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议 ( 上 ) *4 がある 必 要 に 応 じて 本 文 中 で 触 れたいと 思 う しかし 自 伝 の 版 に 関 す る 問 題 について 検 討 を 加 えたものは 見 当 たらない 2 抗 日 戦 争 時 期 の 入 党 申 請 書 類 について まず 最 初 に 冼 が 入 党 に 当

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*1 拙論「冼星海 武漢から延安へ~「生産大合唱」の成立まで」(『集刊東洋学』第110号、2014年)、同 「《黄河大合唱》の成立」(『東北大学中国語学文学論集』第18号、2013年)。 *2 冼の「日記」12月3日の条に「永不能忘記的日子(永く忘れることのできない日だ)」とあり、それが共産 党の正式党員になったことを意味することは、「日記」を収める『冼星海全集』第1巻(広東高等教育出版 社、1989年。以下『全集』と略)290頁の編注にある。 *3 『党史博采』2006年第2期。 東北大学中国語学文学論集 第19号(2014年12月30日)

冼星海の「自伝」をめぐる問題

平居 高志 1 はじめに 私は、これまでに、現代中国で最も有名な作曲家であり、「人民音楽家」と讃えられて 来た冼星海(1905~1945)という人物と、その生きた時代についての考察を重ね てきた。そして前稿*1 においては、冼が延安に着いてから約半年の間に、「生産大合唱」 と「黄河大合唱」によって「大合唱」という様式を発明・確立させるなど、創作面で大き な成果を上げたことを指摘した。それに続き、本稿では、政治面について検討を加えたい。 冼に関する政治的出来事のハイライトは、1939年12月3日に、正式に中国共産党 の一員となったことであろう*2。そのための手続きは、1939年5月15日に「自伝」 を提出することから始まった。半年間にわたる彼の入党の経緯は、当時の共産党の組織事 情をよく表しており、考察に値するのだが、一本の論文で論じ尽くせるものではない。そ こで、本稿では、入党手続きの出発点となった「自伝」について考察することにする。冼 の「自伝」には、三つ、もしくは四つの版があり、成立事情にも問題があって、そこには やはり当時の時代状況がよく反映されていると思われる。 なお、「人民音楽家」冼星海に関して書かれた論文は、特に中国において膨大な量にの ぼる。その中で、入党について考察したものとしては孫国林「冼星海入党前後」*3 があり、 「自伝」の内容について考証をしたものとしては、戴鵬海の「《冼星海全集》编辑工作刍

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*4 『中央音乐院学报』1997年第2期。なお(下)は楽曲についての考察である。 *5 『上海党史与党建』2013年第8期。 *6 馬興恵「从陕公生活看延安精神」(刘葆观主编『血与火的洗礼~从陕北公学到华北大学回忆录(1937 ~ 1949)』上巻(中国人民大学出版社、2007年)所収。 *7 林恒「她牺牲于共和国屹立的前夕~回忆吴铭烈士」(『延安鲁艺回忆录』光明日报出版社、1992年、所 収)。 议(上)」*4 がある。必要に応じて本文中で触れたいと思う。しかし、「自伝」の版に関す る問題について検討を加えたものは見当たらない。 2 抗日戦争時期の入党申請書類について まず最初に、冼が入党に当たって「自伝」を書いたことが、自発的なことなのか、党が 求めたことなのかを考えておきたい。 銭立勇「入党申請書的演変歴程」*5によれば、第六次党大会の決定が生きていた時期(1 928~1945)においては、入党申請に当たって提出する書類の形式について、明確 な規定はなかった。特に無産階級においては、教育が普及しておらず、文盲も多かったと いう事情によっているようだ。後に作家となった高玉宝は、入党の時点ではまだ文盲であ って、一枚の紙に絵を描いて入党の意志を伝えたという話もあり、銭が写真と共に紹介し ている。 しかし、抗日戦争時期に関する様々な回想類に目を通すと、入党に当たって「自伝」を 書いている事例がいくつか見られる。入党に触れた回想も、時期が違えば事情が違うし、 詳しさにおいても大きな違いがあるので、一概に書かれていることだけによって判断する ことはできないのだが、例えば、1940年秋頃の陝北公学について、馬興恵は「学校号 召每个学员详细地写一份自传,以便学校对每个人进行全面了解(学校は一人一人の学生に 詳しく自伝を書くよう呼び掛け、それによって学校は一人一人について全面的な理解を進 めていた)」と書いている*6 。ここだけ読めば、当時の学校の教育活動の一環であるかのよ うだが、前後の文脈から考えると、これは明らかに入党に関わる作業である。また、私が 知る限りにおいて、個別の事例として最も明瞭に、詳しく入党経緯が記録されているのは 呉銘という人物についてであるが、彼女は延安女子大学に在籍していた1941年に、入 党申請書と共に自伝を提出した*7 。 したがって、党としての指示を文書で確かめることはできないが、少なくとも「知識分

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*8 馬洪「勤学三年 受益终生」(1990年2月17日筆、呉介民主編『延安马列学院回忆录』中国社会科学出 版社、1991年、47頁、所収)に「附件一」として収録されている。執筆は1940年12月25日。 子」は「自伝」を書くことが、入党申請に当たって重要視された作業であった可能性が高 い。だから、冼も決して自発的に「自伝」を書いたわけではなく、誰かの指示、または当 時の明文化されていない規定に従って書いたはずである。 自伝を書くことは、入党との関係だけではなく、整風や幹部審査との関係で求められる ことも多く、それは時代が下るに従って重要視されるようになっていった。では、いった いなぜ「自伝」を書くことが必要とされたのか?上の陝北公学に関する証言では、学校が 学生一人一人について詳しく理解するためであったとしているが、1940年末、延安の 最高学府であるマルクス・レーニン学院で書かれた「马列学院审查干部工作中的一些经验 (マルクス・レーニン学院の幹部審査活動における多少の経験)」*8 には、次のように書 かれている。 提高干部的政治觉悟程度,启发干部自动报告自己的一切历史材料,并重视这些材料, 是熟悉审查干部的第一步工作。(幹部の政治的覚悟のレベルを向上させ、幹部が自ら 自分の一切の過去を報告するように啓発し、これらの内容を重視することは、幹部を 十分に審査することの最初の一歩としての作業だ) 「自伝」という言葉こそ使われてはいないものの、幹部の政治的な意識の向上とそのチ ェックのため、自らその生い立ちを報告することが重要な作業として認識されている。こ れは、幹部審査に当たっての「自伝」の働きを述べたものだが、入党申請に当たっての「自 伝」も、働きとしては同様であろう。「自伝」は、入党を求める人物の人となりを判断す るための重要な材料であると同時に、書くことによって政治的意識を高め、強固にすると いう教育効果をも期待されていたと考えられる。 3 「自伝」のテキストについて 冼星海の「自伝」テキストについては、大きな問題(後述)があるため、そもそも冼の 文章が、どのように扱われてきたかについて確認しておく必要がある。 冼の文章は、書簡と日記、1940年以降に出張先のソ連で書かれた「創作雑記」、そ

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*9 紫光「紀念星海」(1946年10月27日筆、同30日『解放日報』所載。『冼星海専輯(二)』(*11 で詳 述)所収)。ただし、この記事には委員会の責任者が自分(金紫光)であったという明確な記述はない。そ の点は、*3 前掲論文による。 *10『人民歌手冼星海』には、同じ時に同じ出版社から毛子良編として出版されたものと、丘遠編として出版さ れたものの二種類がある。体裁・内容は全く同じで、奥書の様式と紙質にごくわずかな違いがあるだけで ある。どのような事情があってこのようなことになったかについては未詳である。 *11『専輯』は特異な書物である。文革を挟んだとは言え、(二)が出てから(三)が出るまでに20年が経過し ている他、編集、出版について以下のような違いがある。 (一)中央音楽院中国音楽研究所編輯・出版、内部参考資料。 (二) 同 (三)中国芸術研究院音楽研究所編輯、広州音楽学院出版、内部資料。 1982年11月刊。楽譜(歌曲143曲分の数字譜)のみ収録。 (四)中国芸術研究院音楽研究所・広州音楽学院編輯、広東高等教育出版社出版。 (内部資料との指定 無し。) して入党申請のための「自伝」を別にすると、基本的に書かれた直後の新聞・雑誌類に発 表されている。1945年11月に、冼の訃報がソ連から延安に届くと、毛沢東が「為人 民的音楽家冼星海同志致哀(人民の音楽家冼星海同志のために哀悼の意を表す)」という 弔詞を寄せ、共産党は、その約1年後に「冼星海作品保管委員会」を発足させて、冼の作 品が散逸することのないよう、党として取り組んだ*9。このおかげで、共産党が、抗日戦 争勝利の余韻に浸る暇もなく国民党との決戦を迎え、1947年には延安からの戦略的撤 退を行うなど、常に混乱の中にありながら、冼の作品は楽曲・文章ともにほとんど無傷で 保存されることになった。 こうして保護された冼の文章の中から、一部がまとめられて出版されたのは、1949 年10月のことである。『人民歌手冼星海』(生活・読書・新知三聯書店)*10がそれであり、 中には8編の文章と14曲の楽譜(数字譜)、10人の同時代人による回想などが収めら れている。8編の中に「自伝」は含まれていない。 次に冼の文章がまとめられたのは、1962年のことである。中央音楽学院中国音楽研 究所が、「中国近現代音楽史資料叢刊」のひとつとして、『冼星海専輯』(以下『専輯』と 略)の刊行を始めたのである。6月刊の『専輯(一)』は「音楽作品目録」と「文字著作 目録」、そして22編の文章を載せ、11月刊の『専輯(二)』にはその時点で研究所が存 在を把握していた残りの冼の文章とともに、28人による回想類その他を載せる。「自伝 一」「自伝二」という二種類の「自伝」は『専輯(二)』に収録されて、初めて世に出た。 その後発見された冼の文章は、1983年11月刊の『専輯(四)』*11 に収録された。

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*12「“冼星海全集”编委会第一次会议纪要」(1985年12月23日)(「文化部、中国音乐家协会关于转发《“ 冼星海全集”编委会第一次会议纪要》的通知(文化部と中国音楽家協会の《『冼星海全集』編集委員会第1 回会議の摘要》を転送することについての通知)」(『中国音楽年鑑1987年』394頁))。 *13 冼が勤務していた延安の魯迅芸術学院のこと。以下、本論の中でも同様に略記する。 *14 この( )は原文である。 1985年には、『冼星海全集』(以下『全集』と略)出版の準備が始まった*12。全部で 10巻からなる冼の『全集』で、文章は全て1989年刊の第1巻に収められた。その中 には、「致中共“魯芸”支部的自伝(中共“魯芸*13”支部に提出する自伝)」「我的履歴(簡 単歴史)*14」と題された二種類の「自伝」が含まれる。 さて、私は当初、極めて不用意に、『専輯(二)』所収の「自伝一」と「自伝二」が、『全 集』所収の「致中共“魯芸”支部的自伝」と「我的履歴」であると考えていた。ところが、 ある時、『専輯』所収のものと『全集』所収のものが、相当大きく異なることに気付いた のである。それは、手稿を読み取ったり印刷したりする時の単なる手違いというレベルで はない。それら4種類の「自伝」の性質を概観すると、以下のようになる。 『専輯』所収「自伝一」(以下「専輯版1」とする) 約4500字。「魯芸中共支部趙毅敏同志」という宛名で始まり、署名と日付(193 9年5月15日)、地名(延安)で終わる。前書きと六つの章からなる整った体裁の「自 伝」である。「校記」には「据0124号手稿校録」と書かれている。 『専輯』所収「自伝二」(以下「専輯版2」とする) 約1900字。宛名とそれに続く前書きの部分、第6章「対党的意見」がなく、「専輯 版1」の第1章~第5章に相当する部分だけがある。日付はないが、第5章の作品リスト に、1939年3月末作曲の「黄河大合唱」までしか書かれていないので、冼の入党手続 きが6月14日であったことを考えると、執筆時期は同年4~5月と考えられる。「校記」 には「据0131号手稿校録」と書かれている。 『全集』所収「致中共“魯芸”支部的自伝」(以下「全集版1」とする) 約5300字。印刷上のタイトルこそ異なるものの、体裁・形式は「専輯版1」と同じ で、「“魯芸”中共支部趙毅敏同志」という宛名で始まり、署名と日付(1939年5月1 5日)、地名(“魯芸”延安)で終わる。本文末尾には、括弧書きで「(关于入党的手续已

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*15「紀念館」(2014年7月26日訪問)では、その他の文章や楽譜の一部についても、手稿と『全集』が対 照できるように並置されているが、資料が古く、読み取りにくい部分も多い冼の作品が、『全集』で見事に 復元された、ということを示す以上の意味を持っていないように思われる。なお、「専輯版1」と「全集版 1」が異なることに気付きにくいのは、冒頭の1段落にほとんど違いがないからであろう。 与赵毅敏同志说过,他愿意作介绍。(入党の手続きについては既に趙毅敏同志に話してお り、彼は紹介したがっている))」というメモのようなものが書き加えられている。編注に は、「本篇是冼星海为申请加入中国共产党,写给中共延安鲁迅艺术学院支部的自传。原件 现存中央档案馆。(本文は冼星海が中国共産党への加入を申請するため、中共延安魯迅芸 術学院支部に対して書いた自伝である。実物は現在中央档案館にある)」と書かれている。 『専輯(四)』に収録されなかったことから、中央档案館で1980年代半ばに発見され たと考えられる。 『全集』所収「我的履歴(簡単歴史)」(以下「全集版2」とする) 約2000字。簡略版の自伝であることがタイトルに明記されており、前書きと交友関 係(人脈)に関する章を欠いている。宛名や署名、日付もない。編注には、「这是冼星海 加入中国共产党后写给组织的履历。原件现存中央档案馆。本篇写作时间不详。(これは冼 星海が中国共産党に入った後で組織に対して書いた履歴である。実物は現在中央档案館に ある。本文は書かれた時期が分かっていない)」と書かれている。しかし、本文中の作品 リストに1940年3月作曲の「犠盟大合唱(共六段)」が見られることと、冼が194 0年5月早々に延安を離れ、ソ連に向かっていることから、1940年3~4月に書かれ たことは間違いがない。中央档案館に保管されていることから、正式な提出書類であった と思われるが、執筆時期も目的も、明らかに他の3種類と異なっている。 私が見る限り、「専輯版」と「全集版」が大きく異なることに言及した人は中国にもい ない。それどころか、2005年に、冼の生誕100周年を祝って原籍地とされる広州市 番禺にオープンした大規模な「冼星海紀念館」には、「自伝」手稿の最初の2ページ(レ プリカ)と『全集』の「自伝」(「全集版1」)の最初の2ページとが左右に置かれ、比較 対照できるように展示されているのだが、驚くべきことに、手稿は「専輯版1」のもので あって、当然のことながら、『全集』のものとは文章が大きく異なっている*15 。異同につ いての説明が何もないことから考えると、そのことは、「紀念館」の展示監修者でさえ、「専 輯版1」と「全集版1」が別のものであることに気付いていないことを表しているだろう。

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*16 *12 前掲「紀要」 *17 2012年8月13日、『全集』の編集責任者であった斉毓怡先生に閲覧の紹介を直接お願いしたことがあ るが、今や自分でさえも手稿は見せてもらえない、と言っておられた。*12 前掲「紀要」によれば、『全 集』編集委員会は、文化部に対して、冼の全手稿の影印本を出版すること、中国文芸研究院音楽研究所と マ マ 星海音楽学院によって『全集』とは別に計画を立て、その作業を進行させるように、という進言をしたと のことであるが、それが完成したという話は今のところ聞いていない。 *18『専輯』では、この挿入部分を、一部は“ ”でくくり、一部はそのまま本文中に挿入して印刷している。 従って、「専輯版1」の手稿3ページ目以降に当たる部分は“ ”の部分がないものの、それによって加筆 がなかったとも言えない。また、“ ”でくくられた部分についても、それが後から挿入された一節である ことを意味するとの注記はない。なお、行間の文字は冼の筆跡であると思われる。 性質のまったく違う「全集版2」を除く3種類の「自伝」の性質について、限られた情 報によって検討を加えると、まず、入党申請に当たって党に提出された正式な「自伝」は、 「全集版1」であることが間違いない。それが、中央档案館に保管されていることから分 かる。だとすれば、「専輯版1」は「全集版1」の下書きで、更にその下書きが「専輯版 2」だと考えるのが自然である。しかし、「専輯版1」には日付と署名が書かれており、 通常、草稿にそれらを書くことはないと思われるので、「専輯版1」を「全集版1」の下 書きとすることには、慎重でなければならないだろう。 『全集』編纂に当たって、編集委員会では「除星海生前本人已作否定或经过整理也难以 正式出版的草稿之外,尽量收入全集。(星海が生前自ら否定していたか、或いは整理して も正式に出版するのが難しい草稿以外、できるだけ全集に収録する)」との方針を確認し*16 その上で、「専輯版」を収録しなかった。二つの「専輯版」は、『全集』の編集委員によっ て「生前本人已作否定」と判断されたのだろう。 「専輯版1」の性質を明らかにするためには、手稿による紙質や筆跡などの確認が不可 欠である。しかし、中央档案館は外国人に対して固く門戸を閉ざしている。また、「全集 版1」「全集版2」以外の冼の手稿を管理している中国芸術研究院図書館でも、冼の手稿 は最重要の保護文献となっていて、実物を見ることは今のところ不可能である*17 。 ところが、幸いにして、「自伝」の手稿として「専輯版1」のものを展示するという「紀 念館」監修者の不手際により、かろうじて「専輯版1」手稿の最初の2ページを点検する ことができる。それによれば、冼は、もともと光華書店製ほぼB4版500字詰め原稿用 紙に丁寧に文字を書き込んだ上で、後から行間にいくつかの部分を書き加えていることが 分かる。このことは、「専輯版1」の原型をもともと清書のつもりで書いたものの、書き 終えた後でいろいろと問題のあることが分かったため、加筆したことを意味するだろう。 この加筆部分をそのまま挿入して印刷したのが、「専輯版1」である*18 。冼は、「専輯版1」

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*19 魯芸は院長がいなかったので、副院長は実質的なトップであり、冼の「日記」でも、三箇所で「趙院長」と 書かれている。1938年4月の創設以来、1年以上にわたって院長ポストが空席だったのは、毛沢東に 就任を依頼して断られたからだ、という指摘が、劉増傑・王文金『迟到的探询』(河南大学出版社、199 6年)に引かれた龔亦群の話として、王培元『延安鲁艺风云录』(広西師範大学出版社、2004年)に見 える。 *20 原文「晚上,马达、汪鹏来谈话。赵毅敏副院长来坐,(中略)谈及他的出身,我也谈了很多我的出身。他很 关心我们,谈到十二时才回去(夕方、馬達と汪鵬が来て話をした。趙毅敏副院長が来て座り、(中略)話が 彼の生い立ちに及び、私も私の生い立ちについてたくさん話をした。彼は私たちに強い関心を示し、12 時まで話し込んでようやく帰った)。」(『全集』271頁)。趙が関心を示したのは、冼だけではなく、馬達 や汪鵬も含めた「私たち」である。 に更に加除訂正を加えて「全集版1」を書いたので、「専輯版1」は「全集版1」の下書 きのような形になってしまった。加除訂正が冼自身の判断なのか、党支部からの指摘なの か、或いはその両方なのかは判然としない。 ところで、「専輯版1」と「全集版1」は、どちらも日付が5月15日で同じであるが、 それぞれ5000字前後にも及ぶ2種類の自伝が、細かな訂正も含めて1日のうちに書か れたとは思えない。この点をどう考えるべきだろうか。 そもそも、冼の「日記」をたどっても、魯芸における日常の業務をこなしながら、にわ かに始まった生産大運動に参加し、「生産大合唱」や「黄河大合唱」の作曲、演奏といっ た大仕事に相次いで取り組んでいた1939年の上半期に、「自伝」の執筆に大きな時間 を費やせた日はなかったように見える。 冼の「日記」によれば、冼が王明夫人孟慶樹から、魯芸の新しい副院長*19に内定してい る人物として趙毅敏を紹介されたのは、1939年4月2日のことである。4月22日に は、趙とお互いの生い立ちについて語り合い、趙が自分に強い関心を持ってくれたという 記述が見える*20。だとすれば、入党の際の紹介者となってもらうことを依頼したのはこの 日以降である。4種類の「自伝」で最も古いと思われる「専輯版2」が、1939年4月 以降に書かれたことも間違いない。 「自伝」の日付となっている5月15日は、冼が魯芸音楽系主任として発令された日で ある。ただし、冼の「日記」によれば、冼がそのことを知ったのは5月17日である。5 月15日、冼は朝から、自伝の宛先となっている趙毅敏に会っているが、桂林抗敵演劇第 9隊のメンバーを魯芸副院長であった趙に紹介するためであって、入党に関する話ができ る状況だったかどうかは分からない。もっとも、「全集版1」末尾の括弧書きメモからは、 「自伝」が趙毅敏を宛名としつつ、それ以外の場所(中共魯芸支部)に提出されたことが 分かるわけだから、この日の面会も、入党とは無関係と考えるべきだろう。そして、6月

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14日に趙毅敏と徐一新の紹介によって入党手続きが行われた(「日記」)。 以上から、冼は1939年4月以降に「専輯版2」を書き、それに基づいて「専輯版1」 の原型を完成させ、問題のある点について加筆の上、更にそれをもとにして加除訂正を重 ね、6月14日までに「全集版1」を完成させたと考えられる。5月15日という日付は、 「専輯版1」の原型を書き上げた、もしくは党支部に提出した日であるか、魯芸音楽系主 任になったことと関係する何かの事情に基づく形式的なものだったと思われる。 4 「全集版1」「専輯版1」の異同について 前章で検討したような経緯で「全集版1」が成立し、しかも「専輯版2」から「全集版 1」まで、表現・内容が順次変化しているとすれば、党の指導によるか冼自身の判断であ るかに関わらず、そこには共産党員たる者いかにあるべきか、という模索の跡が表れてい ると考えられる。従って、「全集版1」は、あるべき党員像、党員はどのような考え方を すべきか、ということについての当時なりの結論が示されていることになるだろうし、そ の特徴は、「専輯版2」から「全集版1」への変化をたどることで、より一層明瞭になる と思われる。 しかし、「専輯版2」は書き方がかなり雑であることが活字を通しても伝わってくる。 一方、「専輯版1」は実際に党に提出されたかどうかは明らかでないとは言え、その原型 が清書として書かれたことはほぼ間違いないと思われる。従って、より一層デリケートで 重要な書き換えは、「専輯版1」から「全集版1」への過程で行われたと考えられる。故 に、本論では、「専輯版1」と「全集版1」を比較することで、当時の共産党にとって大 切なことが何だったのかを考察したいと思う。ただし、残念ながら手稿を全て見ることが できない上、『専輯』編集の際に、どこが加筆部分であるかが明記されなかったため、本 稿で比較検討できるのは、手を加えられた後の「専輯版1」と「全集版1」である。原型 への加筆については、「紀念館」で見ることができる「専輯版1」手稿の最初の2ページ 分についてのみ触れたいと思う。 なお、「専輯版1」と「全集版1」には、約800字の字数の違いがある上、そのほと んど全体にわたって、おびただしい文章上の違いがある。それら全てについて比較対照す ることはできないので、比較的大切と思われる異同を私の判断で選んで比較対照すること にし、以下にその対照表を掲げる。両者の間で異同が大きいなど重要な箇所には 、「民 衆」「無産階級」といった階級に関わる言葉には 、「音楽」には を私が付した。a、

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bといった記号も、私が便宜的に付けたものである。「専輯版1」手稿の最初の2ページ で、行間に挿入された部分は太字とした。 全集版1 専輯版1 (前書き) a关于本人的音乐创作,希望在理解马列主义的艺术 a关于本人的音乐创作,因明了马 理论和党员们互相勉励,能给自己进步,使作品能真 列主义的艺术理论和党员们的互相 正创作出民族的呼声,能代替群众怒吼,反映现实的 勉励,更可鼓励自己的作品能够深 艺术作品。(私の音楽創作に関しては、マルクス・ 入到民族心灵的最深处。使作品能 レーニン主義の芸術理論の理解と党員同士の努力に 真正的创作出民族的呼声,能代替 よって、自分自身を進歩させ、作品を真に民族の叫 群众怒吼,反映现实的艺术作品。 び声を表現したものにでき、群衆に代わって怒号し、 現実を反映した芸術作品にさせられるよう希望す る) b我感觉自己太缺乏,我非加入组织不可。因自己的 b因为自己缺乏,而又想把自己的 缺乏,我希望党能给我一切的指示和领导,使我能成 创作贡献给工农大众的原故,因此 为一个堪称为共产党的党员,不顾一切,为党努力和 就有要求加入中国共产党,加入组 奋斗,实现了我们同一的最高的想望,用行动来实现 织,实行锻炼自己,使我的作品能 这理想——共产主义。(私は自分があまりにも未熟 够真正为工农群众而写。我的缺乏 であるため、党組織に入らなければならないと感じ 由党来领导。成为一个堪称为党员 ている。自分が未熟であるゆえ、私は党が私にあら 的一人。不顾一切,为党努力。 ゆる指示と指導とを与え、私を共産党員と称するに ふさわしい人間、すなわち、一切を省みず、党のた めに努力と奮闘をし、私たちみんなの最高の希望を 実現させ、行動によってこの理想=共産主義を実現 する人間に育ててくれることを希望する) aでは、「専輯版1」に加筆したことで過剰になった表現が、「全集版1」で整理されて いる。加筆された部分は、もともと、「更可~深処」を削除する前提で書き込まれたもの だったかも知れない。加筆部分で需要なのは、「反映现实的艺术作品」という部分である。 共産党の文芸理論は、1929年の古田会議の決議にその基本的な考え方が表れ、19 30年代前半に、江西ソヴェトで時の教育部長・瞿秋白が提示した諸方針によって具体化

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*21 劉綬松「老根拠地文芸活動」(初出は劉綬松『中国新文学運動史初稿・上』作家出版社、1956年。『中国 人民解放軍文芸史料選編 紅軍時期上冊』解放軍出版社、1986年、125頁、所収)。 *22 *7 前掲書。 された。その瞿の指示のひとつに「大众化艺术的创造者必须深入生活,到斗争最尖锐的地 方去,与群众紧密联系,绝不能闭门造车;(大衆化芸術の創造者は深く生活の中に入り込 み、闘いが最も激しい場所に行き、群衆と緊密に連携しなければならず、絶対に閉鎖的で 自分勝手になってはいけない)」というものがある*21。ここには、文芸が民衆の生活を反 映し、観念的なものになってはいけないという考え方が見られる。民衆の生活とは、とり もなおさず「現実」である。そして、冼の「自伝」が書かれる直前、魯芸が創立1周年を 迎えた1939年4月10日、共産党幹部教育部副部長・羅邁(李維漢)は、魯芸で「鲁 艺的教育方针与怎样实施教育方针(魯芸の教育方針とどのように教育方針を実施するか)」 という報告*22を行い、次のように述べている。 世界文艺界的导师高尔基,常常号召青年文学家、文艺工作者到实际生活中去认识现实 与体验现实,这是完全正确的。然而要密切地认识现实、体验现实,从现实反映出真正 的东西(不是幻影),就必须掌握住马列主义的武器,并会使用这个武器。(世界の文芸 界の指導者ゴーリキーは、いつも青年作家や文芸工作者に実際の生活の中に行って現 実を認識することと現実を体験することを呼び掛けていたが、これはまったく正しい。 しかしながら、もしも切実に現実を認識し、現実を体験して、現実から真実(幻では なく)を反映させようと思えば、マルクス・レーニン主義という武器を手に入れ、こ の武器を使用できなければならない) 芸術作品が現実を反映させなければならないというのは、明らかに共産党の考え方であ り、それは常に確かめられていなければならない大切な原点であった。 bにおいては、「専輯版1」では、「因此就有要求加入中国共产党,加入组织,实行锻炼 自己,使我的作品能够真正为工农群众而写(このため中国共産党に加入し、組織に加入し て、自分を鍛錬し、私の作品を十分に労働者農民群衆のために書いたものとさせられるよ うにしたい)」と、入党することで自分の作品をどう変化させるかという書き方が為され ているのに対し、「全集版1」では「因自己的缺乏,我希望党能给我一切的指示和领导, 使我能成为一个堪称为共产党的党员,不顾一切,为党努力和奋斗,实现了我们同一的最高 的想望,用行动来实现这理想——共产主义」と、音楽に関する記述が消え、党活動の最終

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*23 拙論「冼星海伝小考~パリ留学時代を中心として」(『集刊東洋学』第104号、2010年)、同「救亡音 楽家・冼星海の誕生」(同第107号、2012年)。 的な目標が共産主義の実現であると明確化されている。以下で検討する「自伝」の最終章 (第7章 対党的意見)を見ると、より一層明瞭となるのだが、「専輯版1」には「音楽」 という言葉が頻出し、思考が常に「音楽」との関係で為されていることがよく表れている。 かつて確認したとおり*23、冼星海は音楽に対する並々ならぬ愛着と、自分の音楽的能力に 対する強いプライドを持っていた人である。「専輯版1」は、そのような冼の音楽に対す る意識を強く反映しているが、それに対して、あくまでも共産党員が目指すのは音楽に限 定されない「共産主義」であり、それこそが自分たちにとっての「理想」なのだというこ とを明示したのが「全集版1」であると言える。 これらのことと関係するので、順番を変えて、次に第7章を示しておこう。 全集版1 専輯版1 (七)对党的意见 c中国共产党在今日,已经是雄大起来,发展得很快, c中国共产党在今日已经雄大起来, 而且做了不少惊天动地的大事业,的确站立在无产阶 发展得很快,不但是西北抗日的根 级、民族立场去领导群众,而且在保卫祖国、保卫边 据地,也是全国重要的抗日根据地。 区的责任上,中国共产党已尽了很大力量,不但是成 中共在抗战以来,保卫祖国的责任 了西北抗日根据地,而且成为全世界注目的中共中央 已经尽了,而且还把大部分的无产 的反侵略的最重要地方。抗战以来,中共中央曾栽培 阶级、小资产阶级等团结的非常密 出成千成万的抗日战士和干部到前线后方工作,还联 切。培养许多干部上前线,或留在 合起各党派、各阶层的群众,团结在共产党领导之下, 后方工作。使敌人不敢轻易侵犯西 坚持持久战争,使抗战能够达到最后胜利。中国共产 北!我是认识共产党工作的重要, 党是全国唯一最进步的党,是无产阶级的政党,是坚 和他将来的前途。 持抗日、抗战到底的党,是青年的,是前进的,是有 国际意义的党。他的前途和发展都是伟大的,也是全 世界劳苦大众所冀望的一个党,弱小民族、被压迫民 族所共同拥护的一个党。我觉得自己创作幼稚,政治 认识太薄弱。因此,我希望能接受党的领导,从马列 我希望能接受党的指示,学习马列 主义的理论学习创作。我常觉得不加入组织成了离开 主义应用在中国新音乐的建设上。 党的领导一样渺茫似的。因此,愿加入党,同时希望 以补昔日我没有加入组织的遗憾。 党能吸收音乐的专门人才,使党的各部门都同时雄大 尤其在我个人,我感到需要党来领

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起来,在新中国建设、或在抗日的战争中,成为一支 导我,使创作和我政治的认识能够 不可侵犯的力量!我像许多青年人一样,愿意把自己 得到彻底。使我能达到大众化、民 献给党!(中国共産党は今日、既に強大になってき 族化的中国新兴音乐的创作目的。 て、速やかに発展しており、多くの驚くべき大事業 使中国音乐能有真正的代表群众的 を成し遂げ、確実に無産階級と民族の立場に立って 马列主义理论去增强抗战的音乐。 群衆を導いている。また、祖国を守り、辺区を守る 我还觉得中共文艺家有很多,但音 という責任において、中国共産党は既に非常に大き 乐人材很缺乏,因此我更要中共注 な力を尽くしており、西北抗日根拠地となるという 意音乐的人材。中共能得更伟大的 だけでなく、全世界が注目する中共中央の反侵略の 发展是需要多量的干部,而且要有 最重要地点となっている。抗日戦争が始まって以来、强大的干部,像音乐人材也是其中 中共中央はおびただしい数の抗日戦士と幹部とを育 一个部门。因此我诚恳地願加入党, てて前線・後方で活動させ、更に各党派・各階層の 加入组织,并学习。把自己贡献给 群衆と連合して、共産党の指導の下で団結し、持久 党! 戦争を堅持し、抗日戦争を最後の勝利へと導くこと が出来るようにしている。中国共産党は全国で唯一 の最も進歩的な党であり、無産階級の党であり、抗 日・抗戦を最後まで堅持する党であり、青年の、前 進する、国際的な意義を持つ党である。その将来と 発展はいずれも偉大なものであり、同時に全世界の 苦しむ大衆が期待している党であり、弱小民族や抑 圧された民族が共に守ろうとしている党である。私 は自分の作品が幼稚で、政治意識も非常に薄弱であ ることを自覚している。そこで、私は党の指導を受 け入れ、マルクス・レーニン主義の理論から創作を 学ぶことを希望している。私はいつも、党組織に入 らなければ、党の指導を離れたのと同じように、ど うしていいか分からなくなってしまうと感じてい る。そこで、入党を希望し、同時に党が音楽の専門 人材を取り込んで、党のあらゆる部門を同時に強大 にし、新中国の建設や、抗日戦争の中において、侵 すことのできない力となるよう希望する。私は多く の青年と同様に、自分を党に捧げたいと思う)

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*24 初出は『解放』第73期(『陳雲文選第1巻』人民出版社、1984年所収。2014年10月1日現在、 「 中 国 共 産 党 新 聞 人 民 網 陳 雲 記 念 館 」 で 公 開 さ れ て お り (http://cpc.people.com.cn/GB/69112/83035/83317/83595/5738028.html)、本稿はそれによった)。 *25 中央档案馆编『中共中央文件选集・第十二册』(中共中央党校出版社,1991年)134頁。「正因为出身 的关系,他们常常表现出思想上、行动上的弱点,因此要使他们成为一个健强的干部必须经过长期的教育与 锻炼(正に生い立ちの関係から、彼らはしばしば思想上、行動上の弱点を見せる。よってもしも彼らを立 派な幹部にしようと思えば、長期間の教育と鍛錬とを経なければならない)。」とある。 言葉に表れた意識の違いは明らかである。前にも書いたとおり、「専輯版1」は徹頭徹 尾「音楽」を意識した書き方になっている。冼にとってまず大切だったのは「音楽」であ り、党はそれとの関係を中心に意識されていたと思われる。一方、「全集版1」では、共 産党の意義や具体的役割をより詳しく述べていること、しかも、「群衆」「労苦大衆」「弱 小民族」といった低い階級や弱者への意識が強く表れているのは、やはり、共産党にとっ て、「音楽」が一つの手段に過ぎず、最終的な目標は、抑圧された民衆の解放であること、 党員たるものはそれを強く自覚しているべきだという思想に基づいているだろう。 「専輯版1」にあった「小資産階級」という言葉が「全集版1」にないことも目を引く。 次稿で詳しく検討するが、共産党は、1938年10月に出された毛沢東の「新段階論」 を受け、知識人を中心とする小資産階級の党組織への取り込みに努めていた。ところが、 1939年5月23日に陳雲が「为什么要开除刘力功的党籍(なぜ劉力功の党籍を剥奪し なければならなかったのか)」*24 を発表し、劉力功という党員が、党員としてあるまじき 言動を取ったため除籍したことを伝え、6月25日には、党の総政治部が「总政治部关于 大量吸收知识分子和培养新干部问题的训令(総政治部の、大量に知識人を吸収し、新しい 幹部を育てる問題についての訓令)」*25 を出し、知識人の取り込みは進めつつも、思想・ 行動を慎重にチェックし、教育に意を注ぐよう指示している。共産党は党勢の拡大に慎重 な態度を取るようになったのである。冼が「自伝」を書いたのは、微妙な時期である。も しも、冼が5月15日に「全集版1」を提出したとしたら、劉の事件は公になっていない ので、共産党にとって知識人を中心とする小資産階級は歓迎すべき存在だった。だが、5 月15日は「専輯版1」の原型を提出した日であって、「全集版1」の提出は5月23日 以降だったとすれば、この間に「小資産階級」を見る目が変わり、それとの団結は書かな い方がいいということになったかも知れない。わざわざ「小資産階級」を削除したからに はそれなりの理由があるはずである。だとすれば、「全集版1」は、5月23日以降に、 劉力功事件を受けて書いたと考えるべきではないだろうか。 また、「全集版1」では、「抗战以来,中共中央曾栽培出成千成万的抗日战士和干部到前

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*26 延安のマルクス・レーニン学院で行った講演(『劉少奇選集(上)』人民出版社、1981年所収。*24 同サ イ ト 「 劉 少 奇 記 念 館 」 で 公 開 さ れ て い る も の (http://cpc.people.com.cn/GB/69112/73583/73601/73623/5068947.html)による)。目的を誤って入党する人の 例として「今天也有不少的人,主要是由共产党坚决抗日,主张抗日民族统一战线而来加入党的(今日でも 少なからぬ人々が、主として共産党が抗日を堅持し、抗日民族統一戦線を呼び掛けていることによって入 党している)。」とある。 线后方工作,还联合起各党派、各阶层的群众,团结在共产党领导之下,坚持持久战争,使 抗战能够达到最后胜利」と、抗日戦争も非常に強く意識して書かれている。「堅持持久戦 争」という表現は、明らかに毛沢東の「持久戦論」を受けた表現である。 「安内攘外」を標榜して、国内の敵である共産党を壊滅させることを第一と考え、日本 に対して妥協的な態度を取りがちであった国民党に対し、共産党は、一貫して抗日団結を 呼び掛けていた。それが、祖国を守ろうとする人々から共産党が大きな支持を得る原因と なっていたのだが、一方で、共産党を階級政党ではなく抗日政党として誤解する人々をも 生み、組織内で問題視されるようにもなっていく。だが、それを指摘した決定的な例であ る劉少奇の「論共産党員的修養(共産党員の修養を論じる)」*26 が発表されたのは7月8 日のことであって、冼の入党手続きが6月14日であることを考えると、それは明らかに 「全集版1」の執筆よりも後である。よって、冼が「全集版1」を書いた時には、むしろ、 抗日に対して積極的な姿勢を取ることが、共産党員として望ましいことだと考えられてい たことになる。 全集版1 専輯版1 (二)家庭関係 d我和母亲靠着双手去奋斗,还过了将近三十年的惨 d我和母亲靠着自己两手去奋斗。 淡生活,飘流无定的生活,到现在我和母亲还是为着 一直到现在。 生活奋斗。(私と母は自分たちの両手に頼って奮闘 し、30年近い苦心の生活、根無し草の生活を送り、 現在に至ってもやはり私と母は生活のために奮闘し ている) (三)教育経過 e母亲操工养活我,并且从工钱里面所得来的钱给我 e母亲操工养活我。 做学费。(母は働いて私を養ってくれ、その上、賃 金の中から得たお金を私の学費にしてくれた)

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f当时以国文、图画、音乐几种学科成绩最好。(当 fなし 時国文、図画、音楽などいくつかの学科で成績が最 もよかった) g在广州岭南大学附中半工半读,我也读过大学的文 g在广州岭南大学附中读至中学和 科,大学的图画系(高奇峰教)。我做过打字员、班 大学文科,都是半工半读,任打字、 长、暑期华侨学校教员和大学的音乐教授。(広州嶺 班长、暑期华侨学校教员、音乐私 南大学付属中で学びながら働き、更に大学の文科と 人教授和曾经担任过两年大学的银 図画系(高奇峰が教えていた)で勉強した。私はタ 乐队教授。 イピストや級長、夏休み華僑学校の教員、そして大 学の音楽教授などをしたことがある) h也曾在北大听过鲁迅先生的小说史,我又学过古琴 hなし 和其它的中国乐器。(かつて北京大学で魯迅氏の小 説史の授業を聞いたこともあり、私はまた古琴やそ の他の中国楽器を学んだこともある) i但在经济万分困难时,我仍不断地向上努力,求得 iなし 我所需要的学识。(しかし、経済的に極めて困難な 時でも、私はなお不断に向上の努力をしたし、必要 とするところの学識を得ようとした) j每天我要工作十小时以上,但我利用下午休息时间 j下午我还抽出一点时间看书及音 和晚上十时后,我还在饭店的地下(地窖)里写作或 乐理论书。 拉琴。有时还看音乐理论书。(毎日私は十時間以上 働かなければならなかったが、私は午後の休憩時間 と夜10時以降を利用し、ホテルの地下(穴蔵)で 作曲やバイオリンの練習をした。時には更に音楽理 論の本を読んだ) k我又遇到一位苏联的大音乐家S.Prokofieff,给我 k我又遇到了一位俄国音乐家S.Pro 很多帮助。一个俄国的大文学家屠格涅夫的女儿和Ma kofieff,一个女文学家(俄国)Ma

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dame Neggo都给我很多文学的帮助,(私はまたソ連 dame Maggo。 の大音楽家S・プロコフィエフと出合い、多くの援 助をしてもらった。ロシアの大文学者ツルゲーネフ の娘とネッゴ夫人はどちらも私に多くの文学上の手 助けをしてくれた) l我在法国学习,全由自己奋斗,从未有接受过任何 l我在法国学习,全是由于奋斗, 的公款,也得不到任何的鼓励。在这七年奋斗中我却 从未接受过公家一文钱!也没有接 到过瑞士、伦敦、比利时、罗马、柏林等国。我已做 到国内的文化人一句勉励话。但在 了相当的音乐成绩,替我们旅法的侨胞争光。不过我 七年中是不断地努力学习,预备将 还觉得自己很不够,除了音乐以外我还更要增强其它 来。 的学识!(私がフランスで学んだのは、すべて自分 の奮闘によるものであり、いまだかつていかなる公 金をも受け取ったことはなく、いかなる励ましをも 受けたことはない。この7年間の奮闘の中で、私は スイス、ロンドン、ベルギー、ローマ、ベルリン等 の国を訪ねた。私は既に相当の音楽の成績を収め、 私たちフランスに行っていた中国人を代表して名誉 を得た。しかし、私は自分がまったく不十分である ことをまだ自覚しており、音楽以外についても、私 はまだその他の学識を深めなければならない。) ここには苦労と努力を強調し(d、i、j)、自分の優秀さを誇示する(f、g、k、 l)という傾向が見られる。これも「全集版1」の全体的特徴であると言ってよい。自分 の優秀さを誇示する場合、そのことをストレートに書くだけでなく、高奇峰、魯迅、プロ コフィエフ、ツルゲーネフといった著名人と直接・間接に関わったことを示すという権威 主義的な手法を採っている場合もある。 kでプロコフィエフについて、「音乐家」を「大音乐家」に書き換えたことには、その ような権威主義的な方向性が感じられるし、「俄国」を「苏联」と書き換えたことは、帝

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*27 プロコフィエフはロシア革命の勃発により亡命したが、1935年前後にソ連に戻った。一方、ツルゲーネ フは1883年、すなわちロシア革命よりも早く没し、「ソ連」の人間にはなり得ないため、「俄国」のま まにしたと考えられる。 *28 *4 前掲論文。 *29 *1 前掲拙論「冼星海 武漢から延安へ」。 政ロシアよりも共産党ソ連と親和的な中国共産党側の立場を反映しているだろう*27 gの「大学的音楽教授」という書き方は、大学の正規の教授であったと理解できる。だ が、嶺南大学在学中に「大学教授」を努めていたというのが、いかに突飛であり得ないか というのは、戴鵬海も指摘しているとおりである*28。もちろん、ここで言う「大学教授」 とは、いわゆる「教授」ではなく、大学のブラスバンドのリーダーもしくは指導者という 意味であることが、「専輯版1」の表現から推測できる。だからこそ、そのように読み取 るための材料を削除して、「大学的音楽教授」と表現した「全集版1」の作為性が問題と なるのである。 lにおいて、フランスでの学習が金銭的に自分自身の努力によってのみ支えられたこと は、「全集版1」で「从未有接受过任何的公款」、「専輯版1」でも「从未接受过公家一文 钱!(いまだかつて公金を一銭も受け取ったことがない)」と書かれていることから分か るのだが、「専輯版1」の「全是由于奋斗」を「全集版1」では「全由自己奋斗」と、「奋 斗」の前に「自己」を入れてより一層明瞭にしている。わずか2文字とは言え、これは意 識的な強調に当たる。もちろん、公的には誰からも金銭的な援助を受けなかったというの は、国民党の援助は受けたことがないということを意味するだろう。 hで、「魯迅」や「中国楽器」が持ち出されているのは、共産党が魯迅を高く評価して、 冼も教員を務めていた延安の芸術学院にその名を冠したことや、1938年秋以降、共産 党が「民族形式」を問題とするようになった*29 こととの関係で、それらに触れることが有 利になると考えられたためであろう。 しかし、共産党による評価が高かった魯迅を別にすると、著名人たちと接し、優秀な成 績を収めたことは、見方によっては非常にプチブル的な実績であり、それらに触れること が、入党に際してむしろマイナス要素に働くのではないかと危惧されるような内容である。 しかし、逆に言えば、それらを強調・詳述した「全集版1」が、入党用の「自伝」として 通用したことにより、それらの要素が、1939年5月頃の共産党内で、決してマイナス の要素とは考えられていなかったことを知ることができる。 全集版1 専輯版1

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(四)社会経過 m我喜欢学习,我已实行了半工半读的事实。但在学 m为着学习,我也曾说过实行半工 习当中,我曾在北平参加很多次的学生游行示威,罢 半读去求学。因此知道社会的重要 课。在上海,我也曾亲自领导过罢课。(私は勉強が 和自己的关系是非常密切。我最初 好きで、私は既に働きながら勉強するということを 和社会接触是在北平,我曾参加了 実行していた。しかし、勉強の最中、私は北平で多 很多学生运动。不过我并不是主要 くの学生デモや授業ボイコットに参加した。上海で 分子。 も、私はかつて自ら授業ボイコットを指導したこと がある。) n此外,我和少数留法的党员接近。(この他、私は n此外和留法的党员颇接近。 少数のフランスにいた党員と親しくしていた。) o这时候我们的部长是陈诚,副部长是周恩来,厅长 o这时候,我们的副部长是周恩来 郭沫若,处长是田汉。(この時、私たちの部長は陳 同志,我们的厅长是郭沫若,处长 誠で、副部長は周恩来、庁長は郭沫若、処長は田漢 是田汉。 だった。) mにおいて、「専輯版1」では冼の参加した政治的活動として、北京のものだけが「学 生運動」という漠然とした形で書かれており、そこで冼が果たした役割も大きくなかった とされているが、「全集版1」では、「学生運動」の内容が「学生游行示威,罢课」と少し 具体的に記述されている上、上海での授業ボイコットに触れ、そこでは自分がリーダーで あったことを書いている。 冼は、嶺南大学(広州)在学中の1925年に北京に行き、国立芸術専科学校(以下「芸 専」と略)でトノフというロシア人に就いてバイオリンを勉強している。冼がたくさんの デモや授業ボイコットに参加したというのは、この時のことである。1927年8月に国 民党によって芸専が閉鎖されると、冼は一時的に広州に戻るが、1928年の秋に、上海 で国立音楽院(以下「音楽院」と略)が開校すると、そこで勉強すべく上海に出た。その 音楽院で、1929年夏、学校が夏休みに寮生から8元の雑費を徴収しようとしたことを きっかけとして、学生運動が起こった。寮生でなかった冼に実質的な被害はなかったのだ が、冼は義憤を感じて立ち上がり、先頭に立って活動した。その結果として、秋に音楽院

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*30 陳聆群「从国立音乐院到国立音乐专科学校的创业十年」(『音乐艺术(上海音乐学院学报)』2007年第3 期) が国立音楽専科学校に改組される際のどさくさに、冼は除籍となってしまう*30 音楽院での学生運動が、貧しい寮生を援護するためのものだった以上、義憤を感じてそ れに積極的に関わることは、下からの運動を組織したことも合わせて、共産党が高く評価 するに値することだったであろう。だから、むしろ「専輯版1」の段階で冼が触れなかっ たのが不思議であるようなことである。 nは、「専輯版1」の「頗」が程度を表し、「全集版1」の「少数」が数を表していると いう点で、同列に比較はできないが、珍しく「全集版1」の方がトーン・ダウンした印象 を与える表現になっている。これについては、党による調査が容易であって、虚偽が発覚 しやすいため、誇張傾向の強い冼が、あえて事実を書いたものと想像できる。 oは、1938年に武漢で、第2次国共合作の賜物と言うべき国民党軍事委員会政治部 第三庁(以下「第三庁」と略)に所属していた時の話として書かれている。政治部長の陳 誠は国民党の有力者である。その名前を書くかどうかは、国共合作に対する意識の程度を 表しているだろう。 西安事件によって力尽くで実現した第2次国共合作には無理があり、両党の関係は短期 間のうちに悪化した。冼が「自伝」を書いた1939年というのは、国民党が共産党を敵 視する姿勢を特別に強化した時期に当たっており、後にそれは「第1次反共高潮」と呼ば れるようになった。この時期の国民党の動きを、平野正「抗日民族統一戦線と憲政運動」 (『講座中国近現代史第6巻抗日戦争』東京大学出版会、1978年所収)によってごく 簡単に抜き出すなら、次のようになる。 1月 国民党5期5中全会 「内政重視(抗日よりも共産党対策優先)」「一党専制支配の強化」を決議 3月 「国民精神総動員綱領」を公布・・・ファッショ的体制への傾斜を強める。 5月1日 蒋介石によるスローガン提起で、国民党を中心とした強権的支配の合理化。 6月30日 「異党活動制限弁法」を公布。共産党を「奸党」であると称するに至る。 一方、共産党は抗日優先の考え方を取り、第2次国共合作成立時の合意を守ろうという 努力をしていた。「合意」とは、蒋介石を中国のリーダーとして認め、その指導の下に挙 国一致で抗日する、というものである。だから、国民党が上のような形で共産党に圧力を

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*31 前頁で見たとおり、「国民精神総動員」は蒋介石による共産党弾圧のスローガンである。共産党は、しばし ば国民党側の言葉を逆手にとって自分たちの主張を行っていた。 かける中、様々な文書・スローガンの中で、あくまでも国共合作・民族統一戦線を堅持し、 蒋介石のもとで一致団結して抗日活動を行うよう呼び掛けている。日本国際問題研究所中 国部会編『中国共産党党史資料集第9巻』(勁草書房、1974年)から若干の例を抜き 出すと、次のようになる。 2月16日 張聞天「共同防共即是滅亡中国」 「中華民族と中国人民は、「共同防共」をもって中国を滅亡させようとする日本侵略 者の悪辣な計画には、二度と乗せられてはならない。強固な抗日民族統一戦線を堅持 せよ!国共両党の長期合作を堅持せよ!「抗戦必勝、建国必成」の国策を堅持せよ! これが中華民族の唯一の活路である!」 5月1日 中共中央宣伝部「国民精神総動員口号」 「(1)国民精神総動員を擁護し*31、全国人民は団結しよう。(6)中国の軍隊は、兄 弟のように共同で抗日しよう。(15)蒋委員長を擁護し、国民政府を擁護しよう。(1 6)国共合作を擁護し、統一戦線を擁護しよう。」 7月7日 中共中央「中国共産党中央委員会為抗戦両週年紀念対時局宣言」 「国内団結を強化し ―― 内部分裂に反対しよう! 蒋委員長を擁護し、国民党を擁 護して、あくまで抗戦しよう! 三民主義を擁護し、国共合作を守り、誠心誠意団結 しよう!」 このような共産党の姿勢は、少なくとも、1941年1月に、国民党が共産党軍をだま し討ちにする(皖南事件)までは継続されたように見える。だからこそ、第2次国共合作 の象徴的存在であった「第三庁」について触れる時、その上部機関の代表者であった国民 党員・陳誠を無視することは許されなかったのである。同時に、「専輯版1」の周恩来の 名前には付けられていた「同志」という呼称を「全集版1」で外したのは、陳誠の扱いと のバランスを考慮した結果であると思われる。このことは、「同志」という呼称が共産党

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*32 張光年(光未然)によれば、「第三庁」で党員の身分が公開されていたのは、「第三庁」特別支部幹事会の3 名、すなわち張光年、馮乃超、劉季平だけであった(「回忆第三厅中共特支工作」(初出は『抗戦初期中共 中央長江局』湖北人民出版社、1991年。『張光年文集第四巻』人民文学出版社、2002年、所収)。 従って、郭と田は共産党の地下党員であり、表向きは無党派人士であった。郭(1927年入党)につい ては、「第三庁」庁長就任に際し、共産党員としての身分を公開して活動したいとの希望を周恩来に示した が、周が許可しなかったという話が、金冲及主編、狭間直樹監訳『周恩来伝1898-1949(中)』 (阿吽社、1992年。原著は人民出版社・中央文献出版社、1989年)に見える。 員にしか用いられなかったことをも明瞭に示しているであろう*32 全集版1 専輯版1 (五)认识哪一界人 o我的交游很广,文艺界、军政界、工农、商界我都 o我的交游很广,文艺界,军政界, 有很好的往来。(私の交友関係は非常に広く、文芸 工农,商界我都有来往。 界、軍政界、労働者、経済界全ての分野の人々とと てもよく付き合ってきた。) p一般青年学生都爱好我的歌曲和音乐。但我日常生 p一般的青年学生都爱好我的歌曲 活是大部分时间放在创作,而不是专门交际式应酬。 和音乐。但我大部分时间是用在创 (若い学生たちはみな私の歌曲と音楽とを好んだ。 作。 しかし、私の日常生活は大部分の時間が作曲に費や されたので、彼らと交際のための交際はしなかった) q杨仲子 刘天华 qなし r军界方面也认识很多,尤其我到前后方工作时认识 rなし 了师长们。一般来说,他们都喜欢我教唱歌,每到一 个地方,他们都要挽留我。学生、士兵、老百姓都欢 迎我去指导唱歌。(軍関係でも知っている人は多く、 特に私が前線や後方で仕事をしていた時に将官たち と知り合った。一般的に言えば、彼らはみな私が歌 を教えるのを好み、どこに行っても、彼らはみな私 を引き留めようとした。学生、下級軍人、民衆は全 て私が歌の指導に行くのを歓迎してくれた。)

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(六)有何种创作 (在上海写) 比较好的有传遍了全国军队各民众口中如・・・ 比较好的有: (比較的よくできていて、全国の軍隊や各民衆に広 く唱われたものとして・・・) 「全集版1」の方が、第5章では、交友関係をより広範囲かつ親密なものとして扱おう という姿勢が見られ、第6章では、自分の作った曲が、多くの人から歓迎されていたこと を強調している。 「全集版1」第5章に見られる「楊仲子」は北京の芸専で教えていた音楽教育者、「劉 天華」は二胡の大家である。「劉天華」については、第3章「教育経過」の部分で触れた とおり、民族形式問題との関係で、交際があったとすることが有利に働くと考えられた可 能性がある。 以上、「全集版1」と「専輯版1」における、内容上の違いとその意味を検討してきた。 「全集版1」の方が字数が多いということにもよるが、明らかに「専輯版1」よりも詳細 であり、音楽よりも民衆運動との関係を強調したものになっている。また、冼自身の能力 や社会関係を大きなものとして描いている特徴も明瞭である。 結局のところ、修正を加えたことについて、どれが冼自身によるものであり、どれが党 の指導によるものであるかは分からない。ただ、「専輯版1」の原型が清書として書かれ たものであるらしいことを考えると、それを書き上げた後で、以上全ての変更点について、 短期間に冼自身が自力でその問題を発見し、訂正したと考えることには、相当に無理があ る。作品は現実を反映したものであるべきこと(a)、党の最終目標が共産主義の実現で あること(b)、「第三庁」の関係者として陳誠を書き加えていること(o)などを中心に、 明らかに党の指導があったように思われるし、そう考えてこそ、本稿第2章で確認したよ うな、単に自分の過去を振り返るだけでなく、書くことによって共産党員としての正しい 見方・考え方を身に付け、自らの政治姿勢を強固なものにしていくという「自伝」の役割 は果たされる、と考えられる。 5 おわりに 冼星海の「自伝」の成り立ちと内容について考察してきたが、その中に書かれたことが 事実として正しいか否かについては、また別の議論が必要である。本論中でも一部には触

(24)

*33 *4 前掲論文参照。 *34 *23 の拙論、特に「冼星海伝小考」参照。 *35 *8 前掲「附件一」に、「从1940年6月马列学院291个抗战后入党的党员测验中,前后表册填写一致的仅103人, 占全数测验的33%,其他67%都是经过了党的无数次的教育解释工作才改正了、补充了自己的历史的。(194 0年6月に行ったマルクス・レーニン学院の291人の抗戦以後に入党した党員の調査の中から、調査の 前後で入党申請書の記述が一致したのはわずかに103人で、全部の調査対象の33%を占めるだけであ り、その他の67%は全て党の何度にも渡る教育指導活動を経てようやく自分の歴史を書き改め、補った 人たちだ)」とある。103人は291人の35%に当たるので、数字には少し問題がある。 れたが、戴鵬海は、「全集版1」と「全集版2」の異同や、内容についての丁寧な考証を 行い、大きく分けて10の点について虚偽である可能性を指摘している*33。戴の指摘は正 しいであろう。私も、冼の「自伝」が虚偽を含むことは、かつて指摘したことがある*34 1940年6月以降、延安のマルクス・レーニン学院で、日中開戦後に入党した291 人の党員について、党に申請した経歴と実際とが一致するかどうか調査したところ、一致 したのはわずか33%で、残りの67%は、党による度重なる指導を受けてようやく「自 伝」を書き改め、補うことができた、という*35。同様の調査をすれば、冼も67%の中の 一人に入ったはずだ。にもかかわらず、党が冼の「自伝」に含まれる事実関係についての 虚偽を放置したままで、正式に入党を認めたのは、1939年時点では、審査をさほど厳 しくしていなかったということか、冼のそれ以前の様々な活動実績を尊重して、「自伝」 の内容に関係なく入党を認める方向で考えていたか、党にも調査できない部分が多かった からであると考えられる。 冼が「自伝」を提出してから正式に入党が認められるまでには、半年以上の時間が必要 であった。それがなぜなのか、その7ヶ月近くの間に何が行われていたのか、それが当時 の社会情勢や共産党の組織事情とどのように関係するのか。次稿においては、これらの点 について考察を加えてみたいと思う。

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