〜聞き書きのこと〜
山 﨑 怜
高松市出身の児童文学作家、村山籌子評伝の著書執筆を頭に描いて50年を経過した。しかし、未だにそ の計画を実行しえないでいる。その理由はかの女が資料保存に無頓着の人だったこと、二度の東京空襲で 関係資料をほとんど失ったことにある。
そこで私は作品資料の収集に努め、漸くにその全貌らしきものを完成しつつある。もうひとつは家族、
友人、同志たち、仲間たちに聞き書きを試み、かれらが次々にこの世を去るため、沈む太陽を追いかける ように、そうした人たちを訪ね、人間としての籌子のこと、その作品のこと、交流、交友の具体的な状 況、時代の流れを聴きとって今日に至った。そのほとんどの人はすでに鬼籍の人になっている。かの女が いま生きていれば、百十歳だから、かれらの年齢も推して知るべしである。
そして、その一群の聞き書きから、私が評伝に編成して、一書をいきなり執筆することも可能ではあろ うけれども、その聞き書きそれ自体の内容があまりにも貴重で生き生きとしており、話者の人柄と個性を 反映していて、私が適宜にパラフレーズしてまとめるのは貴重な発言や回想を風化させてしまうことをお それ、私はこれまで、そうした聞き書きそのものを発表すること、そのことを評伝を執筆する事前の作業 としてきたのである。そこで、今回もその作業を続けてみたいと思う。
私がこれまでに聞き書きを発表したのは以下のものである。
県立高松高女時代(川井キヌ、浜田ソノ、造酒恵美、藤川榮子、梅津美子、岡坂嘉都子)、鎌倉時代(寺 尾志保、陣ノ内鎭、宇野重吉)、村山知義の直弟子(松尾哲次、陣ノ内鎮)、ナップ時代の友人(河野さく ら、鹿地亘、川口浩、松井圭子、佐々木孝丸、山崎功、永田一脩、まつやまふみお、猪野省三、中野重 治、原泉、蔵原惟人)、妹たち(真屋壽衛、菅井京)、知義夫人(村山濱)。
未発表であるのは以下のものである(すでに原稿化ずみのもの)。
村山知義、村山亜土、塚原俊雄(主治医)、自由学園時代(松井志づ子、近藤きよ、石垣綾子、中嶋靜 江、千葉貞子、ほか)、マヴォ時代(田河水泡、住谷磐根、ほか)、ナップ時代(岩崎昶、山田清三郎、川 尻泰司、ほか)、直弟子(松本克平)、親類(福家恭子、ほか)、兄弟(岡内昌三、岡内弘三、水谷尋)そ の他がある。村山亜土などは70編に達し、電話などの連絡・情報交換をふくめれば80編を越える。
今回は紙数の関係から次のものを発表する。
―自由学園時代の友人による―
松井志づ子(第1回、第2回)
近藤きよ(第1回、第2回、第3回)
中嶋靜江(第1回、第2回、第3回)[紙幅の関係で次回に廻す]
石垣綾子 [同上]
なお、私は籌子の生涯について必要に応じて次のものを発表している。しかし、その折々の資料収集の
不首尾により、それぞれ一定の時間的な、そして紙幅上の制約のもとに執筆されたものであり、私として は満足していない。
「ある童話作家――村山籌子のこと――」(『讃岐文学』第19号、1971年7月)
「村山籌子の生涯」(『又信』第57号、1977年12月)
「村山籌子の生涯と人間像」(日本児童文学大系、第26巻、ほるぷ出版、1978年11月)
「花と海と子どもたちと――村山籌子の生涯と文学――」(『四国新聞』1995.6.2〜1996.8.2、60編)
以上のほかにも、いろいろと執筆しているが、すべて省略。
村山籌子
――自由学園の友人による――
話し手 松井志づ子(第1回)
(中嶋靜江宅)
(前言)
村山籌子は自由学園(園長、羽仁もと子)に学び、そこで数名の親友を得た。とくに松井志づ子、秦き よ、田中綾子は生涯の親友というべき人で、渡米してアメリカで活躍した田中(のちに石垣姓)を除き、
あとの2名にお会いして籌子のことを伺うことは私の必須で緊急の課題であり、松井と秦とには何度も手 紙をし、籌子について私が発表した文章とか抜刷とか、編集した籌子の童話集などをそのたびに拝送申し 上げて面談の機会を乞うことにした。
しかし、ご病気とか諸般の事情からその機会はなかなか得られなかったが、第1候補の松井は1960年か ら61年頃に急病で倒れられたあと、人にお会いになることがなくなり、ご恢復後は日常の起居はふつうな のだが、お近くの自由学園時代の友人との交友とか、たまに婦人之友社を訪れる程度にすごされるという ことであった。そのお近くの友人に同級の中嶋靜江さんがいて、松井はその中嶋のお宅で私に「お会いし たい」といってこられた。おそらく本人が周囲の意見で友人の中嶋さんとふたりで山﨑に会うことが心身 ともに安全だということになったのであろう。親友の松井との初対面はそういう次第で中嶋との共同とい う思い出話となった。結果としていえば、これは非常によかった出会いと思われる。山﨑という籌子研究 を目指す人間との初対面を通じて山﨑を知る機会としても松井にとって有益であり、2年後には松井宅で 単独でお会い下さることになりえたのも、これがきっかけになったことと私は推察している。
お話は松井さん中心に語っていただき、中嶋さんのお話は記録しない。中嶋は終始、松井さんの聞き役 とか、思い出の確かめ役であり、みずからはほとんど語ることは避けられた。記録は松井さんのお話のみ としたい。また、この日の山﨑としては質問事項として、(1)籌子とのなれそめ(2)籌子の性格(3)
籌子が『婦人之友』に執筆するようになった経緯(4)その評判(5)本人の手紙はあるか?(6)本人 の写真はあるか?(7)本人についての感想と意思、などを伺いたい旨を述べ、お話自体はゆるやかに進 行に応じて自由な回想とご教示としたいことをおねがい申し上げた。Mは松井、Yは山﨑、文責はすべて 山﨑にある。なお、松井と中嶋の居宅は東久留米市学園町と保谷市ひばりヶ丘という両市にまたがるのだ が、両家の距離は50メートル位である。学園町とひばりヶ丘はそこに立地する自由学園(婦人之友社)が 開発した一戸建中心の学園ゆかりの人たちのための庭木の多い広大な住宅スペース。1971年11月20日午前 9時〜正午。
M 自由学園高等科には、千葉貞子、石垣綾子、近藤きよ、高橋武子(旧姓平岡)、わたしたち、中 嶋、松井がいます。〔中嶋さんが同級生名簿を示され、それぞれの住所、電話番号を山﨑は転記し た。〕
千葉さんはいまは婦人之友社の社長さんでミセス羽仁の甥の方と結婚しています。籌子さんと、
とくに親しいわけではありません。田中(その後、石垣姓)さんも、とくに親しい人ではありませ んが、籌子の事情にはくわしい人です。秦さんは籌子にとくに親しい人でしたが、近藤忠雄さんと 結婚し、今は名古屋に住まわれています。坊っちゃんが名古屋大学の教授です。夫君は40歳代くら いに亡くなられてしまいました。平岡さんは籌子と知義の結婚式で独唱されました。この中嶋さん はメンデルスゾーン「真夏の夜の夢」からのウェディングマーチを結婚式のはじまりにピアノで演 奏しました。当日は平岡さんのほか、とくに松平里子先生が歌曲をうたわれました。松平先生は昭 和7年頃に亡くなられて残念です。
Y その先生の思い出を聞けないのはつらいことです。
M 結婚式ではミセス羽仁が媒酌されましたが、その式について、あるいは知義と籌子の結婚につい てミセス羽仁は貴重な文章をかかれています。それは羽仁もと子著作集第12巻(『半生を語る』)婦 人之友社、昭和3年11月発行、255−260ページです。[中嶋さんが現物を示された。][旧版]
籌子さんは自由学園にはいられる前の女学校時代から『新少女』に判じものに投書されたり、和 歌を投稿されたりしたのです。コートの隅に「見出しにけり」として、すみれかチューリップかの 花に目を向けていた記憶があります。コートの「隅」でなく「横」だったかも知れません。
Y コートとはテニスコートのことですか?
M そうです。花はすみれのほうが覚えはつよい。
[この「見出しにけり」の文章をいまだ山﨑は発見しえていない。]
Y かの女はどういう人でしたか?
M マヴォの知義に魅せられたのです。しかし、籌子は知義を批評して構成の能力はあるが芸術的セ ンスはないといつもいっていました。
かの女は卒業してすぐに『婦人之友』の記者になられた。いろいろの記事をかき、座談会にも出 られたり、作家や芸術家を訪問したり、そしてルポールタージュの報告をしたりされましたが、童 謡や童話作品を物するようになって、記者というより寄稿家になられたように思います。人柄とし ては自由人で快活なひとでした。泳ぎが上手でした。テニスも少しですが、やっていましたね。
文章のうまい人でしたが、文章のスタイルが今までのものとちがっていて、借りものでないので す。
Y 自由学園時代の思い出はいかがでしょうか?
M 先生にはいろいろの先生がおられ、『出家とその弟子』とか志賀直哉の『和解』とかが教科書で 読まれ、別所梅之助先生の万葉集とか斉藤勇先生が教科書なしに英文学史の講義をなさいました。
ほかにドエストエフスキーの『白痴』や『カラマーゾフの兄弟』、ミルトン『失楽園』あるいは ブラック・ビューティー、ウォルター・ベイビーなどのご講義もあったように思います。参考書と して言及されたのかも知れません。アイルランド文学でイェーツのことも重要です。これは卒業記 念の英語劇で取り上げたのでした。
私は籌子さんの思い出に、すでに年老いたミス・ミリケン(米人です)の英詩の講義か講読の授 業の折、それはロングフェローのお話でしたが、一番前のほうに籌子が座って、ミス・ミリケンと
ふたりきりで話をしていたのをはっきり目にしているのです。
Y 籌子さんのクラスの評判はいかがでしたか?
M わるくはありません。ふつうです。卒業のときの感謝のことばはすばらしかった。
[この証言はじつに重要な事実に属する。籌子はわずか35名の卒業生による帝国ホテルでの輝か しい英語劇に全く出演しなかった。その代りにというべきか、ミセス羽仁のつよい配慮で「感謝の ことば」を述べたのである。友人たちが彼女を推挙したのではない。卒業生代表として「感謝のこ とば」を籌子が述べたという証言は松井ならではのものである。]
Y 自由学園以外のお友だちをご存知でしょうか?
M 知義が朝鮮に行き留守居をまもりましたが、そのときに、高松出身の藤川榮子さんが病人の籌子 さんを世話していました。藤川さんはいまもご存命ではありませんか?女流の画家でした。
お友だちのことではありませんが、知義のお母さんが婦人之友社の記者となり童話とか少女小説 とか執筆しましたね。このお母さんは藤井武師に帰依しておられました。矢内原忠雄さんの『嘉 信』もよんでいました。籌子さんはクリスチャン的ではなかったと思います。かの女の母は村雲尼 公の系統ではありませんか?
知義の朝鮮亡命時代は籌子さんは貧乏でしたので、私はいくらか援助したりしました。本を買う 資金も出しました。黙阿弥全集など。ところが終戦後は私が本を知義さんに買ってもらったので す。
Y そのほか、籌子の思い出をおねがいします。
M かの女は映画が好き。また村山槐多の絵が好きで、かれの墓の建立に寄附したこともあります。
かの女はお兄様(昌三のこと)といっしょに下宿していました。私はそこを尋ねたこともありま す。[昌三は早稲田大学の学生]自由学園の学生のときです。
服装はハイカラです。卒業式のとき洋服を着ている人はごく少数でしたが、それをかの女は着て いた。(洋服の3人組がその日に自由学園の屋上で撮した写真がある。)
しかし、かの女はオシャレではない。珍しい口紅を買ったりするが、それを口びるにつけたりは しない。
籌子は海が好きでした。海岸を歩きたがった。山はそうではありません。
かの女は夜おそくまで起きているタイプでした。
Y 外国が好きでしたから、そこに行きたがることはありませんでしたか?
M そういうことはいっていません。
Y 時代が時代ですし、病気のこともあったのでしょうか。[これに松井さんはとくに言及されな い。]
M あの遺言はお墓の文章ですね。
Y 婦人之友社との関係は?
M 友社とは亡くなられるまでつづきました。『婦人之友』誌とも。『子供之友』誌ともつきあいは最 後までつづきました。作品掲載の有無とは関係がありません。
(あとがき) この日の出会いから、婦人之友社への山﨑の紹介が松井志づ子によってなされ、婦人之友社 編集部は『新少女』『まなびの友』『子供之友』『婦人之友』各誌の、とくに初期の稀有なバックナンバー への接近とコピー化を私に許諾するきっかけがうまれた。山﨑としては感謝のきわみであった。
しかし、初対面の私は松井さんの病状と体調が不明であり、かの女の人柄とか性質もはじめて、まのあ たりとすることや中嶋さんも同席することから、聞き取りも深入りは避け、学友の氏名、住所、存命であ るかどうか、文献名とその在否など表面的、一般的なことに限定した。そこで、次の2年後の聞きとりの 記録にも「前言」をつけ、松井志づ子のこと、自由学園での親友のこと、ご病気のことなど、関連事項を 改めて再言し、さらに松井さんに面談する機会が長く与えられなかった経緯などを述べたいと思う。
話し手 松井志づ子(第2回)
(ご自宅にて)
(前言)
松井志づ子は既述のように自由学園高等科の同級生で文学通りの親友であった。籌子の親友では何でも 話しあい、短期間ながらその家庭に入りびたる第1のタイプの友人、秦きよ(のちに近藤姓)のような友 だちと、学校とか職場で親しさを重ね、何かと助けあい、生涯を通じて間断なく深く交流を重ねた第2の タイプがあり、松井は後者のタイプで唯一の友人であった。
松井は婦人之社にその人生をすべて捧げたような人物であり、籌子(および挿絵としての知義の画稿)
が『婦人之友』誌や『子供之友』誌に寄稿しつづけることができたのも松井の協力と支援によるものと思 われる。考え方や生き方にちがいがあるにもかかわらず、作品世界や人間性に深い共通感覚があり、これ を生涯維持しつづけたうつくしい友情がそこにみられたことは特記に値する。あの戦前戦中の危険な時 代、イデオロギーを異にした松井が治安維持法違反のかど4 4で再三に逮捕される夫をもつ籌子、知義をはじ め中野重治、鹿地亘、壺井繁治など数多くの入獄者を救援するため日々刑務所に通う危険人物の籌子、あ るいはさらに地下にもぐって非合法活動中の、お尋ね者である人物、蔵原惟人や超危険人物の小林多喜二 のレポとか支援者となった籌子、そして児童文学を背負って『少年戦旗』の編集に関わり、その編集長と もなった籌子、そのかの女を婦人之友社の側から生涯支えつづけたのが松井の友情であり、それは尋常一 様のものではなかった。やや大げさにいえば近代日本史上に例をみない女性間の公私の友情といえるかも 知れない。
籌子のもうひとりの親友、前述の秦は松井さんと籌子とはきれいな関係にしか過ぎず、自分は籌子と本 音でつきあったので、双方がいいもわるいも本心をさらしたから、お互いの嫌な面もかくしだてもない本 物の友情を交わしたといわれた。たしかに秦のいう通りだが、私はむしろ、イデオロギーや思想生活が全 く異なるうえ、いわば公人[以下の聞きがき文中の松井の発言参照]の松井が籌子との友情を保持しつづ けたことに、むしろ格別の意義をみるべきであると考える。しかも、結果論にもなるが、秦きよの場合、
近藤姓になって以後は夫婦単位で過ごされたこともあり、両夫婦の政治上の歩む道が異なったために、学 生時代とその直後の頃にあった個人としての女性間の友情は断ち切れたという事実がある。
これに対して、松井は生涯独身であったから気をつかう夫はなく、専らミスター羽仁、ミセス羽仁の教 えを守り、婦人之友社の中心人物としての公人たるものが籌子との友情をどう保持して行くか、自己保身 は度外視するが、友社に迷惑はかけられない、もはやイデオロギーや政治信條は同一でないから、籌子の 行動や思想にそのまま従う必要はないが、あくまで熱い友情はつづけて行くという姿勢に終始したように 思われる。
そこで聞き書きすべき人間として第1に挙げられるのは知義や亜土といった家族を除けば、松井は第1
級の方であり、私は早速にもかの女に連絡して聞き取りの準備をしたのだが、残念ながら、次のことが判 明した。かの女は昭和35年(1960)から36年(1961)頃にかけて、「ある事情」に衝撃をうけて脳梗塞と なり、記憶がうすれ、脳の働きがまだら模様になったといわれ、私などの接見をゆるさないということに なった。しかし、あとから思えば、こういう病状がどの程度重かったのか、私からの手紙や研究上の文章 が松井本人にすべてがありのままに開示されていたのかどうか、したがって私への返答がなしのつぶてで あったのは私の松井への連絡を周囲の者がいわば握りつぶして松井本人には伏せておいた事情によるな ど、すべて霧につつまれて私には不明のままである。[あとで握りつぶしたことは明らかなことが判明し たが、ここでは言及しない。]
松井は昭和43年(1968)頃にアメリカに観光旅行に出かけ、その後の疲労により病状はさらに悪化した とされている。
こうした松井の罹病後、かの女のために婦人之友社は長期に亘り陰に陽に数々の支援と配慮をされてお り、松井個人への私の手紙に対して意外にも婦人之友社から、かの女はこうした病状にあり、病状の悪化 をおそれて、人にはお会いできないといった趣旨の手紙が舞い込むということもあった。しかし、悪化を 警戒するだけでなく、聞き取り内容が友社や関係者に不具合になる[その中身が真実であればあるほど、
ニュアンスのちがいなどから、結果としてそのようになる]ことをおそれたということもありうるように 思う。先述の「ある事情」からも推察できるのだが、委細はここでは述べない。
松井については「あとがき」でも、その晩年についてしるすことにしたい。1973年11月12日午前10時30 分〜正午。以下、Mは松井、Yは山﨑、文責はすべて山﨑にある。
Y いつ、お生まれでしょうか?
M 明治35年5月31日です。1902年ですね。
Y 婦人之友社に入社するまでのご経歴をお教え下さい。
M 東京は上野、櫻木町の国鉄の官舎に生まれました。国鉄勤務の父が大阪に転勤、大阪に移住し、
大阪市南区の木津第一尋常小学校に入学、同校卒業後、大阪府立夕陽ヶ丘高等女学校に入学しまし た。しかし1年生の夏に、父が東京に転任となり、東京府立第三高等女学校に転入学、大正10年に 府立第三高女を卒業、1年間は母の病身により家事手伝いを致しましたが、大正11年に自由学園高 等科が創立され、つよく志して入学し、岡内籌子さんを知ることになったのです。〔大正10年は9 年、大正11年は10年のまちがいと思われる。この経歴部分は私への手紙で述べられたものを聞きが きの冒頭に再構成したもの。読者への便宜のためである。〕
Y 自由学園高等科第1回生の入学生は何名でしたか?
M 入学生は62名でした。しかし学業やその後の教育に堪えきれず、激減して卒業時は36名になりま した。入学は大正11年5月でした。〔大正10年のあやまりとみられる。松井には大正11年がこびり ついておられた。〕普通科は4月でしたが、高等科は創立当初であったせいか、5月でした。
同級生の中で、かの女の仲好しは秦きよ(のちに近藤姓)、田中綾子(のちに石垣姓)でした。
仲好しではありませんが、岡田礼子さんもいて籌子さんが礼子さんからお金を借りたのですが、そ の形(かた)に2分金をくれたのです。それはいまもわが家にあるはずです。探せばあると思う。
籌子と私は卒業と同時に婦人之友社の記者になりました。私は30円くらいの給料だった。私は毎 日毎日の出勤でしたが、籌子さんはそうでもなかったので、お給料は30円以下であろうかと思いま す。かの女は『子供之友』の編集にだんだん深まって行きました。
Y 『子供之友』の記者と『婦人之友』の記者とはどういう関係にあったのでしょうか?
M 混合していました。しかし、籌子はやがて『子供之友』の専任になったのです。その頃、河井醉 茗先生が『子供之友』の編集者だったと思う。
そうして、かの女は記者というよりも、だんだん寄稿家に近い立場になりました。
それは知義さんと結婚した頃からです。しかし、友社の社員を止(や)めたのではない。止める ということは自由学園や婦人之友社にはありえないのです。結婚後は一定の時間を経て寄稿家その ものになったと思います。
結婚式のことは羽仁先生(ミセス羽仁)の「吉凶一如」にかかれています。〔『羽仁もと子著作集』
の第14巻、大正13年7月の該当ページを松井さんは示された。〕自由学園出身の結婚第1号でした から、羽仁両先生もうれしかったのです。ウェディングマーチを奏した中嶋さん、独唱した平岡さ ん、松平里子先生も歌って下さいました。松平先生は亡くなりました。平岡さんの現住所はこれで す。〔松井さんは名簿から教えて下さった。〕
Y その後はどうなりましたか?
M 昭和9年か10年頃からか、ああいう人(知義を夫とする籌子のような人の意)とつきあうことが 問題だと周囲の者からいわれました。ひとつには羽仁五郎さんもつかまるということもあります。
私は公人でした。自由学園の社員ですから。公人になると婦人之友社に迷惑をかけてはなるまい。
自分も目白署につれて行かれたこともありました。警察は学園町にウロウロしていたのです。(「自 由」の名をもつことは非国民で国賊ということによる。)
Y 籌子さん宛に訪ねることはありましたか?
M 昭和5年以降もよく三角の家に行きましたね。
Y 編集長はいつからでしょうか?
M 婦人之友社の編集長は羽仁吉一先生、ですから、私が編集長になったことはありません。です が、事実上のリーダーだったことはあります。いまも編集員です。
〔じつはこの日、松井は第1回目のときに籌子の手紙はあるか?とおききした返答として、かの 女の最後の手紙をもっている、ほら、この通りと実物を両手に高く掲げて、「私の一生の宝物よ」
これは「誰にもあげられないよ」と附言されて見せていただいた。その中に籌子は盛京亭(せいき んてい)で松井から、ごちそうになったという感謝文をつらねている。粗末な藁半紙に鉛筆がき。
一枚の紙の裏表にかいている。〕
Y ここに盛京亭というのはどこでしょうか?
M 私たち高等科第1期の同級生に椎葉(しいば)富貴子さんがいました。かの女の父が経営してい た中華料理の盛京亭、新橋か京橋かにあり、戦前戦中に籌子さんとよく行きました。〔いつも松井 さんがおごられたようである。〕
Y その後の、おつきあいは?
M 私は1年間も2年間も会わないことになった。かの女に病気があり、思想問題もあり、いろいろ の原因が重なり、おたがいに遠慮することになりました。
Y 昭和9年あるいは10年頃から昭和20年8月頃まで、松井、富本一枝、藤川榮子は知義の同志や仲 間たち(危険なので会わない)とは異なり、交流を完全に断つということはなかったけれども会う ことをできるだけ控えて、ときに顔をあわすという程度のことでしょうか?
M その通りです。自由学園6回生に国井俊子さんがいます。いまは河野姓。この人は、「自由学園 の卒業名簿から自分の名前を抹消して下さい」といわれています。かの女は文章が非常にうまい
し、発想も気が利く人。婦人之友社の社員、編集にも加わりました。そのかの女に小林多喜二をか くまうことを籌子が頼みこみ、かの女が引きうけたのではないかと思っています。
俊子さんが婦人之友社編集室で「お客がある、お客様がある」といっていまして、新聞かラジオ かが小林をつかまえて死亡したニュースをつたえたとき、「大変、大変」と叫び、すぐに帰宅しま した。国井さんの本宅は仙台かどこかにあり、自由学園に俊子さん、その妹が学ぶためにお母さん と3人が子供の教育のためと称して東京に借家して住んだのです。その借家に多喜二をかくまった のです。お父上は仙台で宮城県立の工芸研究所かの所長ではなかったかと思います。
籌子さんは私に左翼運動をやれ、理解者になれなどとはいわなかった。多喜二をかくまってくれ とは私なんかにはいわれない。それは私という人間を知っているから。
私が籌子さんに会わないようなことで、ずるいと思ったこともあるだろう。しかし、この手紙に あるように私たちが信頼しあったことも事実なのです。
Y 結婚式のことが読売新聞に出たと児童文学者の槇本楠郎が籌子追悼文にかかれています。私はそ れを調べていますが、未だ、みつかりません。ご存知でしょうか?
M 知りません。結婚式にはマヴォーの一団も出席しました。田河水泡さんはそのメンバーで出席し たひとりです。その奥様の高見澤潤子さん、小林秀雄の妹さんです。田河水泡(本名、高見澤)さ んは籌子さんを知っているけれど、奥さんは知らないでしょう。〔ここで高見澤の住所、電話を教 えられた。前出の岡田礼子も同様。今後、かれらに連絡して籌子の思い出を語っていただく一助に 松井が教えられた事項である。〕
Y 松井さまの籌子への戦前戦中の経済援助のことが手紙で感謝されていますが、食事以外のことで 何があったかお訊ねいたしたいのです。
M かの女の結婚後のことです。困ったときに援助はしましたが…。本を買ったり指輪を買ったり、
いろいろと。
Y それは定期的に、ですか?
M 定期的ではありません。
Y 金額はどのくらいになりましょうか?
M (答えられない。)
Y 自由学園での学科というか、学習のちがいを仲好し同士について教えて下さい。
M 田中(石垣)、秦(近藤)、中嶋、籌子さんは英文学、平岡、椎葉、松井は家庭科です。
Y 卒業記念に奈良への修学旅行をされたようですが、その様子をくわしく知りたいのです。
M ミセス羽仁が富本一枝さんを知っていましたので、卒業生徒35名が打ち揃って豪華客船外国航路 の伏見丸の一等船客となり横浜港から神戸まで乘船し、神戸からは陸路、奈良の安堵村の富本憲吉 さんの大きな家に行きました。伏見丸に乘船したのはそこに出てくる西洋料理を食して食事のマ ナーや味わい方、西洋風の起居振舞を体験させるというミセス羽仁の教育方針です。そして奈良で は逆に古代からの伝統日本の、あるいは大和の文化芸術に接するという意気込みでした。一週間く らいのあいだ寺社を廻り仏像をみるという日々で、憲吉さんがいつも案内してくれたのです。泊っ たのは富本さんの大きな屋敷で35名全員がそこに泊りました。旅館などには泊っていません。そこ に陶器を焼く大仕掛のカマドもありました。カマドをみた籌子はこのとき、富本憲吉と一枝の芸術 生活を知ったのです。〔山﨑はこの出会いを長く重視してきた。おそらく帰京後、籌子はミセス羽 仁から富本一枝に手紙をかくこと、一枝に教えを乞う生活にはいることの許しをえて「心友」関係
をむすび、そこに生涯を賭けたと推察している。知義との夫婦生活上の不幸、宿痾として結核、戦 前戦中の弾圧下の苦しみの中で年長の一枝にどれだけ励まされどれだけ生きる力になったか、想像 に余りあると思われる。籌子は死の床から一枝あてに最後の手紙を亜土に持参させたのもむべなる かな、である。松井への手紙は書留速達で郵便だったが、消印部分の1部が開封時のハサミで切り とられて日附(6月はよめる)が確認できないため、どちらが最後であるかは断定できないが、二 旬か三旬のうちに自分は死ぬと予感している病者の最後の2通の手紙を誰にかいたかはその内容と ともに評伝の上で決定的に重要なことである。
あの、籌子はわたしの体はきれいでしょと押し売りをしました。自慢です。暗示にかかる位いわ れました。純粹な人でした。知義が純粹な意味で芸術家でないことを見拔いていました。知義が 佐々木ふささんとの関係が取沙汰された頃、籌子は惟人さんのことをいつもいっていました。かの 女によると惟人は親切で声がきれいで、やさしくて、ああいう人と結婚していたらよかったといつ もいっていたのです。これはしょっちゅうでしたね。知義さんのときは、かれを王子さま、王子さ まといって、かれを獲得して意気揚々としていたくらい。今日、王子さまいるよといって原稿とか 画稿とかを賴みに行っていました。
Y 『婦人之友』誌に関東大震災のとき、市川のほうに連れだったSという人が「焼ける夜の旅」と いう文章中にかかれていますが、ご存知ですか?
M それは早稲田大学の人です。郷里の人と思います。これは籌子さんから聞きました。ですから順 序として、その男の人、次に知義、その次は惟人となるかも知れません。
Y 知義のお母さんとの関係が話題になりますが、いかがでしょうか?
M 籌子は村山のお母さんを僞善者のようにみました。矢内原忠雄さんがお嫁さんがお母さんを大事 にしないと籌子を非難したのです。立派なお母さんをよくみないという非難でした。籌子のは自分 を主張する純粹性、元子さんは自分をなげだす純粹性、あるいは自分を犠牲にする純粹性。だから 籌子はお母さんが純粹なだけに全部僞善にみえるのです。息子の知義がわがまま、ああいう息子が 出来たのもお母さまがなせるわざと考え込むようになったのです。その点では知義もいい迷惑〔お 母さんにとって〕だと思います。
Y 籌子さんは淸洲すみ子について何かいわれたことはありませんか?
M 何もいっていないと思いますが、困った人を助けるという意味のことをいったようにも思う。し かし、あまり覚えていません。〔この部分は籌子が困っていた淸洲すみ子を助けるということを述 べた記録のようである。〕
Y 籌子の医者として塚原先生のほかにおありでしょうか?
M 塚原先生以外の医者はあまり知りません。
Y 籌子さんが童話をかきはじめた具体的な動機はおわかりでしょうか?
M これは知義に聞いて下さい。かれの影響もあると思います。知義には、もともと工芸的なとこ ろ、絵画的なところがありました。籌子のほうは、合理的なことが大好きで、集塵の電気掃除機な ど、金がなくても買うのです。箒は塵埃の場所移動であり、しかもすべてを除去できないというの です。
Y 犬を飼ったのは実益と趣味と比較して、かの女の場合、どちらでしょうか?
M 趣味が先行して実益を兼ねたのです。犬はかの女にそむいてこないのです。
Y 例のテニスコートの脇の花の短歌は未だにみつかりませんが…。
M 詩作に専念して籌子が応募した頃、選者の佐藤春夫から誉められたものが『婦人之友』誌にあり ましたね。
Y それは短歌でなく詩ですね。知義と籌子の関係ですが、知義は籌子をもてあますということはな かったでしょうか?
M そんなことはありません。それはそれとして、清洲さまは村山のお母さんが息子の知義にかしづ いたように、かしづいているのだろうか?
Y 私にはわかりません。ところで最後に教えて下さい。籌子の疎開先、鎌倉へはいつ行かれたので しょうか?
M 亡くなる前に、一度行きました。日帰りだった。〔前述の最後の書留速達はこの訪問のすぐあと だったのである。〕また亡くなってからも鎌倉へ行きました。お通夜とか鎌倉での密葬には行って いません。丸の内の保険協会講堂での告別式(本葬)には行きました。知義は自由学園明日館での 告別式(本葬)を希望されましたが、思想的なこともあり、私はおことわりしたのです。ですから、
保険協会での告別式での私の役割、役柄はありません。これはいい会だったと思っています。富本 さんが弔辞をよんだのも、じつによかった。
(あとがき) 以上はできるかぎり松井志づ子の発言を彼女の表現とか、ことば遣いとかにも忠実に聞き書 きとしたものである。村山知義に籌子を知る女性の親友はだれであるかを訊ねたとき、いのいちばんに挙 げた名が松井志づ子であった。そこで何よりも、かの女を訪ねて聞き書きとすべく努めたが、既述の理由 で容易でなく、漸く実現したのが以上にしるした二度の機会だったのである。そして松井ならでは貴重な 思い出を腹蔵なくお話下さったことに感謝のことばもない。じつに生き生きとした籌子の人間と生活と志
(こころざし)の原点が手ざわりをもって示していただけたのである。
松井による聞き書きは回想だけでなく、籌子の交流した友人とか調べるべき文献とか、かの女の童話作 品や大人向きの文章とかの探索についての情報など、数々のデータに関するものが多く、その一々を聞き 書きとしてアクテュアルに記録することは避けたので、ここに会話形式にしるしたものがそのすべてでは ないことをとくにご理解たまわりしたい。〔一例を挙げれば高等科2回生の矢川民子(旧姓大塚)の住所 も教えて下さった。これも籌子研究の関連事項多きゆえである。〕
発言にある「告別式」は「村山籌子さんにお別れする会」が正式名称。本人のいう通り葬儀委員も務め ず弔辞もよむことはなかった。富本一枝は葬儀委員で「故人の思ひ出を語る」メンバーのひとり。残され た弔辞文に富本のものはない。「思ひ出を語る」富本を松井は弔辞とみたのか、それとは別に弔辞がよま れたのかは不詳。私は、籌子の告別式の席で富本が語った内容がかの女の生涯の評伝の上で最大の意味を もつと考えるが、いまは確認できないのである。痛恨のきわみというほかはない。
松井は既述のように現役として婦人之友社で働いていた昭和35〜36年(1960〜61)頃に「ある事情」が 重なり(くりかえすが詳述は避ける)、体調不全(脳梗塞)となり、昭和43年(1968)頃にアメリカに観 光旅行、その後に疲労から病状が進行、昭和50年(1975)のはじめに白十字病院に入院、同年7月に退 院、昭和52年(1977)2月急変して同病院に再入院、同年9月に退院、昭和54年(1979)5月に再々入院、
昭和56年(1981)7月から点滴のみとなって、9月24日早朝に逝去、同月30日告別式が婦人之友社の明日 館であり、同級生20名のうち10名が参列、同年11月29日に多摩墓地に埋葬された。千葉貞子による追悼文
「友情の花につつまれて」が『婦人之友』第75巻第11号、昭和56年11月に掲載。籌子も彼岸から参列、か なしみをもってかの女を出迎えたであろうと私は思う。私にお会いいただいたのは1971年と1973年の、や
や、おだやかな頃だったとみられる。
なお、松井志づ子のイデオロギーを越えた友情は知義に対して無署名で毎号の『婦人之友』誌へのカッ ト類の仕事や婦人之友社の出版物、例えば料理本の同じくカット、挿絵や表装など数々の仕事を人知れず させていることである。これは『子供之友』誌以外の仕事として注目すべきことであり、しかも、それは
『子供之友』誌との関係を絶った以後もつづいたのである。それは妻である籌子の生活へのひそかな応援 であり支援であった。
さらに、もうひとつ追言しておきたい。松井の病状が徐々に悪化して、昭和50年(1975)7月から川合 道さまが婦人之友社の意向で松井のための附添ヘルパー(住み込み)になられた。私が松井に再訪希望の 手紙を差し上げるたびに、あるいは籌子論の抜刷や籌子作品集をお送りするたびに、松井に代って、それ を受けとり、それをよみ、どう対応しどう返事するべきかの立場におかれた。私への返事はほとんどな く、川合さまは内々に友社の千葉貞子さんに相談して、どうすべきかを話しあったようである。結果は私 への連絡はすくなく、川合さまはご自分の判断で松井さんの病状や読書はもちろん新聞の一字もよめず、
会話もほとんど不能な事情を手紙にかかれ、やがて私は川合さんご自身との親交を重ねることとなった。
1年程度の経過で病状がそんなに重くなるとは私は信じられなかった。川合さまはわざわざ高松の拙宅に お見えになり、6年3ヶ月に亘る松井志づ子との生活、松井の見事な人柄、重篤と逝去前後の日々を語ら れた。詳細は省く。私は「一生の宝ものよ」「誰にもあげられないよ」とした籌子の最後の手紙(現物)
の行方を尋ねた。川合さんは「見たこともない。そんなものがあったのですか?」といわれるのみ。藁半 紙の粗末な用紙、鉛筆の走り書き、紙屑同然のもの。それはいまどこにあるか?手紙の内容と筆跡は松井 の好意によって私はすでに公表している。「続・村山籌子(1903-1946)をめぐって」(『香川大学一般教育 研究』第43号、1993年3月)。私の手元に松井からの手紙が6通(封書4通、絵はがき2通)があり、昭 和46年12月6日から昭和50年1月16日消印のもの。いずれも達筆、流麗な文章である。
話し手 近藤きよ(第1回)
(ご自宅にて)
(前言)
近藤きよ(旧姓、秦)は自由学園高等科第1回生(卒業者数は36名とされている)のひとりで、籌子の 親友であり、お互いに裏表なしに個人的に交わった文字通りの「悪友」であり、「良友」であった。仲間 は田中綾子(後に石垣姓)、きよ、籌子の3名。異端の3人組といわれた。反羽仁が田中、非羽仁が秦と 籌子で、秦は反に近く、籌子だけは非羽仁だが、羽仁を尊敬し、超親羽仁の松井志づ子と親しくした。そ ういうなかで、籌子は学生時代および卒業後の数年間は秦とは特別に親しくしたので、若き籌子を語る上 で秦の証言は貴重である。
秦きよは秦佐八郎(梅毒の特効薬606号を発見した細菌学者。北里研究所員、副所長、慶応義塾大学医 学部教授)の長女で、のちに眼科医の近藤忠雄と結婚。近藤は三高、東大を経た人で新人会会員、治安維 持法違反で逮捕された。転向後コミュニズムを去った。仲好しであった秦と籌子はこういう経緯から、の ちは疎遠となり、戦時中はとくに交流がなかった。しかし、若き籌子が自分を全くさらけだして交流した のは秦きよであり、きよとの交友をあきらかにしないでは籌子の評伝は完成しない。以下ではほとんど知 られていない事実を含めて近藤きよの聞き書きを記録する。
近藤は自由学園の生徒のなかでは、いわば大物で指導者的立場にあった。卒業時の生徒たちによる大行 事であった英語劇(帝国ホテルで上演)ではその実行委員長(委員12名)であり、裏方として、すべてを 執り仕切ったし、在学中の諸行事でも活躍した。シャイで社交的でない籌子とは大違いである。籌子は近 藤の都会的な見識、意志力や実行力、かくしだてのない明快さを頼りとしたのではないかと私は想像して いる。
1922年6月9日、10日の校舎新築落成報告会での学園生活の報告は松井志づ子と秦喜代子(きよを変え ている)の両名が「われらの学習」と題して「演説」、籌子は「培われた心」と題して「朗読」となっている。
「演説」とは原稿なしなのであろう。きよの肉太の性格はあきらかであろう。
秦が学生時代および卒業後もその「大物」ぶりの活躍をしたことは学園の資料、『婦人之友』誌上に明 白だが、非羽仁とみられて、親羽仁の友人が記録する自由学園史にはあまり登場しない。反羽仁の石垣は もちろん、籌子の名も登場すべきところに登場しない。『婦人之友』に高等科の生徒が書いたルポルター ジュの記事(『自由学園のI』でも、山内壽子、松井志づ子、田中綾子の表題と氏名はあるが、籌子のも のに触れず、「などの記事」とされている。ほかにもいろいろあるが、ここでは言及は避けたい。
その秦と籌子とは村山知義をめぐって競い合った関係にあった。この事情に籌子本人はどのように理解 していたかが、かならずしも不明であるが、近藤、当時の秦のほうは十分に分かっていた。結果からいえ ば、秦は身を引いたことになる。
知義は『自叙伝』でこう書いている。
籌子のほか、「もう一人、クラスメートに有名な梅毒のための六〇六号という薬を発明したという医学 博士の娘さんがあって、張り合うようになったのもいけなかった。彼女[籌子]はオーヴァー・ランして しまった。」さすがに名は明記していないが、ふたりが競(せ)り合ったこと、その「張り合い」の中で 籌子が一線を越えてしまったとしている。
親友である両名がこういう関係にありながら「絶交」という形をとらず、その後も交友をつづけた事実 をどうみるか、私の検討課題のひとつである。以下の聞き書きで秦さんが「私にも忘れたいことがある」
などといわれていることと関係があるかもしれない。個人的な親しさの程度においても、もっとも深かっ たといえる秦きよこと、近藤きよが籌子を一方的に美化してはいけないということばを述べたことを私は 重視している。しかし、同時にきよさんが籌子のイメージをこわしたくないと制動をつづけられたことも 付加しておきたい。籌子の純情さ、高貴さはそれほどに否定すべくもない事実であった。
籌子の長男、村山亜土は母の生涯を描いた『母と歩く時』で籌子をめぐる女友だちを論じ、松井志づ子 に次いで秦きよをとりあげた。
「母は終生「ハタさん」と呼んでいた。池袋にすんでいて、御主人は眼科医、一郎君という私と同年の 長男は、自由学園の小学部に通っていた。この人もよく母の『書簡集』に登場する」として、籌子の知義
(獄中)宛の手紙の一部を引用する。
「此頃秦さんがよく遊びに来ます。洋裁を習いに行っているそうで、そのうち銀座へ店を出すんだそう です。そして私をデザイナー兼マヌカンにやといたいんだって。私、大いに賛成致しました。」
学生時代とかわらぬ、ふざけた友情がつづいていた。亜土は松井と秦と籌子の三人を論じて、ケラケラ 笑っている三人をお猫さんやアヒルさんにかえれば、「そのまま、母の童話になってしまう」という。
そこで私は自由学園時代の松井志づ子と秦きよに何よりも連絡を心掛け、手紙を出し、また訪問の機会 をうかがったが、ほとんど、応答されず、やまさきは立ち往生のほかなかった。おふたり共に、50歳台の おわりから60歳台前半頃に病(やまい)に倒れ、その体調から見知らぬ第三者に会って、昔の友人のこと
の調査に耐えられない、というのが、本人の家族、介護者、関係者のいい分であった。あとから分かった ことだが、やまさきの本人宛の手紙は周囲の者が開封してよみ、本人には示されなかったことも多く、ま た、本人の体調はそれほど悪いわけではないにも拘わらず、とくにお会いして質問や調査に応ずる必要は ないとして、むしろ周囲の者により、やまさきは無視されつづけたようなのである。
しかし、私は籌子についての文章や作品集を編むたびにそれをご本人に送付申しあげ、私への御返書を 乞い、また、可能ならば訪問に応じていただきたいことをくりかえしお願いしたのだった。松井志づ子さ んとの応答は松井の聞き書きの際に述べたので、秦さんとの件のみをここでは記したい。
1、2年か数年間かの応答なしがつづいたあと、昭和48年(1973年)6月10日付消印(本人は日付なし)
にて、一通の封書により、きよ本人からご返事をたまわった。私のよろこびは格別なものであった。その お手紙をいくらか紹介する。はじめに「健康が勝れず、ついつい失礼しました」とあり、「お尋ねの件、
何にも余りに時の経過しましたので、はっきりと記憶したことが少なくご期待に添えない」としつつ、項 目ごとに簡略に記されている。私も私の手紙をコピーしていないので、質問事項は想像するほかないが、
とくに(八)については、籌子の人間関係のことか、あるいは作品(未知の)についての探索とか、自由 学園時代の学生間での紙誌についてのことかも知れない。
「(一)初対面は自由学園に入学の時で、さいごは亡くなられる少し前、お見舞に伺った時です。/(二)
籌子さんとは自由学園高等科の同級で御親しくしておりました。/(三)籌子さんは、とても無邪気で汚 れない性格で、文学的才能に優れておられました。/(四)お手紙、お写真は残念ながらございません。
/(五)童話は婦人之友社から出ておりました『子供之友』に書かれていました。/(六)籌子さんのお なやみ等は余りくわしく伺っておりませんでした。/(七)高松にはお伺いしたことは御座いません。/
(八)については私には心当たりが御座いません。」
質問事項のそれぞれにこのように書かれたあと再度「大変簡単な御返事で申し訳ありませんが、自分に も余り前のこととして思ひ出すことができませんで、すみません。/自由学園時代は親しく御つきあいし て居りましたが、結婚後は余り近しく致す機会もなく過ごして居りました。只、籌子さんはほんとに素直 な心の自然児のやうな方でした。何事にも純真な気持ちで生活されておられました。才能的にもよいもの を沢山もっておられ乍ら、若くしてなくなられ、ほんとに残念でした。」(後略)と記されている。
私が籌子に関する文章をお送りしているとはいえ、秦さんからすれば、やまさきは見ず知らずの人間で あるから、そういう第三者に籌子について、知っていることのすべてを述べるわけにはいかない、とくに 籌子のマイナス面を述べるわけにはいかないと見えて、ほめ言葉に終始しているのである。
私としては、このお手紙だけで満足することはできない。あくまで、秦きよさんにお会いして、じかに 籌子について伺いたいとの思いは募る一方であった。
そうして、その時を得たのが、このお手紙から半歳後、昭和48年(1973)11月16日、春日井市のご自宅 であった。私はこの第1回の聞き書きのみでは不十分であるので、その後もこの程度の時間をゆるしてい ただき、第2回、第3の聞き書きを希望したのだったが、すべて高齢とか病気とかの理由で、家族(主と して、ご長男の令室)から断られた。本人自身が私に会うことをどのように考え、どの程度に消極的で あったかは未だに分からない。
以下の聞き書きはこの意味で、千載一遇のチャンスであったことである。
以下、Kは近藤(旧姓、秦)きよ、Yはやまさきである。文責はすべて山﨑にある。
Y 今日はお話を承わることとなり、うれしく存じています。
ご存知のように高松に籌子の墓があります。行かれたことはおありでしょうか?
K 行ったことはありません。私の主人は琴平出身の筈です。丸亀中学(現、丸亀高校)を4修で卒 えて三高に進み、東大の医学部を出ました。私の父も香川出身であり、主人も香川育ちなので、籌 子さんが香川県の思い出話を父や主人としたと思います。
Y 自由学園のことですが、どんな思いで入学されたのでしょうか?
K 私は女学校の先生の影響でミセス羽仁の学校を受験したのです。はじめは津田塾をうけようとし たのですが、長い間かかる(5年間)ので嫁に行けないといって、父が受けさせなかったのです。
それで一般の入学試験のあと、ひとりで自由学園の高等科を受けたのです。新設のため、入学日が 5月だったので、それが可能だったのです。
高等科は2年制ですから、修業年限は短い。父が許したのもそのせいでしょう。母が『婦人之 友』誌を読んでいたのも何かの誘引になったと思います。高等科はミセス羽仁が長女の説子さんの 学ぶ学校として新設したので力がはいっておりました。自由学園の女学校のほうは恵子さんのため でした。尤も病気のため、説子さんは高等科の第2回生になりましたが…。
Y 高等科の学生の母親の多くが『婦人之友』誌の愛読者だったといわれています。近藤さんはその 点でも学友の多くの方と同じです。籌子の母も愛読者でした。
K 私は2年で卒業するのは嫌だとして、英文科のみだったか、特別学級にはいったと思います。私 は羽仁もと子先生の教学の助手をしました。それは外人の先生とのつきあい、また適当に時間を配 分して勉強もしました。ほかには、手芸を教えるもうひとりの人といっしょに生徒に手芸を教える ことも致しました。籌子さんのほうは婦人之友社の仕事だけでした。多分、作家訪問記をしていた と思います。
籌子さんははじめの頃はお兄さん[岡内昌三のこと]が早稲田の学生でありましたので、そのお 兄さんと同宿していました。目黒でした。私の家が目黒でしたから、よく、いっしょに帰ったもの です。
後には矢部さんの家に下宿していました。よく遊びに行ったのでしょう。この矢部さんは社会運 動家、社会主義者であったように思います。林房雄や志賀義雄さんが学生時代、つまり新人会のと き、その方たちがそこに集まられたのではありませんか?
Y 三人組について教えて下さい。
K 岡内、秦、田中が三人組といわれていました。2年間つづけて三人とも同じだったのです。全部 で5つか6つの組に分かれました。松井志づ子さんは別のクラスでした。三人組は黙って聞いてい ることもあるが、ミセス羽仁にも反論したり疑問を提出したりするタイプだった。松井さん風の従 順な、また忠実なタイプではなかったのです。芸術、音楽、文学の話では、三人だけが通じあった のです。さらに、私たちはいつも自分をさらけだして過ごしたものです。
籌子さんはミセス羽仁が厳格すぎるといっていました。しかし、今になって、ミセス羽仁と同じ 位の年齢になった今では、あの頃のミセス羽仁のいうことが分かってまいりました。また、あの学 校はミスター羽仁の「政治力」で育てられたと気付きました。
Y 籌子さんにアダ名はなかったのですか?
K アブちゃんといっていました。狭い三人組内部のことだと思います。
Y そのアブはどこからきたのでしょうか?
K アブノーマルのアブです。どこがアブノーマルかというと、おなかが痛いとすぐいう。銀座あた
りでチョコレートキャンディやおスシなどを食べると、おなかが痛いとすぐいうのです。子供っぽ くいう。食べることは止(や)めないで食べていたい。非常識な所がありました。節制することを しなかったのです。
それに較べて、松井さんはじつに優等生でした。その松井さんが籌子の文才とか、正直さ、天真 爛漫さなどをみとめたのです。ミセス羽仁もそれを認めていました。
結婚式に媒酌をしたのも、ミセス羽仁が、それらを認めたからです。
Y 籌子についての思い出をいま少し語って下さい。
K かの女は村山槐多の画が好きでした。槐多の複製画を買うために古本屋に行こうと、かの女から 誘われたことがあります。そういえば、村山桂次という農民芸術の人を尋ねるために信越線の、と ある駅に出向いたことがあります。かの女が誘って……。また、その桂次さんといっしょにやって いた版画家、永瀬義郎という農民芸術、あやつり人形劇の方を尋ねたりもしたのです。また、桂次 さんの弟さんかも知れませんが、その方に詩のような手紙をかいていたりしたかも分かりません。
ともかく、自分が好きなことに積極的で、私はそれにつきあわされていました。
田中(石垣)さんのほうは卒業後、林房雄や志賀義雄のほうに近づいて行きました。籌子さんは 自由奔放ではありますが、左右は問わず、夜おそくなってザコ寝するような関係、一種独特な乱脈 な関係は嫌な人でしたから、そういう運動はしなかったのです。田中さんは男たちとザコ寝してで も活動できる人でした。そういう活動をしていたのではないかと思います。[主義としても行動と しても田中綾子さんがいちばんすすんでいたようにやまさきは聞いた。]
Y 村山知義との関係はどんな風でありましたか?
K 知義さんは当時10種の芸術をしていたといわれました。出来ないのは歌うことのみだと本人が豪 語していたのです。
ふたりの間では籌子さんのほうに熱がありました。知義にあこがれぱなっしでした。田中さんは 籌子を子供だとみていました。われわれはいずれ相手の化けの皮が破れるといっていたのです。
籌子は尊敬しての知義宛の手紙を書いて、これを知義さんの三角の家にある牛乳箱にいれたり、
いろいろの手段で、ドアの下から入れたりしたのです。行きたくて行きたくてしようがない。落合 の家の付近にうろつくのです。ひとりで行くのが恥ずかしく、いつも私を連れて行くのです。
ミセス羽仁がこれをかぎつけられ、知義さんは呼びつけられ、ふたりの結婚をうながしたと思い ます。
結婚前にも村山さんのところに泊まっていました。夕べは泊まったということもいっていまし た。
結婚式は大正13年の夏、私は出席しただけでなく、かの女の婚礼の衣裳、上が赤のブラウス、下 は真白のプリーツ(こまかいヒダがあります)を私の母に手伝ってもらって作ったのでした。かの 女の日常に着るものも私がほとんど作ったのです。
Y 買うことはなかったのですか?
K いいえ、買ったものもあります。しかし、一寸変わったもの、オリジナルな工夫がいるものはほ とんど私が作ってさし上げたのです。
結婚式は目白の自由学園の食堂でしました。
Y 新婚旅行はしたのでしょうか?