九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
幕末鯨漁業に於ける經營形態
遠藤, 正男
https://doi.org/10.15017/4151136
出版情報:經濟學研究. 6 (3), pp.47-76, 1936-11-01. Society of Political Economy, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
一︑幕末鯨漁業の経漬史的意義
本小論の意繭する所は︑主として徳川末期に於ける肥前唐津地方の鯨漁業の態様︑就中その経螢の特
以て斯業の褻展過程を推察せんとするにある︒それは次の諸黙に於て鯉演史上忘る
幕末鯨漁業に於ける網管形態 殊朕態を明かにし︑ 六︑餘
言
一︑幕末鯨漁業の経渭史的意義
二︑肥前地方鯨業の沿革とその喪展の限因
三︑肥前鯨漁業に於ける生産組織
四︑鯨加工マニュフアクチュア
五︑製品の販賣及び牧盆 目
次
遠
第 六 巻 四
二七
藤
幕未鯨漁業に於ける経愕形態
第
正
一
= 賊 四 七
男
は ︑
幕末鯨漁業に於ける鯉管形態
べからざる重要意義を持つものと云ふべきであらう︒
徳川中期以後︑特に幕末に於ては吾國の資本制生産は相賞に進んでゐたと見る考へに到して
有力た一資料を提供するものである︒
として段階づけんとした試みの存する事は︑
マニュフアクチュアがあらゆる産業部門に全般的支配的に行はれたものではなく︑寧ろ数個の部門
マニュフアクチュアの存在したと考へらる4
もの
は︑
には考へられる︒
第二
は︑
更に信淵に至っては︑積極的に鯨業を激勘し︑特に肥 かつを此に次 安永九年に佐藤信季が 鯨漁業が頗る重要性を持つてゐた事である︒ 人の克く知る所であるが︑論理的には兎に角︑賓際に於て
然るに営時の吾國諸産業中︑就中大規模な
原始産業としての鎮山業と︑鯨漁業であったと私
この意味に於て鯨漁業の経螢朕態の分析は最も重要な問題の一である︒
賞時の漁村は多くの農山村と同様に非常な疲弊欣態にあったのであるが︑少くとも九州の如
きに於てはこの漁村の経演更生の為に︑
先づ裳時の水産業中で鯨が鰯に次ぐ
重要水産物として尊璽されてゐた事は︑
﹁漁村維持法﹂に述べてゐる所によって大要を察することが出来る︒即ち﹁漁滞の業を働くに至りては
共利の廣大たること、硝班•海躁の比すべき所に非中、漁業はいわしを取も大たりとす、
ぎ︑.くじら又此に次ぎ︑鮪叉此に次ぐ﹂と説き︑ 猿月九
八手昭造
に過ぎす︑しかもその規模は西欺のその時代に於けるマニュフアクチュアとは比較すべくもたい小規模.改
ァ
の も の で あ っ た と の 反 到 説 も 展 々 吾 々 の 耳 に し た 所 で あ る
︒ ュ
チクア
フ
︒
ュ頁
︱‑7 マ編 の2 代 第 時4 川 系 徳
︑ 大
料
氏衣
雄 業 喬 産 屋 本
土
8 D
の第一
に︑
即ち幕末を以て﹁本来の意味に於けるマニュフアクチュア時代﹂
第 六 巻 四
二八第一
ー ー 撃 四 八
︵ 註
︶
幕 末 鯨 漁 業 に 於 け る 紐 管 形 態
工 墓 品
其 生
の 他 五〇貫骨
九六〇 5 ︑ ▼
鯨
第 鑽 六 巻 四 二 九 第 一
︳ 一 鵠
四九
肥 料 用 品
脂
肉内臓及び脂肪肉五六〇貰
一 ︑
1ハ
00
畝
九六〇貰
尾
矛
一四〇貰
食 料 品
赤
・肉
前地方では利盆の葵大であった事を論じてゐる︒日く﹁漁人は唯仕馴たる事のみを専一の業と計り心得
する
者は
︑
て︑別に大利を興すべきの新工夫を為すこと無し︑
̀ o o . 0
︒︑
僅かに西海にては肥前の松浦・五島・南海にては土佐•紀伊及び志摩等の数州に過中して、
北海・東海及び薩摩謡島と奥州等の海中には鯨最も多しと雖共︑
と無し﹂と︑又﹁抑々魚蝦を捉るの業は︑河邊
r
於ては小たりと雖も︑大海に濱するの土地に至ては︑︑ "
其利極めて廣大なり、今の世に裳て其名最も高き者は;…•西海南海諸州の鉛錘魚及ひ鯨観云々」
てゐる︒以て嘗時の水産業に於ける鯨の重要性︑
俗 説 に
﹁ 鯨 一 本 捕 ふ れ ば 七 浦 浮 ぷ
﹂ と 稲 せ ら れ て ゐ る が
︑ 事 賞
︑ 賞 時 の 漁 村 に と つ て は
︑ 鯨 の 漁 獲 は 大 き な 牧 盆 で あ っ た
︒ 食 料 品
︑ 肥 料
︑ エ 薔 品 等 が 多 量 に 生 産 さ れ
︑ 各 地 に 賓 出 さ れ た も の で あ る
︒ 長 須 鯨 一 頭
︑ 七 十 五 七︑
一︱
1 0
貫
︱ ︱ 1 0 0
貰
須 の 子
四八〇貫
皮
故に日本敷千里の海國を以て︑鯨を捉ることを業と
此を捉らんことを思ふ者も絶て有るこ
二︑
四
00
貰
尺の大さのものから次の如き諸品が得られた︒
位を占めてゐた事が明かである︒ 特に肥前地方の鯨漁業が︑漁村の救演上にも大切た地
と述
べ 3) 4) 佐藤信淵..舘浣要録巻之 12.岩波本 l79— 18o 頁。
・
5)松代松太郎氏、東松浦郡吏 495頁ー6頁。
a註
︶
であ
る︒
賓であるが︑ 幕末鯨漁業に於ける紅螢形態
その他鯨油が徳川時代に害虫瞬除用の燈火に用ひられたポは最も有名である︒
第三に菫要な意義と考へられるのは︑藩財政に及ぼした影響である︒幕末各藩の財政窮乏は周知の事
鯨漁業の特に盛んであった肥前唐津藩の如きは︑
大開右の税法が守 肥前・筑前を始め︑紀
四 ︱︱
1 0
この鯨による牧盆に酎する税は相賞の牧
入源となって居り︑該業奨動の一根牒にもなってゐたと稲せられてゐる
O l o
賞時幕府の法令の下に於ては︑鯨に課した運上は鯨分一と名づけ︑
商の三者立會の上で︑
られたらしく︑ 漁獲した鯨を漁者と務の役人と漁
入札費買
I
この落札債格を水名相場と呼ぶーー'し︑その初期には債格の二十分の一を貢納することとなってゐた︒
突き鯨は二十分の一︑ 享保年間にこの規定は改められ︑鯨分一は次の四種とたった︒
これは鯨を鋲で突きとめたもので普通の捕猿鯨である︒
伊・下総・安房等の漁場で多く行はれた︒寄餘は三分の二の課税︑これは鋲を受けて努態し︑
肥前の唐津l特に裳時の鯨狼地は小川島(呼子浦)であったが|—に於ても亦、 叉は死ん
で海岸に寄ったものを捕獲した場合である︒其他流鯨は十分の一︑切鯨は二十分の一と規定せられたの
享保十︱︱一年東松浦郡納所村並に仮屋浦で︑寄鯨があった際︑唐津藩では︑次の如く逹し
て︑幕府の制定税法に従つて一1一分の二を納入し︑三分の一を下附したのである占
その時の逹は次の如く︑嘗時の鯨に封する利盆配分を示して躾味深いものである︒
第 六 巻
第一
︳一 撃
五
0
6)植 村 平 八 郎 氏 . 徳
J I I
末期の唐津藩財政、祠H
新 聞 昭 和9年5月26ー308所戟。7)醤滞時漁業裁,庁例、 222頁。
幕末鯨漁業に於ける紐螢形態
る加子及び莉指等に封しても前者には一人年銀三十匁︑
第 六 巻 四
五
後者には銀百匁の課税がなされてゐたから︑そ 併し︑共後若干の特異な法令も制定された事は明かである︒
亨保
十一
一一
年申
三月
候以上 一︑今度寄鯨有之納所村之内
H
の輪隊に流寄候由納所村より致注進候得共其以後個屋浦よリは流通行を漕取餃由致注 進候に付役人遺遂吟味候慮納所村より注進之品不分明候其上刻限之達有之付其節流鯨見及候普恩寺百姓成人並濱
、、~0畜ヽ、、、、、、畜。、、、、畜~、"浦村庄屋呼寄遂吟味候虐個界浦より申餃別限に相違無之候:・・右鯨入札にて彿候銀高之︱︱︱分一個屋浦之被下之候
一︑自今寄鯨等有之節納所村之内又は其外村磯邊江流寄候は
A早速芥船附候欺又は番人を附流不申候様に致置可致注 進候左候は
4其村へ三分一可被下之候 右の通致置候を網代場と申候ては個屎浦に不限
.外浦より漕取申間敷候縦泊取候共吟味之上致注進候村ヘ︱︱一歩一可被l t
下候:••中
略 : ・ ・
寛政年間のそれは︑小川島鯨組のみの運上銀が五十六貰目であったと一本はれ六貫で此金千三百五十雨︑
てゐる︒蹄つて賞時の小藩にとつては可なりの財政牧入であった事が察せられ︑同時に叉︑各従業者た
第 三 琥
覺
個 屋 浦
庄 屋
小川島の賓謄年度の税金は一ケ年銀八十
名 頭 浦 中
木 村 新 兵 衛 以 下 四 名
.
右は今度寄鯨に付納所村個展浦と依論吟味上先例に准如此申付候納所村え茂右之通一通相渡候條自今此趣可相心得
8) H本産業資料大系4.水産業116頁。
元禄から享保に至る社會経渭的進展が︑ し未だ網は使用されて居らなかった︒
︶ 2 稲せられる︒ 貞享元年に始めて五島の有川浦に於て網捕がなさる\に至ったと 壺岐國風土記を畢げて︑既に古代より鯨業のこの地方にあった 戸・南松浦郡の五島有川・魚の目 東松浦郡の小川島、北松浦郡の生月•平
‑
l︑肥前鯨漁業の沿革とその展の原因
て検討して行くであらう︒
幕末鰍漁業に於ける親螢形態
して第一の問題︑即ちマニュフアクチュアに闊する一資料と云ふ意味に力黙を置きっヽ唐津領呼子浦の
幕末鯨漁業の紐螢を︑
ニ ︱
1一
の根
本資
料に
ト
九州に於ける鯨漁業の早くより盛大であった地方を見るに︑
壼岐の勝本等殆んど肥前半島西部とその近くの島嶼に限らる4有様
であった︒荻野由之氏の研究によれば︑
事を述べて居らる4が︑︵漁業考︶生業としての存在は疑はしい様である︒
業誌には︑慶長三年始めて五島に鯨の突捕業を起し︑ 明治廿九年長崎縣編纂の漁
寛永炭安の頃大に隆興した事が記されてゐる︒併
商業資本の異常なる褻展を齋らしたことは周知であるが︑
の商業・商業資本の疲展は叉逆に諸産業の上に大なる剌戟を典へて︑ こ
その喪逹を促した︒大阪・江戸の かくの如く鯨漁業は幕末経清史上︑多くの問題に軍要な意義を持つてゐるのであるが︑こ4では主と れ等の牧入も侮るべからざるものがあったのである︒
第 六 巻 四
第 三 競
五
1)荻野由之漁業考、根藪志林 16巻.17巻3
2)長崎縣編纂、漁業誌1頁。
第 六 巻 四
第 三 競
五
徳川中期から幕末にかけての肥前地方鯨漁業が︑本 る著述も多くはこの肥前地方の捕鯨業に闘するものであって
私の
安永二年の著たる肥前唐津の學者木崎悠 壼岐の土井網組等々が或は創業し︑或は事業の擦大
つて
︑
繁榮︑九州諸都市の隆盛は肥前地方の鯨業に封しても影響を興へぬ筈がたい︒鯨肉・鯨油等の需要の激
増は︑生産技術の疲展と相侯つて斯業の異常なる焚展を結果した︒
斯業の開褻に貢献し来った所の︑ 即ち享保十年に︑今日迄連綿として
盆富家が生月岬に突組の業を開き︑元文四年には更に網組を起すに至
こ4に未曾有の該業勃興を見たのである︒五島有川村の江口氏等による有川浦網組の開業︑呼子
浦の中尾網組・中川網組等の開始︑松島の松島組︑
を圏ったのも此の頃であった︒
鯨漁業地に寝展し︑
悠軒盛標の﹁獲鯨圏説﹂︑ かくて徳川中期から幕末にかけての肥前の西北海上一帯は︑本邦有数の
生産形態の上にも幾多の特筆すぺき進歩を見たのである︒従って営時の鯨業に闘す
文政十二年の著たる小山田興清の﹁勇漁取綸詞﹂等は就中著名である︒
過日入手した綸入り宮本﹁肥前唐津鯨捕りの記﹂も亦唐津領小川島の呼子浦に於ける鯨漁業を賓地見聞
若干の誇張至乃筆の勢による興味をも加へて記した書物である︒著者は不詳たるした所を基礎として︑
も践文中には︑天保十一年二月豊秋亭と記されてゐる︒
これ等の貴菫な資料に現はれた所より察するも︑
邦全開の該業の代表者の一たることは争ひ得ない所である︒
然らばかくの如く賞時肥前地方に特に斯業が隆盛になった基礎的な諸事情は一開何であったか︒私は
幕末鯨漁業に於ける鯉螢形態
便宜上自然的條件と社會的條件及び住民の性格に分つて簡箪にその原因を検察して見よう︒
︵イ︶自然的條件鯨業が特に肥前の西北海岸に痰展し得た自然的地理的事情として︑
の地方の潮流騨係を見ねばならない︒
所で
ある
︒
附近
には
︑
日本海中でも特殊な潮流闊係を持つ
即ち一方には黒潮の一分派と見られる釘馬海流が海濁を洗つて居0︑
この條件を利用して︑ 吾々は先づこ
H
本海の西岸を朝鮮半島に浩ふて南下するリマン海流の餘派が及んでゐる︒前者は暖流であり︑後者は寒流である︒この寒流に乗って︑冬期に多くの鯨がこの地方へ餌を求めて進入して来たものと
一般に考へられる様である︒
のド如く︑米國の捕鯨船すら展々こ\に出浚したと偉へられてゐる程である︒
更に自然的事情として皐ぐべきは︑
る︒この事は︑ 従つて此の地方に鯨の集る事の多い事賓は︑幕末詣外國にも細られたるも
適な漁場を多く提供すると同時に︑
稲末鯨漁業に於け
る籾膝形態
此の地方が特に島嶼が多く︑且つ海岸の凹凸の頗る多いことであ
一方に於て良好なる漁業の根牒地たる港溝を多からしめ︑風浪等に比較的禍ひされぬ好
他方後述せんとする住民の性格.祉會爛係にも影轡を典へて︑漁業
特に鯨業褻展の重要原因の一をたしてゐる︒
これ等の自然的條件は鯨漁業の痰展を可能ならしむる基礎的條件ではあるが︑
こ4に漁業を盛んに行ふものは人間である︒人の活動である︒吾々はより基本的な経溝活動をたす人々
の性格︑及びその活動を規制してゐる所の祉會闘係を見ねばならない︒ 唐津と封馬との間の海は
他方梢々北の鉗馬島
第 六 巻 四
一二
四
第一
ー一
琥
五四
3)改造社、地理講座4.松尾俊郎凡 ・水産業。
第六巻四一ー一五第一=琥五五 近世に於てもか\る闘係で巨富を精んだ 且つ筑前豊前等の平野に廣大な領地を所有して この地方海賊として最も著名なる松浦黛一統の如きはその一例であ 外貿易等に従車した所謂海賊や漁業によつて 更に右の如き諸事情は︑ 保の頃から︑ ︵口︶祗會的條件
ど穂ての領主は農業を第一に奨勘し︑
ては
︑
蔵せぬにしても︑ 農を主たる生産業とする封建社會である︒殆ん
山岳の起伏も亦頗る多い︒かしる地勢の場所で︑
その第一の生産業たる農業は決して有利た産業ではあり得ない︒ かとる時代の社會に於
農業以外の他産業により多く向はんとする傾向は必然であらう︒この事は既に早く享
この地方農民に五平太竪と稲する石炭榮働者を多数に生み出した事情からも明かに看取し
得る所である︒従って海邊の多数住民が豊富なる資源としての鯨漁業に向ったのも嘗然である︒
徳川の初期以来既に此の地方に社合的貧富の懸隔を大ならしめてゐた︒これ
を例へば東松浦郡史にも記されてゐる如く︑唐津地方の代々の領主は﹁丘陵起伏して平地乏しければ︑
陸田によりて叙変を作り生活の本源とし:••••生産韮薄にして蒼生肥えたるにあらす」為に衆民は生計に
苦しむものが頗る多く︑その封策や産業振典に腐心した事が知られてゐる︒然るに他方海を利用して海
積したも3が腿々あったのである︒ 投機的に活動した人々の中には偉大なる勢力と頁富を蓄
るが︑彼等は多く壼岐に本捩を置いて海専活動をなし︑
ゐたと稲せられな︒これ等は多く中世に於ける活動であるが︑
幕末鯨漁業に於ける親螢形態 従つてよし海に豊富なる資源を 入も多く︑土地狭小たる上に︑ 且つ強制すらなした︒然るにこの地方は前述の如く︑島嶼多く凸 徳川時代は一般に姉らる卜如く︑
4)拙稿、徳川時代の炭坑努働者、細院昂研究6の2, 5)松 代 松 太 郎 著 、 束 松 浦 郡 史198頁。
6) 長沼数授~海外交通史上の登岐、史淵 12 輯,
︑肥前の鯨漁業に於ける経聾組織 の痰展が可能であり︑又必然的に褻逹したのである︒ か4る勇敢たる氣性の住民︵漁人︶が多かったから︑ の諸藩が鯨業の奨動をなした根操の一っとして一旦事ある時︑ 氣慨を持つ人が多かったかを察する事が出来よう︒由来漁業と水軍とが密接不離の闊係にあり︑北九州 如何にこの地方人が宏批闊逹た
︵ハ︶住民の性格九州の住民が大罷に於てそうであるが︑就中この肥前唐津地方の住民は︑進取的
考へしむるのである︒
云ふ迄もた<鯨漁業は︑
男性的氣宇に富んでゐる︒ その性質上多額の資金を必要とした︒同時に非獨立的な無産漁民の多数存在
を之亦必須の條件としてゐる︒
る多かった事や︑長崎貿易家︑ 従つてこの地方の右の如き社會的特殊闊係は鯨漁業の褻逹に到して最適
の條件であったことが知られるのである︒
八幡船を以て知らる\海賊︵一種の海外貿易家︶中には此の地方の人々が頗
キリスト教徒の活動等を考へ合すれば︑
その漁民組員等を直ちに水軍になさんと
ゎの心椿へも存した事が一般に知られて居る︒か\る例は他にも展々存したと云はれる︒
前述の詣事情と相侯つて︑よくこの地方に鯨業 人は少くなかった︒殊に平戸•長崎と云ふ近世外國貿易の中心に接近してゐたことは、 幕末鯨漁業に於ける鯉管形態
第 六 巻 四 三 六
一暦このことを 第一
ーー 賊
五六
7)新村出氏、太平洋Z捕鯨船と H本の開國、脈史と地理4の1
。
盆富家は初め平戸鏡川に在つて甍職を業とした︒ あ
らう
︒
ので
ある
が︑
後者に闘しては後日更に獨立した形式で褻表したいと考へるから︑生産に直楼闘係する限
り簡単に鱗れる程度に止め︑
︵一︶経螢者及び資本
幕末に於けるこの地方鯨業経螢者中︑
郡小川島(呼子浦)の中尾甚六であった。其他倉光藤太・永取徳蔵•山田四郎右衛門・壺岐の土井氏・
呼子の中川氏・五島有川の江口甚右衛門•松島の松島氏等人著名であるが、
を経螢したものは益富・中尾の二家であった︒何れも肥前の各地は勿論︑時には筑前・豊前等にも所領
地を有する程の富豪である︒或は商業工業によって富を蓄積し︑或は地主として最初の富を蓄積した
が︑鯨業に投資するに至つて一層の富と藩の保諌を獲得した人々である︒
屋と稲して甍の製造販賣を螢んでゐた︒
亘富を蓄積し︑ 裳時未だ大なる資力なく鯨業に進み得たかったらしいが︑長崎
の富豪春善次郎より資金の融通を仰ぎ︑漁業を初めた所︑折能く大漁に遭ひ︑大利を得て︑遂に享保十
年 以 来 捕 鯨 を 行 ふ に 至 り
︑ 以 来 代 々 該 業 を 行 っ て 明 治 に 至 っ て ゐ る
︒ 中 尾 家 は 之 に 反 し 幕末鯨漁業に於ける程螢形態
第 六 巻 四 三 七
共後生月島字黒木に移住したが︑ 最も長く且つ大規模に斯業 就中有名なものは︑北松浦郡生月岬の盆富又右衛門及び東松浦 こ上では主として前者即ち生産形態に闘して︑
第︱
︱二
翫
五七
こ\でも家琥を甍 内容を明かにして行くで 鯨業の経螢絹織を明瞭たらしむる為には︑その生産組織と販賣組織とについて詳細たる桧討が必要た
1)日本産業資料大系4.水産業113‑4頁。
此
連り入海深く前に︱つの嶋ありて洋濤を防︑西北附口に通じ千船百舶の出入障た<風荒き時は諸國の通 幕末鯨漁業に於ける絢螢形態
古くより︵その年代は不詳である︶富農として聞えてゐたが︑
明治に至る迄鯨業を専門的大規模に行って`
この
鯨業
は︑
賓暦年間呼子浦に網紺を組織して以来︑
ご店の富豪となった家である︒
時に︱二これ等富豪の共同出資によって︑合同でなされた場合もあった︒例へば︑貞享元
年十一月宇久島の人山田茂兵衛と︑
くとも幕末に於ては︑
ひ得るであらう︒ 有川村の江口甚右衛門とが共同で行った事例や︑元文四年から延享
二年迄中尾甚六と江口甚右衛門が合同事業をなした如きは顕著な賓例である︒
貰目を富裕な網主に典へて漁具を借り上げ︑ 叉唐津藩の如く︑銀二十
ぅ藩費を以て︑藩自らが事業を行った場合もあった︒併し少
多くは個人糾螢として︑前述の富豪等が自ら出資し︑自らの名義と計算に於て専
業を遂行し︑藩に封してはその螢業樅に闊する獨占株を典へられてゐるに到して︑運上を貢納する場合
が多かった様である︒
網主︵経螢者︶はその漁具と共に抱え人廂傭者等をも全部その儘藩へ貨し典へたものである︒ 藩自らが経螢した場合と雖も││この場合小川島では手組業と呼んだーー'元来の
従つて嘗時の小川島鯨業の見聞記中には﹁肥前國唐津領の内呼子浦と云へる一1
一方
は山
船賂敷此浦に止り繁忙云計なし︑遠き唐士はいざ知らす吾朝秋津州の内には賓に無双の湊成るべし︑
虐に中尾何某と云へる富豪の一家有り往古より代々鯨組と云へる漁業を螢みて数百人を召抱國主より格 態であるから︑大罷に於てこの頃この地方に於ける鯉螢は︑富豪による個人企業が支配的であったと云
第 六 巻 四 三 八
かしる朕
第一=競
五八
2) B本産業究料大系4.水産業115頁。
幕末鯨漁業に於ける網螢形態 綱:・:漁獲用具として鯨業に網が最初に使用されたのは
第 六 巻 四 三 九 第 一
︳ 一 披
︵二
︶生
鯨業に於ける生産過程と見るべき捕鯨作業に於て︑第一に注意すべき物的要素は網である︒
此の地方では貞享元年であるが︑
産 技 術
然に必要とされたものである︐如何なる物的設備と人的組織が存在したか︑
五九 項を改めて詳論しよう︒ 運上銀も多かったから︑数千雨を超える資金は営 多くして︑人別も蕃息することなく 然らばか\る豪農乃至豪商は何程の資本を以て斯業を行ったか︒
種々の方面から類推して九十九里濱に於ける大地引網と略々相似た︑否それ
以上の資金であった事は想俊するに難くない︒︑︑︒︑"冒ヽヽ
0 9
し︑畜ヽ︒︑︑"︑豪家の棟梁たる者ありて︑敷多の漁戸を部御し此を働く者なるを以て︑大猥を得ると云へども︑
悉く豪家に呑併せられて︑
饉の年と云へども棟梁たる豪家より此れに合力すべきが故に︑
4 も少なかるべし﹂と述べてゐる如く︑
る︒加ふるに漁具其他の設備にも巨額の資金を要し︑ 痰見し得ないのであるが︑
事賓鯨業の経螢者は︑後述する如く五百人以上の無産たる漁士を 3 銀を頂戴し此浦に冠たり﹂と述べてゐる︒
共利は これを明確にすべき資料は遺憾乍ら
佐籐信季が﹁又鯨と鮪を猥するには共業頗る廣く︑必す
漁戸は値許の配分を貫て渡世する者たり︑故に豪家の在る村は貧民のみ甚だ
領主の國釜にもならざることあり︑然れども不撒永く繍き或は饒
漁士の餓死稀にして領主の患を致すこと
或は譜代に︑或は年期奉公の形式で︑或は臨時廂傭の形態で使用し︑不狼の場合にも養つてゐたのであ
その後次
3)肥前唐津鯨捕りの記、天保十一年寓本。
4)佐 藤 信 淵 家 學 全 集 上 巻430頁。
幕末鯨漁業に於ける経営形態
第に一般的に使用される様になり︑
はその前方の路を遮断して漸次網代︵猥場である︶にこれを追ひ込み︑
が第一の仕事である︒網は三結あって︑
明は後述︶に積んで置く︒第一結は網代の正面張り︑他の二結は雨方に分れて鯨を取固んで張廻すので
ある︒この網を製する原料はすべて苧であって新網一反には網加賀苧六十八房乃至七十二房を要し︑長
州産の川上苧及び肥州産の隈苧を使用したと云はれる︒而してその製作は後述する如く網元富豪の納屋
内に於てマ︱︱ユフアクチュア的にたされたものである︒
突具:⁝.鯨を突いて弱らせる箆めに鈷を用ひたことは人の知る通りである︒
種類があるが︑共に生鐵を以て製し︑鐵柄の末は環にたつて根苧を附けるに便してゐる︒
二尺の樫木の柄をつけ`
用具等も重要な道具で︑ 百拾四反を原則とし︑外に豫備網九反をも用意して双海船︵説
環には根苧一房長さ十二尋のものを結び︑
様の用に供せられる器具である︒
これ等は何れも鍛冶納屋に於て製作せられた︒ これも形は鋸と若干異るが︑同 ョ"ヅ^ャ鋸には紐鋸と早鋸との 逃げ道を寒ぐ酋めに網を張るの
これに績いて加賀苧一房二十四零を
附し︑更に﹁シラセ﹂一房乃至三四房を接綾して舟に留める用意がしてある︒
本づ\用意されてゐたから︑錮鋲も粋鋲も共に川七本を要した理である︒ 一丈乃至一丈
これは各勢子船に各々ニ
更に剌し又は切る用の為めに網が各勢子船に一本宛用意されてゐる︒
この外に大切庖丁︑長柄庖丁︑手形庖丁︑小切庖丁の如き︑鯨の切解
又鯨肉・骨等を運搬する為の鯨 幕末には最も重要な漁具の一であった︒即ち鯨が現はれるや漁士等
第 六 巻 四 四
0
第一 ー一 琥
ハ 〇 5)明治廿九年長崎縣編纂畜漁業誌̲13頁っ
幕末鯨漁業に於ける籾螢形態
右は捕鯨用として必要な主なる用具であるが︑この外に︑鯨加工用として多く
Q
道具が使用せられて 違は極く小部であって︑主要部分は同一である︒第 六 巻 四 四
第三誠
六
a註
︶
鯨船・:・・・はそれ卜\の任務に應じて特殊た形態乃至特微を持つ船であるが︑次の如く五種類程あった︒
加子拾二人の乗組みあり︑左右八挺櫓で特殊な形態を勢子船は鯨を追回す船で︑
込み拾三人であった︒ 登艘に波座土覺人︑
雙海船は網積船とも呼び︑鯨網を稜み沖で之を張る船である︒
網を張る時に漕廻する用をなしてゐる︒
持雙船は叫艘で︑鯨を取った時︑その鉢を挟み納屋場に漕ぎ附ける船である︒
が乗り出す所の納屋船︑鯨捌きの際に用ふる納屋偉間船︑
組の捕鯨用船は練計四拾九鰊であった︒ この外沖場支配の役人
替船等も各々四乃至二艘づしあって︑中尾網
これ等の船名及びその数等は︑漁拗によつて相遠したらしく︑生月を主として述べてゐる所の小山田興油の前 掲﹁勇魚取檜詞一の中の記載と︑長崎縣編纂の漁業誌のそれ並びに翌秋亨の﹁肥前庚津鯨捕りの記﹂中に見え る呼子浦中尾家の宜際とでは︑それ人\若干の異るものがある︑こ
A
では︑呼子浦のそれを採ったが︑併し相
る︒これに附腸漕船が八艘あって︑ 八艘あって︑各船に水主十人乗ってゐ たし頗る船足の早いものである︒中尾組には線敷拾七艘あったが︑
内 一
1一艘の親父船には加子登人多く乗 6 掛・赤味持・魚籠・臓緬等が用意されてゐる︒
6)肥前唐津鯨捕りの記、宴本,
7)鯨取りの記前褐。
親父⁝⁝は四人を原則とした︒ 何程仔在したかを見るに︑先づ 所であるから︑こ4では網主に抱へられ︑或は屈傭されてゐる努働者を吟味して見よう︒
納屋
・・
・・
・捕
鯨用
具を
製作
し︑
も供されたのである︒その詳細は加工業の所で述べるであらう︒
以上の物的要素の下に如何なる種類の漁夫若くは努務者が︑如何に仕事をたしてゐたか︒
一番
乃至
︵ 三
︶ 従 業 努 務 者
にそれ/\従事し︑ 段切鋸・骨剥谷・助剥・彿庖丁・カシハ木釜.bクロ・骨油次・油大
又捕猿物を加工する為に大小十敷個の納屋がある︒多くは二十二間に十
人的要素として先づ畢ぐべきは︑練支配者であり︑経螢主である所の網主であるが︑
捕鯨作業に従事する努務者には親父・灰指︵波座士とも饗いてゐる︶加子の一二階級が匝別されてゐ
る︒唐津地方に於ける賞時の鯨網組で︑ これは前述した
この
一
1一種の努務者が如何なる性質のものであり︑如何なる業務
一番親父・ニ番親父・︱︱一番親父及び網戸親父がこれである︒
てら
れ︑
こ\で作業や金錢の計算等がたされ︑謡準備がたされ︑且又若干の漁夫努働者の起居の本揖に 二間の薬藉家であるが︑勘場は瓦直
であ
る︒
中尾家では一番から十四番迄番琥を附して本邸の近くに建 とが知られる︒ 樽・油壼.煉釜・鐵火掻.鐵網・油柄杓等々がある︒主として鯨油・及び肥料用品の製造用具であるこ ゐる︒その主なるものを見るに︑ 幕末鯨漁業に於ける鯉管形態
第 六 巻 四 四
第一=就
. . . . . .
ノ
第 六 巻
第一=輩
r.
ノ
手形綱を通す役目迄行ふのであるから︑全く命懸けの職務であ る理であるが︑事賓は廿六名で親父船にはなく︑
8)肥前崩津鯨捕リの記、寓本3
その給金も箪たる努働賃銀的たもので 各種の相
1 1
一番の親父は勢子船中の親父船三艘にそれん\乗込み︑沖場に在て釆を取り︑全船の指揮監督をたす役
を持つてゐる︒
戸親父は雙海船に乗って︑ 全努務者の統制を欠き︑鯨を脱した場合には︑網主に責任を問はるLものである︒叉網
主として網張りのことを指揮監督する職役を持つものである︒何れも網元の
譜代の臣であって︑最も重要た地位であった︒後述する加子より閲指に昇進し︑
た人々である︒鯨狼期たる十一月より翌年の五月迄は勿論︑期外に於ても網主の諸用を勤め︑
談に参典してゐる︒報酬を如何なる形態に於て網主より支給されてゐたか︑明確た資科を欠くのである
が︑中尾組に於ては主として米穀及び給金が支彿はれたらしい︒
はなく︑漁獲成績に應する割前式のもの4様に推察される︒
羽指・⁝:波座士とも稲され︑勢子船・曖海船・漕船に各一名づと乗ってゐるから練計
1 1 ‑ +
‑ 1
一名を
要す
年勤めたものヽ中より選ばれた勇批な人逹である︒
主要任務としてゐる︒
にある隆起した所ニヶ所に手形をあけ︑
る︒従つて給金も高く加子等の一1
一倍
であ
った
︒
幕末鯨漁業に於ける繹管形態 その莉指中から選ばれ
叉三名は莉指見習が勤めるのを普通とした︒加子を長
各船内加子の指揮監督をたすと共に︑鯨を突く事を
鯨を網に追ひ込み︑鋲を打つことから︑鯨の背に上り手形庖丁を以て噴水孔の後
これも殆んど網主に召抱へられて︑親父同様のものであ
ったらしい︒若い加子が優秀な波座士に立身せん事を理想としてゐた事情は土佐の捕鯨業者の場合と同
四四
==
日 <
地方に於ける捕鯨労働者たる加子より りの記﹂には述べられてゐる︒その賃銀は何程であったかは︑これ亦不明であるが︑享和三年の和歌山 雇の賃銀努働者も相賞多かったちしく︑ 稀﹂なる人々である︒ あ
って
︑
であ
る︒
加子・;••これは水主とも云はれ、
雑務をなす普通の漁夫である︒各船にそれん\十名乃至十三名乗り込んでゐるから︑総計四百五六十名
網主に家臣の如く隷属した人々であって︑
ばれた労働の提供者であり︑ 同村内若くば近郷の地縁乃至血緑闘係によって︑封建的に結
他は賃銀によって臨時漁獲期に雇傭される近代的努働者に近い性質のもの
前者は佐藤信季が述ぺてゐる所謂﹁棟梁の下で﹂使役される﹁数多の漁戸﹂と見らる4もので
﹁不城永く磯き︑或は磯饉の年と云ども︑棟梁たる豪家より此れに合力すべきが故に︑餓死
然るに後者は一定の賃銀で漁狼期中雇はれてゐるもので︑必すしも近隣の者のみ ではなく︑各地の漁場に生計困難となった漁夫やH雇人等が多くこれに雇はれたものである︒この臨時
しむるものであらう︒
﹁出猿の頃には日雇のものも百数十名を集め云々﹂と﹁鯨捕
網元へ請願したと云はる4次の文書は︑若干の推定を可能なら
﹁翁月より四五月頃迄壼面の給金にては御年貢米上納妻子育成も難成懺御座候:
.
. .
.
霜月よ
四五月迄I J はあったと見られよう︒最も地位の低い努慟者であるが︑これには二種の異る性質のものがある︒
一 は
幕末鯨漁業に於ける細螢形態
̀ ,
様であったらうと思はれる︒
︐
船の櫓を押し︑船中にて︑それ卜\の指揮者の命によって︑萬般の
第 六 巻 四 四 四 第 一
1:臨六四
9) ~原又吉氏畜土佐の捕鯨網漁法. iill含程烹史亭. 3 の 4 。
幕末鯨漁業に於ける繹贅形癌
を詳細に説明して︑全開を推す表とするであらう︒ 等の鯨組の納屋は何れも大同小異の形態であったから て︑納屋内で行はる上煎要な作業であるから︑ 品
の為
めに
︑
と︒これによって見れば︑約半年の賃銀が登附に過ぎたかった︒従って到底これを本業として生活し得
たかったであらうと考へられる︒恐らく出稼榮働を屈傭したものではたいかと想像せられるが︑正確な
所は今後の研究に侯たねばたらない︒
四︑鯨加工マニュフアクチュア
以上の如き物的組織と人的粗織によって捕鯨業は螢まれたのであるが︑
獲物を賓捌いたのではない︒更にこの鯨を解開して︑肉・皮.願・骨・髭.臓腑笞それん\別にして︑
納屋に納め︑肉は百五十斤乃至二百斤に切り︑撞漬にして魚柵に蔵し︑
各別々の納屋で加工されるのである︒
納屋は島の東端の海邊にあるが︑ ゅ相勤候はゞ一人前賃銀戴雨宛被酋下候様奉願候﹂
第 六 巻 四 四 五
第 旦 賊
六五 門を入ると左 斯党の鯉替者は直ちにこの漁
この過程は︑前作事の業と共に︑鯨業鯉螢者によっ
次にこの納屋内の業務を見よう︒生月・呼子・五島有川
こしでは便宜上主として呼子油中尾網組の納限
これを﹁新屋敷と競て倉々敦十軒建並べ﹂てあった︒ 骨・油5ば屎或は肥料に或はエ藝
10)大 西 源ー氏 、 伊 勢g,妬歴史と地理!30の6
。
l)鯨捕りの記、前褐。
の廂傭された女子が苧を以て苧絢をやる︒ 船の建造及び修緒は大工納屋で行はれるが︑平索中尾家へ
H i
入りする大工が五六名あって︑納招の前 月から行ふことになってゐる︒ 具納屋・網納屋等があり︑後者としては︑大納屋・骨納屋等が主要なものである︒それん\の納屋の作 であり︑他は獲得品を保存し又はこれに加工する作業場である︒前者としては大工納屋・鍛冶納屋・道 の納屋は︑大別して二種類とすることが旧来る︒一は捕鯨其他の用具類を準備し製作する﹁前作事場﹂ 又入口の門から左へ進めば︑一番
の次
が︑
勘定場・風呂屋・前作事秘場・革洒場・八番蔵・十四番・椎
が一
番納
屋︑ 荘末鯨漁業に於ける繹螢形態
右に二番納屋があり︑
の皮煎場等々が列んでゐる︒この外に少し離れた悔際に二軒心大納屋が建てられてゐる︒
業朕態を一瞥しよう︒ それより右方へ四番・一一一番・五番・六番・田島納屋となってゐる︒
前作事納屋・⁝・・捕鯨は十一月末から開始されるが︑ これ等の多数
それに要する謡道具の準備を︑秋の初め︑即ち九
その主なるものは︑新しい船の建造︑布い船の修繕及びペンキの塗り替
へ、網の製作及び修繕、飼.償銘・粋鈷•長JJ・大切庖丁等の錮造等である。
に稜まれた材木を切る者︑板を適賞の形につくる者︑船に組立てる者︑修繕をなす者それん\自己の業
務を受持つて︑分業がなされてゐる︒出来上った船は︑ペンキ塗師によって色塗りされる︒
網の製作はや4複雑である︒網納屋に於て主としてたされるのであるが︑先づ最初の行程は︑十数人
彼女等は互に相談笑したがら苧を絢ひ︑虚恰只目宛を一把とし
第 六 巻 四 四 六
第三琥
空 ハ
ある
︒
茄末鯨漁業に於ける紐管形態 更に﹁椎の皮煎く所﹂ て︑勘場に納め︑b造られる等々︑
第 六 咎 四 四 七
第一︱︱器六七 加工中最も大規模のものは油を製する行程であるか
尾狙毛と納屋により罷の境︑肉を論し分つ﹂中
或は販
}
買に便利敷網その他に使用する綿がこれ亦敏人の雇傭女子によって函よ
この外︑鍛冶納崖に於ては専問の鍛冶エが︑創.鋲
その分簸に應じてその日の給料を受ける︒
閤に於て数十人の加賀苧製造者の手によつて︑網加賀苧に作られる︒
頗る簡箪な道具で︑ その製造用具は︑
﹁鯨
捕り
の記
﹂
これによつてョリが掛けられるのである︒この網加笠苧は
へ運ばれて︑そこで染められ一肝強くせられ︑後数人の網指若衆を従へてゐる所の
網大工︵棟梁︶によって網に造られるのである︒
庖丁等を製作して居り︑他の納屍では︑
これ等の前作事の作業は︑明瞭な分業に基く協業によってなされてゐる事を知るので
鯨加工納屋の作業;⁝
.
切り裂かれた鯨の肉・骨・皮等はそれん\の納屋に納められ︑た様に保仔法が講ぜられ︑或は加工せられるのであるが︑
2 の舘である﹁背美鯨切解錮﹂中に明瞭に示されてゐる︒
巻上る臨をさら
bL
\と切落すは目覺し⁝. .
.
扱頭
大骨
︑
に︑﹁さしも小廣き魚柵の透間もた<悉く皮肉の山と成︑すでに牧納して黒皮身類を取分け油臨は細く切
て油にせんす﹂る︑即ち加工行程に入るのである︒
ら︑その航態を次に述べよう︒ 中に閾示されてゐるが︑
その光景は流石に勇批を極めるらしく︑賞時
先づ﹁魚の背を切明け︑大綱でなく陸の糠櫨カ
ヽ 畜
この女子によって約はれた苧綱は︑次の納
2) l'・啓助氏、明治大正7k杢
r
咀]顧録54頁,3) §,;(折]り
( 1 . ) ' e 、
B勺1品,小 別
部頭
大 別
賞 嘗 毎日績けられたものである︒
登人 人
壼人
納屋内目付役 各小納屋の支配をたす 納屋万の総支配監督をなす人 た滓は更にこれを唐臼にて粉末とし肥料となすのである︒この作業はやはり十一月頃より翌年六月頃迄 火の勢大焦熟の炎も斯やと凄敷 鯨油が製造されるのは骨納屋で︑
楳末鯨漁業に於ける繹榮形態
納屋中でも大納屋に漏するものである︒事務所の東隣にある胡伴屋
根造であって︑骨切場・唐臼場・釜場の三棟に分れてゐる︒
先づ骨切場では︑敷人鼻の荒男が大きな骨を荒割して︑適宜の大きさにし︑
は唐臼場へ送られて同じくH雇女によって﹁唐臼踏﹂をされ︑ 之を日雇として雇傭された
‑ 1
‑
+餘人の女子の手に渡すのである︒﹁此のH雇には小川島の女ども数十人つどひ来り油染たる前垂たす
き晒しの手拭を戟き各山刀を以て骨を細く切る︒皆々歌をうたひ︑共中膀たる美墜たるを歌上とて席を
すしめ共歌に應して山刀の拍子を揃へ上へ上げ下へ卸﹂して骨削.りの作業がなされる︒細く削られた骨
他の皮︑油肉等と共に釜場へ送られる︒
釜場には﹁廿餘台の釜を並べ此釜に皮身を入れて煎する事一H
に百
挺餘
︑
石の釜の下一度にもへ上る
而して骨より油を絞り出し さて釜の中の油木操戸樋を並べ坪場と云へる後の倉へ汲流せば妥に参
挺余入之大釜を幾つも並ぺて是に油をた\へ冷して樽詰となす﹂のである︒
これ等の作業に従事する役目及びその人数を表示すれば次の如くである︒
第 六 巻 四 四 八
第一 一一 賊
六八
4)5)6)7)鯨 捕Jlの 記 ` 前f易。
幕末鯨漁業に於ける純養形態 右は納屋内に奉公人として仕か込み屈傭された人々であるが︑
第 六 巻 四 四 九 第 三 披
これ以外に臨時廂︑
番
人
天
,
6 主として火の番をたす 茶圃
り
戴人
同 上 小 使
仮
焚
戴人
納屋内の炊事を掌る 桶庄笠人
船具桶小桶等
3修繕をなす者 鍛
冶
登人 船大
. T
.五人船を造り修繕する大工
鋲鈎を作り修緒をする 網大
工
登人
網製造人の棟梁格 綱
指
四人 魚
切
拾四人
魚捌を為す人
所要の綱を作るもの
魚 切 親 父
笠人
魚揖きの指圏を為し庖丁立の惟話役 小
部
八人魚捐き取締其他納屋内の泄話役
荼
掛
│ ILI 人
油煎を為す釜場の泄話役
魚柵掛 帳
役
二人 一 人
金錢受彿役 魚肉棚き上げたる分の指岡役
六九 日廂として純貨銀
だ隆盛ならざりし初期の頃であるがーーに蘭人甲比丹 納屋に於て加工せられた鯨は︑販賣せられる︒露永十三年平戸闇館時代
I H
本に於ける捕鯨業の末Ha
ga
na
r
が既に述べてゐる如く︑ 五︑加工品の販賣と牧盆
枇末鯨漁業に於ける紐脊形態
による廂賭者が︑大工納屋︑網納屋等に数十名︑骨納屋に数十名存することは前述の通りである︒特に
肉の切捌き唖潰等の作業に忙しい際は日屈人敷百人が手偲ふが︑
ので魚切親父はそれが院督に困難した専が述べられてゐる︒
大納用の入口の右方に大別賞二人︑帳役
一 一 人杓衆廿五人︑魚切十四人
︵此内二人を沖称と云ふ>︑
釜称二人︑探昏飯焚二人︑菜廻芥二人︑支配入五人︑
B
︱雇者を加へて都合二百人許︑間暇なき様働かしむるなI J °
苫
究限の右方壁下に小切場有
l J七八十人許並居て︑各切桶を前に据へ︑其上に小纏にて油皮を懸け︑夫を取り細切して 桶に入る也︒傍に砥石を腔き︑昨々右手にて庖丁を研ぐ︒小切場の向の辟女の地面よリ一番低き慮に竹袋を敷く︑魚柵
と賊け︑諸の皮肉等を切捌なり︒其次に咆十七有︒
.
. . .
之れに小切せし油皮を入れて油を煮取也云々
こうした規模の下に行はれた加工作業が︑
たものと見られ得るーー上であることは︑ 一のマニュフアクチュアーー特に吾園としては特殊大規模
既に土屋氏によっても研究せられた如くである︒ 8 ヽ ' 々詞様であったらしく︑小山田の前記﹁絵詞﹂中にも次の如く云つてゐる︒
吾國の鯨︑特 綱指︑太披称二人 この賓情は生月の大納屋に於ける朕態も略 各自その皮肉の一部を私かに懐にする
第 六 巻 四 五
0
第= ーー 競
七〇
8)土屋喬雄氏「H本マニュフアクチュア図説」!径史屎研究 1の4,
l)悲199純信編、水産,.九世紀史. 15頁。
幕末鯨漁業に於ける紐袴形態
れたらしい︒
存されて酪時に寧只出された︒ 肉に次いで重要な商品となったものは油である︒
鯨油は最も多く害虫防御ぷ用に使用されたから︑西國特に九州各地の農村に
販賓せられた︒筑前・豊前筈は就巾名かったらしく︑窯末筑前地方では︑年'々六千四百除桁︑守雨壼分
替として八千面の鯨油を肥前地方より買入れたとの計算が営時の學者によってなされて居.り︑叉文政末
年には筑前鞍手郡・遠
f t
郡では
︑
︑
4 賞てられた記録も現存してゐる程である︒
これを
l E 確に示すべき何守の資料もない︒只暮
石炭の牧盆が多かったが︑
第 六 巻 四 五
七
即ち中ヽ 然ら その牧盆の大部分が︑肥前の鯨油購入究に
以て肥前地方の鯨油販賓競の相賞であった事を察し得よう︒
この外肥料として︑狩叉工藝品として販餃された部分も多かった事は前一言したる如くである︒
ばこれ等の商品としての究上げ総額は何程であったか︑
末小川島に於ける鯨の漁樅頭数を見る事は︑その牧益を推定する若千の参考とはたるであらう︒
尾甚六の
H
記によって調査せられたる所を見るに次の如くである︒第 一
﹃ 鵠
中尾紺の納屋中には巨大な油倉があった︒これに保 尾莉毛はテイラと琥してこれも直ちに商船に費渡された︒ に肥前地方のそれは肉が最も多く食料として尊屯されたものである︒即ち赤身と名づけて︑褪漬とし
樽に詰めて國産品として平只り出された︒
たと云ふ︒小川島の中尾組では︑主として巾尾家自らが︑筑前の商人と直接取引をなしてゐたので︑肥 前の鯨肉は筑前相場を原則とした︒幕末には松浦漬の如ぎ種々の加工食料品としても相嘗蓮が使用せら
仕向地は主として、江戸•長州・中國筋•佐袈・筑前筈であっ
2)植付ギ八郎氏疇前渇論文。
3)上野膀従、存寄書窃、窃本。
4)焚 石 益 錢 二 付 遠 賀 鞍 手 雨 郡1llへ御逹、窃本,
再び小川品の鯨業の掻頭を見た︒ 抽鯨船3蹂躁の儘に任せられた貰梢であったが︑明治十年前後より會社絹織による捕鯨業が漸次現はれ
ので
あら
う︒
その後数年︑明治の初期に至っては︑殆んどこの地方の鯨磁は見る影もたく︑徒らに外國
小川品抽鯨社として知らる4ものヽ捕獲欣態を見ることは︑恐らく慈 七拾本余も大漁﹂することがあると述ぺられてゐる︒ 即ち約三十頭内外の鮫を年々猥得して居た事が知られる然るに天保十一年の著述である苅記の﹁鯨捕
~、、~りの記﹂中には﹁松の内ハ例年魚盛りにして一
H
に三
本四
本又
ハ五
六本
も漁
する
事儘
あり
・・
・・
・・
彼岸
子持
又ハはざみ子持とて雌雄の間に子をはさみ来るも有或漆薬子持なんと初夏の比迄歳により四五拾本︑六
//
ノ Fr
IJ
二 0
六II
五 年
二 00
安 政
q .. ノJ二五四
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五 年
二ニハ
. .
.
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一八
七 嘉
永元年
‑ J L o
弘 化 四 年
年競 幕末鯨漁業に於ける翻螢形態
二三〇 通り鯨
旦
四五拾頭を超える場合は恐らく大漁と見られたも
二五 一八
二 0
叫四 抽猥頭敷第 六 岱 四 ず
第三撃
七
慕末鯨漁業に於ける翻贅形態 於ける益富家も亦団様に疲展して︑ 詞家の商取引に従事した荊人も数人あった︒従つて他の地方に於ける如く富裕荊人に利盆を獨占される事は殆んどなく網元たる中尾家の如きは︑それによって一暦の巨富を蓄秘して行ったのである︒
明治に至って尚窟蒙として斯業を暫く績けた程であったのである︒ 右に見た如く︑中旭家では ヽ︐
銃 鮒
長須
//
+ ︱ ︱ ︱ 年
自ら製品を賣出したものであって︑その取引の捻には︑同家に従駈し︑ 坐頭 長須 背美
//
十 二 年
明 治
十 9 ,‑ ••.
競
社は次の如くである︒
•-
/ ︑ ︱
k
Aこ頭
長
須
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貞
人:
‑ H 種 類
ご 九
九
ノ 五頭 数
第 六 巻 四 五 屈
̀ ノ
‑3
五九
︑
0
六二
U l l ‑
︱一
七四
四八︑四五二闘八一七 二七︑四五九邸一七
債
格
第一
一一
撃
末の中尾組に於ける飯業の牧盆が如何に大であったかを推定する最も布力た材料であらう︒
七
生月に 即ちその枚
5)明治大正水産III!顧録、 58頁。
運上銀をなすことによって彼等は藩政府の保訛を受
徳川時代九州に於ける水術業は︑その地理的詣事情の結果︑最も重要性を持つ産業の︱つであった︒ 一脈相辿する所のあることも否定し得ないもの\様である︒ 次第に査本主義的純螢組織に移行する 以上によって︑私は︑肥前唐津地方に於ける幕末鯨漁業に就ての大要︑思ふに鯨業は︑元来鯨が哺乳動物であると云ふ意味で︑漁業には非すして狼業として︑
多くの黙に於て一般漁業と近似する所がある
から︑廣義に解して漁業の一稲とする事も亦必すしも不合理ではたいものヽ様である︒而してか
4
る水
公式的な工業痰逹段階に嘗嵌め難い郎の存する事も︑人の知る所である︒併し乍らその技術の寝逹に照
應して︑衰本と労働の分離が表はれ︑非査本主義的経螢組織が︑
傾向に於ては︑
特に鯨漁業は︑箭質共に他地方に秀れて菫要なものであり︑
等に於ては︑確かに賞時の他産業に比較し得ない特徴を持つものであった︒
許可せられた二三の有力な︑9im豪によって獨占され︑ その続螢に於ける特殊性︑規模の大なる事
そ心漁獲椛は尚滞によって 陀業に於ける続螢組緑の疲逹過程が︑一般工業のそれとは︑種々なる瑚に於て相異し︑必中しも一般的 して取扱はるぺぎ性質のものとも考へられるのであるが︑ 闘する賓際を二應桧討し終った︒ 六︑餘言
謀 末 鯨 漁 業 に 於 け る 細 督 形 態
就巾主としてその生廂組織に
第 六 巻 旧 五 四
漁業とは甑別
第 主 競
七 1/LJ
1)蛇/II虎三博士"‑J灼宅約浣論、改造Iil.仝熱、 13の548頁,
斯業が︑漁民更正の為めの一有力な役割を持った事賓︑
第 六 巻 四 五 五
第一 一ー 琥 七五
裳時の疲弊せる藩財政を救溝する一助ともなっ 云奴泄村の瓶弊が農村に人劣ら中甚しかった常時に於て としては著しき特性を持ったことを物語るものであって︑
主として該業が裳時の森哭
しも指標的たり得るものではなかった︒ 大規模機械化等の過程に於ては︑この鯨漁業は必す 寧ろi衰退を見た場合さへ けてゐたのであるが︑その続螢に於ては箪なる家族的小規模協業ではたくして︑
も見るべき漁榜炉労働者をも敷百人屈傭して居り︑
る︒幕末に於ける廂業中︑若干の部門に於てはマニュフアクチュアが現ぱれてゐたが︑
は︑西欧のその時代に於けるマニュとは比較にたらぬ小規模なものであった事はポ賓である︒
ニュフアクチュアであった︒ 純然たる賃銀榮働者と
それ等の多く
この黙は確かに該業の鯉螢に於ける特異性として注目すべき所であらう︒
醜つて明治以後の獲展を見るに︑その進展の遅々として見るべきものたく︑
あり︑漁業の従業革命としての寝動機汽船の採用`
に於て︑作業がたされた事や︑応業資本家としての網主が滴人に従恥せしめられたのではたくて︑年ろ商
人を服従せしめ︑或はその一部として商業機能を附屈せしめてゐた如きは︑
義の大なる事を示すものでたければならない︒
た所以等々も亦それと閥聯する重要特性の現はれであって︑
幕末鯨漁業に於ける親叡形態
しかも既に口す上締末に︑右述の如き大規模マニュフアクチュア
鴬時の社會経渭欣態の下に於て該業の持つ意
今日の漁村更
問題に釘比して考へる時︑i E の鯨漁業に於けるマニュフアクチュアは︑その捕獲行程に於ても︑加工過程に於ても︑明かに大規模マ 然るにこ 分業に某<協業が明瞭に行はれてゐた事を知るのであ
附 詑 加湊川重人柑に謝意を表する︒ 多くの璽要な濯故知新的意義を持つものと云はるべきであらう︒
ー一塁六•10•1―-I 脱秘後新たに.毀見した交料も一︱︱仔する︒後
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補正したいと考へてゐる︒前資料の探索に助力された法學士
幕末鯨漁業に於ける麓螢形憲
第 六 巻 四 五 六
第一ユ撃
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