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古典による教育の試み

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古典による教育の試み

著者 吉田 國臣

雑誌名 星薬科大学一般教育論集

号 22

ページ 1‑28

発行年 2004

URL http://id.nii.ac.jp/1240/00000225/

(2)

古 典による教育の試み

吉田 國臣

      大 学 教 育における総合科目というものが︑各大学の特色を踏まえて様々に実践されているなか︑薬学生には︑どのよう     な形態と中身が相応しいのであろうか︒文学を専門にする立場からの試行錯誤を続けてきた︒およそ文学なる科目は︑文     学 史の講義を除けば︑研究者の専攻する作家や作品の特殊講義が大半であったように思う︒しかもそこで行われていた講     義の内容は︑特に外国文学の場合︑その基礎として原語でテキストを読解する作業が不可欠であった︒しかし語学・文学     が 専 門でない学生にそのような講義は不向きである︒では︑いかなるものであれば学生の関心や興味を惹くことができる

み 試   の で あろうか︒毎回の講義終了時に十分間で綴ってもらった受講生の感想を交えながらその実践を報告したい︒

編 まず︑文学は名前に学が付いているからと言って︑学問としてやる必要性などないという蔓もある︒楽しみの対象と

焔   して︑小説でも読もうというのなら︑その主張も成り立つであろう︒だが︑大学でわざわざ時間を使って講義をするから

典   に は︑それなりの目的と価値を有するものでなければならない︒さりとて︑古今東西の古典や名作といわれるものの概要

古  

  を単に紹介するというのでは︑あまりに漠としてつかみ所がない︒そこで︑古典作品の少なくとも原典の一部を翻訳で紹

− 介し︑後に各自が気に入った作品の全体を夏季休暇中に読むことを前提とした︒

(3)

2

  しかし︑その対象作品を如何に選択するかは︑かなり困難である︒とりあえずは近代市民社会を形成してきた西欧文化

の 伝 統 を たどることを目安に︑そこに青年が直面するであろう様々な問題を想定して︑対象をしぼることにした︒具体的

に は︑講義をする者の力量の限界を反映して︑近代西欧諸国の限られた作品を扱う結果になった︒ただし︑そこで触れる

内容は︑歴史︑宗教︑言語︑思想︑文化や習慣の様々な状況にわたるが︑近代人が如何に苦闘しながら諸問題に対処して

きたか︑作中の人物に感情移入することを通じて︑その行動や心理を体験することが︑読者である学生の人格形成にどれ

ほ どの影響を発揮するのか︑古典の持つ力によるところ大であろうと期待するにとどまる︒以下は第一学年前期に実施し

て きた﹁文学と表現﹂の講義十二回のうちで扱った作家と作品の主なものである︒

ー シェイクスピア

  ー<胃言⑫は美徳か薬効かー   文 学 作 品というものは︑元来そこに一つの独立した世界を現出するものである︒従ってその中に使われている素材の一

部をもとに気ままな推論を展開するのは︑文学研究の立場から言えば邪道かもしれない︒作品本来の主題から余りにもか

け離れた解釈は作品鑑賞の面でも牽強付会のそしりを覚悟しなければなるまい︒しかし作品の一部ではあれ︑原典を基に

風 土 や

歴 史的背景を踏まえたうえで︑読者の興味や関心に応じた視点から読むこと自体には︑何ら制限はないはずである︒

 ﹃ロミオとジュリエット﹄︵カo∋oo9α言一一〇戸㌫Φ切︶と言う作品の名前さえ聞いたことのない学生は皆無に近い︒それど

ころか︑﹃ハムレット﹄と並んで︑シェイクスピアの作品であることを大半の学生は知っている︒しかし一方で作品を原典

で 読んだ者は︑まずいない︒その事情は翻訳であっても大した変わりはない︒だからこそ原作を提示することに意義があ

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る︒薬学生にはどのようなアプローチが考えられるであろうか︒

ミオとジュリエット﹄第二幕︑第三場で︑薬草を摘む修道士ロレンスの言葉︒

   ﹁さて︑太陽が燃える目をあげて昼を励まし︑夜露を乾かす前に︑

    わたしは毒をふくむ草や︑霊妙な液汁を含む花々で︑

    この柳細工の籠をみたさねばならぬ︒

    大 地 は自然の母にして︑また墓場︑︵8∋9

  自然を埋める墓でありながら︑自然を生む子宮でもある︒︵≦o∋旦

    そ の 子 宮 か ら様々な子が生まれる︒

    大 地 の 自然の乳房を吸うわれらは

    数 多くの︑素晴らしい効能を持つものをあまた見出す︒︵≦﹁9①ω︶

    どれも何らかの効能があり︑しかも一つとして同じものはない︒

    おお!草や木や石の本性には︑︵ゴ氏亘ωも盲巳ω㌦8ロo°・︶

    なんと多くの強力な美質が潜んでいることか︒

    大地に生きるものは︑どんなつまらぬものでも何らかの益を大地にもたらし︑

    どんな優れたものでも使い方を間違えれば︑本質にそむいて悪弊をもたらす︒

   

薬 効が毒性に変わるのも使い方次第︑︵<S⊆o一房o一ひ9日ω≦否Pぴo日oq日﹇ω竜U一一〇e

講 毒 性 も作用次第で尊・ものとなる︒︵匡§°・§・§・;・§・豊菖

の  この可憐な花のいとけない蕾の内には︑︵芝#宮ロ日o旨宮已﹃日Oo﹃↓宮ω⑭日四=コo≦①こ 鯖 毒 もあれば医療の力も宿・ている︵ぎ・・8量・・°・・§・昌・・︒⁝§・き

る それゆえ︑香りを嗅げば五体を力づけるが︑味わえば心臓もろとも五感を止める︒ よ こ   ︵ウo﹁仔一〇り゜O①日σq°り日o拝ξ一葺9ω⇔廿①葺oゴoo﹁ωo①o古噂①﹃︹\bdo日σq冨ω⇔oO↓ω訂司巴一゜りoコoりoo︒ヂ#=↓古o古o①﹁ご

典   こうした二つの対立する宿敵は︑︵↓乞oωζ合o℃℃o°︒o匹匠口oq°・o白8∋廿仔o∋ψ︒巨ご 古 草の中にもあれば人の中にもある・それは品位ある心と野蛮な心だ・︵巨§①゜°匡①゜り言冨σq§°§﹃昆①ξ︶

    悪 が 優 勢なところでは︑死という害虫が︑たちまちその草木を食い尽す︒﹂ 3                                                                                                     ︵ 多くの訳書を参照した︒︶

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4   原文を示してく﹂﹁言︒の語彙をたずねれば︑大概︑﹁徳﹂と答えるのは︑現代語を習っている学生として当然のことであ

る︒しかし語源をたどると元の意味は︑力や長所︑利点であること︒それが薬の﹁効力﹂にも用いられ︑道徳的な長所︑

つ まり﹁美徳﹂にも使われたことを言えば納得してもらえる︒ところで︑なぜこの部分を引用したかは︑薬草が出てくる

ためばかりではない︒実は自然の理解を︑シェイクスピアの例を引きながら考えたかったのである︒文中にある︑﹁大地は

自然の母︑そして墓場︑自然を埋める墓であり︑自然を生む子宮でもある︒﹂などの言葉を引くまでもなく︑シェイクスピ

アの作品では︑ほとんど常に︑相反する二つのものが︑さまざまな比喩を用いて描かれる︒愛と憎しみ︑喜びと悲しみ︑

絶 望 と希望︑美徳と悪徳︑清純と不純︑平和と戦い︑幸福と不幸︑さらには︑生と死に至るまで︒十九世紀のドイッの詩

人 ア イヒェンドルフはかつてその文学史記述の中で︑ドイッ文学史上﹁疾風怒涛﹂︵°︒言﹃日已⇒ロO轟poq︶期と称される時代

の 詩 人 たちが︑その激しい感情の爆発を文学的営為に展開するに当たってシェイクスピアを師表と仰いだとき︑その古典

的形式美を無視した奔放なまでの様式上の自由さのみを一方的に評価した点や︑シェイクスピアの自然観に対する彼らの

一 面 的理解の姿勢を併せて難じた︒つまりシェイクスピアが自然を描くときには︑その全体性を常に念頭においていたこ

とを忘れるべきではないと指摘したのである︒自然の両義性に隠された真理を見ていたシェイクスピアの真髄を見抜いて

い たからであろう︒我々もまたそこに︑人生というものを常に全体的に見ること︑言葉をかえれば︑個々の事象を相対化

する視点からものごとを判断することの大切さを学びたいからである︒

  またシェイクスピアの時代の英国では︑本草学が盛んに研究されていたという︒彼の全作品中には︑一五〇種余に及ぶ 本 草 が 登 場 するそうだ︒しかも︑当時の俗信を交えながらも薬学的な知識を背景にした巧みな演出の工夫を知ることは︑

作品研究においても無視できない︒﹃ロミオとジュリエット﹄にも都合六種の薬用の植物が出てくる︒

  具

体 的には︑婚礼と葬式の儀式にからんで出てくるローズマリー︵マンネンロウ︶︑傷薬としてのブランティン︵オオバ

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ジュリエットの乳母が乳房に塗ったというワームウッド︵ニガヨモギ︶︒またストルーイング︵散華︶に用いられる

ラッシュ︵藺草︶︒しかしなんといっても有名なのは︑ロミオに一目ぼれしたジュリエットがバルコニーで独白する言葉で

ある︒       ︵熊井明子著﹃シェークスピアの香り﹄東京書籍刊参照︶

 ﹁おお︑ロミオ︑ロミオ︑なぜあなたはロミオなの

名前なんかに何があるの︒薔薇と呼んでいるあの花を

別の名前で呼んでも同じように芳しいことでしょう︒﹂

  香 る花のなかの女王︑薔薇は古来ヴィーナスの誕生や聖母マリアの死を象徴する植物として重んじられてきた︒物語で

は︑愛と死という相反する二つのものをあわせ持つゆえに︑ロミオとジュリエットの恋を象徴する両義性の花として登場

する︒しかし当時は蒸留してローズ・ウォーターやローズ・オイルとして香りを珍重しただけでなく︑緩下剤︑強心薬︑

催眠剤などのほか︑肝臓や腎臓の機能を高め︑出血や汗を止め︑傷薬や潰瘍薬にも用いられたことが︑ジョン・ジェラー

ドの﹃本草書または植物の歴史﹄︵↓ゴo団Φ吾巴o﹃Ooづ零巴﹁国一ω9﹃︷o忠勺訂ロ貫一〇Φぺ︶には掲載されている︒

  さて︑学生たちが一番興味を示すのは︑ロレンス修道士が︑一計を案じて︑ジュリエットが無理やり結婚させられるの

蹴 を防ぐのに用いた︑例の四+二時間仮死状態に落ちるという架空の睡眠薬である︒そんな都合のいい薬があるはずがない

鯖 と笑に付すのは容易であるが︑・れは︑あながち嘘ばかりでなく︑それに近い作用を持つ薬物が当時あ三かもしれな

る よ いということである︒前述のエリザベス朝の高名な植物学者ジェラードによれば︑﹁この種のベラドンナは眠りを誘い︑⁝

に 典 それを食べる.﹂とによりもなりされる深い眠りは死にも似て︑実際に多くの者は︑死に至ったLといえ専門でない立場     か ら︑学生にはトロパンアルカロイドとかヒヨスチンなどの成分の話はさしひかえ︑将来学ぶこともあるでしょう︑とい

5     うに止めている︒   ︵ジョン・マン著﹃殺人・呪術・医薬﹄ー毒とくすりの文化史ー山崎幹夫訳 東京化学同人刊参照︶

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6   またこの作品には︑シェイクスピアが種本に利用したアーサー・ブルックの﹃ロミウスとジュリエットの悲劇の物語﹄

に は ない薬種商︵アポセカリー︶が登場する︒従って十六世紀の英国の時代状況を反映したものである︒つまり薬種商が

薬の独占販売権を認められたのもシェイクスピアの同時代︑ジェームズ一世︵一六〇三ー二五︶統治のころであった︒

  このようないわば作品の周辺的な情報を知ることは︑薬学生にとっては当然︑興味と関心を持ってもらうのに適してい

るのではないかと思うのである︒

  もっともこれらの考察は︑あくまでも導入であり︑やはりシェイクスピアについて文学研究の成果を紹介しないのは︑

片手落ちであろうから︑いわゆる解説書的な説明も︑つまり作品の成立史や評価の時代的変遷︑さらには上演の歴史にも

触れる︒劇場に足を運べない我々の立場で︑映画の触りを部分的に見せる事もある︒戦後間もない頃のカステラー二監督

版と︑我々の青春時代の作品であるゼフィレッリ監督版を比較し︑さらにはレオナルド・ディカプリオ主演の最近作まで

比べると︑やはりゼフィレッリのよさが学生にも伝わる︒ときには翻訳の変遷にも触れるのだが︑冒頭からいきなり意味

の か なり違ういくつかの訳を紹介し︑それらの翻訳が間違っているのではなく︑シェイクスピアの英語がもつ二重︑三重

の 掛 け言葉のどれをとって筋をつなげるかは︑訳者の好みでもあり︑言語が異なれば本来︑翻訳の不可能な一面もあるこ

とを知ってもらうのも大切だと考えるからである︒

  ただし学生には作品の正しい解釈やら評価の基準というものは︸切言わない︒なぜなら文学というものは︑読者にとっ

て どうであるかが第一であって︑絶対的な答えなどないという前提に立つからである︒常に読者が自由に判断することを

許し︑新しい解釈をすることに価値がある点を強調して︑後に各自が作品全体を読み自分の判断をレポートにすればよい

ことにしている︒このことは学生にとっては︑意外であるらしい︒

  ただ付言すれば︑社会通念上︑ロミオとジュリエットの愛が︑ロレンス修道士の司式によって結ばれるので︑親の意に

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反 しているとはいえ実は︑政略結婚が当たり前の時代にあって︑精神的な意味で他に制約を持たない自律的な人格同士の 互 い の 意 志 に 基づくキリスト教的な意味での正式な結婚の原型であること︑それ以前の時代に︑正式な結婚という形で愛 が 成 就 する物語が無いに等しかったことを指摘する︒さらには︑先行する物語作品と異なり︑十四歳にも満たない思春期

の 無 垢 で もあり無軌道でもある乙女と十六歳前後の若者の恋愛劇に仕立て上げた作者の人間理解の的確さを示唆する程度

の 補

足 をするに止めている︒

2 レッシング

   ー﹃賢者ナータン﹄の啓蒙主義1

      戦後教育の特徴の一つとして︑自主性を伸ばす︑個性を育てる︑といったスローガンに我々は馴らされてきた︒なるほ     ど昨今のスポーツ選手の海外での活躍には︑それなりの成果を見ることが出来るかもしれない︒また︑危険も顧みずに︑

    紛 争 地 で ボ ランティア活動を展開する頼もしい青年たちの存在も︑それを裏付けているともいえようか︒しかし一方で︑

み 戚 社会全体の大多数の趨勢としては︑独自の思考を踏まえて意見を展開することには未だ慣れていないのが︑我々の姿のよ

輔 うな気がする︒

る よ  ところで︑十八世紀後半の西欧社会の様相には︑近代人のいわば個の自覚を促す機運が膨済としていたことを知るとき︑

に 韻 そ・﹂に︑生きた歴史の先例を見る.﹂とが出来るのである︒フ一フンスではルソあ社会契約論や自由思想︑ディドロ︑ヴォ

    ル テ ールの啓蒙哲学によって︑革命の素地が用意され︑それが現実的な政治革命へと発展していった︒英国ではロック︑

7     ヒュームの経験主義を背景に名誉革命によって無血の市民革命を経ていた︒それらとは異なり︑ドイッは三十年戦争後の

(9)

8 後遺症に悩んでいただけでなく︑官僚的な国家プロイセンに代表される専制主義的小邦分立の政治状況に置かれていた︒

そ ん な中︑いわば上からの改革とともに︑フリードリヒニ世︵大王︶の治下でフランスから移入された啓蒙思想は︑やや

ともすれば︑市民層の反感を買ったかも知れない事情がある︒しかしドイッでもすでに啓蒙主義本来の思想の深みは︑﹁自

分の悟性を用いうる勇気をもつこと﹂といった︑カントの言葉に表現されていたのである︒カントの理解者でもあり︑共

鳴者でもあったレッシングは︑﹃エミーリア・ガロッティ﹄で︑そうしたドイッ的な小形専制政治を弾劾した︒この作品は

夙 に 森鴎外の﹃折薔薇﹄の翻訳で日本には紹介されている︒一方ドイッ国民文学の祖であるレッシングの作品中︑今でも

学生たちの感動を呼べるだけの︑力ある作品はどれかといえば︑﹃賢者ナータン﹄︵Z巴プ呂匹o﹃綱9°・P一ベベ旦であろう︒

  ヴォッカチオのデカメロンからとった寓話を素材にして︑神の前には︑どの宗教が真であり︑どれが偽であるというこ

とはないという思想を表現した︑宗教上のまた人間としての寛容を説いた大作である︒無論ここでの宗教とはユダヤ教︑

イスラム教に︑キリスト教である︒従って作品を読む者に︑未だに世界史的な関連を考えさせるに足る創作意図の普遍性

が 窺がえる︒作品の時代設定は第三回十字軍時代のアイユーブ朝のサラディン治世下のエルサレムである︒おりから財政 逼 迫 した回教主は豪商ナータンの言質をとって金策を命じようと宮廷に召す︒この作品の山場とも言うべき場面は︑学生

た ちに特に人気のある箇所である︒

  第五場の冒頭のサラディンとナータンの対面の場︒       ︵浜川祥枝訳 白水社刊 より︶

サ ラディン 近こう寄るがいい︑ユダヤ人!  もっと近こう!ーずっとこれへ!  何も畏れることはないそ!

ナータン 恐れたりするのは︑あなたさまに敵意を持つ者に任せましょう︒

サ ラディン ナータンと言ったな?

ナータン はい︒

サ ラディン 賢者ナータンか?

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        ナ ータン いいえ︒

        サ ラディン そうだ︑そちが自分でそう名乗っているわけではなかった︒民衆がそちをそう呼んでいたのだった︒

        ナ ータン 民衆のことでございますから︑あるいはそういうことも︒

        サ ラディン わしが民衆の声を軽んじているなどとは思うまいな?ーわしはかねて︑民衆が賢者と呼んでいる男に会いたいと

       

  思っていたぞ︒

        ナータン しかし︑民衆がそう呼びましたのも︑私をばかにしてのことかもしれませんし︑その利口な人間は︑自分の利益を見るの

          に 敏なだけの人間かもしれません︒

        サ ラディン そちが言うのは︑﹁自分の本当の利益を見るのに敏な﹂意味だろうな?

        ナ ータン むろんそうなれば︑いちばん利口な人間ということになり︑利口な人間と賢者との区別もなくなりましょう︒

        サ ラディン 話を聞いていると︑そちは︑自分の反駁しようとしていることをかえって証明しているようなものだ︒  つまりそち

          は︑民衆の知らない本当の意味の人間の利益を知っている︑いや少なくとも知ろうと努め︑それについていろいろと考えてきた︒

          それだけですでに賢者の資格は充分ではないか︒

        ナータン それくらいの賢者なら︑人間誰しも︑自分はそうだと思っております︒

        サ ラディン もう謙遜はたくさんだ︒仮借のない理性の声を聞かせてもらいたいと思っているところへ︑謙遜の言葉ばかり浴びせら

          れ て は︑胸がむかつくからな︒本題にはいろう︒だがな︑ユダヤ人︑正直に  正直に答えるのだぞ︒

     

   ︵⁝⁝︶

        ナ ータン 何なりとおっしゃってくださいませ︑サルタン様︒

み       サ ラディン わしは︑︵⁝︶そちの教えを受けたい︒  そちは賢者と呼ばれるほどの男だ︒そこでひとつ︑どういう信仰︑律法が︑ ㊨  いちばんそちに納得い三かわしに打ち明けξれんか︒

育      ナータン サルタン様︑私はユダヤ人でございます︒ 磁  サ・ディンそして︑わしは回教徒だ︒あ・だには︑キリ・・教徒が・る︒ーしかし︑・の三つの宗教のうち︑本当の宗教は一つ

よ    だけにちがいない︒そちほどの男であれば︑出生によって偶然投げ出された場所に︑ずっといるはずはないし︑もしそうだとして 典  も︑それは︑明察・基づくもの︑理由あっての・﹂と︑より・いものを選んだ結果をーむろを﹂・﹂だけの話としてだがわし・

古      

  教えてくれ︒わしもそちにならおうと思う︒1どうだ?びっくりした顔をしているな?わしの顔色をうかがっているな?ー

          こんな気まぐれを起こしたサルタンなぞ︑わしが最初かもしれん︒しかしこの気まぐれも︑必ずしもまったくサルタンにふさわし

9    くないものとは思わん︒  そうではないかな?  何とか返事をしてくれ!口を開いてくれ!  それとも︑しばらく考える

(11)

余裕がほしいか?よし︑その余裕をつかわそう︒考えるがよい!急いで考えるがよい!すぐに戻るぞ︒

10

第六場 ナータンひとり︒ ナータン ふむ!ふむ!ーおかしい!ーいったいどうなっているのだ?サルタン様は︑どういうおつもりなのかな?  金

  をよこせと言われる覚悟で来てみると  真理がほしいとおっしゃる︒真理ねえ!しかもまるでお金みたいに  真理を︑ぴか

  ぴ か の 現金でほしいという御注文だ!︵⁝︶真理も︑袋に詰め込むお金のように︑頭に詰め込むものだろうか?︵⁝︶ひょっとす

  ると︑ほんとうにほしいのは真理ではないかもしれん︒1そりゃむろん︑真理をほしいなどと言っているのは罠だと疑ってかか

  るのは︑まことにみみっちい話にはちがいない!︵⁝︶こりゃ︑用心する必要があるぞ!だが︑用心するったって︑はてどうした

  ものか?ーユダヤ人根性丸出しでというのは︑いまさら手遅れだ︒  だからって︑全然ユダヤ人らしくなくふるまうのは︑

  もっといかん︒じゃなぜ回教に改宗しないかと言われたら︑それまでだからな︒ーそうだ︑あいつがあったっけ!これでいけば

  だ い じょうぶだ!ーお伽噺でごまかせるのは︑子供ばかりじゃあるまい︒  来たな︒用意はできてるぞ!

第七場

サ ラディンとナータン︒

サ ラディン   早すぎはしなかったろうな?じゅうぶん考え抜いたことと思う︒ーでは話してくれ!他には誰も聞いておら

ん︒

ナータン これからお話し申し上げることは︑いっそ世界じゅうの人々に聞いてもらいたいくらいでございます︒

サ ラディン 自分の考えにそれほど自信があるのか?さすがは賢者だ!絶対に真理を隠そうとせず︑真理のためとあれば︑からだ

  も命も︑財産も血も︑みな賭けても悔いないとはな!

ナータン もちろんでございます︒必要とあれば︑また︑役にたつとあれば︑それもあえて厭いはいたしません︒

サ ラディン わしは︑世界と律法の改善者とも呼ばれているが︑いまからは︑そう呼ばれても恥ずかしい思いをしないですむだろう︒

ナータン ほんとうに︑すばらしい呼び名でございますね︒ところでサルタン様︑私の考えをすっかりお打ち明けするに先だち︑一

  つ お話させていただけないでしょうか?

サ ラディン いいとも︑いいとも︒わしはいつも︑うまい語り手の話を聞くのは大好きだった︒

ナータン むろん︑うまく話すとなると︑必ずしも私の得てではございませんでしょうが︒

(12)

サ ラディン またまたそんな自信たっぷりに謙遜するか?もうよい︑話せ︑話せ!

  ここでナータンが︑例の話︑つまり︑代々一子相伝の尊い指輪をめぐって争う三人兄弟の話を語るのだが︑﹃デカメロン﹄

中の第一日目︑第三話をもとにレッシングは後の話の伏線を張り︑その指輪の石に﹁そうと堅く信じてその石を所有する

人 間を︑神および人の目に好ましいものにするという︑不思議な力を帯びている﹂という特性を添える︒そして︑三人の 息 子を等しく愛した父親が︑寸分たがわぬ指輪を他に二つ用意し︑それぞれ別に呼んで祝福とともに与えた後に息を引き

取ったという例話をナータンに語らせる︒﹁それはちょうど︑いま私どもが問題にしております本物の信仰が︑区別がつか

ないのと  ほとんど同じでございます﹂と言わしめる︒その直後の展開は︑

        サ ラディン 何だと?それがわしに対する返事だというのか?︵⁝︶

        ナータン 区別できないようにと父親がわざわざ作らせた指輪をあえて区別するだけの自信がないことを︑ご了解いただきたいと

       

  思ってお話申しあげただけでございます︒

        サ ラディン 指輪だと!わしをからかうではないそ!  わしが先ほどあげた三つの宗教は︑服装から︑食べもの飲みものに至る

          まで︑ちゃんと区別があるではないか!

        ナータン ただし︑内容の面だけは︑区別できないのでございます︒  なぜと申しますに︑三つの宗教の内容は︑書き物によるに

み           せ よ口伝によるにせよ︑みな歴史に基づいておりましょう?  ところが︑歴史というものは︑ひたすら︑そのまま鵜呑みにされ 試 の     るほかはないものでございましょう?  そうではございませんか?  ところで︑こうして鵜呑みにされてきた歴史の場合︑ 鞭  われわれとして︑誰が聾み・してきた歴史を・ちばん信用す・でし・うか?自分が所属す・民族自分たちの先祖子供の頃か

る    らわれわれがその愛の証を数々を見せつけられている人々︑われわれを騙したほうがわれわれのたあになる場合以外は決してわれ

は         われを騙したことのない人々  こういう人々が鵜呑みにしてきた歴史をいちばん信用するのが当然ではないでしょうか?私が

典      

  自分の先祖をいちばん信用いたしますのは︑サルタン様がご自分のご先祖をいちばん信用なさるのと同じでございます︒私はあな

古       たさまに・私の先祖に同調するためにあなたさまのご先祖様を嘘つき呼ばわりしてくださいとお頼み申すことはできませんが・そ

ー    の逆も同じです︒このことは︑キリスト教徒たちにも当てはまります︒そうではございませんか? ー         サ ラディン ︵神よ御照覧あれ!この男の言うとおりだ︒わしには反論できん︶

(13)

12   さて︑長い引用をしたわけは何かと言えば︑前述のナータンのことばに盛られた思想に我われが深い共感を抱くからで

ある︒ナータンは架空の人物であるにしても︑サラディン︵サラーフ・アッディーンー1信仰の公正︶は反十字軍を率いて

エ ル サ

ム を陥落させた史上に名高い名将である︒しかも第一回十字軍の残虐な無道に比して︑かれの節度をもった寛大

な処置は︑英国の歴史家スタンレー・レインブールの古典的名著﹃サラディン﹄に﹁かれは当時の︑また恐らくはあらゆる

時 代を通じて︑最も騎士道精神をもった征服者である﹂と言わしめている︒

  か れ の 寛 大 な施政の伝統は︑まさに父祖の歴史を踏まえてか︑その甥に当たるアル・カーミルに受け継がれたのであっ

た︒少なくとも筆者はそう推測したい︒このアル・カーミル︵一二一八−三八在位︶こそ︑医薬分立の祖︑ドイッ・ホーエ

タウフェン王朝最後の大帝フリードリヒニ世︵一二一五⊥二五〇︶ことノルマンのシチリア王にしてエルサレム

王︑ローマ法王庁から破門された皇帝フェデリーコその人とともに肝胆相照らす英明な君主の連星である︒我々は十字軍

時代にあって十二年の短い期間ではあれ︑この二人が結んだ無血の和平の時代があったことを忘れることはできない︒そ

の 根 本には互いの文明を理解し認あ合う寛容な精神があった︒逆に宗教の違いや優劣を口実に自己の利を諮る人間の頑迷

さが︑どれほど混迷の連鎖を招いてきたことであろうか︒劇中で︑三人の息子たちの訴えを裁くことになった裁判官は︑

﹁ お まえたちは︑めいめい父親から指輪をもらったのなら︑それぞれ本物だとしっかり思い込むのだ﹂と諭した︒さらに

﹁ 確 か なのは︑父親がおまえたちを三人とも愛していたこと︑まったく同じように愛していたこと︑そしておまえたちのう

ちの一人をかわいがることが︑ほかの二人の不利益になるようにはしたくないと思っていたことだ︒⁝おまえたちは︑そ

れ ぞ れ︑父の︑偏見のない公正な愛を見習うようにするのだ!お互いに競争して︑それぞれの指輪の石が持つという力を

揮 するようにつとめるがよい﹂と言うのである︒この顛末はレッシングの用意したもので︑﹃デカメロン﹄には︑﹁問題

は今も未解決のまま宙に浮いている﹂︑とあるのみである︒それが現実かも知れまいが︒むしろレッシングの教えを実践し

(14)

たかのような二人の英傑が歴史上に存在した事実の方に我々は感嘆するのである︒

3 ゲーテ

    ーヴェルテルの自死とカントの定言命令ー

 ﹁かわいそうなヴェルターのことについて調べのつく限りのことを調べてみた︒それをここにお目にかけたい︒読者の皆さんには

きっと喜んでいただけるとおもう︒きっとヴェルターの精神や人柄を讃え︑彼を好きになって︑彼の運命に涙を抑えることができない

思いをなさるだろう︒

  ヴェルターと同じ情熱に悶えている人なら︑かれの苦悩を知って︑そこから慰あを汲んでくれるとうれしい︒このささやかな書物を

あなたの友だちにしていただきたい︒あるいはご自分の不手際で︑ほかにもっと親しい友をおもちになれないのだったら︒﹂

                         ︵﹃若きヴェルターの悩み﹄︵O拾↑6己o白Oo︒︒言コσqoコ乏巽芸隅゜・ミベと初版の前書きより 神品芳夫訳︶

      文 豪ゲーテのデビュー作が︑衝撃的な内容の告白小説で︑この作品が発表されるや爆発的なベストセラーとなり︑主人     公 に倣って自殺する若者が続出する騒ぎを引き起こして世の物議をかもしたというと学生たちは驚く︒しかもナポレオン

み 戚 が ・ ジプト遠征に所持して七度も繰り返し読んだ末︑内容をほとんど請んじていたと︑後年︑陣中を訪れた7テに述懐

楯 したなどと夏ば︑是91読んでみたいと言い出す︒しかし他人の許婚に横恋慕して・願いが適わないので自殺する話だと

る よ 筋書きだけをいうと︑大概︑怪語な顔をする︒ところで︑自殺自体はよい事かどうかを問えば︑一様に悪いという︒しか

に 韻 し芳で自分の命をどうしようと個人の自由だとい§見も必ず出てくる︒では︑当時はどう判断されていたのか︑その

   

根 拠をその当時の思想に探ってみようというので︑カントの言葉︑﹁我々は自由を直接に意識せず︑ただ道徳律によって︑

13     これを知るのである﹂を手掛かりに﹃道徳の形而上学の基礎づけ﹄︵○日巳一︒°q仁5σQNξζ︒鼠O古ぺω涛匹2ψ︒一口oロ一べ゜︒O︶を参

(15)

   照 する︒時には文学以外の文章もみてみようというのである︒

14

  わ た しが︑そもそも仮言的命令なるものを一般化して考えるとき︑その︵命令の︶条件が与えられる以前には︑それがいかなる内容

を含むものであるかを知らない︒しかしわたしが定言的命令を考えるときには︑わたしはただちにそれが含む内容を知るのである︒と

い うのは︑その命令がその法則の他に含むのはただ︑格率がこの法則に一致しなければならないという必然性だけであり︑一方この法

則はそれを制限するようないかなる条件も含まないのであるから︑そこにはおよそ法則の普遍︵一般︶性が残るのみであり︑行為の格

率はこの法則に一致すべきである︒そしてただこの適合性︵一致︶だけがこの命令を本来的に必然的なものとして提示するのである︒ ︵逆 に この一致を必然的に提示する︑とも読める︶︹注:格率とは意志の主観的原理であり︑意志の客観的原理は実践的法則である︑と

カントは他の箇所で述べている︺

  そ れ ゆえ定言的命令は唯一以下のものでしかありえない︒すなわち﹁︵あなたは自分の行為において従うべき︶あなたの格率が普遍的

法則となることを︑当の格率によって︵その格率と︶同時に欲しうるような格率に従ってのみ行為しなさい︒﹂

  さてこの唯一の命令から︑それを原則として︑すべての義務の命令が導き出され得るとすれば︑我々は義務と呼ばれるものが︑一般

に 空

虚 な概念ではないかどうかを︑未決定にしておくにしても︑それでもやはり少なくとも我々は︑それ︵義務の概念︶によって考え︑

またこの概念が何を言おうとするかを示すことは可能であろう︒

  それに従って諸々の結果が生起する法則の︵持つ︶一般性は︑︵形式からみて︶本来最も一般的な理解における﹁自然﹂︑すなわちそ

れ が 普遍的諸法則に従って規定されている限りで︑諸事物の次のような内容であるといえよう︒すなわち﹁あなたの行為の格率があな

た の 意 志 に よって︑あたかも普遍的自然法則となるかのように行為しなさい︒﹂そこで我々は幾つかの義務を︑通常自分自身に対する義

務および他人に対する義務に︑また完全な義務および不完全な義務に分類することに倣って︑列挙することにしよう︒

  災厄続きで希望を失い︑生きることが厭になった人が︑それでもなおまだ自分の理性を保っていて︑自らの命を絶つことは自分自身

に 対する義務に反するのではと自問できるとしよう︒そこで彼は︑自分の行為の格率が果たして普遍︵一般︶的自然法則となりうるか

どうかを吟味する︒その場合彼の格率とは︑﹁さらに生き続けることによって︑その生命が快適さを約束するよりもむしろ災厄をもたら

す恐れの多い場合には︑わたしは自分の生命を切り縮めることを︑自愛の気持ちから︑わたしの原理︵信条︶にする﹂ということにな

る︒そこで残る問題は︑この自愛の原理が普遍︵一般︶的法則となりうるかどうか︑ということである︒しかしその際ただちに判明す

ることは︑ここに一つの自然があって︵それの持つ法則というのが︑快適さを感じる︶感覚の使命は生命を促進させることであるのに︑

この同じ感覚によって生命そのものを破壊するということを︑自らの法則とするかのような自然は︑自己自身に矛盾するがゆえに自然

としては存続しないであろうこと︑従って上記の格率は普遍的自然法則としては成り立たないであろうこと︑それゆえに︑あらゆる義

(16)

務の最上の原理︵定言命令︶に全く反するということである︒︵カント﹃道徳の形而上学原論﹄ 篠田秀雄訳 岩波文庫を参考にした︒︶

      もちろんゲーテの作品が世に出た頃︑カントの説く哲学や倫理が一般人の心を支配していたわけでは決してないであろ     う︒むしろ世間では︑キリスト教的な宗教観から︑自殺が禁じられており︑自殺者は葬儀でさえ一般的にはまともに行わ     れ ないということを知れば︑その点にこそ反発を覚えるのが︑我々である︒しかしこの作品を敢えて取り上げるには︑そ     れ なりの意義がある︒一つは︑青年期における情熱の課題と︑生命の重さの問題を改めて考える素材となるからである︒

    さらには︑主人公の苦悩のきっかけともなった当時の青年に対する領邦国家社会の受容力の乏しさの問題である︒たしか     に ヴェルテルが侮辱を感じたような身分制社会は現代には存在しない︒さりとて現代は青年の誰しもが満足できる理想的     な職業が簡単に選択できるような社会でも必ずしもないのだから︑似たような状況を想定することは︑あながち見当はず

    れ で もあるまい︒

      しかしまたなぜおよそ文学には馴染まないカントの定言命令などを引き合いに出したかといえば︑まずなによりも生命     の 重 さを一方で考量しながら︑自由の概念を徹底的に考えてみる機会を提供したいからである︒ゲーテ自身には上記のよ

み 蝋 うな社会の閉塞状況に対する已むに已まれぬ告発の意図もあ・たかもしれないが︑人間が生きることは︑単に生物学的な

意 味での生存から出発しながらも︑﹁人間とは何か﹂を新たに認識してゆく旅路でもあり・その意義を生物的な死を迎える

る よ までのいわば猶予期間中に何らかの意味で捉え損なえば︑結局は無意味に終わるかもしれない存在でもあること︒何時の

に 韻 世にも若くして死に向かう者があるのはなぜか︒様・な角度から︑歴史的な視点も交えて考える必要が主目年期にはあると

    思 うからである︒

15     もちろん︑作品を読めば︑天才詩人ゲーテが常人を超えた感性で生を活き活きと直接的に味わう状況が随所に窺がえる︒

(17)

16 人 生 の 様々な側面は︑そこに生きる人間の心のあり方次第でどれほど豊かなものに変容するか︑その描写自体が物語って

い ることに気付くのである︒それほどまでに深く生の神秘を味わいつつ生きていたゲーテが︑貴重な自らの生を手放すこ

となぞあり得ない事情をおのずから知ることになる︒まさに死を描くことによって生の何たるかを示している作品を知る

ことこそ︑青年期の精神に必要な糧ともいえようか︒

  ちなみにこれまで提出されてきたレポートを見ると︑主人公ヴェルテルに素直に感情移入をして心を揺り動かされる者

もいれば︑一方︑彼の余りにも身勝手な自殺と︑残された者に対する思いやりの欠如や当てつけがましさを理由に︑拒否

的な批評を呈する者の二群に大別される︒現代の若者が老成しているとも思えないのだが︑意外と後者の方が目立つのは︑

もともと青年期自体が身勝手な時代だと心得る我々の世代の偏見なのだろうか︒筆者自身も必ずしも素直に作品世界に浸

ることが出来ないのは︑決して青年期にありがちな一種の潔癖感を未だに引きずっているわけでもなかろうが︒もっとも

作 者のゲーテ自身が古傷を思い出したくなかったのか︑敢えて読み返すことを恐れたほどの禁断の書ではあったのだが︒

4 シラー

    1﹁歓喜の歌﹂の理想主義1

  日本で最初に上演された西洋の演劇は何かといえば︑シラーの﹃ヴィルヘルム・テル﹄︵≦﹂旨oぎ弓oロ一゜︒O鼻﹀である︒そ

の 頃︵一九〇五年﹁瑞西義民伝﹂巌谷小波翻案・演出︶は︑未だ西洋種の林檎が一般的に出回っていなかったせいか︑テ

ル の 息 子の頭には柿をのせて代用したとか︒しかし意外なことに︑いまの学生は﹁ウィリアム・テル﹂なんぞ知らない方

が 多い︒そこで一八一五年のウィーン会議において永世中立が国際的に承認された独立国スイスの︑建国にまつわる伝説

(18)

    上 の 英雄であると言えば関心を持ってもらえようか︒﹁自由と自治﹂の歴史の象徴としてシラーが演劇の素材に選んだわけ     だ が︑この詩人の力強く格調の高い言語表現に注目する︒例えば︑元来スイスを訪れたことのない作者の見事な山岳描写     に は 皆驚く︒先行しているスイスの国民詩人A・ハラーの詩集﹃アルプス﹄等を︑恐らく作者が読んでいたであろうこと

    は

想 像に難くないが︒

      ところで︑シラーについて学生たちの知っていそうな話は何かと探せば︑手っ取り早いのが︑太宰治の﹃走れメロス﹄

    の

素 材となっている﹃人質﹄︵O一〇〇d巳Φq°・合忠Cという謂詩であろうか︒この作品を学生たちに紹介すると︑メロスがダモス     に 変 わっているほかは余りにも﹃走れメロス﹄そっくりなため︑太宰の盗作を言い出すほどである︒しかしこれは︑翻案     というもので︑むしろ太宰の作のほうが内容的には分かりやすいものであるということで皆の意見が落ち着く︒それと小     中学生時代に接したときの作品に対する感想はいざ知らず︑一様に作品の主題である友情の問題に改めて懐疑的になる︒

    友に全幅の信頼を寄せるのは︑余りにも現実離れしていることに不満を抱くのである︒この辺の事情は原話の成立時代の     ギ リシアでは愛と言えば男同士の愛が第一であったことに由来するのはここではさておき︑それでは逆に現実的であるこ     とが︑世の中で正しいことであるかを問いたいのである︒正義とか公正とかの主題を正面から取り上げた作家シラーは︑

み 戚 ドイ・古典主義を代表する理想主義の作家でもある︒倫理的自由を求める・ラ;革命的な激しさには︑カ・あ理想主

糖 義 を実践に移そうとする思想の裏付けがあるのだが︑その革命的思想を恐れる官憲は別として・・ラ6演劇には当時の

る よ 観衆も︑その言葉の持つ迫力に圧倒されたであろう︒確かに﹁喜び﹂がすべてを結び合わせる世界の紐帯であると高らか

に 典 に 歌つ﹁歓喜に寄す﹂︵>p合︒づ.︒已巳ρ§︶は︑いかにも分かりやすい︒﹁友愛﹂の精神を人類全体にまで拡大した︑・﹂

    の 詩の精神にベートーベンが感激して交響曲第九番の合唱部分を作曲した事情は︑あまりにも有名である︒そこで︑元に

17    なったシラーの長詩を紹介するのも悪くないかもしれないと思う次第である︒原詩をここで掲載するのは紙数の都合で省

(19)

    略する︒

18

5 ヴァッケンローダー

    1中世芸術への讃歌ー

  ヴァッケンローダーの﹃芸術を愛する一修道士の心情の吐露﹄︵=巽No50偏﹂︒㈱§oq①白o﹂口oのオ§ω庄ΦげΦロ亀o昌民一〇ω帯︹

宮巨2°︒一弍Φべ︶は︑いわばロマン主義の中世芸術讃歌のマニフェストである︒日本では︑和辻哲郎の﹃古寺巡礼﹄が︑同

じような役割を持つものだろうか︒ロマン主義は実に様々な側面︑相貌を持つ︑十八世紀末から十九世紀にかけてのヨー

ロッ

パ の 文学︑思想︑芸術を大きく変えた精神上の変動である︒だが︑これを定義し分かりやすく説明するのは至難でも

あり無益のこととさえ言われる︒ただこの流れは︑十八世紀の末に始まった社会的︑政治的革命と密接に関わっている事

を否定することは出来ない︒言い換えれば︑産業革命とフランス革命によって代表される近代文明の大きな趨勢の反動で

あるかにして誕生したものである︒だからといって後ろ向きの傾向を非難しているだけでは︑その本質を捉えることは出

来ない︒むしろ産業資本主義を本質とする近代化によって脅かされ︑失われつつあった人類の過去の遺産を再評価しつつ︑

未来に再生するという使命を担っているといえるからだ︒

  しかし洋の東西を問わず︑ロマン主義のキリスト教的な意味での新生面は︑ややもすれば無視され忘れられがちである︒

西欧においてとくに︑フランスのユゴーの例にしろそのロマン主義的思想の背後には︑中世以来︑支配階級によって局限

化 され︑隠されてきた︑いわばキリスト教の原点が︑真に民衆を解放する革命的な自由の精神となって息づいていたこと︑

それを政治的に実践するか︑またはドイッのように政治的な面で閉塞観の強い風土では︑思想的な再生の核として蘇生す

(20)

    るかの違いに過ぎなかったともいえる︒新教的合理主義の姿勢に飽足りず︑改めて古いカトリック的中世の歴史的遺産の     中に︑特に芸術の中に︑見失っていた価値あるものの反映を見出した世代が︑ドイッにおける初期ロマン主義の詩人たち

    だ

た︒そこから新たなキリスト教思想を紡ぎ出そうとした世代の意義と︑その挫折の経緯をくり返し訴えてきたのは︑

    ア イヒェンドルフである︒

     

派の詩人の感性を考えるとき︑彼らが自然に対する際には︑その前提に創造神の手になる被造物としての自然を︑

    つ まりキリスト教の自然観を受け容れるか︑またゲーテのように︑宗教をことさら前提に置くことなく直感的に自然を理     解 するかで︑詩人のタイプを分けて考える必要があるのかもしれない︒後者はいわば天与の才能を有する詩人であって︑

  その事情をシラーなどは︑﹃素朴文学と情感文学﹄において論評している︒ただしシラーは︑前者をロマン主義者やキリス     ト教詩人と定義したわけではなく︑むしろ自然との全一観を失い︑分裂のなかにあって苦闘する自己も含めた近代詩人そ     の ものを指して言っているのだが︒どちらかといえば新教的な環境にあって︑カントの哲学に親しんだシラーは︑ロマン     主 義とも一線を画していた︒しかしシラーの言う近代的な情感詩人という考え方はロマン派の理論家F・シュレーゲルの

    近 代

詩 人の考えに一脈通じているようでもある︒

み 戚  さて元来がキリ・ト教社会の内部に生きてきた西欧の人・と︑我・のような非キリ・義的社会のなかに生きる者とで

縮 はおのずと自然に対する姿勢が異三てくるはずであり・その結果いかなる生き方の相違が生ずるのであろうか・そ・に

る よ 西欧的な人間と我々との志向の違いを判断する手掛かりを求めようというのである︒この問題は︑決して簡単ではない︒

に 典 しかも従来の我・の姿勢には︑西欧人のなかに︑自然を芳的に利用するだけの合理主義ないしは︑人間中心9︑都合主     義だけを見ようとする一面的な思考判断の夜郎自大の態度があるのではないか︒なぜなら真に自然と共生することを目指

19  

  す現代の環境保全的な思想は︑東洋ではなく逆に西欧からでてきたのはなぜかを問わなければならないからである︒無残

(21)

20 に 破 壊された自然にいち早く直面した彼らの目覚めが早かっただけであろうか︒自然と融和的に生きて来たはずの我々の

方が︑むしろ一層無自覚に自然を犯しているのではなかろうか︒その実情を踏まえれば︑産業社会と自然︑人工と自然の

問 題 は︑思想的に芸術と自然︑学術と歴史等の課題と根底において無縁ではない︒ロマン主義はそのような社会性をも含

ん だ 全

体 的な運動の流れであったからである︒

  従って近代人が何故に病んでいるのかを問い︑近代人の特質をキリスト教思想の新たな探求や近代化のなかで考えよう

としたロマン主義詩人の実践を抜きにしては︑ロマン主義思想の近代性とその真髄は本来捉えられないであろう︒人類が

改めて自然のなかでの人間の位置を新たな視点で捉え直す必要性がそこに示唆される︒その原点をロマン主義のなかに見

たいのである︒ヴァッケンローダーの遺作は︑必ずしも直接的にそこにつながるものではないが︑初期ロマン主義の芸術

観を示す資料として紹介することにしている︒

  ⁝わたしは︑二つの不可思議な言語を知っている︒その言語によって︑創造主は︑人間に︑天上の事物を力の限り︑言い換えれば︹こ

ういうことが僧越でなければ一原典の補足︺有限な人間にとって可能である限り︑把握し会得することを許されたのである︒この二つ

の 言 語 は︑言葉の助けによるのとはまったく異なる仕方で我々の内心を訪れる︒この言語は不意に我々の全存在を揺り動かす︒そして

我々の心中のすべての神経と︑すべての血の滴の中に入り込む︒この不可思議な言語の一つを話すのは︑神だけである︒他の一つを話

すのは︑神が自分の愛児とした︑多くの人間の中から選ばれた僅かな人々にすぎない︒この二つの言語とは︑自然と芸術とであ

る︒

  わ た しが人間の神を我々の太古の神聖な書物から始めて覚えた少年のころから︑自然は︑わたしには︑常に神の実体とその本性につ

い て の

最 も根底的な最も明白な解明の書であった︒森の梢の囁きや雷の轟きは︑わたしが言葉で言い表せない神に関わる神秘な事柄を

わ たしに物語ってくれた︒伝奇的な岩の姿でとりまかれた美しい谷とか︑曲りくねった木々の影が姿を映す鏡のような川面︑あるいは

青い空に映える晴れやかな緑の牧草ーあ︑︑このようなものは︑わたしの心の中に︑あたかも言葉という言葉が成しうる以上の不可

思 議 な感動を惹き起こし︑わたしの精神を︑神の全能︑至善によっていっそう深く満たし︑またわたしの全霊を遥かに清め高めてくれ

た︒︵人の︶言葉が成しうる以上に︒︵人の︶言葉は形而下のもの︵形あるもの︶と同様︑形而上のもの︵形なきもの︶を扱うには︑あ

(22)

      まりにも地上的な粗末な道具であるように思われる︒

        わたしはここで︑創造主の威力と慈悲を称える一つの重要な機縁を見出す︒創造主は︑我々人間の周囲に︑数限りない多くの事物を

      賜 わったが︑そのどれもが︑他と異なった本質を持ち︑その何れをも我々は理解し︑会得しない︒我々は樹が何であるかを知らない︒

      岩 が 何 で あるかを知らない︒我々の言語で︑樹や草地や岩と話をすることはできない︒我々は︑我々だけを︑お互いの間で理解しあっ

      て い るにすぎない︒それにも拘わらず︑創造主はこれらのものに対するこのような不可思議な共感を︑人間の心に賜わったのだ︒それ

      ゆ えに感情とか気持ちとか︑あるいはそれをどう名付けようとも︑決してぴったりあてはまる言葉で把握できない感情や気持ちが︑密

      か に 人 間の心に導き入れられるのである︒︵⁝︶

        芸

術 は︑自然とはまったく違った種類の一つの言語である︒しかしこの言語もまた︑同じ謎めいた神秘な仕方で人間の心に働きかけ

      る不可思議な力を持っている︒それは人間の︵手になる︶様々な形象︵映像︶を通して物語る︒従って一つの象形文字を用いるのだが︑

      その記号を我々は︑外形で理解し︑識別するのである︒しかしそれは︑精神的なものや目に見えないものを︑人の心を打つ驚嘆すべき

      方

法 で︑目に見える姿に融解する︒それゆえ再び我々の全存在は︑根底から揺り動かされる︒キリストの受難史に由来する多くの絵画

    とか︑神聖な乙女マリアの絵︑あるいは聖者の物語を題材に描かれた多くの絵は︑おそらくそういってよかろうが︑道徳の体系や宗教

   

  的省察よりも︑さらに心を浄らかにし︑いっそう貞潔な気持ちを注ぎ入れてくれた︒︵⁝︶

     賢者たちの教えは︑単に我々の頭脳を︑我々自身のただ一半を感動させるにすぎない︒しかし︑二つの不可思議な言語は︑その力を

    ここで述べているのだが︑それは我々の感覚や精神を揺り動かす︒あるいはむしろその際︑︹他に言表すことが出来ないのだが︺我々の

      ︹ 我々には理解しがたい︺存在のあらゆる部分が︑天上の奇跡をこの二様の仕方で把握し会得する︑唯一の新たな器官に融合するように

      思われる︒ 諦  至高な神自ら︑雀から永遠へ語り続ける言ロ語の;︑永遠・生き生きした讃な自然は︑大気の広大な空間を・ぎ.て直稀・許

の     へ 引き上げる︒しかし芸術は︑絵具や溶剤を巧みに融合して︑狭い限られた空間にある人間の姿を︑内的完成を得ようと務めながら模 糖 倣 す・のだが︹・れ・人間・・.て生み出す・とを許・れて・三種の創造であ・︺1・の芸術は︑人間の心の内の宝義・に開き︑

る  我々の眼差しを己が内部に向かわせ︑目には見えないものを︑すなわち︑高貴であり︑偉大であり︑また神的であるすべてのものを人

は     間の姿で我々に示すのである︒︵⁝︶

典       芸 術 は︑最高の人間的完成を我々に示現する︒自然は︑人間の目で見られる限り︑あたかも神の口に上る切れ切れの神託に似ている︒ 古しかしこのような事物についてそのように話すことが許されるなら・神は・多分我々が芸術作品を見ていると同じ様に・自然・もしく

ー  は全世界をご覧になるのかも知れないと︑おそらく言っていいだろう︒ 2                                                         ︵ 岩波文庫﹃芸術を愛する一修道僧の真情の披漉﹄江川英一訳 を参照した︶

(23)

22   これらの表現は︑自然と芸術のことを語りながら︑同時に被造物として人間の位置についても示唆している︒また︑神 へ の 言 及 を別とすれば︑自然そのものに神の内在を予感しがちな我々東洋人にとっても︑この叙述における自然を賛嘆す

る姿勢に︑決して違和感はないであろう︒しかしここでの表現から︑神を除くことはできない︒そこにこそ思想の核心が

宿っているからである︒自然はすでにそのままの存在で︑完成された存在として賛嘆の対象となりうる一面をすでに持つ

ものである︒一方で人間も被造物として完成された存在であったとすれば︑仮に失われた︵?︶存在としての近代人は︑

新たに本来あるべき人間を取り戻さならなければならないであろう︒このような考えはルソーの思想に間接的に影響され

て もいるであろう︒なかんずく被造物として人間も本来的に神の手になるものであるという認識のあるかないかは︑きわ

め て

大 きな相違である︒

6 ノヴァーリス

  ーー内面への道−

  ドイッ・ロマン主義の詩人として︑その名を第一にあげられるのはノヴァーリスである︒天逝した詩人の未完の代表作︑

﹃ 青い花﹄︵民o日﹃︷合く80津2合⇒σq︒ロ一︒︒Oト︒︶はドイッ・ロマン主義の象徴ともなった︒主人公のオフターディンゲンは中

世の詩人で︑ワルトブルク城で行われた歌合戦に敗れ斬首の刑に処せられるところを︑城主テユーリンゲン方伯の夫人の

とりなしで︑魔術師クリングゾールがハンガリーから駆けつけて︑助成してくれたという伝説上の人物である︒ノヴァー

リスは︑この中世の伝説をもとに︑十字軍時代の十三世紀の初頭を舞台に物語を設定した︒筆者もかつて訪れたことがあ

るが︑中部ドイッの深い山懐の町アイゼナハを見おろすこのワルトブルク城は︑ルターが宗教改革の際に追放の身をかく

(24)

まわれ︑新約聖書を翻訳した場所として知られた由緒ある歴史に根ざしている︒主人公の二十歳の青年ハインリヒは︑そ

の ア イゼナハの市民である︒ルターの道とは異なってはいるものの︑なにやら新たな導きを予感させる設定である︒しか

し﹃テユーリンゲン年代記﹄や﹃聖女エリザベート伝﹄を素材にし︑作中に魔法使いクリングゾールが登場しても︑自然

科 学に精通したノヴァーリスの小説には魔術や未知の力は出てこない︒彼にあっては﹁詩﹂すなわち﹁芸術﹂が己の思想

を実現する最も有効な手段であるからだ︒青い花とは︑夢と予感がいずれは現実となることの象徴なのだ︒つまり内奥の

予感の視覚化・具象化でもある青い花はやがて自分の人生となって実現するという︑いわば内面的な心情の運命への転化

で ある︒一方︑主人公が他人に出会い︑人の話を聞くとき︑彼はただそれを表面的に理解するというのではなく︑同時に

自分の心の内を観ることを意味する︒この内観的な傾向は二十世紀のユングの心理学において集合的無意識の領域に到達

する︒﹁すべては自分が前からずっと考え︑感じてきたことに他ならないという気がする﹂主人公の感覚は︑人類が生まれ

る前から持っているといわれる既視感覚﹁デジャ・ヴュ﹂である︒従って詩人の﹁断想﹂の言葉︑

   

   ﹁わたしたちは宇宙を旅することを夢みている︒だが︑宇宙は︑わたしたちの内にあるのではないか︒内に向かって神秘にみちた道が

み     通 じている︒永遠の世界とその無限の広さ︑過去と未来は︑われわれの内部にあるのであって︑他のどこにもあるのではない︒﹂ 戚 鯖 に お い て は︑外界の宇車マク三スモ・Lと人間の心の小︷蕾マク三スモス﹂とが相互に連関している事情が表

る よ 現されている︒このような思想に貫かれた﹃青い花﹄は︑宇宙万有を全体的に把握せんとする感性と自然科学の素養が融

に 典 A口した大才の残した神秘的な作︒叩である︒人間の霊性が現実の世界をもいずれ支配する・﹂とが可能とする︑いわば︐イツ

    観

念 論と軌を一にする思想は︑ドイッ精神の特色である神秘主義の伝統にも連なるものである︒

23       学生たちにとってある意味で︑最も理解が難しい詩人の一人であろうか︒しかしヨーロッパに土着したキリスト教が︑

(25)

24 地 中海のイタリアに発祥する中世的ローマ・カトリックの伝統に代表されるだけではなく︑中欧のゲルマン的な深い内面 性 を特徴とする神秘主義的傾向の豊かな近世のキリスト教に︑その異なる峰を持つことを知ってもらいたいのである︒そ

の ような風土の産みだした文学上の傑作としては︑この上ない作品である︒その理解の一助として︑またロマン主義の思

想的な面を補足する意味で︑同じ著者の論文﹃キリスト教世界︑あるいはヨーロッパ﹄を参照することにしている︒

7 シュティフター

    1穏やかなものに潜む偉大さー

最 近 で は︑あまり読まれていない作家かもしれないが︑オーストリアのゲーテと称されるシュティフターを取り上げる

ことも︑昨今の荒んだ世の趨勢のみがことさら耳目を引く時には大事なことではないかと思う︒手許にある作品集の外箱

に は︑堀辰雄の﹁絵葉書﹂よりとして︑作品の紹介文が載っている︒

 ﹁⁝ときどき秦皮樹のステッキを突いてはこの森に散歩にくるようになっているうちに︑私は高等学校時代に教科書として読んだこ

とのある﹁喬木林﹂という物語のことを終始思い浮かべるようになりました︒この物語を書いた作家は確かアーダルベルト・シュティフ

ターとか言いました︒  実はこういう私もその物語の筋などはすっかり忘れてしまっているのですが︑ただ︑その雰囲気のようなも

の だ けははっきりと頭に残っているのです︒ーで︑その雰囲気を中心にして︑私のおぼろげな記憶をたどって見ますと︑それはなん

で もスウェーデン戦争を背景にした物語で︑ボヘミアの山岳地方にある大きな森のなかの城で︑ときおり遠くに銃声などを聞きなが

ら︑老人と女達だけで︑気づかわしげに暮らしている・三ただ︑そんな恐怖と不安とに充ちた︑毎日毎日の繰り返しが︑綿々と語られて

い た だ けのようでした︒無気味なほどの静けさで物語は終わるのでした︒⁝  今になって︑私ははじめて何ともいえないなつかしい

気 持ちで︑それを読んだ漠然とした記憶をよみがえらせています︒  ﹂

参照

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