはじまる中世から近世への転換期にないてであり︑それ
が近代人の世界観のたかに不動の地位を占めるに至るのは︑
十八世紀を中心とする啓一家時代に・ないてである︒そして︑こ
の理念は︑われわれ現代人の世界観のたかにも︑生きたがら
えて いる
︒
この近代的特産物とも一疋うペき﹁進歩﹂の理念は︑ル︑ネy
サンス期から今日に至るまで︑その様相にないて︑いくつか
の段階を経てきてはいるが︑
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その核心とたる信心はま号︒σ色
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である︒この理念は︑伝
統的友キリスト教的理念︑ことに︑前章のはじめにとらえた
中世的世界観とは全く相反する︒すなわち﹁進歩
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中世
的た
否定
的態
度は
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山口
雪印
︶
は人間の睦t史の自家後の時期︑すたわち老年期で一のって︑人間 む歴史は︑神が救済のために定めた予定数の人間をあつめる
ヴ4ことができたときに︑終るのである﹂との聖アウグスティヌ
スの思想に明一不されている︒すでに触れたように︑ヒューマ
ニストやプロテスグシトたちは︑この一ー進歩﹂の理念の形成
者では友かったけれど︑中世的権威に対抗した近代化の促進
者であった一式う意味にないで﹁進歩﹂の理念を約束する知的
背景︵長︒吉窓口
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色
ミ
SS
︶の形成者でるった︒十六︑
七世記の合理主義と科学の進歩が︑この理念を如何に育成し
たかについては︑すでに述ペた通りである︒かくて近代の基
盤とも云うペき十八世紀の啓蒙時代は︑この理念のうえに築
かれるのでるる︒出ユロ件︒ロ教授は︑害蒙時代の根本的信念は
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唱であると説いているが﹁進歩﹂の理念のうえに築かれる啓蒙時代の性格を
明確に物語っている︒
この理念は︑既述のように︑理性を自然にしたがって働か
せることによって︑よりよい方向に進み得る︑との素朴た合
理主義的態度から生れるが︑自然科学の影響のもとに︑合理
主義官︑実験的実証的性格子一帯びるにいたって︑この理念は
一そう強化される︒すたわち︑自然科学は︑合理的態度にも
とやいて︑自然及び人間精拘の開発を企てて︑つねに新しい
知識や技術や製品を蓄積することによって﹁進歩﹂の理念に
確証をるたえる︒十八世紀の啓蒙主義者の一典型とも云う
べきコンドルセは﹃人間精神進歩の歴史﹄︵NN畠
尽な
的問
︑足
お
悼む ミ
S N h E 丸 ミ
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.意 向 島 師
︑
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白骨 忠弘 司む ぎ
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き︶の 友
かで︑次のように一式っている︒﹁人類は︑科学や投術に占一け
る新らしい発見によって︑その必然的結果として個人の幸福
や公共の繁栄のための諸方法にゐける新しい発見によって︑
或はまた︑行為の諸原則や実践道徳に沿ける進歩によって︑
或は更に︑入閣の智的︑道徳的︑肉体的諸能力の実質的完成
!それはこれらの能力の緊張度を増し︑その使用を事Jく諸k
の器具の完成から︑或は人間の自然的組織の完成から等しく
生じるものであるが
l
友どによって︑人類は改善されるにちQU
がい友いのではたかろうかしこのようた﹁進歩﹂の理念にも
とやいて︑文化の歴史をみるとき︑当然︑古代人よりも近代
人の方がすぐれているとの結論がでてくる︒
テンプルやスイフトの時代は︑かかる啓蒙時代の前夜︑或
は夜明けであって﹁進歩﹂の理念は︑いまだ近代世界の基調
7C
して確立されていたかった︒そして︑このようた背景は︑彼らの時代花︑すなわち十七世紀の後半から十八世紀のはじ
ゐにかげて︑古代人と近代人の優劣をめぐって論争が行われ
たことの必然性を物語るであろう︒テンプルの前記の論文は
勿論︑スイフトの﹃桶物語﹄や﹃書物の戦争﹄も︑この論争
花一殺を買った︒英国の十七世紀文学批評論集を編んだしア HW・
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明言可︑\wとのペているように︑この論争には
この時代の文人たち
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殊化︑英︑仏両国に沿ける1
の回
以と
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どが︑一直接に︑或は間接に参加した︒
この論争は文学史上及び思想史上にないで案外軽視されて
きた︒ことに︑十八︑九世紀人々は︑この論争を︑一般に馬
鹿ゆた出来ごととして片づけてきた︒勿論︑個人的友攻撃や
中傷が︑しばしば見出されると一千h
ノ点 にち おい て︑ この 論争 を
﹁個 人的 論争
﹂︵
℃号
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巴ち
︒ Z
BW
︶として片づけてきた先m
人たちを︑責めるわけにはゆかね︒しかし︑この小論に沿い
て試みようとするように︑近代世界の精神的基礎とたった
﹁進歩﹂の理念を背景にして︑この論争の意味を把握するとき︑この論争が︑近代文学史上及び近代思想史上に占める重
要た位置に気づく︒︵因に︑この論争を︑英文学史上の重要
た問題として︑はじめて取りあけたのは︑現在スタンフォー
ド大学の英文学教授である
H F H
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gであって︑この方面
になける後進の研究者は︑同教授が一九二O年︑三0年代K
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去にしたすぐれた研究成果に負うところが多い︒﹀この論争
の経過を!とくに英国を中心にして
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簡単に眺めてみよう︒この論争が︑はたぽたしく展開されたのはフランスについ
で︑英国にないてであるが︑問題がはじめて兵体的なかたちでとりあけられたのは︑イタリーに沿いてである︒すたわち
イグリヤ人﹀
H o m g H
己円︒
58
昆は︑彼の著書﹃随想録﹄寸︵むなミミミ忌
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ぎな之
︑刊 誌ご わ民 同ぬ よ民
NG︶にないで︑
学芸はながい経験と努力によって完全の域に達︑ずるのである
から︑現代人が学芸に沿いて古代人よりもすぐれて︑明るのは
当然である︑との前提のもとにペトラルヵ︑ホiマi
︑ア リ
ストテレスなどを攻撃した︒かかる見解は︑古典の再発見を
通して生れたルネサンスの本拠とも一疋うべきイタリーにない
ては︑てんで問題にされ﹃なかったのかも知れ友い︒論争の舞
台は︑フランスにうつる︒この警は︑仏訳されて︑ブラシス
の知識人たちに読まれる守︺とにたる︒
フランスに沿ける論争の火蓋をきった劇作家図︒山向︒
σ σ
ユ
は︑一六一二五年自分がその創立に関係したアカデミー・ブラ
シ セ
Iズ
︵﹀
⑦
s a
言問
︒玲
包括
的江
田ゆ
︶に
沿け
る講
演で
︑ホ
I
マー
を徹底的にこきなろした︒同︐
g g a
の前記の書物から切O
山 田
E
E σ
⑦立が示唆をうけていたと一式うことは︑充分想像できる
ことである︒古典の典型としてあがめられてきたホi
マー に
対するこの批難は︑当然︑当時の友人たちの注目をひいた︒
デカルト的た合理主義の覚醒期とも一疋うべき当時のフランス︿デカルトの﹃方法序説﹄bな
SS
G島守足︑昔︑訟の出
鼠は一六三七年︶になげる反響は︑イグリヤにたける反響と
は違っていた︒近代の優越を主張するもの︑その態度に反対
するもの︑再に︑逆に古代の優趣を主張するもの︑彼らが入
り乱れて論戦に加った︒
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デカルトの哲学が近代党の主張を支持し︑当時のすぐれた文
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古代に対する優越の確証︑として︑とりあ山げられたことは勿論
でるる︒こうした論戦のたかで︑近代党に確聞たる優位性を
あたえたのは可︒足︒ロ色ぽであって︑彼は﹃死人の対話﹄
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∞∞︶たどにないで︑知識の進歩についての確信をかため
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完英国にも恒げる論争は︑フランスに較ぺて︑時期的に沿そ た ︒
い︒もちろん︑十六世紀の終り頃から十七世紀のはじめにか
けて︑ベーコンの哲学が﹁進歩!一の理念を予測した︒そして
また︑一六二七年には︑神学者のき円ぬσ同m−
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入 品 ︑ ︒
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に一反対し︑近代は詩にないては古代と同等の地位にあるが︑その他の諸芸術や諸学聞にも叩いては古代に優ってい
ると主張した︒ーまた︑設立当時は︑宗教と学問にとって有害
であるとの批難をうけていた英国王室学会︵昨日百切円吉田炉
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守︿一六六七年﹀が︑知識の進歩にミES
関して︑近代の優越性を一不陵したが︑英国における︿近代人ル一
古代人との論争
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ベIコシの影響ゃ︑ブラシスに・治ける合理主義的た思潮の
影響のもとにあって︑前述の出邸付︒司自の円山口︿山口たどの態
度に一示されるような近代的傾向が︑ぽつぽつ英国人のるいだ
に萌しつつあったが︑当時の知識人の中心とも一五うべき教会一
や大学にないては︑一般に︑ル︑不?サンス的たヒューマニズ
ムの流れを汲んで︑ギリシャ・ロ1マの古典に範を求める古
典的態度が有力であった︒テシプルは︑そのようた知識人の
一人である︒大陸の動勢によく通じていたテシプルは当時
のフランス文壇忙ないて︑古典がこきなろされ︑古代党がこ
っびどくやっつけられているのに憤慨して︑一六九O年︑彼
の著書﹃雑録﹄︵足言
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古代党の欝護を試み︑近代党に対抗した︒この一文に長け
るテシプルの態度については︑日前節にないで略述したが︑と
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玉として絶讃し︑後者については
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テンプルのこの論文は︑英国になげる論争を活発化した︒
一六九四年︑テYプルの論文に対する挑戦として︑ウィリア
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ぃ︑テンeフルに反駁した︒ウォ?トンは︑この警に沿いて︑
文学の分野では近代が古代にまさるとは一式えたいが︑その他
の諸学芸や近代的知識にないては近代の方がすぐれている
との彼の見解を明らかにした︒この態度は︑前記の出巳門⑦E
4﹃告の態度に似ている︒この近代党の態度が﹁進歩﹂の理
念と結びつくのは︑学問や知識にたける人聞の進歩が︑人間
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この蓄の第二版に附して︑当時の古典学者りチャlド・ベン
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悼式加︿一六九七年﹀が公けにされた︒これN︺PRHNQ
は︑ォグスフォードの少壮竿者チャドルス・ボイル︵めげω
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︶が一六九五年に編纂した与な足立ミS S S
を偽
造書簡であると誹話した︒この書簡は︑テンプルが前記の
論文で︑絶護したものである︒このベントレiの攻撃に対抗
して︑ボイルの同僚であるオグスフォードのグライスト・チ