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岩井克人( ) 『会社はこれからどうなるのか』平凡社

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岩井克人( ) 『会社はこれからどうなるのか』平凡社

―― 株式会社論からの批判的考察 ――

山 口 尚 美

.は じ め に

本稿は,岩井克人氏の 年の著書『会社はこれからどうなるのか』(平凡社)の 書評論文である。

著者である岩井克人氏は,経済理論を専門とする日本の経済学者である。東京大学 経済学部を卒業後,マサチューセッツ工科大学で経済学博士(

Ph. D.

)を取得してい る。カリフォルニア大学バークレー校研究員,イェール大学経済学部助教授,コウル ズ財団上席研究員,東京大学経済学部教授,同大学学部長などを経て,ベオグラード 大学名誉博士号を取得し,国際基督教大学客員教授,東京大学名誉教授,日本学士院 会員に選定されている。 年には紫綬褒章を受章, 年度には文化功労者に選 出されており,優れた学術功績に加え,文化への功労を顕彰されている。

岩井氏は,経済学の分野では,不均衝動学やシュムペーター動学の発展に貢献し,

独自の視点から「貨幣論」を展開するなど卓越した業績を挙げている。本書の底本と なる 年の著書『会社はこれからどうなるのか』(平凡社)もまた,小林秀雄賞に 選定されており,高い学術的評価を受けている。

以下,本書の内容と成果を紹介するとともに,株式会社論の視点から,若干の批判 的考察を試みる。

.本書の概要

年代以降のグローバル化の潮流の中,各国の資本主義はアメリカ型へと収束

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していくことが必然であり,アメリカ型の株主主権論を基軸とした会社のあり方が

「グローバル標準」になるとする言説が流布している。この考えに対し,本書は,ア メリカ型の株主主権論が,今後の会社のあり方のグローバル標準にはなり得ないこと を示している。その根拠として,⑴ 会社は株主のものでしかないとする株主主権論 が,法理論上の誤りでしかないという点,⑵ 世紀の資本主義において,カネ(資 金)の重要性が大きく低下しているという点を挙げている。

本書はまず,「会社とは何か」という点について,「法人」の概念から説明する。法 人である「会社」は,たんなる「企業」とは異なり,モノとして株主から所有される と同時に,ヒトとして会社資産を所有するという「二重の所有関係」のもとに置かれ る。岩井氏によれば,ヒト(株主)に対してはモノ(株式)としての役割を果たし,

モノ(会社資産)に対してはヒトとしての役割を果たすという法人の二面性こそが,

株式会社の基本構造となる。

会社をモノにすることも,会社をヒトにすることも,ともに会社制度に組み込まれ た仕組みである。それゆえ,企業集団を形成し,株式持合いを行うことで,敵対的買 収の脅威を逃れてきた日本の会社のあり方は,「会社を純粋にヒトにする」方策をとっ ていたにすぎず,会社という制度からの逸脱ではなく,会社という制度が可能にする 形態のうちのひとつである。こうして本書は,アメリカ型の株主主権の会社だけが,

唯一の会社のあり方ではないことを主張する。

モノとして扱われるアメリカ型の会社の場合,つねに敵対的買収の脅威に晒されて いるため,個別組織の中でのみ価値をもつ「組織特殊的な人的資産」は蓄積されにく い。逆に,ヒトとして機能する日本型の会社は,外部の株主による奪取の心配がない ため,従業員が組織特殊的な人的資産に投資しやすい仕組みになっている。

本書は,人間の知識・能力が利潤の源泉となる「ポスト産業資本主義」の時代にあっ ては,株主主権的な会社はグローバル標準とはなり得ず,むしろヒトとしての会社の あり方が重要になることを示唆している。

産業革命を契機として誕生した「産業資本主義」の時代には,利潤は,産業革命に よって上昇した労働生産性と,農村部の過剰人口によって抑えられた実質賃金率との 差から生み出されていた。カネを出して機械性工場のオーナーにさえなれば,利潤は

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ほとんど自動的に生み出された。

ところが 年代に入り,農村部の過剰人口が枯渇し,工場労働者の実質賃金率 が上昇するようになると,ただ機械性工場を所有しているだけでは利潤を生み出すこ とができなくなったのであり,カネの重要性は大きく低下した。これが,ポスト産業 資本主義の時代である。この時代にあっては,利潤を生み出すためには,新技術の開 発,新市場の開拓,新組織の導入などの形で,意識的に「差異性」をつくり出してい かなければならない。そのような差異性を生み出す源泉とは,経営者の企画力,技術 者の開発力,従業員のノウハウといった知的資産である。

差異性をもつ知的資産を絶えず生み出し,その機密情報を囲い込むためには,個性 的で強い企業文化をつくり出すことが必要になる。しかし一方で,企業文化が個性的 であればあるほど,投資しなければならない人的資産の組織特殊性は高まるのであり,

従業員にとっては大きなリスクとなる。このとき,会社が純粋にヒトとして機能し,

敵対的買収の脅威を免れているということは,従業員による組織特殊的な人的資産へ の投資を促進するインセンティブとなる。

以上のとおり,産業資本主義からポスト産業資本主義へと移行し,カネの力が弱体 化したことの結果として,資金調達手段としてのモノである会社の役割は後退し,逆 に組織特殊的な人的資産を株主から保護する垣根としてのヒトである会社の役割が前 面に出るようになった。

.本書の成果

アメリカが牽引するグローバル資本市場の影響力が世界的に広まる中,各国の資本 主義はこれに適した形へと収斂していくことが必然であるとする考えがある。この考 えに対する反論として,とりわけ政治経済学の分野では,「資本主義の多様性」をめ ぐる研究が盛んに行われている。そこでは,自由主義的な市場経済への収斂論を唱え る新古典派経済学的な予測とは異なり,多様な資本主義タイプが必然性を持って存在

( ) 語義の上では,「収斂(convergence)」に対しては「分岐(divergence)」を,「多様性

(variety)」に対しては「一様性(uniformity)」を用いることが適切であるが,当該研究 領域における今日の慣用としては「収斂性」と「多様性」が対語をなす。

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していることが強調される。その基本的主張は,各国の資本主義は各国固有の諸制度 の補完関係(「制度補完性」)のもとで整合性・合理性を持つものであり,世界はそれ ぞれ比較優位性を持つ多様な資本主義タイプの共存から成り立っているというもので ある。

本書もまた,アメリカ型のコーポレート・ガバナンスをグローバル標準とする収斂 型の考えに異を唱えるものであるが,そこでは「会社のあり方」という,制度補完性 とは異なる視点から資本主義が説明されている。法人たる「会社」に関する法解釈を 示し,「会社の信任受託者」としての経営者の役割を浮き彫りにすることから,株主 主権論とは一線を画すコーポレート・ガバナンスの可能性が提示されている。それと 同時に,カネの相対的価値が低下しているポスト産業資本主義にあっては,差異性を 創出できる新たな会社の形態を考えていく必要があることが指摘されている。これま で別々の主題とされてきた「資本主義論(資本主義とは何か)」と「会社論(会社と は何か)」を結びつけて議論したことは,本書の大きな学術的貢献であろう。

.「会社とは何か」に関する本書の主張(第 章・第 章)

以上の大きな研究成果を認めながらも,本稿の以下の部分では,「会社とは何か」

に関する本書の主張に対して批判的考察を試みたい。本書の第 章,第 章に示され た岩井氏の見解を要約すれば,次のとおりである。

岩井氏は,「そもそも会社とは何か」ということに関する「正しい会社法理解」を 示すことから,会社を株主だけのものとする株主主権論の考えを,「法理論上の誤り」

として否定する。岩井氏は,会社の基本構造を「法人」の概念から説明する。

法人とは,自然人ではないものの法律上の人格が認められ,それゆえに権利・義務 の主体となる存在のことである。法人化された企業である会社は,モノでありながら ヒトであるという二面性を持つ。このことが,会社と,個人企業を典型とする古典的 企業との相違をなす。

会社をヒトとして扱うということは,会社を「モノを所有する主体」として認める ことを意味する。このヒトとしての会社に所有されるモノが,会社資産である。つま り,会社資産の法律上の所有者は,株主ではなく,法人としての会社である。株主は,

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会社のモノとしての側面である株式を所有するにすぎない。このように会社は,モノ として株主から所有されると同時に,ヒトとして会社資産を所有するという二重の役 割を果たすことになる。

ただし,法律上はヒトとして扱われる会社であっても,実際には自然人と異なり観 念的な存在であるから,自ら意思決定や活動を行うことはできない。そこで,会社機 関を構成する自然人の意思決定や活動を,会社のそれと認める必要がある。代表取締 役である経営者が会社の「信任受託者(fiduciary)」として,ヒトであるものの実際に は脳や手足のない会社の代わりに,会社資産の管理・運用を行う。

このことからすれば,経営者は会社の代表機関として,会社の利益に忠実に行動す ることが義務づけられた存在であるといえる。その地位は,決して委任契約に基づく

「株主の代理人」として存在するわけではない。ところが株主主権論では,株主と経 営者の関係が,あたかも「個人企業における所有経営者」と「彼に(自身の代理人と して)経営を委任された人物」の関係と同一であるかのように誤解されている。

岩井氏によれば,会社を株主のものでしかないとする株主主権論は,「本来二階建 ての構造をしている会社という仕組みの二階部分のみしか見ていない,法理論上の誤 り」(岩井 頁)である。本来モノであると同時にヒトであるはずの会社が,

単なるモノとしてしか理解されていないのである。

以上のように,岩井氏は,法人である会社をめぐる所有関係を明らかにすることか ら,株主主権論の考えを,会社と個人企業とを混同した「法理論上の誤り」であると して否定する。かかる岩井氏の所論は,現行会社法の正しい解釈を示すことから株主 主権論を批判するものであり,自身も述べているとおり,「会社法早わかり」の色彩 を持つものとなっている。

.岩井氏の所論の検討

以上の岩井氏の主張に対し,本節では,コーポレート・ガバナンスの問題をわが国 の現行会社法の枠内で論ずることの限界を指摘すると同時に,かかる岩井氏の法学的 見解が,現代の株式会社の社会的機能を見落としたものとなっていることを指摘した い。

(6)

⑴ コーポレート・ガバナンスは「法人」の問題か

岩井氏は,「株主の代理人」ではなく「会社の信任受託者」である会社経営者に信 任義務を守らせ,その行動を会社の利益に向かわせることがコーポレート・ガバナン スであるとしている。コーポレート・ガバナンスの問題を,ひとえに会社が法人であ ることによって生ずる問題であると考え,株式会社の経営者の性格を法人概念からの み断定している。かかる岩井氏の見解を吟味するため,株式会社における経営者の性 格がいかなるものかを,法人に関する法学的解釈の視点ではなく,株式会社論の視点 から検討したい。

株式会社の経営者には,所有経営者と専門経営者の両方があり得る。創業間もない 小規模な株式会社では通常,多額出資者である同族の大株主(支配株主)が自ら経営 を担当し,他の多くの小額出資者である零細株主は経営には関与せず,配当を受け取 るだけの存在となる。前者を機能資本家,後者を無機能資本家と呼ぶ。機能資本家は,

株式会社であっても実質的に所有と経営が一致していることから,「所有経営者」と 呼ばれる。

株式会社といえども所有と経営が一致した状態であれば,その企業は私的な富の増 殖手段として,全面的に所有経営者によって支配されることになる。所有経営者は,

その事業を自らの利害の観点から経営し,そこから生ずるあらゆる成果を自ら享受す ることができるのであり,経営活動の結果は彼自身に帰属することになる。

ただし,資本家である支配株主が,所有経営者として直接的に経営機能を担当する か否かは,自身の選択に委ねられている。株式会社では,すべての出資者が有限責任 を負うことから,零細株主のみならず支配株主であっても,経営機能を担うことの強 制からは免れている。

一般に,企業規模の拡大に伴い経営が複雑化していけば,専門的な知識・経験・能 力を有する経営担当者が必要となる。同族内に適任者がいる場合でなければ,支配株 主は自らの代わりに経営担当者を雇用することになる。そうなれば,所有者であるこ とを根拠とするのではなく,被用者であることを根拠として経営機能を担当する「専 門経営者」が誕生するのであり,所有者と経営者との人格的分離である「所有と経営 の分離」が生ずる。

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その場合であっても,取締役の過半数選任を意味する企業支配力は依然として大株 主である同族の手中にあることから,所有と支配は一致している。専門経営者が同族 の意に沿わない経営を行った場合,同族は彼を解任し,新たな経営者を選任すること になる。この段階では,「所有者=支配者」から経営機能のみが分離し,専門経営者 の手に渡っていることになるのであり,専門経営者はまさに「株主の代理人」として の役割を担うことになる。

さらに企業規模が拡大し,株式の分散化が進めば,やがて企業支配力を持つのに十 分な持株比率を維持する株主は存在しなくなる。株主は支配の座から退くことになり,

企業の実質的な支配者は専門経営者となる。専門経営者は株主から委任状を収集し,

自ら取締役と経営者の人事を掌握するようになる。

こうした「所有と支配の分離」と「経営者支配」の成立によって,その経営管理は もはや所有者の人格的制約からも解放されることになる。このとき,所有に依らずし て企業支配力を専有するようになった専門経営者が,会社を私物化しないように規律 づける必要性が表れる。それが,まさにコーポレート・ガバナンスの問題である。も はや「株主の代理人」ではなくなった専門経営者を,誰の利益のために,いかなるし くみによって規律づけるべきかということが,重要な論点として浮かび上がる。

岩井氏は,コーポレート・ガバナンスを単に法人をめぐる問題と捉えることから,

Corporate Governance

を「企業統治」ではなく「会社統治」と訳すべきことを強調

する。だが,以上に示した経緯に鑑みれば,コーポレート・ガバナンスの対象となる 企業とは,単なる会社ではなく,経営者支配を生ぜしめる大規模公開株式会社である。

コーポレート・ガバナンスの問題は,株式会社制度の展開のもとで生ずる固有の現象 として理解されなければならない。

⑵ 株主主権論は「法理論上の誤り」か

岩井氏によれば,株主主権論とは,法人である会社と個人企業との混同から生ずる

「法理論上の誤り」であった。しからば,それは「株主主権」に対する批判ではなく,

会社企業全般における「持分所有者主権」に対する批判ということになる。株式会社 のみならず,現行の会社法上,法人格が認められるあらゆる企業形態に通ずる批判と

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して理解されなければならない。

だが,合名会社や合資会社といった無限責任社員が存在する会社企業について,

「持分所有者主権」を否定することが妥当ではないことは明白である。資本主義の歴 史において個人企業に次いで登場する会社企業である合名会社をみれば,出資者たる 持分所有者には,無限責任の負担に伴い,最高意思決定者であることと同時に経営者 であることが強制される。合資会社では,有限責任社員制度が導入されることで,合 名会社にみられる資本調達の限界が部分的に克服されているものの,一方で合名会社 のものと機能的に異なるところのない無限責任を負担する出資者兼経営者が存在して いる。このように,法人たる会社企業といえども,合名会社にあっては所有のすべて が,合資会社にあっては所有の一部が,最高意思決定機能および経営機能と統一され ていることからすれば,株主主権の問題を「持分所有者主権」の問題と捉え,単なる 法人概念の法的誤解とすることは適切ではないといえる。

岩井氏は,本書の第 章において,法人たる会社企業の典型を株式会社であるとし,

合名会社や合資会社といった共同企業を個人企業と同一視しているが,法律上,合名 会社や合資会社にも法人格が付与されていることからすれば,岩井氏のいう「法理論」

が何を意味するものかは不明瞭である。

⑶ 株主主権の問題とは何か

前項のとおり,株主主権の問題が会社と企業の混同から生ずるものではないことは,

無限責任社員の性格からすれば明白である。岩井氏は,「株式会社が所有の二重関係 によって成立しており,そのなかには株主と会社という二種類のヒトがいるという事 実」を,貸借契約の観点から言い換えたものが「有限責任制」であるとしている(岩

頁)。それならば,有限責任社員のみから構成される株式会社や有 限会社であれば,ただちに株主主権の思考がコーポレート・ガバナンス上の問題とし て顕れるのだろうか。これについて,株主主権の問題は,株式会社の発展段階に応じ た株主の性格の変容に伴って生じたものであることを指摘したい。

企業支配力を有する株主が存在する所有者支配の株式会社であれば,所有経営者で あれ専門経営者であれ,その経営管理は支配株主の意向が反映されたものとなる。こ

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の段階では,「株主=資本家」の利益を専一的に追求する行動は,利潤を上昇させる ための労働費用の引き下げや過剰労働の強制として顕れやすく,労資対立の問題を引 き起こすことが考えられる。また,支配株主および経営者の意思決定が,零細株主の 経済的利益を毀損する可能性があることから,少数株主保護の観点が浮上しうる。と はいえ,この段階では,企業支配力が資本家たる大株主に集中していることから,企 業家の個人的な責任意識が問われることはあり得るが,株主主権が固有の問題として 顕れることはない。

それならば,経営者支配が成立した株式会社であれば,ただちに株主主権が問題と なるのだろうか。アドルフ・バーリとガーディナー・ミーンズは 年の共著『近 代株式会社と私有財産』において,アメリカの巨大株式会社の株式が無数の大衆株主 に分散され,経営者支配が成立していることを明らかにした。この時期,アメリカに おける株主主権の思想,すなわち「株主=個人株主」の利益保護の思想には,公益の 確保という規範的意味合いがあったことを指摘したい。アメリカでは歴史的に金融機 関の発達が政治的に抑制されてきたことから,株式を中心とする証券投資が国民の財 産形成を担うものとなっていた(Roe 頁以下)。そのため,株式会社の大規 模化という構造変革は,国民の財産形成においてますます株式会社の重要性を高める ものだったのであり,株主利益の保護は公益の観点からして重要命題であった。

ここまでのところでは,経営者支配の状況を高度な株式分散に起因するものとして 説明してきたが,日本の場合,経営者支配の背後には株式持合いの慣行があった。第 二次世界大戦後の日本では,同一の企業集団に属していたり取引関係にあったりする 事業会社や金融機関が,株式の多くを保有し合い,相互に安定株主となることで,敵 対的買収から保護し合い,経営権の安定を保証し合っていた。こうした持合い株主は,

互いに長期保有を前提としており,株主権を行使する意思を持たないことが特徴であ る。この「株主=法人株主」が中心の株式所有構造のもとでは,経営者の評価が株式 市場の動向によって決まったり,経営者が株主利益の実現に駆り立てられたりするこ ともなかった。

以上のとおり,所有と支配が分離し,経営者支配が成立している株式会社といえど も,大衆株主や持合い株主が中心であれば,株主主権が固有の問題として顕れること

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はない。株主主権の問題は,ひとえに金融化の進展に伴い,アメリカの機関投資家が 巨大株式会社の中心的な株主となったことによって顕在化したものである。強い受託 者責任の拘束のもと,彼らの関心は高株価・高配当といった目先の金融上のリターン に向けられてきた。近年では,一定の株式保有に基づき,投資先企業に対して積極的 に経営改善を要求し,投資リターンの拡大を図るという「アクティビスト(物言う株 主)」としての動きも急増している。こうした「株主=アメリカの機関投資家」の台 頭によって,各国の株式会社経営者は株式市場を強く意識するようになっている。

このとき株主利益の専一的追求は,その他の利害関係者の利益が「手段的価値」と して有用でない限り,「費用」として極限まで引き下げようとする企業行動として表 れる。人員整理の強行,雇用創出の抑制,環境費用の回避など,各種利害関係者との 利害対立の状況が生じたり,価値創造の機会があるにも拘らず投資が抑制されたりす ることが考えられる。個別企業におけるこれらの行動は,マクロな視点で見れば,大 量失業,社会的排除,経済格差の拡大,地球環境破壊といった深刻な社会問題の要因 ともなる。また,大企業の費用回避傾向が,途上国における環境破壊や児童労働の利 用といった反社会的行動を引き起こすことも考えられる。さらに,株主主権的なコー ポレート・ガバナンスのしくみを導入すれば, 年, 年のエンロン,ワール ドコムの経営破綻のときと同様に,ストック・オプションから得られる報酬額を高め るため,経営者が不正会計を行うことも考えられる。

株主主権は,単なる法解釈の誤りではなく,現実的な利害対立の問題である。巨大 化した現代の株式会社が果たす社会的機能と,株主利益偏重的な企業行動が引き起こ す現実的問題に鑑みて,コーポレート・ガバナンスの方向が検討されなければならな い。

⑷ 会社法における「株式会社の公共性」とは何か

岩井氏によれば,法人という制度は,「社会による承認を安定させるために,国家 が法律によって制度化したもの」にほかならず,「法人とは,個人と個人とのあいだ の契約によって作られたたんなる『私的』な存在では」なく,「社会の承認にその存 在を負っているという意味で,本質的に『公共的』な存在」である。それゆえに,株

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式会社は「社会の公器」なのであるという(岩井 , − 頁)。この岩井氏の見 解にあっては,「株式会社の公共性」もまた単なる「会社の公共性」と同一視されて いるのであり,株式会社に固有の「公共性」が検討されたものではない。それでは,

「株式会社の公共性」とは,法的にはいかなるものと理解されてきたものであろうか 株式会社の公共性の捉え方は,日本では社員権論と社員権否認論とを対立軸とする 株式の本質に関する法学論争に顕著である。日本では伝統的に,株式の本質は社員権 であると理解されてきた。社員権とは,株主が社員の資格において会社に対して有す る権利のことであり,自益権と共益権とに分けられる。自益権とは配当請求権のよう に,株主一個人の利益のために与えられる権利のことであり,共益権とは議決権のよ うに会社の経営に参与する目的で株主に与えられる権利のことである。株式を社員権 であると捉えるこのような立場を「社員権論」という。

それに対し,株式が社員権であることを否定する「社員権否認論」の立場がある。

もっとも社員権否認論は統一的な学説ではなく,代表的論者には田中耕太郎とその主 張を発展させた松田二郎の 者が挙げられる。いずれの見解も,共益権の非利己的性 格から社員権を否認する点で共通している。利己的性格が認められる自益権とは異な り,共益権は株主の個人的利益を図る目的で行使できるものではないのであり,自益 権と共益権を一括りにする「社員権」という概念は成立しないという主張である。

この社員権否認論に対し,社員権論の立場からは大隅健一郎が厳しい反論を行って きた(大隅 )。大隅は株式会社の本質を営利法人,すなわち利益を獲得しそれを 社員に分配するものと捉えることから,社員権否認論が主張する共益権の非利己的性 格を否定する。大隅によれば,事業は法的・形式的には法人である株式会社の所有に 帰属するものであるが,経済的・実質的には株主の所有に帰属するものである。この 株主に対する経済的・実質的な分け前が,法的には株主権となり,それが株式の形態 をとる。株主権とは,財産権のもっとも基本的な権利である「所有権」の変形物であ るという。この考えからすれば,自益権は所有権における収益権能の変形物であり,

共益権は所有権における支配権能の変形物ということになるのであり,共益権は自益

( ) 以下の「株式会社の公共性」に関する説明は,拙稿( )より引用。

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権の価値の実現を保障するための株主の権利ということになる。こうして大隅は,自 益権と共益権をともに株主自身のために行使される権利であるとし,社員権否認論の 主張を営利性原理に抵触するものとして批判した。

こうした考えのもとでは,株式会社行動の制約原理としての「公共性」はどのよう なものとして理解されるのだろうか。大隅によれば,株式会社の公共性は「所有と支 配の分離」と「株式会社の巨大化」の つの構造変革から導かれる。前者は広く一般 大衆が会社の出資者となっていることを表し,後者は多くの国民が従業員や消費者等 の利害関係者として会社に依存していることを表す。それゆえ,株式会社の公共性に は,「株主共同の利益」と「株主以外の利害関係者の利益を含む社会的利益」の双方 が含まれると考える。

大隅の考えでは,「株主共同の利益」こそが,個々の株主の株主権(共益権)の制 約原理となるものである。共益権は基本的には私益性が認められ,株主個人の利益の ために行使されるものであるが,「株主共同の利益」である「会社の利益」を侵害す ることは許されないという唯一の制約があり,例外的に社員的利益のために行使され なければならない場合があるという。

大隅は一方で,株式会社の公共性の内容として「株主以外の利害関係者の利益を含 む社会的利益」を特定しているものの,それによる共益権の制約が認められるとして いるわけではない。株式会社をめぐる諸利害の調整は,あくまで会社内部(株主利益 の枠内)で行わなければならないのであり,社会的利益という超個人的利益の立場か らなされるべきではないという。

大隅によれば,構造変革によって公共性を帯びるようになった株式会社であっても,

その本質は依然として営利性にあることから,株主権の制約は営利性原理に根ざした ものでなければならない。株主権は株主以外のいかなる利害関係者によっても制約さ れず,株主権が制約される場合にはあくまで「株主共同の利益」によって行われなけ ればならないという。こうして大隅は,共益権の私益性が「会社の利益」という唯一 の制約の枠内において,最大限に認められるものであることを主張した。

大隅とは反対に,服部栄三のように,社員権否認論を踏襲する形で,社会的利益に よる株主権の制約を提唱する立場も現れてはいたが,結局のところ,その議論は規範

(13)

論に止まるものとなった。現行の日本の会社法は,「株主共同の利益」を法益とする ものであり,株式会社を社会的公共物とは考えていない。日本では,江戸時代の商家 に見られる総有制の伝統から戦後の株式持合いの慣行に至るまで,株主の支配力が公 共性との関連で問題となるような状況は起こってこなかったのであり,そのために株 主権を制約する必要性が社会的に認識されてこなかったことが考えられる。

しかし今日,アメリカの機関投資家が巨大株式会社の中心的株主となり,株主利益 偏重的な企業行動が各種利害関係者との利害対立を生ぜしめることからすれば,「正 しい会社法解釈」の視点を脱却し,現行会社法に対する批判的視点から,株主権の制 約原理となる「株式会社の公共性」の内容を改めて考えなければならないだろう。

⑸ 忠実義務は経営者の倫理的方向づけか

岩井氏の所論では,経営者に守らせるべき倫理が忠実義務と同一視されている点を 指摘したい。岩井氏によれば,株式会社の経営者は,株主の代理人ではなく,会社の 信任受託者であることから,「会社の利益」を優先すべく義務づけられた存在である。

この信任関係を経営者に守らせるための倫理的拘束が,会社法上の忠実義務と民法上 の善管注意義務であるという。忠実義務は,自己の利益ではなく,信任関係の相手で ある会社の利益に忠実に職務遂行することを要求し,善管注意義務は,通常の注意を 払って職務遂行することを要求する。これらは単なるお題目ではなく,経営者を拘束 する法的義務であり,違反すれば背任罪に問われることにもなり得る。

岩井氏によれば,「このような経営者が会社にたいして負う忠実義務と注意義務こ そ,コーポレート・ガバナンスの中核です。それらは,まさに経営者が『社会の公器』

としての会社のいわば生命を預かっている存在であることから生じてくる,倫理的な 義務にほかならない」(岩井 頁)のである。

だが,はたしてこれらの義務の存在が,株主主権型コーポレート・ガバナンスとは 一線を画した経営者の倫理的規律づけとなり得るのだろうか。前項で説明したとおり,

日本の会社法は「株主共同の利益」を法益と理解するものである。経営者が「会社の 利益」に忠実に経営を行うということは,「株主の利益」を損なわないよう十分に配 慮して経営上の意思決定にあたるということを意味しているにすぎない。法律上,経

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営者にそれ以上の責任は問われない。会社法に規定される忠実義務は,株主以外の利 害関係者に対して経営者が果たすべき倫理的責任について,何ら言及するものとは なっていないのである。

岩井氏は,経営者を株主の代理人とみなす株主主権型コーポレート・ガバナンスを

「法理論上の誤り」とし,それを克服するものとして,会社と経営者の信任関係を維 持させるための法的規制に注目しているのであるが,結局のところ,それを定める枠 組みが日本の会社法である以上,両者に違いはない。経営者を「会社の利益」に義務 を負う会社の信任受託者と捉えることでは,株主主権論を脱したことにはならない。

岩井氏のいう「ヒトとしての会社」よりも「モノとしての会社」の方が上位の意思決 定であるというのが日本の法学的理解であることからすれば,現行会社法を超えた視 点から,「会社の利益」に対する制約原理を考える必要がある。

.お わ り に

本稿は,『会社はこれからどうなるのか』の内容と成果を紹介するとともに,岩井 氏の所論に対する 点の指摘から,株主主権論をわが国の現行会社法の枠内で批判す ることの限界を浮き彫りにし,コーポレート・ガバナンスをめぐる問題を株式会社論 の視点から考察する必要性を示した。

コーポレート・ガバナンスをめぐる問題は,会社法の解釈論に止まるものではなく,

株式会社制度の現代的展開のもとに顕在化した固有の問題である。現代株式会社の社 会的機能に鑑みて,「株式会社は誰のものか」を問い直し,そのためのコーポレート・

ガバナンスのしくみを構築していくことが課題となる。

主 要 参 考 文 献

岩井克人( )『会社はだれのものか』平凡社。

岩井克人( )「経済の中に倫理を見出す:資本主義の新しい形と伝統芸能」京都大学経 済研究所附属先端政策分析研究センター編『資本主義と倫理:分断社会をこえて』東洋 経済, − 頁。

大隅健一郎( )『株式会社法変遷論 新版』有斐閣。

(15)

山口尚美( )「会社法における株式会社観の日独比較:私的所有物か公共物か」経営学 史学会年報第 輯,文眞堂。

Roe, M. J. ]Strong Managers, Weak Owners : The political Roots of American Corporate Governance, Princeton University Press.(北條裕雄・松尾順介監訳『アメリカの企業統治:

なぜ経営者は強くなったか』東洋経済新報社, 年。)

参照

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