九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
晩清洋務運動史論
本村, 正一
https://doi.org/10.15017/2339109
出版情報:史淵. 29, pp.1-29, 1943-09-20. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
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清朝の中葉乾隆五十八年︵西紀一七九三年︶遥儲時の新典喪本主義園イギリスは新たなる貿易市場を東
亜に求むくく︑使節マカートニー卿を支那に派遥して來た︒その要求する通商の自由は清朝廷の総す所
・ざはならなかったが︑︑その時英國王に典へた勅書の中に﹁天朝自附間以來.聖帝明王垂教剣法.四方億
︵ 一
︶
︐兆奉由有素.不敢惑於異説﹂芭乾隆帝は宣言してゐる︒か羽る澗善的な中華の概念は勿論蹴大な専制皇
や帝だけのものではない︒それは徽代支那の知識人に共通な祉界棚歴史槻であり︑・数千年來の歴史の中に
培はれ來つた確固たる信念であった︒しかしそれから僅か牛批紀老經た唾には︑支那の識者達は彼らが
その中に安住し來つた世界槻や歴史槻を根抵から動棉せしむる如き激しい嵐に直面しなければならない℃
それは西欧姿本主義列弧の市場州拓への制止し難き欲求が支那に對する武力的征服を決意せしめるに至
晩浦洋務迦動史諭ゞ一. 晩﹂清洋務運動史論↓
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晩清洋務浬動・史論こ
ったからであり︑その斌初の打蝶は阿片戦争さその結果の南京條約の成立︵道光二十二年︑一八四二年︶
ざして知られる︒それが典へた所の支那斌會の爾後の苦悶がいかに庚汎にして且深刻なものであったか︑
その全貌を誠に説いて識すこざは容易ではないが︑先づ第一に列吸の武力侵遥の端を開いたこEがあげ
られる︒欧米列弧の如き進歩せる兵器亡訓練されたる軍隊を有せざるが故に支那は列強の武力侵遥に對
抗し得ず拘從って列弧は自己の要求を批徴するに股も有効なる手段として︑その要求が國際間の法的又
は慨例的に正営なる場合にせよ︑且又支那の微弱なるが故に不幟に領土・主椛侵略の欲求を刺激さ伽仁
場合にせよ屡交武力を行使するに至ったのである︒例へぱ威蝶七年︵一八五七年︶より同十年︵一八六
○年︶に及ぶ英佛聯合軍の践束長江北京侵走︑露西亜の滿洲及び新纒省侵略︑佛簡西の印度支那併合︵光
緒十三年︑一八八七年︶℃日本の琉球併合︵同治十一年︑・一八七二年︶ど姦漣出兵︵同治十三年︑︑一八七
咄争四年︶︑及び日清戦役に至る迄の朝鮮を焼る日清閲の繼練的紛争等の如きである︒第二に列弧經沸勢力の
︵ 二 一
進出發展であって︑阿片輸入額は阿片戦雫十五年後には戦前の約二倍七寓箱に増加したが︑特に顯著な
輸入増大率を示したのは列弧の進歩せる機械工業生産による商品部門である︒其の大宗は英國綿製品で
あって︑同治九年︵一八七○年︶に於けるその輸入額は綿絲一億一千六百蕗ポンド・綿布三億九千七百
︵ 一 二
︶
萬砺に達してゐる︒條約の規定により海關税率は輸出入商品の從慣五分ざ定められ︑叉外國商品は海口
に於て開税率の牛即ち二分五厘の税︵牛子口税︶を納めて内地麓金に代ふる特典を賦與され︑以て列狸
の對支商品輸出發展の趨勢を促進したのであるが︑未だ手工業の段階に在り而も過重な鐙金を負捲しな T1jlll
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められ︑以て外國勢力の侵入を助長したのである︒ ごなる始末である︒主要開口地には和界が設定され︑外人は論外法椛を獲得しb基将教布教の自由が認 對外貿易及び沿岸長江海運業は列弧の手中に猫占され︑鍍山開發鐡道電信敷設の利権もその要求する所 過の漸次的増大ご農村家内工業の衰頽であり︑奮來の産業經濟に致命的打躍を與へた︒加ふるに支那の ければならない土産商品は到底これど對抗して販路を維持するこさは出來なかった︒その結果は輸入超 ノ斯くの如さが阿片戦争以來十九世紀後半期に於ける情勢であった︒李鴻章は﹁篝議海防摺﹄に時勢の
急激なる愛韓を疏して云ふ︒︑
歴代術邊多在西北︒其強弱↓其強弱之
・傳教來往自如︒膳集京師及各省腹地︒陽託和好之名︒陰懐呑嘘之計︒一國生事諸國構煽︒賓爲数千年
來未有之鍵局.輪船電報之速瞬息千里︒軍器械事之精工力百僻︒織弾所到無堅不推︒水陸關晦不足限
制︒叉爲数千年來未有之弧敵︒
一切の晴勢は支那の軍事的政治的經濟的自主樅の喪失ざ︑列弧への從厩化が急速度に進行しつ夢あるこ
ざを明確に示してゐだ︒愛ふくさはそれのみではない︒國内には太平天國飢の経結後も叛凱絶えず︑官
紀の弛緩︑官場の腐敗︑財政の破綻は對外怖勢の危機亡相俟って深刻な祇會的政治的不安を形成したの
である︒
斯くの如き内外情勢に直面して特に識者の愛臆する所さなったのは︑云ふ迄もなく列弧の武力侯憲に
晩浦洋務迩唖史論三・
勢客主之形皆邇相埒︒且猶有中外界隈︒今則東南海彊万余里︒各國通商〆
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民晩満洋務迩動史論四・
基く政治的經濟的自主桃の喪失である︒外潅を退けるこどこそ先づ喫緊の問題であらねばならない︒そ
の方法は如何︒李鴻章は﹁霧識海防樹﹂に論じて云為︲
外患之乘愛幻如此︒而我猶欲以成法制之︒碑如鰐者疲疾不問何症概投之以古方︒誠未見其効也︒
叉云ふ︒︵同上︶
︑然則今日所念︒惟在力破成兇以求没際而已︒
﹁求蛮際﹂Eは何の詔ひであるか︒彼は云ふ︒
彼方日出其技與我争雄競勝︒翠長較短以相角而紹凌︒則我笠可一日無之哉︒自弧之道在乎師共所能奪
其所持耳︒︵讓議製造輪船未可裁撤摺︶
叉胡嬬棄は﹁條陳鍵法自弧疏﹂に疏して云ふ︒
今日即孔孟復生︒舍爾弧外亦無治國之道︒而舍倣行西法一途更無致術弧之術や
西法莚倣行するこさ即ち西欧列弧を範ごしてその長所を釆取し︑彼の﹁所能所持﹂を以て我の﹁所能所
時﹂ざするァ﹂Eが宙弧を致す術であり︑つまり自弧の道だざ云ふのである︒
かくして西法に倣って簡図強兵を蜜現しやうさする洋務運動が同治初年より日清戦役後に至る四十除
始年に亘って展開されるのであるが・その過程に於いてこの支那の近代化への方向を決定的ならしめたも
のは太平天國飢であったご老へる︒︑この乱に於いて太平天國軍が上海地方を便すに及び圃英吉利佛鮒西
等列扱は太平天國に反對の立場に立ち︑政府軍に各種の軍事的援助を提供した︒その著名な例に所謂常
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勝軍の存在があげちれるが︑ざもかく太干天國軍に鮫後的決定的打耀密與へ此れを壊滅せしめたのは︑
蜜に列狸の提供せる精鋭な近代兵器の威力に外ならなかった︒この事賛は郷勇軍を率ひて太平天國軍さ
︲岡乗せる漢人官僚逵に西賦自然科學の發逵さ機械兵器の優秀性を切蜜に認識させる結果直なり︑彼等を
願って西欧科學の採用︑軍備産業の近代化へ︒E進ましめるこさ色なったのであ互曾國藩・左宗裳・沈
葆核・劉坤一一・劉銘僻・彰玉麟等の郷勇軍の蛎慨が何れも洋務論者であり︑特に常勝軍さその統領たる
米人華爾急騨一・ゞ英人戈葦ooao画ご絡始緊密な關係を有った李塑¥が洋務運動最大の指導者であった
事蛮は廿此の冊の事情を明白に語ってある︒更にこの内飢に於いて太平天國軍芭正面對時して岡乖しこ
れを打倒したのは郷勇軍及び團練を率ひだ此等漢人官僚郷紳階級であっても常然飢後に於ける官紳階級
は清朝政権の支柱たるE共に事変上の支那の支配者さして︑・國内政局を捲餅すべき主動的地位を雄得す
るに至ったのである︒從って同治以後︽抽闘狸兵諭は彼らの間にその直接の艘験を通じて決定的な伽論さ
なるご共に︑彼らの掌中にその蛮践の指導樅が握られ活溌な運動が展開されるこさとなったのである︒
李鵡章が洋務運動の殆ざ全貌を代表する蛾大の脂導者芭して登場したのも︑彼の洋務に開する多大の經
込験知識ごむ蛮際政治家こしての蝶樹な栗質ご卓越せる手腕ざに因るこさ勿論大であるが︑叉一に漢人官.︑︑
紳階級の軍事的政治的勢力を統合せる中枢的存在亡しての比類なき蕊望閲歴這蔚然たる政治的資力直に
因るものである︒
註㈲︒束華録↑.︑其
晩清洋務墾戴史諭.五
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・同治三年︵一八六四年︶太平天國飢が経結するに及んで︑緊迫せる内外情勢に對應して帝國弧兵を逹
●成すべく︑曾國藩・左宗染・李鴻章等を盟主ざする漢人官僚の間に膨評返して改革論が提起されたので
あるが︑彼らによって耐弧の根本達して採り上げられた問題は何であったか︒李鴻章は國防充資の急を
弧調して云ふ︒・
惟臣粗識夷怖︒獣等時勢︵中略︶必從篝餉練兵製器三端下手︒︵誇議天津設備事宜摺︶
彼の洋務論は同治十三年に上った﹁審議海防摺﹂に略その要旨を誰すのであるが︑夫れに於いて問題さ
されrゐるのは矢張り軍備充蛮さ國防強化ざである︒即ち練兵簡器造船篭餉の各條に陸軍の再建ざ訓練︑
鎗磁・水需・磯子・火薬等の製造︑︐輪船及び鐡甲船の建造等の詳密な建議を試みてゐるのであるが︑特
に注目されねばならないのは︑︲國際情勢及び國内の諸條件特にその財政負推力の薄弱なる鮎より考慮さ
れたる國防の重鮎を東南海躯に置き︑西北逢防を一時犠牲ざするも東南海防に主力を傾注す可しさの見
・解を躯調せるこさである︒ざは云へ彼の眼界は軍備のみに限られてゐたのではない︒軍備建設に要する
亘斐の毒し難きに巾り︑財政經濟政策を論じて云ふ︒・
現在丁漕課税正供之外︒︲添出指輪麓金二款︒百方雑掘価不足用︒指輪所得無幾︒流弊雀大︒而内地篭
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晩涜洋務通勤史論
註目同︒平凡鮭﹁世界歴史大系﹂
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物來自重洋︒勢不能典内地自潅着比較.我利日興則彼利日簿︒不獅有益篭餉也.︵籍議海防摺︶︑
列弧の對支商品輸出の急激なる發展さその結果獄らされ︑る所の土産商品の販路の喪失ご内地手工業の衰
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額や.商工業者及び農村の困窮︑愛幣の流出諺篭金收入の減少等の不可避的諸情勢に對應するには︑機械による製造工業を興し︑砿山を開發して砿業を朧んにし︑織道電信海運業を建設して以て商業貿易を旺
盛ならしめねばならない芭彼は老へる︒即ち庫業の開發︑明淌の日本に於ける殖産工業である︒
藤禰成が﹁弧隣環伺謹陳憩計疏﹂に云ふ所も一に﹁鑿武備﹂であり︑二に.﹁溶利源﹂である︒曰く泰
西諸國競舞藏衞於民之法︒然後自治自弧措之裕如︒︵中略︶蓋生財大端在振興商務︒商務以暢鉗土貨爲
/要訣︒欲運土碇以創築鐡路爲始基︒
それには購機設廠して織布紡紗・養猛・繰絲・植茶・焙葉・錬鐡附煤の法を講求整頓す↓べきである琶云
ふ︒李鴻章に次いで洋務史上に大なる足跡を功川めた張之洞は︑その修﹁審議愛法釆用西法疏﹂に四法の釆
用す可きもの十一條を梁げてゐる・・その中王公大官をして海外を脱察して見聞を炭からしめ︑又海外學
晩清洋務通勤史論七
金叉爲半税所細︒如釧鐵調泥洋布等類皆關民生日用︒洋船縛蓮迅捷輸納叉僅半税︒於是好民包撹胃編︒大宗貨物皆免完蔽︒因税則赦在和約無可加議︒以至彼此輕亜懸殊︒商塁父困︒叢祷淵命芝嚥何堪設想︒丁日昌擬設廠遼耕織機器︒禽國蒋與臣蕊奏請開煤鐵各砿試辮招商輪船︒皆爲内地開拓起見.蓋既不能禁洋貨之不來︒叉不能禁華民之不肘.英國泥布蓮至中國毎歳嘗銀三千余万︒叉銅繊鉛錫嘗銀数百万︒・於中國女紅匠作之利妨奪不少︒局若亦設機器自爲製造輪船繊路自爲蒋蓮︒但使貨物精華與彼相埒︒彼11
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晩浦洋務通勤火耐↓へ
術採朋の爲の﹁庇派源歴﹂及び﹁多諜東西各國普﹂の二催を除けば︑他はすべて國防ご財砥經濟に閑す
る論議である.即ち﹁練外國操﹄℃﹁庇車蛮﹂︑﹁修愛政﹂︑﹁細工蕊﹂︑︑.﹁走路律砿律商錐父渉刑律﹂.﹁川銀
元﹂︑﹁行印花税﹂.﹁椎行郵政﹂︑﹁官收洋藥﹂等だ.﹁鋤工藝﹂の催に云ふ.
9枇人多謂西國之宿以商︒而不知西國之︽︑定以工︒蓋商者迩巳成之俊︒工者造未成之伐︒粗者使精︒賎
者使蛍︒朽陵者使有用︒有工蕊然後有侭物︒有蛍物然後商斑有販迩︒.
故に須らく工藝の振興に努むくく︑.それには一に﹁設工藝學堂﹂て理論ご應刷笹講究し︑叉工師匠目を
養成し︑二に﹁設糊工場﹂即ち博蝿倉を耐催してその工巧を競はしめて進歩を脚り.三に﹁艮工奨以官〃
職﹂て奨勵を加へ︑以て工業の進歴を州らねばならないと云・毎叉胡嫡楽は﹁條陳鍵法自弧疏﹂に疏し
て云ふ︒︑
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且肌之念.首在籍餉︒次在練兵︒而籍餉練丘乏本源︒尤花敦鋤工商庇興學校..︲
〃以上の如く洋務論は軍備充蛮ご國防弧化︑庵業附發芭財政整頓を根本の基調ざして居り︑その塞ぐる所
は陸海軍の整備︑兵器製迭︑鐡道・電信・郵便の敷設︑砿山開發︑機械工場附設等であって画逓般の諸
施設を以て宙弧の根本ごなすこさは何れも同様である︒︒︵一︶以上の改革術が具艘的にはいかなる成果を断らし仁か手笹概略についてみる喝軍需エ業方面では同治
元年竹國藩が安塵軍械所迄李鴻章が上海蘇州製砿励を開設せるを噛矢きし?以後李鴻章によって江南・
天津・金陵各機器局が圃左宗采によって祇建船廠・機器局芭廿瀬機器錘泥廠が穆丁賓禎によって四川機
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より漢陽鐵政局が附かれ︑一方李鵡章は光緒初年より海軍建設に清手︑鐵甲瞳一隻鋼甲快船一隻を初め
各種軍艦を英猫雨國より雌入して光緒十四年北洋海軍成立し︑彼によって光緒六年以後数年問に沿海沿
江諾省に電信が敷設された.茎座韮父迩方面では李鴻章によって上海紡織總局・輪船招商局が︑張之洞
︵︾一︶によって廠東に諜絲局・機器制鍍局・銀元局・織布肋・武mMに織布・紡紗・製肺・諜絲四肺が劇越され
て居り︑.・學堂の開設さ師仁ものに祢凹図椛の上海武備學堂︑李鵡章の上海蕨方一濤餓・天津水師及び武備學
堂︑左宗染の禰建船政學堂︑・張之洞の庇束水陸師學堂・南京陸軍學堂・湖北武術嬢堂・湖北自弧學堂が
.あり︑.又脅國藩・李塑¥は同治十一年より四年間に亘一十人の幼童を米國に留學生ざして送りや李鴻章 jは光趨一年陸軍學生七編を渦逸へ︑叉光緒二年七年十一年に耐建船政學童畢生五十七名を英猫佛三國國 ︑
に送って海軍の事を研究せしめてゐる︒
!洋務運動が軍備充蛮ご産業陥發笹︑王眼ごして一歩もそれから離れなかったここ︑尋皿國弧兵﹂なる概念
に抱合される物的な面のみが特に抽川され弧訓されたこ達は以上の事没によって明かである︒例へばそ
こには學堂の開設︑語畢生の欧米派遥の如き事業もあった︒併し夫は測並︑機械︑兵感奪の軍事的知識
技能の修得を陸涯半將校の養成Eがその目的の總てでありや磁方一両館Eしても軍事外交に必要な獅識官
を養成する機關であったにすぎない.一見して臓汎なる文化的意義を有する如き此等の施設も︑・事責は
軍備ざの關聯に於いてのみ考慮されたに過ぎないのであって︑欧米の近代的政治經濟細織乃至その緒祁
︑︑
晩浦洋務通勤史論九
①器局が開設され︑・砿業では李鴻章によって開平砿務局・熱河四道溝銅砿・黒龍江漢河金砿が︑張之洞に|
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晩浦洋務通勤史論一○
的文化に至っては殆ど關心の對象E︑されてゐないのである︒それざ共に常然の結果ではある.が︑︲此等の
多彩な新建設事業の總てが西洋の査朋有形の自然科學即ち機器の應用を基礎直したものであるこさに吾
共は氣付くのである︒術國弧兵の逹成ざは西洋の﹁所能所侍﹂を倣行することであったが価それでは西
洋の﹁所能所持﹂即ち欧米近代國家が近代及び現代に見る如き席國弧兵を逹成したその力の本質芭源泉
喧を︑洋務論者は如何に理解したのであらうか︒.
西欧の長所を倣行す↓べきこさを唱へたのは決して曾國蒲や李鵡章に始まるのではな聡既に南京條約
の成立した道光二十二年︵一八四二年︶に海國川志を著した魏源はその箸に云ふ︒
今西洋器械︒借風力水力火力︒奪造化迩祁明︒無非錫耳目心思之力以前民用︒因其所長而用之︒即因
其所長而制之︒
鼓に魏源が西洋の長所亡考へてゐるのは機器の力であるがDこれより三十年後の同治十一年李鴻章は﹁
等議製造輪船未可裁撤摺﹂に云ふ︒
四人専侍其鎗磁輪船之締利︒故能横行於中士︒中國向用之弓矛小鎗土職不敵彼後門進子來禰鎗磁︒向
用之帆筵舟緯艇船砿刻不敵彼輪機兵船︒是以受制於西人︒
彼によれば西洋列弧が密躯を致した所以は全くその精利なる鎗砿輪船の力に依るのであって︑道光以来
支那が蒙つた屡次の惨敗は一に支那が此らの利器を具備しないからであった︒李鴻章が西洋の﹁所能所
侍﹂さ云ったのは︑西洋の發逹せる自然科學の所産なる兵器輪船機器等を指すのである︒更に下って光
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緒中莱頃詳娠成は﹁弧隣環伺謹陳懸計疏﹂に疏して云為︲・
顧臣槻西洋大國︒岡治之原頗有條理︒.英俄法創國数百年︒或近千年︒・炎六之勢不始今日︒今其制勝之
術屡愛益精︒舟車則愛而火輪芙︒喬信則愛而電博美.楠砿則愛而後瞠英︒戦艦則愛而鐵甲突︒水雷則
鍵而魚雷美︒火藥則愛而無煙突︒窺敵則愛而州氣球英︒照夜則愛而用電燈実︒專家之學互琿智力.性
交能制駁水火呼吸風筵︒新藝迭出殆無窮期︒其侍弧暹威之具既如此.
彼の云ふ所も同様に西洋科學學への驚嘆であり.それを以て西洋列弧術弧の基琶見微すこさは愛らない
するものであった上に.阿片戦争以來支那を座辿し侵略した列弧の軍事的經濟的力︑即ち鎗磁火薬輪船
乃至は電信鐵道から砿山の採掘・機械工業組織に至るまで︑細て此の科學の所産に係る機器の力なので
あるから℃彼等は西洋科學の優秀性をぱ切蛮に感銘せざるを得なかったわけであり︑此を以て西洋密弧
の根本であるざ認識するに至ったのも肯ち無理ではないのであるpそして差し迫った列強侵略の脅威を
前にして國力の充蛮を念がなければならなかった幟代の支那に於いて︑先づ要求されたものは軍備の充
蜜ど産業の開發亡であって︑從って何を措いても科學の釆朋︑機器の應用が密弧逹成の要務である芭見
倣されたのである︒
.註一・︒李丈忠公金番︒矢野仁一﹁近代支那史﹂小島凸太郎﹁支那妓近大辨年表﹂
晩浦洋務通勤史論二 のである︒︒︑
..西洋の發達せる科學こそ奮來の支那に全く見られないものであって︑彼等に這りそれは驚心騒目に慣I .
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の惨敗は洋務運動に這っては大なる試練であって︑︑海図弧兵がそのモットーであった以上は夫れは蓮動
の完全な失敗を意味した︒戦争後洋務通勤に反對する各凌の立場から蛾烈な批判が提起され︑康有爲等
︑の愛法自彊運動の耀開を見るのであるが︑洋務運動失敗の縁曲を一言に誰すこEは蓋し容易ではない︒藝
裁には洋務蓮動が抱藏せる本便的欠陥ご思惟されるものを穆戦勝者日本の場合ざ比較するこEによって
考察したいE老へる︒何ごなれば︑十九世紀後半期に於ける日本ど支那は其の徴面しなければならなか
皿づ・つた對外的對内的條件に於いて多くの類似鮎を有するからである︒即ち十九世紀中葉迄古い自國の鱒統
に生きて來た雨閏は画欧米先進安本主義列弧の座辿によって開國を除俵なくせしめられたこさ.雨國が
激烈な國際競争場裡に投ぜられた時には︑是れざ欧米列強どの問には醜に比較になら程度の群大なる國
力の相異懸隔が存し︑從って列弧の睡迫さ不断に岡ひつゞ凡ゆる面に於けるその後進性を除去してゆか
ねばならなかったこさ︑更に此の故に支那に於いて洋務通勤が推進されつ﹄あった芭時を同じくして︑
L・維新日本の指導者達も常國弧兵の旗幟を高く掲げ︑近代的軍備の充蛮ご殖産興業による姿本主義の育成
に熱狂的な努力を傾注してゐたこごに於いて︑略同様の事怖に置かれてゐたからである︒ 晩渚洋務通勤史論
註二︒張之洞が湖庇總折に稗任後︑咲束より移輔鮒没したものでわる︒
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︽ゞ日本は︑支那に於いては識者の間にすら叢爾たる蝿邦こして輕覗されて来たがや.十九世紀末には共に
西洋を範芒し西法を採用して窟國弧兵を刷るその立場の相似から︑特に塞識出兵或ひは朝鮮を焼る紛争.
拒よって雨國間の交渉が頻繁ごなるに件うて︑維新以後の日本の躍進は洋務論者の間に漸次注目を引く
に至った事賓がみられる︒李鴻索は﹁議覆中外洋務條陳摺﹂︵光締五年︶に云ふ︒.
〃日本國小財匿.其勢原遜於泰西諸國︒惟該國近來取法西人︒於練兵製器各務刻意請求︒頗有振興之象︒︲
ノノ李鴻章は屡麦外交の衝に儲って日本ざの接鯛も多かっただけに︑絶えず日本の動向を注目してゐるので
あるが︑彼が意を認めた軸は殆ざ日本の軍事的資力の充蛮發展に限られてゐる︒更に日清戦争直後︑胡
矯楽はその﹁條陳鍵法自弧疏﹂に疏して云ふ︒︲
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日本一弾丸島國耳︒慣明治維新以来︒力行西法亦僅三十余年︒・而共工作之巧︒出産之多︒砿政郵政商・政之興旺︒國家歳入租賦共約八千餘万回︒此以西法致宿之明効也︒其徴兵懸兵預後備之軍︒溌計不過
→十数万人︒快船雷艇総計不過二十余響︒而水陸各軍皆能同心齊力暁暢戎機︒此以西法致弧之明効也︒
洋務論者は洋務に於いて帝國弧兵の物的な面のみを採り上げたご同様にも近代日本の發展を理解する場
合にも︑軍備や商工業の進歩にのみその縁由を求めやうざしたのである︒
0併し乍ら︑近代日本興隆の眞因老か強↓・職にのみ求めんどすろは全く皮相の見解竺云ねばなるまい︒
勿論明治の日本が達成した近代的軍備や産業經濟乃至交遮運輸等の組織は︑日本を近代的餐本主義國化・
するに不可紋の要素であったには相達ないが︑かゞる日本の近代化安本主義化が今日の﹁世界的日本﹂
・晩清洋務通勤史論.一三
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・直して結賓するこさを可能ならしめた基本的誌要件の存するこぜを万過してはならないであらう︒三千・
年の歴史に裏付けされた國槌概念這國蝿緒祁の優秀さは云ふ迄もないが︑維新の日本を問題ごするさき.︑
五具は叉相繼いで遂行された幾多の政治的祉會的愛革を想起するのである︒即ちそこには幕府の大政泰
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遼ご諸候の藩籍奉遼さによって王政復古が没現しや武士階級が没落して近代的官僚細織がこれに代替し︑
國民教育制度が計謹されて漸次普及し︑かくして天皇を中心ごする國家的統一を完成した︒更に日清戦
役数年前には醜に日本は武任内閣制ご憲法議會を有する東洋に於ける唯一・の國であった︒膨評さして入
り來つ仁自由主義思潮は個人の猫立ご創意の奪璽Eを洲へ︑國民を封建的道徳の樫椎より解放したので
ある︒維新愛革はその歴史的段階のもつ特殊な條件によって︑維新以後ご雌も封建制的なものシ或る程
度の残存を冤れなかったざは云へ︑一應近代國家の誕生をみたのであって︑明治以後の富國弧兵は賓に
か強る基礎の上に達成されたのである︒.︑︒
然るに支那に於いては事惰は全く異ってゐたのである.李鴻章初め洋務論者の誰一人ざしてD彼等が
貴現せんさした軍備や産業の近代化ご傅統的な祗會機織及び政治制度どの開聯について關心を向けたも︒
のはなかった︒薔來の封建的就含の持つ諸條件︑即ち治安の維持ご租税の徴收以外には被治者階級から
︑全く遊離し隔絶された専制絶對的王朝︑王朝及び官紳階級の農村搾取の機關ざしてのみ存在した不合理
極まる官僚機構︑全く迷蒙のまシ放棄された國民教育︑從って近代國家に於けるが如き國家意識ご國民
的統一.の完全なる峡除等をその催にして顧みるここなく︑此の腐朽せる基礎の上に支那が從來有せざり
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し爲駄米列弧に比して支那側の不利な條件さなれる所の近代的軍備や産業を取入れて︑以て列弧に比肩
するに足る富躯を逹成し得る直信じたのである︒故に梁啓超は李泌章の洋移笹批判して云ってゐる︒
吾敢以一言武断之日・李鴻章賓不知國務之人也︒不知國家之矯何物︒不知國家與政府有若何之關係︒
不知政府與人民有若何之椛限︒不知大臣幟識之黄任︒其於西國所以常弧之原荘盈乎未有聞︒以爲吾中
︒●國之政教文物風俗無一不優於他図︒所不及者惟鎗耳︒砲耳︒船耳︒鐵路坪︒機器耳.吾但學此而洋務
之能事畢芙︒︵四十年來中國大事記︶︑・一
此の批判は他の凡ゆる洋務論者にもその惟常ってゐる︒つまり彼等は機器の力を本こした軍備充資さ塵・
業開發のみを富國弧兵の全部ど理解した結果︑﹈蝶の密國眠兵は政治組織や國民の統一就會制度乃至は文
・化一般に於いても近代化されるのでなければ達成されないこざを悟るこどが出来なかったのである︒
勿論洋務論者ざ雌も常時の國内政治に於ける改革の必要を全く認めなかったのではない︒張之洞は﹁
霧議愛法整頓中法疏﹂に云ふ︒
・・巍惟治國如治疾然︒陰陽之能爲忠者内有所不足也︒七怖振節然後六氣感之︒此因内政不修而致外患之
旬
︒
説也︒療創者必先調其服食︒安其臓脈︒︐行其氣血︒去其腐敗︒然後施以藥物針石而有功︒此欲行新法
︲必先除祷弊之読也︒
8外患頻りに到るは内流の修らざるが故でありD新法を行ひ柑弧を致すには先づ齊弊を革めて内を鑿へな
ければならぬ芭彼は老へるのである︒立國の要諦は治國が第一であり︑﹁保邦政治非人無由﹂さ故に治國
︑晩清洋務通勤史論一五
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四I且BBB■■■■■■B■品lb嘆川ⅢⅢⅢ ▲■則︲01判1J■口1・h4■■1
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晩消洋務迩勅史論二︿
の根本は人材の養成に在る︒張之洞は興學圭脚才こそ洋務の先決要件亡兇微し︑凋途及び日本の制に倣ひ
︵ 注
︶
國腿教育制度を建議してゐる︒即ち州縣に蒙學・小學・︷尚等小學︑府に中學狗省に高等學校及び農工商
砿の四専門學校︑京師に大學校を設立するのである︒此れによって人材を育成するざ共に内政の改革を
行ふのであるが︑然らば如何なる改革が必要であるか︒﹁讓議愛法整頓中法疏﹂に彼は次の十二像を學
げてゐる︒噂
一︑﹁崇節倹﹂.宮廷内府の我より官吏の應酬日糀生活の節倹︒賄賂需索の禁絶︒
二︑﹁破常格﹂︒官吏の嬬惰因稲粉飾虚文を正しb奏對の際の直一局を奨め︑俊才を擢づ︒
三︑﹁停捕納﹂︒拍納任官の即時停止︒.
・四︑﹁課官里藤﹂︒俸緑を厚くして清廉ならしむ︒
五︑﹁去書吏﹂︒地方官場の吏青の全駿︒γ・︐
六︑﹁仙刑獄﹂︒訴証に常り差役の霜索を禁じ︑雰問を愼み︑刑罰を緩くし︑衆証を重んず︒
九︑﹁簿八旗生計﹂︒貧困旗人の救濟︒
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十︑﹁裁維誉﹂.緑誉兵額を裁撤して勇に代ふ︒
・十一︑﹁裁屯衛﹂︒各自屯田の整理.
十二.﹁簡文法﹂︒.官場の繁文辱漉を省す.
張之洞は以上士一條を以て﹁所擬辨法或養比力或澄官方或作士氣﹂權自蓑してゐるのであるが︑直に
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彼に同ずるこさは嬬踏憧れる︒此等の事唄は封建的斌會の弊害の極れるものであり︑その改革は何れ
の時代何れの祇會に在っても望ましい﹂亡に逹ひないがb翻ってその改革の蛮行によって礎られるであ
らう結果を老ふれば℃封建的肺會内部が或る程度清掃される琶云ふに過ぎず︑其庭に鍵るものは矢張り
︐専制王朝ざ官紳階級なのである︒封建的祁會機織ざ政涜組織をその儀にして︑本來的に其れに附随する
此等の悪弊のみを除去しうるごなす思惟方法そのものが抑交本質的な誤謬をもつご云はねばならぬ.張
之洞の學校敦育振興論は日清戦役後の洋務論に共通するものであるが︑か診る國民教育制の杵及は就會
革新の機運を醸成するに駁も有力なる手段であるにしても︑その責効をみる迄には多くの歳月を俟たれ
ばならぬ︒呪や當時の惰勢に在ってはその完全な右蛮施は到底望み得ぺくもなかったのである︒
斯くして毒見はb進歩主義的改革運動ざしての洋務運動のもつ本質的性格を知るこさが出來る︒夫れ
は封建的醤祗會の存練を前提直し︑そして或る物︵即ち西洋の科學の力︶を附加して柿弧するこさであ
り︑從って薔椛力に反對する勢力を構成するものでは全くなかったここ︑その限りに於いてその進歩主
義は飽く迄封建的就會の埒内に於いてのみ可能であり得たこさである.鼓に洋務運動の進歩主義運動ざ
しての限界性が存したわけであり︑此れこそ夫れを失敗に準ゐた基本的要因であった琶云へる︒何ざな
れば︑常代支那祗會の直面した解決されねばならない本礎的な問題は︑傳統的奮祗會に於ける封建的諸
勢力ざその地盤を一鋪するこEに存したが︑洋務蓮動の本礎は明かに斯かる要請に矛盾し背反するもの
だったからである.一見して急進的改革運動の如き相貌を有し︑事費保守派から斯く見撤されたにも拘
晩清洋務通勤史論一七
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I 晩清洋務運動史論一八
らず︑洋務運動の本質が専制椛力を維持する爲の補弧工作に過︾ごなかったのは如何なる理由に因るので
あるか︒その根本的要因は︑徹代支那祇會には政治的にも祗會經濟的にも發展の必然性が存しなかつこ
さ︑即ち封建的祗會の鍵革Eその近代化・姿本主義化を不可避的たらしむ可苔機運が未だ十分に融成され
ず︑その契機が存しなかったこ己に在る.尤も祗會内部には幾多の矛盾が尖鋭化しつシあり︑而も清朝政
椛自艘は既に全く腐蝕してその機能を喪失してしまってゐたのであるから︑此れを打倒せん芭する反對勢
力は農民叛飢の形をさって醜に十九世紀初頭以来活動を始めて居り︑特に阿片戦争後外國勢力の俊入を
契機として太平天國叛乱に迄發展したのであるが︑専制王朝の有力な支捗笹形成せる官紳階級によって
鎭嘩され︑途に完全な成育を見るに至らなかったのである︒そして蛾初に述べた如くb薔祇含上縢部へ
の反對勢力を鎭唾して飢後の國内に事賓上の支配者Eして登場して来た此の官紳階級によってb洋務が
提起され遂行されたこさは特に注目されねばならぬ︒即ち彼等官紳階級は︑外國勢力侵入亡國内農民叛
飢芭云ふ門外情勢の危機深化によって封建的壯會内部の矛盾亡腐蝕が完全に暴露された結果︑醤枇會に
於ける階級的支配を維持弧化すべく努力し︑邇友西洋科學の卓越せる機械力にその補弧の手段を求めた
のであって︑それがつまり洋務運動なのである︒
註︒張之洞﹁籍譲愛迩政治疏﹂
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洋務運動は此の様に奮來の封建的祇會を否定する運動ではなかったが︑然しをも角夫れは軍備或ひは
産業經濟を近代化せんざする運動であり︑組織的鴨系的な一貫せる計謹を妖除したものであるにせよ︑︾
部分的には資本主義制度を移植する結果を兇乍ら︑而もこの運動に於いて採叺上げられた部門は責用科
學を軍備産業に應朋する鮎にのみ限定され︑ヘ養本王義制度直表裏一髄をなす近代的祇會政治組織或ひは
學術思想道徳等の西洋糖祁文化は全く無秘され︑共への扉が何時迄も開かれなかったこざは注目すべき
現象である.此は洋務運動の如上の本礎よりして普脚然さ云へるが︑叉一面には運動遂行の衝に術つた官
〆紳階級亡儒教主義Eの緊密不可分なる結合脚係に基くものである︒
官紳階級Eは官僚及び郷紳を含み︑︑紳士這稲せられる特殊の斌會的身分を有する支配階級であるF・醤
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支那祗會は鉦薮の分散せる自流的共同的村落の集合により形成され︑歴代玉朝の専制絶對主義的支配權︲︵一︶ロカはかゞる祓會瀧進をその客槻的基礎ごなすが︑官紳階級は此等分散的村落に於ける地主府に脇するも
のであって︑此の故に彼等の中郷紳は村落共同慨内部に在って之を支配し︑一方選ばれたる者は官僚さ
して中央政府及び地方行政機構に参典するこどによって王朝椛力を積極的に支持し︑以て王朝及び官紳
階級による絶對的階級支配を弧化してゐたのである︒か猶る支配階級の専制権力を合理化するざ共にそ
︵一一︶の氷絨性への保誰を提供せるものが︑︐支配階級に特定の観念たる王椛天命説ご家父長主義であるが︑儒
教主義は此の二つの概念形態を理論化して其の根幹︾﹂し︑三代の所謂王道國家を規範ごする支那的な祇︲
會的政治的原理の総系を織成したのである︒所で官紳階級は葱耐會に在っては唯一の特椛的知識崎であ
︐晩清洋務通勤史論0一九.
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︲晩清洋務通勤史諭o二○
るが︑その學ぷ教養は即ち儒教儒學の知識であり︑此の儒家的教養の故に科畢制を通じて彼等は官僚を
しての政治的地位を獲得する︒即ち官紳階級は儒教主義によって訓育された其の維持者返しての知識的
特椛によって政治的特椛を保證されてゐるのであり︑︲斯くして儒教主義は支配階級の樵って立つ観念的
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精祁的支柱さして役立ってゐるのである︒故に儒教主義の榊聖性を擁謹するこ在は官紳階級の自己保存の本然的欲求であって︑︑之這對立する如き異質的な原理をぱ彼等は本能的に拒否せざるを得ない︒冒頭
の乾隆帝の言葉は詰りは共であった︒
乾隆帝の場合は之れで宜かつた.併し外國勢力使入さ國内農民叛乱Eに締めつけられ︑専制的支配侭
制崩壊の危機に直面した同流光緒の官紳階級に返っては︑事態は最早﹁不敢惑於異説﹂ではすまされな
い所迄來てゐた︒︐例へ夷狄の學にもせよ︑其れを採用して自己の柿強を岡るに非ざればその存綬を期し
難い琶云ふ危機への切賓な省察はや官紳階級中の進歩的分子を駆って瀧務に趨らしめたのであるが︑然
らば彼等洋務論者は儒教主義を如何に意識したのであるか︒張之洞は﹁籍議愛邇政治疏﹂に疏して云ふ︒
中華所以立教我朝所以立國者︒不遜二帝三王之心︒法問公孔子之學術︒︐
叉﹃會奏擬諦安議科畢新章並酌改考試詩賦小措之法疏﹂に云ふ︒
四書五經道大義精.炳如日月︒講明五倫範園︒万世聖教之所以爲聖中華之所以爲中.賓在於此︒歴代
帝王經天緯地之大政︒宅中御外之速略︒莫不由之︒
中國の文化は古代の聖賢によって創始され︑萬邦に榊聖比なし亡する中華の観念に於いて︑洋務論者を
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國鐵廠機器摺﹂に 雌も乾隆帝の言葉に代表された時代の夫れ宙﹂何等異らないこ芭が知られるであら壽恥李鴻章が﹁置辨外
芭云ひ︑群編成が﹁弧隣環伺謹陳懸計疏﹂に︑
夫自開關以來︒祁聖之所締逮︒文物之所彌総︒莫如中國︒
芭云ってゐる如く︑洋務論者は西洋科學の威力に驚歎しつ夢︑而も猶﹁吾中國之政教文物風俗無一不優
︵一二︶於他図﹂ざ信じて疑はなかったし︑叉疑ふこEを許されなかったのである︒例へば張之洞は科畢制に愛
改を加へ︑八股・詩賦・小橋を溌するこざを提唱したが︑而も彼は四書五經の尊重すべきを弧調して云
ふ︒
行之日久必至不談四書五経原文︒背道怠本︒此則聖教興腹中華安危之關︒非細故也︒其諭誕浮薄務趨
風氣者︒或叉將邪皷之読解樺四書五經︒附含聖道︒必致離經畔道︒心術不端之士雑然並進︒四書五經
本義全失︒聖道既微世蓮愈否︒其始則爲惑世証民之談︒其経必有犯上作蹴之事︒︵會奏擬諦安議科畢新
章並酌改考試詩賦小楕之法疏︶
儒敬主義的精紳が支配階級の観念的基礎であり︑耐會的秩序の原型cある祇會に於いて︑その椛威が喪
失される結果は即ち証會秩序の崩壊であり℃王朝及び官紳階級の支配椛力の精祁的逆徳的維瀦を意味す
るごすれば︑例へ洋務論者芭雌も儒教の祁聖の俊す可かちずやその椛威の絶對的なろ所以を弧調しなけ
晩清洋務通勤史論一二
保邦固丞基於勿壌者固自有在︒P
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晩浦洋務通勤史論二二
れぱならなかったわけである︒故に張之洞は猫逃及び日本に範をさった學校教育制度を提咄するに際し
︵四︶︵五︶
ても︑﹁宗旨則不惇經書﹂ご云ひ︑叉﹁改章大旨總以誰求有川之學永遠不隆經書爲宗旨﹂E断じて釦西法を採用するもその根抵は儒教主義に在らねばならないこごを弧調するのであ↓a︐〃
斯くしてb洋務論者E雌もその歴史観︒世界槻に於いて齊來の知識人ざ本質的には何等差異のないこ
さを知る︒併し彼等はかやうに儒教主義の至上的椛威を碗巷つシ︑一方では西洋の學間を採用するこE
︑の必要を提唱しなければならなかったのであってb其虚に彼等の徴面しなければならない矛砺であった︒
言ふが如く儒教が絶對至上のものであり︑﹁中華之所以爲中﹂であるならば℃何の必要あって西洋の學を
學ぱなければならないのか︑少く共西洋を學ぶこピが正しい道であるか否かは常然問題になる筈である︒
張之洞は.﹁諜議鍵法釆用西法疏﹂に之に答へて云為
鰯惟取諸人以爲善︒舜之聖也︒多聞捧其蕃者而從之︒多見而識之︒孔子之聖也︒是故舜稲大知︒孔集
大成︒︑
古代の聖賢の言行にその根擴を求めて自己の立場を辮謹しなければならなかったのであるが︑斯様な洋
務論の矛盾を合理化する手段の一さして現はれたのが西洋科學の支那起原説である︒山西巡撫胡鵬之は
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﹁諸鍵邇書院章程疏﹂に疏して云ふ︒/
臣槻西學所以鐘長者︒特請於天算格致︒其學岡中國所自有也︒︵中略︶数者一ハ藝之一也.漢魏以降代有
専家︒至宋胡瑳敦士︒其治事一齊︒亦以算数分科︒是中土教法本自賑備無蓮︒且凡西士遮創新法︒動
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織的亡なり︑一般に行はれたのであって︑斯様な議術を明確に公けにした例に總理衙門の﹁酌議同文館 西洋科學の根源は支那古代に在るざする見解は洋務運動期に入って發生したのではないが︑常代特に組︐ 數探源︒省算不雷百偶︒突過西人可見︒・・ 若宋秦九詔正員開方︒元朱世傑四元玉鑑︒西法経莫能途︒對數爲法絶詣︒然推算極繁︒自李善蘭著對︑ 上經下篇奥旨可一発並在西人未悟其理以前︒即就算術言︒西法之借根逮遜中法之天元︒後鍵爲代数︒ 謂中士所未開者︒如地凹地行地蒋之説.大赦漉尚諜者︒錐曜張子正蒙堂汽之︒鑿交光學軍學︒公墨子經︽至以含中法而從西人爲非亦憶読也︒査西論之根源賓本於中術之天元︒彼西土目爲束莱法︒特其人性情
糎密︒善於運思︒逢能推陳出新︒披名海外耳︒共蛮法間中國之法也︒天文算學如此︒其余亦無不如此︒
中國創其法西人襲之︒中園侭能燗而上之︒則在我既洞悉根源︒遇事不必外求︒其利益正非淺鮮︒・・
西洋科學が支那古代に源を發し︑先乗の士太夫階級の必修課目たる六蕊の一に﹁数﹂が含まれて居り︑
西洋は支那から學ぴごって一暦發達せしめたに過ぎないごすれば︑西洋の學問を探湘しても格別聖登の
教に惇るこさにはならないわけであり︒斯くの如き傳読の興偲如何の詮索は別に問題ではない︒唯彼等
は斯くして自己の聖教の維持者ざしての名分ども専制椛力の概念的支柱ざを擁誰するこさに腐心しなけ
ればならなかったのである︒
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㈲目︒清水盛光﹁支那祇介の研究﹂
晩清洋務通勤史論
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﹁中學爲体西學爲用﹂の観念は▽固有の儒教主義ざ新來の西洋文化どのあるべき位置を規定する理念さ
して︑一應洋務論の思想的基礎に安定性を與へ得た.︐体さ用即ち主体ざ作用の相互に相補ふ不可分の開 中國五千年來︒聖祁相繼︒政教昌明︒・決不能如本日之舎已藝人︒識棄其學而學西法︒今中國京師瓶立大學堂︒自應以中學爲主︒西學爲輔︒中學爲体︒西學爲用︒中學有未備者以西學柿之︒中學有失陣者以西學還之︒以中學包羅西學︒不能以西學凌駕中學︒此是立學宗旨︒
同時に軍機大臣d總理衙門の上った﹁迩簿開辨京師大學堂疏﹂の大學堂章程に曰く︑
夫中學休也︒西學用也︒二者相需︒峡一不可.体用不備安能成才︒且既不講義理絶無根抵︒則浮慕西夫中學休也︒ 儒教主義の祁聖なる椛威ど官紳階級の名分Eを動揺せしめるこ造なくして︑洋務運動の思想的基礎を正営化すべき︑儒教主義ご西洋近代文化亡云ふ異質的な二個の原理を調和せしめやうさする洋務論者の意岡は︑﹁中學爲艘西學爲用﹂の観念に到逹するに及んで略逹成された芭云へる︒工部尚書孫家輔は﹁議
覆開辨京師大學堂疏﹂に立學の宗旨を述べて云ふ..I
學必無心得︒
註註
晩清洋務通勤史論
㈲︒梁啓超﹁中園四十年来大頭記﹂
⑧函心張之洞﹁蒜識愛迩政治疏﹂
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係に於いて︑二つの異質的なものがより高き原理に結合されたからである︒︑
それでは体這用さは具体的には如何なる内容をもつか︒張之洞は﹁勤學篇﹂會迩に云ふ︒
中學爲内學︒西學爲外學︒以中學治身心︒以西學應泄事︒
・王之春は︒﹁應詔陳言疏﹂に云ふ︒
蓋凡工制義者.共於聖蟹道宜中國文理︒先已暁然於中や由是而更諜外洋有用之書︒進求今批常亟之務︒
鼓では﹃暁然於中﹂たるものが体であり︑﹁今世常亟之務﹂が用である︒藤耐成は﹁弧隣環伺謹陳蛾計疏﹂
いに之をよ︲り具体的に説いて云ふ︒
夫道徳之穂︒忠孝之懐︒詩書之味︒此其休也︒而諭致用於今日︒則必求洞逹時勢之英才︒研精器數之.
︑迩才︒練習水陸之將才.聯絡中外之讓才.休用粂該上也︒休少用多次也︒
張之洞の﹁治身心學﹂ざは王之春の云ふ﹁聖受迩誼中國交理﹂であり︑蕊耐成の一云ふ﹁道徳之瀧忠孝之︐
懐詩書之味﹂である︒つまり儒教的精祁に基く訓育によって儒教道徳の根本である二緬五常の道を体得
するこざを脂すもの芭考へられる︒之に對し應世事學這は王之春の外洋書彩詳して.﹁求今祉常亟之務﹂
むるこさであり︑藤耐成によれば世界の大勢に通じ︑科學機器に蒲通し︑水陸軍事を饗得し︑中外交捗
の任に常り得る知識技能を腰くこざである︒身心を治める糀祁的方面では支那文化が卓越して居り︑世
事即ち軍事外交或ひは産業經濟の物質的方面では西洋を範西して學ぶ琶云ふ通俗的見解に從へぱ︑斯く
の如き観念も傅統文化ご西洋文化を調和せしめる論理こして一應は成り立ち得たのである︒張之洞はそ
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識適用者.亦必存而縛之.断不肯聴其漸減.室本國駁爲蒲美捜長之學術技能漉教風尚.則尤爲喪愛謹
持︒名日國粋︒専以保存篤王.凡此皆所養其愛國心思樂薬之惰性︒束西洋強國之本原資在於此不可忍
・焉・.︸.〃
自國の傳統的文化の通産を悉く棄て去り︑徒らに新奇にのみ趨るならば︑その國家乃至鎚族の猫自性は
喪はれ︑深奥にして根祇ある文化の建設を到底望み得ないこども確かに眞資である︒儒教儒學は二一千年
晩満洋務通勤史論﹄一美
の﹁創立存古學堂摺﹂に中學ご西學ご新故相餐すべきこごむ弧調して云ふ︒・
要之︒孔子駈一言温故而知新一語︒蛮爲千古教育之準繩︒所調故者非陳腐班岡之謂也︒蓋西學之才智技
能日新不己︒而中國之文字經史万古之磨︒新故相登方爲万全無弊︒若中國之經史潅則中國之道徳罐︒
中國之文理詞章朧則中國之維史礎︒國文.既無而欲離國勢之弧︒人才之朧不其難乎︒
國家祇會を維持すぷo爲にぱも國民道徳の淵源たる儒教的糟祁ざ教養の保存を絶對不可峡的要件ご思惟す
るのである℃.︐
儒教的糀祁を中核ごして之を袖ふに西洋の知識技能を以てし︑かくして完成された人格を新.時代に有
用な人材己見微すこさは︑︲一面には明治の日本に鴫へられた﹁和魂洋才﹂の観念ご類似した黙をもつの
であって℃その黙に於て儒教︑王義の尊重擁謹は︑西洋文化の流入い直面した常代支那知識人の切賓なる︒
璽粋保存の叫びども云へないわけではない︒張之洞は﹁創立存古學堂摺﹂に云ふ︒
蹴訓.今日環球万國學特岐軍國文一門︒國文者本國之文字語一言歴古相傳之普籍也︒邸間有時勢愛塞不
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の擁護は支那の近代化に営って格別障碍ざはならなかったであらう︒
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別▲▽晩満洋務通勤史︽叩 の間に形成せられた漢文化の精髄であり︑坤箪すべき文化的通産であった︒張之洞は﹁創立存古學堂摺﹂に云ふ︒
中國之聖經凝傳.附明道徳維持世教︒附啓祁智尊顯郷邦.因應與日月齊光︒尊奉傅蒋則列朝子史事理
〆
博咳︒各体詞章軍国喪朏︒︐亦皆文化之輔蕊︒宇宙之精華︒豈可聴其衰微漸蹄涯滅︒
U誠に彼の﹁糊學篇︺術序に云ふが如く︑
﹄今欲弧中國存中學︒則不得不講四學︒然不先以中學圃其根抵端其識趣︒則弧者爲胤首︒弱者爲人奴︒
其柵烈於不通西學者英︒
芭云ふ考へ方も一面から云へぱ全然排斥し得ない興蛮さを含んでゐる琶云へる︒唯此の場合間題芭されグザねばならないのは℃國粋保存即ち仰統文化を維持し高揚してゆくこざが︑該民族の生盈發展して過まな
い新しき生命ざ力の源泉たり得るか否かである︒例へぱその傅統文化の存するが故に民族の前進造發展
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Eが阻害されるごするならば︑國粋保存は發展性ある民族にさり糯稚をなるに過ぎないであらう︒この槻黙に立って心備代の儒教擁護運動即ち張之洞の所謂國粋保存の主張を顧みる喉らぱ︑夫れが全
く反動主義的意表しかもたないものであす︾Eは前述した所によって容易に推察垂れろ︒︑官紳階級は儒
教主義今笹﹁女之輔巍宇宙之精華﹂ざ絶對脱し︑之を以て体琶爲さねばならぬ亡考へ︑体琶は﹁治身心學﹂
であるご規定したが通若し事変儒教が倫理道徳の學に厳密に限定されたものであ2トならばも儒教主義
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併し現賓には儒教主義の本質は︑二七
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って︑支那の封建的就會から近代祇含への愛革過程に於いては画必然的に醤就會の支配階級の概念的支
柱であった儒教主義を徴底的に打破しなければならなかったのである︒ゞ併し民主主義革命を經道して民
族餐本勢力が略碓畦された︵極めて愛質的な形態を歪曲された性格をもってではあるが︶蒋介布の國民︑
薫政椎時代に入ると︑民國二十三年︵一九三四年︶三月.蒋介石は﹁總理の根本思想﹂なる波説の中に
三民主義ご儒教どの合致融和を説いて儒教の﹁漉義廉恥﹂﹁孝悌仁義﹄等の徳目を狸調し︑叉孔子祭復活や
︵一一︶孔子生誕日を國践日こするこざが決定されて錬孔的運動すら起されてゐる︒此は即ち儒教主義の擦って
以て立脚せる政治的乃至祗會經濟的地盤が既に崩壊し迩從って政治的乃至祗會的構成原理Eしての共の この關係は現代に於ける儒教の運命を忠ひ合せる時一層明瞭にされる︒上述の如く専制王朝の存立す
る間はその擁護が叫ばれたが︑辛亥革命以後民主主義的祇會革命の機運が漸次雛成され來るに作って反
儒教運動なる思想革命が發生した︒例へぱ陳獅秀は西欧的近代祗會の賓現を叫び℃それはその基礎たる
べき人権平等の新信仰を輸入す可く︑之琶相容れぬ邪教︵即ち儒教︶を徴底的に排撃しなければならぬ
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ご論ずる︒此れは分散的共同体的農村祗禽の解剖琶賓本主義制の發逹の客観的事責に照應するものであ
晩満洋務通勤史論二八
前述した如く専制椛力を概念的に支持する所に存したのである︒故に彼等が國粋保存を唱へた時︑彼等
が明確に意識して居たか否かに拘らず夫れは正しく封建的沓祇會機榊の擁護ご永綾を意味したのであっ
て.︑斯くの如き反動的國粋保存が支那の近代化への悲しき立ち遮れを獅らしたこさは吾盈の知る所であ
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思想的性格が喪はれ.純然たる倫理學的範鴫を出で麺ものごなった事壷に基くものである卵
要するに︑洋務運動が官紳階級の手によって爲された事蛮は此の運動の政治的乃至祇會經濟的基礎を
決定して此に致命的限界性を賦與する結果どなり面︑從って獄然夫れは儒教主義の拘束より一歩も離脱し
得ぬものであり︑國粋保存の反動的主張を生むに至ったのであって︑斯の洋務運動の本質こそ支那の近
代化を日本に比して逃しぐ綏漫ならしめた所以である琶云はなければならぬ︒
註一・祁谷正男﹁近代支那思想とその特硬﹂︹近代支那思想︶
註二・山田厚﹁支那哲學界の現壯﹂︵同上謀︶
晩浦洋務通勤史論
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