富永太郎「鳥獣剥製所」の生成(1)
著者名(日) 杉浦 静
雑誌名 大妻国文
巻 43
ページ 143‑165
発行年 2012‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001278/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
大妻国文 第
43
号 二〇一二年三月一四三富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵
1 ︶
杉 浦 静
富永太郎の詩﹁鳥獣剥製所﹂は︑同人雑誌﹁山繭﹂の第三号︵一九二五︵大正一四︶年二月一日発行︶に発表され︑富
永の没 ︵同年一一月一二日︶ 後 ︑﹁ 山繭﹂ の 富永太郎追悼号 ︵第二巻三号︑ 一九二六 ︵大正一五︶ 年一一月一日発行︶ に 再
録さ れ た ︒ 以 後︑ 一九二七 ︵昭和二︶ 年八月発行の村井康男編家蔵版 ﹃富永太郎詩集﹄ ︑ 一九四一 ︵昭和一六︶ 年一月発行
の筑摩書房版﹃富永太郎詩集﹄に収録されたほか︑多くの富永の詩集に収録されている︒
﹁鳥獣剥製所﹂は︑富永自身が︑大正十四年二月二八日付の正岡忠三郎宛書簡の中で︑ ﹁今度の散文方々から賞められて
大へん意外だつた︒ ﹂と書くように︑大変好評であった︒小林秀雄は︑富永宛の書簡︵大正十四年二月一七日付︶で︑ ﹁君
の今度の散文感心した ︒苦しい感動があつた ︒﹁ 私は ︑かう考へた時 ︑腹立しく ︑狂暴に云云﹂の一 Phrase の書き方が ︑ 一寸まづい rythm を出してやしないか︒ こんなつまらないことを言ふ以外に文句はない︒ 皆 んな感心してた︒ 尤 もよくわ
からないらしいんだが︒ ﹂ と賛辞を呈しているが︑ ここで小林は︑ 自分以外の友人たちの 評価も高かったことをさりげなく
伝えている︒
以後︑ ﹁鳥獣剥製所﹂は︑富永太郎の代表作の一つとの評価は定まっていった︒
一四四
ところで︑この﹁鳥獣剥製所﹂には︑草稿が現存︵現在︑神奈川近代文学館に寄託されている︶している︒これは︑九
枚の原稿用紙に書かれたものであるが︑いったん成立した後に︑かなりの量の推敲・手入れが行われている︒書かれてい
る詩句を見ると﹁山繭﹂に掲載された本文とはかなり異なっている︒これは︑あきらかに﹁山繭﹂への掲載用に清書され
た原 稿ではないことを示すものであり︑ ﹁山 繭﹂ 発 表 形の先 駆 形と位 置づけられるものである︒ しかも︑ この稿は︑ いった
ん清書に近い状態で︑原稿用紙のマス目を使ってていねいに書かれ︑その後︑大幅な手入れが加えられたものである︒
この草稿自体の推敲過程の検討や︑ 草 稿から ﹁ 山繭﹂ 発表形 への変化の考察により︑ ﹁ 鳥獣剥製所﹂ の 生成 をめぐる詩的
行為・文学行為の意味を明らかにすることができよう︒
本稿は︑ ﹁鳥獣剥製所﹂の生成を論ずる準備段階として︑ ﹁鳥獣剥製所﹂本文の生成過程を記述する試みである︒
本稿をなすにあたり︑富永太郎自筆草稿の使用を許可された富永一矢氏︑神奈川近代文学館に感謝申し上げる︒
推敲過程の記述は次の凡例にしたがう︒
凡例
1 草稿の場合︑まず第一形態を示して︑行頭に行番号を付す︒題名・副題・行アキは番号に算入しない︒
2 第一形態成立後の手入れは︑推敲のある行の番号を掲げてその行の推敲過程を表記する︒推敲過程の表記は次の とおり ︒異文の生じているところから ﹁ ﹇ ﹂印を開いて ︑まず第一形態を示し ︑以下推敲段階における手入れを
﹁↓﹂で順に示し︑推敲の最終形を記したあと︑ ﹁ ﹈ ﹂印で閉じる︒
3 削除は ﹇⁝⁝ ↓
削除﹈︒追加・挿入は︑ ﹇
ナシ↓ ⁝⁝﹈のように示す︒
4 ﹇ ﹈内でさらに部分的推敲がある場合は︑そこを︻ ︼で括って示す︒
5 草稿における判読困難の文字︑ 字体不明瞭の文字は︑ ま た一 ・ 二 画だけで書きかけの文字は︑ ︹ ︺ で括って表す
一四五富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
か︑または□□のように表す︒推定した文字も︹ ︺で括って表す︒
6 右の原則によって示しきれない場合は︑ ︵ ︶を用いて小字で説明を加える︒
7 本文表記については︑原則として草稿・原文通りとする︒したがって同一作品中に異なる用字・仮名遣いがある
場合もある︒
ただし︑漢字については︑作者による意図的な使い分けなどの特殊な場合を除き︑常用漢字字体︵人名用漢字を
含む︶のあるものはそれに統一する︒
また︑明白な誤字・誤植・脱字等は改め︑ ︹ ︺で括って示すとともに︑注記する︒
例 ①
12 行 虹彩の表面﹇を染めてゐ↓に塗つてあ﹈るのは︑
右は︑
12 行目の﹁虹彩の表面を染めてゐるのは︑ ﹂が︑手入れで﹁虹彩の表面に塗つてあるのは︑ ﹂になったこと
を示す︒ ②
一四六
21 行 うづくまる私の額の上に︑落ちかゝる﹇
ナシ↓黒い﹈眩暈﹇の黒い翼↓
削除﹈を感じた︒
右は︑
21 行目の﹁落ちかゝる眩暈の黒い翼を感じた︒ ﹂が︑手入れで﹁黒い﹂が挿入され︑ ﹁の黒い翼﹂が削除さ
れて︑ ﹁落ちかゝる黒い眩暈を感じた︒ ﹂になったことを示す︒
③
25 行 に﹇上つ︻
ナシ↓て来︼た︒↓さし上つた︒ ﹈ 右は︑ ﹁に上つた︒ ﹂↓﹁に上つて来た︒ ﹂↓﹁にさし上つた︒ ﹂の順に書き改められたことを示す︒
鳥獣剥製所 一報告書
1 草稿
︽草稿番号︾ 40106 ︵この番号は神奈川近代文学館に収蔵されるにあたり付された整理番号である︶ ︽用 紙︾ ﹁︵東京 文房堂製︶ ﹂原稿用紙
24 字×
20 行︑セピア罫
9 枚
︽筆 記 具︾ ブルーブラックインク・ペン
︽校 異︾ 本稿は︑原稿用紙の上部
4 字分を空白にして
5 段目以降に記入されている︒すなわち︑
24 字×
20 行の原稿
用紙を︑
20 字×
20 行の字詰めとして使用している︒
冒頭
2 行 目に天か ら
6 字 下 げでタイトル ︒
4 行目 に
13 字下 げ で 副題 が 記 入 さ れ ︑ 本文 は
7 行 目 か ら始ま る︒
一四七富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
本稿の第一形態は ︑﹁ ︵ 東京 文房堂製︶ ﹂ 原稿用紙 ︵
24 字×
20 行︶ の表に︑ マ ス目を用いてブルーブラックインクで書か
れたもの︒ただし︑上部
4 マス分は使用されず︑
20 字分のみを用いて記されている︒内容は次のとおり︒
鳥獣剥製所
一報告書 1 私はその建物を ︑圧しつけるやうな午後の雪空の下にしか見 ﹇ る↓た﹈ことがない ︒また ︑私がそれに近づくのは ︑
あらゆる追憶が︑それの齎す嫌悪を以て︑私の肉体を飽和してしまつたときに限るのである︒私は褐色の唾液を満載し て自分の部屋を見棄﹇て↓て﹈る﹇︒↓︑ ﹈どこへ行くのかをも知らずに⁚⁚
5 煤けた壁に︑痴呆のやうな口を開いた硝子窓︒空のどこから落ちて来るのか知ることの出来ぬ光が︑安硝子の雲形の 歪 みの上にたゆたひ︑ 半ばは窓の内 側に滲 み入る︒ 人間の脚の載つてゐない︑ 露き出しの床板︒ 古びた樫の木の大卓子︒
動物の体腔か ﹇
ナシ↓ら﹈ 抽 き出された︑ 軽石のやうな古綿︒ うち慄ふ薄暮の歌を歌ふ桔 伷 色の薬品 ︹瓶︺ ︒
ピンセット
1は︑ときをり︑片隅からその奸悪な眼 をちらと光らす︒
私はその空部屋の中で蛇を見た︒それから︑鷲と︑猿と︑鳩とを見た︒
かれらはみんな剥製されてゐた︒
一四八
10 去勢された悪意に︑ 鈍く輝く硝子の眼球︒ 虹彩の表面を染めてゐるのは︑ 褐色の彩料である │ 無感覚に よ つ て人を
噛む傷心の酵﹇酉︵
つくりは書きかけ︶↓
削除﹈母 ︒これら ︑動物の物狂ほしい固定表情 ︑怨恨に満ちた無能の表白 ︒白
い塵は︑ベスビオの灰のやうに︑毛皮の上に︑羽毛の上に︑鱗の上に積もつてゐた︒
私は︑この建物に近づかうか︑近づくまいかといふ逡巡に︑私自身の手で賽を投げなかつたことを心から悔い﹇る↓
た﹈ ︒ が ︑ すべては遅かつた︒ 怖 ろしい牽引であつた︒ 私を牽くのは︑ 過ぎ去つた動物 ﹇
ナシ↓ら﹈ の霊であつた︒ 牽 か
15 れるのは︑ 過ぎ去つた私の霊であつた︒ 私はあらゆる世紀の堆 積が私に教へた感情を憎悪した︒ が︑ すべては遅かった︒
私は ︑動物らの霊と共にする薔薇色の堕獄を知つてゐ ﹇ る↓た﹈ ︒私は未来を恐怖した ︒力なくうづくまる私の額の 上に︑落ちかゝる眩暈の黒い翼を感じた︒
20 ﹁さはれ去 年 の雪 いづくにありや │ さはれこぞの 雪いづくにありや │ さはれこぞの 雪 いづくにありや⁚ ⁚ ︒﹂ 意 味
のない畳 句は︑ひるがへり︑巻きかへ﹇る︒↓つた︒ ﹈美しい花々が︑光のない空間を横ぎつて遠く没落した︒そして︑
下に︑遙か下に︑褪紅色の月が地平の上に上つた︒私の肉体は︑この二重の方向の交錯の中で︑ぎしぎしと軋んだ︒こ
のとき︑私は不幸であつた︑限りなく不幸であつた︒
25 ↓は﹈近寄つて来た︒ ﹇ かれらは近︹寄︺↓
削除﹈歩み︑這ひ︑飛び︑ ﹇ 歌ひ↓
削除﹈﹇ ︹跳︺↓
削除﹈跳り︑巻き付き︑呻 一つの闇が来た︑それから︑一つの明るみが来た︒動物らは︑潤つたおのおのの涙腺を持つて再生した︒かれら﹇を
き︑叫び︑歌つた︒すさまじい伝説的性格の饗宴であつた︒私は︑われからと︑それに参加した︒そして旧約人のやう
にかれらを愛した︒とにかく︑私は慰められてゐた︒平生から私の愛してゐた蛇が︑やはり一ばん私に親密であつた︒
一四九富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
30 い︑諸君が動物園に行かれんことを ! とにかく︑私は慰められてゐた⁚⁚ か れ﹇ら ↓
削除﹈は ︑その角膜の上に ︑嬌飾に満ちた悪意を含めて ︑近 々 と私の眼をさし覗く ︒鷲は⁚ ⁚ああ ︑長々し
このとき︑ 私は︑ ﹇ 自 分 ↓
削除﹈ 下 の方に浚渫船の ﹇ 浚↓機﹈ ﹇︹木︺ ︵
木偏のかきかけ︶ ↓ 関﹈ の音のやうな︑ また︑ 幾 分 ︑
夏の午後の遠雷に似た響を聞いた⁚⁚私のために涙を流した ︹成︺ ︹人︺
かの女らの追憶が︑ 私の魂の最低音部を乱打し
2た︒私は︑私が︑鮮かな︑または︑朧ろな光﹇ま↓と﹈影と﹇を潜つて↓
削除﹈の沸騰の中を潜つて私の歳月を航海し
35
40 た間︑ つねに︑ かの女らが燈 台であつたことを 思ひ出した︒ 殊に︑ 私 がこの世 界の縁 辺を歩んでゐるやうに感じだし ﹇た
↓て﹈こ﹇と↓の﹈かた︑かの女らはつねに私の載つてゐるのとはちがつた平面の上に在つて︵それが私の上にあるの
か︑ 下にあるのか︑ 私は知ることが出来ない︶ ︑ つねに ﹇私の方↓
削除﹈ 無感覚な眼 を私の方へ送つてゐたことを思ひ出
した︒私は︑或る退屈な夜々に︑私のために流された涙の︑そして︑それを拭ふのは一つの冒瀆であるところの涙の一
滴﹇を ↓
削除﹈一滴を思ひ出して泣いた︒私﹇が︑↓は︑ ﹈心臓が 搾 木 にかけられてゐるやうに感じた ︒私は努力して ︑
私が︑日本の首府の郊外にある︑或るうらぶれた鳥獣剥製所の一室にあることを思ひ返した︒私は現実のみすぼらしさ
の中に︑ 魔 法の解除を求め ﹇や↓よ﹈ うとした︒ 私 は︑ あの ﹇床↓窓﹈ を ︑ 床 を︑ 卓子 ﹇︑ ↓を︑ ﹈ 古綿を︑ ピンセット
を︑ そのありのまゝのみすぼらしさに於て見た︒ が︑ なんといふすばらしい 変 位 だらう ﹇︒ ↓ ! ﹈ これらの物象は︑
そのみすぼらしさのまゝ︑ 動 物 らの ﹇引き□れた↓
削除﹈ 喚 び出した ﹇赫↓
削除﹈ 燦 々とした野 生 的な画 割︵
﹁画﹂の旧字︒書割のつもりか
︶の中に﹇虫︵
﹁融﹂の書き損じ︶↓
削除﹈融け込んでゐた︒さうして︑その輝かしさの一合唱部を歌つた︒
さうだ︑あれらの煤びた物体は︑もうそれ自身輝かしかつたのだ︒それが︑休息を欲してゐる私には︑殊のほか苦しか
つた︒
一五〇
動物らに至つては︑もう私は何ともすることが出来なかつた︒かれらは︑蜜蜂の唸りのやうな︑かれらの饗宴の度を
高めて︑ 私のまはりに蝟集した︒ さ うして︑ その中に熱のない炎のやうな女らの眼︒ ︵
次次行七マス目に大きな×︒その下に三行分の括弧を記す︒次葉左半四行分の上部に同様の記号があり︑その部分の詩行をここに移す意と推定される
︶
ああ︑こゝにも︑また︑そこにも︑熱の無い炎のやうな︑かの女らの眼 ︒時間によつて剥製され︑神秘な香料によつて 45 私は ︑先刻からの追憶が ︑みんなこの動物らの ﹇ 狂 ↓
削除﹈燥宴の中で見続けられて来たのだと知つた ︒そのとき ︑
保存 ﹇な ︵
書きかけ︶↓
削除﹈ された ﹇か↓︑ ﹈ か の女らの眼 ︒ 私 は︑ このとき︑ これらの眼があ ﹇れら↓
削除﹈の 動 物 ら
﹇を↓と﹈ちがつた世界から出て来たものでないことを悟つた⁝⁝
50
55 私はもう︑ これらの現在見てゐるものを︑ すべて ﹇︹動︺ ↓
削除﹈ 変 改しがたいものに思つた︒ 私は搾木にかけられた
やうな心臓を抱いて自分の身をこの燥宴の中に投げ出した ︒﹇ 温泉場の浴場の周囲を流れるやうな↓
削除﹈ ︵
この箇所の上
部に×印を付し︑詩句四行分を括弧で括っている︒前葉末尾の同一記号部へ移動する意と推定される
︶
私は腹立たしく︑ 狂暴になつて︑ かの女らの一人一人に唾を吐きかけた︒ すべてが消えた │ 或は︑ 闇が来たのだつ
たかも知れない︒燥宴はすべての光と熱と音とを失つた︒
﹇□↓
削除﹈ が ︑ あれらのす ま じい揺蕩の一々は︑ 空気分子の動揺として︑ あらゆる私の粘膜に ﹇感じられた︒ ↓
削除﹈
そのありのまゝなる消息を伝へた︒温泉場の浴場の周囲を流れるやうな温度と臭気とを持つた液体が︑この私の居る建
物の周囲を流れるやうに感じた︒またそれは私の皮膚のまはりを流れゐるやうでもあつた︒私はそれを弁別しやうとし
て努力したが︑どうしてもわからなかつた︒私はもうあらゆることを諦めた︒黒い眩暈の中に︑更に一つの薔薇色の眩
一五一富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
暈を認めた︒それは前より密度が大きかつた⁚⁚ 60 流水よ ︑おん ﹇︵ ? ︶↓み﹈の悲哀も祝福されてあれ ! 倦怠に悩む夕日の中を散り行く ﹇ 紅葉と↓もみぢ葉﹈よ ︑お
んみの熱を病む諦念は祝福されてあれ ! あらゆる古 日 本の詞 華 集 よ︑ おんみの上に明 障 子に囲はれたる平 和 あれ! ⁚ ⁚
新らしい眩暈に屈服するためにか︑ 或は︑ さうでなくてか︑ 私はこの時宜に適はぬ訣別の辞を ﹇イ ︵
にんべんの書きかけ︶
↓何﹈とも知れぬものに投げかける ︒動物らの 魅 惑 はまた ︑下の方から上つて来るであらう ︒﹇ 花よ ︑星よ ︑ 刃物よ ︑
漏斗よ ︑歯車よ ︑音よ ︑祭日よ ︑↓
削除﹈炎上する花よ ︑灼鉄の草よ ︑毛皮よ ︑鱗よ ︑羽毛よ ︑音よ ︑祭日よ ︑物々の
焦げる臭ひよ⁚⁚
65 さはれ去 年 の雪いづくにありやや︑
さはれこぞの雪⁚⁚いづくに⁚⁚
さはれこぞの⁚⁚ Hannii ̶
hannii ̶ hanni i̶i̶i̶i̶i ....
bidn! bidn! bidn!
70 私は手を挙げて ︑目の前にある何かを逐ひ払はうとした ︒そして ︑どこか別の ﹇ 国へ↓
削除﹈邦へ行つて住まうと決
心した︒ 注
1 原稿では︑ ﹁曇﹂と﹁瓦﹂を組み合せた字形︒
一五二
注
2
29 行目の難読文字﹁ ︹或︺ ︹人︺ ﹂は原稿では次のとおり︒
右に対して︑ブルーブラックインクで次の手入れがなされている︒
2 行 限﹇るのである︒↓つてゐた︒ ﹈ 4 行 煤けた﹇
ナシ↓板﹈壁に︑
7 行 片隅から﹇その奸悪な↓疲れた︑鈍重な﹈眼 を﹇ちらと↓
削除﹈光ら﹇す↓せる﹈ ︒ 8 行 その﹇空↓
削除﹈部屋の 8 行 ﹇それから↓
削除﹈鷲と︑猿と︑
8 行 ︵
行末から︶ ﹇
ナシ
↓それから ︑日本の動物分布図に載つてゐる ︑さまざまの両生類と ︻ 爪 ↓
削除︼爬虫類と鳥類
と哺乳類とを見た︒ ﹈︵
﹁の動物分布
﹂以下は上部欄外から記入︶ ﹈ 10 行 表面﹇を染めてゐ↓に塗つてあ﹈るのは︑
14 行 過ぎ去つた動物らの霊﹇で︻あつた︒↓ある︑ ︼↓だと知つた︒ ﹈牽かれるのは︑過ぎ去つた私の霊﹇で︻あつ
た ︒ ↓ある ︑︼↓だと知つた ︒﹈︵
これらの手入れののち︑14
行から15
行までを大きな×印により削除︒この削除は︑前葉末尾である
13
行からの一連すべてに及ぶものと思われる︶ 16 行 ﹇力なく↓
削除﹈うづくまる 17 行 落ちかゝる﹇
ナシ↓黒い﹈眩暈﹇の黒い翼↓
削除﹈を感じた︒
20 行 月が地平の上に﹇上つ︻
ナシ↓て来︼た︒↓さし上つた︒ ﹈
20 行 交錯の中﹇で↓に﹈
一五三富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
24 行 歌つた︒ ﹇
ナシ↓すべての動物が︑ かれらの野生的書 割を持つて復活したのだ︒ 出 血する叢や︑ 黄 金の草いきれ
が︑かれらの皮膚を浸した︒ ﹈﹇
ナシ↓これは︑ ﹈すさまじい
25 行 かれらを
﹇
ナシ
↓熱﹈愛した
︒﹇ とにかく
︑私は慰められてゐた
︒↓
削除
﹈平生から私
﹇ の 愛してゐた↓に近
しかつた﹈蛇が︑
26 行 角膜の上に︑ ﹇
ナシ↓瑪瑙の﹈嬌飾に満ちた 29 行 私のために﹇
ナシ↓或る夜﹈涙を流した 30 行 航海し ﹇
ナシ↓て来﹈ た間︑ つねに︑ かの女らが ﹇
ナシ↓私の﹈ 燈台であつたことを思ひ出した︒ ﹇
ナシ↓︵
上方欄外から
︶ 私 はかの女らが︑ あるものは濃緑色の霧に ︻大脳の皺↓
削除︼ 脳 漿のあひまあひまを冒されて死んでし
まつたり︑ あるものは︑ あらゆる邦々から海を超えて上 陸して来る私と同じやうな人々の罪の堆 積のために︑ 夜︑
青い静脈の見える腕をペーヴメントの上に延ばして斃死したり︑または︑かの女らが一人一人に発見した︑暗い
跡づけがたい道を通つて︑ 大都会や小都会の波の へ 没してしまつたことを思ひ出した︒ ﹈ 殊 に︑ 私が ﹇
ナシ↓弱く
された肉体を︻引↓曳︼いて﹈この世界の縁辺を
32 行 かの女らは﹇つねに↓
削除﹈私の 33 行 つねに﹇
ナシ↓その﹈無感覚な眼 を にかけられてゐるやうに感じた︒ ﹈﹇私は心臓が搾 木 にかけられてゐるやうに感じた︒↓
削除﹈ 35 行 泣いた ︒﹇
ナシ↓が ︑かの女らの眼は ︑動物らのそれと ︑その無感覚を全く等しくしてゐた ︒私は心臓が搾木
35 行 ︵﹁私は努力して﹂
の上部に︑﹁別行﹂の指示あり︒ここから行換えして︑連をかえる︒︶
37 行 ピンセットを︑ ﹇その↓
削除﹈ありのまゝの
41 行 輝かしかったのだ︒ ﹇それが︑休息を欲してゐる私には︑殊のほか苦しかつた︒↓
削除﹈
一五四
44 行 ﹇さうして︑ その中に熱のない炎のやうな女らの眼 ︒ ↓ ︵
上部欄外から記す︶ 私 は︑ かれらが剥 製 されてゐるので
なく︑現実の天然背景の中で︑生きた眼を持つて活動してゐるのだつたら︑こんなことにはならなかつたらうと
考へ︻て︑苦しんだ︒↓た︒ ︼私は︑ ﹁剥製術﹂といふ悪徳を呪っ ︻た︒↓
削除︼て︑身を悶えた︒ ﹈
47 行 保存された︑かの女らの﹇
ナシ↓無感覚な﹈眼
︒ ︵
ここから欄外へ導線して詩句を挿入しようとして︑やめている
︶
48 行 悟つた﹇⁝⁝↓︒ ﹈﹇
ナシ↓これらの眼は︑決して私の流す涙を見やうとはしなかつた⁚⁚↓
削除﹈ 49 行 ﹇私は搾木にかけられたやうな心臓を抱いて↓私はもう何も考へ︻ずに↓まいと思つた︒そして︼ ﹈自分の身を
この﹇燥宴の中に↓音と︻熱と↓
削除︼光と拍との狂乱の中に﹈投げ出した︒
51 行 私は ﹇
ナシ↓何故か﹈ 腹立たしく︑ 狂暴になつて︑ かの女ら ﹇
ナシ↓の眼﹈ ﹇の↓に﹈ 一 ﹇ 人↓つ﹈ 一 ﹇ 人↓つ﹈
﹇に↓
削除﹈唾を吐きかけた︒
57 行 大きかつた﹇⁝⁝↓︒ ﹈ 58 行 ﹇
ナシ↓⁝⁝﹈流氷よ︑
61 行 とも知れぬもの﹇
ナシ↓の上﹈ ﹇に↓
削除﹈投げかけ﹇る↓た﹈ ︒
以上の手入れ結果を整理して示す︒これが本稿の最終形態である︒ ︵タイトルは省略して示す︒ ︶
私はその建物を︑圧しつけるやうな午後の雪空の下にしか見たことがない︒また︑私がそれに近づくのは︑あらゆる追
憶が︑それの齎す嫌悪を以て︑私の肉体を飽和してしまつたときに限つてゐた︒私は褐色の唾液を満載して自分の部屋を
見棄てる︑どこへ行くのかをも知らずに⁚⁚
一五五富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
煤けた板壁に︑痴呆のやうな口を開いた硝子窓︒空のどこから落ちて来るのか知ることの出来ぬ光が︑安硝子の雲形の 歪 みの上にたゆたひ ︑半ばは窓の内側に滲 み入る ︒人間の脚の載つてゐない ︑露き出しの床板 ︒古びた樫の木の大卓子 ︒
動物の体腔から抽き出された ︑軽石のやうな古綿 ︒うち慄ふ薄暮の歌を歌ふ桔 伷 色の薬品 ︹ 瓶
︺︒ピンセットは ︑ときを
1り︑片隅から疲れた︑鈍重な眼 を光らせる︒
私はその部屋の中で蛇を見た︒鷲と︑猿と︑鳩とを見た︒それから︑日本の動物分布図に載つてゐる︑さまざまの両生
類と爬虫類と鳥類と哺乳類とを見た︒
かれらはみんな剥製されてゐた︒
去勢された悪意に︑ 鈍く輝く硝子の眼球︒ 虹彩の表面に塗つてあるのは︑ 褐色の彩料である │ 無感覚によつて人を噛
む傷心の酵母︒これら︑動物の物狂ほしい固定表情︑怨恨に満ちた無能の表白︒白い塵は︑ベスビオの灰のやうに︑毛皮
の上に︑羽毛の上に︑鱗の上に積もつてゐた︒
私は︑動物らの霊と共にする薔薇色の堕獄を知つてゐた︒私は未来を恐怖した︒うづくまる私の額の上に︑落ちかゝる
黒い眩暈を感じた︒
﹁さはれ去 年 の雪 いづくにありや │ さはれこぞの 雪いづくにありや │ さはれこぞの 雪いづくにありや⁚ ⁚ ︒﹂ 意 味 の
ない畳 句が︑ひるがへり︑巻きかへつた︒美しい花々が︑光のない空間を横ぎつて遠く没落した︒そして︑下に︑遙か下
一五六
に︑褪紅色の月が地平の上にさし上つた︒私の肉体は︑この二重の方向の交錯の中に︑ぎしぎしと軋んだ︒このとき︑私
は不幸であつた︑限りなく不幸であつた︒
一つの闇が来た︑それから︑一つの明るみが来た︒動物らは︑潤つたおのおのの涙腺を持つて再生した︒かれらは近寄
つて来た︒歩み︑這ひ︑飛び︑跳り︑巻き付き︑呻き︑叫び︑歌つた︒すべての動物が︑かれらの野生的書 割を持つて復
活したのだ︒ 出血する叢や︑ 黄 金の草いきれが︑ かれらの皮 膚を浸した︒ これは︑ すさまじい伝説的性格の饗宴であつた︒
私は︑われからと︑それに参加した︒そして旧約人のやうにかれらを熱愛した︒平生から私に近しかつた蛇が︑やはり一
ばん私に親密であつた︒かれは︑その角膜の上に︑瑪瑙の嬌飾に満ちた悪意を含めて︑近 々 と私の眼をさし覗いた︒鷲は
⁚⁚ああ︑長々しい︑諸君が動物園に行かれんことを!とにかく︑私は慰められてゐた⁚⁚
このとき︑私は︑下の方に浚渫船の機関の音のやうな︑また︑幾分︑夏の午後の遠雷に似た響を聞いた⁚⁚私のために
或る夜涙を流した ︹或︺ ︹人︺ かの女らの追憶が︑ 私 の魂の最低音部を乱打した︒ 私は︑ 私 が︑ 鮮かな︑ または︑ 朧ろな光
と影との沸騰の中を潜つて私の歳月を航海して来た間︑つねに︑かの女らが私の燈台であつたことを思ひ出した︒私はか
の女らが︑あるものは濃緑色の霧に脳漿のあひまあひまを冒されて死んでしまつたり︑あるものは︑あらゆる邦々から海
を超えて上陸して来る私と同じやうな人々の罪の堆積のために︑夜︑青い静脉の見える腕をペーヴメントの上に延ばして
斃死したり︑または︑かの女らが一人一人に発見した︑暗い跡づけがたい道を通つて︑大都会や小都会の波の へ 没してし
まつたことを思ひ出した ︒殊に ︑私が弱くされた肉体を曳いてこの世界の縁辺を歩んでゐるやうに感じだしてこのかた ︑
かの女らは私の載つてゐるのとはちがつた平面の上に在つて︵それが私の上にあるのか︑下にあるのか︑私は知ることが
出 来 ない︶ ︑ つねにその無 感 覚 な眼 を私の方へ送つてゐたことを思ひ出した︒ 私は︑ 或る退 屈な夜々に︑ 私のために流され
一五七富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
た涙の︑そして︑それを拭ふのは一つの冒瀆であるところの涙の一滴一滴を思ひ出して泣いた︒が︑かの女らの眼は︑動 物らのそれと︑その無感覚を全く等しくしてゐた︒私は心臓が搾木にかけられてゐるやうに感じた︒
私は努力して︑私が︑日本の首府の暗い郊外にある︑或るうらぶれた鳥獣剥製所の一室にあることを思ひ返した︒私は
現実のみすぼらしさ
の中に︑魔法の解除を求めようとした︒私は︑あの窓を︑床を︑卓子を︑古綿を︑ピンセットを︑あ
りのまゝのみすぼらしさに於て見た ︒が ︑なんといふすばらしい 変 位 だらう !これらの物象は ︑そのみすぼらしさの
まゝ︑動物らの喚び出した燦々とした野生的な︹ 書
︺ 割
の 中に融け込んでゐた︒さうして︑その輝かしさの一合唱部を歌
2つた︒さうだ︑あれらの煤びた物体は︑もうそれ自身輝かしかつたのだ︒
動物らに至つては︑もう私は何ともすることが出来なかつた︒かれらは︑蜜蜂の唸りのやうな︑かれらの饗宴の度を高
めて︑私のまはりに蝟集した︒私は︑かれらが剥製されてゐるのでなく︑現実の天然背景の中で︑生きた眼を持つて活動
してゐるのだつたら︑こんなことにはならなかつたらうと考へた︒私は︑ ﹁剥製術﹂といふ悪徳を呪って︑身を悶えた︒
私はもう︑これらの現在見てゐるものを︑すべて変改しがたいものに思つた︒私はもう何も考へまいと思つた︒そして
自分の身をこの音と光と拍との狂乱の中に投げ出した︒
私は︑ 先 刻からの追憶が︑ みんなこの動物らの燥 宴の中で見続けられて来たのだと知つた︒ そのとき︑ ああ︑ こゝにも︑
また︑そこにも︑熱の無い炎のやうな︑かの女らの眼 ︒時間によつて剥製され︑神秘な香料によつて保存された︑かの女
らの無感覚な眼 ︒私は︑このとき︑これらの眼があの動物らとちがつた世界から出て来たものでないことを悟つた︒
一五八
私は何故か腹立たしく︑ 狂暴になつて︑ かの女らの眼に一つ一つ唾を吐きかけた︒ すべてが消えた │ 或は︑ 闇が来た
のだつたかも知れない︒燥宴はすべての光と熱と音とを失つた︒
が︑あれらのす︹さ︺まじい
揺蕩の一々は︑空気分子の動揺として︑あらゆる私の粘膜にそのありのまゝなる消息を伝
3へた︒ 温 泉 場の浴 場の周 囲を流れるやうな 温 度と臭 気とを持つた液 体が︑ こ の私の居る建 物の周 囲を流れるやうに感じた︒
またそれは私の皮膚のまはりを流れゐるやうでもあつた︒私はそれを弁別しやうとして努力したが︑どうしてもわからな
かつた︒私はもうあらゆることを諦めた︒黒い眩暈の中に︑更に一つの薔薇色の眩暈を認めた︒それは前のより密度が大
きかつた︒
⁚⁚流水よ︑ おんみの悲哀は祝福されてあれ ! 倦怠に悩む夕日の中を散り行くもみぢ葉よ︑ おんみの熱を病む諦念は祝福
されてあれ ! あらゆる古 日 本 の詞 華 集 よ︑ おんみの上に明 障子に囲はれ た る 平和あ れ !⁚⁚新ら し い 眩暈に屈服する た め
にか︑或は︑さうでなくてか︑私はこの時宜に適はぬ訣別の辞を何とも知れぬものの上︹に
︺投げかけた︒動物らの魅 惑
4は︑また︑下の方から上つて来るであらう︒炎上する花よ︑灼鉄の草よ︑毛皮よ︑鱗よ︑羽毛よ︑音よ︑祭日よ︑物々の
焦げる臭ひよ⁚⁚
さはれ去 年 の雪いづくにありやや︑
さはれこぞの雪⁚⁚いづくに⁚⁚
さはれこぞの⁚⁚ Hannii ̶ hannii ̶ hanni i̶i̶i̶i̶i ⁚⁚
bidn! bidn! bidn!
一五九富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
私は手を挙げて︑目の前にある何かを逐ひ払はうとした︒そして︑どこか別の邦へ行つて住まうと決心した︒
注︵+ 1
︶ 草稿では︑﹇曇瓦﹈の字体である︒瓶または壜の誤りとみて校訂した︒︵
2
︶ 草稿でに︑﹁畫﹂と書かれてあり︑﹁画割﹂となるのだが︒先に﹁書割﹂が出現し︑こちらが字義的には正しいので︑﹁畫﹂を﹁書﹂の誤記と考えて校訂した︒なお︑﹁山繭﹂発表形は二カ所とも﹁書割﹂である︒
︵
3
︶ 草稿では﹁すまじい﹂であるが︑﹁すさまじい﹂の誤記とみて校訂した︒︵
4
︶ ﹁に﹂は︑﹁の上﹂が挿入された際に消されたが︑消しすぎとみて︑校訂した︒2 ﹁山繭﹂発表形 ︽発表誌︾ ﹁山繭﹂第三号︵一九二五︵大正一四︶年二月一日発行︶
鳥獣剥製所
一報告書
屋を見棄てる︑どこへ行くのかをも知らずに⁝⁝ 追憶が︑それの齎す嫌悪を以て︑私の肉体を飽和してしまつたときに限つてゐた︒私は褐色の唾液を満載して自分の部 1 私はその建物を︑圧しつけるやうな午後の雪空の下にしか見たことがない︒また︑私がそれに近づくのは︑あらゆる
一六〇
煤けた板壁に︑痴呆のやうな口を開いた硝子窓︒空のどこから落ちて来るのか知ることの出来ぬ光が︑安硝子の雲形の
歪 みの上にたゆたひ︑ 半ばは窓の内 側に滲 み入る︒ 人間の脚の載つてゐない︑ 露き出し の床板︒ 古びた樫の木の大卓子︒
動 物の体 腔から抽き出された︑ 軽 石 のやうな古 綿 ︒ うち慄ふ薄 暮の歌を歌ふ桔 伷 色の薬品瓶︒ ピンセットは︑ ときをり︑
片隅から︑疲れた︑鈍重な眼 を光らせる︒
私はその部屋の中で蛇を見た︒鷲と︑猿と︑鳩とを見た︒それから日本の動物分布図に載つてゐる︑さまざまの両生 類と︑爬虫類と︑鳥類と︑哺乳類とを見た︒
かれらはみんな剥製されてゐた︒
去勢された悪意に︑ 鈍く輝く硝子の眼球︒ 虹彩の表面に塗つてあるのは︑ 褐色の彩料である │ 無感覚に よ つ て人を 噛む傷心の酵母 ︒これら ︑動物の物狂ほしい固定表情 ︑怨恨に満ちた無能の表白 ︒白い塵は ︑ベスビオの灰のやうに ︑
毛皮の上に︑羽毛の上に︑鱗の上に積もつてゐた︒
私は︑ こ の建 物に近づかうか︑ 近づくまいかといふ逡 巡 に︑ 私 自 身の手で賽を投げなかつたことを心から悔いた︒ が︑
すべては遅かつた︒怖ろしい牽引であつた︒私を牽くのは︑過ぎ去つた動物らの霊だと知つた︒牽かれるのは︑過ぎ去 つた私の霊だと知つた︒私はあらゆる世紀の堆積が私に教へた感情を憎悪した︒が︑すべては遅かった︒
私は︑動物らの霊と共にする薔薇色の堕獄を知つてゐた︒私は未来を恐怖した︒
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一六一富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
さはれ去 年 の雪いづくにありや︑
さはれ去年の雪いづくにありや︑
さはれ去年の雪いづくにありや︑
⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝意味のない畳 句が︑ひるがへり︑巻きかへつた︒美しい花々が︑光のない
空間を横ぎつて没落した︒そして︑下に︑遙か下に︑褪紅色の月が地平の上にさし上つた︒私の肉体は︑この二重の方
向の交錯の中に︑ぎしぎしと軋んだ︒このとき︑私は不幸であつた︑限りなく不幸であつた︒
一つの闇が来た︑それから︑一つの明るみが来た︒動物らは︑潤つたおのおのの涙腺を持つて再生した︒かれらは近
寄つて来た︒歩み︑這ひ︑飛び︑跳り︑巻き付き︑呻き︑叫び︑歌つた︒すべての動物が︑かれらの野生的の書 割を携
へて復活した︒出血する叢や︑黄金の草いきれが︑かれらの皮膚を浸 した︒これは︑すさまじい伝説的性格の饗宴であ
つた ︒私は ︑われからとそれに参加した ︒そして ︑旧約人のやうにかれらを熱愛した ︒平生から私に近しかつた蛇が ︑
やはり一ばん私に親密であつた︒かれは︑その角膜の上に︑瑪瑙の嬌飾に満ちた悪意を含めて︑近々と私の眼をさし覗
いた︒鷲は⁝⁝ああ︑長々しい︑諸君が動物園に行かれんことを ! とにかく︑私は慰められてゐた⁝⁝
このとき︑ 私は︑ 下 の方に浚渫船の機関の騒音のやうな︑ また︑ 幾分︑ 夏の午後の遠雷に似た響を聞いた │ 私のた めに涙を流した女らの追憶が︑私の魂の最低音部を乱打した︒私は︑私が︑鮮かな︑または︑朧ろな光と影との沸騰の 中を潜つて私の歳 月を航 海して来た間︑ つねに︑ かの女らが︑ 私の燈 台であつたことを思ひ出した︒ 私は︑ か の女らが︑ 或るものは濃緑色の霧に脳漿のあひまあひまを冒されて死んでしまつたり︑或るものは手術台から手術台へと移つた後
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一六二
に︑爆竹が夜の虹のやうに栄える都会の中で︑青い静脈の見える腕を舗石の上に延ばして斃死したり︑または︑かの女
ら が 一人一人発見 し た ︑ 暗 い ︑ 跡 づけがたい道 を 通つて︑ 大 都 会 や小 都 会 の 波 の中へ 没してしまつたことを 思ひ出した︒ 殊に︑私が弱くされた肉体を曳いて︑この世界の縁辺を歩んでゐるやうに感じ出してこのかた︑かの女らは︑私の載つ てゐるのとはちがつた平面の上に在つて ︵ それが私の上にあるのか ︑下にあるのか ︑私は知ることが出来ない︶ ︑つね にその不動の眼 を私の方へ送つてゐたことを思ひ出した︒私は︑退屈な夜々に︑かの女らの一生を︑更に涙多きものと
するために︑私のために流された涙の︑一滴一滴を思つて泣いた︒が︑かの女らの眼は冷たく︑美しく︑剥製された動
物らのそれと︑その無感覚を全く等しくしてゐた︒私は心臓が搾 木 にかけられたやうに感じた︒
私は努力して︑私が︑日本の首府の暗い郊外にある︑或るうらぶれた鳥獣剥製所の一室にあることを思ひ返した︒私 はこのみすぼらしさ
見た︒ が︑ なんといふすばらしい 変 位 だらう ! これらの物 象 は︑ そのみすぼらしさのまゝ︑ 動 物 らの喚び出した燦々 れるものと信じてゐた ︒︶私は ︑あの窓を ︑床を ︑卓子を ︑古綿を ︑ピンセットを ︑ありのまゝのみすぼらしさに於て の中に ︑魔法の解除を求めようとした ︒︵ 私は動物らの饗宴から逃れゝば ︑これらの眼から逃れら
とした書 割の中に溶け込んでゐた ︒さうして ︑その輝かしさの一合唱部を歌つた ︒さうだ ︑あれらのみじめな物体は ︑
もうそれ自身輝かしかったのだ︒私は︑自分をその輝かしさに堪へないやうに感じた︒
動物らに至つては︑もう私は何ともすることが出来なかつた︒かれらは︑蜜蜂の唸りのやうな饗宴の度を高めて︑私 のまはりに蝟集した︒私は︑かれらが剥製されてゐるのでなく︑天然の背景の中で︑生きた眼を持つて活動してゐるの だつたら︑こんなことにはならなかつたらうと考へた︒私は︑剥製術といふ悪徳を呪って︑身を悶えた︒が︑何も変ら
なかつた︒私はもうすべてを変改しがたいものと諦めた︒そして︑自分の身を︑この音と光と熱との過度の狂乱の中に
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一六三富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶
投げ出した︒ 私は︑先刻からの追憶が︑みんな︑この動物らの燥宴の中で見続けられて来たことをもう一度考へた⁝⁝ああ︑こゝ にもまた︑そこにも︑熱の無い炎のやうな︑かの女らの眼 ︒時間によつて剥製され︑神秘な香料によつて保存されたか
の女らの眼 ︒私は︑このとき︑これらの眼があの動物らの霊とちがつた世界から出て来たものでないことを悟つた︒そ
して︑動物らの霊と同じく︑その苦痛に満ちた魅 惑の力を永久に私の上から去らないであらうと悟つた︒
かう考へたとき︑私は腹立たしく︑狂暴になつて︑かの女らの眼に一つ一つ唾を吐きかけた︒さうして︑新しく泣い た︒ なにもかも消えた │ 或は︑ 闇が来たのだつたかも知れない︒ 燥 宴はすべての光と熱と音とを失つた︒ が︑ あれら のすさまじい揺蕩の一々は︑空気分子の動揺として︑私の皮膚に︑そのありのまゝなる消息を伝へた︒私は︑温泉場の 浴場の周囲を流れるやうな︑生暖い︑硫黄の臭気を持つた液体が︑この私の居る建物の周囲を流れるやうに感じた︒ま
た︑それは︑私の皮膚のまはりを流れてゐるやうでもあつた︒私はそれを弁別しやうと努力したがどうしてもわからな かつた︒私は︑黒い眩暈の中に︑更に一つの薔薇色の眩暈を認めた⁝⁝
⁝⁝流水よ︑ おんみの悲哀は祝福されてあれ ! 倦怠に悩む夕日の中を散り行くもみぢ葉よ︑ おんみの熱を病む諦念は祝 福されてあれ ! あらゆる古日本の詞華集よ ︑おんみの上に 明 障子に囲はれたる平和あれ ! ⁝ ⁝新らしい眩暈に屈服す るためにか︑或は︑さうでなくてか︑私はこの時宜に適はぬ訣別の辞を何とも知れぬものゝ上に投げかけた︒動物らの
魅 惑は︑また︑下の方から上つて来るであらう︒炎上する花よ︑灼鉄の草よ︑毛皮よ︑鱗よ︑羽毛よ︑音よ︑ 祭日よ︑
物々の焦げる臭ひよ︒ 55 60 65
一六四
さはれ去 年 の雪いづくにありや︑
さはれ去年の雪⁚⁚いづくに⁚⁚
さはれ去年の⁚⁚ Hannii ̶ hannii ̶ hanni i̶i̶i̶i̶i ⁝
⁝
bidn! bidn! bidn!
私は手を挙げて︑目の前で揺り動かした︒そして︑生きることゝ︑黄色寝 椅子の上に休息することが一致してゐるど
こか別の邦へ行つて住まうと決心した︒
︽注︾ 本篇は﹁山繭﹂第二巻第三号︵一九二六︵大正一五︶年一一月一日発行︶富永太郎追悼号に再掲されている︒そ
の際︑次の各箇所に異同が生じている︒これは誤植によるものであろう︒
3 行目 見棄てる︑↓見棄てる︒
4 行目 口を開いた硝子窓︒↓口を開いた硝子窓︑
25 行目 ︵
﹁書割﹂のルビ︶デコール↓デコトル 26 行目 浸 した↓浸した 27 行目 私は︑われからとそれに↓私はわれからとそれに 36 行目 感じ出してこのかた︑↓感じ出してこのかた︒
43 行目 ピンセットを︑ありのまゝの↓ピンヒセトを︑ありのままの 44 行目 ︵
﹁変位﹂のルビ︶トランスポジシヨン↓トラスポジヨン 44 行目 みすぼらしさのまゝ↓みすぼらしさのまま 44 行目 喚び出した↓嘆び出した
70
一六五富永太郎﹁鳥獣剥製所﹂の生成︵1︶