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パーリ学仏教文化学 (10) - 002ノーマン K. R.・武田 龍 [訳]「アショーカと仏教」

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全文

(1)

ア シ

ョ ー

仏 教

K

R

. 

Norman

  龍

1

. ア

ョ ー

Agoka

につ い て

現 代

般 的 見

 

先 頃,

高 名

な仏 教 学 者 ω 仏 教 関 す著 作ん で て, 次の よ う な文

に 出会っ た。

 

特 定

地 域 に おサ … サ

sasana

ま り仏 る と

う観 念

は, お そ ら くア シ ョ ー カ

身の創 案に よ る もの であろ う。

は,

仏教

を国 家 の 宗 教 と し て受 容 し た 最初 の 王 で あ

, “

に よ る征 服”

dharma

− vijaya と呼 ばれる

偉大

な る

精神

的征 服

業 に

着手

した初め て の 王で あっ た。 征 服 者や支配

が , 政権 を倒 して 国 々 を

ると, そ こに

統治権

を確 立 し ようとす る よ

に, ア シ ョ ーカ は

精神

的に征 服 した

々 にサ ーサナ を

立 しよ う と

えた

の と思わ れ る。」

 

他の 書 物で も

た よう な意 見 を目にする。 厂ア シ カ は

仏教徒

で ある 帝 王 として は最初の人物で あ り」, 「 アシ ョ ーカは仏 教の

普 及

し,

立 を通 し て, 聖 地巡

や 仏

利 崇 拝 とい う宗 教 行

を熱心 に奨 励 し た。」   「 ア シ ョ ーカ は , 古代 イ ン ドにお い て, 政 治 的 精

的に最

最 大の

在で あっ た。」 (3)

 

こ の ようなア シ ョ …カの

き方は ,初 期 仏 教 を語場 合通例 もの で ある。 私は, こ れ まで の研 究 歴 の か な りの

分をア シ ョ ー カの

文の 研 究に費や して きた。 そ して ,

法勅

か ら明らか にな るその 人物 像が 従 来の 彼に関

著作

か れ た もの とは あ まり一一致 しない こ とに

づ い た 。 本日は, 弘 教

にお ける ア シ ョ ー

役 割

, 仏 教

文献

える アシ

(2)

2

      ノ{・・一 リ 

i

攵文 」裳_ ヨー カ像と,

の 碑 文 が

える入

物像

と を比

較検討

して み た い と思 う。

2

. パー り

編 年

伝 え

る 人

物 像

 

ア シ g ・一力 につ い て知る に は , パ …

年史

と りわ

 

「マ ハ ー ァ ンサ』

Mahavamsa

か ら得ら れ る知識が基 礎 となる,, その 叙述 は, 同じ内

の 物語 を

層 詳

細に伝 えるサ ン ス ク リ ッ ト

文献

資料

よ り優 先 される.

 

』 の

える とこ ろ では, ア シ ョ ー , 父の ビン ドゥ サ ー ラ

Bindusara

の 死後,百人の 兄

の う ちテ ィ ッサ

Tissa

を除 く

99

人を殺 し て, 閻

浮提 (

Jambudvipa

, イン ド世 界

一一 支 配者 っ た〔4)。 沙 弥のニ グ ロ ー ダ

Nigredha

か ら

教 を聞い た こ とで , 三

けて仏

在俗

信 者た る優

upasaka )となっ た彼は15〕,外 道 に は 目 も くれぬ仏 教 の

固た る援助

と なっ た, と言 う。 ア シ ョ ー は ,

6

万 入 ラモ ンへ

日の施 食

り止め, 代 わ りに

6

万入の 比 丘 へ

施食

い ,

8

4

千の 町 に

8

4

千の 精 舎 を建 立 して教 団に寄 進 した(6〕 。 その うち最も 有 名な もの は, 自らパ ー タ リプ ト

pa

奮aliputra

に創 建 したアソ ー カ ーラ ・一

Asokarama

ア シ ・一 力僧院)で あ る。 また, 仏 陀が 訪れ た場 所 に は ス トゥ ーパ st[lpa ) を

造 したω 。 教 法の 相 続 者   た ら ん よ り, 即位 第

6

年に ,

子のマ ヒ ン ダ

Mahinda

と娘の サン ガ ミッ タ ー

Samghamitta

出家 を認め だ y) 。 マ ヒ ン ダ は

に伝 道

と して ス リラ ン カへ 派遣 され た,,

団 分裂 に際 し て は, ア シ ョ ー

らが 比 丘 解 釈 耳を傾け, い ずれ が 止統で あり, い ずれ が 異

であるか を

決判す

るこ とがで き た , と述べ , 分 裂が収 まる と ,彼の後援の下 に第

3

集が行わ れた, と言 う[1ω 、,

 

ー ヴ ァ ンサ』(11}は, 王位 就 任 後の ア シ ョ ー

く は その 悪

の ゆ えに 「暴 悪 なる ア ソ … カ」 (

Ca

廻 asoka

) と し て 世 に知 られ たが, 後に は その

の ゆ えに 「法 アソ ー カ」

Dhammasoka

と呼ばれ た , と伝え る。 無論, こ の 呼 称の 変 更は ,仏 教に

帰依

す る

で の ア シ ョ ー 人柄 い を強 調 し ようとする もの で ある。

(3)

ア シ ョーtカ と仏 教

3

3

え るア シ ョ ー カ の 人

物像

 …方,ア シ ョ …カの 碑 文か ら分か る その 人物 像は か な り違っ た もの で ある。

 

た とえば, 編 年 史の

える

の 仏 教

帰依

明 との

に は,

つ かの

盾点

が ある。 ア シ ョ ーカが仏 教 に関わ り始め た初めの頃の こ と は ,小

法勅 第

1

に記さ れてい る。 パ ー リ文

では, 即

位後

6

以 内に, すで に ア シ ョ ー は仏

帰依

した なっ てお り,

8

4

千の 精

を建立 し,

子と

の 出家を許 したこ とになっ て い る。 とこ ろが , ア シ ョ ーカ 自身の 言 葉 を も とに計

する と, 彼の仏 教 へ 帰依 は , カリン ガ戦 争 後 間 もな くの こ と とな り,磨 崖

勅 第

13

章 [

XIII

A

)]には, その 戦 争 を即 位 第

8

年の 出 来 事 と記 し てい る。 彼の 改 宗は,お そ ら く良心の 呵責 に よ るもの で , 兄 弟 殺 し の罪の意識か らの もの で は なか ろ う。 磨 崖 法 勅 第

5

章 [

V

M

で兄

弟姉妹

及 するの で, 兄

弟殺

しの

は虚

の よ

であ る。 カ リン ガ戦

にお ける

15

万人の 人々 の 送,

10

万 人の 戦 死者, 更に

しい 人々 の死 につ い ての

心 の

に よ る もの と

さ れ る。 編

年史

は, こ の

虐殺

につ い て は何も語ら な い 。

法勅

を宣

した

時点

で ,

家 信

と なっ てか ら既に

2

半が経っ て お り, こ れに は あ ま り

心で は な かっ た

1

んで い る。 私は こ れ を, 彼 は仏

へ の

帰依

くはそれ ほ ど

積極

的な仏 教 徒で はなか っ た こ と を伝 える もの と理解 す る。 彼が熱心 になっ たの は それ か ら

1

年 余 後 の こ とで , 「 ガ に 接近 して

お そ ら く心 の痛 手を癒 しに出か けた もの で あろ う

好結

果 が

られ,

は 「

歩 し 」 と言 う。 彼 が 小 磨 崖 法 勅 第

1

章 を公 布 した の は, 即 位 後わずか に

11

年 目の こ とであっ た。 即位 第/

2年

崖 法 勅 第

3

を公 布 してい る の で,

H

付の ない

法勅第

2

は, 同じく即

位 第

12

か前

の 即

位第

11

に公

され た こ と になる。   しか しなが ら,小 磨 崖 法 勅 第

1

章で は , ア シ ョー カ が赴い た の は仏 教の サ ン ガ であっ た と明 記 して い る わけで は ない マ ス キ

Maski

)の 法 勅の 文 中 に,

分を

Budha

≦ake と記 してい る。 そ

t

’ しを フ ル チ ュ (

Hultzsch

)は 「

朕 は仏 陀の 末 裔た る

迦 族の

1

人 な り」

aBuddha −

Sakya

) と読む が , こ れ

(4)

 

4

      パー・リ学仏教 文化 学 は, 当地の 書 記 官が既 に刻み込ん だ up 譱 ake の 語 を補 正 する ため に

Budh

a) の 語 を

入 した もの の ようで あ る。

BudhaSake

あ るい は その 相 当語 は, 小 磨 崖 法勅 第

1

章の 中の 他の どの 条 文に も見い 出せ ない もの で ある こ と は注目 に値 する。 他の い ずれ の 条 文に もupasaka の 語が用い られて い るc,

 

こ れ は

分その

書記官

が, ア シ ョ ー カ が ウパ ー サ と し帰 依 した宗 派 明示す る もの が

もない こ とに

づ き,

法勅

を読む者には誰に で も

が は っ きり と理

で きるように と

えて, ち ょ うど刻み込ん だ ばか りの upagaka の の前に

Buddha

を挿人 し よ うと した もの で あろ う。 ほ ん の 少 し書 き加え る だ けの こ とで あっ た。

 

そ れ にもか か わ らず, ア シ ョ ー が そ 頃 すで に仏 教

っ てい た こと は, 即位 第

10

年の 出来 事 と して 磨 崖 法 勅 第

8 章 [

V

II

C

] に記す菩 提樹 詣 で の 記事か ら確 実で ある。 これは

の 仏

教帰依

に と もなっ て起 こ っ た最初の 出 来

に違い な く,

教生

}二させ た サ ン ガ訪 問と同 じ時 期の 出 来

 

実際

, ア シ ョ ー ガ と は仏 教 っ た こ とは

か で ある。 石 柱 法 勅 第

7

章 [

7

]で, 彼 は 自分の 事 業 を総 括 して , サ ン ガ ・ ラモ ン e アー ジ ー ヴィ カ教 徒 ・ジ ャ イ ナ教

や その

宗派

管掌

す る た め に, 道徳の 大官 (mahamatra

なる

職 を設

した, と述べ る。

文脈

か ら見 て , 名 前が明 記 され た宗 派 を除外す れ ば, その サ ン ガ と は仏 教の サ ン ガ に ほ か な ら ない ,:、

 

ア シ ョ … カが在 家仏 教徒であっ たこ とは疑い ようが ない が,

道に は 心 を 閉 ざし偏 に仏 教に帰 依 した と信 ずべ

も ない 。 石柱 法 勅 第

6

6

に は, 彼が あらゆる

宗派

々 の

栄誉礼

を もっ て

崇敬

した と述べ , 就 中, 最 高の もの は 自 らの 訪 問で ある と

えてい た と

える。以 下で

考察

する よ うに , 彼の 言 うダ ン マ

dhamma

とは, 崇 高な精

的な もの とい うよ りも倫理道 徳的 な もの で あっ た た め , 在 家 仏 教 徒で ある

が, 同

在家

の ジ ャ イ ナ教 徒で もあ りえ たの である。

(5)

ア ショーカ と仏 教

5

4

. ア

M −e

 

ア シ ョ ー カが 自

唱 する ダンマ

し た方 法つ い ては ,法 勅か ら

要を知 るこ とが で きる。 彼は , 他の

柄に交えて ,

dhammathambha

ダ ンマ の

dhammalipi

ン マ の

謄 本

 

dhammama

gala

ダ ン マ 0)祈 願

dhammadana

ン マ

施 与)

 

dhammanuggaha

受)

dhammayatra

ダ ン マ の 巡 行 ), 

dhammasavana

ダ ン マ の

dhammamahamatra

ン マ の

官) , 

dhammavijaya

ダ ンマ の 勝 利

につ レギ

 

問 題は, ア シ ョ ー ン マ が仏 教の ダ ンマ と同じもの か どか である。 彼は, 通 常の

行為

や規 定につ い て 語る

場合

と, ダン マ の

行為

や規 定につ い て 語る場 合 とで は,

明確

に区 別 を して い る。 thambha と は柱の こ と だ が , ア シ ョ ーカの ダンマ が刻み込 まれ る と, そ れ は 「

」 となる。 ア シ ョ ー

に も mahamatra

 

大 官

は あ っ た が ,

設 し た

dhammamahamatra

と は

分の ダ ン マ

た め

。 彼 以 前の王 たちは娯 楽の 巡

を行っ た が,

dhammayatra

ダンマ の 巡 行

創始

し巡 行 中に 自

のダ ン マ を実践 した。 人々 は病 気 平 癒,

婚,子 供の 誕 生 , 旅の

な ど を祈 願 して 種 々 の 祈 願 儀 式

mahgala

を行 っ たが,

dhammamafigala

ダ ン マ の

とは,

隷や使 用 人 を適切 に扱 うこ とで あ り, 師 を

敬 う

こ とであ り,生 き物を

さぬ よ うに 自制す る こ とで あ り , 沙 門 ・バ モ ン

磨 崖 法 勅 第

9 章

IX

G

近似 の 文 言

崖 法

勅第

11

章 〔

XI

])

 

ア シ ョ ー カ の ダ ンマ は,

碑 文

の 中に明瞭 に示 さ れて い る。 小 磨 崖

法勅第

2

章には一 両

に従 順で あれ,

に従 順で あれ, 生類を慈 しめ,

真実

を 語れ と記してお り, こ れ は, 西

暦前

3

阯紀 版の 「

回帰」 とも言 うべ き

占来の 慣 習

por

a

 

pakati

の 遵奉 とい える。 他に も

崖 法 勅 第

3

Ili]

に は , これ を少し増 広 した文 言で語る。

母父に従 順なるこ とは善い こ と だ。

(6)

 

6

        パ ーリ学仏 教化 学 と だ。 殺生 を慎む こ と は

い こ とだ。 金遣い に節 度を保 ち,財 産に

節 度

つ の は善い こ とだ。」

 石

柱 法勅 と

される石

に刻さ れた

7

章の 法

は, ア シ ョ ー マ の

明に充て られてい る。

が ダ ンマ を もっ て達 成 した

事業

の 記

し て,

道路

には並

を植 えて

木蔭

をつ く り,

戸 を

っ て人 間と動 物の た めの 水 飲み 場 をつ くっ た こ と を

える。 石

柱法勅 第

1

は, ダン マ に よる

治に つ い て語る。 石柱 法勅 第

2

章は, ダン マ の 内

を少 漏 e 衆 善 ・慈 愍 ・布 施 ・

真実語

清浄

定義す

る。 ア シ ョ ー カ は

生 を し ない こ とで

い に

行 を行 っ た。 石

柱法勅 第

3

は,

悪 につ い て語 り,

暴虐

冷酷

傲慢

妬を悪とする。 石

柱法勅第 4 章

は , 裁 判の 平 等 と囚人の更生の必 要を強 調 す る。 石柱

法勅 第

5

は,

くの

物の 名前 を列 挙 してその 殺

ずる。 石 柱 法 勅 第

6

章は, 目

すは 世 の 人 々 に

安楽

を もた らす ことで,

らゆ る

宗派

重され , 特に ア シ ョ ー カ

らの

問 に よ っ て 崇 敬 さ れ る。 石柱

法勅 第

7

は, ア シ ョ ー 全 業 績

。 過 去の 王た ちがダン マ の 増 進 を如何 に求め た か を指 摘 し, ア シ ョ ーカは 宣 説 と教 示に よっ てそ れ を

実現す

る こ と を決

し, その

意を実

行 す

る た め に ダ ンマ の 柱 (

dham

− mathambha

立 し, ダ ンマ の 大

官 (

dhammamahamatra

を設

した と 伝 える。 ダ ンマ の 大

は, 全 宗 派 を管 掌した。 ダ ンマ を

定 義

づ ければ, 「 親 には

順 な れ,

には

順 なれ, 年長 者 を敬い , バ ラモ ンや沙門 は 」重 に もて な し,

者 ・奴婢使 用 人 を粗 略

わ な とい

で ある。 ダン マ の

現 し たの は , 動 物の 殺 害 禁 臣の ように ア シ ョ  ・一力が

規 制 を行 っ た結 果である が, そ れは 人 間の 心 懸 けつ ま り道 徳心

nijhati

に よ る もの で もあっ た。 こ うすれ ば,

世 の

楽が得られ る の で ある。

 

大 磨

崖法勅

は 随所で, ダ ン マ に従 い ダン マ を守るべ し, と説 く

X

A

)]

。 ダン マ を実践 すれ ば

奴隷

を粗 略に扱わず 両 親に は従順 に して… …バ ラモ ンや沙 門を 丁 重 にもて な し, 殺 生 をしない とい う果

となっ て現れる。 ダン マ は無限の功 徳 を もた らすの である 匸

XI

]。

 

ア シ ョ ー カ は法 勅 をダ ン マ の 謄 本 (

dhammalipi

と称 して い るの で

(7)

      ア ショ ーカと仏教      

7

れを読め ば,

法勅 各章

が内 包 するダ ンマ を正 しく知る ことがで きる。 彼の ダ ンマ は

道徳

える もの である た め,

dhammalipi

々 に 「道 徳

」 と訳さ れるの も頷る こ とで る。 ア シ ョ ーカ は ,彼の ダ ン マ を広 く世に奨

し, そ れ を管 掌 する ダ ンマ の

を設置 し, 法 勅を刻み込ん だ ダン マ の

を建立 した こ と に加 え , ダ ンマ を

える た めの

使

節 団

data

をイン ド全

の み な らず 西 洋の ギ リシ ア

王 の とこ ろ に まで 派遣 した 。 しか し, その

徳 的理 念が仏 教の

面 の教え と全 く一致 する こ とを

けば,

別に仏 教 と 結 びつ くうな文

は ない 。 かえっ て不 殺 生

ahimsa

の主 張にお い て は , 彼の 考 えはジ ャ イ ナ教の

に近 い と さ え言える。 実際, 石柱 法

勅第

5

5

聖 な生 き

と して列

さ れる動 物の リス トに は, ジャ イ ナ教 経 典の

物 リス トとの 並

関係が 認め ら れ る。

 

ー ト

Bairat

法 勅で は , ア シ ョ ー カは プ リ ヤ ダ シ

Priyadasi)

名前

で, サ ン ガに挨 拶を送っ て その

安寧

を願い ,続 けて 仏 陀 と ダンマ とサ ン ガに対 する彼の 篤 信ぶ りを語る。 こ こ に現れる ダ ンマ が仏教の 三宝の

1

つ である法 宝 を示 して い るこ と は明らかで ある。 しかし, この

1

を除い て, ア シ ョ ー カの

奨励す

るダ ンマ が仏 陀の 教 える ダン マ は ない こ と は歴

と し てい る。 つ ま りア シ ョ ー は,仏 陀の ダン マ

教 え) 一の もの では なか っ たの で ある (12)。 こ の ように考 察を進め て

る と,

が こ の 講 演 の

冒頭

用 した, ア シ ョ ー カ は精 神 的に征 服 した

々 にサ ー サナ を樹立 し ようと した とい 見解は , ア シ ョー カの ダ ンマ の

特 質

を誤 解 したこ とに よ る もの の よ うに思 う。

5

. ア

ョ ー カの

勝利

使 節

 

前 掲の

用文は, ア シ ョ ー っ た近

服 とい う事業 を精

的な 征服 で ある と い るが , それが ア シ ョ ー カ の

dhamma

−vijaya に つ い の 発 言で あ れば, こ れ も ま た誤 りの よ うに思 う。 実 情は, ア シ ョ ー武力 を用い て 帝 国の 版 図 を拡

したの であ り, それが成 功

了 してか ら, 道 徳に よ る勝 利 とい

う信条

創案

し, そ を後継 者 した と

(8)

 

8

      パ ーリ学 仏 教 文 化学 た, と私 は理解 して い る。

 

ア シ ョ ー カが

治理念の 指 針 と し た もの は 不 殺 生

ahirpsa

で あ り それ はカ リ ン ガ での

殺戮

い る気

ち か ら生じた もの で あろ

法勅

は, 供 犠や 食用の動 物 殺 し を

む, 日常生

における殺生 の

止 を内容 とす る法 勅 を劈頭 に配して第

1

章と してい る。   磨 崖 法 勅 第

13

章 [

XIII

]では ,死 者と苦 痛 に満ち満ち たカ リン ガ戦争 に お い て勝

を収め た後で , 彼が 如 何に道 徳

dhamma

を渇 望 した か を語る

C

。 彼の ダン マ に

従 う

人 々 が, バ ラモ ンや

門 を

め て

J

, そ れ で もな お

し む とい う現

しめ た

G

の 希

する もの は, ダ ン マ によ る勝 利で あ り, その

内容

は生

へ の

愍,

制,

平静

寛容

とい

もの で あ っ た

0

)。 こ れ を広 く宣

するた め に

使節

団が

地へ

遣 さ れ , 西

の ギ リ シ ア の王国に まで遣 わ さ れ た

0

。 道

徳 (

ダ ンマ

に よ る

服 とい

う彼

え は, 将 来

継 者た ちが武 力 に よる勝利 とい う方 法を

らない こ と を願 っ て 公 布 さ れ てい る (

X

)。 武 力 行 使 は, 大 量 殺 戮を引 き起 こ して , カ リ ン ガ戦 争の惨 状 を再 現 する こ とにな りか ね ない か らである。 後 継 者たちの求め るべ き勝 利 とは , 忍 耐

khanti

と軽い 刑 罰

正ahudaqtata

に基づ い て実

さ れ る もの と言 う

X )

。 森 林 に住む者た ち にア シ ョ … ん だ と は ,

の よ

)彼

らも

っ た

生 を ?

)懺悔

今後

)殺

生 を し ない こ とであっ た,,

 

い うこ と で あ る か ら, ギ リシ アの 諸王 に遣わ され た

使節

団が 仏教の 宣

を任 務 と した もの で は な かっ た こ と は確 実で ある彼 らが派 遣 され たの は, 周 辺

国の お そ らくは

専制君

主で あっ た

た ちに

, ア シ ョ ー

に, 戦

に よっ て他 国を征 服 したい とい

野 望 を あ き らめ させ ,ア シ ョ ーカ の ダン マ の

綱領

に基づ い た平

静穏

統 治

に こ

め るべ と説 得 する た め で あっ た ことは間 違い ない 。 こ うし た状 況で は, ア シ ョ ー が ギ リシ ァ人 に仏 教 を伝え る た め に使 節 団を派 遣 した, とい う見 解は誤 りで ある と思

。 西

250 年

頃, 仏 教 の

が ギ リシ ア 匿界に赴い た こ と を 示 すギ リシ ア側の か な証 拠は, 今の とこ ろ何 もない の で ある。

(9)

ア ショーカ と仏 教

9

6

. ア

覊 一 力 の

 

ア シ ョ ー の ダ ンマ につ い て

検討

を重 ねて きたが, 彼が仏 教 を国教に した と

考 え

るの は大変 な見 当違い で ある こ とが次

に はっ き りし きた 。 ア シ ョ ー カ は法 勅 仏 教 につ い て ほ とん ど

も語 っ て い ない の である。 法

で は , 輪 廻

samsara ),

脱 (mokkha

, 涅

(nibbana ), 無 我

anatta

, 四諦八 正道 とい よ うな仏教 の基本 的

目は

ひ とつ と し

。 別 刻 法 勅の

1

つ で は , ア シ ョ ー ざす も の は皆の

安 楽

で ある と述べ

Sep

 

E

]。 領 民た ち が現 世 に安 楽 を

て 来 世で天

へ 達する こ と が

白分

の 目 的で ある, とは

くの 碑 文が伝 える とこ ろ で ある。

自分

が人 間 を神々 と親和 させ た, と誇ら し

に語る

言は こ れ まで さ ま ざまに

釈 さ れ て きた 。 私 は,

が人 問 を天 に送 る こ と に成

した とい う意

に理解 する 。 天 に行 っ た 者た ちは,

当然

そこ で

々 と して生れ 変 わる こ とにな り , すな わち神々 の仲 間入 りをする こ とに なる。 こ れ は, 私た ち が何

な く仏 教 と関連づ けて

え て い 思 う

 

全 体 と し℃ 法 勅には仏 教につ い 説 明が少ない こ と はこ れ まで に も言 われ て きた こ とで ある。 こ れ を無 知の所 為 とすれば ア シ ョ ー カ は

ば か り の ウパ ーサ カにす ぎ , 仏 教の 教 義につ い て は ほ とん ど何 も知ら な か っ たこ とになる。 こ れ とは反

に, そ うで は な くて ,

分仏 教を 理解 して い たの だ が,

細に言 及 すれば

1

つ の 宗 派に肩入 れ をするこ とにな り , その た め に彼 が随 所で示そ うと した公 平 とい う理

ことに なる, とア ショ ー カ は 考え たの か もしれない , 法 勅 公

とい う 目的に は 内

が不 適 当と アシ ョ ーカが

えた か らしれ な 。 つ まり

法勅

彼 自

創案

した ダ ン マ を広 く世 間

らせ る ため に公布 されたの で あ り, それに よ り, 彼の 帝 国は

平和

とな り, 全て の

領民

が 互 い に和 合 して生 きて い くこ との 実現 を ,

目 ざか ら v

 

こ れ まで に私が 出会っ た奇 説 とも言 う きも

1

, ア シ ョ ー カ が 法 勅で

えてい る もの は当時の 仏 教

事 情

で あっ た とい う もの が ある 。 フ ル チ

(10)

 

10

       

一」

2

.学 イ 文 化

i

lt4

Hultzsch

は言 う。 「ア シ カ の , ダン マ パ ダの

える仏 教の徳 目の 描 写 と完 全 に一致 する。 こ こ に我々 は仏 教 の 揺 籃 期 を見 る。」03. ) そ して論を

め, 「 アシ ョ ー カの碑 文は重 要な..一

で ダンマ パ ダ とは異 な り, 仏 教 神 学か , む しろ仏教 形 而上学とい

うも

の の

初期

発達段 階

を反 映 してい る。 つ ま り, 浬

槃 (

Nirvapa

の 教 義につ い ては何 も知らず, ダン マ を実 践 すればその 果

は現世で の

安楽

とな り, また来 世 へ の

功 徳

ともなる とい

一 般 的なヒ ン ドゥ ーの信 仰 を

胚 胎

する

階で ある。」 {14)

発 言

仏教 神学

特質

につ い て興 味 ある疑 問を

起 する もの である。 涅 槃の教 義は ,仏 教 神 学の 発 達 段 階におい て は後 期の もの になる の で あろ うか ?

 

は とて も信 じ られ ない こ とだ。 ア シ ョ ーカ が

つ い て語ら ない こ との フ ル チ ュ の 推 論は誤 りで

る, と

断定

したい 。

 

明らか に。

事情

は, リチャ ー ド ・ ブ リ

Richard

 

Gombrich

c15) ス リラ ン カ で 目撃 して

告 した もの と酷 似 し て い る ようで あ る。 「

くの シ ンハ 村 入た ちは

涅槃

を望 ん で お らず … …

らの 望み は天界に 生 れ る こ とである と言 う。」

ら は, 少な くとも涅

るか を

っ てい る。

 

, ア シ ョ ー

つ い

い て る こ 片 す ら も さ な

人 た ちの 言 葉 は 奇 妙 に 思 える が,

際 に は 中 部 経 典

22

Alagaddapamasutta

(ユ6) 末 尾

全 く.一一 。 そ こ で は仏 陀は, ダ ン マ に

り,

を もっ て行 動 する比丘 は正

(sambodhi ) を得 るが ,仏 陀 を信 じ

敬愛 す

るだ

は天界 に赴 く, と

く。

人た ちは, 涅

にっ い て 知っ てい る の だ が, 仏陀へ の 敬 愛の た め に天界 へ 赴 く

の で あ る。 ア シ ョ ーカ は

仏 陀

へ の

敬愛

につ い ては何も述べ ない 。 天界 と は, 彼 にとっ て は

分が ダ ンマ で 指 定 した行 為 を

行 う

こ と に よ っ て 到 達で きる とこ ろ なの で ある。 その発 言は,

根 を積む とい う趣

で な さ れて い る わ けで は ない 。 ア シ ョ ーカは こ れが 至

善 (

summum  

bonum

で ある と明言 し, 「天界に 赴 くこ と以 ヒに大切 なこ とがろうか」 と,

磨崖法勅第

9

章 [

IX (

L )]

で問 い けて くる。

(11)

ア シ ョ ーカ と仏 教

11

ア。 バ

イ ラ

ー トの

法勅

 

バ イラー ト

Bairar

に建て られ た

法勅

は, ア シ ョ ー 教 との結 びつ き を最 も強

く示す

もの で ある。 こ の

法勅

の 中で 彼が実 際に仏 陀の 教 えに

及 する

所 は ,サ ン ガ に

け た発 言で ある こ とに

目したい こ で

は, 仏 陀の

え は善 く説か れてい る と述べ ,

7

種の

典の 名を挙げてサ ン ガ に推奨 する が, 仏 陀の 教 えを 正

法 (

saddhamma )と

現 するの は , 仏

の ダ ン マ と

彼 自

身の ダンマ とを意図 し区 別 。 わ れ わ れ は, ア シ ョ ー の こ とを仏 教

帰 依

した者 に

かっ て教え を説 く人 だ と思 い が ちで あ る。 彼の 推 奨が 般 民 衆に向けた もの であれ ば , そ れは

磨崖

法 勅 に保

され て い る筈である。 推奨 す る

7

種の

経典

ちの 幾つ かは未だ に

定で きず難 問となっ てい る が

註釈書

例 えば 『ス ッ タニ パ ー 註 釈 書の よ うに

1

つ の

を異なる名前で

ぶ こ ともよ くあるの で, ア シ ョ ーカ の

選定

し た経

をすべ 確 実

認定

, それほ ど意外なこ とで は ない の で

る。 ア シ ョ ーカが経 典 名を記 したか ら とい て , 果た して 当時 既 に現

の よ うな聖典と して

存在

し て い た と か と

題 は , い さ さ か

雑に なるの で こ こでは取 り上 げない

8

遺 跡 な ど

 

巌 法 勅 第

8 章 [

VIII

」で は, 過

の 諸

E

の慣 行で あ っ た娯 楽の 巡

を廃 して ダ ンマ の 巡

dhammayatra

を始め た と記 す。 ア シ ョ ー カ は,

分 が 菩 提樹の とこ ろへ 出 か

, 他の

た ちに聖地 巡 礼に出 かけよ と は言わず,

為 と して の巡

につ い て も何 も語 らない 菩提 樹 詣で の結 果, 彼 は, 「 ダン マ の 巡 行

領 内

を巡 回 して 自分の ダ ンマ を実

施す

好機

と考 える よ

になっ た。 ダ ンマ の 巡 行 とは, 「

謁見

して沙 門や バ ラモ ンに は 布 施 を行い ,

謁 見

して

人に は金

を施 し 謁 見 して

民 に は ダ ンマ につ い て説 諭 し, ま た

問に答 える こ と」 である と明言す る。

 

ア シ ョ ー カの 聖 地

問の につ い 叙述を読 む と,

が 聖地 訪問 を 重要視

(12)

 

12

        パ ーリ 学 仏教文化学 してい た とは考えに く くなる。 仏 教の四大 聖 地

仏 陀 誕 生の地, 成 道の 地, 初転

法輪

人滅の 地

ち, ア シ ョ ー れ た とを示 す 直

拠が あ るの は

2

カ所だ けで あ る。 『 ア シ ョ ー カ ・ア ヴ ァ ダー ナ』

Asoka

− vadana

に は, 四大聖 地 は 勿論の こ と, ア シ ョ ー カ は へ も巡

っ た と記 すが, ア シ ョ ー

自身

位 第

10

菩提

樹 を訪 問し

LVIII

(c)

1

, その

10

年 後つ ま り

位 第

20

年に仏 陀誕 生の 地ル ン ビニ ー

Lumbini

を訪れ て石

立 した と述べ る に と ど まる。 無 論 これ には議 論の

地 が あろ

。 経 典の

える よ うに ア シ ョ ーカが他の 聖 地へ も出か け, そ こ に石柱を建 立 し た とい う可能性 も考え られるが, そ うで あれ ば, そ れ らの 石

で は失わ れて しまっ たこと になる。 しか し, 年次の記述 の 食 い い は うま く説 明で ない 。

 

次に注 目するの は, 正覚

sambodhi

訪 問とい う記

である。 こ の 記

を一

学者

は, 仏 教 に熟 達 した ア シ ョ ー

覚 り

bodhi

)を 得て い た こ と を

える もの と

解釈

して きた。 とこ ろが, この 解 釈で は, ア シ ョ ー カ は瞑想や

りや涅 槃 とい うもの を

実 に知っ てい たこ とに な る が,

勅に は その 知 識 を伝 え

らない ブロ

Jules

 

Bloch

)の よ

な 近代の学 者で さえ,こ の解 釈に

泥 された が ,

に なっ て , 「 」 とい

う言

い 方は , 「

仏 陀 と な 」 こ との

現 と して は言 語学 的に 不 適 当で ある と して そ れ を 「かの

提 樹の

れ た(17) 」 こ と を

える もの と結 論づ けた。

 

即 位

14

に ア シ ョ ーカが 過去 仏の コ ーナーカ マ ナ 仏

Konakamana

)の ス トゥーパ (築 造 主は不 明

を増 広 したこ と を

える

碑文

が ある。 その碑文 は, ア シ ョ ー カ が行っ たの は二

目の 増 広であっ た

解釈

され て きた が, そ

で はな くて, 「

2

規 模増 広 と理解 す妥 当 釈で あろ う。 ア シ ョ ー カが手 掛 け パ の 築 造増 広 つ い

勅 は そ れ 以 一ヒを 語 らない が , 中国人求 法僧た ちの

記録

には, 当 時, ア シ ョ ー によ る もの と され てい た

多数

の ス トゥ ーパ の

存在

が記 さ れて お り, その 中に は ,大 衆 部

Mahasafighika

結集

を開い た場 所に

立さ れた もの も含 ま

(13)

ア ショ ーカ と仏 教 13 れてい る(18) 、,

 

北伝

資料

期の 南

伝 資料

ろ っ て ア シ ョ ーカ が , 仏

利 を蔵 する と 思わ れ たチ ャ イテ ィヤ

caitya )を開 き, そ こ で見つ け出 した仏

利を彼の 建 立 した

8

4

千の精

にあ る

8

4

の チ ャ イテ ィヤ に改

したこ とを

える。

budhasa

 salile

仏 陀の 遺 骨

とい

言葉は ,

1961 年

に ア フ ラ ウ ラ ー

Ahraura

で発 見 さ れ た小 磨 崖 法 勅

1

の 文 言の 末 尾 に 現 れ, 仏

舎利再

分 配 に言 及 す る もの と も

え られ る が(19) , しか し, こ の言 葉は, 法

の こ れ まで に発 見さ れてい る

17

ちの

1

現 れ る にす ぎ め , こ れ は , ア フ ラ ウ ラ ー担 当 書 記 官 , 自分の

元 に届い た

法勅

の 何か を

み誤 り, それ に基づ い て

作 した 言

る と見る方が妥

であ ろ

c20) 。

9

宗派

対 す る態

 

磨崖

法 勅 第

12章 [

XII

は, ア シ ョ ーカ が あ ら ゆ る宗 教 家 を分け隔て なく 平等に扱い , 布 施や

崇敬

をもっ て 尊 重す るこ と を 全 文 を

い て明 諍してい る。 どの

宗派

互 に ダン マ を

聴聞

し合 うべ きで , そ れ が で きれ ば

宗派

間の sal5

私は コ ュ ニ ケー シ ョ ン の意 味に理解 したい

が増 大 する で あろ う [

XII

1

)]。 そ うす れ ば宗 派の 内部で は増 益 し , ダ ン マ は光 り輝 く

XH (

N

。 ア シ ョ ー カ は一切の 宗 派が 自

讃毀他

を離れ, 和 合 して共

する こ とを望ん で い る。

 

ア シ ョ ー カ は , 多様 な プラ ー

現 れ

brahmarpa

Sramapa

や ≦ramapa −

br

mapa う複 合 語 を , 正

であれ異 端で あれ, 宗 教 団体 に

する一切 の 宗 教 家の 意 味で用い て い る よ

である。ほ とん どの

法勅

で は ≦ramapa 一の語 を 前に

くが,

2

で は

語順

に して い る。 ま た

崖 法

勅 第

4

章で は両

の 語順を用い て い る。 い くつ かの 場所で は担 当の 書 記 官た

ちが,

brAhmapa

一が先 行 する の は誤 りだ と

えて, 

brahmarpa

−≦ralnapa を ≦rama a−

brahmapa

へ と変 更

。 お そ ら く

ら は ア シ ョ ー カ の

(14)

 

14

      パ ーリ学仏 教 文 化 学

法勅 第

13

章 [

XIII

で は, 

brahmapa

9rama

¥a と

pasarpda

他 宗 派

の メ ンバ ー

につ い て述べ 。 「マ ハ ー 』 が伝 える よ うに,

がバ ラ モ ン た ちを完全に拒

した ことが

実で あ れ ば, この よ うな言い 回 しで宗派 に 言及す る必 要 など な か っ た筈で ある。 こ の

順の 不統 一 , その 地 域を担 当 した

書記 官

た ちが ,

自分

た ちの 個 人 的な判

語川頁を

め た こ とに よ る もの で あ ろ

。 ギル ナ ー

Girnar )

担 当

した書記 官好 例

は い つ

brahmarpa

一の 語 を前 置 させ る方を好ん で い る。 こ れは, ギル ナ ー 地 方で られ る サ ン ス ク リ ッ ト

と関連 するこ とであろ うし, 恐 ら くその 書 記 官が バ ラモ ン で あっ た こ とを

暗示 す

る もの で あ ろ

。 パ ー 経 典 samapa −

brahmapa

の 語

jl1

貞に定型

さ れてい る よ うである が, こ れ は予 想で きる こ とで る。 石

柱 法勅

7

章 [

7

HH

で は, 法 勅 中に 唯 一

babhana

−samana とい

語 順の 複 合 語が 用い れ て い る。

 

ア シ ョ ーカ がすべ て の 宗 派 を助 成 した とい うこ と は, バ ラモ ン へ

食 を 取 り臣 め に しなか っ た とい

こ と に違い な く, 実 際彼の ダ ンマ とは, と りわ け沙門やバ ラモ ンへ 施 与を

む もの で あっ た。 即

位第12年

に行っ たアー ジ ー

へ の 洞 院布 施 は121) ,

が偏に仏 教に帰

した わ けで はなか っ た こ との例 証の

1

つ で ある。

10

 

最 も注 目に

値す

るの は, 「

僧 伽

」 と称 さ れ る

3

つ の

勅 である。 従 来, こ れ は, 『マ ハ ー ヴ ン サ』 が伝 える ように, ア シ ョ ー

紛争

へ の介入 は , 破憎 伽 (サ ン ガの 分 裂, sahgha −

bheda

収 拾工 作 を行 う 程 度の介入 に と どまら

, 異 学 外

徒輩

つ くで排 除する と こ ろ まで 入 り した もの で あ っ た こ とを示 す もの, と理

されて きた。 しか し問

は, ア シ ョ ーカの 時代 に起 こ っ た 出来 事に して 第

3

結 集 開催の きっ か け と なっ た

事件

と してパ ー

が 伝える分

裂事件

の 実 際の 顛末 を, 破 僧伽の 法勅が ど こまで 反 映 して い る かである。

 

あま り知 られて い ない こ とだ が, 第

3

結 集 と それ に至 る経

につ い て は,

(15)

       ア シ ョーカ と仏教      

15

の パ ー リ編

年 史

と註 釈 文 献に

5

本の 記

が伝 え られて い る。 『 ィーパ ヴ ァ ン サ』 に

2

つ , ブ ッ ダゴ ーサ による 『

』 註 釈

Sp )

と 「カ ター ヴ ァ ッ トゥ」 註

釈 (

Kv

−a

1

つ ずつ , 『マ ハ ー ヴ ァ ンサ』 に

1

つ で ある。 し か し, そ れ らの記事は 一一 , 細 部では さま ざ まに

なっ て い る 。

 

『マ ハ ー ヴ ン サ

記事

は よ く知 られて お り,

事 実

, 最 も後に なっ てか ら

達 し た形 にま とめ られ た物 語で ある。 その 記

Mhv

 

5

229

70)

える に は,尊 崇を失っ た異 学 外 道の

徒 輩

が ,

6

万人の 仏 教 比 丘へ の ア シ ョ ーカ の 施 食ま る と, 仏 教 比 丘

標 章

黄 衣 を着 用 比 丘 に紛れ込んだ。

らは , 自分たちの 教

を唱え , 旧来の 行 法を

践した 比 丘 た ちは彼 ら を制止する こ とが で きず

7

間にわ た り

閻浮提 (

イ ン ド世界

の比 丘 たちは,

布薩会 (

uposatha

や 自恣

pavarapa

とい

う儀式

を どこの 僧 院

tirama

)で も実 施 しな か っ た ア シ ョ ー カが ソ ー カー ラ ーマ の 丘 た ちに

薩を実 施

る よ

め た時に,

大臣

人の 比丘 を

殺 害

した。 工 は,

7H

間に わた り仏

えの教 導 を受け そ れ か ら比 丘

1

人ずつ の 唱 え る教 義 を聞い て

邪 説の信 奉 者を教 団か ら追

さ せ た。 その

6

万 人 に の ぼ っ た と言 う

Mhv

 

5

270

や 教 団 は

和 合

を 取 り戻 し

samagga (22)

集会

して布 薩会 を行っ た。 その後で第

3

結 集が開か れ モ ッ ガ リ プ ッ タ ・テ ィ ッサ (

Moggaliputta

 

Tissa)

こ の 時 「llカ ター ヴ 』 (

Kathavatthu

を誦出 した。 結 集の 終 了は, ア シ ョ ー

位 第

17

の こと であっ た。

 

前 掲の ブ ッ ダゴーサ に よる

2

つ の 註

書は, 「マ ハ ー よ り

, その

内容

は互 い に とて も似 通 っ て お り, 『マ ハ ー ァ ンサ の 記 事 とも似て い る。 た だ し

部で は違い もあ り, 『 ァ ンサ の 記

に は ア シ ョ ー カが異

学外

道の徒 輩に白衣を

せ て教 団か ら追

した

記 事

く。

異学外道

の行 法 には火の

供 養 も含

まれてい た と嵜わ れる こ と か ら, 彼 らの 内に はバ モ ン た ち もい た こ とが わ か る。

 

ァ ン サ』 の 記事は, ブ ッ ダゴ ーサ よ

, 奇 妙 なこ とに 内容が一

しない せ集 め た

素材

を まとめ ただ けの の である ことが露 呈

(16)

 16       パ ーリ学 仏 教 文化 学 してお り,

1

つ の出

来事

に つ い て の記

2

つ ある こ と も

しくな く 時 に は

3

つ の こ と もある。

破僧

伽につ い て も

2

つ の

物語

が伝 えら れる。

 

q

) 第

1

の 物 語は次の よ うに語る Cz3) 。 仏 教 教 団の 隆盛 の ため に

異学外

道 の

徒 輩 (

その うちジ ャ イ ナ教

とア ー ジ ー ヴィ カ教 徒 を特 に記す )が利 得 と

崇を

っ て仏 教 教

に紛れ

んだ。 正 規の 比丘で は ない

ら が,

7

儀 式

っ た

vagguposathac24 )

の で, 聖 なる仏 弟 子 た ち は

薩 会に 出席 しなかっ た。 当 時は仏 滅

236

, ア ソ ー カ ーラ ー

6

人の 丘 が

ら してい たが, さ まざ まな異

外 道の

輩が

黄衣

にまとっ て

え を

廃 させ た。 そ こ で , モ ッ ガ リプ ッ タは会議 を招 集 して

異義異 説

し,

知 らず な

賊住 者

ど もを追 放 して から, 『カ タ ァ ッ トゥ 』 を誦出 した。

 

2

) も

1

物 語Q5)は 仏 滅 後

236

年, 上座 部 に起こ っ た恐ろ しい 分 裂 (

bheda

える。

6

万 人の

異学外

道の

輩 が サ ン ガに

せ ら れ る

崇 を 見て,サ ン ガ に紛れ込んだ。 アソ ー カ ーラ ー ィハ ー

Asokaramavihara

で の 波 羅 提

P2timokkha )

式は執 行で きず, 中 断 し た。 波 羅 提 木 叉式 を執 行 させ る よ

う命

じら れ た

1

人の 大 臣が数 人の 比丘 を

した た め, そ れ を きっ かけに王は比丘 殺 害 とい う出

来事

につ い て長 老たちに

る とこ ろ と なっ た。 モ ッ ガ リプッ タは異 学

外 道

輩 を排 除 する た め に,

6

万 人の 仏

弟 子

を召 集 し会議を主

した 。 王は, 長

か ら

え を学び, そ して賊

比 丘 が

に付 けて い た

比 丘た る

標 章 (黄 衣

を取 り除 くよ う命 じた(26)

raja

 

theyyasamvasabhikkhuno

(27)...naseti  

li

ganasanam

。 異 学外 道の徒 輩は,

自分た ちの 教 義に基づい て出

i

家式

を執 行 し, 仏

え を

なっ た。 モ ガ リプッ タ は

らを

破却

する た め に 『カター ヴァ ッ トゥ』 を誦出 し, その 後で 第

3

結集

開催

した, とい う

の で

る。

 

こ れ らの 記事 を子 細 に検 討 すれ ば, 物語の

となる

を も とに

付加増

広が 行わ れた道 す じ が解 明で き るで ろ う。 『 』 の 第

1

の 記

の の ように思 われ る。 出来

の 日

し, 仏 教教 団の 隆盛の た め に自分た ちへ

尊崇

が 凋

し た

異学外 道

輩が教 団に紛 れ込ん

(17)

       ア ショ ーカと仏 教       17 で,

衣を着 用 し

て比丘 を装っ

た , と伝 える。

7

間とい う もの

の 仏

了たちは,

らが

出席

する

薩 会 を執

で きな か っ たの で ある モ ッ ガ リプ ッ タ は異義 異

恥 知 も を排 除 し た 。 だ が, ア シ ョ ー カ につ い て は何 も語 らず,

衣 を着せ た こ とにつ い て も何 も記 さ ない 「デ ィーパ ァ ンサ』 の

2

の 記

は, 上座

分裂

こ っ た とい

う記事

を付 け加 える。 そ こ で は,

薩 会につ い ては何 も記 さ ない が, ア ソ ー ヴィハ ー ラ で 波 羅提 木

が 中 した

。 だ が, 中断した

期 間

につ い ては語 らない

1

大 臣

紛争

収 拾 に あ た る が , 介 入

惨事

こす。 王は, 流 血

件の 責 任

につ い て長 老に

ねて

教導

け, そ して

学外

輩が着 用 して い た

比 丘 たる

章 (

黄衣)

を 取 り除い , と

言 う

 

ブ ッ ダゴ ーサ は 大 臣が 自分の 職 務 と して行

した とい りも, む しろ ア シ ョ ーカ は紛

に深入 りしたの で大 臣 を

わす こ と にっ た とい う物 語 に してい る。 その

臣は ,

つ くで比 丘 たちに布 薩

執行

させ て紛 争 を収 拾 し ようとし, その 過程で

人の比 丘 を殺

したの で ある。

1

週 間の 教

を 受けて, ア ショ ー カ は

異学外道

賊 住 者 どもの

義邪

を見 分 けるこ とが で きる よ

にな り, 彼ら に自衣を

せ て教 団か ら追い 払っ た、, こ うして 教 団は

和 合

を取 り戻 した と言

。 『 』 の

記事

は更に詳 細 に な り,

浮提で は

7

間にわた り

1

度 も行 われず, どの僧 院にお い て も

恣 は

われなか っ た, と

える。

 

わ れ われ は, 次の よ

方法

で, 紛 争の

経 緯

を再

成で きるで あろ う、, 異

学外道

の徒 輩

ア シ ョ ー カが仏 教へ 支持 を

表明

以 来 , 凋落の 一 で あ っ た者 た ち

ア ショ ー カーラーマ の で , 真 正の 比丘 た ち は, 彼 ら が そ こ にい る間,

薩 会の 執 行 を

拒否

した。 その 結 果, ア シ ョ ー ガ は 裂 状

に陥っ た。 こ の サ ン ガ 分 裂

safighabheda ) とい う

事 態

は 極 め て 深

な 吊来

で あ っ た に ち が い な く, そ の た め C「

Vinayapitaka

)の 破 僧

の条

に規 定され て い る よ り も電い 懲 戒 処 分

われ た(28) 。 すな わち教 団追

とい う処 分で

在 家者

衣 を着用 させ た こ

参照

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9(金) 準 蒲 14:00 戸、 ̄ 逮夜 20:00 戸、‐ 初夜 10(土) 10:00 戸、ソ 日中 総おとき 13:30 戸、 ̄ 逮夜 20:00

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2011 “Key Features of Dharmakīrtiʼs Apoha Theory.” In: Apoha: Buddhist Nominalism and Human Cognition, Mark Siderits, Tom Tillemans, Arindam Chakrabarti eds., Columbia