奈良教育大学学術リポジトリNEAR
『中国教師法』の成立と動向をめぐる諸問題に関す る研究
著者 ? 宝文, 八尾坂 修
雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要
巻 32
ページ 99‑112
発行年 1996‑03‑01
その他のタイトル A Study of the Establishment and Trend of the
"Teacher's Law of the People's Rapublic of China"
URL http://hdl.handle.net/10105/6886
奈良教育大学教育研究所紀要 平成8年第32号
『中国教師法』の成立と動向をめぐる諸問題に関する研究‡
部 宝文・八尾坂修
(教育経営学研究室)
要旨:中国では市場経済の導入とともに法制的な整備が求められている。国民 の法的意識が徐々に高まっている。しかし、経済優先、教育が政治に奉仕する という理念のため、教育が軽視されて教師給与未払い、教師の教育現場離れに よって、学校運営が窮地にたたされたという異常な現象が出てきた。そこで、
教師の基本的な権利を保証するために、隊師法」が制定された。実際に、民 主的・法制的な意識が国民の中に根差していないため、同法は施行段階におい て、現実と乖離して完全な実施に至っていないのであ孔
キーワード:中国教師法、教員待遇、教員の資質
はじめに
教育とは古い社会を改造し、新しい社会を打ち立てる強力な手段であ糺教師は新しい世代の 人間を塑像するエンジニアと芸術家であり、人類の心霊(思想と感情)を塑像するエンジニアで ある1㌧教師の労働は精神生産的な範鴫に属している。教師は精神財産の生産者である2〕。これら の認識が中国では一般化されている。
では、どんな人間を作るか、教師の力量に関わっている。教師の力量形成と成長はそのおかれ た時代と背景に強く影響されているのはいうまでもないのである。
中国では政治に奉仕する教育という理念のため、教育は常に政治闘争に癒着している。教育経 費の不足、教師待遇の劣悪さ、学校施設の貧しさ等等、皆この理念と関係があるのである。これ
らの弊害を無くすために、法的な保障が求められている・
伸華人民共和国教師法」(以下、r教師法」と称する)が1993年10月31日第8回全国人民代表 大会(以下、全人大と称する)常務委員会第4次会議で認定され、1994年1月1日から施行され た。同法によって、教師の社会的地位、権利と義務、資格と任用、養成と研修、評定、待遇、奨 励等が制度化され、それは1985年「教師の日」を制定して以来、教師を尊重し、教育を重視し、
教師待遇の改善と教師の資質向上を図る新しい契機になったと言えよ㌔
しかし、法制的な整備が未だに完成されていない中国では、丁教師法」によってどれほど教師
*ASt皿dyoftheEstabHshmentandTrendoft11e Teacher sLawofthePeopie sRapublicofChi−
na
**Baowe皿GAO (graduate studeI]t),Osamu YAOSAKA (associate professor) Department of
Educationa−Administration in Nara University o{Education.
の権利が守られているかを明白にするために、中国の教育における現状と課題を解明する必要が あると思う。日本でr教師法』に関する研究はヨ〕、法的な意味や解説や翻訳等が中心で、背景的・
実態的な研究は殆ど成されていないようである。本稿は『教師法』が設立された経緯とその社会 的背景を検討するとともに、中国の教育、特に教師をめぐる状況とその問題点を明らかにしよう
と思う。
I.r教師法 が設立された背景 1.r教師法』の提案に至るまでの政治的背景
毛沢東の指導する中国共産党(以下、中共と称する)は、1949年、中華人民共和国をうちたて、
プロレタリア独裁として祉会主義計画経済を進めるようになった。しかし、当時中国人民の状況 は、毛沢東がいうように「一に貧しく、二に知識がない」(一窮二白)であった。「だからこそ人 民は革命を求め、指導者は白紙に字を書くように人民に革命思想を注入しうる」のだと考える毛 沢東にいわせれば、「完備した法制」など官僚主義の虚飾にすぎなかった4〕。
1956年4月、毛沢東は、学術を一斉に花開かせ、学術における議論を争って行おうという芸術・
学術「自由化」のスローガンである「百花斉放、百家争鳴」を提唱した。
1957年4月、毛沢東は中共上海局杭州会議における講話で次のようにのべた。
「… 知識人に近付こうとしなかったのは共産党の欠陥である。」5〕
4月、中共中央が整風運動を提起し、党外人士の批判を積極的に求めるようになると、今度は、
党に対する批判が一気に噴出し、なかには、「共産党は滅んでも中国は滅びない」というような 発言まで飛び出した6〕。そして6月8日付け中共機関紙『人民日報』は、毛が執筆した論説「こ れは何を意味するか」を掲載した。同日、中国共産党中央は「力量を組織して右派分子の進攻に 反撃することに関する指示」を発し、党に悪意ある攻撃をかけ、その指導権を否定しようとして いる「ブルジョア右派」に反撃するよう呼び掛けた。以後、知識人の多い職場を中心に、1978年 まで投獄された人々だけでも11万人以上に達すると伝えられ、その家族まで白眼視された7〕。
『文化大革命』(1966−1976)の間、毛沢東の個人崇拝が高まり、国民が政治、経済、文化、そ の他あらゆる面で自由を奪われ、個性を押しつぶされ、創意を殺され、ロボット化を強制されて、
窒、自、しかけていた。毛の指示が最高であり、全でであった。
反右派闘争以後、多くの人々は内心の声を正直に表明することを恐れて沈黙するか、上からの 方針により景気よく迎合するかのどちらかになってしまった目)。
1976年9月9日、毛沢東が死去、1977年7月、第10回中央委員会第3次総会(10届3中全会)
は、脇小平同志の職務復帰についての決議」を採択、艶は党中央委員会副主席、党中央軍事委 員会副主席、副首相、解放軍総参謀長などの要職に復帰した。以後、「真理の基準」論争や「事 実求是(事実に基づいて真理を求める)」などの討論によって華国鋒をはじめとする「全て派」
を批判している登βが次第に実権を握り、党と国家の最高な権力者となってきた。
中共の第二代指導集団の核心である当代中国改革と現代化建設の総設計師・中国の特色ある社
会主義を建設する理論を創立した登匡小平〕は、1977年に「我々は現代化を実現しようとするには、
科学技術の向上が鍵であり、科学技術を発展させるには、教育をしっかり把握しなければならな いのだ」m〕と指摘した。また、郵は1978年の全国教育工作会議の席上で、「現代経済及び技術の速 やかな発展は、教育の質及び教育の効率の速やかな向上を求め、教育と生産労働の内容及び方法 について絶えず新しい発展を遂げることを我々に要求している」と、強調したω。
1985年1月21日に中華人民共和国第6回全人大常務委員会第9次会議は、教師を尊重し、教育 を重視するために、毎年の9月10日を「教師の日」に確定した。
1985年5月27日、中共中央委員会は『教育体制改革に関する決定』を発布した。内容的にいう と、一、教育体制改革の根本的な目的は、民族の素質の向上や人材の輩出を図る。二、基礎教育 を発展させる責任を地方に譲り、段階をおいて9年間義務教育を実行する。三、中等教育の構造 を調整1し、職業および技術の教育の発展に力を入れる。四、大学(短期大学も含む)の学生募集 計画と卒業生配属の制度を改革し、大学(短期大学も含む)の自主経営権を拡大させる。五、指 導を強化し、各方面の積極的な要素を引き出し、教育体制改革を保証する 2〕。
1985年、「中央は最大限の努力で教育を把握しなければならない。また、小学校と中学校から 着手しなければならないと言い出した。それは戦略的な目の持ち主のやり方だ。着し、今から全 党にこのような任務を呼び掛けなければ、大事なことを怠り得るのだ。歴史的な責任を負わなけ ればならないのだ。」と、艶小平が言っれまた「教育を二の次(軽視)にしている指導者が長 期的な展望に欠けているのだ。このような指導者は未熟で現代化の建設が指導できないのだ。」と、
登盾が指摘した職。
1986年4月12日に、r中華人民共和国義務教育法』は設立され、1986年7月1日に施行された。
1988年9月12日、登盾小平は、「我々は、あらゆる方法を尽くして、他の面で我慢して経済成長 の速度さえ犠牲にしても、教育の問題を解決しなければならないのだ。」「どんな困難としても、
教師待遇の向上をしなければならないのだ。」「(教師待遇を)何年間をかけて解決しなければな らないのだ。彼等(教師達)に希望を感じてもらうようにしなければならないのだ。」と指摘したM㌧
今日において、鄭の発言と著書は中国国家の行動方針になっているのは現状である。
2.r教師法』起草の過程 11)提案と調査検討の段高
1986年3月第6回全人大第4次会議と第6回中国全国人民政治協商会議(以下、全政協と称す る)第4次会議の席上で、張承先、楊輝、陳日亮など全人大代表と全政協委員延べ415名は、そ れぞれ「出来るだけ速めに廠師法』の制定をするよう」という提案をした。また、全人大教育 科学文化衛生委員会は、「出来るだけ速めに『教師法』の起草をするよう」という議案を提出した。
中国国家教育委員会(以下、国家教委と称する)は、『教師法(草案)』の起草工作指導組と起 草組を設立した。そして、北京起草組、江蘇起草組、華東師範大学起草組、遼寧省教育委員会起 草組が発足し、r教師法」の起草に取り組込んだ。
1987年1月、1987年3月、1988年10月、1989年3月、国家教委をはじめ、関係の専門家が検討
した結果、r教師法(草案・審議案)」を作成し、1989年4月30日正式に国務院に提出した。
{2〕倍正と検証の段着
1989年5月、1989年11月、1990年5月、1990年6月1目、10月10日、1991年8月9日、幾度の 検討と修正を経過した挙句、国務院常務会議でr教師法(草案)」が通過され、全人大に提出さ れた。この間、第7回全人大の代表は、r教師法 起草の仕事を速めるよう、という提案をした。
13〕■融通通の段踏
1993年第8回全人大第1次会議の席上で、呉小仲をはじめ32名の代表は第68号議案を提出し、
何祥をはじめ30名の代表は第285号議案を提出し、陳日亮をはじめ42名代表は第34工号議案を提出 し、また、他の代表もr教師法』の制定を出来るだけ速めるようという提案をした。
1992年中共第14回全国代表大会の報告の中に、教育を戦略的な位置において優先的に発展させ なければならない。我が民族の思想・道徳および科学・文化の水準を高めることに努めるのは、
我が国の現代化の根本的な大計である、と書いてある。1993年2月13日、中共中央委員会・国務 院はr中国教育の改革と発展の要綱」(以下肥綱」と称する)を発布した。このr要綱』では、
「教育の戦略的な位置が実際の仕事の中で確立されていない。教育の投入が不足で、教師の待遇 が低い。学校経営の条件が悪い。教育の思想・教育の内容・教育の方法が程度別に現実と乖離し ている。学校の思想政治工作は、一層の強化と革新が必要である。教育の体制と教育の運営体制 が日増しに深化する経済・政治・科学技術の体制の改革の二一ズ(需要)に適していない。」と 指摘された。
腰測は丁教師法』の作成において、特に教師の待遇と任用についての明確な根拠を提供し、
決定的な影響を与えたのである。
1993年10月31日、幾度の修正と検討が積み重ねた上で、全人大常務委員会の表決によって通過
された15〕。
皿.『教師渕が施行される前の小中学校教師の実態 1.学校離れとその要因
中国国家統計局の統計によると、教師の給与は、長い間、中国12の業界の中で下から3位まで 上がらなかった。1992年から1993年まで教師の給与未払いの総額は14億元となり、教師たちの生 計にも影響を及ぼしている。1992年に限って小中学校の教師の流出は43万人に上ってい糺教師 の住居は困難であり、1992年末まで、全国の小中学校の教職員の37万戸が住居に困っている。そ のうち、住居のないのは16万戸である。上海市の小中学校の教師の流出は、1992年1500人で、
1993年2292人となった。広東省の教師は1987年から毎年2000人という規模で流出し、1992年の一 年間で流出した教師は6200人となった。湖南省の懐化地区では、1983年から毎年ぽぽ200人ぐら いの教師は人事異動によって教育現場を離れ、1990年に入ってから、教育現場から離れようと要 望している教師は毎年1000人に近いのである。
教育現場から離れた教師たちは、r教師法』でいう合格教師であり、教育現場の主幹である。
天津市で1992年人事異動によって小中学校を離れた683名の教職員の中で高校卒以下の学歴を有
する者はわずか7名である。湖南省の懐化地区では1993年末までの2年間で、教育現場から離れ
た393名の教師その大部分は校長・教務主任・教諭である。
1993年に上海市で流出した2292名の教師の内、1600名は35歳以下である。貴州省興義市で1990 年から1992年まで流出した215名教師の内、46歳以上は2人しかいない。天津市の人事異動によっ て教育現場を去った教師の年齢40歳以下は、86.3%をしめている。上海市にある某学校でいきな
り20名余りの教師が学校を去っていった。同市にある某小学校の教職員わずか60名に過ぎないに もかかわらず、とても短い期間内に7名の教師が学校を去っていった。江西省九江市にある某省 級重点 6〕中学校から1992年に、14名の教師は流出し、学校の教師の総人数の1割を占め、しかも、
皆学校現場の主幹である。1993年、広東省海南市にある某中学校はわずか数ヵ月の内に、13名の 教師が去ってしまった。その中に、副校長・教務主任も含まれてる。1988年福建省寧徳地区で、
850名の教師が教育現場を捨てたことによって、148校は運営できなくて閉鎖せざるを得ない状態 も現れた。
湖北省天門市岳口鎮で200名の教師は授業を停止した。山東省成武県のある小中学校の教師た ちは、4か月給与未払いのため、集団的に授業を停止した。
農村の小中学校の教師給与未払いは、深刻である。小中学校の教師の多い省では、教師の給与 未払い金額は平均で8000万元ぐらいである。河南省の80余の県が教師給与未払い金額は、1992年 に1億元余りであった。1993年1月から6月末まで河南省では教師給与未払いの金額は、1.48億
元であった17〕。
福利待遇政策の面においても、小中学校の教師たちは除かれている。例えば、国家が実施した
「政府(行政)の特殊手当」には小中学校の教師は含まれていない。広東省行政部門は一人当た り月に「下郷(農村に行く)手当」として50元支給されているが、教師はその中に除外されてい る。同省の高要県の県庁所在地の引っ越しのため、職員たちは皆毎月78元の手当が支給されてい るが、教師たちは依然として除外されている。教師たちは「政府(行政)は根本的に我々のこと を視野に入れようとしない」と言った。
公費医療において、湖南省小中学校の医療費は予算より4700万元オーバーしている。これらの 費用は実際に教師個人の負担になっている。ある教師は、病気でお金がないため自分の葬儀費を 先払いしてほしいと要望した。
1992年の統計によると、全国800万余りの小中学校の教師の中に、高級職称(大学助教授クラ ス以上)を有する者は89246名、中級職称(大学講師クラスを有する者は、小中学校の教師の全 体の13.28%しかいない。小学校の教師の中で高級職称の待遇を受けているのは1415名しかいない。
数多くの小学校の教師は退職する時でさえも、中級職称を貰っていない。
授業の他、課外活動の指導・生徒の個別指導・大量な宿題・家庭訪問・各種の試合・学習のコ ンテスト・個別生徒の世話をする・地方によって生徒の入学率と進学率は教師の待遇に係わって
いる。
統計によると、教育と文化系統の職員の平均給与は他の12の系統職業に従事する職員の平均給
与より1978年に5.17元低い、1985年に4.65元低い、1987年に10.3元低い、業種別収入序列から見
ればそれぞれ後ろから一番、二番、三番となっている。1987年に工業系統の平均給与は10.8%アッ
プしたが、教育系統は5.8%しかアップできなかった。給与のほか、教師のボーナスや手当など の収入がもっと少ない醐。教師の給与制度で等級別に分類されていることが確かであるが、昇進 の年間が定められていないので、実際には施行できないのである。
教師の待遇が低いため、教師に家庭と仕事の負担が重くて中年教師の中で健康が損なわれ、体 力が衰え、若くして亡くなった教師が少なくない。こんな状況の中で、教師達はチャンスがあれ ば、教育現場をはなれ、他の職業(役所・貿易・合弁会社・大手会社等等)に従事する傾向が強
い 釧。
2.教師始与未払いの社会的原因
中国の教師は知的職業従事者として、特に階級闘争を進めた文化大革命の時期(1966〜76)は
「ブルジョア世界観をも?」として闘争の対象にされ、社会的地位が低く、給与が低く、福利厚 生も薄いという劣悪な処遇に甘んじなければならない教師の冬の時代が続いた。この結果1980年 時点では「小学校教師の平均給与は全国の業種の中で一番下であり、中等学校教師は下から2番
目」と政府自ら認める状況である鋤。
郵小平は1978年の全国教育工作会議で「我々は人民教師の政治的と社会的地位を引き上げなけ ればならない」と語り、その実効ある施策を指導した。以後「右派分子」や「反革命分子」とさ れた教師の名誉回復、入党の促進が進められ、そして1985年には教師を尊敬し、教育を重んじる
日として「教師の日」が制定された空1〕。
しかし、1993年9月10日、国家教委主任未開軒は全人大常務委員会が主催した「教師の日」パー ティで、「近年来、教師給与の未払い現象が出た。その金額の多さ・時間の長さ・範囲の広さは、
新中国設立以来の40余年間未曾有である。それは教師の正当な権利を犯す違法行為であり、教師 の感情を傷付けるばかりでなく、教師全体の安定や教育の発展と改革に悪い影響を及ぼした。」
と語った2!〕。
社会主義市場経済の下に、経済を中心に利益を追求することは、各級政府の最大の目的になっ た。行政の長が政治的業績を立てようと思い、教育を重視すると口だけで言っているが、実際に 教育を二の次に回している。経済を優先し、教育がその次、また、教育は消費部門であり、金の 産出が出来ず、金をもっと生産できる分野に投資すると経済が活発になり、そして、業績も認め
られるという考えを持った行政の長が少なくない。
1986年に教育経費が他用に使われた金額は4億元余り、この年度の国家教育投資総額の3,3%
を占めた。某省教育庁が一回の忘年会に2.7万元余り使ってしまったが、省内の100万平米に近い 倒れそうな校舎のための修繕費用は皆無である。某県の小学校が崩壊されて集められた修理費は 40元しかないにもかかわらず、その県の教育局は1万元を使って局長の個人の住宅を建てたので
ある。
また、教育系統の人事制度にも問題がある。統計によると、1979年から1985年まで短大と大学
において教員は35.9%増え、職員は41,5%増加した。同期間で中学校の教員は16.1%減少し、職
員は54%増加した。プログラムの編成が合理化に欠け、教員の利用率が低い。短大と大学で教職
貝と学生の比率は1:1,8、教師と学生の比率は1:5.9である。教育経費の成長が人件費の成長 より遅れている。
小中学校の留年の現象が深刻で、生徒の点数が低い場合、何年問も留年させることが出来る。
某省には1982年に限って、小学校一年生は24.8万人が留年させられ、601万元の教育経費を費や
してしまった頸〕。
1994年に中国住民の消費価格と商品の販売価格はそれぞれ前年度より24.1%と21.7%アップし、
改革開放16年(1978−1994)以来最も上昇幅の高い1年であった。しかし、物価の総水準が常に 高いレベルで上昇している。それは低収入の住民の家庭生活に困難をもたらしている。
1994年末に中国全国の人口は119850万人であり、都市部住民の一人当たりの年平均生活費収入 は3179元で、前年度より36%成長し、価格の原因を除けば実際の成長率は8.8%である。農村部 住民の一人当たりの年純収入は1220元であり、前年度より32%成長し、価格の原因を除けば実際 の成長率は5%である。但し、地域問や都市と農村との収入の差が拡大しつつあるので、一部分 の住民の実際の収入のレベルが低下しつつあるのである別〕。農村の収入は純収入ではなく、畑で 収穫したもの、飼っている動物や水産物など全ての生産資料が全部計算された数字である鴉〕。
1992年に都市部と農村部の消費的支出は一人当たりそれぞれ2299,37元と659.01元であった。
1992年農民一人当たりの購買力は、1980年都市住民の購買力に値するのであった。農民の人口は 中国全体の80%を占めているのである。それは都市部と農村部との生活水準は12年の差があるこ とを意味していぴ〕。
現在、中国では年収3万元以上の者は430方人、年収10万元以上の者は100万人であ糺1991年 に中国全人口総数の2%強を占めた高収入者の貯蓄は、中国全住民の個人的貯蓄総額の26%であ
り、1992年にその率は28%となり、1993年にその率は更に30%となった。これに対して、数多く の人がいまだに貧しい生活を送っているが、農村からみれば、8千万人がいまだに、腹一杯食べ ることができないのである 〕。
1985年から1991年はじめまでの6年間に、中国予算内国有企業の流出した国有資産は2200億元 であり、その数字は中国1年間の財政の収入に値するのである。更に国有資産は、いまだに毎日
1億元余りのスピードで流出しているのである蝸㌧中国には貧富の差が益々深刻化しているので ある。その原因は配分の不公平にある。その現象から言えば、個人や小さい集団的な私利のため に、国家の利益や法律や条例などを無視したり、ボーナスや手当など無計画的・無制限的・任意 的に配分したりして権力をふるって金儲けに走っている、いわゆる「官倒」が横行している。
中国において小学校の教師の収入は一番低く、中学校の教師の収入はその次になっている。国 家統計局の数字により、1986年国民の平均的生活費は月に69元、中学校の教師は61.89元、小学 校の教師は43.61元であった鋤。
教育経費不足や教師待遇の低さや国家として短期問でこれらの問題が解決できないなどという
状況の中で、また、各業界の創収(収入を造る)という現実の刺激を受けて、大学をはじめ、幼
稚園・小学校・中学校・高校・専門学校などは、あの手この手を使って有償服務という名目で金
儲けに走り出した。
教師の兼業や学校が企業を経営することなどは、国家教委によって認められた。同じ学校の教 師は今まで学歴も同じ、給与も同じ、年齢も同じ、しかも性別も同じなのに、一方は教室で授業 を教え、他方は学校が経営している工場で働きだしたという僅かの違いによって後者は前者より 収入がかなり増えてきた。
一部分の教師は授業に専念することができなくなり、学校の中で店を開き、生徒たちは商売相 手にされ、無理やりに買わせられている。
「学校乱取費(学校が生徒に対してみだりに費用を徴収すること)」も社会的な問題になって いる。その徴収項目は様々である。類型からみれば、①自立型(学校、学級、教師が勝手に決め る類)でいうと、転校費・留年費・講義費・試験費・学習指導費・罰金など30種類余りある。② 被迫型(強制される類)でいうと、回虫費・身体検査費・保険費・映画費・読書費・資料費・民 兵訓練費・環境保護費・社会治安費・緑化費・文明宣伝費・電話費・道路建設費・スローガン 費・都市計画費・生育計画費・電気費等等がある珊〕。
ある小中学校は休みの期間を利用して旅館を経営し、教師はお客さんを駅まで送り、迎えに走 らされている。極端の例は、休みが過ぎてしまったのに、学校側が営利のため、生徒の登校を遅 らしている31j。生徒達の運動場や校舎の一部が貸し出しにされた例は目に余るほどある。今日に おいても、天津では、小中学校正門の両側に学校の看板と肩を並べる企業の看板がよくみられる のである。
しかし、実際に兼業や商売などできる教師は少数にすぎない。また工場が経営できる学校も当 然少数しかないのである。数多くの教師は定められた給与だけに頼って生計を立てている。
確かに、1978年以来、教師の待遇、特に社会的な地位が改善されつつあり、1985年1月と1987 年10月より2回賃金を引き上げられ、「教師の日」の制定とr義務教育法」の施行により、「師を 敬い、その教えを重んじ、人材を尊重する社会的な気運」が上昇し始めたが、経済優先と政治に 奉仕する教育の理念が根強く人々に影響し、また、中国伝統的政治の請負体制(問われるのは結 果であって、結果にいたる過程ではない)による各地の自由裁量になる財源や企業経営などによ る学校独自の財源から教師への手当を出すことが認められていることを原因に、教師実際給与の 格差が露見になってきた。社会主義の根本的理念や平均主義の思想などに強く影響されてきた教
師たちの心理的バランスが崩れかかっているのではなかろうか。
皿.r教師法』が施行されてからの教育現場の変化
国家教委主任である未開軒は、1993年12月29日にr教師法』の貫徹・実施に関するテレビ演説 で「『教師法」は新しい形勢下で教師部隊建設を強化及び完備する重要な法律である。『教師法」
の指導的思想を概括にいうと、一、教師部隊の規範的管理を強化し、教師部隊全体の素質が絶え 間なく向上することを確保すること。二、教師の合法的権利を守り、教師に有するべき待遇と社 会的地位を保障すること。」「『教師法』の根本的な目的は、良好な思想・品行の素養と有能な教 師部隊を建設し、我が国の教育事業の発展を促進し、社会主義現代化の建設事業のためにより多
くの人材を養成すること。」と言った。朱は、r教師法』の実施に当たってしなければならないこ
とを以下の通りに述べている。
一、全社会の力量を幅広く動員し、多種の形式を使ってr教師法』の宣伝を強化する。r教師法」
の宣伝・学習を通じて、全社会が教師の崇高的地位と重要的作用についての認識を高め、更に全 社会が教師を尊敬し、教育を重視する法律的意識と社会気運の形勢を促進する。
二、登β小平による中国の特色ある社会主義建設の理論は、新しい時期において我が国の一切の 工作の指導思想である。
三、当面急がなければならないことは、出来る限り速く教師給与未払いの問題をよく解決し、
教師によい新年を迎えてもらわなければならないのである。と同時に有力な措置を考えて、今後 二度と新たな未払いが起こらないように確保しなければならない。
四、国務院は1994年で各地・各部門がr教師法』を貫徹・実施する状況について検査を行う予 定である。断固としてしなければならないことは、r教師法」に定めたものは絶対に執行し、r教 師法」に合わないものは断固として停止させ、廠師法』に違反するものは法に則って処分し、
断固として法律の尊厳を守らなければならない拉〕。
1993年11月21日に発布されたr国務院による「中華人民共和国教師法」の貫徹・実施に関する 若干問題の通知」に「各地と関係部門は実際の行動でr教師法」の貫徹・実施に努めなければな
らない。当面急いていることは、1993年の年末前に教師給与未払いの問題を徹底的に解決し、教 師によい新年を迎えてもらわなければならない。と同時に有力な措置の制定を考え、今後二度と 新たな未払いが発生しないように保障しなければならない。1994年1月I日以降、教師給与未払 いについて、法律に則って関係指導者の責任を追及しなければならない。」と書いてある昭〕。
「我が国で国立・公立学校が主導的地位にあるので、教師部隊の待遇を保障するのは基本的に 各級の人民政府の責任である。だからこそ、各級の政府がいかに教育投入を増やすかというのは 教師待遇を保障する鍵に成っている。」盟)
では、r教師法」は施行されてから、教師給与未払いの現象や教師待遇の改善などはどう変化 しているかについて検討してみる。
全人大常務委員会委員・中国民主促進会副王席である許嘉瑠が1994年6月の雑誌r人民教育』
で日記を発表した。その内容は以下の通りであ糺
1993年は我が国の経済建設と改革開放の成績が最も挙げられた一年である。と同時に1993年の 下半期で教師給与未払いの現象が大幅に広がり、未払い地区の多さ・金額の大きさは未曾有であ る。緊急状況の知らせや訴状等の手紙がどんどん北京に殺到した。人々は焦り、怒り、叫び、国 務院と国家教委の指導者は自ら事情を聞いたり、監督したりして、関係省市の指導者は緊急会議 を開き、資金を調達した。一時に教師給与未払いの問題は挙国の話題になり、関心の焦点になっ
た。