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修士論文 「“気持ちをこめて”に見られる学校音楽のハビトゥス」

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修士論文

「“気持ちをこめて”に見られる学校音楽のハビトゥス」

“Heart” Considered as a Cliché : The Concept of Habitus and School Music

指導教員 今田匡彦准教授

弘前大学大学院教育学研究科

教科教育専攻 音楽教育専修 音楽科教育分野

07GP211 佐藤 さおり

2009年3月

(2)

目次

謝辞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 論文の要旨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

第1章 「音楽を学ぶ」とは:学生へのインタビューを通しての考察・・・・・・・・6 1.学生へのインタビュー:インタビュー内容のあらすじ・・・・・・・・・・・・・6

1)「音楽」に対する考え方の変化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7 2)Aの「音楽」に対する姿勢から:「音楽を学ぶ」とは・・・・・・・・・・・・10 2.人前で演奏するということ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10 3.なぜ体の故障が起き、ピアノが弾けなくなったのか。・・・・・・・・・・・・・14 4.努力が起こす弊害:正しい方向性を持って音楽を学ぶということの大切さ・・・・21 5.第1章を通して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24

第2章 学校音楽の中における“気持ちをこめて”・・・・・・・・・・・・・・・・28 1.学習指導要領における“気持ちをこめて”・・・・・・・・・・・・・・・・・・28 1)学習指導要領の調査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28 2)調査を行って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34 2.『教育音楽 小学版』の授業事例の中に見られる“気持ちをこめて”・・・・・・・35 1)雑誌『教育音楽』ついて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35 2)『教育音楽』における授業事例の調査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38 調査Ⅰ.“気持ちをこめて”の事前調査として、“気持ち”“思い”“心”の語を含む表現 がある指導事例の調査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39 調査Ⅱ.上記の中でも特に“気持ち”“思い”“心”を「込めて」という表現を含む指導 事例の調査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42

(3)

第3章 “ハビトゥス”とは何か:ブルデュー著『ディスタンクシオン』を通して・・46 1.『ディスタンクシオン』について:「卓越化」はなぜ起こるのか。・・・・・・・・47 2.ハビトゥスとは何か。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54 3.“気持ちをこめて”というハビトゥス:“気持ちをこめて”という言葉の使われ方・60

第4章 なぜ“気持ちを込めて”は、学校音楽のハビトゥスなのか。・・・・・・・・64 1.どのような姿や振る舞いが“気持ちをこめて”いるように見えるのか。・・・・・64 2.「歌詞の内容を理解する」とは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・68 1)イメージについて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・68 2)歌詞について①:教育内容としての歌詞・・・・・・・・・・・・・・・・・・71 3)歌詞について②:日本語を美しく歌うこと・・・・・・・・・・・・・・・・・73 4)音楽における「歌詞」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74 3.“気持ちをこめて”という指導のおかしさ:音楽は“気持ちをこめる”ものなの か。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・75

Final Thoughts・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・81

引用文献/参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・86

【付録】

①学生へのインタビュー全内容

②『教育音楽』の調査データ:“気持ちを込めて”を用いた指導例

(4)

謝辞

本論文を執筆するにあたり、多くの方々にご協力頂きました。心より感謝申し上げます。

指導教員の今田匡彦先生には、大学院の2年間、非常に熱心な指導をしていただきました。

先生には論文の書き方だけではなく、物事の捉え方、論理的な思考の仕方など多くのこと を教えて頂き、本当に感謝しています。

本論文を作成するにあたり、弘前大学教育学部音楽科の先生方、同輩の相田貴代さん、

先輩、後輩の皆様、また北海道教育大学旭川校音楽研究室の先生方、同輩、先輩、後輩の 皆様から多くの助言、協力を頂き、大変お世話になりました。ここに感謝申し上げます。

インタビューを受けて下さった学生さん、音楽之友社『教育音楽』編集部の岸田雅子様、

ご協力頂き、本当に感謝しています。

また、いつも遠くから応援し、私の学生生活を支えてくれた両親に、お礼を述べたいと 思います。

様々な方のアドバイスや励ましは、私が論文を書く上で、自分を奮い立たせる大きな原 動力かつ励みとなりました。最後に、ここにお名前を挙げることのできなかった方を含め、

本論文を作成するにあたり、お世話になった全ての方に感謝申し上げます。

(5)

論文の要旨

学校の音楽の授業において「気持ちをこめて歌いましょう。」という指導がしばしばな される。この“気持ちをこめて”という言葉は、音楽の指導において、具体的にどう解釈 されるべきなのか。つまり、指導する側が“気持ちをこめて”という言葉を用いても、指 導を受ける側は具体的に何をどうするかわかるのだろうか、という疑問が湧く。

以上を踏まえ、この“気持ちをこめて”に注目し、なぜこの言葉を用いた指導が行われ、

繰り返されるのかについて、フランスの社会学者ブルデューが提唱した概念“ハビトゥス”

を援用して検証する。“ハビトゥス”とは、「ある階級・集団に特有の行動・知覚様式を生 産する規範システム」(ブルデュー, 1990, p.ⅵ)として考えられた概念である。“ハビトゥ ス”は、ある集団内の規範として存在するので、その是非について改めて問われない点が、

特徴である。学習指導要領や実際の授業において用いられる“気持ちをこめて”は決まり 文句のように、または慣例に従うかのように用いられているのではないか、と仮定すると、

そのことを“ハビトゥス”の一つとして論証することが可能となる。

まず、学生へのインタビューを通して、正しい方向性を持って音楽を学ぶことの難しさ を扱った。そして学習指導要領と、雑誌『教育音楽』の授業事例の調査から、学校音楽の 現場で“気持ちをこめて”という指導がなされていることが分かった。以上の調査によっ て、“気持ちをこめて”という指導は、音楽における「内容」を重視しすぎることに起因 し、指導を受ける側の、体の使い方の誤りを引き起こす可能性があり、学校音楽独特の“ハ ビトゥス”であることがわかった。

よって今後は、スーザン・ソンタグの述べるように、音楽の「内容」ではなく、「様式」

を大切にする音楽教育がのぞまれる。

(6)

第1章 「音楽を学ぶ」とは:学生のインタビューを通しての考察

学校で音楽を指導する際に、「気持ちをこめて歌いましょう」という言葉がけが、しば しばなされる。この言葉がけは、音楽を学ぶ側にとって適切な指導として機能するのか、

という疑問を私は持った。ではまず、学生へのインタビューを通して、正しい方向性を持 って「音楽を学ぶ」とはどのようなことか、具体的に考察していきたい。

1.学生へのインタビュー:インタビュー内容のあらすじ

私たちは学校で勉強を学び、職場では上司から仕事のやり方を学び、お年寄りの知恵を 学び、子どもたちの豊かな発想から思いもかけないことを学んだりする。ある国へ行くた めにその国の言語を学んだり、あるゲーム一つするにもルールを学んだりする必要がある ことからも、学ぶことは私たちがごく当たり前に行っていると同時に、何かをするために は必要不可欠な行動の一つであると言えるだろう。

では、音楽を学ぶということはどのようなことだろうか。楽器を習うことを思い浮かべ る人が多いのではないだろうか。ただ楽器と一口に言っても、ピアノ、トランペット、ヴ ァイオリン、ギター、ガムラン、ムックリ、ケーナなど挙げればきりがない。また、楽器 を演奏することだけではなく音楽史や音楽理論などを学ぶことも、音楽を学ぶということ の一つだろう。ただ「音楽を学ぶ」とは何かを考えることは、何を音楽とするかという定 義づけにも関わってくることとなる。その問いはあまりにも広範かつ難しいものである。

よって今回は一つの楽器も演奏を学び続けることに、「音楽を学ぶ」ことの本質があると 仮定し、「音楽を学ぶ」ということはどのようなことであるか、を考えてみたい。ピアノ をずっと習い続けてきた、ある学生A氏(以下:A)にインタビューを行い、Aがピアノ 過程を分析し、正しい方向性を持って音楽を学ぶということ、について考察する。

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1)「音楽」に対する考え方の変化

Aは幼い頃からピアノを習い始め、ソロ・作曲などで県内のコンクールにおいて受賞し、

連弾では全国大会出場という結果を残すほどの評価を受けていた。しかし、大学受験の試 験曲として弾いたベートーヴェン作曲のピアノソナタ op.53『ワルトシュタイン』が、A の「音楽」への関わり方に変化をもたらすこととなった。『ワルトシュタイン』は、和音 の連打で始まる難易度の高い曲である。Aがきちんと弾けば弾こうとするほどに力が入っ てしまい、受験後には手を鍵盤の上に置いても音が鳴らないほどの状態になってしまった。

ではAが「音楽」に真剣に取り組もうとしながらも、なぜピアノを演奏できないほどの 状態になってしまったのか、なぜ「音楽」に対する考え方を大きく変える必要に迫られた のか、具体的に考察を深めたい。

Aは大学へ入学する前、ピアノを弾くということについて、次のように捉えていたそう だ。

「自分でとにかく弾いて、鳴ってもそのままどっかいっちゃうみたいな。自分で、自分の 音に関してもう、聴いてないっていうか…『弾かなきゃ!弾かなきゃ!』っていう、弾く っていう、なんか音を出さなきゃいけない!鳴るっていうんじゃなくて、出すものだ、み たいな。無理矢理じゃないですけど。そんな感じで、今思えばなんか弾いてた感じがしま す。」

Aは楽譜に書かれた音を“出す”ことのみを重視し、出した音を聴くことができなかっ た。Aにとって楽譜に書かれた音はあくまでも“出す”ものであって、“聴く”ものでは なかった。音を出すA自身に聞こえていない音が、周りにいた人たちの耳にはどのように 届いたのだろうか。

またピアノを弾く際、自分の身体がどのような状態にあるか、例えば手はどのような形

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か、肩に力は入っていないか等を、A自身あまり意識していない様子も伺える。Aはさら にこう続ける。

「今までは、音の間違いをしちゃいけないとか、なんかもう楽譜通りに弾かなきゃいけな いっていう、それがもう絶対に前提にあって」

コンクールや大学受験のために、ピアノを演奏した経験によるものなのか、明確な原因 はここではわからないが、楽譜に書かれた音を“正確に”弾くことに意識が集中してしま っていた様子も伺える。

しかし大学に入学して様々な教員からの指導が、Aの今までの「音楽」に対する考え方 を変化させる大きなきっかけとなった。

「楽譜、音を全部、全て鳴らすとか、全て完璧に弾くとかじゃなくて、ほんとに何て言う か、“音楽”を感じなさい、B先生は音楽をどう聴きたいか、どう味わうか、みたいなの が大事だっていうことを言われるんです。C先生は譜読みっていうのは、音楽を読むって いうか。」

Aは今までピアノの演奏に関して、楽譜に書かれた音を“出す”ことのみを重視してし まっていた。しかし大学教員の指導により、Aはその考え方自体を根本から改める必要に 迫られた。それは「音楽とは何か」に関わる重要な問題である。岡田(2003,p.5)もこう 述べる。

「勤勉に練習に励み、杓子定規に『正しく』曲をさらっても、決して『音楽』にはならな い。…『音楽』を作るには、素朴な勤勉努力とはまた少し違った、『演出術』のようなも

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ここで述べられている「演出術」とは、音楽のみならず、スポーツや舞踊にも共通する、

マニュアル化ないし言語化できない、身体に刻まれた経験知である、と岡田(2003,p.4)

は言う。Aは、ピアノを弾くことのできない状態になったこと、大学の教員の指導などか ら、音楽の“言語化できない部分”や“身体の適切な使い方”の大切さに気づき、「ただ 楽譜どおりに弾かなければならない」と考えていた、今までの方向性の過ちに気づいたの だ。

また、以前は聴けなかった自分がピアノを弾く際に出す音を「聴く」ことができるよう になったとAは言う。

「聴くっていうのは、すごく大事だと思います。…響きがある音と、響きのない音のとき は、絶対その力が入っているか、入ってないかが違う。絶対違うから。実際こうわかるん ですよね。『あ~鳴ってるな。すごく今飛んだなぁ~とか。』」

そして、「聴く」ことだけではなく、音を出す際の考え方にも変化があったようである。

「一個一個の音に、最初の出だしからすごい緊張感を持ってっていうか、一個一個の音を 大事に。『音を大事にしなさい!』って言うじゃないですか。前、大事にってできてなか ったけど、大事に弾いてるつもりだったんですけど、ほんとに聴きながらで、一個一個確 かめながら」

以前は音を出さなければいけない、鳴らさなければいけない、と考えていたが、音をた だ出せばよいのではなく、自分の出した音を一つずつ「聴き、感じる」ことが大切である という考え方に変わった。Aは「音を大事にする」ということが、「確かめながら、また 鳴らして」いく作業によって、自分なりに体得できたようである。ここにAが「音楽」と はどのようなものであるか、に対して自分の考え方を大きく変化させていることもわかる。

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楽譜に書かれた音をただ追い続けるのではなく、ふと自分の中から湧き起こる、あるいは 耳に届き、感じるものの中から「音楽」が生まれてくるのかもしれない。

2)Aの「音楽」に対する姿勢から:「音楽を学ぶ」とは

大学入学後、Aが習っているピアノの先生の指導により、手の形を直すために、ピアノ の鍵盤に触れない期間を設けることになった。Aはこの時の練習を次のように振返る。

「本当に辛くて、もう毎回レッスン泣きながらやってたと思うんですよね。見えてこない し、実際弾けなくなってるし、もう怖いし、この先どうなるんだろう、みたいな。弾ける ようになるのかなって。」

Aにとって先が見えない、つまり技術的な向上が自分自身の中ではっきりしない状況は、

精神的に相当辛かっただろう。しかしこれから先、今までより良い体の状態でピアノを弾 くことを目指し、Aは机の上での練習を頑張って続けた。その練習と平行して、大学の教 員の指導などにより、Aの「音楽」に対する考え方も変わっていったのである。Aは今ま で自分が「音楽」に対して持っていた考え方の間違いに気づき、大学の教員や、ピアノの 先生の指導における意図をくみ取ろうと努力したのだと思う。

このように文章にすると、ある人間に起きた個人的な出来事のように受け取られてしま うことだろう。しかしAが経た過程にこそ「音楽を学ぶ」ことの難しさ、その本質が見て とれるのではないだろうか。「音楽」を感じることも、それを表現する的確な技術を持つ ことのどちらも大切であることを、Aは示してくれている。

以上がインタビュー内容を大まかにまとめたものである。では次に、「音楽を学ぶ」と いうことの考察を深めるために、Aを含め、演奏する側にとって人前で演奏するというこ

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まったのか、方向性を見失った場合、そのまま努力し続けることがどのような弊害を引き 起きてしまうのか、の3点について考察を深めたい。

2.人前で演奏するということ

ピアノを習っている人々が、人前で演奏する機会にはどのようなものがあるだろうか。

例えば、発表会というものがある。これはピアノを習っている人々全員が体験する機会と は言い切れないが、かなり多くの人が経験するものだと思われる。簡単に言うと、日頃の 練習の成果を披露する場面として設定されている。出演者は自分の習っている先生の生徒 達で、演奏を聴く客は生徒の家族や親戚といったところではないだろうか。私も発表会で 演奏した経験があるが、自分の演奏を聴いてくれる人たちがいることがとても嬉しく、い つものレッスンより張り切ってピアノを弾いた記憶がある。

その他に人前で演奏する機会として挙げられるのが、コンクールやオーディションと呼 ばれる、技術や能力を競い合うものではないだろうか。コンクールとはピアノだけに限ら ず、ヴァイオリンや声楽など他の音楽の分野でも行われていて、一種の競争試験と言うこ とができよう。Aも、ピアノを習っている先生から話を持ちかけられ、様々なコンクール にほぼ毎年出て、入賞を果たすこともあった。その時のことをAはこう振り返る。

「大体、いやなんかもう、(コンクールを)受けない?っていうのは、先生が大体持ちか けられたり、なんかもう出るよね?みたいな感じで、毎年毎年同じような時期にあるので、

毎年恒例みたいな。出るのが当たり前みたいになってたんですね、小学校の頃は出ました ね~小(学校)、中(学校)、高(校)。高(校)は忙しくて出てないですけど、自分で高 校は、(中略)コンクール出たいな、ってなって自分で調べて出たのもありますけど、大 体は先生から持ちかけられたり、っていうのが小・中はずっと続きましたね。」

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先生に促され、それに従いコンクールに出て、自分の演奏が評価され賞をもらう、とい うことはAにとって嬉しいことだと思うし、よりがんばろうという動機付けになるだろう。

ただここで気をつけなければいけないのは、コンクールで賞を取らなければいけないとい う義務感を持ってしまうことや、コンクールでよい評価を受けない演奏は良くないと思い 込んでしまうことはないだろうか。また、毎年ともなると、コンクールのためにピアノを 弾かなければいけないと、義務のように思ってしまうし、それが当たり前になってしまっ たとAも述べている。

視点を変えて考えてみたい。コンクールにおいて演奏者は、ある決まった日に、決めら れた場所でピアノを演奏することを求められている。それはコンクールを受ける者が守る べきルールである。ところでピアノのコンクールに関わらず、自分の体調や都合に関わら ず、決められた時間に定められた場所で何かをすることを、求められることが私たちには しばしばないだろうか。大学入試のセンター試験や、アイドルのオーディションなどもこ れに当てはまると思う。その場面で求められることを即座にできることが、その人の持つ

「能力」と判断されるのである。まさに本番一発勝負である。

このように、ある場面ですぐできることのみを「能力」として評価されることを繰り返 すと、一度できないともうその先にできるかもしれないという可能性を否定してしまうこ とはないだろうか。果たして「能力」とは即時に判断できるものなのだろうか。測る指標 は一つしかないのだろうか。苅谷(1998, p.56)は「能力」について、次のように述べ ている。

「人の能力をはかるときに、一定の短い時間の中で表現される能力や実力を見ようという のは、もっといろいろありうる能力の見方の一つにすぎないからです。何十年もかけて、

素晴らしい小説を一つだけ書いた作家の能力と、短い時間にたくさんの文章を書ける流行 作家の能力と、どちらがすぐれているか、芸術の世界では比べようがありません。…本当

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のです。」

ある場面で求められたことをこなせることも一つの能力である。だがそれは、いくつか ある能力のうちの一つであることを私たちは認識しなければいけない。コンクールで評価 される能力は、ピアノの演奏に関してある一つの能力であり、もっと長いスパンで現れて くる能力もあるということだと思う。

ところで、コンクールのような、自分の演奏が人目に触れる機会が、よい効果をもたら すことはないのだろうか。二ノ宮知子原作の漫画『のだめカンタービレ』(講談社)を例 として挙げたい。この漫画は2006年にフジテレビでドラマ化されたので、知っている人 も多いのではないだろうか。この漫画の主人公、野田恵は音楽大学の学生なのだが、当初 は自分で好きなように部屋でピアノを演奏している、というスタイルであった。“好きな ように”というのは、野田は耳から音楽を覚え、楽譜に書かれた音とは全く違う音を弾く こともあった、という意味である。しかしアパートの隣の住人である千秋真一が、隣の部 屋から流れてくるベートーヴェンのピアノソナタ op.13『悲愴』を聴き、彼女の才能を見 抜いた。千秋は、楽譜と別の音を弾く、野田の演奏の中に「音楽」を感じたのである。そ のことは、千秋の「作り方がでたらめすぎるんだよ!でもおもしろい!」(二宮, 2002, p.64)

という発言からも分かる。そして千秋がコンクールを受けることを促すと、野田はただ好 き勝手に一人で弾くことに終始せず、よりよい演奏を追求していくのである。これはごく 大まかにあらすじを述べただけだが、部屋にこもって弾いていても野田の才能が開花する ことはなく、人目に触れて初めて才能が評価され、音楽的にも向上していくという好例だ ろう。ただし野田は一度も演奏したことのない曲を、楽譜を数分見ただけで演奏してしま う、という才能を持っているという点で非凡の人である、ということを付け加えておく。

以上のようにコンクールは、能力を一元的、即時的にとらえてしまう危険性と、能力を 伸ばすという二面性を持ち合わせている。しかし何度も言うように、せっかく人前で演奏 できるという良い機会を、コンクールのために「弾かなければいけない」ととらえてしま

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ったならば、Aが音楽を続ける上で誤った方向へ進ませてしまうことはないだろうか。義 務的に「弾かなければいけない」と考えることによって、自分で気づかないうちに、体を 誤った使い方で用いてしまうことがある。次はその理由について考えてみたい。

3.なぜ体の故障が起き、ピアノが弾けなくなったのか。

Aがピアノを弾き始めた頃、まさか自分がピアノを練習しているせいでピアノを弾くこ とができなくなるなどと、夢にも思わなかっただろう。そこまで先のことは想像さえしな かったかもしれないが、上手になりたいという思いで始めたことが、自分の体に故障を招 くとは考えにくいだろう。しかしこれはAにだけ起きた特別なことではなく、ピアノを弾 く人が腱鞘炎になってしまうことはよく聞く話であるし、裏を返せばそれだけ長い時間、

練習に取り組んだという証でもある。しかし上手になるために長い時間練習したのに、自 分の手や指が使えなくなってしまうということは、その練習の仕方に何らかの問題がある ということだろう。習慣が引き起こした弊害ではないだろうか。

習慣とは、それを行う人にとってどのようなものだろうか。毎朝7時に起きること、目 玉焼きには必ず醤油をかけること、毎日のジョギングを欠かさないこと、人それぞれにあ ると思う。だが習慣にしていることはその本人にとって当たり前に行っていることなので、

改めて自分の習慣などと考えてみると、すぐに答えられなかったりするのではないだろう か。さて、習慣について青木(2006, p.12)は以下のように述べる。

「考えてみると習慣と癖は同じものかもしれない。癖は無意識のうちに毎日繰り返される。

その結果、毎日のその行為が刻み込まれ、強化される。こう考えると、よい習慣を身につ ければ、どんどんよいものが身についてゆき、逆に悪い習慣を身につければ、悪い習慣が どんどん強固になるといえる。」

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習慣や癖は、やっている本人が気づかないうちに当たり前のようにしていることなので、

よいものであっても、逆に自分の体に悪い影響を与えるものであっても、気づかぬうちに 繰り返してしまうことが多いのだろう。悪い習慣をなぜ繰り返してしまうのか、どうすれ ばそれを治すことができるか、ということについて考えてみる上で、トーマス・マークの 考え方を参照したい。彼はアメリカ在住のピアニスト、兼ピアノ教師である。彼の著書『ピ アニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』は、「ボディ・マップ」という 考え方を基にして書かれている。マーク(2006, p.ⅰ)は自身の著書の位置づけを以下の ように述べている。

「『ボディ・マップ』という考えかたとその効力――身体の動きを改善して、多くの音楽 家が経験する身体の傷みや故障を治癒していくボディ・マッピングの効力――は、そもそ も、バーバラ・コナブルとウィリアム・コナブルの2人によって発見されたものです。バ ーバラ・コナブルは、著書『音楽家ならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』の中 で、正確で適切なボディ・マップを養うために必要な、基本的な情報を提供してくれてい ます。本書はそれと同じ情報を少し違った形にして、言葉によるもっと詳しい説明を加え、

鍵盤楽器を演奏する人たちを対象に発展させました。」

この「ボディ・マップ」という考え方は、音楽家が自分の身体というものを捉えるとき に、必要な考え方の一つのようである。そして、コナブルの著書は図による説明が多く、

それに言葉による解説を加え、ピアニストやオルガニストといった鍵盤楽器奏者を対象に したのがマークの著書である。ここでは「ボディ・マップ」という考え方について深く触 れることはできないが、マークもコナブルも「アレクサンダー・テクニーク」の理論を基 に考えを述べている。「アレクサンダー・テクニーク」とは以下の通りの内容である。

「アレクサンダー・テクニークは実際的で簡単な方法論です。それによって動作、バラン

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ス…が自由で容易になることを助けます。それはパフォーマンスを良くしますから、ミュ ージシャンにとって貴重な道具となります。テクニークを実践すれば、筋感覚的感受性が 高められ、演奏家のコントロールがぎこちないものではなく、流動的かつ活気あるものに なります。」(コナブル, 2000, p.5)

この「演奏家のコントロールがぎこちないものではなく流動的なものになるとされるア レクサンダー・テクニーク」であるが、私も以前そのレッスンを受けたことがある。まず イスに座った状態で鏡に映った自分を見ることから始め、立つことと座ることを繰り返し た。今まで立つときにはおしりがイスから離れる方を意識していたのだが、頭から上に引 き上げるよう指示を受け、そのように立ってみると、今まで感じたことのないくらい楽に 立つことができた。これ以外にもレッスンでは体験をした全てのことを書きたいぐらいな のだが、ここでは割愛する。ただレッスンを受けて私が感じたことは、普段の何気ない習 慣が実は体に良くない影響を与えていることに、意外と自分は気づかないでいるという事 実だった。それと同時にからだは常に、いろいろな筋力を働かせてバランスをとろうとし ていることに驚いた。私は、普段自分の体というものは大きく変化しているように感じら れなかったので、体を固定しているものとして捉えてしまっていたのである。このように、

自分の体の感じ方に気づきを与えてくれたのが「アレクサンダー・テクニーク」のレッス ンであった。

以上筆者の説明に分量を割いてしまったが、マーク(2006, p.14)が著書の中で注意力 について興味深い指摘をしているので紹介したい。

「私たちは慣れ親しんでいることならなんでも『良い』とするところがあるので、正しい 情報もないまま自分の動きにただ注意を払っても、クセや習慣を強めてしまうことになり かねません。傷みや故障の危険性を持つ動きでも、慣れ親しんだ動きならば好ましいもの

(17)

先程述べた通り、習慣というのはよくないことを招くこともあり、毎日繰り返している うちに良くも悪くも私たちの体に染みついてしまっているので、私たちの体によくない影 響を与えていても気づくことができないことが多い。そしてAの場合も、毎日のピアノの 練習でよくない癖、例えばAの言うように「指の第二関節が沈んでしまう状態」をそのま まにしてピアノを弾き続けてしまったので、ピアノが弾けなくなるほどの致命傷を引き起 こしてしまったのである。その理由はA自身にもわかっていたようである。

「『体を使いなさい』って言われても、体をどうやって使ったらいいか、わからないじゃ ないですか。で、具体的な、根本的なところがわからないのに、その本当にそのやり方を 知らないとできないのに、『やれ!』って言われるんです。」

悪い癖の直し方がわからないのである。自分の体を、どのような状態にすべきかについ ての正しい情報も持ち合わせていないことも理由の一つだろう。教師側に伝えようとする 姿勢、あるいは生徒に学ぼうという意欲があってもこのような間違いは起こりうるし、意 欲があったからこそ起きてしまったことかもしれない。悪いところを直したくても、直し 方が分からないことについてはマーク(2006, pp.14-15)も以下のように指摘している。

「ある特定の動きがどうも心地良くないと感じていても、どうすればそれが良くなるか、

どうすればその演奏技法を他の手法で実現できるか、といったことはわかりません。…生 徒に対して何が本当に正しいかを示さずに、『その生徒自身が正しいと感じること』をす るように言うことは、生徒の悪い習慣・クセを強化して、気づかないうちにとんでもない 指導をしていることになりかねないのです。」

教師が「正しい」体の使い方を示すことができないと、学ぶ側の生徒は「誤った」方向 へ進んで行きかねない。しかもその方向が間違っていることを分からずに、突き進めば進

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むほど、その状態から抜け出すことを難しくする。Aも力一杯弾いて体を壊したくはなか ったはずである。それでも、Aが鍵盤に手を置いても沈まないほどの状況を招いてしまっ たのは、自分で自分の体の不具合に気づくことができなかったこと、疲れや力みを感じて いてもその直し方を知らなかったこと、それを直すよりも今は「弾かなければいけない」

と捉えてしまったことに起因するのではないだろうか。ところでAは、以前は楽譜の音を 出さないといけないと考えて、ピアノを弾いてしまっていた。

「(ピアノの音は)鳴るっていうんじゃなくて、出すものだ、みたいな。無理矢理じゃな いですけど。そんな感じで、今思えばなんか弾いてた感じがします。」

これは大学受験の曲を練習しているときのAの発言だが、ピアノを弾いている時のAの 注意は、きっと手や指にだけ向けられていたのではないだろうか。マーク(2006, p.19)

はピアノを弾く際、指だけに意識が向くことを危惧している。

「これまでに私はピアノ演奏に対する『指偏重の』アプローチの限界と危険性について指 摘してきました。私が声を大にして言いたいのは、『鍵盤を押すために、指を動かすこと』

をやめて、『ピアノを弾くために、身体を動かす』ようにならなければいけないというこ とです。」

「ピアノを弾く」ためには、鍵盤に触れている指だけに注意を向けるのではなく、手は 人間の身体の一部なのであるから、手につながる身体全体に意識を向けるべきだというこ とである。具体的にどのようにすれば、身体の他の部分を感じることができるかについて、

マーク(2006, p.19)は次のように述べている。

(19)

ンのとき、私はよく、『あなたはそのパッセージを弾いているときに身体のどこからどこ までを感じていますか?』と訊きます。もしその人が困っているようならば、もっと詳し く『自分の指や手には気づいていると思うけれど、手首も感じられていますか?前腕は?

上腕は?胴体は?身体のどれだけ部分があなたの気づきの中に含まれていますか?』と尋 ねてみてもいいでしょう。…次のステップは、その人が腕全体に(究極的には全身に)気 づく、つまり注意を向けることができるように手助けすることです。気づきの感覚を活性 化させるために、腕の4つの関節すべてを意識しながら腕全体を少し回してもらって、も う一度そのパッセージを弾いてもらうといいでしょう。そのパッセージはきっと以前より 良い響きになっていることでしょう。」( )内筆者

Aは以前、自分の弾いたピアノの音をあまり聴くことができなかったが、最近聴くこと ができるようになったとも述べている。「聴くことができない」とはどのような状態だっ たのだろうか。Aの耳に自分で弾いたピアノの音が入ってこない、または耳以外の体のど こかに力が入ってしまい、他に意識が集中してしまっている状況が考えられるのではない だろうか。では、以前よりも自分の弾いた音を「聴く」ことができるようになったのはな ぜだろうか。それはAの体から力が抜けたことに起因すると考えられる。マークの言うよ うに「全身に気づく」ことができれば、耳にもより意識が向くのではないだろう。

では具体的に、体が脱力し、「全身に気づく」とはどのような状態を指すのだろうか。

先程私自身がアレクサンダー・テクニークのレッスンを受けた話を少し紹介した。私はレ ッスンを受けてすぐは、歩く、立つなどの動作が流れるように感じられ、体が心地良い状 態だったのだが、数日もしないうちに普段の習慣に基づく歩き方、立ち方に戻ってしまい、

レッスンを受けたときの流れるような、心地良い感覚は無くなってしまった。マーク(2006, p.14)が「私たちは慣れ親しんでいることならなんでも『良い』とするところがある」と 指摘する通りである。

しかし私はレッスンで掴んだ感覚を取り戻したいと思い、体がどのような状態にあれば

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心地良いか、についてレッスンを受ける前よりは意識するようになった。普段から、自分 の肩、腰、膝などにどのような力がかかっているか、回したり、揺らしたりしてみたり、

鏡を見て確認したりもしている。マーク(2006,p.19)も次のように述べる。

「自分の身体の構造と動きに関する知識を得て、それをもとに自分で『統合された感覚』

を築き上げなければなりません。そうすれば、座りかたも呼吸も…すべてバランスのとれ た効率が良いものになっていきます。それには時間がかかりますし、もともと身体から解 離してしまう傾向の人には、この変化は自動的には起こりません。自分で選択し、洗練し ていかなければならないのです。身体に対する注意が鍵です。」

自分の体のあらゆる部分を感じることは、簡単なようでいて、意外と難しいと思われる。

普段から自分の体を注意深く観察したり意識したりして、もし力が入って痛みや不快さを 感じる部分があれば、それを楽にするための手立てが必要であり、その一つがアレクサン ダー・テクニークの考え方を用いて脱力する、ということである。同じようにAは、机の 上で手の形を作る練習を通して、自分がどこに不必要な力をかけてしまっていて、その力 がどうすれば抜けるか、を感覚的に掴んでいったのだろう。

Aはコンクールや試験など様々な事由から、「弾かなければいけない」という義務感を 多少なりとも持ってピアノの演奏に取り組んでしまった。そして、体の故障が起きてもそ れが習慣や癖のようになってしまえば、それに気づき、直すことはなかなか難しいことで あることがわかっていただけたと思う。しかしこれは、Aがピアノを演奏することに対し、

真剣に「努力」したからこそ起こりえたことではないだろうか。次はこの「努力」が引き 起こす弊害について考えてみたい。

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4.努力が起こす弊害:正しい方向性を持って音楽を学ぶということの大切さ

「努力することはいけないことである」などと聞いたらどう思うだろうか。多くの人は そんなことはないと思うのではないだろうか。確かに「努力」や「勤勉さ」は、「もっと がんばりなさい」とか「努力は報われる」という言葉からも分かる通り、良いものとして 受け取られていることだろう。日本だけではなく、アメリカでも「勤勉さ」が価値付けら れている例を紹介したい。1999 年、アメリカは21世紀に向けて世界一の教育国を創る、

というスローガンで教育改革に取り組んでいた。(青木, 2006, p.12)

「子どもたちによい習慣を身につけさせようとする品性徳目教育(キャラクター・エデュ ケーション)に取り組んでいた。では、品性徳目教育とは何であろうか?品性徳目とは本 来はキリスト教の影響を受けたもので、①子どもたちを良い子にし、②子どもたちが良く なることを助ける働きがあるものである。」

ここで紹介される品性徳目とは、子どもたちが良くなるとされる倫理的、文化的な徳目 のようである。では具体的にどのようなことが指示されているのだろうか。「表1 品性 徳目の具体的内容と年間指導計画」(青木, 2006, p.13)の項では、11月の指導内容として

「忍耐強さ」が挙げられている。内容は以下の通りである。

「目標に向かって、心をしっかり持って、勤勉に努力する。いったん始めた仕事は最後ま でやる。仕事は大変なので、他のメンバーは、喜んで他者をサポートする。具体的には『や り始めた仕事は最後までやる』『一生懸命やる』『他者と協力する』など。」

ここに出てくる「勤勉」や「一生懸命」であることは、子どもたちを良くするもの、と とらえられていることがわかる。もちろん日本でも、これらのことは当たり前のように価

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値付けられているのはご存じの通りである。

「日本の小・中学校でも、そのほとんどで、教室の中央に、たとえば『勤勉』『友情』『元 気』など、『知』『徳』『体』に対応する徳目が掲げられている。」(青木, 2006, p.15)

このように日本においても当たり前のように、一つのことに真っ直ぐ向かう、やり遂げ ることは美徳とされている。しかし、「努力」が大事、一生懸命に物事に取り組めばよい、

という価値観がはびこると、「ただやみくもにがんばればいい」という誤った考えも表れ るのではないだろうか。もちろん一つのことを目的とし、それに向かい続ける「努力」は すばらしいことである。日本各地には伝統工芸の職人がいて、その人たちは日々修練のた めに「努力」し、すばらしい伝統を守り継いでいる。このように、「努力」はよい側面を 持つ反面、方向性を誤り間違った「努力」をすると大変なことになる。Aの例がそれを証 明しているだろう。Aは好きで体を故障させたかったわけではない。直し方を知らなかっ たので、誤った方向へ努力してしまったというだけなのだ。

では、具体的に音楽において「正しい」方向性へ向かって努力するとはどのようなこと なのだろうか。高橋(2004, p.11)は次のように述べる。

「これは音楽の道 かぼそくたよりなく これでいいのだろうかと思いつつすすむ こ れは思いやりの技術 努力とは得ることではなく手放すこと 思想にも方法にも経験に もまどわされず この身体を透して音楽するなにものかを信頼して 耐えて耐えて 日々に世界に向かってひらかれてゆく」

「かぼそくたよりなく」とは、細い糸を紡ぐかのように、その時ごとに感じながら試し ていくということだろうか。ピアノを弾くときであれば、Aが言うように「聴きながら、

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ながら」弾くということである。また、「思想にも方法にも経験にもまどわされず」とは 今までのやり方を繰り返したり、方法論をただ踏襲したりするのではなく、その時自分が 感じたことを軸にして、音楽を奏でていく大切さを説いたものだろう。

総じて「努力」とは何か明確な目的や目標に向かってなされるのが常だろう。ピアノに おいても、コンクールに入賞するため、難曲を弾く技術を得るために、「努力」するとい うことが見受けられる。しかし音楽における「努力」とは、「努力とは得ることではなく 手放すこと」と高橋(2004, p.11)が言うように、短期間で達成されるような目標に向か うためのものであってはならないのである。短期間に目標を達成させようとすると、今ま で述べたように、どこかに力が入ってしまったり、上手くいかずに焦ってしまったりして、

最終的には何のためにやっていたことなのかさえ、わからなくなることもしばしばである。

そうではなく、もっと広い視野でゆったり構えるという姿勢も、音楽において「努力」す る上では必要なのだろう。視野が広がれば、以前見えなかったものが見え、感じることが できなかったものを感じることができるようになる。

「生きることのたとえによくつかわれる 皿を洗うという例がある…皿を洗うのは と りたてて言うほどのたいしたことではない そして生きることも 目的は皿を洗うこと 手段は皿を洗うこと つまり目標もなければ方法もない でも 時間をかけ ていねい に洗えば 皿はきれいになる そのように 詩も音楽も その時になれば 向こうから やってくる われわれにできるのは よけいな自意識なしに やってくるそれにまかせ ること」(高橋, 2004, p.56)

奇をてらって何かをしようとしなくてよい。追うのではなく、来るものをゆったり待つ。

このようなゆとりも、音楽を学ぶ上では大切かもしれない。

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5.第1章を通して

Aのインタビュー内容の考察を通して、正しい方向性を持って音楽を学習することは、

非常に大変なことであることがおわかりいただけたと思う。方向性を見失えば、せっかく の「努力」も、誤った体の使い方を引き起こし、それを改善することもさらに難しいので ある。しかしこのようなことは、誰にでも起こりうることなのである。インタビューに答 えてくれたAのみに起きた特別な事例として扱うのではなく、このような事態を引き起こ してしまう要因が何であるかを、深く考えなければならない。つまり、「音楽を学ぶ」側、

そして「教える」側どちらも、学ぶ・教えるそれぞれの過程の中に、気づかないうちに悪 い習慣や誤った考え方を持ってしまう可能性があることを常に意識すべきだと思うので ある。

そして、一度の失敗が悪いのではなく、そこから学び取る力があれば、また先が開ける のではないだろうか。だからこそAは自分の問題点を自分で気づき、改善しようと努力し たのである。一つうまくいかないことがあればその原因を考える。それが改善されるよう に努力する。これを繰り返しながら、正しい方向へ限りなく向かおうとする姿勢が、音楽 を 学 ぶ と い う こ と の あ る べ き 姿 で は な い だ ろ う か 。 学 ぶ こ と に つ い て 高 橋 (2004, pp.316-317)もこう述べている。

「何かおかしいとおもう、それは自分ひとりでおもいはじめることではなく、ほとんどの 場合、ひととであうことを通じておこるといえる。自分のやったことをふりかえり、それ が何だったかをかんがえる。自分のやっていなかったことを発見して、生き方を変える。

こういう作用をおこすひととのであいは偶然ではない。…自分の内部に変わろうとする意 志があり、変わらずにはいられない必然性があって、それが外部からとの機会と一致する、

そのとき、変化が起こる。…人間が変わるというのは、どういうことか?いままでの生き

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ぶかさに欠けていたことをさとる、これはまなぶことだ。知らなかった、気づかなかった とみとめるのが、まなぶことであり、知識をひとつふやすことではない。」

Aは今までも、様々な人と関わりながら音楽を続けてきたことだろう。ピアノを演奏す ることだけではなく、歌ったり、他の楽器を演奏したりする機会もあったと思う。そうや って音楽と関わっていく中で、ピアノを練習しているうちに、体の故障を引き起こしてし まった。それを改善するために悩み、その手助けをしてくれる人たちに出逢えた。Aが自 らの課題と向き合ったからこそ、助けとなる人たちとの出会いが有機的に働いたのだろう。

出会いとは、その出会った人達から何らかのことを学び取るときに起こるものだろう。

ところで今回は、Aが体に無理な力を入れてしまいピアノが弾けなくなったことに焦点 を当てたが、「力を入れる」というそのこと自体が決して悪いわけではない、ということ を補足したい。私たちが日常生活を送る上で、何かを持つ、あるいは歩く、という行為で さえ力を入れなければ行えないのである。ただ、何かをするために不必要な力、今回の場 合であればピアノを弾く際に、入れなくてもよい所にかけてしまっている力、に自分で気 づくことが非常に大切である。そして不必要な力をかけてしまっていることに気づき、さ らにその力を抜こう、自分の悪い癖を直そう、とするためには、様々な角度から物事をと らえることのできる柔軟性と、自分の欠点を受け止めることの出来る真摯な態度が必要で ある。Aはインタビューの最後でこのように話してくれた。

「今はほんとにもう、もっともっと自由に、解放されたいんですよね。なんかもう今まで 縛られてた、いろんな悪い癖とかそういうのも解放して、ほんとに力抜いて楽に、なんか もう、はい。楽に弾けるようにっていうか、なりたいし。」

「解放されたい」という発言は、ピアノを何かのために「弾かなければいけない」もの ととらえるのではなく、自分が「音楽」を奏でることとして、ピアノを演奏することを望

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んでいるのだろう。そして、ピアノを弾く際には不必要である力も抜いて、体がよい状態 で弾けるようになりたいということでもある。Aはピアノを習い始めた幼い頃や、コンク ールなどの演奏が自分で満足できる時は、「楽しかった」と言っている。もともと「楽し い」ものが、いろいろな過程を経て、つらいこともあった中で、また「楽しい」と感じる ことができるようになったのである。

「視野が広がったというか、今まで自分の弾くって事に関して、ほんとに狭くて、鍵盤見 てやって、みたいなだったんですけど、聴くっていうので、また広がって、なんか、すご く空間が、狭い空間にいたのがすごい広い空間に行ったような、抽象的ですけど、なんか そういう感覚っていうのか。今のほうが、音楽って楽しいな~って。つらいことが多かっ たので、今のほうがやっぱ楽しいって思いますね。」

また前より「視野が広がった」ということは、音楽を正しい方向性を持って学んでいく うえですごく大切なことだと思う。広がった視野から、自分の直すべき点とこれから学ぶ べき点が見えてくると思うのである。そしてその状態こそが、ピアノを弾くこと、音楽を 学ぶことが、本当の意味で「楽しい」ということなのだろう。

ところで「音楽を楽しみましょう」という言葉を耳にするが、それはものすごく大変な ことだと思うのである。それまでの葛藤とか、切磋琢磨とか、自己改善とか、すごくいろ いろなことを含んでいると思うのである。同様に「気持ちをこめて歌いましょう」という 発言は、「気持ちをこめて」歌うようにすれば、もっとよくなるよ、という指導かもしれ ない。しかし「気持ちをこめて歌いましょう」という指導を受けて、具体的に何をどうす るのだろうか。もし「気持ちをこめて」という指導が、誤った方向へ進むことを招き、そ のおかしさに教える側も学ぶ側も気づくことができないままであるなら、悪い循環を生み 出す危険があるのではないだろうか。音楽を正しい方向性を持ちながら学習することの難

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では次の章では、学習指導要領と実際の授業においてどのくらい“気持ちをこめて”と いう指導がなされているか、調査してみる。

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第2章 学校音楽における“気持ちをこめて”

1.学習指導要領における“気持ちをこめて”

1)学習指導要領の調査

小学校学習指導要領は昭和22年、26・27年の試案を経て、昭和33年の官報告示によ り法的拘束力をもつものとなった。学校教育法施行規則において、小学校の教育課程の基 準は、文部科学大臣が公示する小学校学習指導要領によるものとすることが述べられてい るからである。そして各学校の授業は、教育の全体計画である各学校の教育課程に基づい て行われている。つまり全国の小学校における日々の授業は、小学校学習指導要領に基づ いて行われていると言うことができ、学習指導要領を調査するということは、実際の各授 業の方向性を明らかにすることにつながる。以上を踏まえて、まず学習指導要領の文面の 中に“気持ちをこめて”という記述がどのくらい、そしてどの分野に見られるのか調査し た。小学校学習指導要領は昭和33年から現在まで、昭和43年、52年、平成元年、11年、

20年、とおよそ10年ごとに改訂が行われてきた。その情報量は膨大なので、いくつかの 視点で表にして比較した。対象は小学校学習指導要領(本文)と解説である。

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〈表1 “気持ちをこめて”という記述がある領域と箇所〉

改訂年 領 域 本 文 解 説

[学 年] 33 表 現 (歌唱)

43 歌 唱

器 楽

52 表 現

平元 表 現

11 表 現

20 表 現

※1 昭和33年度版の解説は未調査である。

※2 昭和 52年度版の解説は文部省のものではなく、明治図書発刊の解説書を代用して いる。

〈表2 指導要領本文・解説に“気持ちをこめて”という記述がある箇所の本文の比較〉

改訂年 学 年 本 文 33 全学年 (1) 楽しく歌う態度を養う。

オ 歌詞の内容を理解し,気持をこめて歌う。

43 1・2年 (1) すすんで楽しく歌おうとする意欲を育てる。

ア 歌詞の内容を理解し,気持ちをこめて楽しく歌うこと。

3・4年 (1) 気持ちをこめて美しく歌う態度を育てる。

ア 歌詞の内容を味わい,気持ちをこめて美しく歌うこと。

(1) 気持ちをこめて楽しく楽器を演奏する態度を育てる。

ア 気持ちをこめて楽しく楽器を演奏すること。

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5・6年 (1) 創造的に美しく歌う態度を育てる。

ア 歌詞の内容を味わい,気持ちをこめて美しく歌うこと。

(1) 創造的に美しく楽器を演奏する態度を育てる。

ア 気持ちをこめて美しく楽器を演奏すること。

52 1・2年 (1) 表現の能力に関して,次の事項を指導する。

ウ 曲想を感じ取り,また,歌詞の表す情景を想像して表現すること。

3・4年 (1) 表現の能力に関して,次の事項を指導する。

ウ 曲想を感じ取り,また,歌詞の内容を理解して演奏の仕方を工夫す ること。

5・6年 (1) 表現の能力に関して,次の事項を指導する。

ウ 曲想を感じ取り,また,歌詞の内容を理解して演奏の仕方を工夫す ること。

平元 2年 (2) 楽曲の気分や音楽を特徴付けている要素を感じ取って、工夫して 表現できるようにする。

ア 歌詞の表す情景や気持ちを想像して表現すること。

3・4年 (2) 曲想や音楽を特徴付けている要素を感じ取って、工夫して表現で きるようにする。

ア 歌詞の内容を理解して表現の仕方を工夫すること。

5・6年 (2) 曲想や音楽を特徴付けている要素を感じ取って、工夫して表現で きるようにする。

ア 歌詞の内容及び楽曲の仕組みを理解して、それらを生かした表現の 仕方を工夫すること。

11 1・2年 (2) 楽曲の気分や音楽を特徴付けている要素を感じ取って,工夫して 表現できるようにする。

参照

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