藤原卿関係歌群について : 配列・題詞から考えら れること
著者 加藤 千恵
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 14
ページ 41‑48
発行年 2003‑06‑22
URL http://hdl.handle.net/10076/6597
藤原卿関係歌群について
配列・題詞から考えられること
ー
ー
一、はじめに
巻二相聞の部に、藤原卿(鎌足)(桂一)に関係する歌が連続
して置かれている。まずはその歌々を次に挙げる。
※頭の番号は本論著者が整理の便宜上付した。
〔
〕
近江大津宮御宇天皇代
Ⅰ
天皇賜=鏡王女一御歌いもがいへ
も
つぎ
て み ま
し セ
妹之家毛継而見麻息乎
モ
いもがあたりつぎ
て
も
は割注・小字を示す。
〔天命開別天皇註日〓天智天皇一〕
首
や=王とむるおほしまのわ
に
いへもユ申ち壷し山跡有大嶋嶺ホ家母有猿
み b に
尾
〓云妹之営継而毛見武ホ いヘモらま
し 喜
一云家居麻之乎〕
(②九こ
鏡王女奉レ和御歌一首あさやまのこのしたかくりゆくみづ
の
ゎれ
こ
モょさめおもは†より
暮ま
秋山之樹下隠逝水乃書評曽益目御念従者
(②九二)
Ⅱ
内大臣藤原卿姶二鏡王女一時鏡王女贈=内大臣一歌一首 加藤千恵
たまくしげわほふモやすみあけていなばきみがなはあれどわがな
玉匠
覆乎安美開而行者君名者錐有
内大臣藤原卿報二贈鏡王女‑歌一首
玉匝
将見園山乃狭名葛佐不凍者遂ホ
〔戎本歌日玉匠三室戸山乃〕
Ⅲ
内大臣藤原卿撃東女安見見一時作歌一首
あ は
も や
や†み
こ
えたりみなひと
の
え かて
に
†と
安見見得有皆人乃得難ホ為云
え た 止り
衣多利これらの歌々を歌群として見ていく場合、その背後に
り」
(注二)の存在が指摘できる。Ⅰ・Ⅱの歌々を、その配列に
従って「歌語り」として見ていくと次のようになる。天智天皇
と鏡王女(注三)はⅠのように贈答歌を交わしている。Ⅰの贈答
歌が
「相聞」の部の収録であることと、二人の親族関係が明確
でないことから、この「念」は恋の思いであるとして、二人は
恋仲だったと理解される。しかしその後、Ⅱにあるように、藤
原卿が鏡王女に求婚することになった。天智天皇の腹心といっ
てよい藤原卿が、許しなく天皇の親しい女性に求婚するはずが
ない。求婚を許可したとすると、天皇と鏡王女の恋は終わった
ことになる。求婚の態果は、『万葉集』では不明である。しかし
『興福寺縁起』(昌泰三年(九〇〇)成立)の「内大臣……嫡室鏡
女王」という記載から、少なくとも鏡王女は藤原卿の妻になっ
たという伝承はあったらしいということがわかる。以上はあく
までおおまかな解釈のひとつであり、これが歴史的事実かどう
かを追及するすべはない。
この解釈は、配列や題詞に負うところが大きい。よってその
部分について検討することによって、この歌群に二種類の意図
的な作為を認める辛が出来る。今回は藤原卿関係歌群の、特に
鏡王女に関係する歌を中心に「歌語り」として考えた時の問題
点について見ていく。
二、作歌の順序について
第一に注目したのが、配列に関する部分である。この配列は
実際の作歌時における事実を反映一したものであるだろうか。そ
れとも編纂時になされたものであるのだろうか。またこの配列
である事から読み取れるものがあるのだろうか。この点につい
て考えてみたい。 〓)天皇御製歌配列の特殊性
巻一・二にのみ存在する標目とその天皇の御製歌の配列を見
ていくと、募合によっては作歌時期を無視して配列された可能
性があるのではないかという興味深い点に気付く。
作歌の時期は、基本的には題詞・左往か配列によって推定さ
れるが、巻一・二には「……宮御宇天皇代」という形式の標目
が存在し、作歌時期推定の助けとなる。標目は巻一ニーを通し
て全部で十五例存在するが(論未の表「標目と天皇御製敬一寛」参照、
以下同じ)、その標目以下の歌を見てみると、標目の天皇御製歌
が存在するのは六例七首である。そのうち年代推定が可能なの
は一例二首、巻一の標目「天浮中原温真人天皇(天武天皇)」
の
所にある二五・二七番歌である。二首はいずれも左往により天
武七年(六七八)の吉野行幸時の作(または発表)と推定され、
それ以前の天武四年作とされる二二番歌が標目内の冒頭にある。
残りの五例五首はいずれも作歌時期が題詞・左往によって特定
されておらず、いずれも天皇御製歌が標目内の冒頭にある。ま
た、一切推定の手がかりが示されていない標目後冒頭歌も、こ
の五首となっているのである。
以上のように、標目にある天皇の御製歌は、作歌時期とは無
関係な配列がなされた可能性があるのではないかと考えられる
のである。つまり「近江大津宮御宇天皇代」の標目下にある全
十二首のうち、これが先頭にあるからといって必ずしも天智朝
初期の作と限定できないし、天智天皇の作である辛が重要な為
に作も天智朝ではない可能性もある、と考えられるだろう。
(二)現在の配列による演出
さて今回の「歌語り」の面白さは、先に天智天皇と相聞歌を
やりとりした鏡王女という女性が、後に藤原卿に求婚されて妻
になっているということにあるだろう。ただしこれは天智天皇
と鏡王女の贈答歌が恋歌であるという解釈と、詠まれた順番が
この通りであるとの認定によって起こる状況である。
天智天皇と鏡王女の恋愛関係については『玉勝間』以来採用
されてきた解釈であったが、『考』の「こは常の相聞にはあらぬ
なるへし」という発言や『講義』のように、否定する説もある。
しかし今は本来の作歌状況ではなく「歌語り」として考えてお
り、それは配列や収録のされ方によって考えるしかない。ここ
では「相聞」の部に収録されていることによって、遅くとも編
纂当時には恋愛関係が認められていたと考えてよいだろう。
次に作歌時期である。従来、Ⅰの作歌時期(藤原卿による鏡
王女への求婚の時期)について、諸注釈書では主に二説、孝徳
朝の難波時代(『井上新考』・『金子評釈』など)とみる解と、天智朝
の藤原卿募去後(『全釈』去精考』)とみる解がある。天智天皇と
鏡王女の恋愛関係を肯定する場合、根拠は明示されていないが、
藤原卿との婚姻以前ということを考えてか、孝徳朝とする説が
多い。しかしこれを採用すると標目と矛盾する。また恋愛関係
を否定する場合は藤原卿亮去後の見舞いの歌とされる。この場 合はこの後に死んでいるはずの藤原卿の歌があることが配列を時代順と見る事と矛盾する。解釈と作歌時期を関係させて考えた場合、以上のようにそれぞれ矛盾が生じるのである。
ところで、鏡王女は天武朝で厚遇を受けていた。その根拠は
天武十二年(六八三)に病になった時天皇の見舞いを受けている
ことである。天武天皇の行幸は全部で十大回(巡行・狩りを含む)
あるが、病になった臣下の見舞いの例は天武十二年の「鏡姫王」
のみである。『日本書紀』に経歴不明の王が多く見られるように、
当時王や女王の称号を持っていた皇族は少なくなかったと考え
られる。その中で鏡王女は優遇されているのであるー
鏡王女が天武朝で厚遇を受けていたとすると、天智朝におい
ても丁重な扱いを受けた可能性がある。先に述べた『興福寺縁
起』の記載のような伝承があったとすればなおのことである。
とすれば既婚・未婚に関係なく鏡王女が天智天皇と歌を贈答し
ても、なんら不思議は無い。また鎌足との婚姻後に天智天皇と
歌を贈答したという配列であれば、もっと広く恋愛関係より挨
拶的な贈答歌として受け取られただろう。
結論として今の配列であれば、天智天皇が恋愛関係にあった
ほど親しかった女性と藤原卿が歌を送りあうこと、特に婚姻を
許したという事は、つまり天智天皇の藤原卿への深い信頼を表
すもの、または藤原卿の立場の強さを示すことになっている、
その最もよい配列であると言えるのではないだろうか。
〓「女性の立場による演出
この歌群に登場する二人の女性は、それぞれ女王と采女とい
う立場にあり、双方に共通するのは「臣下が許可なく通婚する
のは困難な女性」であるという事である。よってここでは、こ
のl一人の女性を、その立場を中心にみていくこととする。
(〓
「皇族女性」・鏡王女
鏡王女の経歴については、多くの研究がなされている。まず
は出自についてであるが、「鏡王の女額田姫王」とある額田王と
姉妹であったという説がある(注四)。額田王と鏡王女は巻四・
四八八〜四八九(巻八・一六〇六〜一六〇七はこの類同歌)に贈答歌
と思われる歌があり、ある程度親しい仲だった事は推測される。
しかしこれ以上の証拠はないため鏡王女・額田王姉妹説を否定
する論が相次いで発表され(注五)、今では「二人の関係は不明」
とされている。次に『延書式』の、静明天皇の押坂陵域内に鏡
王女の墓があるという記載から、野明天皇の近親の皇族女性と
推測する説もある(注六)。
鮮明天皇との関わりを別にして、その称号から鏡王女が二世
から五世の皇族であるとすれば、皇族女性が臣下に嫁ぐという
ことがありうるのだろうか。『養老令』の規定によれば、臣下は
五世以下の王としか婚姻できなかったが、後に天暦十二年(七 九三)の詔で、大臣を出したことのある良家の子孫には三世以
下の王(藤原氏は二世以下の王)との婚姻が許可されることになっ
た(注七)。また安田政彦氏によれば、女王降嫁の始まりは九世
紀半ば頃で、本格化するのは藤原良房・基経が権力基盤確立の
ための方策としてからであるとのことである(注八)。私見によ
れば、『日本書紀』に見られる皇族女性の婚姻相手については、
相手が天皇か皇族の場合には記載されることがあるが、臣下の
場合の記載は見つからない。特に等親の近い女王と臣下の異例
の婚姻が存在すれば記録に残ったであろうから、まずなかった
と考えてよいだろう。
以上の事より、藤原卿と皇族女性である鏡王女の婚姻は、事
実とするならば異例のことであると言えるのである。
(二)「采女」・安見鬼
第二に、Ⅲに見られる采女安見見について見てみる。安見鬼
という女性の経歴は不明であり、これ以上の追求はできない。
またこの女性の持つ意味は本人の素性でなく、「采女」という立
場にある。よってここでは特に「采女」について見ていくこと
になる。
「采女」について『国史大辞典』を見てみると、
後宮の下級女官。…(中略)…大化前代では、…(中略)…国
造や県主など地方豪族が、朝廷への服属の過程で、忠誠の
保証として自己の子女を人質として貢進したもの。…(中
略)…五世紀後半ごろ制度として整備したと推察される。・‥
(中略)…律令制盛期では、…(中略)…郡が貢進単位であり、
郡少領以上の姉妹や女の形容端正なるものが貢進された。
とある(注九)。采女の始まりが「忠誠の保証として自己の子女
を人質として貢進したもの」であるという磯貝氏の説は、采女
が臣下と通じることに対しての罰の厳しさを考えるとうなずけ
る。『日本書紀』によれば、静明八年三月条に、采女と通じたも
のがいたらしく、調査をして罪としたという記事があるが、調
査の厳しさに三輪君小偽鶉が自殺したとある。時代が下り采女
の役割が変質した可能性があっても、まだごく近い時代、記録
によれば野明朝までは、その通婚の困難さということは残って
いたといえる。
采女が、容姿端正な女性であること、天皇以外の男性が簡単
に通婚できない女性であることは、文学素材という点で特に注
目される存在だったのだろう。今回は特に『日本書紀』を見て
みると、「采女」の語の使用例は二十一条三十一例、うち采女が
物語で大きな役目をもって現れるものは十話で、雄略紀が大半
である。今その一々を挙げないが、門脇禎二氏は記紀に見られ
る采女の悲しさや惨めさについて述べておられる(注十)。
采女は物語において、他の女性にくらべて悲劇性を帯びてい
る。これは采女が恋愛において不自由な状態にあったことが、
相手男性の悲劇を招いたり、それが記録に残ったりするという
ことで、その背後を色づけたのであるだろう。 この歌においても、采女安見鬼を得た喜びの歌で、普通の人
は手に入れられない女性であると、歌の中でも述べている。そ
んな女性を手に入れることができる藤原卿の立場を示す一首と
なっている。
四、おわりに
今まで検討してきた配列と相手女性の立場という事から導か
れる結論としては、次のようになるだろう。この歌群で見られ
るように、天智天皇が恋愛関係にあったほど親しかった、しか
も皇族女性と藤原卿が恋愛相聞歌を贈答したり、采女との婚姻
を許可するという事は、天智天皇と藤原卿のつながりの強さ、
それは深い信頼によるものか、実績から得た藤原卿の立場の強
さによるものかは知らないが、それを証明するエピソードにな
っている。
藤原鎌足は奈良・平安時代の藤原氏興隆の基礎を築いた人物
であり、藤原氏の始祖である。そのような人物であるから、物
語の素材となることも当然のことである。しかし天皇と贈答歌
を交わす役目や讃歌をささげるという役目ではなく、相聞歌の
作者として現れているところに、もうひとつのポイントがある
のではないだろうか。すなわち歴史書のような公的側面の強い
文献より説話や和歌といった世間への流布が考えられる素材で
あることが、人々への印象付けにはより効果的である。またそ
《表・標目と天皇御製歌一覧》
巻二・挽歌 巻二・相聞 巻一・雑歌 持 天 天 斉 持 天 天 仁 持
同 同
天 天 斉 皇 静 雄 模 統 武 智 明 統 武 智 徳 統 武 智 明 極 明 略
天 天 天 天 天 天 天 天 天 右 右 天 天 天 天 天 天 目 皇 皇 皇 皇 皇 皇 皇 皇 皇 皇 皇 皇 皇 皇 皇
六 五 四 四 ○ ○ 九 八
八 七
歌 番
六 七 五 五 八 七 五 六 号
大 高 倭 有 大 天 天 磐 持 天 天 吹 額 額 額 静 雄 作 伯 市 太 間 伯 武 智 姫 統 武 武 天 田 田 田 明 略 皇 皇 后 皇 皇 天 天 皇 天 天 天 刀 王 王※
1 王
※ 1
天 天 者 女 子 子 女 皇 皇 后 皇 皇 皇 自 皇 皇 朱 天 天 斉 朱 不 不 ※ 不 天 天 天 天 斉 左 不 不 推
鳥 武 智 明 鳥 明 明 2 明 武 武 武 智 明 注 明 明 定
フt 七 四 元 七 七 四 六 七 に 作
歌 時 期 年
崩 年 亮
年 崩
年 没
年 ・年 年
か 年 年
か 年 諸
説 大 十 天 辞 大 藤 鏡 天 香 田【コ 円亡コ 伊 春 熟 宇 国 妻
内
容 津 市 智 世 津 原 王 皇 具 野 野 勢 秋 田 治 見 間 皇 皇 天 歌 皇 夫 女 を 山 の に 参 閲地 津 の 歌 い 子 女 皇 子 人
と と 思 の 歌 田 詣 憐 の み 歌
の う 歌 しヽ 歌 歌
歌 歌 歌 係 歌
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贈 答 歌
贈 答 歌
歌 て
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御 製 有 無 し し し し し
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※1…作者異伝では「天皇御製」になっている。またはそのような歌が 存在したことを示す。
※2…左往には仁徳紀二十二年・同三十年の記事があげられているが、
作歌時期かどうかは不明。
れが恋物語であることが、公的なまたは表面的なだけの立場で
はなく、より私的で親密な繋がりを演出することにもなってい
るのではないだろうか。
今まで見てきた演出において有利な立場になっているのは、
藤原卿である。配列や女王・采女といった要素それぞれが、「歌
語り」の演出、ひいては藤原卿の特殊性・特権性の演出の要素
となっているのである。
《注》注一・『日本書紀』によると、天智八年(六六九)十月十五日に天智天皇
は十日に病臥した鎌足の元に東宮大量弟(大海人皇子)を派遣して大織
冠と大臣の位と藤原の姓を授け、その翌日鎌足は募じた、とある。藤原
姓を得たのは右の通り死の直前とあるが、『万葉集』題詞に従い、本論
では統一して「藤原卿」の名で呼ぶこととする。
注二・「歌語り」について、本論では「題詞・左注・配列等種々の傍証に
よって、歌の作成時または伝承の過程で付加された口述や事前の理解の
存在が想定されるそのなんらかの物語」と定義する。
注三・「王女」という表記の例が上代文献で使用される場合、天武紀二年
二十七日むすめ二月襲来条に「鏡王女額田姫王」とあるように、大半は「某王の女」
という意味であることから、「鏡王女」という表記は「鏡王の女」であ
るとした西田長男氏の説(「鏡王女の出自」、『神道及び神道史』第一四
号、一九六〇年七月)があるが、一般には『講義』以来の、「王女」は 「女王」・「鮭王」表記と同じ意味の呼称とする説が採られている。本論においてもこの考えに従うこととする。
注四・『玉勝間』などにある視で、古くは通説化していた。また次に天武
紀二年二月襲来粂の原文をあげる。テキストは日本古典文学大系『日
本書紀』下(岩波書店、一九六五年七月)。傍線が本文内で引用した部
分である。
天皇初章二飼司勾矧習呵州型司‑、生二十市皇女一。
注五・澤浜久孝氏「三山歌私見」(『国語国文』第一六巻一号、一九四七年
三月)、同氏『萬菓集注釈』第二巻、菅野雅雄氏「鏡王女の出自につい
て」(初発・『上代文学』第三一号、一九七二年十月。所収・『記紀歌謡
と万葉の間』、桜楓社、一九八二年五月)。
注六・左に原文を挙げる。テキストは『校訂延書式』下巻(臨川書店、一
九三一年一月初版、一九九二年六月復刻版)。
押坂基〔鏡女王。在=大和国城上郡押坂陵域内東南】。無二守戸○
…(七行略)…右廿三遠基(『延書式』巻二十一・諸陵寮)
この記載を根拠に、中島光風氏は「鏡王女について」
一巻一〇号、一九四三年十月)において鮮明天皇の近親であると述べ
られた。その説を踏まえて澤清氏『注釈』では年齢を考慮して皇孫を
採らず、『皇胤紹運録』に『日本書紀』にない鮮明皇女の名が見られる
ことにより野明天皇の皇女または皇妹とし、菅野氏前掲論文(注五参
照)では諸陵式の再検討と「姫王」「姫皇女」.表記の検討を踏まえて静
明天皇の皇妹または敏速天皇の皇孫としておられる。小川靖彦氏「鏡
王女にかかわる歌」(『セミナー万葉の歌人と作品』第一巻、和泉書院、
一九九九年五月)では、更に検討した上で「皇孫でありながらも、生
前の特別な地位故に天武天皇の計らいによって祖父紆明天皇の陵域内
に葬られたと考えられる」としておられる。
注七・『養老令』第十三継嗣令4「王事親王」条と『日本紀略』天暦十二
年九月丙戊粂の条文は、次に挙げる通りである。テキストは日本思想大
系『律令』(岩波書店、一九七六年十二月)、『新訂増補国史大系』第十
巻(吉川弘文館、二〇〇〇年四月新装版第一刷)。
凡王畢】親王‑。臣畢豆世事者聴。唯五世王。不レ得レ琴南王「
(『養老令』)
見任大臣良家子孫。許レ畢‑三世巳下王「但藤原氏者。累代相承。
摂政不レ絶。以レ此論之。不レ可レ同レ等。殊可レ聴レ畢三世巳下王一着。
云々。(『日本紀略』)
注八・安田政彦氏「延暦十二年詔」(『平安時代皇親の研究』、吉川弘文館、
一九九八年七月)。女王降嫁の初例は、天長年間(八二四〜八三三)未
年から承和年間(八三四〜八四七)初年頃の淳和天皇第一皇子恒世親王
の女の、藤原衛への降嫁であるとのことである。
注九・『国史大辞典』の「采女」の項は磯貝正義氏担当。引用に当たって
一部中略した。磯貝氏は「采女貢進制の基礎的研究」(初発・「采女制度
の一考察」、『史学雑誌』第六七巻六号、一九五八年六月。所収・『郡司
及び采女制度の研究』、吉川弘文館、一九七八年三月)で『国史大辞典』
に書かれたようなことを述べておられる。内容がほぼ同じであるので、
今回は説明が簡潔な『国史大辞典』によって引用した。
注十・門脇禎二氏『采女』(中央公論社、一九六五年七月)。『日本書紀』 の主な采女関係説話は、仁徳四十年是歳粂、履中即位前紀、允恭紀五年七月己丑条、允恭紀四十二年十一月粂、雄略紀元年三月是月条、雄略紀九年二月朔粂、雄略紀十二年十月壬午条、雄略紀十三年三月粂、雄略紀十三年九月粂、安閑紀元年閏十二月是月粂。その他雄略紀五年四月粂、雄略紀九年三月・五月条、鮮明即位前紀、持統紀元年正月朔条の話に見られ、天皇の子を産んだことの記載は敏達紀四年正月是月条、鮮明紀二年正月戊寅粂、天智紀七年二月戊寅条に、また孝徳紀大化二年正月朔条の采女の貢進に関する条文に見られる。
[かとう
ちえ
二〇〇二年三月、大学院修了]