ア シ
ョ ーカ
と
仏 教
K
。R
.Norman
武
田龍
訳
1
. アシ
ョ ーカ
Agoka
につ い て[
現 代
の]
一般 的 見
方
先 頃,
私
は高 名
な仏 教 学 者 ω の 仏 教 に関 する著 作を読ん でい て, 次の よ う な文章
に 出会っ た。「
特 定
の 国や地 域 に おい てサ … サ ナ(
sasana)
つ ま り仏教 を確立 する という観 念
は, お そ ら くア シ ョ ー カ自
身の創 案に よ る もの であろ う。彼
は,仏教
を国 家 の 宗 教 と し て受 容 し た 最初 の 王 で あり
, “法
に よ る征 服”dharma
− vijaya と呼 ばれる偉大
な る精神
的征 服事
業 に着手
した初め て の 王で あっ た。 征 服 者や支配者
が , 政権 を倒 して 国 々 を奪
い 取 ると, そ こに統治権
を確 立 し ようとす る よう
に, ア シ ョ ーカ は ,彼
が精神
的に征 服 した国
々 にサ ーサナ を確
立 しよ う と考
えたも
の と思わ れ る。」他の 書 物で も
似
た よう な意 見 を目にする。 厂ア シ ョ ー カ は ,仏教徒
で ある 帝 王 として は最初の人物で あ り」, 「 アシ ョ ーカは仏 教の普 及
に身
を挺
し,塔
廟
の 建立 を通 し て, 聖 地巡礼
や 仏舎
利 崇 拝 とい う宗 教 行為
を熱心 に奨 励 し た。」 「 ア シ ョ ーカ は , 古代 イ ン ドにお い て, 政 治 的 精神
的に最高
最 大の存
在で あっ た。」 (3)こ の ようなア シ ョ …カの
描
き方は ,初 期 仏 教 を語る場 合の通例 ともい える もの で ある。 私は, こ れ まで の研 究 歴 の か な りの部
分をア シ ョ ー カの碑
文の 研 究に費や して きた。 そ して ,彼
の法勅
か ら明らか にな るその 人物 像が, 従 来の 彼に関す
る著作
で描
か れ た もの とは あ まり一一致 しない こ とに気
づ い た 。 本日は, 弘 教史
にお ける ア シ ョ ー カの役 割
を考
察 し , 仏 教文献
の伝
える アシ2
ノ{・・一 リ /i
:イ!・孝攵文{ 」裳_ ヨー カ像と,彼
自身
の 碑 文 が伝
える入物像
と を比較検討
して み た い と思 う。2
. パー り編 年
史
の伝 え
る 人物 像
ア シ g ・一力 につ い て知る に は , パ … リ編
年史
と りわけ「マ ハ ーヴ ァ ンサ』
Mahavamsa
か ら得ら れ る知識が基 礎 となる,, その 叙述 は, 同じ内容
の 物語 を層 詳
細に伝 えるサ ン ス ク リ ッ ト文献
や漢
訳資料
よ り優 先 される.『マ ハ ー ヴァ ン サ 』 の
伝
える とこ ろ では, ア シ ョ ーカ は , 父の ビン ドゥ サ ー ラBindusara
の 死後,百人の 兄弟
の う ちテ ィ ッサTissa
を除 く99
人を殺 し て, 閻浮提 (
Jambudvipa
, イン ド世 界)
の唯
一一の 支 配者 とな っ た〔4)。 沙 弥のニ グ ロ ー ダNigredha
か ら説
教 を聞い た こ とで , 三帰
五戒
を受
けて仏教
の在俗
信 者た る優婆
塞(
upasaka )となっ た彼は15〕,外 道 に は 目 も くれぬ仏 教 の確
固た る援助者
と なっ た, と言 う。 ア シ ョ ー カは ,父が行っ てい た6
万 入の バ ラモ ンへ の毎
日の施 食 を取
り止め, 代 わ りに6
万入の 比 丘 へ の施食
を行
い ,8
万4
千の 町 に8
万4
千の 精 舎 を建 立 して教 団に寄 進 した(6〕 。 その うち最も 有 名な もの は, 自らパ ー タ リプ トラ(
pa
奮aliputra)
に創 建 したアソ ー カ ーラ ・一マ(
Asokarama
, ア シ ョ ・一 力僧院)で あ る。 また, 仏 陀が 訪れ た場 所 に は ス トゥ ーパ (st[lpa ) を築
造 したω 。 教 法の 相 続 者 た ら ん とする思想に よ り, 即位 第6
年に ,彼
は息
子のマ ヒ ン ダMahinda
と娘の サン ガ ミッ タ ーSamghamitta
の 出家 を認め だ y) 。 マ ヒ ン ダ は後
に伝 道師
と して ス リラ ン カへ 派遣 され た,,教
団 分裂 に際 し て は, ア シ ョ ーカ自
らが 比 丘 た ちの 法の 解 釈に 耳を傾け, い ずれ が 止統で あり, い ずれ が 異端
であるか を決判す
るこ とがで き た , と述べ , 分 裂が収 まる と ,彼の後援の下 に第3
結
集が行わ れた, と言 う[1ω 、,『マ ハ ー ヴ ァ ンサ』(11}は, 王位 就 任 後の ア シ ョ ー カは ,
暫
く は その 悪行
の ゆ えに 「暴 悪 なる ア ソ … カ」 (Ca
廻 asoka
) と し て 世 に知 られ たが, 後に は その善
行の ゆ えに 「法 アソ ー カ」(
Dhammasoka
)
と呼ばれ た , と伝え る。 無論, こ の 呼 称の 変 更は ,仏 教に帰依
す る前
と後
で の ア シ ョ ーカの 人柄の 違 い を強 調 し ようとする もの で ある。ア シ ョーtカ と仏 教
3
3
.碑
文
の伝
え るア シ ョ ー カ の 人物像
…方,ア シ ョ …カの 碑 文か ら分か る その 人物 像は か な り違っ た もの で ある。た とえば, 編 年 史の
伝
える彼
の 仏 教帰依
と彼
自身
の声
明 との間
に は,幾
つ かの 矛盾点
が ある。 ア シ ョ ーカが仏 教 に関わ り始め た初めの頃の こ と は ,小磨
崖法勅 第
1
章
に記さ れてい る。 パ ー リ文献
では, 即位後
6
年
以 内に, すで に ア シ ョ ーカ は仏教
に帰依
したこ とに なっ てお り,8
万4
千の 精舎
を建立 し,息
子と娘
の 出家を許 したこ とになっ て い る。 とこ ろが , ア シ ョ ーカ 自身の 言 葉 を も とに計算
する と, 彼の仏 教 へ の帰依 は , カリン ガ戦 争 後 間 もな くの こ と とな り,磨 崖法
勅 第13
章 [XIII
(
A
)]には, その 戦 争 を即 位 第8
年の 出 来 事 と記 し てい る。 彼の 改 宗は,お そ ら く良心の 呵責 に よ るもの で , 兄 弟 殺 し の罪の意識か らの もの で は なか ろ う。 磨 崖 法 勅 第5
章 [
V
(
M
)
]
で兄弟姉妹
に言
及 するの で, 兄弟殺
しの話
は虚構
の よう
であ る。 カ リン ガ戦争
にお ける15
万人の 人々 の 移送,10
万 人の 戦 死者, 更に夥
しい 人々 の死 につ い ての良
心 の 呵責
に よ る もの と推
測さ れ る。 編年史
は, こ の虐殺
につ い て は何も語ら な い 。彼
が法勅
を宣布
した時点
で ,在
家 信者
と なっ てか ら既に2
年
半が経っ て お り, こ れに は あ ま り熱
心で は な かっ た1
年
を含
んで い る。 私は こ れ を, 彼 は仏教
へ の帰依
の後
も暫
くはそれ ほ ど積極
的な仏 教 徒で はなか っ た こ と を伝 える もの と理解 す る。 彼が熱心 になっ たの は それ か ら1
年 余 後 の こ とで , 「サ ン ガ に 接近 して」(
お そ ら く心 の痛 手を癒 しに出か けた もの で あろ う)
以来
,好結
果 が得
られ,彼
は 「私は良
く進
歩 した 」 と言 う。 彼 が 小 磨 崖 法 勅 第1
章 を公 布 した の は, 即 位 後わずか に11
年 目の こ とであっ た。 即位 第/2年
に磨
崖 法 勅 第3
章
を公 布 してい る の で,H
付の ない磨
崖法勅第
/章
と第
2
章
は, 同じく即位 第
12
年
か前年
の 即位第
11
年
に公布
され た こ と になる。 しか しなが ら,小 磨 崖 法 勅 第1
章で は , ア シ ョー カ が赴い た の は仏 教の サ ン ガ であっ た と明 記 して い る わけで は ない 。 マ ス キ(
Maski
)の 法 勅の 文 中 に,彼
は自
分をBudha
≦ake と記 してい る。 そt
’ しを フ ル チ ュ (Hultzsch
)は 「(
朕 は)仏 陀の 末 裔た る釈
迦 族の1
人 な り」(
aBuddha −Sakya
) と読む が , こ れ
4
パー・リ学仏教 文化 学 は, 当地の 書 記 官が既 に刻み込ん だ up 譱 ake の 語 を補 正 する ため にBudh
(
a) の 語 を挿
入 した もの の ようで あ る。BudhaSake
あ るい は その 相 当語 は, 小 磨 崖 法勅 第1
章の 中の 他の どの 条 文に も見い 出せ ない もの で ある こ と は注目 に値 する。 他の い ずれ の 条 文に もupasaka の 語が用い られて い るc,こ れ は
多
分その書記官
が, ア シ ョ ー カ が ウパ ー サ カ と して帰 依 した宗 派を 明示す る もの が何
もない こ とに気
づ き,法勅
を読む者には誰に で も事
情
が は っ きり と理解
で きるように と考
えて, ち ょ うど刻み込ん だ ばか りの upagaka の 語の前にBuddha
の 語を挿人 し よ うと した もの で あろ う。 ほ ん の 少 し書 き加え る だ けの こ とで あっ た。そ れ にもか か わ らず, ア シ ョ ー カが その 頃 すで に仏 教
徒
にな っ てい た こと は, 即位 第10
年の 出来 事 と して 磨 崖 法 勅 第8 章 [
V
耳II
(C
)
] に記す菩 提樹 詣 で の 記事か ら確 実で ある。 これは彼
の 仏教帰依
に と もなっ て起 こ っ た最初の 出 来事
に違い な く,彼
の宗
教生活
の質
を向
}二させ た サ ン ガ訪 問と同 じ時 期の 出 来事
で あろ う。実際
, ア シ ョ ーカ に とっ ての サ ン ガ と は仏 教の サ ン ガで あ っ た こ とは確
か で ある。 石 柱 法 勅 第7
章 [7
]で, 彼 は 自分の 事 業 を総 括 して , サ ン ガ ・バ ラモ ン e アー ジ ー ヴィ カ教 徒 ・ジ ャ イ ナ教徒
や その他
の宗派
を管掌
す る た め に, 道徳の 大官 (mahamatra)
なる官
職 を設置
した, と述べ る。文脈
か ら見 て , 名 前が明 記 され た宗 派 を除外す れ ば, その サ ン ガ と は仏 教の サ ン ガ に ほ か な ら ない ,:、ア シ ョ … カが在 家仏 教徒であっ たこ とは疑い ようが ない が,
外
道に は 心 を 閉 ざし偏 に仏 教に帰 依 した と信 ずべ き理 曲は何
も ない 。 石柱 法 勅 第6
章[
6
]
に は, 彼が あらゆる宗派
を種
々 の栄誉礼
を もっ て崇敬
した と述べ , 就 中, 最 高の もの は 自 らの 訪 問で ある と考
えてい た と伝
える。以 下で考察
する よ うに , 彼の 言 うダ ン マ (dhamma
) とは, 崇 高な精神
的な もの とい うよ りも倫理道 徳的 な もの で あっ た た め , 在 家 仏 教 徒で ある彼
が, 同時
に在家
の ジ ャ イ ナ教 徒で もあ りえ たの である。ア ショーカ と仏 教
5
4
. アシ
M −eカ
のダ
ンマ
ア シ ョ ー カが 自
分
の創
唱 する ダンマ を宣伝
し た方 法につ い ては ,法 勅か ら大
要を知 るこ とが で きる。 彼は , 他の事
柄に交えて ,dhammathambha
(
ダ ンマ の 柱)
,dhammalipi
(
ダン マ の謄 本
)
,dhammama
血gala
(
ダ ン マ 0)祈 願)
,dhammadana
(
ダ ン マ の施 与)
,dhammanuggaha
(
ダ ン マ の 摂受)
,dhammayatra
(ダ ン マ の 巡 行 ),dhammasavana
(ダ ン マ の聴
聞)
,dhammamahamatra
(
ダン マ の大
官) ,dhammavijaya
(
ダ ンマ の 勝 利)
につ レギて言
己『ケ 。問 題は, ア シ ョ ー カの ダン マ が仏 教の ダ ンマ と同じもの か どうか である。 彼は, 通 常の
行為
や規 定につ い て 語る場合
と, ダン マ の行為
や規 定につ い て 語る場 合 とで は,明確
に区 別 を して い る。 thambha と は柱の こ と だ が , ア シ ョ ーカの ダンマ が刻み込 まれ る と, そ れ は 「ダ ンマ の柱
」 となる。 ア シ ョ ー カ 以前
に も mahamatra(
大 官)
は あ っ た が ,彼
が創
設 し たdhammamahamatra
と は自
分の ダ ン マ を宣伝
するた めの官
職で あっ た 。 彼 以 前の王 たちは娯 楽の 巡行
を行っ た が,彼
はdhammayatra
(
ダンマ の 巡 行)
を創始
し巡 行 中に 自分
のダ ン マ を実践 した。 人々 は病 気 平 癒,結
婚,子 供の 誕 生 , 旅の安
全な ど を祈 願 して 種 々 の 祈 願 儀 式(
mahgala)
を行 っ たが,dhammamafigala
(
ダ ン マ の祈
願)
とは,奴
隷や使 用 人 を適切 に扱 うこ とで あ り, 師 を敬 う
こ とであ り,生 き物を害
さぬ よ うに 自制す る こ とで あ り , 沙 門 ・バ ラモ ン を厚
遇す る こ となどで ある 。(
磨 崖 法 勅 第9 章
[IX
(G
)
]
, 近似 の 文 言が磨
崖 法勅第
11
章 〔
XI
])
ア シ ョ ー カ の ダ ンマ は,
碑 文
の 中に明瞭 に示 さ れて い る。 小 磨 崖法勅第
2
章には一 両親
に従 順で あれ,年
長者
に従 順で あれ, 生類を慈 しめ,真実
を 語れ 」 と記してお り, こ れ は, 西暦前
3
阯紀 版の 「原点
回帰」 とも言 うべ き占来の 慣 習 (
por
釦a
pakati
)
の 遵奉 とい える。 他に も磨
崖 法 勅 第3
章[
Ili]
に は , これ を少し増 広 した文 言で語る。
「
母父に従 順なるこ とは善い こ と だ。
6
パ ーリ学仏 教文化 学一 と だ。 殺生 を慎む こ と は善
い こ とだ。 金遣い に節 度を保 ち,財 産に節 度
を保
つ の は善い こ とだ。」石
柱 法勅 と称
される石柱
に刻さ れた7
章の 法勅
は, ア シ ョ ーカ の ダ ンマ の説
明に充て られてい る。彼
自身
が ダ ンマ を もっ て達 成 した事業
の 記事
を付
し て,道路
には並木
を植 えて木蔭
をつ く り,井
戸 を掘
っ て人 間と動 物の た めの 水 飲み 場 をつ くっ た こ と を伝
える。 石柱法勅 第
1
章
は, ダン マ に よる統
治に つ い て語る。 石柱 法勅 第2
章は, ダン マ の 内容
を少 漏 e 衆 善 ・慈 愍 ・布 施 ・真実語
・清浄
と定義す
る。 ア シ ョ ー カ は殺
生 を し ない こ とで大
い に善
行 を行 っ た。 石柱法勅 第
3
章
は,善
悪 につ い て語 り,暴虐
・冷酷
・怒り
・傲慢
・嫉
妬を悪とする。 石柱法勅第 4 章
は , 裁 判の 平 等 と囚人の更生の必 要を強 調 す る。 石柱法勅 第
5
章
は,多
くの動
物の 名前 を列 挙 してその 殺害
を禁
ずる。 石 柱 法 勅 第6
章は, 目指
すは 世 の 人 々 に安楽
を もた らす ことで,あ
らゆ る宗派
が尊
重され , 特に ア シ ョ ー カ自
らの訪
問 に よ っ て 崇 敬 さ れ る。 石柱法勅 第
7
章
は, ア シ ョ ーカの 全 業 績を総括
してい る よう
である 。 過 去の 王た ちがダン マ の 増 進 を如何 に求め た か を指 摘 し, ア シ ョ ーカは, 宣 説 と教 示に よっ てそ れ を実現す
る こ と を決意
し, その決
意を実行 す
る た め に ダ ンマ の 柱 (dham
− mathambha)
を建
立 し, ダ ンマ の 大官 (
dhammamahamatra
)
を設置
した と 伝 える。 ダ ンマ の 大官
は, 全 宗 派 を管 掌した。 ダ ンマ を定 義
づ ければ, 「両 親 には従
順 な れ,師
には従
順 なれ, 年長 者 を敬い , バ ラモ ンや沙門 は 」重 に もて な し,貧
者 ・奴婢 ・使 用 人 を粗 略に扱
わ ない 」 という
こ とで ある。 ダン マ の 増進
が実
現 し たの は , 動 物の 殺 害 禁 臣の ように ア シ ョ ・一力が法
規 制 を行 っ た結 果である が, そ れは 人 間の 心 懸 けつ ま り道 徳心(
nijhati)
に よ る もの で もあっ た。 こ うすれ ば,後
世 の安
楽が得られ る の で ある。大 磨
崖法勅
は 随所で, ダ ン マ に従 い ダン マ を守るべ し, と説 く[
X
(
A
)]
。 ダン マ を実践 すれ ば,奴隷
を粗 略に扱わず, 両 親に は従順 に して… …バ ラモ ンや沙 門を 丁 重 にもて な し, 殺 生 をしない とい う果報
となっ て現れる。 ダン マ は無限の功 徳 を もた らすの である 匸XI
]。ア シ ョ ー カ は法 勅 をダ ン マ の 謄 本 (
dhammalipi
)
と称 して い るの で , そア ショ ーカと仏教
7
れを読め ば,法勅 各章
が内 包 するダ ンマ を正 しく知る ことがで きる。 彼の ダ ンマ は専
ら道徳
に訴
える もの である た め,dhammalipi
が応
々 に 「道 徳の 謄本
」 と訳さ れるの も頷ける こ とで ある。 ア シ ョ ーカ は ,彼の ダ ン マ を広 く世に奨励
し, そ れ を管 掌 する ダ ンマ の 大官
を設置 し, 法 勅を刻み込ん だ ダン マ の柱
を建立 した こ と に加 えて , ダ ンマ を伝
える た めの使
節 団(
data
)
をイン ド全域
の み な らず 西 洋の ギ リシ ア諸
王 の とこ ろ に まで 派遣 した 。 しか し, その道
徳 的理 念が仏 教の 道徳
面 の教え と全 く一致 する こ とを除
けば,格
別に仏 教 と 結 びつ くような文言
は ない 。 かえっ て不 殺 生(
ahimsa)
の主 張にお い て は , 彼の 考 えはジ ャ イ ナ教の方
に近 い と さ え言える。 実際, 石柱 法勅第
5
章[
5
]
で神
聖 な生 き物
と して列挙
さ れる動 物の リス トに は, ジャ イ ナ教 経 典の動
物 リス トとの 並行
関係が 認め ら れ る。バ イラー ト (
Bairat
)の 法 勅で は , ア シ ョ ー カは プ リ ヤ ダ シ(
Priyadasi)
の名前
で, サ ン ガに挨 拶を送っ て その安寧
を願い ,続 けて 仏 陀 と ダンマ とサ ン ガに対 する彼の 篤 信ぶ りを語る。 こ こ に現れる ダ ンマ が仏教の 三宝の1
つ である法 宝 を示 して い るこ と は明らかで ある。 しかし, この1
例
を除い て, ア シ ョ ー カの奨励す
るダ ンマ が仏 陀の 教 える ダン マ で は ない こ と は歴然
と し てい る。 つ ま りア シ ョ ーカの ダ ンマ は,仏 陀の ダン マ(
教 え) と同 一の もの では なか っ たの で ある (12)。 こ の ように考 察を進め てく
る と,私
が こ の 講 演 の冒頭
で引
用 した, ア シ ョ ー カ は精 神 的に征 服 した国
々 にサ ー サナ を樹立 し ようと した とい う見解は , ア シ ョー カの ダ ンマ の特 質
を誤 解 したこ とに よ る もの の よ うに思 う。5
. アシ
ョ ー カの勝利
と
使 節
団
前 掲の
引
用文は, ア シ ョ ー カの 行 っ た近隣
…諸
国征
服 とい う事業 を精神
的な 征服 で ある と述べ て い るが , それが ア シ ョ ー カ のdhamma
−vijaya に つ い て の 発 言で あ れば, こ れ も ま た誤 りの よ うに思 う。 実 情は, ア シ ョ ーカは武力 を用い て 帝 国の 版 図 を拡大
したの であ り, それが成 功裡
に終
了 してか ら, 道 徳に よ る勝 利 という信条
を創案
し, それ を後継 者 に託 した とい うもの で あ っ
8
パ ーリ学 仏 教 文 化学 た, と私 は理解 して い る。ア シ ョ ー カが,
統
治理念の 指 針 と し た もの は, 不 殺 生(
ahirpsa)
で あ り, それ はカ リ ン ガ での殺戮
を悔
い る気持
ち か ら生じた もの で あろう
。磨
崖法勅
は, 供 犠や 食用の動 物 殺 し を含
む, 日常生活
における殺生 の禁
止 を内容 とす る法 勅 を劈頭 に配して第1
章と してい る。 磨 崖 法 勅 第13
章 [XIII
]では ,死 者と苦 痛 に満ち満ち たカ リン ガ戦争 に お い て勝利
を収め た後で , 彼が 如 何に道 徳(
dhamma
)
を渇 望 した か を語る(
C
)
。 彼の ダン マ に従 う
人 々 が, バ ラモ ンや沙
門 を含
め て(
J
)
, そ れ で もな お苦
し む とい う現実
が彼
を苦
しめ た(
G
)
。今
や彼
の 希求
する もの は, ダ ン マ によ る勝 利で あ り, その内容
は生類
へ の慈
愍,自
制,平静
と寛容
という
もの で あ っ た(
0
)。 こ れ を広 く宣伝
するた め に使節
団が各
地へ派
遣 さ れ , 西洋
の ギ リ シ ア の王国に まで遣 わ さ れ た(
0
)
。 道徳 (
ダ ンマ)
に よ る征
服 という彼
の 考え は, 将 来後
継 者た ちが武 力 に よる勝利 とい う方 法を採
らない こ と を願 っ て 公 布 さ れ てい る (X
)。 武 力 行 使 は, 大 量 殺 戮を引 き起 こ して , カ リ ン ガ戦 争の惨 状 を再 現 する こ とにな りか ね ない か らである。 後 継 者たちの求め るべ き勝 利 とは , 忍 耐(
khanti
)
と軽い 刑 罰(
正ahudaqtata)
に基づ い て実現
さ れ る もの と言 う(
X )
。 森 林 に住む者た ち にア シ ョ … カが望ん だ こ と は ,(
彼
の よう
に)彼
らも(
過去
に行
っ た殺
生 を ?)懺悔
し,(
今後
は)殺
生 を し ない こ とであっ た,,こ うい うこ と で あ る か ら, ギ リシ アの 諸王 に遣わ され た
使節
団が 仏教の 宣布
を任 務 と した もの で は な かっ た こ と は確 実で ある。彼 らが派 遣 され たの は, 周 辺諸
国の お そ らくは専制君
主で あっ た支
配者
た ちにも
, ア シ ョ ー カ と同様
に, 戦争
に よっ て他 国を征 服 したい という
野 望 を あ き らめ させ ,ア シ ョ ーカ の ダン マ の綱領
に基づ い た平和
で静穏
な統 治
の実
現に こ そ努
め るべ きで ある と説 得 する た め で あっ た ことは間 違い ない 。 こ うし た状 況で は, ア シ ョ ーカ が ギ リシ ァ人 に仏 教 を伝え る た め に使 節 団を派 遣 した, とい う見 解は誤 りで ある と思う
。 西暦
前250 年
頃, 仏 教 の伝
道師
が ギ リシ ア 匿界に赴い た こ と を 示 すギ リシ ア側の 確か な証 拠は, 今の とこ ろ何 もない の で ある。ア ショーカ と仏 教
9
6
. アシ
覊 一 力 の仏
教
ア シ ョ ー カの ダ ンマ につ い て
検討
を重 ねて きたが, 彼が仏 教 を国教に した と考 え
るの は大変 な見 当違い で ある こ とが次第
に はっ き りして きた 。 ア シ ョ ー カ は法 勅の 中で は仏 教 につ い て ほ とん ど何
も語 っ て い ない の である。 法勅
で は , 輪 廻(
samsara ),解
脱 (mokkha)
, 涅槃
(nibbana ), 無 我(
anatta)
, 四諦八 正道 とい うよ うな仏教 の基本 的項
目は何
ひ とつ と して言
及されない 。 別 刻 法 勅の1
つ で は , ア シ ョ ーカの め ざす も の は皆の安 楽
で ある と述べ る[
Sep
E
]。 領 民た ち が現 世 に安 楽 を得
て 来 世で天界
へ 達する こ と が白分
の 目 的で ある, とは多
くの 碑 文が伝 える とこ ろ で ある。自分
が人 間 を神々 と親和 させ た, と誇ら しげ
に語る文
言は, こ れ まで さ ま ざまに解
釈 さ れ て きた 。 私 は,彼
が人 問 を天 に送 る こ と に成功
した とい う意味
に理解 する 。 天 に行 っ た 者た ちは,当然
そこ で神
々 と して生れ 変 わる こ とにな り , すな わち神々 の仲 間入 りをする こ とに なる。 こ れ は, 私た ち が何気
な く仏 教 と関連づ けて考
え て い る輪廻転生説 とは 異なる ように思 う 。全 体 と し℃ 法 勅には仏 教につ い て の 説 明が少ない こ と はこ れ まで に も言 われ て きた こ とで ある。 こ れ を無 知の所 為 とすれば, ア シ ョ ー カ は
名
ば か り の ウパ ーサ カにす ぎず , 仏 教の 教 義につ い て は ほ とん ど何 も知ら な か っ たこ とになる。 こ れ とは反対
に, そ うで は な くて ,多
分仏 教を 理解 して い たの だ が,詳
細に言 及 すれば1
つ の 宗 派に肩入 れ をするこ とにな り , その た め に彼 が随 所で示そ うと した公 平 とい う理念
を損
なう
ことに なる, とア ショ ー カ は 考え たの か もしれない 。 あるい は , 法 勅 公布
とい う 目的に は 内容
が不 適 当と アシ ョ ーカが考
えた か らか もしれ ない 。 つ まり法勅
は, 彼 自身
の創案
した ダ ン マ を広 く世 間に知
らせ る ため に公布 されたの で あ り, それに よ り, 彼の 帝 国は平和
とな り, 全て の領民
が 互 い に和 合 して生 きて い くこ との 実現 を ,彼
は 目 ざしたか らで あるvこ れ まで に私が 出会っ た奇 説 とも言 うべ きもの の
1
つ に , ア シ ョ ー カ が 法 勅で伝
えてい る もの は当時の 仏 教事 情
で あっ た, とい う もの が ある 。 フ ル チ10
ぴ一」
2
.学 イ嗷 文 化i
−lt4
.. ユ(
Hultzsch
)
は言 う。 「ア シ ョ ー カ の ダル マ とは , ダン マ パ ダの伝
える仏 教の徳 目の 描 写 と完 全 に一致 する。 こ こ に我々 は仏 教 の 揺 籃 期 を見 る。」03. ) そ して論を進
め, 「 アシ ョ ー カの碑 文は,重 要な..一点
で ダンマ パ ダ とは異 な り, 仏 教 神 学か , む しろ仏教 形 而上学というも
の の初期
の発達段 階
を反 映 してい る。 つ ま り, 浬槃 (
Nirvapa
)
の 教 義につ い ては何 も知らず, ダン マ を実 践 すればその 果報
は現世で の安楽
とな り, また来 世 へ の功 徳
ともなる という
一 般 的なヒ ン ドゥ ーの信 仰 を胚 胎
する段
階で ある。」 {14)こ の発 言
は ,仏教 神学
の特質
につ い て興 味 ある疑 問を提
起 する もの である。 涅 槃の教 義は ,仏 教 神 学の 発 達 段 階におい て は後 期の もの になる の で あろ うか ?こ れは とて も信 じ られ ない こ とだ。 ア シ ョ ーカ が 涅
槃
につ い て語ら ない こ との フ ル チ ュ の 推 論は誤 りであ
る, と断定
したい 。明らか に。
事情
は, リチャ ー ド ・ゴ ン ブ リッ チ(
Richard
Gombrich
)
c15)が ス リラ ン カ で 目撃 して報
告 した もの と酷 似 し て い る ようで あ る。 「多
くの シ ンハ ラ人の村 入た ちは,涅槃
を望 ん で お らず, … …彼
らの 望み は天界に 生 れ る こ とである と言 う。」彼
ら は, 少な くとも涅槃
が何
であ
るか を知
っ てい る。一
方
, ア シ ョ ーカ は涅槃
につ い て聞
い て 知っ てい る こ との ・片 す ら も示 さ な い 。村
人 た ちの 言 葉 は 奇 妙 に 思 える が,実
際 に は 中 部 経 典(
22
)
のAlagaddapamasutta
(ユ6) の末 尾の記事
と全 く.一一致す る 。 そ こ で は仏 陀は, ダ ン マ に則
り,信
を もっ て行 動 する比丘 は正覚
(sambodhi ) を得 るが ,仏 陀 を信 じ敬愛 す
るだけ
の 人は天界 に赴 く, と説
く。村
人た ちは, 涅槃
にっ い て 知っ てい る の だ が, 仏陀へ の 敬 愛の た め に天界 へ 赴 くほう
を望むの で あ る。 ア シ ョ ーカ は,仏 陀
へ の敬愛
につ い ては何も述べ ない 。 天界 と は, 彼 にとっ て は自
分が ダ ンマ で 指 定 した行 為 を行 う
こ と に よ っ て 到 達で きる とこ ろ なの で ある。 その発 言は,善
根 を積む とい う趣旨
で な さ れて い る わ けで は ない 。 ア シ ョ ーカは こ れが 至高
の善 (
summumbonum
)
で ある と明言 し, 「天界に 赴 くこ と以 ヒに大切 なこ とがあろうか」 と,磨崖法勅第
9
章 [
IX (
L )]
で問 い 掛けて くる。ア シ ョ ーカ と仏 教
11
ア。 バイ ラ
ー トの法勅
バ イラー ト
Bairar
に建て られ た法勅
は, ア シ ョ ーカ の 仏 教 との結 びつ き を最 も強く示す
もの で ある。 こ の法勅
の 中で, 彼が実 際に仏 陀の 教 えに言
及 する箇
所 は ,サ ン ガ に向
け た発 言で ある こ とに注
目したい 。 そ こ で彼
は, 仏 陀の教
え は善 く説か れてい る と述べ ,7
種の経
典の 名を挙げてサ ン ガ に推奨 する が, 仏 陀の 教 えを 正法 (
saddhamma )と表
現 するの は , 仏陀
の ダ ン マ と彼 自
身の ダンマ とを意図 して区 別 した もの で あろ う 。 わ れ わ れ は, ア シ ョ ー カ の こ とを仏 教 に帰 依
した者 に向
かっ て教え を説 く人 だ と思 い が ちで あ る。 彼の 推 奨が 般 民 衆に向けた もの であれ ば , そ れは磨崖
法 勅 に保存
され て い る筈である。 推奨 す る7
種の経典
のう
ちの 幾つ かは未だ に特
定で きず難 問となっ てい る が,註釈書
(
例 えば 『ス ッ タニ パ ー タ』 の 註 釈 書の よ うに)
は1
つ の経
典を異なる名前で呼
ぶ こ ともよ くあるの で, ア シ ョ ーカ の選定
し た経典
をすべ て確 実に認定
で きない とい うこ とは , それほ ど意外なこ とで は ない の であ
る。 ア シ ョ ーカが経 典 名を記 したか ら とい っ て , 果た して 当時 既 に現在
の よ うな聖典と して存在
し て い た と言えるの か という
問題 は , い さ さ か複
雑に なるの で こ こでは取 り上 げない 。8
。廟
所
,遺 跡 な ど
へ の訪
問
磨
巌 法 勅 第8 章 [
VIII
」で は, 過去
の 諸E
の慣 行で あ っ た娯 楽の 巡行
を廃 して ダ ンマ の 巡行
(
dhammayatra
)
を始め た と記 す。 ア シ ョ ー カ は,自
分 が 菩 提樹の とこ ろへ 出 かけ
た とは言う
が , 他の者
た ちに聖地 巡 礼に出 かけよ と は言わず,宗
教行
為 と して の巡礼
につ い て も何 も語 らない 。 菩提 樹 詣で の結 果, 彼 は, 「 ダン マ の 巡 行」 を領 内
を巡 回 して 自分の ダ ンマ を実施す
る好機
と考 える よう
になっ た。 ダ ンマ の 巡 行 とは, 「謁見
して沙 門や バ ラモ ンに は 布 施 を行い ,謁 見
して老
人に は金銭
を施 し, 謁 見 して領
民 に は ダ ンマ につ い て説 諭 し, ま た質
問に答 える こ と」 である と明言す る。ア シ ョ ー カの 聖 地
訪
問の につ い て の 叙述を読 む と,彼
が 聖地 訪問 を 重要視
12
パ ーリ 学 仏教一文化学 してい た とは考えに く くなる。 仏 教の四大 聖 地(
仏 陀 誕 生の地, 成 道の 地, 初転法輪
の 地, 人滅の 地)
のう
ち, ア シ ョ ー カが訪れ た こ とを示 す 直接
の証
拠が あ るの は2
カ所だ けで あ る。 『 ア シ ョ ー カ ・ア ヴ ァ ダー ナ』(
Asoka
− vadana)
に は, 四大聖 地 は 勿論の こ と, ア シ ョ ー カ は他の 場所へ も巡行
を行
っ た と記 すが, ア シ ョ ーカ自身
は ,即
位 第10
年
に菩提
樹 を訪 問しLVIII
(c)1
, その10
年 後つ ま り即
位 第20
年に仏 陀誕 生の 地ル ン ビニ ー(
Lumbini
)
を訪れ て石柱
を建
立 した と述べ る に と ど まる。 無 論 これ には議 論の余
地 が あろう
。 経 典の伝
える よ うに ア シ ョ ーカが他の 聖 地へ も出か け, そ こ に石柱を建 立 し た とい う可能性 も考え られるが, そ うで あれ ば, そ れ らの 石柱
は今
で は失わ れて しまっ たこと になる。 しか し, 年次の記述 の 食 い 違い は うま く説 明で き ない 。次に注 目するの は, 正覚
(
sambodhi)
へ の 訪 問とい う記事
である。 こ の 記事
を一部
の学者
は, 仏 教 に熟 達 した ア シ ョ ー カが実
際に覚 り(
bodhi
)を 得て い た こ と を伝
える もの と解釈
して きた。 とこ ろが, この 解 釈で は, ア シ ョ ー カ は瞑想や覚
りや涅 槃 とい うもの を現
実 に知っ てい たこ とに な る が,法
勅に は その 知 識 を伝 える痕
跡す
らない ,, ブロ ッ ク(
Jules
Bloch
)の よう
な 近代の学 者で さえ,こ の解 釈に拘
泥 された が ,後
に なっ て , 「正覚へ 出か ける 」 という言
い 方は , 「覚
りを得
て 仏 陀 と なる 」 こ との表
現 と して は言 語学 的に 不 適 当で ある と して , そ れ を 「かの菩
提 樹の 地 を訪
れ た(17) 」 こ と を伝
える もの と結 論づ けた。即 位
第
14
年
に ア シ ョ ーカが 過去 仏の コ ーナーカ マ ナ 仏(
Konakamana
)の ス トゥーパ (築 造 主は不 明)
を増 広 したこ と を伝
える碑文
が ある。 その碑文 は, ア シ ョ ー カ が行っ たの は二度
目の 増 広であっ た旨
に解釈
され て きた が, そう
で はな くて, 「以前
の2
倍の 規 模に増 広 した」 と理解 する方が妥 当な解 釈で あろ う。 ア シ ョ ー カが手 掛 けたス トゥーパ の 築 造や増 広 につ い て ,法
勅 は そ れ 以 一ヒを 語 らない が , 中国人求 法僧た ちの記録
には, 当 時, ア シ ョ ー カ によ る もの と され てい た多数
の ス トゥ ーパ の存在
が記 さ れて お り, その 中に は ,大 衆 部(
Mahasafighika
)
が結集
を開い た場 所に建
立さ れた もの も含 まア ショ ーカ と仏 教 13 れてい る(18) 、,
北伝
資料
と後
期の 南伝 資料
はそろ っ て , ア シ ョ ーカ が , 仏舎
利 を蔵 する と 思わ れ たチ ャ イテ ィヤ(
caitya )を開 き, そ こ で見つ け出 した仏舎
利を彼の 建 立 した8
万4
千の精舎
にあ る8
万4
千
の チ ャ イテ ィヤ に改葬
したこ とを伝
える。budhasa
salile(
仏 陀の 遺 骨)
という
言葉は ,1961 年
に ア フ ラ ウ ラ ー(
Ahraura
)
で発 見 さ れ た小 磨 崖 法 勅第
1
章
の 文 言の 末 尾 に 現 れ, 仏舎利再
分 配 に言 及 す る もの と も考
え られ る が(19) , しか し, こ の言 葉は, 法勅
の こ れ まで に発 見さ れてい る17
の 異本
のう
ちの1
つ に現 れ る にす ぎない 。 その た め , こ れ は , ア フ ラ ウ ラ ー担 当の 書 記 官が , 自分の手
元 に届い た法勅
の文
言 の 何か を読
み誤 り, それ に基づ い て創
作 した 言葉
であ
る と見る方が妥当
であ ろう
c20) 。9
.他
の宗派
に対 す る態
度
磨崖
法 勅 第12章 [
XII
]
は, ア シ ョ ーカ が あ ら ゆ る宗 教 家 を分け隔て なく 平等に扱い , 布 施や崇敬
をもっ て 尊 重す るこ と を, 全 文 を用
い て明 諍してい る。 どの宗派
も相
互 に ダン マ を聴聞
し合 うべ きで , そ れ が で きれ ば宗派
間の sal5(
私は コ ミュ ニ ケー シ ョ ン の意 味に理解 したい)
が増 大 する で あろ う [XII
(1
)]。 そ うす れ ば宗 派の 内部で は増 益 し , ダ ン マ は光 り輝 く[
XH (
N
)
]
。 ア シ ョ ー カ は一切の 宗 派が 自讃毀他
を離れ, 和 合 して共存
する こ とを望ん で い る。ア シ ョ ー カ は , 多様 な プラ ー ク リ ッ トの 語
形
で現 れ るbrahmarpa
−Sramapa
や ≦ramapa −br
曲mapa とい う複 合 語 を , 正統
であれ異 端で あれ, 宗 教 団体 に属
する一切 の 宗 教 家の 意 味で用い て い る よう
である。ほ とん どの法勅
で は, ≦ramapa 一の語 を 前に置
くが,2
カ所
で は語順
を逆
に して い る。 ま た磨
崖 法勅 第
4
章で は両方
の 語順を用い て い る。 い くつ かの 場所で は担 当の 書 記 官たちが,
多
分brAhmapa
一が先 行 する の は誤 りだ と考
えて,brahmarpa
−≦ralnapa を ≦rama ロa−brahmapa
へ と変 更 して い る。 お そ ら く
彼
ら は, ア シ ョ ー カ の
14
パ ーリ学仏 教 文 化 学法勅 第
13
章 [XIII
」
で は,brahmapa
と9rama
¥a とpasarpda
(
他 宗 派の メ ンバ ー
)
につ い て述べ る。 「マ ハ ーヴァ ンサ 』 が伝 える よ うに,彼
がバ ラ モ ン た ちを完全に拒否
した ことが事
実で あ れ ば, この よ うな言い 回 しで宗派 に 言及す る必 要 など な か っ た筈で ある。 こ の語
順の 不統 一は , その 地 域を担 当 した書記 官
た ちが ,(
自分
た ちの 個 人 的な判断
で)
語川頁を決
め た こ とに よ る もの で あ ろう
。 ギル ナ ール(
Girnar )
を担 当
した書記 官はその好 例で ,彼
は い つ もbrahmarpa
一の 語 を前 置 させ る方を好ん で い る。 こ れは, ギル ナ ール 地 方で 見られ る サ ン ス ク リ ッ ト化
と関連 するこ とであろ うし, 恐 ら くその 書 記 官が バ ラモ ン で あっ た こ とを暗示 す
る もの で あ ろう
。 パ ー リ経 典で は samapa −brahmapa
の 語jl1
貞に定型化
さ れてい る よ うである が, こ れ は予 想で きる こ とで ある。 石柱 法勅
第7
章 [7
(
HH
)]
で は, 法 勅 中に 唯 一 の 例 とな るbabhana
−samana という
語 順の 複 合 語が 用い られ て い る。ア シ ョ ーカ がすべ て の 宗 派 を助 成 した とい うこ と は, バ ラモ ン へ の
施
食 を 取 り臣 め に しなか っ た という
こ と に違い な く, 実 際彼の ダ ンマ とは, と りわ け沙門やバ ラモ ンへ の 施 与を含
む もの で あっ た。 即位第12年
に行っ たアー ジ ー ヴ ィ カ教徒
へ の 洞 院の 布 施 は121) ,彼
が偏に仏 教に帰依
した わ けで はなか っ た こ との例 証の1
つ で ある。10
。破
僧
伽
最 も注 目に
値す
るの は, 「破
僧 伽の法
勅 」 と称 さ れ る3
つ の法
勅 である。 従 来, こ れ は, 『マ ハ ー ヴ ァ ン サ』 が伝 える ように, ア シ ョ ーカの サ ン ガの紛争
へ の介入 は , 破憎 伽 (サ ン ガの 分 裂, sahgha −bheda
)
の 収 拾工 作 を行 う 程 度の介入 に と どまらず
, 異 学 外道
の徒輩
を力
つ くで排 除する と こ ろ まで 深 入 り した もの で あ っ た こ とを示 す もの, と理解
されて きた。 しか し問題
は, ア シ ョ ーカの 時代 に起 こ っ た 出来 事に して 第3
結 集 開催の きっ か け と なっ た事件
と してパ ー リ編年
史が 伝える分裂事件
の 実 際の 顛末 を, 破 僧伽の 法勅が ど こまで 反 映 して い る かである。あま り知 られて い ない こ とだ が, 第
3
結 集 と それ に至 る経緯
につ い て は,ア シ ョーカ と仏教
15
初期
の パ ー リ編年 史
と註 釈 文 献に5
本の 記事
が伝 え られて い る。 『デ ィーパ ヴ ァ ン サ』 に2
つ , ブ ッ ダゴ ーサ による 『律
蔵 』 註 釈(
Sp )
と 「カ ター ヴ ァ ッ トゥ」 註釈 (
Kv
−a)
に1
つ ずつ , 『マ ハ ー ヴ ァ ンサ』 に1
つ で ある。 し か し, そ れ らの記事は 一一致せ ず , 細 部では さま ざ まに異
なっ て い る 。『マ ハ ー ヴ ァ ン サ』 の
記事
は よ く知 られて お り,事 実
, 最 も後に なっ てか ら最
も発
達 し た形 にま とめ られ た物 語で ある。 その 記事
(Mhv
5
,229
−70)
が伝
える に は,尊 崇を失っ た異 学 外 道の徒 輩
が ,6
万人の 仏 教 比 丘へ の ア シ ョ ーカ の 施 食が始 ま る と, (仏 教 比 丘の標 章
た る〉
黄 衣 を着 用 して比 丘の 中 に紛れ込んだ。彼
らは , 自分たちの 教義
を唱え , 旧来の 行 法を実
践した。 比 丘 た ちは彼 ら を制止する こ とが で きず,7
年
間にわ た り閻浮提 (
イ ン ド世界)
の比 丘 たちは,布薩会 (
uposatha)
や 自恣(
pavarapa
)
という儀式
を どこの 僧 院(
tirama
)で も実 施 しな か っ た。 ア シ ョ ー カが ア ソ ー カー ラ ーマ の 比丘 た ちに布
薩を実 施す
る よう勧
め た時に,彼
の大臣
が数
人の 比丘 を殺 害
した。 工 は,7H
間に わた り仏陀
の教
えの教 導 を受け, そ れ か ら比 丘1
人ずつ の 唱 え る教 義 を聞い て, 邪義
邪 説の信 奉 者を教 団か ら追放
さ せ た。 その数
は6
万 人 に の ぼ っ た, と言 う(
Mhv
5
.270
)
。今
や 教 団 は和 合
を 取 り戻 し(
samagga (22))
,集会
して布 薩会 を行っ た。 その後で第3
結 集が開か れ, モ ッ ガ リ プ ッ タ ・テ ィ ッサ (Moggaliputta
Tissa)
は, こ の 時 「llカ ター ヴ ァ ッ トゥ 』 (Kathavatthu
)
を誦出 した。 結 集の 終 了は, ア シ ョ ーカの 即位 第
17
年
の こと であっ た。前 掲の ブ ッ ダゴーサ に よる
2
つ の 註釈
書は, 「マ ハ ー ヴ ァ ンサ』 よ り占
く , その内容
は互 い に とて も似 通 っ て お り, 『マ ハ ーヴ ァ ンサ」 の 記 事 とも似て い る。 た だ し細
部で は違い もあ り, 『マ ハ ー ヴ ァ ンサ』 の 記事
に は ア シ ョ ー カが異学外
道の徒 輩に白衣を着
せ て教 団か ら追放
した記 事
を欠
く。異学外道
の徒
輩の行 法 には火の供 養 も含
まれてい た と嵜わ れる こ と か ら, 彼 らの 内に はバ ラモ ン た ち もい た こ とが わ か る。『デ ィ ーパ ヴ ァ ン サ』 の 記事は, ブ ッ ダゴ ーサ よ りも
古
く , 奇 妙 なこ とに 内容が一貫
しない 。 寄せ集 め た素材
を まとめ ただ けの もの である ことが露 呈16 パ ーリ学 仏 教 文化 学 してお り,
1
つ の出来事
に つ い て の記事
が2
つ ある こ と も珍
しくな く, 時 に は3
つ の こ と もある。破僧
伽につ い て も2
つ の物語
が伝 えら れる。q
) 第1
の 物 語は次の よ うに語る Cz3) 。 仏 教 教 団の 隆盛 の ため に異学外
道 の徒 輩 (
その うちジ ャ イ ナ教徒
とア ー ジ ー ヴィ カ教 徒 を特 に記す )が利 得 と尊
崇を失
っ て仏 教 教団
に紛れ込
んだ。 正 規の 比丘で は ない彼
ら が,7
年
聞布
薩
の儀 式
を行
っ た(
vagguposathac24 ))
の で, 聖 なる仏 弟 子 た ち は布
薩 会に 出席 しなかっ た。 当 時は仏 滅後
236
年
にあ
たり
, ア ソ ー カ ーラ ーマ には6
万 人の 比丘 が暮
ら してい たが, さ まざ まな異学
外 道の徒
輩が黄衣
を身
にまとっ て教
え を荒
廃 させ た。 そ こ で , モ ッ ガ リプ ッ タは会議 を招 集 して異義異 説
を破
し,恥
知 らず な賊住 者
ど もを追 放 して から, 『カ ター ヴ ァ ッ トゥ 』 を誦出 した。(
2
) もう
1
つ の物 語Q5)は, 仏 滅 後236
年, 上座 部 に起こ っ た恐ろ しい 分 裂 (bheda
)
を伝
える。6
万 人の異学外
道の徒
輩 が サ ン ガに寄
せ ら れ る尊
崇 を 見て,サ ン ガ に紛れ込んだ。 アソ ー カ ーラ ーマ ヴ ィハ ーラ(
Asokaramavihara
)
で の 波 羅 提木
叉(
P2timokkha )
の儀
式は執 行で きず, 中 断 し た。 波 羅 提 木 叉式 を執 行 させ る よう命
じら れ た1
人の 大 臣が数 人の 比丘 を殺
した た め, そ れ を きっ かけに王は比丘 殺 害 とい う出来事
につ い て長 老たちに諮
問す
る とこ ろ と なっ た。 モ ッ ガ リプッ タは異 学外 道
の徒
輩 を排 除 する た め に,6
万 人の 仏弟 子
を召 集 し会議を主宰
した 。 王は, 長老
か ら教
え を学び, そ して賊住
比 丘 が身
に付 けて い た(
比 丘た る)
標 章 (黄 衣)
を取 り除 くよ う命 じた(26)(
raja.
theyyasamvasabhikkhuno
(27)...nasetili
血ganasanam
)
。 異 学外 道の徒 輩は,自分た ちの 教 義に基づい て出
i
家式
を執 行 し, 仏陀
の教
え を損
なっ た。 モ ッ ガ リプッ タ は彼
らを破却
する た め に 『カター ヴァ ッ トゥ』 を誦出 し, その 後で 第3
結集
を開催
した, とい うも
の であ
る。こ れ らの 記事 を子 細 に検 討 すれ ば, 物語の
核
となる話
を も とに付加増
広が 行わ れた道 す じ が解 明で き るで あろ う。 『デ ィ ーパ ヴ ァ ンサ 』 の 第1
の 記事
が最
も古
い もの の ように思 われ る。 出来事
の 日付
を記
し, 仏 教教 団の 隆盛の た め に自分た ちへ の尊崇
と利得
が 凋落
し た異学外 道
の徒
輩が教 団に紛 れ込んア ショ ーカと仏 教 17 で,