中世後 期 と社 会契 約
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︿資料V
中 世 後 期 と 社 会 契 約
宮下輝雄
統治契約の原理は中世ヨーロッパの政治機構のなかで暗黙の
うちにおこなわれていたが︑それにもかかわらず︑それは︑い
かなる国家も存在する以前の遠い過去に起ったと想定された行
為とは解釈されなかった︑ということをわれわれは知った︒こ
の概念はもっと純理論的主張の展開をともなって︑もっとあと
に現われた︒中世の︑特に︑法学上の統治概念が︑法の根拠と
してよりも︑むしろその所産として実物通りに存続した限り︑
また契約がその中世的形態にとどまる限りにおいて契約は︑非
歴史的︑あるいは抽象的︑あるいは自己矛盾とは称されなかっ
た︒
ギールケは次のような次第を明らかにしている︒つまり︑そ
( 1 )
のような﹁正式に中世﹂の統治概念が︑ギルケが﹁古代・近代﹂ 観念と呼んだ︑進歩以前に遂に見捨てられ︑ルネサンスの時代を経過するまでには中世の全機構は紛砕され︑その空間に︑か
れの意志が法である領有君主たる主権者によって統治された独
立の領有国家が誕生した︑ということを︒契約理論はもはや統
治のこの種の形態にとって適当なものではなかったので︑絶対
主義への君主の要求に反対しようとつとめた研究者が︑中世の
より古い国家概念の残存する伝統から契約の系統立った教義を
組立てた時︑それが想像的純理論的であるための助力とはなり
えなかった︒
さらに︑中世の標準的政治理論というものは統治は君主制的
であるが︑君主の支配は法に従うべきものであり︑かれの人格
はかれの職責のためにのみ高められた︑ということであった︒
絶対君主制は理論的には考えられたが︑しかし君主政治と専制
政治の間の伝統的差違にかんがみ︑専制政治は好ましくない政
治形態としてほとんど普遍的に非難され︑人々は専制的支配に
服従を余儀なくされるものではないということが︑広く認めら
れていた︒たとえば︑聖ボナヴェントゥラ(ω什・じdOづ鋤くΦ口け¢﹃⇔)
は︑=二世紀に︑政治的自由の問題についての議論の後で︑ク
リスチャンはどの程度まで暴君に服従しなければならないかど
うかという問題を提起し︑かれらはかれらの世俗の首長に服従
することを余儀なくされるが︑しかしそのようにするのも神に
相反しない限りにおいてであり︑さらに正しい習慣に従って正
当に定められたような事柄においてのみである︑と回答してい
( 2 )
る︒146
聖トマス・アキナス自身は︑暴君殺害者の承認を突然中止
し︑またもし暴君の残虐性を抑制する必要があるならば︑行為
ヘヘヘヘヘヘへは公的権威によっておこなわれるべきであり︑私的な何らかの
ヘヘヘヘヘヘへ方法で恣意的に黛続§ミ㌧︑蕊§馬§勘§馬ミδ§︑︑ミミおこなわれ
るべきでない︑と考えると同時に︑王権は人民に起源をもち(鴇
g " 帖 § § ミ 勘 ミ ミ ミ 偽 犠 ミ ミ 凡 § 慧 ︑ 勘 ミ ミ 篭 ミ 黛 ,§ § こ § ︑ 磯 軸 ) ︑
また人民は国王が権力を濫用した場合には国王の権力を制限し
たり︑あるいは全く廃止する権利をもった︑という観念にかれ
自身明らかに同一であるとみなしている︒かれは続けて次のよ
うに述べる︒つまり︑たとえ人民が暴君を廃しても︑かれらが
約束を破ったとは考えられない︑それはたとえかれが以前に永
続的に暴君に服従したとしてもである(ミら㌧ミ§§§ミN鋳
ミミ勘ミ§旨︑譜ミミミ︑べ遷ミ§謡ミ養§違ミ§♂ミ疑ミ蔑寧
§§§黛鳶ミ§題gミ恥蓬ミ象鴨ミ縣)︒なぜなら︑国王として
のかれの義務にしたがって人民を統治せず︑約束を破ったのは
国王であるからだ︑それ故国王がそのようにしてもよいのは︑
( 3 )
人民がかれとの協約を守らない場合だけである(冬ミ無鷺穿ミミ亀鷲いミ勘偽謡§ミ題謹§§)︒この文章における多くの要
素は明りょうに承認できるものである︒国王が人民によって職
責に任じられたという観念︑また人民は国王にたいする明確な
ヘへ服従を行うという観念は︑明らかに王法卜§議皆について
( 4 )
のローマ法の教義に結合された中世の選挙原理から導かれた︒ブイルテイヘへと同時に︑われわれは︑ついに︑信義あるいは信頼の観念︑お
よび契約㌧§ミミという実際的用語を︑それらが﹁叙任論争﹂ においてマネゴールドやかれらの同時代人によって用いられた
のとほとんど同じ意味において︑再度︑掌握するにいたる︒
=二世紀におけるスコラ哲学の発展とアリストテレスの倫理
学的︑政治学的著作の復興は︑中世に︑まだ一般的であったも
のより︑政治的諸問題に対して︑より純思索的ないしは理論的
内容の展開を伴い︑かつ継続された︒政治哲学の基本問題i
国家の究極的正当化︑あるいは説明ーは︑あれやこれやの特
殊な状態における︑あれこれの君主の権利や権力と異なるよう
な解釈を要求するようになりはじめた︒この問題と国家の起源
に関する問題は密接に結合された︒アリストテレスの政治哲学
はこの問題に対する一つの完全な回答を包含していたが︑しか
し︑中世のキリスト教徒も︑また世俗的権威の根拠は罪であ
り︑政府は人為的な何ものかであるというアウグスティヌス流
の伝統を強く受け継いでいた︒さらに︑事柄の究極的説明が探
索された時︑かれらは︑かれらの見解が世俗的事柄に限定され
た哲学を全面的に受託することはできなかった︒われわれは︑
聖トマス・アクイナスと他の学派が︑アウグスティヌス流の哲
学とアリストテレス流の哲学を一致させようという試みにおい
て構成した全体系に関与しないが︑政治学に関するこれら二つ
の見解の間の基本的論争は社会契約説史において重要である︒
一方は︑国家は家族から発達し︑人は︑生来︑政治的である
というアリストテレス流の教義であった︒他方は︑人間の堕落
に関するその教義のゆえに︑自然法と市民・実定法のその対称
( 5 )
のゆえに︑また政府は契約的根拠のもとに人民によって設立さ中世 後期 と社 会契 約
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れるというその理論のゆえに︑古代ローマ人やストァ哲学者
︹の時代︺にまでさかのぼる︑中世の全伝統を提示する︒この
難問に関する一つの一般的解決策は︑人は︑生来︑政治的であ
ると考えられたというアリストテレス流の教義を受け入れるこ
とであり︑神の意志を人間性に替えることによって︑キリスト
教の教えへ︑︿人は︑生来︑政治的であった﹀ということを適
合することであった︒︹しかし︑この解決策は︺人間性あるい
ヘヘへは神の意志を単に遠因§い毫︑,軸ミoミあるいは動機ら§旨帖ミ,
㌧袋ミ§とみなすことであって︑その遠因あるいは動機が有効
に移行されるために︑それに対処すべき︑人間の意志と行動の
( 6 )
協業を要求した︒この必要な人問行為は服従契約と同一視され︑その服従契約によって︑人々はかれらを統治する政府を設
立した︒中世の政治生活の目々の運用に具体化されたこの服従
契約は︑今や︑国家の起源が︑過去にさかのぼって︑吟味され
るものとして︑背景に非政治的﹁自然状態﹂をもつ組織された
政治社会の入口を︑形成しはじめた︒
アリストテレス流の観念と中世の観念のこの結合についての
一つの興味ある例は︑ジョン・オブ・パリスによっておよそ一
三〇三年に執筆された﹃国王の権力と教皇の権力の執行につい
( 7 )
て﹄↓︑︒§縣ミ§§ざ鷺論ミQ肉磯凡亀ミミ亀勘にみられる︒われわれは序章において︑人々は一緒に︑しかも︑生きるに必要
なものを供給するのに十分な数で生活しなければならない︑と
述べているのをみいだす︒しかし︑すべての共同体は︑それを
統治し︑公共善のためにそれを指揮するための一人の人を必要 とする︒というのは︑もし各個人が︑かれ自身のことだけに気
をとられているならば︑その共同体は散り散りばらばらになっ
てしまうであろうからである︒しかし︑この統治は自然法から
のみ導びかれないということ︑すなわち︑人は︑生来︑市民的
政治的動物である︑ということは明らかである︑と著者は筆を
進める︒というのは︑最初の国王であったビュルサ(ゆ①一二ω)
とニソス︹原典はZぎロωとなっているがZ凶ω口ωと解す︺の時
代以前に︑人々は︑人間のようにでもなく︑いかなる規則もな
い野獣のように︑自然に生きなかったからである︒それなら︑
人々はどのようにして︑この凶暴な状態を脱出し︑統治のもと
で生活するようになったのであろうか︒著者は︑後ほど大勢と
なった︑これらの原始人が一緒に政治的同意をおこなったとい
う想定の不合理を避けている︒すなわち︑かれは次のようにい
ヘヘヘヘヘヘヘへう︒このような人間は謡ミ冒ミ︒ミぎミ︑ミ防︑かれらの凶暴な生
活から共通の生活から共通の生活へ入ることはできず︑かれら
ヘヘヘヘヘヘヘヘへは共通の生活へ共通の言葉によって黛︑竃︑曹§§ミ§旨自
( 8 )
然に適合された︑と︒ことのしだいは︑かれらの理性を用いることがすぐれて可能であった人間は︑かれらをあわれみ︑一緒
に生活するようかれらに納得させることにつとめ︑また一人の
統治に服し︑同時に︑共に生きるために定められた法のもとに
かれらを拘束したということであった︒
この国家の起源に関する幾分気まぐれな説明は︑なるほど契
約の形式を用いてはいないが︑けれども︑人々はかれら自身の
同意を与えた国家に加入した︑ということを意味している︒と
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