静岡大学教育学部研究報告 (人文 。社会科学篇)第42号
(1992.3)59〜 70
59「スポーツ倫理」教育における媒体項の構造に関する研究
A Study on the Structure of Teaching Materials in the Education of
"Ethics in SPort."
新 保
淳 Atsushi SⅡ
IMBo
(平成
3年
10月H日受理)Abstract
Generally,people have a good image to the sportsmen. Is it true ? The actual sports shan develop in the opposite direction. For example,we have to specify the sport rules which never
have written like fair play and sportsmanship etc.Even if we l■ake new some rules, we will be unable to solve these problemso We need a drastic improvement. I think that we have to edu‐
cate that sportsmen can become to judge at themselves by their own norm.
This studies shall Clear up the structure of teaching l■ aterials in the education of"the Ethics in Sport." First,I shall clear up the structure of l■ oral education in Murai's theory. Murai sug‐
gests that the knowledge of moral education contains the knowledge of principles,condition and method,and the knowledge to compare behavior with both of former themo And their know‐
ledge.ends the structure of triple aspect which include the function of the judge (there are
cases in which individuals are bound to conform their practice to a pre‐established rule),the
legislator(there are cases in which it is part of their task to find or build the rule by whichthey are to govern their conduct)and the philosopher (there are cases in which it is task to establish the universal rule). Their aspects differ in quality. Secondly,Murai's methods apply
to the ethics in sport。
The results are sunllnarized as follows:
When Murai's lnethods apply to'the Ethics in Sport," we understand that an object in the
ethics of sport is nornl of sport. This norm of sport is teaching materials in the education of"the Ethics in Sport。
" The teaching materials result as the first major premise with sporto We
understand that last inoral order of human being results into sport through the filter of which analytically recognizes of the world of sports.We will be able to suggest that the tutor of sports,for example coach and physical educator, need understands the structure of teaching nlaterials in the education of"the Ethies in spOrt"
to develop for the good direction.
60 新 保
1。
緒言一問題の所在 と研 究の 目的
「勇気」、 「忠実」、 「正直」、 「公正」、 「忍耐」、「協力」等は、スポーッマンに対するイメージ としてあげられる一般的なものであ り、かつ、スポーッによって形成されうるものであると考 えられきてている 〔
1〕。しかしながら、果してスポーッをすることによってこのような人間 形成が可能であろうか。この間に対 し残念ながら我々は、全面的な肯定をすることは不可能で あろう。かといって、全否定をすることもまた軽率のそしりをまぬがれない。
ここで現実のスポーッ界に目を転 じて見よう。そこでは、部分的ではあるものの、本来、
「スポーツマンシップ」ゃ「フェアプレイ」等の言葉で代表されてきた「理念」の顕現化、す なわち、それまでルールとして存在 しなかったものが、ルールとして成文化される傾向を強め ているように思われる。
例えば、1991年 9月 10日 付け朝 日新聞朝刊の「ことば」の欄には、「無気力相撲」に関 して 次のような説明が加えられている。
1971年 、大関同士の取組で「勝ちを譲ったのでは」と疑惑が持ち上が り、衆院文教委員会 で「八百長が行なわれているのでは」と追及されたことがあった。
当時の武蔵川・ 日本相撲協会理事長は「相撲に八百長のないのが鉄則」としながら、将来の 発生を防止するため、として「相撲競技監察委員会」を設置。寄付行為施行細則にも「故意に
よる無気力相撲懲罰規定」を盛 り込んだ。
規定にふれた力士は「除名」から「けん責」まで五段階の処分を受けるが、過去、厳密に適 用された例はない。唯一、監察委に指摘された
72年春場所の前の山一琴桜戦 も、師匠を通 じ て注意されただけだった。
相撲協会理事会は六日、新たに「出場停止」処分に三日間という期間を設定、今後は厳しく 対処する姿勢を示 した。ただ、故意かどうかの判定が難しく実効性には疑間が持たれている。
この事例は、「勝負の裏取引」を禁止 しようとするものであるが、しか しなが らこうした事 を取 り締まるための「ルール」を明文化しなければならない状況に追い込まれていることを、
如実に示すものであると言えよう。
こうした、明文化されていなかった、いわば、スポーッマンシップやフェアプレイに反する 行為に対 し、厳重な罰則をもって対処するという、「対処療法」が考え出されるのも一つの方 法であることは、当然認められるものであろうし、いわば「法の裏」をかく行為に対 してそれ をより完全なものにするという意味においては、まずなされなければならないものであろう。
しかしながら、それでもって全てが解決されると考えるのは、根本的な視点から見る限り無理 があるように思われる。なぜならば、人間の行為を「完全なる法」によって支配することと、
自らが善き社会を実現するために、自らをその善き社会の一員として律することとを比較して みれば、どちらが「善」であるかは、明らかだからである。このことは、スポーッを行なうた めにスポーッ界に参入したスポーッ参加者にも求められことであろう。
こうしたスポーッ界の傾向を反映して叫ばれているのが、「スポーッ倫理学」の確立を急 ぐ
声である。スポーッという特殊な世界を対象として、どうぃぅスポーッ行為を善とし、どんな
スポーツ行為を悪とするのか、等々の判断基準が揺らぐ今日的状況を打破するうえでも、当然
の成行きであろうし、これらのことが教育されることによって、すなわち「スポーツ倫理」教
「スポーツ倫理」教育における媒体項の構造に関する研究
育がなされることによって、前述 した「善き社会」 「善きスポーツ界」実現のための一歩 とな るであろう。
およそ教育とは、ある目標を条件とし、作用項である教師が、媒体項である文化財を持って して、被作用項であるところの生徒に働きかけるという機能を有している
(佐藤、 1986)。 こ の意味において、今 日のスポーツの危機的状況から逃れようとするならば、「スポーツ」 を対 象とし、 「倫理学」という方法によって蓄積された人間の「知識」 あるいは「知恵」の体系、
すなわちスポーツ倫理学によって体系化された「文化財」を生かし、それを個々人の実践に移 すことが、スポーツの危機的状況を脱出する上で重要であると仮定するならば、スポーツ倫理 学の理論が、教育場面においてどのように現われてくるか、換言するならば、教育機能の 一要 素としての媒体項にどのように具現するのかが、考察されねばならないであろう。
本研究の目的は、 「スポーツ倫理」教育における媒体項がどのような構造を持つのかについ て明らかにすることにある。そのためにまず、このテーマに関連すると考えられる村井の著書
「道徳は教えられるか」から、道徳教育の構造を明らかにすることによつて、道徳が どのよう にして教育されうるのかについて明らかにする。次に、村井の理論を「スポーツ倫理」教育に おける媒体項に適用するとき、それはどのような構造を持って現われてくるのかについて考察 する。
2.「
道徳」教育の構造的把握―村井の理論から一本節では、道徳の構造を明らかにする上で多くの示唆を与えてくれる、村井実 (1990)の
著書「道徳は教えられるか」を中心に、 「道徳」教育の構造にういて考察することにする。
村井は、まず書名にも掲げられている「道徳は教えられるか」 という命題をたて、それ への 解答を「『道』の教育と『徳』の教育 との二つの側面から吟味」
(村井、 1990、
p.20)(本2節においては、特に他の文献を引用 しない限り、以下、村井実の著書「道徳は教えられるか」
から引用したページのみを示す )し 「さらにその上で、この二つの側面の相互の関係 を考察」
(p.20)す ることによつて求めようとしている。そこで我々も、このプロセスを村井 とともに たどっていくことから始めたいと思う。
2D l 「道」の教育
道徳教育 について考えるとき、それは国語教育や算数教育 と同様に、知識の教育 と考えられ るべ きなのか、それ とも知識以外のいわゆる躾や訓練、習慣 などによって構成されているのか
が疑間となる。これに対 して村井は、アリス トテレスの考え方に従い、善や悪や正義に ついて の知識の教育と、その知識に従って行動する習慣の教育という二つの側面を持つという前提に、
まずたつ。
このような前提にたつとき、道徳の「道」は、知的な側面を意味することになる。以下、
「道」が何故、知的側面を意味するのかに関する村井の説明を引用してみよう。
「私たちが道徳的であるためには、私たちは、『善 くある在 り方』『正しくある行な い方』 な どを心得ておかなければならない。つ まり『道』 を知っていな くてはならないのである。」
(p.19)
「公平という道徳的行為のためには、私たちはまず『公平』という道徳的原則の存在 と、その 61
62 新 保
意味を知らなければならない。」
(p.21)「『勇敢』 とぃう道徳的行為は、『気性が強い』 とか、『たくましい』 とかの自然的性情によ る行為 とはちがうはずであり、『勇敢』であるためには、私たちは自分の勇敢な行為のための 適切な条件と方法とを知っていなければならない。」
(p.21)このように「善くある在り方」、「正しくある行ない方」、「公平」そして「勇敢」等々に基づ いて行為するためには、その存在や意味そして行為する上での条件や方法の知識が知られてい て、すなわち「道」を知ることによって、始めて道徳的であるということの意味を理解できる のである。
次に、我々の道徳的行為において、如何に多くの知識が必要とされるかについて、村井は
「実践的三段論法」を用いて、以下のように説明している。
道徳的行為発生のための実践的三段論法とは、「①まず行為の『原則』、すなわち公平であ れとか、約束を守れなどの原則が知られており、次いで小前提にあたるものとして、②自分の ある種の行為は他の人の不公平をおよぼすかもしれないという『状況』や、自分はある人とな んらかの契約関係にあるという『状況』についての知識があり、最後に、以上の大前提①と小 前提②との照合の上に、③自分はある行為をなすべきであるとか、なすべきでないという『結 論』を生ずるという推論の過程」(p.22)の ことである。
また、道徳行為発生過程における知識は、以下のそれぞれの知識に対応する。すなわち第一 の段階が「行為の原理・原則の知識」であり、第二の段階が「条件と方法の知識」であり、そ して最後の段階が「ある一定の行為の性質を原理・原則に照らして認証する知識」ということ になる。
以上、 「道」が知識であるということについての村井の解釈を見てきたわけであるが、それ らをまとめて彼は次のように述べている。
「私たちが道徳を教育するというばあいには、少なくとも道徳の構造における上述の三種の知 識
(前述の道徳行為過程における三つの知識
:筆者 )の 性格を心得て、そのそれぞれの得させ 方を吟味しておかなければならないことになる。そしてその吟味において、もし私たちがそれ らの知識のそれぞれの性質を明らかにすることもできず、 したがってその得させ方を確立する ことができない限り、私たちの道徳教育への志 しは、その出発点において、すでに、盲人が駆 け出すような危険にさらされていることになる。」
(p.23)このように「道」を知識として捉えた場合、我々
(指導者 )の なすべきことは、「子 どもが 遭遇するであろう生活場面において、子どもがそれぞれに自分自身の振舞い方を決定すること ができるように指導 してやること」
(pp.26‐27)で あり、そのためにも、道徳問題の解決に役 立つかぎりにおいて、あらゆる諸科学の知識を含め、「道」という道徳の知識の教育が必要と なることが理解できよう。
2口
2
「徳」の教育一般の知識においてもそうであるように、道徳の領域においても、まず知的な理解があり、
それ を前提 として道徳的実践が行 なわれる。 この ことは、前述 した道徳的行為発生過程 におい
「スポーツ倫理」教育における媒体項の構造に関する研究
63ても知ることができた。この理解から、道徳的行為が慣習・命令に基づ く行為や無自覚の行為 とは、明らかに区別されるものであることに辿 り着 くのは容易であろう。すなわち、道徳的行 為は、常に自律的でありかつ自覚的でなければならないのである。では、そこで得られた知識 をいかにすれば実践につなげることができるであろうか。村井は、まさに「徳」 の教育 とは、
この実践につなげる教育であると考える。そのために必要となる「教える」事柄を、村井は以 下の
4点にまとめている。
第一に、 「道」における「原則」や「目標」の知識は、単に記憶されるにとどまらず、十分 な理由を掲げることによって、子供たちに分からせ、理解させることが必要となるということ である。第二に、実際に道徳的実践を行なおうとする場合に生 じる原理・原則の対立を克服す る「力」、を「教える」ことの必要性についてである。すなわち、「状況の慎重な分析 と判断 と の上に立って、それを原理・原則 と
,の対照において考量 し、その上で妥当な原理・原則を選択 することができる」
(pp.46‐47)能 力が必要となるということである。第三に、歴史の推移に よって、ある道徳的原理が廃止されたり、変容 したりした場合に対処 しうる能力を「教 える」
ことの必要性についてである。こうした「対処能力」は、道徳的実践をなすうえで、「道」 に おける知識の十全たる理解 と状況の判断力を必要とすることは、あらためて述べるまでもない であろう。そして第四に、道徳的主体性を確立することの必要性。すなわち、この主体性を
「教える」 ということは、 「人間と人間の関係の中での道徳的原理・原則の理解、および道徳的 条件の分析力の強化を促すことに外ならないのである。 」
(p.49)以上が、 「徳」の教育においてなされるべ きこと、すなわち「教える」べ き事柄であると村 井は述べている。
ここで述べ られた「徳」の教育は、村井によって引用されたアリス トテレスの道徳教育の一 つである「知識にしたがって行動する習慣の教育」を意味することになるが、いずれにしても
「道」である知識を必要条件とするならば、 「徳」は道徳教育を完成させるための十分条件 とな りうるとまとめている。
2.3 「道」の教育における三段論法的二重構造
前節までの考察から、村井は、まず我々が取 り掛かるべ きことが、 「道」の教育、すなわち 道徳の知的側面をいかに充実させることができるかが問題であるとした。次に「道」の教育に おいて引用されたアリス トテレスの「実践の三段論法」、すなわち我々の道徳的行為が、
<大前提
>、<小 前提
>、<結 論>と いう、それぞれに異なった性質の知識によって支配されてい
るということを明らかにした。その上で村井は、これらの論理を発展させ、「原則の原則―大 原則―を追求せよ」
(p.61)という考えに基づいて、道徳の構造をさらに三段階に階層化 し、
「道」における「知」の考察を深めている。
それをまとめたのが図 1で あるが、ここでは下位の「裁判官的機能」から、「立法家的機
能」、 「愛智者的機能」の順に、それぞれにおける村井の説明を見てみることにしよう。
64 新
保
〔 愛智者的機能〕
<大 前提 > すべての人が幸福を求めるならば……が望ましい。
<小 前提 > 人間的状況の分析的認識
(人間的諸条件・諸事態に関する分析的知恵の集積
)<結 論 > 道徳的大原則…… (?) 〔
2〕‖
〔立法家的機能〕
道徳的大原則……
(?)
経験的世界の分析的認識 (人生の諸条件、原因結果等の組み合わせ の論究)
実践的規則 (徳目)
‖
〔裁判官的機能〕
<大
前提>
実践的規則 (徳目)<小
前提>
個別の事情の分析<結
論>
個別の行動の判定<大 前提 >
<小 前提 >
<結 論 >
図
1
道徳の三段論法的二重構造 (村井、1990、 pp。74‑75)
第一に、村井は、裁判官的機能について次のような説明をしている。「裁判官的機能 とい う のは、ちょうど裁判官がいわゆる実定法 (大前提)を個別の事例 (小前提
)に
あてはめて判決 を下すばあいに似ている。」 (p.69)と し、「実践規貝1に照 らして、個別の行為が正 しいか どう かをきめる手続 き、つまり個別の行為の『正当化』」(p。149)であると述べている。第二の立法家的機能 とは、立法家の仕事である「実定法や、社会的規則やヽ慣習的道徳がそ のままでは通用 しな くなったばあいに、新 しく実定法その ものを作 り代える」
(p.70)も
ので あ り、「 自分たちの社会的行動や判断の基準 となるべ き原則 を発見 した り構成 した りす ること を自分の仕事 としている」 (p.71)と ころにその特徴 を持つ ものであ り、「行為の実践規則が道 徳的大原則 に照 らして正 しいか どうかをきめる機能、つまり実践規則の『正当化』 」(p.149)
であると述べている。第三の愛智者的機能 〔3〕 とは、前述した「裁判官的機能」や「立法家的機能」のような、
原則が先に存在し、その原則から結論を導き出すという手続きとは異なり、その原則自身を作 り出すところに、特徴がある。いうなれば「人間の自然的条件を材料として道徳的原則を作り 出す機能、つまり道徳的大原則の『正当化』」
(p.149)で
あると述べている。次に、これら三つの機能の関係 について、それぞれの必要性 とい う観点か ら村井の説明を見 て行 くことにしよう。
まず立法家的機能の必要性は、裁判官的機能を遂行するための基礎 となる実践規則が、互い に対立 し、矛盾するときに、 また、その内容が歴史的・社会的に見て硬直 し、変容を迫 られる 場合 に、 さらには、道徳的主体性の確立、すなわち自分 自身の実践規則の作 り主であるため に、十分な根拠の上に立ち特定の実践規則 を選択する上で必要 となる。いわば「実践規則の確 かな存在根拠が、さらに人間性の根本にさかのぼって探 られなければならない」
(p.81)と
き に、裁判官的機能を越えて、立法家的機能が必要 とされるのである。「スポニツ倫理」教育における媒体項の構造に関する研究 65
次に愛智者的機能の必要性は、「道徳的大原則」 をどのようにして普遍的に確立 させ るか と いう問題が中心 となる。 これに関する村井の解釈 を引用 してみよう。
「立法家的機能の教育は、いわば実践規則 (徳日
)の
根拠 として、 『道徳的大原則』 の普遍性 を求めてい くのであ り、愛智者的機能の教育は、 『人間はすべて幸福 を望んでいる』 という命 題の結論 として、同 じ『道徳的大原則』の確立を求めているのである。一方は下か ら上に向っ て探求することの教育であ り、一方は上か ら下に向っての同 じ探求の教育である。」(p.85)以上のことより、道徳は、「道徳的大原則の確立」(愛智者的機能)を中心 とし、その根拠 を 基準 として原則 (実践規則)を演繹 し (立法家的機能)、 その原則 (実践規則)を基準 として 結論 を下す (裁判官的機能)とい う全体的構造を内実 として持ち合わせていること。 また、そ れぞれの機能においては、原則 を
<大
前提>と
し、状況の分析 を<小
前提>と
し、その両前提 の組み合わせか ら個々の行為のあ り方を決定する (<結論>)、 とい う構造が理解 された。3「 スポーツ倫理」教育における「媒体項」の構造
前節では、村井の考える道徳教育の構造について見て きたわけであるが、本節 においては、
その理論 を「スポーツ倫理」教育に適用するとき、スポーツ倫理学において構築 された理論が
「媒体項」 としてどのような構造 を持つ ものであるのかについて考察する。
3.1「 スポ…ツ倫理」教育 にお ける媒体項
「スポーツ倫理」を教育するというときに、まず考えられなければならないことは、緒言で も述べたように、スポーツ倫理学において構築された理論が、教育という機能における「媒体 項」 となるということである。それ故、ここでは、この「媒体項」が何であるのかを明らかに するために、実践的三段論法の視点から、スポーツ倫理学が何を対象とする学問であるのか、
ということに絞って見ていくことにする。
友添
(1983a、p.98)は 、スポーツ倫理学を構築する上での予備的考察において、スポー ツ倫理学は、行為 しようとする意志を問題にし、行為の原理の善さを基準とする学問であると 述べ、かつスポーツ倫理学の対象 として、スポーツ規範をあげている。スポーツ規範 とは、
「我々のスポーツ関与によってスポーツが形成する世界を規律 し、同時にスポーツに関与する 我々をも規律する規範」
(友添、
1985、 pp.77‐78)で あり、それは、スポーツ法規範
(スポー ツルール
)、スポー ツ道徳規範
(スポー ツマ ンシ ップ
)、スポー ツ習俗規範
(スポー ツにおける マナー、エチケ ッ ト )に 分化 され る ものであ る としてい る。すなわちスポーツ規範 とは、スポー ツ場面において、ある行為を行なおうとする意志が拠って立つ基盤であり、この意味において スポーツ規範は、実践的三段論法上の「大前提」に相当するものであると言えよう。
また、守能は、スポーツ倫理学の対象という意味で、直接的な言及をしているわけではない
が、 「スポーツ規範が形づ くる全体的な構造について、一つの単純にして明快 なモデルを提示
することにしたい」
(守能、
1984、p.88)と 述べ、スポーツの現象場面に関わる「規範」の分
類を、図 2の ように整理 している。
66 新 保
図
2
スポーツ 0ル ールの構造 (守能、1984:p。
108)守能によれば、「条理的行為規範」 とは、「スポーッを行なう上で選手が遵守すべ きとされる 道徳的性格の規範のうち、遵守 されるべ き中身 としての行為 を前 もって特定することが困難で あるゆえに、たとえ成文化 したところで具体的な形で法的安定性の確保に貢献することのない
規範」(守能、1984、 p。119)であ り、「ルール・ ブック中に言葉 を用 いて具体 的な形で盛 り
込むことは技術的にむずか しいが、各選手がスポーッの場で遵守すべ きものと関係者が認めた、
暗黙裡の行為規範」(守能、1984、 p.120)であるとしている。この例 として、守能は、 「ス ポーツマ ン綱領」 をあげているが、その他の例 としては、テニスにおける
"The code"(邦
訳、テニス選手倫理規定)があげ られよう。この倫理規定は、セルフジャッジにおける規定がこと 細かに説明されているが、その冒頭には、「 この規定は規則ではない。選手の心構 えを示 した ものである。」 とされ、各選手がスポーツの場で遵守すべ きものと関係者が認めた ものである と言えよう。
次に「刑法的行為規範」 とは、「競技中、相手選手に具体的な損害を与え、 または与 える恐 れのある行為の実行 を、責任 を担保にして禁止する規範である。ただしこの場合、何 をもって 実害の発生があったとみなすかは、換言すれば各競技者が受忍すべ き被害の限度をどこに定め るかは、スポーッの種 目によって同一ではない」(守能、1984、
p.123)と
し、 身体接触 の許 容範囲が、バスケッ トボール、サ ッカー、ラグビーにおいて異なることなどを例 としてあげて いる。さらに「行政法的行為規範」 とは、「予備検束を可能にする『治安維持法』 的な性格 を本質 的に備え、スポーッ関係者が個々のスポーツに関 し、そのまま放置すれば当該スポーツの『面 白さ』が破壊 されるとあ らか じめ判断 して宣言 した行為の実行者に対 し、画一強行的に処罰を 施す。ただ し、当該行為は相手選手に実害をもたらす行為ではな く、『面白さの保制 という、
当該スポーツの存立にかかわる全体的利益の見地か ら主観的にさだめ られた、技術的かつ形式 的な命令に違反する行為」(守能、1984、
p.131)と
し、その行為規範 自体 としては無意味で あって も、それ らを統制する目的、守能によれば「面白さの保障」に対 して、ある重要性をも条 理 的 行 為 規 範
刑 法 的 行 為 規 範
行 政 的 行 為 規 範
行為 の規 制 客観 的条件 設 定
「スポーツ倫理」教育における媒体項の構造に関する研究
67つ ものであると述べている。
最後に「組織規範」について守能は、次のように説明 している。「組織規範 とは、 勝敗や優 劣 を決定する上で直接必要 とされる競技条件の設定の仕方、および一定事態の出来につづ く事 後措置の とり方に関 し、一定の定義を下すルールのことをいう。ゲームに決着 をつける上で不 可欠 となるこの規範は、 まさにそのことゆえに、審判を含めた関係者の主観や裁量を超えたと ころで、いわば自動的 もしくは機械的にその適用がなされる」(守能、
1984、
p.140)と し、例 として、ゲームが行なわれるコー トの大 きさや時間、あるいは人数 用いられるボールやゴー ル・ポス トの規格などをあげている。
スポーツにおいては、これ らの規範の うち、「条理 的行為規範」、「刑法的行為規範」 及 び
「行政法的行為規範」 によって「行為の規制」が行なわれていること。換言するなら│よ スポー ツにおける行為がこれ らの規範 を前提 として導 きだされることを理解することができよう。
以上のことより、「スポーツ倫理」教育における「媒体項」について、次の ように考 えるこ とがで きる。すなわち、スポーツ倫理学が対象 とするスポーツ規範は、スポーツ場面における 行為 を決定する原理・原則を意味するものである。それ故、 この原理・原則 こそが教育機能に おける「媒体項」 とな りうると言えよう。 また、このことは、スポーッ倫理を教育するという 時の知的な一側面の充実を、スポーツ倫理学が担っているとも言えよう。
3.2「 スポーツ倫理」教育における媒体項の構造的把握
我 々は、前項において、スポーツ行為 を決定づける原理・原則、例えば、ルール、フェアプ レイ、マナー等の実践規則が「スポーツ倫理」教育における媒体項 となることを明 らかにした わけであるが、村井は、三段論法的三重構造 という視点か ら実践的三段論法において示 される
「大前提」 を考察するとき、そこには質的違いがあることを指摘 している。 とす るな らば、前 述 した「媒体項」 も、それぞれの機能において先に明 らかにした媒体項 を眺めるとき、それぞ れの機能においてどのような構造
tす
なわち<大
前提>、<小
前提>、<結
論>を示すのであ ろうか。まず裁判官的機能か ら見たときの媒体項について具体的に見てみることにしよう。裁判官的 機能は、実践規則に照 らし合わせた上で、その行為が正 しい ものであるのか どうかを判断する ことにその機能があるわけであるが、スポーツ場面においては、上記の実践規員
Jが
ルールであ り、スポーツマ ンシップやフェアプレイであ り、あるいは、マナーやエチケット等々の「スポー ツ規範」(<大前提>)の
形態 を持って立ち現われて くる。 これ らに個々のスポーツ実践 にお ける状況 を照 らし合わせることによって (<小前提>)、 スポーツ実践における行為の正不正 が決定 されて くると言えよう (<結論>)。次に、立法家的機能は、「人間にとって普遍的に望 ましいあ り方を大前提 として、 人生一般 の状況の中にある原因、結果、条件、事情の組合わせ を分析 し (小前提)、 これ ら二つの前提 の慎重な照合 を通 じて種 々の実践規則 (徳目)を結論 として創 り出す」(村井、
1990、 p.71)
ものである。このことを逆の視点か ら見るならば、裁判官的機能において使用 される実践規則 そのものが、互いに矛盾 した り、歴史的及び社会的に見て、変容が迫 られている場合に、その 実践規則の存在根拠の正当性 を問うものであると言 うことが出来 よう。いうなればスポーツに おいて存在するルール、フェアプレイ、マナー等のスポーツ規範 自身の存在根拠 を問うもので ある。確かにルールに目を向けてみて も、科学の発達により、用具や施設に変化が生 じ、それ68 新
保
によってルールの改訂が行なわれてきている。 しか しなが ら、その改訂は、何 らかの大前提に 統率 されているものであ り、そこか ら逸脱するものではない。例えば、守能が述べ るように、
「スポーツは『面白』 くなければならない」 という規範 を大前提 とするなら、
どの ような小前 提がおかれようとも、実践規則は、「面白さ」 を失 うものであってはならない、
とい う事 にな るであろう。このように考えるなら、スポーツの本質 (これについては、現在の ところ一致 し た見解があるわけではないが)、 例 えば先にあげた守能の「面白さの追求」 とか、 アメ リカの スポーツ哲学者ポール・ ワイスの「競技者相互間の卓越性 の追求」 等 をスポーツの本質 とし (<大前提>)、 それが行なわれてきたスポーツの世界において、経験的に蓄積 されて きた実情 に鑑み (<小前提>)、 その結果 としてのスポーツ規範が作 りだされることになる (<結論>) と言えよう。
さらに愛智者的機能について、村井は、「『人は幸福 を望んでいる』 とい う自然的事実 を材 料 として、 『もし幸福 を望むならば、人は……でなければならない』 という、道徳的命令 を作 りだす特殊な機能 と言 うことがで きるであろう。」(村井、1990、
p.98)と
述べ、 さらにこの 道徳的命令は、私たちの人間的状況の経験的な分析 に基づいて導 き出されなければならないと している。 この結果 として、道徳的大原則が結論づけられるわけであるが、スポーツにおいて は、この自然的事実に基づいて作 り出された道徳的命令 (<大前提>)を
、他の道徳的大原則 を導 きだすための前提 として考えることは可能であるが、次の「私たちの人間的状況」は、ス ポーツという特殊な状況に限定 されたものであることを理解 してお く必要があろう (<小前提>)。 それ故、その結論において、スポーツの本質 という人間の行為上、特殊である事例 の大
原則を導 きだす ことが出来ると考えられる
<結
論>。 つ まり、人間の自然的条件を材料 として スポーツの本質を「正当化」することであるとも言えよう。以上の考察をまとめたのが、図3である。
〔 愛智者的機能〕
<大 前提 > 自然的事実に基づいて作 り出された道徳的命令
<小 前提 > スポーツを行なう人間的状況の分析的認識
<結 論 > スポーツの本質…… (?)
││
〔 立法家的機能〕
<大
前提>
スポーツの本質……(?)
<小
前提>
スポーツ世界の分析的認識 (スポーツの諸条件、原因結果等の組み合わせの論究)<結
論>
スポーツ規範‖
〔裁判官的機能〕
<大 前提 > スポー ツ規範
<小 前提 > スポーツ実践 における状況の分析
<結 論 > スポーツ実践 における行動の判定
図3
「スポーツ倫理」教育における「媒体項」の三段論法的二重構造「スポーツ倫理」教育における媒体項の構造に関する研究
4.結 語―「スポーツ倫理」教育の可能性
これまでの議論を振 り返るとき、
2においても引用したが、村井の次の言葉を我々は、どの ようにとらえることが出来るであろうか。
「私たちが道徳を教育するというばあいには、少なくとも道徳の構造における上述の三種の知 識
(「行為の原理
0原則の知識」、 「条件 と方法の知識」、 「ある一定の行為の性質を原理・原則 に照らして認証する知識」
:筆者 )の 性格を心得て、そのそれぞれの得させ方を吟味 しておか なければならないことになる。そしてその吟味において、もし私たちがそれらの知識のそれぞ れの性質を明らかにすることもできず、したがつてそめ得させ方を確立することができない限 り、私たちの道徳教育への志 しは、その出発点において、すでに、盲人が駆け出すような危険 にさらされていることになる。 」
(村井、
1990、p.23)
「スポーツ倫理」教育においても、スポーツ倫理学が探求することになるであろう「行為の原 理・原則の知識」、すなわち <大 前提
>を媒体項の一つとして利用 しうることは、明 らかにし てきたわけであるが、それだけでは、村井が述べるように、我々は「盲人が駆け出すような危 険にさら」 していることになるであろう。というのも、その <大 前提
>に、「条件 と方法の知 識」 という <小 前提
>や、 「ある一定の行為の性質を原理・原則に照らして認証する知識」が 結びついて始めて、倫理にかなった行為が具現すると考えられるからである。 とするならば、
「スポーツ倫理」教育における媒体項をより十分なものにするためには、
<小前提
>を探求す るスポーツ科学、例えば、スポーツ社会学やスポーツ史、バイオメカニクス等か らの「知識」
が必要となり、さらには、その <大 前提>と <小 前提
>を結び付けるための「知識」 、例えば、
スポーツ心理学やスポーツ教育学等もまた必要とされることになる。これらの「知識」の総体 が、 「スポーツ倫理」教育の媒体項 となることによって、村井のいう「道」の教育の完成に近 づ くと考えられる。
しかしながら、フレイリー
(W.フレイリー、
1989、 p.30)が述べるように、 こうした知 識だけによって、スポーツに参加する多 くの人々が、道徳的に考えるようになることを期待す べ きでなく、スポーツ界において責任のあるコーチ、体育教師等々が、その方向に導 くという ことが必要となるであろう。この意味において、「スポーツ倫理」教育の可能性は、 コーチや 体育教師といった人々に多 くが委ねられてお り、こうした人々の道徳的知識に対する認識が、
今後のスポーツ界の状況を左右するとも言えよう。
誰及び引用参考文献
〔
1〕守能は「スポーツはスポーツマンシップやフェアプレーの精神 を人に植えつけるか ら
『す ぐれて教育的で文化的な活動』である、というのではない。少なくともアプリオリな形で そのようなことは何 もいえない。ただ、そうした理念の追求をよしとする人間側の 《 宣言》が
なされ、また実際、それに即 してこの活動がなされる場合においては じめて、それをその よう な活動 とよぶことは許されるであろう。」(1984、 スポーツとルールの社会学 ― 《面 白さ》 を ささえる倫理 と論理 ―、名古屋大学出版会、p.123)と
述べている。 また、水野 も我が 国にお ける戦後の指導要領 には、表現や内容 に変動が有 るものの、常に「スポー ツに よる人間育成」が、体育科の 目標に掲げ られて きたことを指摘 している。(水野忠文、
1977、
「 スポー ツとは 6970 新 保
淳
何か」、スポーッの科学的原理、講座・現代のスポーッ科学1、
p.48)
〔2〕 ここに (?)が附されているが、これについて村井 は次の ような説明 を加 えている。
「私たちは前述の構造図において、立法家的機能の大前提 として「道徳的大原則」 をあげ、 そ こに
(?)を
附 しておいた。 これは、 この道徳的大原則について、現在の私たちがかならず し も一致 した見解に到達 してお らず、む しろ、はたしてそのような一致 した見解があ りうるかど うか、到達 しうるとして、 どうぃぅ方法によってそれが可能であるかということが今後の大問 題でなければならないか らである。」(村井、1980、p.84)
〔3〕 以上の「裁判官的機能」や「立法家的機能」は、ジョン・スチュァー ト・ ミルの「論理 学体系」から、村井が援用 したものであるが、最後に残 された愛智者的機能は、「様 々な実践 規則の根拠 となるべ き大前提 を極力 自明的なものとして作 り出す」(村井、
1980、
p.72)機能 を有 しているという意味において、我々にとってより重要な段階であることか ら、村井によっ て作 りだされた ものである。(1)馬場哲雄、,石川悦子、1978:スポーッ倫理の倫理学的研究―その動向 と比較研究―、
日本女子大学文学部紀要、Vol.28、 pp.69‐
77
(2)フ
レイリー (近藤良享他訳)、 1989:スポーッモラル、不味堂出版(3)水野忠文、
1977:「
スポーッとは何か」、スポーッの科学的原理、講座・現代のスポー ツ科学1、p.48
(4)文部省体育局体育課監修、1990:テニス選手倫理規定、体育スポーッ総覧 (ルール9)、
ぎようせい、
2689031‐ 2689・ p.48
(5)守能信次、1984:スポーッとルァルの社会学 ― 《面 白さ》 をささえる倫理 と論理 一、
名古屋大学出版会
(6)村井実、
1990:道
徳は教えられるか、国土社(7)佐藤臣彦、
1986:体
育の基底詞 としての教育概念の範疇論的考察 (その1)一体育概念の哲学的基礎付け :第 二章 (前編)一、体育・スポーッ哲学研究、第8巻、pp.1‐15
(8)菅原祀 (編)、 1980:スポーッ規範の社会学、不味堂出版
(9)多和健雄、1976:スポーッルールの窮極 にあるもの、体育の科学、Vo126,No。1,pp.15‐18
(10)友
添秀貝1、 1983a:スポーッ倫理学成立に関する予備的考察 ―その1、 倫理学的観点か ら―、香川大学教育学部研究報告、第
1部
、第57号
(11)一―一一 、1983b:スポーッ倫理学成立に関する予備的考察 ―その2、 スポーッ倫理 学の位置づけ一、香川大学教育学部研究報告、第
1部
、第58号(12)一 一一一 、1985:スポーッ倫理学の学的対象に関する理論的研究、香川大学教育学部 研究報告、第