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シュムペーターとマルクス−彼等における進化主義について− (その二)

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(1)

シュムベーターとマルクス

123

シュムペーターとマルクス

−彼等における進化主義について− (その二)

川田俊昭

次に,我々は,先に掲げた後の援用−「社会現象は歴史的時間における 一つのユニークな過程を形成している」−を問題にしよう。むしろ,この

° ° ° ° ° ° ° °

方こそ,どちらかと云えば,我々の本命なのである。−シュムベーター

『経済分析の歴史』中,「進化論」なる節(第三編,第三章,第四節)の,

しかもその努頭にあるのが,この言説であるから。

もっとも,これは又,前の援用−「経済学の対象たるものは,本質上,

歴史的時間における一つのユニークな過程である。」−乃至それについて の私の説明(前書)と,その実,不可分離の関聯を有している。

先の援用は正しくは次の如く続く。即ち−「社会現象は歴史的時間にお ける独自の(ユニークな)過程を形成しており,絶えざる非可逆的な変動こ そ,その最も明白な特質である。進化論Evolutionismなる語によって,こ の事実の認識以上のものが意味されないとすれば,社会現象に関するあらゆ る推理は,それ自身進化論的であるか,もしくは進化と結びついたものと言わ ねばならない。ところが,ここにいう進化論は,これ以上のものを意味しよ うとするのである。人は上の事実を自分の思想の枢軸としたり自分の方法の 指導原理としたりしなくとも,なお,上の事実を認識することが出来る。」

我々の現実が「絶えざる非可逆的な変動」であることについて−「我々

は……歴史的且つ非可逆的生産手段における変化を『革新』と呼ぶ。」(シ

ユムベーター「経済変動の分析」)−,シユムベーターに全く異存のない

ことは,前の援用の説明に際して,最早明白になったところである。

(2)

124 

将 官 と 経 済

その限りにおいて一一少くとも,その限りにおいて一一我々がシュムベー ターにおける進化主義乃至進化論を問題にすることは,決して誤っていな い。しかし乍ら,その限界を超える時一一換言すれば r 事実の認識以上の

もの……を意味しようとする

J

時一一,我々はシュムベーターの否認に会う のである。

「歴史的時聞における独自の過程」としての「社会現象」一一我々はそれ を「社会発展」なる概念として捉えるのであるが,斯かる「社会発展の概 念」の陥りやすい,科学的に好ましからざる弊について,実は,シュムベー ターは『経済発展の理論~ (同書において枢要の第二章窃頭〉において一一 しかも進化論一般との関聯において一一,入念な批判的言及を行っているの である

O

日く, r 社会過程は我々の生活並びに思惟を合理化することによって社会 発展の形而上学的考察から我々を解放し,且っこれと併立し又これを離れて 存立するところの経験科学的考察

erfahrungswissenschaftlichenBetra chtung

の可能を見ることを我々に教えた

O

しかし,斯かる仕事は極めて不 完全にしかなされていないから,我々は我々の注目する発展現象については 充分の戒心をもって臨まねばならぬ

o

特に我々がこれを把握する概念につい ては更に強く,又乙の概念を表示する言葉については最も強く戒心せねばな らぬ。蓋し,この言葉( r 発展」 筆者)からの聯想は,あらゆる可能な望 ましくない方向に我々を迷わしめることがあるからである

O

告:えそれ自身が 直ちに形而上学的目立見

metaphysischenVorurte

i1ではないにしても,密 接に斯かる臆見

l

乙関聯するものがある

D

ここに形而上学的隠見とは,一回明 瞭に言えば,もともと形而上学的根底から生れた見解であるが,もしも人々 が架橋すべからざる間際を軽視して,乙れを経験科学的労作に応用する場合 には,その本性上臆見となるが如きもの,これである

D

かの歴史の客観的芯 味を求めるすべての試み,及び一国民・一文化圏進みては全人類さえもが,

統一的に把握し得べき発展直線の意味で何等かの発展を示さねばならぬとな

す要請は,みなこれに属する

D

それは例えばロッシャーの如き事実に忠実

な人さえも仮定したところであって,ヴィコからランフレヒトに至る長く且

(3)

シュムベーターとマルクス

125 

つ輝かしき系列の無数の歴史哲学者及び歴史理論家が予断し又現に予断しつ つあるが如きものも皆然りである

o

……ダーウィン

Darwin

(特に注意せ よ! 筆者)を中心としている特殊の発展思想ら少くともその考察法が 我々の領域に単純に類推的に適用される場合には,又これに属する

o

我々は何よりも先ず斯かるものから離れなければならぬ

o

然して,本援用の最初のあたり,シュムベーターは「合理化する

rational isierenJ

なる言葉を用い,且つそれに註して言う1"ここでこの語をマッ

クス・ウェーパーの;古味に用うる

J

,と。

実際,シュムベーターがここで問題にしているのは,ウェーパー(又はゾ ムパノレト)の提起せる所謂「科学と価値判断の問題」なのである

o

ここでの問題に関わる限りでのウェーパーの見解を記せば,次の通りであ る

D

「……『存在するもの』の認識と『存在すべきもの』の認識……この区別 を妨げたのは……一つの一義的な発展法則がこれを支配するという芯見であ るロ従って,存在すべきものは……乙の意見では一一ー不可避的に生成するも のと一致することになる

D

……歴史的精神の覚醒と共に,我々の科学にお いて倫理的進化論と庇史的相対主義との結合が支配し始めたが,それは倫理 的規範からその形式的性格を剥杏し,文化価値の総体を『道徳的なるもの」

の領域に引き入れることによって道徳的なるものを内容的に規定し,斯くて 国民経済学をば経験的基礎に立つ一つの『倫理的科学』の尊厳にまで高めよ うと企てた。 ……一つの経験的専門学科を代表するものとして,我々・

は,斯かる見解を主義として拒否せねばならぬ。

J( 

1"社会科学的並びに社 会政策的認識の『客観性~

J ) 

ソやムパノレトも又 w 高度資本主義時代における経済生活~ ( 

W

近代資本主

義』第三巻)第一手,第一節男

EJ1!

乙書いている

o

1"我々は歴史的聯関を『理

解』するにあたって , J~t.設において我々が経験する人間の理性と人間の性'tJll

に対する知識を,基礎にしようとする

D

従って,形而上学的な考察は,本吉

(4)

126 

経 営 と 経 済

にはすべて除外される。 ‑精神或は自然における『法則性』の問題も 又,本書では解答を与えられない。

WI

時代の要求』だとか『国民経済 の必要』だとかいった非常に

i

突然とした概念も,全く無:む味である

o

それの みではない,歴史の背後を問題とする社会哲学者も,はっきり認めておくべ きことは,如何なる超経験的実在でも歴史のうちに作用するためには,まづ 具体化され,形態を与えられねばならない……ということである

o

「同じ 乙とは,歴史の或る時代の『意味』一一例えば資本主義の怠味一一ーをもっ て , あまりに軽率にその時代を動かす力と同一視する人々に向っても,言わ れねばならない

O

‑例えば近代の経済人をば何かの世界観から『担解』

し , その特性を解明するということが決して少くない。その解明が正しいと 仮定しても, それだけでは果してとの時代に起った事象一一的く人間の行‑動 が,実際にこの世界観に基くものであったか否か,又もしそうであるなら どの程度にそうであったかということは,全然言われていないのであ ば ,

o

マックス・ウェーパーのカ

J

レウ、、イニズム学説を生かじりにした人達の,

一再ならず陥っている誤謬も, この点である

o

或は,同書,序言にいう, 「理念の(および理念に対応する概念の〉凶と 現実の国,精神と生活とは, 乙こでも別々に取扱われている

o

事実を正しく 把握しようとするには, 一つの平面から別の平面への絶え間ない変転, 二つ の実在領域の混治ほど有害なものはない。乙の方法こそ,カーノレ・マノレタス のかの名著の認識価値を害していること甚しいものである

O

二つの実在領域 を融合する乙とは, ヨリ高い形而上学の研究の平面では,不可避のととであ るけれども, ここに与えられているような経験科学の問題を解く上には,致 命的な障害でなければならなし'1

0

「マルクスの著書に対する本舎の関係 を,一言で言おうとするなら,おそらく こう言えるであろう。本書ではマ ルクスを魔術から解くのである, と

O

しかも魔術から解くということは,科 学的にするということと同じ志味である。」

斯くして,我々は, シュムベーターが何故に進化主義乃至「進化論」に対

して冷淡ならざるを得なかったかの理由を,理解することが出来る

O

(5)

シュムベーターとマルクス

127 

誤解なく言えば一一経験的事実としての「進化」は,彼も又乙れを容認す ることは決して否まないのである

D

即ち言う

I

それ自体として進化なる概 念は,よく定義されている標準の範囲を除いては,あらゆる価値判断から も免れている。 ……ところが,

19

世紀においては,進化は素朴にも進歩

progress

一一理性の支配に向つての進歩ーーと同一視された。換言すれば,

それはその定義において既に一つの価値判断

avalue  judgment

を宿して いたのである。そして,この(進化と価値との)両概念が素朴に結びつけら れることは,

19

世紀を通じて続いていた。

J( 

r 経済分析の歴史j]) 

以上の如くして,進化論,シュムベーターの分類に関わる五つ一一即ち

「哲学者の進化論

J

, 

I

マルクス主義者の進化論

J

, 

I

歴史家の進化論

J

, 

I

コ ンドルセ及びコントの主知主義的進化論

J

, 

I

ダーウィン派の進化論」一一ー の総全部が,それらがまさしく「進化論」である乙とによって,シュムベー ターの批判に逢着する浮目となるのである。

と言って,シュムペーターは,すべてを批判し,又否定するわけでないこ とは勿論である

o

批判の後にも,我々の手許には何かが残るのである

o

即 ち,今や明々白々となった如く,前の援用について行った説明における如き もの一一事実としての「歴史

J

,乃至「発展」そのもの,である

o

援用の一部主復を限わず記せば,まさに次の如きである

o I

……我々は何 よりも先づ斯かるものから離れなければならぬ。その際に尚残るものは次の 二つの事実である

O

第ーには,歴史的状態の不断の変化の事実,これであっ て,歴史的状態はまさに乙れによって歴史的時聞において歴史的個体とな る

o

これらの諸変化は常に反復されるが如き循環を完行するものでもなけれ ば,又一つの中心を巡る振子運動でもない。この両事情は次の第二の事実と 相合して我々に社会発展の概念を定義する。即ち夫々の歴史的状態はその先 行状態から適当に理解せしめられ得るということ,従ってもしこの際個々の 場合について満足にそれがなされない時には,我々がそこに存在する問題を 末解決とは認めるが, しかし解決され得ないものとは認めないということ,

これである。

J( 

r 発展j]) 

(6)

128 

経 営 と 経 済

斯かる課題の「経済発展

J

( f l f j ち

I

社会発展」の部分としての)につい ての解決一一それこそ,一方において,シュムベーター『発展』の,そして 他方において,ゾムバルト『高度資本主義

J

の,将 l 乙果さんとしたと乙ろな のである

D

他 万 ? 何故ならば, ゾムパノレトにおける解決は(経済)社会学的手法に おけるそれという怠味において, シュムベーターの(純粋)経済学的手法に おけるそれ,と,方法の次元を具にしているからである。

シュムベーターの言う,

I

この部分領域(経済飢域)も又無限に多様な見地 及び取扱い方を許容し得る。 ……(例えば)かの(1

3

世紀における)ニー デノレアノレタイヒ修道院の土地台帳の叙述からソゃムパノレトの西ヨーロッパの経 済生活発展の叙述に至るまでには,一つの連続的な・どこでも切断されていな い・論理的に統一的な述設が走っている

o

……それは理論, しかも我々が 一応考える怠味での経済発展の理論であるに相違ない。けれども,それは,

本 書 (I T ' 発 展 』 筆者)の第一章(

I

一定条件に制約せられたる経済の循 環」即ち静態)の内容が経済理論であり,又リカアドの時代以来『経済理 論』として理解されている意味においては決して経済理論ではない。乙の後 の;意味における経済理論はソゃムパノレトの理論の如きにおいても或程の役割を 果しているものの,それは全く従属的なるものに過ぎない。 … … 問 題 と す る点が発展又は歴史的経過の理解であり,それも単に佃別的経過のみではな く,能う限り多くのものを包摂する範囲についての理解である場合,又は問 題とする点が或る状態の形像を特徴づけたり又は或経過を規定すべき諸要因 の摘出である場合, 一一これはやや狭義においては歴史的経過に対する経 済社会学者又は国民経済学者の特殊課題とも或は又発展理論とも呼ばれ得る ものであるが一一,すべて乙れらの場合に対しては,かの価値一一価格ーー 貨幣という問題系列の経済理論は何等の貢献をもなしていないのである

o

「本書で果されると乙ろは,単に第一章において充分読者にその性質を明ら かにせられたところの経済理論をば,全くその本来の目的のために改善し,

乙れに増築を加えてー尼

2

有効なるものとなすべきことに外ならぬ

D

そうし

て,これが結果として,たとえこの理論が上の目的以外に尚,ゾムパノレトの

(7)

シュムベーターとマルクス

129 

者作について読者が最もよくその本質を知るが

1m

きその発展理論においても 従来以上にその役割を充し得るに至るとしても,しかもこれら二つの観察 方法は,その意味においても,その目標においても,異る平面の上に立つも

のなのである

o

従って又,相も変らず今だに通常(通俗)において蔓延のシュムベーター の「企業者」を社会学的なそれとする見解一一シュムベーターの「企業者」

とソ守ムバルトのそれとの混同一ーが,少くとも原理的な理解に立つ限り,許 されざること又同じである

o

I それ故に本書(~発反』 筆者)の第一版が受 けた最も腹立たしき誤解のーっとして挙ぐべきは,私の発展理論が唯一つの 点即ち企業者人格を除いて他の一切の歴史的変動要因を等閑に附しているこ とは,非難すべきであるとなされた点,これである

O

もし私の叙述が,斯か る反駁が予想する椋な;意味合のものであるならば,それは確かに無志味であ ろう

O

しかし,私の叙述は一般に宅も変動の要因

Veranderungsfaktoren I

経済組織・経済様式その他の変動を説明すべき要因」 筆者)を問 題としたのではなしこの要因が如何に実現するかの仕方,即ち変動の機構

Veranderungsmechanismus ( I

経済過程のメカニズム

Mechanismusdes  WirtschaftsprozessesJ 

)を取扱ったものであるロ私の示した『企業者』と 雄も,ここでは決して変動の要因ではなくて,変動機構の担当者(

I

企業者 には……経済過程上の職能が帰属する

J

)であるに外ならない。

J( 

~前掲 書~)

I

発展の根拠,従ってその説明は,経済理論を通じて原理的に記述せ

られるところの一群の事実(純経済的事実,マルクスの場合「生産力」

筆者)そのもの……に求められねばならぬ

oJ ( 

~前掲書~)

I

我々の意味 する発展一一一それは,普通の怠味での発展の中で,一方では特に『純粋経済 的なるもの~ ,又他方では経済理論の立場から原理的に主要なるものであ る 。

J( 

~前掲者~ ) 

如上の如くして,シュムベーターが,進化論において典型

ω

,例えば,

「哲学者の進化論

Phi1osophers'Evolutionism...

…へーゲ、

j

レが顕著な例と

なる」を問題にする場合にも,へーゲ、

j

レの「哲学

J

J] ?r~

I

形而上学」は彼に

(8)

130 

経 営 と 経 済

とって何ら問題にはならない口

シュムベーターの言う,

I

究極的且つ絶対的実在

reality

であるところの 一つの形而上学的本体

entity

一一これを何と呼ぶかは主要でない一一ーの存在 を公準化し,斯くて我々を或る超観念論的哲学

ultraidea1isticphi1osophy 

の立場に置くこととする

O

それと同時に且つ同様な志味において,この同じ 実在を定義して,観察され得るあらゆる現実的及び潜在的事実の全体とす る

o

乙の様なことは,如何にして可能であるか。それは,これらの観察され 得る事実の中に,この本体(その顕象したもの)を具現しているところの・

いわば神秘的な記号

runes

を,我々がもし看取するなら,看取する故

l

こ,又 看取する時に,可能となるのである

D

……これは(もし我々がここで形而 上学的本体となすものを,理性 l こ等置する時には) ,へーゲ、ノレの次の有名な ー句が伝えんと欲したものに外ならない。日く,存在するものは悉く合理的 (理性に従うこと)であり,合理的なもの(思考され得るもの)は悉く存在 すると。…… 一一一これは通常の意味における生一本の汎神論を採用する際 に我々がなすべきところと全く同じ流儀によるものである。さて,乙の本体 は,正・反・合

these

antitheses

, 

and syntheses

という本質的に論理的 な過程における内在的進化を経過するものと想像される口 ……以上の如き 考え方は,常に或るタイプの精神l こは訴えるが,イ也l こは決して訴えるところ のない様な種類のものに属する

o

lí経済分析の歴史~ ) 

斯かるシュムベーターと全く同調の一人に1"科学哲学」の創成者ハンス

‑ライへンバッハがいる。

彼も又シュムベーターと同一トーンにて,へーゲノレを評して言う

I

次の

文章は,さる著名な哲学者の著作(註 へーゲノレ『歴史哲学~ )からの抜粋

である

o il

理性とは実体であり,又無限の力であり,その無限の質料は,自

然及び精神生活のすべての根底に横たわる

O

理性は更に,その質料を迩動せ

しめる無限の形相であり,あらゆる事物がその存在を引き出すところの実体

である

o

~ ……多くの読者は,この程の言語的産物 l こ我慢が出来ず,それ

に何の意味も見出せないことから,そんな書物は火の中に投げ乙んでしまい

(9)

シュムベーターとマルクス

131 

たいと思うだろう。この織な感情的反応から論理的批判ヘ前進するために は,博物学者がカブト虫の珍らしい標本を調べる時の殺な中立的観察者の態 度で,所謂哲学的言語を研究することが必要となる

C

誤謬の分析は,言語の 分析に始まるのである

D

……哲学を研究する人々は,通常は暖昧な表現方 法にいら立ちはしない。却って初めに引用した様な文章を読むと,その松な 人々は,この文章を理解出来ないのは自分のせいだ,とおそらく考えること であろう

O

従って彼等は,幾度も幾度もそれを読んだあげく,何だか解った と思える様な状態に到達する

O

それなれば,彼等にとって,理性が無限の質 料から出来ていて,その質料がすべての自然及び、精神生活の底に横たわるの だから,理性はあらゆる事物の実体であるということが,全く明白に見える ことであろう口乙の様なモノの言い方に慣らされてしまって

w

教養』のヨ リ少い人なら言うであろう放な文句をすべて忘れてしまったわけだ。……さ て,ここで科学者のことを考えてみよう

G

科学者は自分の使うコトパが,ど の文章もすべて怠味をもっている,というようにコトパを用いる訓練を受け ている

O

又科学者の言明は常に,それが本当であることを証明出来るような 風にコトパ使いがなされている

D

その証明に,長い思索の鎖が必要であって も;立に介さないし,又抽象的な推理をすることをも彼等は恐れない。しか し,科学者は,その抽象的思索が何等かのやり方で,自分の眼で見,自分の 耳で開き,又自分の指で触れることが出来るものに関係づけられていること を,要求するのである

O

この科学者が先に引用した文章を読めば,どのよう な批評をするであろうか

o

W 科学哲学の形成~ ) 

確かに,確かに,へーゲルには一ーというよりへーゲルの亜流(マルクス の亜流を合む)には一一,

J

析かる批判(批評)を支って仕方ない多大な行過

ζii

ぎがある

r

気の利いた詞はごつごつした耳には送入らなし

'0

(ゲーテ

『フアウスト~ ) 私の常々批判・批難する「観念・論理(言葉,コトノイ)

の遊戯(単なる思弁・花弁)としての,或は『魔女の九九』としての弁証法

,これである

u

(10)

132 

経 営 と 経 済

魔 女 (大袈裟なるこれ見よかしの表情にて,苫の中より朗読し始む。〉

「汝須らく会すべし口 ーより十を作せ。

こを去るに任せよ口 而して径ちに三に之け

O

然らば則ち汝は宮まむ。

四は喪失せよ

O

五と六とより

七と八とを生ぜしめよ。

是の如く魔女は説く

D

是に於いてや成就すべし。

九は則ちーなり

C

十は則ち無なり。

これを魔女の九九と謂う。

77

ウスト 婆あさん熱に浮かされているのぢゃあるまいか口 メフイスト まだなかなかあんな物じゃありません

O

わたしは好く知っていますが,あの本は皆あんな調子です。

随分あれで暇を潰したこともあります口 何故というと,丸で矛盾した事は

智者にも患者にも神秘らしく聞こえますからね。

あなたに言いますが,学術は新しいようで古い。

元来三とーだの,ーと三だのと言って,

真理の代りに妄想を教えるのは

いつの世にもある造方です。そんな工合に 誰にも邪魔をせられずに鏡舌って教えています。

誰が馬鹿に構うものですか。

とと l

大抵人間はただ詞ばかりを間かせられると,

何かそれに由って考えられる筈だと思うのです。

(11)

シュムベーターとマルクス

133 

言葉,言葉,言葉……コトパ,詞,辞,言。実際,向坂逸郎氏(

w

経済学 方法論~)ではないが一一一「馬鹿の一つ覚えのように J r ……『弁証法的

J

と いう言葉を,九官烏のように繰返して歌っていると気のすむ呑気な詩人」を 相手にすることは, r 相当に退屈な仕事」である。

ゲーテと弁証法一ーというより r 弁証法の病気」についてのゲーテとへ ーゲソレ両者の対談(対決) ,という極めて興味深いエピソードが語られてい るのが,エッケルマン『ゲーテとの対話~ ( 第

3

部 ,

1827

10

月1

8

日の筒 所)である

O

要所を引用すれば,次の如きである

O

へーゲノレがここに来ている口彼の哲学から生じた果実の或るものは j 各別 ゲーテの口に合いそうに思われないが,ゲーテは彼を人として非常に尊敬 しているの……会話は弁証法の本質l こ向けられた。一一一それは根木に於て はあらゆる人聞に内在する矛盾の精神の規整され,方法的に完成されたも のに外ならない

o

そしてこの天分は真偽の判別に於てその偉大さを証明す る , とへーゲソレは言った。 r ただ

J

,とゲーテは口を差し挟んだ。 r~!庁か る精神的な技術や手腕が屡々濫用され,偽を真とし,其を偽とするために用 いられさえしなければよいが口

J

r そういうことも起るでしょう

J

,とへ ーゲノレは答えた。 r しかし,それは精神的に病気になっている人述だけが やることです。

Jr

では,私は

J

,とゲーテが言った

r

斯かる病気を起 させない自然の研究を讃えようロ何故ならこ乙では我々は,その対象の観 察や取扱いに当って徹頭徹尾純粋な正直な泊り方をしないあらゆる者を至 らぬ者として拒否するあの無限に且つ永遠に只なるものを相手にするから である。又私は,弁託法の病気にかかっている者は自然の研究のうちに有 効な治療法を見出し得ると確信している。」

一見,ここには,和やかムードが漂っているかの如きであるが,対談の

筋 ,

Jlli

び方そのものは,決して,そうでない口

(12)

134  約三Iそう目 乙iIfd''{fC

何よりも先づ,ゲーテには,へーゲノレ乃至その弁証法を観ずるに,現代の 我々におけると共通の見解,即ちへーゲノレを一一自然の哲学者でなく,歴史

・社会・政治の一一社会の哲学者と一方的に見るところの先入がある。

たとえば,福井孝治氏は,論文「浪没的有機的社会観と強力同家思忽」

(  ~経済学の基礎にあるもの』所収)において,この対話 l こ触れ次の如く告:

いている

O

「この会話は,ゲーテ,へーゲ、

j

レ両者の関心の相違を示すものとして,甚 だ興味がある D グロックナーはこの会話に彼自身の見解を附け加えて~ゲ ーテは全く正しかった。実際へーゲルが神学的・政治的問題でなくて自然科 学的問題から出発したならば,彼は決して弁証法家とならなかったであろ う

D

自然の有機体には全と個との聞に何等の矛盾も存しない。矛盾は,人間 精神が共同体組織内において自己自身を個体として措定し,そして,否定を 使用するところの自立性を主張する限りにおいて,人間精神において始めて 生ずるものである~ ,と言っている

O

へーゲ、ルが自然科学的問題から出発し たならば,弁証法家とならなかったかどうか,又ゲーテ自身において弁証法 的思惟とも称すべきものが存在しないかどうかは問題外として,へーゲ ノレが 本来の自然哲学者でなかったということは,銘記しておくことが必要であ

o

ここには,福井氏自身による一部の緩和があるものの,矢張,へーゲノレの 弁証法が自然との断絶を有していることが,強調されている。

果してそうであろうか。へーゲ〉レが「あらゆる人聞に内在する矛盾の精 相リと言った時,彼は人間有機体におけるモノが自然一一一他の有機的存在一 般‑ 1 乙も共通,と考えていたのではあるまいか。

事実,福井氏によれば

I

ファルケンハイムは,ゲーテとへーゲノレとを比

較した論文において,両者に共通する点のーっとして有機体論的思惟を挙げ

ている口……精神現象論の序言中で,……へーゲノレがあげているところの例

などは,グロックナーも認めているように,彼の有機体論的見解を端的に表

示するものと言えよう~苛は花が開くことによって消える D 人は言うこと

(13)

シュムペーターとマルクス

135 

が出来よう,苦は花によって否定される,と。同様に果実によって花は,植 物の虚偽の定在と宣告される口そして,植物の真相として花の代りに果実が 現れる。これらの諸形態は自己自身を区別するばかりでなく,相互に両立し 難きものとして排斥し合う

o

~

即ち,へーゲ、

j

レは,寧ろ自然にこそ,弁証法の実在を認めていることにな る つ

他方,ゲーテにおいては如何様であろうか。彼乃至彼の所謂「自然」は,

弁証法とは全く無縁であるか。

ゲーテは「府合歓吾

J

(今日風にいえば

I

ブァックの歓び

J

)なる詩に 次の如く唄っているヮ

ilf

者のほかは誰に告げてもならぬ ただ凡俗は噛うだけだろう 焔に焼かれて死を願う

生きものの切なさをわたしは歌うのだ

お前がつくられ そ し て 又 お 前 が つ く る 涼しい夏の夜の変のいとなみ

やがて 夜の蛾よ お前は灯にとびこんで わが身を灼いてしまうのだ

死して生きよ!

この摩可不思議にふれぬ限り

いつまでも人間は地上の夜の

かなしい客人にすぎぬ

(14)

136 

経 営 と 村

J

「死して生きよ!

,ここには, まさにゲーテにおける本音が

I

弁証 法」が,しかも最大限に表現されている,というべきである

O

斯くて,乙乙の描写には,次の哲学的表現乙そ,むしろ相応しい。日く,

「……この内在的な移波,そこでは……諸規定の一面性と制限性は,それが 在るところのものとして,即ちそれの否定として自らを表現する

J

,と

o

(へーゲ、ル『エンチクロペディ~)

I

弁証法的なるものは従って学問的行程 の運動する魂を形造り,そして,それによってひとり内在的なる聯関と必然性 が学問の内容のうちへ来り,並びにそのうちに一般に有限なるものを越えて の真実なる,外国的ならぬ高拐が横たわっているところの原理である

o

尚 , 乙の際, 我々は「弁証法忠者

J

(ゲーテ) I 乙次の点を確認させる必要 がある

O

即ち,へーゲ

j

レ(又はマノレクス)における「矛盾」が,彼等(哲学 より寧ろ精神病現学の対象たる彼等!)の理解における如く,決して,単な る反定立一一単なる否定,単なる批判,単なる分裂を,志味しないというこ とである口

たとえば,福井氏は先の援用(へーゲ、ルにおける柏物の類比・「諸哲学的 体系の相異において単に矛盾のみを見ることの代りに,これを真理の進展と して氾援すべきこと示すために,へーゲ、

j

レが挙げているところの例

J

)を次 の如く続けている。

IW..

H

・だが,それらの流動的性質は,それらを同時に 有機的統一の契機たらしめ,そこでは,それらは闘争し合わないばかりか,

何れも等しく必然的なるものである。そして,この同等の必然性が始めて全 体の生命を形成するのである

oIJ

生命過程は,個々の形態がそこから相互 に区別され限定されて出てくるところの,継続的な流れとして現れる

O

斯か る限定性は,全体という立場からみる時,これら形態をして全体の単なる契 機たらしめるものである,というのがへーゲ、ノレの見解である。」

換言すれば,へーゲ

l

レにおいて何より大事なのは

I

全体の生命」であ

o I

個々の形態」は,むしろその契機に過ぎない。……全体の生活力を中

心とするところの一つの巨大な生命連関,無限の対立から自己自身を形成す

(15)

シュムペーターとマルクス

137 

るところのー全体,一つの巨大な有機体……「一個の巨大にして活力に満ち た・無限に動く生ける全体

J

(アダム・ミュラー)……一一結局における有機 的・有機的統一,乙れである

o

『広辞苑』によれば一一「有機的」とは1"有機体のように多くの部分が 集って一個の物を作り,その各部分の聞に緊密な統ーがあって,部分と全体 とが必然的関係を有しているさま

o

←→無機的。

J

, と な っ て い る

O

従 って又1"有機体」とは,次の如き志となる

D

即ち「……多くの部分が一つ に組織され,その各部分が一定の目的の下に統ーされ,部分と全体とが必然 的関係を有するもの,即ち有機的に組織されたもの

o

自然的なものから類比 して,社会的なものにも用いる。」

三木清も又,論文「有機体説と弁証法

J( 

~社会科学の予備概念 J 所収〉

において,福井氏と同様,へーゲルからの植物的(生物学的)類比の援用を行 うことによって,完全に同ーの結論を導く

o

即ち,言う1"まことに我々は 屡々へーゲノレが有機体説の言葉をもって語っているのを聞く

o

~有機的~ , 

『有機的統一』などいう語は彼の書物の程々なる箇所に於て見出される。こ のようにして或る者はへーゲノレに於けるへーゲノレ的なるものが弁証法である ことを忘れて,有機体思想をもって彼の哲学の根本概念と見倣すまでに立ち 到っている

o

(例えば,

O.  Engel

, 

Der Einf1uss Hegels auf die  Bi1dung  der  Gedankenwelt Hipplyte Taincs.

に於ては,有機体並びに有機的発展

の概念がへーゲノレの全哲学を支配すると乙ろの本来の中心概念で、あると説か

れ,その上で彼とテーマとの比較が行われている。……) 何れにせよ,へ

ーゲノレ自身がこのような解沢を誘発すべきものを持っていることは疑うこと

が出来ぬであろう。数多くの中から一,二の例を引いておこう

o

~植物の芽

一一この感性的に存在する概念一ーはその発展をそれと同様な存在をもっ

て,程子の生産をもって閉ぢる

o

……この端初と終末とが一つに結び合う乙

と,この概念がその実現に於て自己自身に来ることは,しかるに,精神に於

て,単に生けるものに於てよりも尚一厄完成された姿をもって現われる。…

(16)

138 

経 It;_~ と経済

…』 有機体思怨は既に彼の初期の著作の一つ

w

自然法の学問的な取扱い 方について』という論文の中で完全に展開されて居り,有機的自然の領域か ら歴史の領域へ,特に民族と個人との関係へ適用された。単に自然ばかりで なく,歴史における人類の生活も又一つの生ける,絶えざる発展のうちにあ るところの,有機的統ーを現わす。そこでは個々のものは全体の発展と生命 とに於ける一つの『契機』に過ぎず,そしてただこの聯関に於ける項として のみ真理性と怠味とを獲得する

o

乙の見方はへーゲノレの歴史哲学を支配して いるものであり,殊に哲学史の考察に於て最も著しい。

w

哲学の部分の各々 は一つの哲学的全体であり,自己みづから閉ぢ込められた円である白けれど も,哲学のイデーはそこでは一つの特殊な規定性もしくは契機に於てある

O

個々の円は,それが自らに於て全体性であるの故をもって,それの契機の制 限を又破り,次の圏を建てる

o

全体は従って諸円の円として自らを表し,そ の各々は一つの必然的なる契機であり,斯くてそれらの固有なる諸契機の体 系が全体のイデーを形造り,このものは同様に各々の個々のものに於て現わ れる口~

福井氏の言う I へーゲ、 jレは家族,民族,国家等に対して『有機的~ , 

『有機体』という表現を好んで使用しているばかりでなく,自然主義的生物 学的有機体説を連想せしめるような比論をさえ,行っている

o

参考までに,

二,三の例を挙げておく

o

……『……(国家の)諸契機の斯かる観念性につ

いては,有機物における生命についてと同様である

o

即ち生命は何れの箇所

l こも存在する。あらゆる箇所を通じて,ただ一つの生命が存在するだけであ

り,それに対する何等の抵抗もない。生命から切り離されては何れの箇所も

死ぬ。夫々の身分,権力,及び組合の観念性も,如何にそれらが独立に存在

しようとする街勤を有するにせよ,又斯くの如きものである

O

恰も有機的な

るものにおける胃肺が,自己を独立化しながら,しかも同時に止拐され犠牲

に供されて,全体へ移行するのと同様である

o

~

w

主権を形成する観念論

は,動物的有機体において,いわゆる部分が部分でなくて分肢即ち有機的

契機であって,諸契機の孤立及び分離は病気であるという規定と同一であ

(17)

シュムベーターとマ

J

レクス

139 

o

~ 以上の引例はすべて「法の哲学』から採って来たものであるが, 我 々は既に『自然法論文』において次のような全く同趣旨の比論を見出す。

『……これに反して,一つの部分が自己自身を有機的組織たらしめて,全体 の支配から脱却するならば,病気と死の端初が存在する

o

斯かる分離によっ て部分が全体に否定的な影響を及ぼす。否! 全体を強制してこの

potenz

のためのみの有機的組織たらしめさえする

o

一一恰も全体に服従する内臓の 生動性が独自の動物と化し,或は肝臓が支配的な器官となって,全有機的組 織を強制して自己の仕事をなさしめる場合のようにロ斯くて,例えば所有と 財産とに関する民法の原理及び体系が内に沈潜して,自ら陥った煩雑さのた めに,自己自身を独立的・無制約的・絶対的な全体なるかのように考えるこ とが,人倫の普通的体系において起り得る

o

~

然して,私自身は,乙の問題に関し,カントとの対照において,次の殺に 書いている。(拙稿「有機体説と弁証法」同,雑誌「経営と経済J) r ……カ

ントよりへーゲノレを区別せしめたのは,少くともへーゲル自身の理解に拠る 限り,カントの『生』よりへーゲ、ノレ自身のそれが,文字通りヨリ『生』の理 解に近い,というへーゲ、ル自身の確信だったのである

O

ー一一認識論的優越で なく,寧ろ我々の現実[f生』自体に即した存在論的根拠に基く優越であ る

o

[f非現実の彼岸において約束される概念が如何に美しいものであろう と,それが人間存在に内在する何ものかでないならば,究極において,それ は人間の外なる他者の……実在的命令に外ならないであろう。』……斯くし て,同じく『統一』と言い条,カントと異り,へーゲノレにあっては,個人 (部分,特殊)が,

y;k

更に強調されることとなる

o

(~全一個〉における

『矛盾』の発生,の可能性)

「けだし,同一性は矛盾に対してはただ単純なる直接的なるもの,死せる

存在の,規定に過ぎない。しかるに矛盾はすべての運動と生命性との根源で

ある

o

何等かのものはそれ自身のうちに矛盾をもっ限りに於てのみ,それは

迩勤し,街勤と活動とをもっ

o

(へーゲノレ『論理学~ ) 

(18)

140 

経 営 と 経 済

シュムベーターによれば,マルクスの「矛盾」も又,へーゲノレの志味での それである,と言う

o

即ち,言う

r

マルクスの著書の読者で余り訓練を受けていない者は,マ ルクスが相互に反発し合う事実や傾向に過ぎないものを指す時,甚だ屡々資 本主義の『矛盾』について語る理由を不思議と思われるであろう。ところ が,これらは,へーゲ、ノレ流の論理の立場ーから(のみ)矛盾に外ならぬもので ある

o

乙の点からして興味のある帰結が生れることとなった

D

今日に至るま で,通例のマルクス主義者は, (へーゲソレの用法ではなくて)通常の論理学 や言葉遣いにおいて伝えられている怠味での矛盾なる言葉を受け容れて,マ ノレクスが『矛盾』について語った時には,乙の通例の志味における論理的な 非並立性(矛盾〉をもっという非難を,マルクスが資本主義制度に浴びせか けようと欲したのだと,いつでも結論するのである一一一しかし,勿論,その 様なことではない。

J( 

[f経済分析の歴史~ ) 

では,シュムベーターにとって,へーゲソレの弁証法一一一進化主義は全くの 無意味・無内容に尽きるのであるか。 否 ! 否 ! 彼はそれ程の(自称)

「無鉄砲」ではない。むしろ,シュムベーターは,へーゲ、ノレの進化論,即ち 弁証法に,彼の「発展」におけると全く同ーの論理一一我々において最早承 知の・マルクスとも共通のーーを,発見するのである

c

シュムベーターの言う

r

……自己自身の内容を展開しながら,経験され

る実在の中に変化の継起を生み出す椋な形而上学的本体を把握することに発

する推理を,我々は発出論的な

emanatist

推理と呼びたい。読者は,へー

ゲノレによる進化の発出論的把握の中には,たとえその形市上学的な装飾物を

捨て去った後にも,尚何ものかが残ることが看破されるであろう。換言すれ

ば,実在なるものは,我々の経験から知っている松に,それ自体として内在

的必然

inherentnecessity

から展開している一個の進化的

evolutionary

過程に外ならぬもので,決して一定の(固定的な)状態乃至は水準を求めて

おり・従ってこれを他の状態乃至は水準にまで動かすためには・ニュートン

(19)

シュムベーターとマノレクス

141 

流の力学との類推が示唆するように・一個の外来的要因

extraneousfactor 

‑一或は少くとも一個の独自の要因一ーを必要とする(そこでは,モノが動 くためには,外から力が加わることが条件となっている一一ー時に,力が所謂 摩擦として消耗さるるとも 筆者)といった様な一連の現象ではないとい う考え方であり,又おそらくその発見である

oJ ( 

IT'経済分析の歴史

I) J

シュムベーターの更に続けて言う

I

この考え方は,もしも主張され得る ものとすれば,勿論極度 l 乙重要である

o

哲学に関して言えば,例えば当初 l 乙 受け容れられていたままのへーゲソレ主義から出発して,所謂青年へーゲ

J

レ学 徒の多数の者がなした様に,へーゲ、

j

レ的な唯物論と呼ばれ得るものに達する ことも,乙の考え方によって可能とされる。社会学に関して言えば,乙の考 え方は社会的変化の諸事実に対する斬新なアプローチを示唆しているのであ る

o

実際青年へーゲ、

j

レ派の一人(であった)一一マルクスの志向せる方向が,

まさに斯かるものであった。即ち,シュムベーターの言う

I

マノレクスの理 論は,ある怠味で進化論的

evolutionary

なものである

o

これと同じ芯味で の斯かる経済理論は,それまでには存在していなかった。即ち(経済が)他 の外来的要因

externalfactors

の助力がなくとも,単に自己自らの迎行に よって,尚或る一定の社会状態を他の状態へ転ぜしむる機構を明らかにせん と試みたのである

oJ ( 

IT'前掲書

I) J

換言すれば,シュムベーターにとって,哲学抜きのへーゲノレ・「精神的要 素を抜き去ったへーゲソレ哲学」一一殊に歴史哲学(進化主義) ,にして,初 めて問題となるのである。

「弁証法がへーゲノレの手で袋っている神秘化は,彼が弁証法の一般的な辺

助諸形態を初めて包括的且つ立識的な仕方で叙述したということを決して妨

げるものではない。

J

(マルクス『資本論』第二版後者)

I

へーゲ、ノレ……彼

は股史の中に発展を,内而的な聯関を証明しようとした最初の人であった。」

(20)

142 

経 営 と 経 済

(エンゲノレス)

「マルクス主義者の進化論

MarxistEvolutionismJ

を , シュムベーター は1"哲学者の進化論……へーゲノレが顕著な例となる」に次いで,問題に し,その初めに,次の様に書いている。1"精神的要素を抜き去ったへーゲ、

j

レ 哲学が社会学に対してもたらし得るかもしれない;意味内容……このことは,

ここで,マノレクス l 乙対するへーゲ、ノレの(単なる)語法上の影響力以上のもの を,結局我々が知っていることを示唆している

J

,と。(~経済分析の歴史Jl ) 

にも拘らず,シュムベーターがへーゲ、

J

レとマノレクスとを分つ一一「へーゲ

P

ノレ主義に対抗して,我々がマルクスの所調経済史観の実質的な自主性を主張 する」一一所似は何か。

シュムベータ一一一彼自身によれば,その理由は二つある。1"第一,マル クスの歴史理論はへーゲノレに対するマルクスの親近さとは独立して展開され ていた。……へーゲノレ流の

d

思弁とはおよそ何の関係もない

D

第二,マノレクス の歴史の理論は本来のところ一つの作業仮設である

O

それは如何なる哲学も しくは信条とも両立し得るものであり,従って何等かの特定の哲学と(の み)結びつけらるべきものではない。一一彼の理論にとっては,ヘーゲル主 義にしても唯物論にしても,共に必要にして充分なものではない。ここで も再び残る点は,ただへーゲル流の文体をマルクスが好んで用いた点であ る

oJ ( W

前掲書Jl) 

シュムベーターの指摘せる第一の点と,第二の点とは,必ずしも無関係で はない

o

以上の叙述に相応一一即応或は対応すべく,私自身, (幾つかの援用を用 い)次の様に書いている。(前掲論文)

「……実質上の無国籍者である彼(マノレクス)…彼の体系も又,一定の国

籍をもたなかった。 W マルクスは,人類の三つの最先進国に属する

19

世紀の

三大精神的潮流たる, ドイツの古典哲学,イギリスの古典経済学,及びフラ

ンスの革命的諸学説一般と結合されたフランス社会主義の継承者であり,天

(21)

シュムベーターとマルクス

143 

才的な完成者であった。Jl(レーニン「カール・マルクス

J

)外見上,彼の 体系は弁証法・歴史的方法その他によって, ドイツ風に整えられていたが,

その実質は,……哲学(観念論)より寧ろ科学(所謂『唯物論Jl)であっ た 。

w

叙述の外的形態によって判断するならば,一見マルクスは最大の理想 哲学者である。しかも言葉のドイツ的の意味,即ち悪い意味で。だが,実際 は,彼は経済批判の事業に携った一切の彼の先行者よりも,無限に多く実在 論者である

o

……どんな意味でも,彼を観念論者と言うことは出来ない。』

( W

資本論』第二版後書より) ……若い頃からの哲学癖こそ抜けなかったも のの,結局彼の拠り所としたのは,

w

理念』でなく『事実Jl,しかも勝れて 歴史的な事実であった

D

新時代のヨーロッパ精神一一実証主義……『実証的 な精神Jl(マノレクスについてのシュムベーターの評語) こそ, 彼の

J

保梼する ところであった。

w

斯くして,マルクスは只一つのことのために力を尽して いる

O

即ち厳密な科学的研究によって,社会的諸関係の特定の秩序の必然性 を立証するというとと,そして,彼に発出点として又支点として役立つ事実 を,出来得る限り非難の余地ないまでに,確証することが,乙れである

o

… 

…理念でなく,外的現象のみが,この批判の発出点として用いられ得るので ある

o

批判は,一つの事実を,現実を,理念でなく,他の事実と比較し,対 審することに限られるであろう

D

批判にとっては,次のことこそ重要なので ある

o

即ち,二つの事実が出来るだけ厳密に研究される。そして,実際に,

一つの事実を他の事実に対比すると,それらは,具った発展契機をなしてい るということである

D

然して,特に重要なのは,以上の場合 l こも劣らない厳 密さで,諸秩序の系列,発展段階の現れる連続と結合が,探求されるという

ことである。Jl

シュムベーターが1"生物学的諸学派

J

,こ,従って又,所詞「有機体説」

に否定的態度をとる主大な理由として,経済現象の説明に経済学に固有でな

い「他の説明要因」として「生物学的要因」を導入することが,挙げられ

よう

O

(22)

144 

経 営 と 経 済

例えば,彼が「コンドノレセ及びコントの主知主義的進化論」を批判するに 際して

i

もしも我々がその他の説明要因,例えば生物学的要因を導入する ならば,我々は主知主義的進化論の繋留宗を放棄してしまうこととなるので ある

J

,としているのが,まさに,斯かる作法に乗っとっての彼の批判とな っている

O

然して,それは,シュムベーターの最初の若『理論経済学の本質と主要内 容』において,既に明らかにしていた彼の基本的態度であった。

『本質』にあって,それは,マーシャノレ一一所謂「生物学的類比」の「力 学的類比」への優越を説いたーーにすら,酷な彼の態度として一貫している。

即ち言う

i

生物学的類比……これを推称したのは外ならぬ A ・マーシャ ノレであり,今日いかなる教科書にもそれは見出される。先づ直ちに強調さる べきは,この生物学的類比が疑念の余地多き有機体的国家信

l

その他のものと 宅も関係なきことである

D

たとえ斯かる見解は上の類比を通俗化するにあづ かつて大いに力があったとしても。ととで問題になっているのは単に類比で あって,内容的真理の導入ではない。 ……彼をして生物学的類比に力学的 のそれに対する優位を与えしめた動機は,発展なる契機を我々の科学中に m

き入れんとする努力であった口力学的方程式体系は一つの静止状態を与える が,進歩

Fortschritt

その他の諸現象に対する類比を供するものではない。

この点は正しい。だが惜しむらくは,マーシャノレはこのことを言わずして,

経済学は一つの『生

Leben

の科学』なりという主旨を示したに過ぎない。

この主旨は余りに一般的にして真に有用たり得ず,明瞭な把握の妨げとなる

に過ぎぬが如き一般的言葉の範院に属する

o

……確かに生物学と我々の領

域との関係は多数に認められる口例えば経済的行為の本質や人間動機の本質

の基礎づけ,これらは既に述べたように我々のなし得ざる所であるが,それ

を生物学は果すのである。それ故科学的世界像における生物学の成果は,お

そらく我々の成果と余り隔っていない。だがそれ故にこそ一一この点は系人

のみならず専門家にも充分明らかになっていないことが屡々ある一一我々の

科学は認識論的には依然として生物学と隔絶することが出来,それから刺激

を受けることも,それに刺激を与えることも出来ないのである

ot1qj

古は真に

(23)

シュムベーターとマルクス

145 

斯くの如きである

O

一切の行為は生物学的に説明せられる筈であり,従って 経済学は或意味では結局内容的に生物学に還元さるべき運命をもっていると いう認識でさえ,経済現象を,その内奥の本質に立入ることなく,それ自身 として取扱うことが経済の本質探究よりも多くのものを与え得る限り,即ち およそ経済学なる独立的学科が存立する限り,経済学は他に依存するもので なく自己充足的である,との事実を毛も変更するものではない口」

シュムベーターはu"経済分析の歴史』中の「進化論」の節で

I

ダーウ ィン派の進化論」は勿論として

I

歴史家の進化論

J

I

コンドノレセ及ひ、コ ントの主知主義的進化論」において,それらが,生物学的なものと連結の可 能を有していることを暗示している

D

残る二つのタイプ。の進化論一一二つの 大物

I

哲学者の進化論……へーゲノレ

J

I

マルクス主義者の進化論」につ いては,その様な言及はない。

が , しかし,本稿の筆者におけるが如く,ヘーゲノレやマノレクスについての 有機体説との密接をテーマ「弁証法と有機体説」に説くが如き, (仮にシュ ムペーターがそれを知ったとすれば, )彼はまさしく「幼稚症」の評をもっ て批難・一蹴したに違いないであろう

O

既にして日く

I

精密的方法の敵が如何に好んで生物学に退却するかは,

屡々人の見得るところである口しかし乍ら,この思想過程をその現実的功績 について検討するならば,それは空虚である乙とが分り,私の考えでは,今 日真単なる探究の結果は,悉く一つの幻滅たらざるを得ないであろう

J

,  と。( ú"本質~ ) 

それでは,シュムベーターは

I

生物学的諸学派」乃至有機体説に対し て,一寸だに,何らの汀定を持たなかったのであろうか。

野口堆一郎氏(中央大学)は,最近

I

朝日新聞

J

(昨年 2 月 9 日付)紙

上において

I

ゆらぐ経済観」と題し,一一所謂「スタグフレーション」を

テーマとしつつ版めて興趣深い問題の提示を行っている。

参照

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かくして Appleton の言及は, 内に概念的先駆者とし ての自負を滲ませながらも, きわめてそっけない.「隠 れ場」にかかる言説で, Gibson (1979) が

分からないと言っている。金銭事情とは別の真の

「文字詞」の定義というわけにはゆかないとこ ろがあるわけである。いま,仮りに上記の如く

しい昨今ではある。オコゼの美味には 心ひかれるところであるが,その猛毒には要 注意である。仄聞 そくぶん

うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、

作品研究についてであるが、小林の死後の一時期、特に彼が文筆活動の主な拠点としていた雑誌『新

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