化学反応経路網の探索
個々の化学式で表される原子の集団に可能な構造 (異性体) とそれらを結ぶ 反応経路の全貌を明らかにすることは,量子化学計算に基づく計算化学の目標 として重要なことである.
そのためには,図 1 のようなポテ ンシャル表面上の極小点 (EQ),鞍 点 (TS),鞍点と極小点を結ぶ経路 (IRC) を明らかにする必要がある.
EQ は安定な化学種の平衡構造,TS は反応経路上の遷移状態 を表し,
IRC は TS から最大傾斜線に沿って EQ まで下る道筋で固有反応座標と 呼ばれている.
計算化学の国際的教科書『Intro- duction to Computational Chemis-
try』(F. Jensen 著, Wiley, 初版 1999 年) によると, 3 原子を超える系の TS を 計算化学の方法で調べ尽くすことは不可能であるとされていた.しかし,もし も,各平衡点 (EQ) の周囲の反応経路をうまく探索することができれば,反応 経路の全貌 (反応経路網) を調べることができるはずである.以下では,上記 の計算化学の教科書の改訂第 2 版 (2007) に記されている新しい方法,超球面 探索法について紹介する.
まず, TS の探索をうまく進めるために, 平衡点からその周囲に存在する TS に向かってポテンシャル表面を登坂する方法について考えてみよう.
各 EQ には,その周囲に存在する TS から IRC に沿って降りてきた反応経路 がいくつかつながっている.各 IRC は最大傾斜線に沿うものであるから, 逆に EQ から最大傾斜線をたどれば,その EQ の周囲の IRC をすべて見つけられそ うである.ところが,各 EQ につながる最大傾斜線は,IRC 以外にも無数にあ る.このため,最大傾斜線を一つずつ登坂して TS につながる IRC を全部見つ
TS TS TS
TS TS TS
EQ EQ EQ
EQ EQ EQ EQ
EQ EQ
IRC IRC IRC
IRC IRC IRC TS TS TS
IRC IRC IRC
図
1ポテンシャル表面
EQ:平衡構造,TS:遷移状態,IRC:固有 反応座標けるには無限大の手数がかかり,これは実現不可能である.
EQ において反応経路がどの方向にあるかがわかれば,平衡点周りの探索が できるはずである.最大傾斜線では,無数にある中のどれが IRC であるかを EQ 付近で知る手だてがないのでうまくいかないが,ほかに何か,反応経路の 入り口を指し示す道
みちしるべ標 になるようなものはないのだろうか.
反応経路の道標を見つけるために,代表的なポテンシャル曲線を眺めてみよ う.図 2 の中央の EQ から左に登って行くと,結合が切れて解離経路 (DC) に 至る.これは二原子系のポテンシャル曲線と同様である.一方,右に登って TS を越えると結合が組み換わって別の EQ に達する.これは反応の活性化エ ネルギーを考えるときと同様である.図 2 のポテンシャル曲線を見ると,極小 点 (EQ) の近くは下に凸の放物線の形 (調和ポテンシャル) になっているが,
極小点からずれて解離 (DC) や遷移状態 (TS) へ移動するにつれ,反応経路に 沿った実際のポテンシャル曲線は必ず下方にずれている.つまり,実際のポテ ンシャルは,反応が進むにつれ,仮想的な調和ポテンシャルより下方に歪み,
非調和下方歪みを生じている.したがって,極小点から反応経路を探り出すた めには,非調和下方歪みに注目し,それを追跡すればよさそうである.
EQ において,どうすれば非調和下方歪みの大きい方向を見つけられるか考 えてみよう.図 2 では,調和ポテンシャルの曲線が「補助線」として入ってい るので非調和下方歪みが検出しやすくなっている.そこで,非調和下方歪みが
DC
EQ
EQ TS
実際のポテンシャル
仮想的な調和ポテンシャル(放物線)
図
2代表的ポテンシャル曲線と非調和下方歪み
(下向きの矢印)ない場合,すなわちポテンシャルが完全に調和的な放物線の形のポテンシャル 関数を考え,それを基準にして調べてみよう
†1.つまり,調和ポテンシャルを 基準にして実際のポテンシャルがどれだけ低くなるかを調べる.このため,調 和ポテンシャルのエネルギー値が一定である曲面 (調和曲面) を考える.調和 曲面上では,ポテンシャルが調和的ならどの場所でもエネルギー値が一定にな るので,この面を基準にすると実際のポテンシャルのエネルギー値がどれだけ 下がっているかの判定が簡単になる.すなわち,調和曲面上で実際のポテン シャルのエネルギー値が極小となる場所が,調和ポテンシャルからの下方への ずれ (非調和下方歪み) が極大になる場所を示す.つまり,反応経路を指し示 す方向の探索が,調和曲面上の実際のポテンシャルの極小を探すことに帰着す る.
調和曲面は,一般に多次元の回転楕円体になる.ここで,楕円は長円ともい うことからわかるように,長軸と短軸の関係を適当に定数倍して調節すると,
まん丸な円に変換できる.分子振動を扱うときに使われる基準座標を用いる と,回転楕円体の軸は基準座標の座標軸に一致する.また,基準座標に対応す る振動の固有値を用いると,回転楕円体の調和曲面を,まん丸な形の超球面に 変換することができる.
このように変換すると, EQ の周囲の反応経路の探索は, EQ を中心とする超 球面上での実際のポテンシャルの極小の探索に帰着する (図 3).超球面の極小 は,一つとは限らない.その一つ一つが問題としている化合物の構造の周囲に 存在する化学反応経路に相当する.超球面は閉じた曲面なので,EQ から外に 向かう反応経路が一つ残らず全部囲い込まれている.そこで,超球面の半径を 少しずつ大きくしながら追跡することで,EQ の周りに存在する反応経路への
†1 放物線は頂点からのずれの 2 次関数であり,3 次以上の項を含まない.ポテンシャルの平 衡点では,どの方向の 1 次微分も全部 0 であり,平衡点で数学のテイラー展開を行うと 2 次微分が最初に出てくる.調和ポテンシャルは,2 次の展開係数 (ヘッシアン) だけで決ま る.すなわち,EQ 付近で実際のポテンシャルにぴったり一致する調和ポテンシャルは,
EQ でのテイラー展開の 2 次の項だけを残したものであり,それは 2 次微分から簡単に求 めることができる.
入り口を調べ上げることができ る.
反応経路の入り口が見つかれ ば,その後はそれほど難しくな い.さらに超球面を拡大しなが ら追跡し,実際のポテンシャル のエネルギー値がほぼ一定に (もしくは,含まれる原子のい くつかが離れ離れに) なれば解 離経路 (DC) が見つかり,また,ポテンシャルの 2 次微分が負 (上に凸) の TS 領域に入ったら,TS の探索を開始すればよい.このようにして,一つの EQ の周りに存在する反応経路 (EQ−DC や EQ−TS) を見つけだすことができ る.
一つの化学式のポテンシャル表面上には,いくつかの EQ や TS や DC が存 在し,それらが反応経路で結ばれている.ここで,一つの EQ に着目してみよ う.EQ の周囲はどうなっているであろうか.EQ につながる反応経路として は,EQ−DC か EQ−TS のどちらかであり,それらは 1 種類とは限らない.
EQ−DC は,解離生成物の反応経路にまで踏み込まなければ,そこでおしまい である.一方, EQ−TS の方は, TS を経由してその先の DC または EQ に達す る.別の EQ に達すれば,その EQ の周りにも EQ−DC や EQ−TS の反応経 路が開ける.すると,EQ−TS を通じ
て,反応経路の網の目が広がっていくと 考えられる.すなわち,DC はそこで行 き止まりになるので省略し,EQ と TS の関係だけを模式的に表すと,一つの化 学式の反応経路網は,図 4 のようになる であろう.つまり,EQ−TS
―EQ を介 して,多数の EQ と TS を含む反応経路
EQ 反応経路
3
反応経路 1
反応経路 2 超球面 1
超球面 2
図
3非調和下方歪みを追跡する平衡点周り の探索
(超球面探索法)EQ
TS
EQ
EQ
TS
EQ
EQ
TS TS
TS TS EQ TS
図
4反応経路網
EQ:平衡構造,TS:遷移状態