• 検索結果がありません。

なぜ“気持ちを込めて”は、学校音楽のハビトゥスなのか。

3章の最後で“気持ちを込めて”という言葉は、日本語を用いる社会全体が共有してい るハビトゥスを持つ言葉であることを述べ、独特の価値が付与されているのではないか、

という疑問を提示した。2章の指導要領と授業事例の調査では、学校現場において“気持 ちをこめて”という指導がなされていることは既に明らかにし、その指導が適切に行われ ることは大変難しいことも述べた。“気持ちを込めて”という指導が繰り返される理由に は、学校音楽独特の背景や考え方が表れているのではないだろうか。このことについて、

3点から考察する。

まず一点目は、どのような姿や振る舞いが“気持ちをこめて”いるように見えるのか、

について考察する。二点目は、学習指導要領において“気持ちをこめて”演奏することと

「歌詞の内容を理解する」ことの関連性が述べられていたので、「歌詞の内容を理解する」

ことについて考察したい。そして最後は、“気持ちをこめて”という指導自体のあり方、

おかしさについて考えてみたい。

1.どのような姿や振る舞いが“気持ちをこめて”いるように見えるのか。

音楽において“気持ちを込めて”歌おうとしたり、演奏しようとしたりすると、どのよ うなことが起きるのだろうか。“気持ちをこめて”歌っている姿といって思い浮かべるの は例えば、テレビの音楽番組で、演歌歌手が歌の終わりにこぶしを握りしめながら、どこ か遠い方を悲しげに見ているのを思い出す人もいるだろう。あるいは路上で、物思いにふ けった様子でギターを弾き歌いする少年を思い浮かべる人もいるかもしれない。ピアノを 弾く場合はどうだろうか。急に“気持ちをこめて”弾こうとしたら、鍵盤に手を押しつけ たり、上半身をくねらせたりしまうことはないだろうか。

れるのだろうか。第2章の調査から、教師が指導する際に使った“気持ちをこめて”と共 に用いられた言葉(形容詞など)を抜粋してみた。

美しい/力いっぱい楽しく/意欲/想像しながら/歌詞を大きな口を開けて…/子ども の主張や喜び/イメージ/歌詞の内容を理解して

「力いっぱい」や「大きな口」という表現から想像できるのは、「元気で明るい子ども」

の姿ではないだろうか。演奏する音楽をよりよいものとするために、「力いっぱい」「大 きな口」を開けて歌うことが指導されているのだろうか。その点を明らかにすることはで きないが、学校という場においてのぞましい子どもを育てる目的を彷彿とさせはしないか。

そこに学校という場所が児童に求める理想の姿が、一つのハビトゥスとして見え隠れする。

例えば学校で求められる姿とは次のようなものではないだろうか。三池(2000, p.38)は 学校や社会で求められるよい子を次のように定義する。

「大人たちの価値観に納まってはみ出ない子どもは安心である。皆の気持ちに合わせて強 調し、でしゃばらず、温和な人間関係がつくれ、勉強やスポーツでは素直に大人の指導に 従う彼らを、誰も非難することはない。…周囲の意見や雰囲気を敏感に感じ取り強調し、

自己抑制して自らを出さずに生きている子どもたちのことである。(棒線筆者)」

言い換えれば、大人(教師)が子どもたちに求める姿が「正統的」であり、それを子ど もたちに押しつけている。そこには「期待する・される、支配する・される関係」(信田, 2000, p.8)が存在している。求められる児童の姿は「自己抑制」できる児童であり、それ は大人(教師)が彼らを支配している、という関係性によって成り立っている側面がある。

教師が“気持ちをこめて”歌うよう指導する際、“気持ちをこめて”歌うことは価値付け られているとは、とらえられないだろうか。「気持ちをこめて歌いましょう」という指導 の中に、評価する先生に「気持ちをこめて歌っている」ことがわかるように歌ってね、と いうメッセージが隠されているように感じられる。

その通り「想像しながら“気持ちをこめて”歌いましょう」という表現からは、何か考 えているような素振りを見せるということが“気持ちをこめて”いると受け取られる、と いうことが分かる。例えば、毎年行われるNHK学校音楽コンクールを見てみると、思慮 深そうな表情、固い表情で歌う姿も見られる。また、皆がほとんど同じ髪型をしている学 校もあり、はきはきと歌う独特な雰囲気が感じられる。そこには学校独特の風土で築かれ た学校文化とでも呼ぼうか、学校が求める児童の姿としての見本、真面目で明るくさわや かな子どもたちの姿があり、ある意味で定型化しているように感じられた。

また、私がある場面で見た児童は、強ばった表情で指揮をしている先生を必死に見つめ、

体を前傾させて歌っていた。肩はもちろん、手を握りしめていて全身に力が入っているよ うだった。声を響かせるというよりは、無理に口を大きく開けて声を押し出しているよう な様子だった。とにかく非常に苦しそうに見えた。児童のこの行動は“気持ちをこめて”

歌っていると受け取られる類だろう。この行動の原因として考えられることは二つある。

正しい発声・体の使い方を知らないことと、先生へ自分が頑張って歌っていることをアピ ールしていることである。一つめについては1章で述べた通り、正しい使い方を教師が何 らかの形で適切に示さなければいけない。それが早くに行われず悪い癖が付いてしまえば、

これからこの児童はそれを直すのに大変な苦労を強いられる。二つめのアピールしている 状態とは、他の人より“気持ちをこめて”歌おうと振る舞おうとする時に起きる。これは

“気持ちをこめて”いる、という振る舞いに正当性を賦与し、他者から自分を区別してき わだたせようという行動ではないだろうか。これはブルデュー(1990, p.ⅴ)が、「卓越化」

と呼び指した状況が、児童の間で起きているのである。

“気持ちをこめて”歌うということが、「力いっぱい」や「大きな口」で歌うことであ るなら、体に無理な力が入る、大きな声を出そうとして喉に負担を掛ける、不必要に口を 大きく開けるなどの行動が見られるのではないか。このように“気持ちをこめて”歌おう とすることは、児童の体に無理を強いている可能性がある。音楽に限らず、無理のない動

の選手の軽快な足取りや、シンクロナイズドスイミング選手の手足の動きなどは、流れる ように華麗で、見る人に心地よさを与え、不快な感じは与えないのである。

では他にも、学校が児童の体に無理を強いていることはあるのだろうか。『三角坐り』

という坐り方指導する理由には、学校に与えられた役割が起因しているとして、内田(2007, pp.142-143)はこう述べる。

「学校体育におけるいわゆる『三角坐り』というものがあります。『体育館坐り』とか『運 動会坐り』というふうに呼ぶ学校もあるそうです。…『三角坐り』というのは、腰を下ろ して、両足を前に立てて、両手で膝を抱く、という坐り方です。…両手でしっかりと自分 の体を抱きしめているわけですから、声も出せないし、手も足も動かせません。胸を押し つぶしているから、深い呼吸もできません。自分の身体そのものを監獄にして、そこに自 分を閉じ込めるような身体運用なのです。…確かに、子どもを管理するためには便利な方 法でしょう。私語も立ち歩きも手遊びもできないし、そもそもろくに酸素も吸えないので すから。」

この『三角坐り』と呼ばれる坐り方は、学校の体育の授業や、床に座っての活動の際は 皆この坐り方をする。私も“体育坐り”と呼び、このように坐ることを指導されてきたの で、なぜこのように坐らせられるのか、考えることはなかった。何よりも「学校ではこう 坐らなければいけない」と考えていた。これは3章で述べたブルデュー(1990, p.472)の 言う『見えざる』権力とも取れるものだろう。結局学校という場は集団を統率するあまり に、個人の身体の状態についてあまり注意を払ってこなかった側面がある。そして指導を 受けたことの問題点に、私たちは気づかないままでいることが多い。

このように身体の面からも、学校文化のハビトゥスが存在していると言うことができる。

ここで取り上げた『三角坐り』は集団を統制するために考え出された坐り方だが、“気持 ちをこめて”という指導も、児童に無理がかかる状態を強いる可能性を持ち、ある意味で

関連したドキュメント