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噶爾丹侵入當時の外蒙喀爾喀葛

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

噶爾丹侵入當時の外蒙喀爾喀葛

井邊, 一家

https://doi.org/10.15017/2340975

出版情報:史淵. 19, pp.226-246, 1938-12-10. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

(2)

I

鴫爾丹の外蒙喀剛略佼略の動機・となったのは喀爾略内部に於ける内遥であった︒即ち喀鯛略右翼内部

に於ける私闘が左右祁巽の勢力手ごなり︑その結果は左翼勢力の仲脹搬大ごなった︒この左翼の喀鯛略

制覇が杵邇蒙古に於ける越境奪略等に基く私聞さは性筑を異にし︑大きな政治上の問題に伸展した︒厄

魯特蒙古蝋閑丹の武力干渉︒こなり︑之れ等の仲裁問題をめぐって︑満朝を四瓶が渦中に投じ︑閥北一栫

は十年にわたる大きな戦乱時代を現出した︒この大動飢をさほして外蒙喀棚略は清朝の治下に入るこざ

になり︑又これ以後清朝の勢力は速く新羅凹職にまで及ぶこ在になっに︒この内紛時代の喀剛略ご哨鯛

丹の初期の關係について一考察をしてみたいご恩ふのである︒

喀醐喀は後には川大部凹盟に分れたが︑脹煕川一年までは左右剛巽の二大部であって︑左魏の長は土

謝圃汗タ右翼の長は札朧克剛汗でめつに︒以下皇朝蒋部要略によって略述すれば︑旗煕元年その右翼内 蛎爾丹任入備岬の外禁喀鯛喀

鳴爾丹侵入當時の外蒙喀爾喀

(一)

l lU

邊一家

色卓勾︽一︑一一一一二〆

(3)

に内紛が起2Lゐる︒是れより先曹札薩克圖汗諾爾布が率し︑子旺儒克が襲いで汗を孵したが︑岡族の

額琳沁の殺す所ざなり︑同峠に土謝剛汗察琿多爾濟︑爽刷諾甑部長丹雅卿卿の兵が額琳沁を盤って︑厄

魯特に走らした事件である︒︾﹂れよ・り札薩克州汗一族の手が絶えず︑脈儒克の死後兄の紳墾鯛根が自立

して汗を孵したが︑その衆は彼に附かず︑多く士謝川汗察琿多細濟に肺しに︒そこで康煕九年になって

旺儒克の弟成褒が札藤岡汗號彩襲ぐさ︑土謝剛汗に交渉して籾琳沁の飢後左翼に逃亡した部衆を求め︑

厘今﹂れを交渉しにけれざも︑歴して典へないので︑途に西戯の逹頼剛怖に訴へ川仁のであ.る︒大浦愛

鋒康煕廿三年二月庚子の條に︑曾往訴逹蝋剛嚇︒蒙諭七旗日︒剛七旗倣共愈札薩克剛汗︒共投左翼人災

似應發遼︒爲此差札爾布奈前來蔽盟︒而左巽土謝剛汗不至︒呈上係我大衆之主︒誰以此怖上Ⅲ︒至是︒

上念喀爾喀累世恭順︒職貢有年︒不忍共子弟人民離散︒遥阿齊岡格隆等︒噺救往諭逹噸Ⅷ卿︒今彼遥使

識和云堂さあるが︑こ§に曾て逵帆伽嚥に訴へて狗盟せんとしたごいふのは︑皇朝群部要略によれば礎

煕廿一年になってゐる︒その昨土謝州汗が御盟に來なかったから︑やむなく冊三年になってそれを淌朝

に訴へだのである︒そこで康煕帝は逹粒剛卯さ共に略剛峅側魍を解決せんざして阿齊岡格降を閥赦に進

つだのであった︒云ふゑでもなくこれまで消朝に於いては辨蒙古に側する場合︑一堂述蝋Ⅷ卿の方針に

準擁した政策をざつてゐに︒大浦蛮鋒康煕十九年八川戊子班滞院魎下に︑唯削喀の進貢に附して喀剛略

.︑

の進貢は以前は巾臣濟農を行さしたが︑今札薩克川汗が車臣濟挫を改めて︑厄郷徳尼辨農を甘さして進

貢してゐる︒逹帆剛嚇の給する文内にはこの厄秤徳尼濟農を竹壷こなすごいふ文字がない︒これを如何に

噛爾丹伐入常昨の外栄喀爾喀三一七

I

(4)

噛獅丹催入微時の外装喀爾咄一三八

すべきかごいふこざが問題になってゐる︒か上る些少な問題に至るまで逹頼剛嚇の猯針が問題になるの

であるから︑蒙古雨大汗の紛争問題に於いてこれに辿使しだのは俄然のこさであった︒あくて康煕竹五

年理藩院尚普阿剛尼は紋をもにらして︑逹紙卿嚥の使鴫爾丹内勒剛さ含するここになった︒丁度この年

成変が卒して新に孔薩克岡汗を襲いだ沙伽が阿剛尼に随って床論仙勒齊に赴い仁が︑土謝側汗察琿多剛

濟は親ら來らず︑弟の哲卜尊丹巴胡土克岡を使はした︒この念盟に於いても何かご紛争を生じ︑察琿多

爾濟は亡命者の半を沙剛に師しにのみで︑この長年にわたる問題は凹沌解決の運びに至らなかった︒叉

この時哲卜尊丹巴胡土克岡は逹頼剛嚇の使着噛削日一関勒岡を啼次問題で黍ひ︑遂に對等の席を占めて會

盟に列した︒唯爾丹が妓後まで喀剛略俊入の口蛮さして哲卜尊丹巴胡土克剛が逹職卿聴を侮辱したさい

ふのはこの事件であった︒

以上眺めに如く土謝州汗の行爲には暴漫無鯉な節が多く︑廿一年逵戦剛聯の提唱した愈照には川席せ

ず︑今又廿五年逹頼卿卿さ股煕帝の主唱下に禽盟を催し仁が︑土謝剛汗自身の出席をみず︑剰へ命盟に

参加せる土謝剛汗の弟哲卜尊丹巴胡土克岡は逹噸剛嚥の使者ざその席を手って對等の席を占め︑札薩兒

岡汗の要求する部衆の値かに牛を肺したに過ぎなかつに︒かくて孔薩克州汗沙剛が鼓後に助力を求めた

のは厄魯特蒙古の聴爾丹であった芭思はれる︒︑

徴時喀剛喀の覇権を握らんさしてゐに土謝脚汗さ厄魯特部の平定に志した噛爾丹は︑これ叉早くより

確執を生じてゐる︒同じく皇朝藩部要路によるざ︑座煕土ハ年厄魯時部の都齊爾圃汗は同部の台吉噛鯛丹

(5)

の襲ふ所さなり︑土謝岡汗は之を救つ仁が︑都齊爾脚汗の殺さるiに及んで︑遂に土謝岡汗は蝋爾丹さ

交戦するに至った︒且つその女を都齊糊岡汗の孫羅卜藏布阿剛布却一に嫁せしめてゐる︒土謝耐汗は蝋爾

丹さ不和になってゐにのであるから︑今土謝刷汗の勢力に唾倒されんさした札薩克州汗がこれに投じ仁

さて不思議をするに足らないのである︒土謝岡汗は蝋爾丹さの間に今又新たに札院克側汗部の問題につ

いて敵観するこ︾己になったが︑この邸鳴爾丹が土謝州汗にむかって︑我等には俄雑斯の援兵があるき揚

言し︑之を云ひてやまずさある碑職噸岬辨親︶のをみる芭︑西方厄稗特に覇をさなへた蝋爾丹も︑蠕附略

蒙古の寅椛者土謝岡汗に對しては︑常にかうしに虚勢を張らねばならなかつにのではないか︒士謝州汗

が露西亜援兵の事蛮をしら﹃ぺて︑その.疫なきを知るに及んで︑途に自ら噛閖丹の所在地に催入したので

ある︒束華錐廿七年七月壬巾澤卜愈丹巴胡土克岡告念奏に︑去年哨爾丹︒奉兵三蔑餘公道而來︒誘我札

薩克岡汗等叛去︒我土謝剛汗領兵迅而執之以師︒後鴫爾丹之弟多爾濟札卜等︒領兵來掠右翼班節赦青台吉

卜剛克森︒巴爾丹等人語而去︒土謝岡汗追殺多爾濟札卜︒收回人口︒噛附丹叉領兵三路而來︒土謝Ⅲ汗

及四海雑卜藏渡布︒領兵前至噛剛丹所駐之地︒遇逹頼馴嚇使者所泄人︒宣示呈上楡和之旨︒途退駐楚克

猫斯諾爾地方︒今噛爾丹自杭愛山後︒椋取左右翼台吉等︒至志木師地方︒土謝剛汗之子哨剛丹台吉與戦

大敗︒僅以身兎ごのべてゐる︒これによれば哨爾丹が兵三漉除を率ゐて來攻し︑我が札朧克州汗を誘ふ

て叛さ去ったから︑我が土謝州汗は兵を率ゐて追ひ︑これを執へて師つに︒その後噛爾丹の弟多爾濟札

卜等來政し仁爲︑遥繋して之を殺した︒噛爾丹は再び來攻しにから︑土謝岡汗等之を追ふて噛爾丹の所

噛術丹住人常畔の外莱喀爾喀一三九

(6)

I

哨椒丹伐入柑時の外装喀耐喀一三○

駐地に辿ったが︑逹職剛峨の使者が迭しに人に遇って︑呈上の諭和を宜示されたので退却した︒今年に

なって蝋附丹が大梁して催冠し來り︑唯爾喀が大敗するに至ったざいふのである︒これを前年土洲州汗

が蝋爾丹の俊略を報じ仁ものE比較してみるざ︑束華鋒什六年九川戊子喀爾喀土謝岡汗蚊青墨爾根台吉

辿使奏に︑鴫剛丹普至︒我等輔泄使致覆本意維不樺︒然肌喀剛喀之在厄秤特唯折︒及厄稗塒之向典略舸

唯辿好粁︒仏言鴫爾丹分南北Ⅷ路米攻︒喀削喀右英人等︒除札朧克側汗及柵克得皿城青台吉之外︒除仙

言︒哨閲丹典兵是蛮︒我界上人等驚健峻促出兵︒赴彼雁敵︒処以率兵起行︒郷去年盟奔時︒札院克州汗

之情形︒非特倫書阿剛尼兇之︒他人亦誰知之︒披見今與厄郷塒杜蝋剛阿卿布埋台吉︒一虚遊牧︒肌共怖

欣︒恐脇窺伺︒此爲馳走善こある︒これによれば蛎爾丹から土謝剛汗に書を逢って交渉しそゐる︒然しさ

うしに堪爾丹の交渉もまざまるに至らなかつ仁︒ご同時に鴫鯛丹佼遥の噂が商まったものであらう︒土

↑謝剛汗はこの噛爾丹の興兵は躯渡であって︑界上の人等驚恨して川兵を促すから︑こ比に兵を率ゐて川

發する↑迫いふのである︒まだ蝋剛丹の出動せぬ前にその噸によって川兵し仁ものlやうである︒ホワー

ズの蒙古史によるざ︑・秤開後土謝州汗に平和蛮現の意がないので︑御服に於いて逹帆剛嚥の代表新を經

悔したのを怒ってゐに蛎爾丹は使を送って︑その苦怖をのべ條約の蛮行を迫った︒この使の苦言が畔爾

喀の胡土克州を立腹させ︑彼はその使を縛りあげ︑無確な返普をつけて突きかへしだ︒これにつどいて

兵を川して札薩川汗を打ち破り︑それから咄剛丹の領地に怯入して︑彼の弟を柿へて殺しその首を検の

先に突きさして衆に示した︒これに激怒して噛爾丹は喀爾略にむかって大畢進軍したのは何等驚くべき

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(7)

こさではない︒その車中には父西喀剛喀の長が参加してゐ龍云産露や和搾鍛怖融癖稀冊︶︑こある︒これに

よって土謝固汗奏巾の往復文書の内容が州白になるし︑又これ竿にょ2L先攻に川にのは土謝岡汗であ

ったごみるのが至術のやうである︒烏剛布迦の大勝後︑匪煕帝は内蒙古に亡命中の喀剛略蒙古︽哲多倫諦

閥の地に會盟せしめて︑正式に浦朝に服脇の職をごらせたが︑その称肌に於いて先・つ喀附略が哨爾丹︑こ

榊兵するに至った次節を明らかにし︑その是非世仙を定めにが︑この時馬齊等が奏して︑土洲剛汗澤l

算丹巴胡士克州等・燕壌喀爾喀生計致起兵端・共引罪之炎妄孵札院克州汗僻克得黒磯削根阿海汗喀剛喀︒

依附哨秤丹沖碩克剛︒N川兵繋殺之︒巧辞掩飾殊蹄不令︒雁蛎北謝川汗削去汗號︒筋間散台吉︒深卜奪

丹巴胡土克剛削去名號︒爾小咽嚇︒価令土謝鮒汗符幡癒群峰恥畔冊︶︑とのべてゐる︒この賜齊等の奏に札

院克回汗が聴蘭丹に投じにごいふのは邪蛮にあはい︒それを口蛮ご﹂して北謝岡汗罪兵端を起し云糞さめ

るのはどうか︒札暁克川汗が鴫爾丹已好を結びしこさは︑同じくホワースに脈論伯勒齊の悔盟にカルマ

クの長であ・り札薩克岡汗の憩曾○コである卿剛丹の代表薪も共畦にゐにごいひ︑又蛎剛丹の甲○款恩沙Ⅷ

云産をいって噛剛丹をその庇泄村︾こしてゐるが︑先の土謝川汗灘卜坤丹巴の叩突をみて老へても剛村川

に關係のあった?﹂ざが竹肯川来るごおもふ︒覗蛮この問題によって土捌川汗ご堪關丹の川に隙を生じ仁

ものであり︑凧粁伯仲の勢力の川にいるノーのデマが飛び︑途に韮謝岡汗の方から川兵したものではな

いかPc思はれる︒一方蛎爾丹は叉その川兵の理山↓として︑粥に罪なくして札朧克岡汗を殺し︑更に催入し

て我が弟多雨濟札卜を殺したこ︑こをあげて戦の責任は喀爾略にあるご主張してゐる︒康煕帝も亦公然こ

哨燗丹使入術昨の外蒙峅爾孵三三

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(8)

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螂附丹僅入常塒の外蒙喀附喀一三三

れを認めてゐにやうである露榊唾蝿幟巾︶︒ゞ西域に勃興した蛎爾丹に對抗して隠然たる勢力を術へてゐだ

のは︑土謝州汗︑己禰卜坤丹巴の兄弟であつに︒ブールジャーによるE︑この時代の喀剛略は成吉斯汗の

世渚として︑又その發群の地に住む新さして︑大きな自負心をもって全蒙古民族に臨んでゐた希川越娠

塾坤十︶こさがわかる︒吾堂はこの自負心をもって土謝岡汗は鴫削丹に對抗したこさを知るご刑時に︑倣

時の土謝岡汗はもはや喀削略左翼の土謝剛汗ではなくて︑全喀剛喋の長さして亜吉をなし︑その渡勢力

を擁してゐたことを老へればならぬ︒

魏源の聖武記は蝋鯛丹の蠕剛喀侯入について︑御喀剛喀土謝剛汗︒執殺札院克岡汗︒而奪共妾︒三部

内側︒我朝謎使偕両赦逹帆之使︒和解三部︒聴剛丹使共族人多爾濟札布随而硯之︒故使蝿罵土謝川汗︒

以激共怒︒士謝岡汗果執殺之︒蛎爾丹遂薪詞報復︒揚言併俄羅斯兵且室︒喀爾喀探之︒無共覗守備慨︒

而噛爾丹言之不己︒喀剛喀征不信︒哨爾丹潜辿刺肺千人︒瀧牧共地︒喀爾喀亦不以爲意也︒二十七年夏

蝋胴丹領勁騎二両︒遼枕愛山突襲共帳︒淋牧刺肺從中雁之︒土謝脚汗倉卒没遁︵雑癖榊錘さ記し︑又杵川時

の蕗爾喀蒙古に就いて︑初略附喀惟雄漠北︒及巾葉専倭刺肺︒番梵唄︒僻武事︒叉部族嗜酒︒自机陵蔑

遂爲厄榔持観制傘鋤識韮さ述べてゐる︒蒙古民族の衰微はこれは被ふくからざる歴史上の事蛮である

が︑西北一帯を攻略席捲し先には西方︑教閏にまで大遠征してゐる噛爾丹の軍に紛砕されにからざて︑

倣時の蕗關喀を直ちにかくの如く鮠落せる蒙古E観るのはあたらない︒これは清朝治下に入って術数十

年の平和を瀧喫した魏源時代の蒙古をざほしてみた蒙古槻ではないか︒この時代に既に全く遊惰さなり

(9)

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(10)

I

土謝岡汗に代って之れ等の罪を解くやう浦朝に交渉したもいであらう︒その後又左翼の川旗は札峠克川

汗の統搬するものであるこさを清蠅にみこめさせるに成功し仁ものご忠ばれる︒かくの如き札暁克川汗

の地位が︑その後長い冊の内紛によってその勢力を失朧するご共に忘れられた状態にあったのではない

か︒車華録座煕一千九年五月叩午の催に︑厄稗特に投じて阿附泰山南にゐにざいふ額爾克阿海巴郎が︑

この時浦朝に來降して︑札朧克州汗は喀剛略七旗の長なるこ︽とを述べて︑札院克側汗の後繼者を立つる

こ↑とを諸ふた奏言が載って居る︒これに對して康煕帝は議政王大阪等に談せしめた結果︑今年解爾喀が

噛燗丹佳人怖昨の外策唯爾喀一三川

長は士洲剛汗尋こ川じく諾凌和から川てゐる︒喀刑喀には元来汗號はなかったが︑素巴鯆︑変布︑碩雌の

時代に至って︑それjI札除克剛汗士謝川汗耶臣汗の汗號をざなへ婿遊牧記によればその三汗の汗號 を︑こったのは略M時代であったやうである︒

以上によってみれば右翼札院克岡汗は喀附解のⅢ梼埒森札札麥剛琿台吉の長子阿什海述爾淡雌台吉の

子孫である︒その爲︑全喀附喀から尊敬をうけ︑元来七族の長たる地位を占めてゐにやうである︒皇朝

蒲部要略をみるざ︑順流三年車阻汗孤処は蘇尼特部長等を筋ひ︑土謝剛汗等もこれに關係して清朝に叛

旗を剛した︒その後で札朧克剛汗素巴雛は代って罪ぜ解かん琶吋族俄木布額爾徳尼ご上苔して好を乞ふ

たが︑順治帝はこれに對してその僻は惇挫であるこい2L拮査されてゐる︒叉同十一年に眼治帝は札院

克岡部人額爾徳尼諾木獅を諭されて︑剛塞一両︒喀爾喀左巽山族︒皆剛統撒︒凡有赦諭岡弗迩村︒今即如

所諦C可速筋爾部長遥子來朝云糞ごある︒これらをみる︑ご札暁克岡汗は自ら喀爾味の長ざして︑中臣汗

1

1

(11)

來降して愈閲があるから︑その時に決定するこごになった︒愈蝿大含照雲己なった東華録康煕三十年五月

丙戊の條に︑馬濟等が叉奏して︑札院克側汗乃喀爾喀七旗之長︒累枇好誠進貢︒札院克州汗名號︒似應

価令承襲さ︑やはり札薩克岡汗が略爾喀七旗の長なるこざをのべてゐる︒喀爾略右翼のものLみなちか

清朝のものもこれを認めてゐにこざがわかる︒先に引用せる股煕什三年二月庚子の條にも︑成衰が逹柧

珈蜥に土謝岡汗が逃亡軒を肺遼せしめないこ雲こを訴へた時︑逹帆伽蜥が七旗を諭して︑汝等七旅は共に

札朧克圃汗を傘ばればならぬこさを説いてゐる︒逹帆川嚥もこれを承認してゐるやうである︒

均服煕帝は失張りこの黙に考慮どはらひ︑多倫諾爾の禽蠅に於いて札除克川汗の後繼考をたてる時︑現

在の子は幼稚なる鰯︑皆から巌を以て稲せられてゐた汗の親弟策妄札卜を立て︑彼を蚊商の侭位和孤親

王に封じてゐる︒この喋煕叶年多倫諾爾大衡照の意義は誠に大きい︒雛一には外蒙喀爾喀をして正式に

清朝に服屍の職をさらせたこさであつに︒光緒大浦筏典訓例巻九両六十九封僻外札院克をみる↓己︑外蒙

古王族の封鰐は全て股煕川年以後になってゐる︒これをみてもその間に服脇關係を生じ︑旺式に封僻さ

れたのは大命側以後ごみるべきであらうb節二には長年にわにっに略爾喀の内紛問題を解決し進﹂︑こで

あつ↑恰噛爾丹さ對陣巾↑の内蒙古に於けるこの大命肌に股熈帝は紛争絶えなかつ挺外蒙喀剛唯に對して

如何なる政策をごつ泥か︒こ比に特に注意すべきはこの鮎である︒この御盟に際し︑理蒲院が迩旨附定

せる喀剛略王族の席次がある︒これをみるご土謝剛汗︑澤卜奪丹巴川北克剛︑札騰克川汗の弟錐妄札卜︑

耶匝汗の順序であり︒こり笹節一行ざして餘を七行に分も︑次序を以て脂につかせてゐる︒又股熈帝の

哨棚丹怯入常噛の外蒙喀簡略三一玉

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(12)

蝋爾丹使入柑咋の外榮喀爾喀三宝︿

命によって同じく御開に臨んだ内蒙四十九雄︑乙外蒙喀棚喀はM列におかれてゐる︒こkに於いて外蒙も

叉内蒙四十九旗に疫施きれてゐに旗制に細成されてその官侭が探川され︑早くから服脇せる内蒙四十九

旗ご一覗同仁にみられるこさになつ嘱外家についてはこの府次をみればわかるやうに︑士謝Ⅲ汗が節

一位を占めてゐるのをみるざ︑土謝固汗を喀剛略に於ける長にる地位に据え仁ものであるが︑これは現

欣保持を主眼ざしに満州の政策であるこさはいふまでもない︒蜜際喀剛喀に於ける蜜樅蒋は士謝岡汗で

あり︑特に札薩克岡汗部の右翼蒙古が散亡してゐに梢時にあって清朝治下に投降した略爾喀蒙古は︑左

翼喀爾喀を主禮ざし仁ものLやうであるから︑これは常然なこぐ﹂比思はれる︒然し從來喀閑唯の長であ

った札朧朧克圃汗に對してはへ公平を標傍した清朝雫こして︑その後繼著策妄札卜に唯一人妓商僻位の和

砿親王を與へ北のである︒然しこの時策妄札卜は汗號を襲いでゐない︒大浦蛮鋒をみても土謝剛汗纐卜

尊丹巴の次に嚇したのは親王策妄札卜であって︑土謝圃汗策妄札卜ではなかつにやうである︒これは柑

時札薩克剛汗の現存せる子はまだ幼く︑策妄札卜に親王を與へたのであるが︑この策妄札卜もまだ箔く

この時皇帝は皇子の衣冠を賜っ化ごいふ弱齢であったの︑こ︑俄時右翼略剛喀は殆んざ散亡してゐに鮪で

はないかざ恩はれる︒札院克棚汗が汗號を襲いだのは康熈川十二年である︒蒙古遊牧記に︑三十年特封

策旺札布和碩親王︒代領部衆︒始稲札薩克圃汗部︒四十年命価襲號ごあって︑三十年には親王の侭位を

與へてその部衆を慨せしめ︑四十年にはじめて汗號を襲いだやうになってゐるが︑大浦禽典大浦一統志

等の官書には何れもⅢ十二年になってゐる︒皇朝藩部要略も亦四十年だが︑その蒋部祉系表をみるざ︑

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矢張り四十二年ざある︒本文の方は四十一年四士一年の記事なくⅢ十年から四十三年にごAでゐる爲︑

鈴雑産來しにのではないかご恩はれる︒これ等の記事によって汗號を襲いだのは矢張り凹士一年さして

をく︒哨爾丹の死後︑略爾喀蒙古は故土に師つたが︑共虚に飾って部衆も錐り汗號を襲いだものではあ

るまいか︒當時右翼の部衆散亡してその多くは左翼に柴り︑左翼の部衆過多に悪ってゐたこざは︑謀慶

大情一統志略脳喀文中の註に引川せる︑會典三十一年︒締喀爾喀旗分左仙︒分爲三蹄︒將土謝岡汗之十

七札朧克爲後路︒耶臣汗之十二札薩克筋東路︒札院︵克︶捌之九札隣克爲西路︒各按族分給印によって

わかる︒土謝脚汗車臣汗の合計二十九札薩蒐が左翼であつにわけであり︑それに對して札院克州汗部の

右翼は僅かに九札朧克である︒かくてこの川一年に喀捌喀が從来左右翼に分れてゐにのを三蹄雫こなし︑

土謝圃汗の勢力下にあった左翼より車臣汗部を凋立させるこさになつたもの琶思はれる︒蒙古遊牧記喀

剛喀總叙をみる雪と︑康熈川五年朔淡平定して喀剛喀諸部が再び醤牧に迷った時は︑三部を細して五十五

旗直なしてゐる︒その五十五旗の下にある註に︑理藩院則例︒Ⅲ什業Ⅲ汗︒車臣迂蔀群Ⅲ土一流台吉

内云糞さある︒これによって計算する壷こ札薩克岡汗部はこの時t一旗になってゐる︒川一年より川五年

に至る間に圃什業剛汗車臣汗の二部落にて十川旗の増加をしてゐるのに對して︽札朧剛汗部は三旗を増

しにのみである︒かくて雍正三年になって更に土謝洲汗部より擬音諾顔部十九族を分離して一部ごなし

にこさは︑呈朝蒲部要略に:::凡十九札薩克︒別爲一部︒以共饗喬諾顔號冠之︒稲略剛喀中路︒不復隷

土謝剛汗︒喀附略布四部︒自此始をあるによって窺ひ知られる︒遊牧記略剛峅細叙によるご雍正三年に

蝋蛎丹催入術時の外蒙喀爾喀一三七

I

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1

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ごになったのである︒︒

哨剛丹の指摘した土謝Ⅲ汗の倣慢横暴は︑僻時喀剛喀に占めにその勢力ご併せ老ふる時︑それは亦蛮

であったこさが首肯出來る︒土謝川汗自身その行爲の不正なる産みさめてゐたこざは︑二川の︒御州に川

蜥せず︑清朝治下に入ってからも尚ほ清朝が噛爾舟この間に姉和せしめんさした會盟を拒んで居り︵郷岼

畔剛睡咋獅︶川年の大命皿叩皿に於いてはじめて自已の非を認め謝罪して汗號を許された︑これ等をみてもわ

かるのである︒然し垂曼は蝋爾丹さ拮抗した土謝州汗をおもふさぎ︑その影にあった哲卜尊丹巴胡土克

剛を忘れてはならない︒ホワースにも土謝川汗が札薩克剛汗の逃亡者を與へなかったのは︑稗卜坤丹巴

の言によったやうにのべてゐるが.かの応論伯勒齊の禽盟に打卜尊丹巴が使者こして臨席したのは︑西

藏書と清朝の主唱下に會盟を餘隣なくされた結果︑遂に哲卜尊丹巴自身がやむなく出馬するこさになった

のではなかったか︒哲卜尊丹巴胡土克川所調蒙古雛一代析佛の偉大に就いてはいるj︑の諦話が蒙古人

の冊に残ってゐる︒この節一代活佛こそ土謝剛汗部の変椛荊であり︑杢喀恥喀を率ゐてゐにのである︒

英雄蝋爾丹の侵入した喀爾唯には又この偉大なる活佛がゐに︒この鮎に特に注意したい↓こおもふ︒

清朝治下に入った土謝剛汗の勢力は漸次削減されにのであるが︑・全喀爾喀に於ける哲卜奪丹巴胡土克

剛の地位は︑庫煕帝の保維下に益今ての地歩を間めに︒然しこれは從來占めた胡土克川の地位を峨煕帝

噛術舟催入術昨の外策喀術喀一三八

は四部七十四旗になってゐる︒かうして略附喀のⅢ大部が成立したが︑それは土謝川汗部の勢力削減の

政策さして生れ出たものであり︑喀剛略の平和はこれ以後︑川大部の勢力均術狄態によって保たれるこ

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が利用したものに外ならない・喀爾曙に於いてそれまで占めた哲卜尊丹巴胡土克剛の地位は︑多倫諾爾

大會盟に於いて土謝剛汗につぐ席次にあるのをみれば略わかる︒ポズド一エフの蒙古及び蒙古人による

ざ︑哲卜尊丹巴胡土克剛は又この大命照に於いて始めて艇煕帝に調兄したのであるが︑その席上股煕帝

に蒙古諸王を紹介したのは彼であり︑一たその人物誹笹下して渦兄せしめに翁科節︶Eいふ︒これより

先さ喀剛略が清朝に來降し龍のも一に彼の言によって沢しにごいばれてゐる︒噛爾丹の催略に辿って喀

爾喀蒙古は露西亜に降る・べきか︑乃至は支那に附く・べきであるかに迷って沢を哲卜愈丹巴胡土克剛に諸

ふた︒その時胡土克剛は︑俄國はも妻こ佛を奉ぜず︑智俗は我等ざ異り異・言異服であり︑久しく安住する

虎ではない・ざうしても全部支那に投じて醐年の耐を得るに如かす︑ごいって︑途に股煕帝に投降するこ

ざになったEいふ︒こればかの松湾が綏服紀略に於いて述︑曼L一?○虚であり.それが叉蒙古遊牧記に引

川された註文附記をみてもわかるやうに︑柑時から蒙古人冊に仰へられに除りにも有名な史話である︒

かうしに事怖は又その以後朧煕帝さ活佛を兄弟もただならぬ開係に置いたものであるが︑柑時の活佛が

妓初から清朝に降る意岡があつにかぎうかは雀だ疑はしい◎

コロストヴイシシの成吉斯汗よりソヴイェート共和側までによる書こ︑彼は蝋爾丹の催略をうけるや︑

世ちにトランス等ハイカルにゐた俄雑斯の使節ゴロウインに使村を仁てk︑俄維斯の叫比こして細入して

もらふこさを仁のませた︒然し使粍が今コロウインの下に現れ仁のは︑既に喀爾畔が沌洲人に降服してし

まつに後であつに︵調秘錐︶ごいふ︒股煕什七年七川哲卜坤丹巴胡土克州は浦朝へ恥鯛丹の佼人を報じて

噛術丹便人備岬の外紫喀剛喀一三九

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哨爾丹催入柑昨の外禁喀鰯喀二川○

ゐるが︑その九〃には土謝脚汗毒こ共に浦朝に米攻してゐるその途上對・癖交渉に派遥されに支那側の使節

阿剛尼等︑と遇ってゐる・これはカーヘン箸早期の碑文關係によるざ︑ゴロウインは一六八七年十川から一

六八九年六川まで︑ウデインスク︑セレンギンスクの地方に殆んざ二ヶ年Ⅷ滞在してゐる︒その領コロウイ

ンさ御識する筈になってゐにセレンギンスクに往く支那側使節であった︒ロシヤ使節ざしてこの地方に

派遥された琴コロウィンは先づ露支脚係緊迫の際さて︑蒙古雪こ開係を紬ばんごし︑その鰯一六八六年モス

コー出發以来二ヶ年間草逝をくってをり︑ウルガ即ち庫倫の胡土胡岡の下に迅使して好意ある手紙ざ贈

物を送ってゐる︵桐耕嘩に癖西僻︶のをみるご哲卜尊丹巳ヒゴロウインの關係も叉以前から生じてゐにこE

がわかる︒之等からみてこのロシヤ遥使は決して突飛な事件ではなかったのである・喀爾略が活佛の一言

によって清朝服馬ごなったが︑それはやむを得ない事怖のもざに行はれに亡みるべき獣があり︑その妓初

に●は態度決せず俄雑斯にも使彩迭つにのであった︒ボズド一エフによるE︑喀爾略が満期に投降するや

うに決定し化のは︑噛剛丹に追はれて境外に出て内蒙の阿魯額埒蘇岡に會盟を打って︑哲卜奪丹巴の決

を求めに結果であった念蝿睡轌古︶ごいふ︒既に清朝勢力下の内蒙に入って︑大勢既に定つに後の決意で

あったやうである︒倣時外蒙に對する俄雑斯琶清朝の勢力關係をみる時︑寧ろ俄雑斯に投じて味爾喀の

猫立をはからんさし仁ものではなかったか︒喀閥曙に雄秘せんさし龍活佛の老さしては︑その方が自然

のやうに思はれる︒この蒙古第一代活佛哲卜尊丹巴胡土克悩こそ︑その後に於ける外蒙喀爾喀の蓮命を

決したものさいはねばならぬ︒それはこの裁決の一言を與へにといふのみではなく︑もつご遠く深い原

1

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『。

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凸』

喝爾丹の喀爾略俊入についてはごうしても彼E剛聴教の開係を明同にせねばならぬ︒

厄魯持の博克碩汗蝋燗丹ご略削喀の哲卜尊丹巴胡土克岡温都蘭枅根は︑共に関城に入って剛嚇教を修

めてをり︑第五代逵斌卿嚇納旺維卜賊札卜素の弟子であって︑その汗號名號は何れも逵加剛嚇から附ら

れ仁ものであつに︒第五代逵頼剛嚇は歴代逹頼剛嚇巾の傑物であって︑その初め青海和砿脚部山徹賓汗

を四職に招き︑その兵力によ2L剛味教の流派を抑へて黄教剛嚇を流布せしめたが︑その後彼の勢力は

変に政教雨方面にわにって西賊新確蒙古の西方諦國を唾してゐた︒その爲雛五代逹邨Ⅷ卿の死するや︑

その死は擾乱の虞がある﹃こて公表されず︑十六年Ⅲの長年Ⅱその死が秘せられてゐた・・その川逹帆剛卿

の地位にあって蛮椛を握ってゐたのは︑逹帆剛嚥の節巴︵股煕帝の勅諭中に理事の人さあり︶桑結であ

った︒この怪備の時代に聴閥丹の喀剛喀佼入が行はれてゐる鰯︑那件が非常に複雑さなり︑且つ阿賊︑

西北地方一帯に渉り︑剛嚇教にも開するここ典て史料に乏しく︑その腫相は明瞭を峡苔也ちに断定を下

し得ないものが悲箔多いのであるが︑自分はこ叉に於いても又その初期の問題について一︑二考察して

みたい︒ 因︑即ち愉時土謝側汗部の勢力を背景ざして全略削喀をかくの如き壯態に導いた責任新さして常然哲卜尊丹巴胡土克伽は今日から省られねばならぬ芭考へるのである︒

唯爾丹住入術昨の外蒙喀爾喀

(三)

40.1﹃11

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や−1一

二一

(18)

一巴

醐爾丹佼入常昨の外装喀爾塔二門二

束華鋒廿六年七Ⅱ叩戌の催に侍誼海三代は俄時對撚談判使邸こしてその途上にあった阿剛尼の使こし

て︑澤卜尊丹巴の虎に和きそい途上氾科特車に遇ひ︑蛎剛丹の奏疏を粥へて師ってゐる︒そい疏には︑

灘卜尊丹巴胡州克川土謝州汗は逹執Ⅷ城の教に述ひ︑蝋剛丹Ⅲ勒川を尊び職せず︑之に告ぐるに慨法を

以てしたが雛か十︑党に兵を興して製氷した︒我は述帆州嚥の雌に仗って來ってその届を殿しにのであ

る・彼祁人は衆の許す所ではなく殆んざ往く所がない︑たゞこひ往くEも亦細れられないのである云令

叉海三代に堀して稗奏して澤卜尊丹巴は天朝に來り投ずれば拒絶するか︑之彩描へて典へょをのべてゐ

る︒これが恥剛丹の喀剛喀催入にあ淀って清朝におくった妓初の奏疏いやうである︒これをみれば土湖

剛汗哲卜尊丹巴は逹粒Ⅷ卿の教に逹ひ云糞が出兵の理山になってをり︑それには廿五年の・梅川に於ける

哲卜尊丹巴の不遜が直接問題になってゐるこさがわかる︒この禽照に於ける恥爾丹阿勒州に對する獅卜

尊丹巴の抗鯉は何れの香にも説く所であるが︑哲卜鰊丹巴ごしては︑又それには一つの理山かあつにや

うに忠はれる︒大浦愛鋒廿五年六川乙卯の洋卜奪丹巴の通論穫奏をみるざ︑..⁝・今蒙聖慈︒念喀剛喀七

族不睦︒・遥使於逹帆剛卿︒而逹加剛嚥亦遥叫〆附亜四勒剛燗使赴肌︒諭臣亦至盟謹︒共議共亦︒厭糊迩胃

岡赴盟所︒喝械公瀧︒以仰刑聖懐ぐ﹂あって︑胡土克刷の称阻に臨んだのは浦朝の命によって川席したこ

さがわかる︒然し又その柊に上命移丈尚害阿Ⅷ尼︒哨剛亜西勒岡等知之︑こあるのをみるざ︑哲卜尊丹巴

の出席は獅盟が近づいて突差に決定したこ︑こが明瞭である︒これはM上廿五年乙酉の條に︑逹蚊剛嚇さ

約定の日も近ついにから阿剛尼等を前往せしめ︑又喀胴喀各地に使を遜り森盟妙開催を報ぜしめてゐる︒

P

(19)

この報をもにらした虎土謝岡汗部の態度により含盟困難ごみにから︑念に哲卜尊丹巴をその主催将の一

人に加へたのか︒乃至はこの報に接して土謝岡汗部ばうろにへ胡土胡州の方から清朝に交渉して︑かう

した形式にて出席するこさ︾﹂なったのか︒悶川月の命蝿が十凡まで延びてゐるのばかうしに原因によつ

にのではないかき考へられる︒何れにしても彼は土謝岡汗の代理ざして川啼したのではない︒同上竹五

年十月戊午の條に︑理群院間普阿剛尼が.稗照の次節結果を報告して︑厄等遂令剛汗及濟挫台吉等︒於本

月二十三日稔選所脇才能塞桑六十餘人︒倶至喀附喀哨剛血両勒川澤卜坤丹巴胡土克岡前︒設立飛奔︒耐

翼互相侵占之台吉人民︒令各歸本主︒一切唯結事件︒帆森定完締さある︒こLに剛汗さあるのを兄るご

果して土謝剛汗自身が川馬したのであるか︑二十五年川川︑叩臣汗の虎にも造使されてゐるのを見る

ざ︑その出席が老へられ︑|﹂れば札朧克剛汗ご車臣汗を意味するのか︑乃至はこの命州に臨席してゐる

土謝剛汗の長子端爾旦多爾濟か︑弟の測節什里の何れか汗を代表したのか︑これ等の鮎は明瞭ではない

が︑直にかく彼は土謝川汗の代理ざして唾なく︑全喀附喀問題を解決する胡土克川書こして臨席し仁もの

である︒だからと云って直ちに逹粒剛嚥の使蒋さ同等の肺につく理山にはならないが︑それを要求した

根蝶も亦老へられるわけである︒

蝋爾丹は然し土謝州汗哲卜坤丹巴胡土克剛を攻盤したのは︑服に冊五年禽照の聯に於ける無慨のみで

はなかった︒彼が土謝剛汗兄弟を逹帆剛嚥の教に述ひ︑進航剛城の敵であるき︑こ肌を雌後の蚊後まで

口にしたのをみる¥こ︑もつ︑己深い理曲がなければならない︒これがた﹃こひその佼略行爲を糊塗する口愛

噛爾丹便入侭叶の外栄喀附喀二川三

11

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螂鯛丹住入岱峠の外装喀禰喀二Ⅶ川

に過ぎなかつ仁にしても︑口蛮さなり得る根蝶があったここをおもふ︒こ上に於いて哲卜愈丹巴の地位

そのものを槻察して老へてみねばならない︒蒙古研究特に剛峨教研究の第一人蒋ボズドニェフの名蕃蒙

古及ぴ蒙古人愈獅鋤錘唾には︑塒に哲布尊丹巴胡土克川の呼弼剛竿に開する一章があつで︑現地にて採

集せる安料傅読の研究が戦ってゐる︒これが禰卜愈丹巴に開する蚊もまさまった研究のやうに恩ふが︑

こ比に紙面の都合上﹂た引用は出来ない︒このボズド|王フの記述によって知られるのは︑蝋剛丹軍の

妓初に使入した厄魯徳尼招の寺院は述帆剛嚇派に對立した樺迦派の処て龍ものであっにこE︑派佛の地

位も叉逹狐剛嚇によ2L認定され仁ものであるさい2Lも︑彼がその勢力を外蒙に張る一手段さして推

したもので︑地位そのものは逹狐卿嚇の宗派に風するものではなかつに︒即ち彼は逹職Ⅷ暁から黄教派

の奥義を授けられた弟子ではあるが︑その哲卜奪丹巴は樺迦派のグラナクの呼弼爾汗であって︑逹戦剛

嚇さ元来仇敵開係であった宗派に脇してゐるこざである︒これ等の鮎からその後蛎剛丹が両方に荊擴し

て︑西城琶略爾喀の關係が疎通をなるに至って︑自然凹赦に依存しなくなつにこさが老へられる︒

同書同章には叉︑一六五一年活佛が喀剛略に蹄るさ︑逹頼剛蜥の崇拝科ごなり︑ゲルー笏奈ハ派の尊信

希さなったから︑從來解鯛喀に行はれに稗迦派流の儀式宗規等を根絶するに力を識したであらうご忠は

れるが︑全くこれに開する誰差のないのは怪しむべきである︒想ふに活佛ご同行したゲルーグ零︿派の剛

嚇輩︵六百人ごいふ︶は喀爾喀に教義の發逹したる程度の微糞にるをみて︑喀爾喀人Eは毫も季ふこさ

なく︑人民が知らず識らずの間に之を自派に化するこEが川來るさ宏破したものらしい︒是を以て西赦

(21)

の剛嚇逵が苦心したのは︑唯活佛をして繰迦派の古寺に住まはせないこぐ﹂であった︒かくて新寺院の建

立に着手したが︑その一つが今日の庫倫であったこさが述べられてゐる︒これ等の記事に依って先に阿

巴岱汗の持ち師つた剛嚇教は稗迦派に厩し仁ものであるこさがわかるし︑その後川蒙官等黄教流布に誰

力したこいっても︑尚ほ依然として黄教以外の栄派の勢力が支配したこEは同書に又かの樺迦派のグラ

︑ブタが西職から迎へられて蚊後に蒙古で死んでゐる軸等から老へられる︒にご蒙古人の教錐が發逹して

ゐなかつ仁爲︑これらの教派は史上に残るやうな大問題を惹起するに至らなかったものであらう︒哨爾

丹が哲卜尊丹巴は逹帆刷孵の敵なりご総して喀爾喀に侵入し︑先づ厄郷徳尼招を襲ひて柑時喀爾略に於

ける蚊大の寺院を焼き桃ひ︑更にホワースによ心ご哲卜奪丹巴の建立にか上る二寺院を破壊したさある

のは︑逹頼剛峨の教敵たる樺迦派の寺院ざしてかくの如き乱暴な破壊を敢てしにのではなからうか︒哨

爾丹の喀爾喀侵入以前哲卜愈丹巴は︑ホワースの前掲普皇朝藩部要略等によれば厄魯徳尼招にゐだやう

である︒喀爾鱒に帥つ化岱座は新寺院にゐ仁にしても︑その後又こkにも住つたこざが知られる︒柑時

その教義もざこまで︑黄教派を巡奉したか疑はしい︒厄郷徳尼招の寺院は元來樺迦派に屈し︑歴史ある

寺院であるから︑活佛自身の宗派も矢張りそれに近いものではなかったか︒

氾魯特蒙古琶喀爾喀蒙古は政治上から對立し︑禰卜尊丹巴は喀爾略蒙古に一大勢力を布くに及んで︑

その態度は自然不遜ごなり︑ひいては逵帆Ⅷ嘘の言を奉ぜず︑遂に逹軌卿嚥の代表芯こ脂を手ふに至っ

た︒それは完全に教義上から對立しにものでは勿論ないにしても︑そうした活佛の態度に對して厄科塒

噛獅丹使入常昨の外蕊唯伽喀一両五

可8︲lllllll41J■0

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1

璃爾丹催入糊時の外難喀爾喀二川六

蒙古は殊史教義宗派の鮎から問題︑こなし︑西北地方一帯にわたるⅧ脈の心をさらへたものではなかった

かご老へる︒逹帆Ⅷ城の叫附丹に使はした濟降胡土克州が全く噛爾丹の影武粁さなり︑鳥剛布迦の役に

は鴫鯛丹の鯛に諦經し︑且つその戦Ⅱを押ぴ︑哨爾丹の敗れるに及んでは叉講和を以て詞さなし︑その

交渉中に哨爾丹を逃亡せしめに如き︑叉凪堂清朝から哨爾丹に使はされた伊拉克三胡土克洲が︑途に蝋

剛丹に投じた如き︑その他大小剛嚇の哨附丹に心を寄せ︑これに投じに例は枚畢に進がないのである︒

これは逹帆Ⅷ卿の言を非した節巳の紫謀であり︑その指令による寺﹂も老へられる︒股熈帝の如き︑哨附

丹自身輔巴の言に左右されたやうに観てゐるが︑これには又その一面に於いて糊時報卜愈丹巴胡土克州

の政教耐方面に占めた地仇さ勢力を考雌に入れなければ︑到底理解し得ぬこ︽こではないかさ凪ふ︒

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