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社会科教育本質論(Ⅱ)
―認識過程を中心に―
宮 本 光 雄
は じ め に
社会科教育本質論(1)の問題提起において, 「社会科教育は,児童・生徒の社会につ いての認識を科学的・客観的な社会認識にまで形成する教科である。」と捉えると共に,
この概念規定には少なくとも「児童・生徒の社会についての認識を」「科学的・客観的な 社会認識にまで」「形成する教科である」という三つの要素が包含されており,重要なこ とは,それら諸要素の一つ一つが深化・拡充・発展されると同時に,それらが結合・統一 され,さらに全統一体の中でそれら諸要素が一層深化・拡充・発展され,総体として諸力 を発揮するとき,科学としての社会科教育が合法則的に成就され得るのである,というこ とを指摘した。そこで,社会科教育の本質を明確にして,科学としての社会科教育を実践し ていくためには,そのための基本的要素をより重視すると共に,全統一体の中でそれら諸 要素が深化・拡充・発展されてゆくことが一層重要であるということを充分踏えた上で,
その取り組みの姿勢として,基本的諸要素の一つである「科学的・客観的な社会認識とは 何か」という視角からまず社会認識についての問題を深化・拡充・発展させることによっ
り の
て,即ち社会科教育の深遠な基底からその本質を問うことによって,社会科教育の本質解 明に一歩一歩接近しようとするものであり,それ故,拙稿においては,性急に当面してい る社会科教育の諸問題に直接答えようとするものではなく,それら諸問題の根底において かかわりをもつ閥題を何よりもまずあらゆる視角から徹底的に検討・吟味し,統合するこ とによって,現実の社会科教育がかかえている諸問題の解決に光を与え,方向を示唆する 基盤を模索しようとするものであることを強調し,社会認識における認識主体と認識客体 との問題をクローズ・アップして考察してきた。 (引用・参考文献⑳一71〜73ページ,以 下すべて⑳一71〜73と記す)
従って,本論稿においても,その取り組みの姿勢を一貫して保持すると同時に,理論即 実践にまで結実する科学としての社会科教育(社会認識教育学)の確立を指向しつつ,
(社会)認識の発展過程についての問題を浮き彫りにして考察をすすめようとするもので
ある。
教育,特に社会科教育が「認識」の発達を中核的な契機として,人間の全面的発達を志 向している以上,「児童・生徒の社会についての認識発達の過程」〔児童・生徒の認識の 発達過程の法則性C一般性)とその独自性(個性)との解明〕と「科学的・客観的な社会 認識の発展過程」と「全面的人間形成への目的志向的な発達過程」とを相即的に究明され なければならないが,前述した如くその取り組みの姿勢として,それら基本的諸要素の一 つ一つをまず深化・拡充・発展させ,次いでそれらを結合・統一させ,さらに全統一体の 中でそれら諸要素を一層深化・拡充・発展させ,総体として究明していこうとする立場に たつ限り, 「科学的・客観的な社会認識の発展過程」の究明が本論稿の中核的な位置を占 あることを再度おことわりしておきたい。それ故,ここでの「認識」は,当の主体(個
り り む り り
人)にとってだけでなく,主体一般(社会)にとっても新しい結果を達成することを直接 的に指向している認識である。(1)
とはいえ,今後当然考察しなければならない他の基本的諸要素との連関を,本論稿では 表記しないまでも充分脳裡に描きながら,最初に掲げた「科学的・客観的な社会認識とは 何か」という視角からの当面の考察対象である認識過程の問題に接近していきたい。
1 感性的認識と理性的認識
人間の認識の出発点は,実践過程のなかで,感覚器官を通じて得られる客観的外界の印 象である。客観的外界との直接の結びつきから生まれる感覚がすべての認識のあゆみの第 一歩である。こめ感覚・印象の段階を感性的認識の段階というのである。この点について 毛沢東は『実践論』のなかで次のように述べている。「もともと人間は,実践の過程にお いて,はじめのうちは,過程のなかのそれぞれの事物の現象面だけを見,それぞれの事物 の一面だけを見,それぞれの事物の間の外面的な連関だけを見るものである。…これを認 識の感性的段階,即ち感覚と印象の段階という。…これが認識の第一寝惚である。」 (⑳ 一1ユ〜12)と。
感性的認識が認識のあゆみの第一歩であるということには,主として二つの理由があ
る。
その第一点は,人間の感覚器官を通して客観的外界の感覚がよびおこされなければ,どん な認識のなかみも生じないということである。感覚論(ロック,コンディヤックなど)は
り り り の
認識の源泉の問題を原理的に正しく解決しており,その基本的命題即ちはじめに感覚の
り り の
なかになかったものは理性のなかにもないという命題は,人間的認識の感性的根源をあら わしている。(2)このことは,レーニンも承認している。即ち,「認識論の第一前提は,
疑いもなく,われわれの知識の唯一の源泉が感覚である,というとζうにある。」 (⑳一 184)と。さらに,毛沢東は,「理性的なものが信頼できるのは,まさにそれが感性に由 来するからである。…認識過程の順序からいえば,感覚的経験が最初のものである。われ われが認識過程における社会的実践の意義を強調するのは,社会的実践によってのみ人間 の認識が発生しはじめ,客観的外界からの感覚的経験が得られはじめるからである。」
(⑳一20)と述べている。このように感性的認識は,あらゆる客観的外界に対する人間の 認識がそれをよりどころとする出発点であり,基盤であるということである。
その第二点は,感性的認識は,客観的外界を生き生きと反映してはいるが,一定の制限 をもっていて,必ずより深い毅階にすすめられなければならないということである。毛沢 東も述べているように,感性に直接あたえられるのは,事物の表面にあらわれている現象 であり,事物の個々の側面であり,また,事物の外面的な連関である。この意味で,それ は,最初の浅い段階であり制限されたものであるということである。
とはいえ,感性的認識をひどく貧弱なものであると捉える誤りをおかさないためにも,
感性的なもの(感覚・知覚・表象)の特質について理解しておく必要がある。
感覚(sensation)は,客観的外界が人聞の感覚器官に生じさせる最初の結果であり,外 界の種々様々な要素が感覚器官の外面的部分を刺激することからはじまる。この刺激は神 経系を伝わって大脳皮質に達し,ここで感覚が生じる。「従って,感覚は二つの物質形態 の相互作用の結果である。一つは,感覚器官の外に旧い出される刺激物であり,他方は,
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神経系として組織された物質,分析器である。一方の物質形態(刺激物)が感覚の性格に 影響を与え,他方の形態(神経系)は与えない,と言うことはできない。感覚は両者の相 互作用の結果であり,どちらも物質的性格をもっている。相互作用する系のどちらか一方 の意義を低いものとし,他方の意義を絶対化するようなことをしてはいけない。」 (⑤一 2ユ2)要約的に言えば, 「感覚は二つの物質系一感覚器官の外にある客体(刺激)と,感 覚の形式に本質的な作用を及ぼす主体(感覚器官,神経系)と一の相互作用の結果であ
る。」 (⑧一203)
感覚には,視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・有機感覚・平衡感覚などがあるが,これら は感覚器官を刺激する外界がもつ特殊な性格による。それ故,感覚は外界の対象の個々の 側面を反映する。これらの諸側面は,外的対象において統一して存在しているのであり,
この統一のもとでとらえるのが知覚(perception)であって,ただ諸感覚をよせあつめた にすぎないのではなく,まとまった質としての外界の対象の反映である。それ故,感覚は 知覚の基礎であるが,現実には,特殊な場合を除けば純粋な感覚というものはない。現実 にあるのは外界の対象の認知作用としての知覚であって,知覚にはある程度の記憶や思考 が含まれている。つまり,知覚は記憶や想像とちがって直接に感覚器官に働きかける外界 の対象を目前にもっており,感覚器官を通じて得られる材料に基づいてはいるが,それに はある程度の記憶や思考の働きが加わっているということである。知覚のなかでそれらを 除いた面,即ち外界の刺激によって生じた面が感覚である。知覚は,外界の対象の発する 刺激を受容し,対象をそのまま写すだけの作用ではなく,対象からくる多様で複雑な刺激 の総体に対して統合的に作用する点で,単純な部分的な刺激に対する認知反応である感覚 と区別される。要するに,知覚は,感覚器官の刺激に対応する要素的な感性経験としての 感覚に対して具体的・全体的な感性経験をさすのである。
さらに,表象(presentation, representation)は,知覚に基づいて,意識にあらわれる 外界の知象の像をいうが,この場合,知覚の対象が現前しているときには知覚表象といわ れ,以前に知覚された対象が記憶によって再生されるときには記憶表象,また以前の知覚 の諸要素が主観の側で組み合わされてあらわれるのは想像表象といわれる。表象は感覚的
・具体的な直観的意識内容として思考による論理的・抽象的な概念や理念と区別される が,記憶表象と想像表象は,知覚表象とちがって,知覚された諸要素のなかから選択がな され目立ったもの・重要なものがそこにとりあげられていて,これらは知覚表象と思考の 概念との仲介となる。またこの意味での表象は,過去のものを再生したり未来のものを予 見したりして,対象を心像の上で描き,科学的認識や実践,芸術的創作にとって,積極的
な役をつとめる。
このように,感覚と知覚は,人聞の認識の源泉であり,また確実性をもっている。それ らは,一定の限界内で,現実を正しく反映する客観的外界についての表象をもたらすので ある。それ故,人間の感性的認識は,感性の段階として,あたえられた感覚を選り分けた り,まとめ上げたりする一定の初歩的な分析や総合の働きを含んでいる。それ故,より高 度な認識の出発点ともなるのである。
感覚と知覚の確実性について,エンゲルスは,次のように述べている。「われわれが,
注意してわれわれの感覚を正しく訓練して正しく使用し,かつ,われわれの行動を,正し くつくられ,正しくもちいられた知覚によって規定された限界内にとどめておくならば,
その限り,われわれは,われわれの行動の結果が,われわれの知覚と知覚された事物の客 観的本性との一致を証明するものであることを,知るであろう。その限りでは,ただの一 度たりどもわれわれは,科学的に制御されたわれわれの感性的知覚が,外界に関してその 本性上実在と一致しない観念をわれわれの心のなかに生み出すとか,あるいはまた外界と それについてのわれわれの感性的知覚との間には固有の不一致が存在する,というような 結論に導かれたことがなかったのである。」 (⑳一27〜28)と。さらに,コーンフォース は,「われわれの感覚は必然的に,われわれ自身の外にある実在に一致する知覚をわれわ れにあたえるように構成されている。あらゆるわれわれの認識のはじまりであるこれらの 知覚は,実践的活動をすすめてゆくなかで獲得され,そして実在とのそれらの一致は,実 践的活動のなかでもたらされ,点検される。そこで,あらゆるわれわれの認識は一即ち,
客観的実在に関する限り正しい反映として確立され,点検されるわれわれの概念の総計は 一われわれがわれわれの実践的活動のなかで獲得する知覚に基づいて確立されるのであ
り,そして同様に同じ活動のなかで点検されるのである。」(③一159)それ故,「われわ れは,実践と感覚的経験の点から説明され正当化され得ないようなものを,何人からも何 一つとして受け入れるべきではない。なぜなら,われわれは,ある存在あるいは性質が,
何らかの仕方で,直接にか間接にか,われわれの感覚によって見つけ出され得る限りを除 いては,その存在あるいは性質を何も認識し得ないからである。」(③一157)と述べてい
る。
ゆ り
認識は実践に基づいて浅いものから深いものへとすすむというのが,認識の発展過程に 関する理論であるが,この点について,毛沢東は次のように述べている。「社会的実践の 継続によって,人々は事物についての感覚と印象を何回となくくりかえす。すると,人間 の頭脳のうちで,一つの認識過程における突然の変化(つまり飛躍)がおこり,概念が生 まれる。概念というものは,もはや事物の現象でもなく,事物のあれこれの一面でもな
く,それらの外部的な連関でもなくて,事物の本質,事物の全体,事物の内部的な連関を とらえたものである。概念と感覚とは,単に量的にちがうだけでなく,質的にもちがつた ものである。このようにして,判断と推理の方法をつかってゆけば,論理にあった結論を ひきだすことができる。…これが認識の第二の段階である。…この概念,判断,および推 理の段階は,ある事物を人々が認識する過程全体のうちで,より重要な段階であり,理性 的認識の段階である。認識の真の任務は,感覚を経て思考に達すること,一歩一歩と客観 的事物の内部矛盾を理解し,その法則性を理解し,一つの過程と他の過程との間の内部的 な連関の理解に達すること,即ち,論理的認識に達することである。繰り返していうと,
論理的認識が感性的認識とちがうのは,感性的認識が事物の一面,現象,外部的なつなが りに関係するにすぎないのに対して,論理的認識は,大きく一歩をすすめて,事物の全 体,本質,内部的な連関に達し,周囲の世界の内在的矛盾をあばき出すようになり,従っ て周囲の世界の発展を,その全体性において,そのすべての側面の内的な連関において,
把握することができるところまで達しているからである。」 (⑳一12・γ13)と。
さらに,毛沢東は,認識過程における二つの段階の特質について次のように書いてい る。「認識は低い段階では感性的なものとしてあらわれ,高い段階では論理的なものとし てあらわれるが,いずれの段階も一つの統一的な認識程程のなかの段階である。感性と理 性という二つのものの性質はちがっているが,だからといって,それらはたがいに切りは
129 社会科教育本質論(∬) (宮本)
り り
なされたものではなく,実践の基礎のうえで統一されているのである。われわれの実践 は,感覚されたものでも,すぐには理解できないということ,理解したものだけを,より 深く感覚するということを証明している。感覚はただ現象の問題を解決するだけであり,
理論がはじめて本質の問題を解決する。これらの問題の解決は,少しも実践からはなれる ことはできない。誰でも,何らかの事物を認識しようとするなら,その事物に接触するこ と,即ちその事物の環境のなかで生活する(実践する)こと以外には,問題解決の方法は ない。」 (⑳一14,傍点…引用者)と。
少し長い引用になったが,それは,これまで感性的認識と理性的認識とが互いに対立的 に説かれ,カントにおいてこれら両者の統一が先験的観念論の立場から試みられ,マルク ス主義認識論においてこれら両者が弁証法的に統一され,毛沢東に至ってこれら両者の関 係が一層明確にされたといわれる重要性を考慮してのことである。
毛沢東によれば,何らかの事物を認識するには,その事物の環境のなかで実践し,事物 に接触しなければならない。この接触は感覚器官を通じてなされるから,感覚は認識の源 泉であり,感性的認識は認識の発端である。それは客観的外界についての生き生きとした 反映ではあるが,一面的・表面的で事物間の外面的な連関を反映するにすぎない。だが,
感性による認識はその累積の結果として,感覚に基づく多様な外界対象についての認識に 概括・一般化されて,外面的な事物の認識が単にこれにとどまらず,それら事物の内部に 潜む本質や法則をとらえるようになる。つまり,実践の継続によって感覚を繰り返すこと
り り
によって認識過程における質的転化(飛躍)が生じ,理性的認識(論理的認識)に到達す る。これは概念・判断・推理によるもので,感覚された材料を総合し,整理し,加工する ことによって事物の全体・本質・内部的連関に到達し,周囲の世界の内在的矛盾をあば き,その発展をその全体性において,そのすべての側面の内的連関において把握する。
「理性的認識は感性的認識に依存し,感性的認識はさらに理性的認識にまで発展しなけれ ばならない。」(⑳一21)両者は統一的な認識過程のなかの段階であり,性質はちがうが,
きりはなすことのできないものであり,実践の基礎のうえで統一されているのである。そ れ故,「実践からはなれた認識というものは不可能である。」 (⑳一17)
認識は実践にはじまり,実践を通じて理論的認識に達すると,再び実践にかえらなけれ ばならない。認識の能動的作用は,単に感性的認識から理性的認識への能動的な質的転換
の り む の コ り
にあらわれるだけではなく,一層重要なことは,理性的認識から創造的な実践へという質 的転換にもあらわれなければならない。社会の法則性についての認識を獲得したならば,
それを再び社会的実践に還元しなければならない。これが理論を検証し,理論を発展させ る過程であり,全認識過程の継続である。理論的なものが客観的真理性に合致するかどう かの問題は,感性的認識から理性的認識への認識運動のなかでは,まだ完全には解決され ていないし,また完全に解決できるものでもない。この問題を完全に解決するには,理性 的認識を再び社会的実践のなかにもちかえり,理論を実践に応用して,それが予想した目 的を達成できるかどうかを見るほかない。 (⑳一22〜23)このように,「実践・認識・再
コ
実践・再認識」(⑳一28,傍点…引用者)という過程が無限に繰り返されることによっ て,実践そのものが発展するとともに認識も深化・発展してゆくのである。
り り り り む り り り の ロ コ
ここに至って,認識過程を感性的認識と理性的認識との動的な弁証法的統一・発展過程 としてとらえ得るのである。(3)そしてこのことは,個人の認識の発展についても,社会
の認識の発展についても,また人類の認識の歴史的発展についてもあてはまるのである。
皿 悟性的認識と理性的認識
これまで,認識の発展過程の問題を,感性的認識と理性的認識を中心にしてみてきた が,ここで注目すべきことは,毛沢東が認識の発展過程を,感性的認識と理性的認識とい
う二つの段階としてのみとらえ,認識過程をあまりにも簡略化している点である。
というのは,認識の発展過程における悟性と理性は,これまで,論理的発展毅階での思 考の特性を表現するカテゴリーとして形成され,認識の発展過程を感性的なものを理性的 なものに,経験的なものを理論的なものに対置するだけではすまされず,理論的なもの自
り り
体の本質に深くはいり込み,思考をより深く考察し,思考そのもののなかに質的な諸段 階,つまり連続性のなかに結節点を見い出さなければならなかったからである。
思考そのもののなかにある質的な結節を抽出しようという最初の定式化された試みの一 つは,受動的理性(intellectus passivus, passive intellect)と能動的理性(intellectus agens, active intellect)についてのアリストテレスの命題であった。いまここでわれわれ がこのアリストテレスの命題に関心をよせるのは,もっぱら悟性と理性というカテゴリー の形成という一側面からである。アリストテレスは理性を受動的なものと能動的なものと に分け,前者を肉体とともに生成消滅するもので,まだ何もそのなかに書かれていない白 紙でどんなことでも書き込まれる可能性をもつものであり,諸表象を感覚する受動態であ るととらえ,後者を肉体から離れて永遠に存在するもの,万物の運動の究極原因であるが それ自体は不動なもの,自己自身を思惟の対象とする思惟の思惟としてとらえている。そ れ故,受動的理性は思惟されるもののすべてになる可能性をもつ「質料」(4)に相当し,
能動的理性はこれに働きかけてその可能性を現実化する「原因」 (形相)に相当する とされ,しかも能動的理性は他から変化をこうむることなく,常に現実に働いている永遠 不死の理性であるとされる。受動的理性は,概念によって物における普遍的で必然的なも のを理解することができ,感覚所与の仕上げにたずさわる。それは,感性が物にかかわる のと同じように,感覚所与にかかわる。能動的理性は,受動的理性とは異なって,思考で あると同時に,思考の客体である。また,受動的理性とは異なって,能動的理性は目的志 向性をもっている。ここで意義があるのは,思考の二つの機能,つまり,感覚所与の加 工,それに基づく判断の陳述という機能と,物を目的志向的に変化させる現実的な道筋の 解明という機能とに関するアリストテレスの思想である。前者の機能を悟性的とよぶこと ができ,後者を理性的とよぶことができる。関心をひくのは,アリストテレスが受動的理 性と能動的理性とを可能性と現実性というカテゴリーの側面から考察していることであ る。(⑤一253〜254)
受動的理性と能動的理性に関するアリストテレスの命題は,思考をその発展の質的な諸 特性,諸段階を表わす個々の側面に区分する可能な道を示すと共に,それらの間の連関に ついても示し,受動的理性を能動的理性に従属させた。中世末期のニコラウス・クサヌ ス(Nicolaus Cusanus,140ユ〜1464)と近世初;期のジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno,1548〜1600)のもとでは,悟性的な思考と理性的(知性的)な思考とへの区分は,
より一層はっきりと表現された。クサヌスは人間の認識の段階,即ち感性(sensus),悟性
(ratio),知性(intellectus),を構成している。悟性は感覚所与に形式を与え,知性は悟性
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をこえており,悟性の活動の結果に意味と意義を与える。感性(senso),悟性(raggione),
知性(intellecto)を認識の発展諸段階とする思想は,ブルーノにも含まれている。(⑤一 255〜256)
「アリストテレスとクサヌスとブルー/は,感性に対する思考の質的な独自性の問題を 提起したばかりではなく,思考それ自体を同様に質的に独自な個々の諸契機に区別すると い.う問題を提起し,それらの諸契機の各々が真理の達成にあたって果す働きを解明した。」
(⑤一257)そして「彼らに共通なのは,経験の結果を区分し,記録し,記述する思考活 動と,客体の内的本質・客体の目的志向的な変化の形式・の思考による把握との相異を確 認したことである。」 (⑤一257)
カントとヘーゲルのもとでは,悟性的な思考と理性的な思考とへの区分は,より一層の 基礎づけをもって表現された。
カントは,認識能力を感性,悟性,理性とに区別して,次のように述べている。「われ われの一切の認識は,感性に始まって悟性に進み,ついに理性に終るが,直観の供給する 素材を処理して,思惟の最高の統一に従わせるものとしては,理性よりも高いもの〔認識 能力〕は,われわれのうちには旧い出せない。」 (⑫一17)と。
カントは,感性(Sinnlichkeit, sensibility)を自発的な思考能力としての悟性・理性 と区別して,外界の対象から触発される仕方で表象を受けとる直観の能力であるとし,こ の受けとり方は,感性のアプリオリ(先天的)にそなわる形式,即ち時間と空間に規定さ れているとする。
悟性(Verstand, understanding)は感性的所与に基づいて,対象を構成する概念作用
り り り
の能力を意味し,対象を思惟する能力,概念を用いて判断する能力である。思惟とは概念 による判断作用であるが,カントは判断を単に主概念と賓概念との関係であるとする形式 論理学の考えを超えて,判断とは感性的直観の多様を悟性が総合的に統一する動きである
とする。
このように,カントによれば,悟性が自発的であるのに対し感性は受動的であり,悟性 が思惟能力であるのに対し感性はその悟性に思惟の素材を提供するものであり,その素材
とは,感性が自らの形式によって対象から受けとるものであり,感性の質料は,悟性の概 念(カテゴリー)によって総合的に統一されて,客観的妥当性をもった認識となるのであ
る。(5)
さらに,理性(Vernunft, reason)は概念の多様を理念によって統一する高次の能力 であるが,カントは認識にかかわって真価値を探究する理性を理論的理性とよび,行為・
意志にかかわって善価値を追求する理性を実践的理性と名付けたが,両者は同一本質のも ので適用が異なるにすぎないと考えられる。理論的理性は,広義にはアプリオリな認識能 力の全体(感性・悟性・狭義の理性)を意味し,狭義には感性,悟性と区別され,イデー にかかわる高次の思考能力を意味するのである。
このように,カントは,悟性が範躊(カテゴリー)の能力であるのに対して,理性は理
リ コ
念(イデー)の能力であるという新たな区別を思考そのもののなかに賦与した。(6)彼によ れば,量,質,関係などのカテゴリーを用いて認識の対象を構成するのが悟性の能力であ り,これに対して理念によって悟性のあらゆる可能な経験的な働きの統一をさらに統一的 ・体系的なものにするのが理性の能力だというのである。またカントは,「悟性を規則の
り
能力」,「理性を原理の能力」(⑫一18)であるとしている。この点に関して,カント は,さらに次のように述べている。「悟性は,規則を用いて現象を統一する能力であると 言ってよい。これに対して理性は,悟性の規則を原理のもとに統一する能力である。それ だから理性は,直接に経験やまた何らかの〔経験的〕対象に関係するものではなくもっぱ ら悟性に関係し,概念によって悟性の多様な認識にアプリオリな統一を与えるのである。
従ってこの統一は理性統一と名付けてよい,そしてかかる理性統一は,悟性によってなさ れ得る統一とは全く別種のものである。」 (⑫一20)と。
カントにおいては,悟性と理性との対置は,最も鋭く明瞭に表現されている。しかし,
この対置自体は全く悟性的な性格をもっているといえる。カントは認識のなかでこれらの 両契機の果す機能を区分したが,彼自身の認識論の形而上学的な性格のために,理性的な 結合にまで,つまりそれらの機能の統一の把握にまで達することができなかった(⑤一 258)といえる。
さらに,ヘーゲルによって悟性と理性の把握は一層の前進をもたらされた。ヘーゲル は,悟性を,あるものを固定化し他との区別にたちどまり,他との内的連関および他への 転化の必然の理解へ進まない思惟の能力,つまり固定した有限的・抽象的概念を与える能
カであり,理性を具体的概念を与える能力,つまり弁証法的に思考する能力であるとす
る。(7)
ヘーゲルによれば,論理的なものの展開は,悟性的段階,否定的・理性的段階,肯定的
・理性的段階という三つの発展段階を経過する(⑯一239〜257)と述べている。第一の二 階は,悟性的段階であって,ここでは悟性的思惟がある規定を固定し,それを他の規定か
ら区別されたものとして考えており,そのような制限された抽象的なものがそれ自体で成 立していると見なしている。つまり,悟性的認識の段階にあっては,われわれは有限的事 物をただ有限的事物として認識するにすぎない。それ故,この有限的事物について妥当す るある規定を絶対的なものとして固定するのである。しかし有限的事物は変化してゆくも のであるから,われわれは直ちにそれについてその規定とは矛盾する新たな規定を見い出 さなければならない。ここに,はじめに悟性が固定した規定はその絶対性を喪失し,われ われの認識は矛盾にぶつかるのである。ここで第一の段階で考えられていた有限的な規定 がその反対の規定へと移ってゆくのである。これが第二の否定的・理性的段階であって,
第一の段階で考えられた規定に対して矛盾する規定が生じてきて,この二つの矛盾的規定 が対立すのである。しかしこの二つの規定が矛盾するものと考えられたのは,われわれが ただ有限的事物のみを見ようとする悟性的立場を堅持している限りにおいてであって,わ れわれが有限的事物がそのなかにおいて変化してゆく全体を見るならば,この二つの規定 は実は決して矛盾するものではなく,ともに全体のうちの契機として認められるというこ とに気づくであろう。ここにおいて,この対立する二つの規定が総合統一されるのであ る。これが第三の肯定的・理性的段階である。そしてこの段階に至ってわれわれの認識 は,はじあの悟性的段階よりも一層高次の段階へ進むのであり,いわば理性的段階に到達 するのである。もとよりこのような認識の三段階的展開は決して一度だけ行なわれるので はない。われわれの認識はこうした三段階的発展をくり返しながら,ついに真実の全体 者,即ち絶対者の認識へと到達してゆくのである。(⑮一44)
ヘーゲルは,カントのように,絶対者・神はわれわれの認識の対象にはならないという
ユ33
社会科教育本質論(皿) (宮本)
ような考え方を取らない。カントがこういう考え方を取ったのは,われわれの認識能力の うちにはじめから一つの固定した論理(即ち先天的な直観形式と先天的な悟性概念)があ って,絶対者というものはこの思惟の論理の枠のうちにははいり得ないと考えたからであ った。つまり,われわれはただ現象の世界を認識することができるのみであって,絶対者 というものは決して認識の対象とはなり得ず,絶対者は有限者の世界から全く断絶してそ の彼岸にあるとカントは考えたのである。ところがヘーゲルの場合,もはやこうした考え 方は存在しない。われわれの認識能力のうちにはじめから一つの固定した論理があるとい うようなカント的考え方は,ヘーゲルのうちにはもはやないのである。ヘーゲルの考える 絶対者は歴史のうちにおいて自己を実現してゆくものと考えられているのであるから,そ れは歴史における有限者の変化を離れて存するものではないということである。絶対者は いわば有限者の彼岸にそれ自身で存しているものではなく,有限者の変化を通じてのみ存 するのである。絶対者は有限者と対立するものではなく,むしろ自己のうちに有限者を包 み込んだものである。有限者の変化を通じて絶対者は自己を実現してゆくのである。従っ て絶対者は有限を離れては存し得ないのであり,有限者は絶対者の本質的な契機となるの である。つまり,ヘーゲルはむしろ絶対者をそのあるがままに,その真実態において認識 することこそ,われわれの思涯の役目だと考えているのである。 (⑮一33〜42)
ここにおいて,われわれは絶対者についてのヘーゲル的考え方を否定しても,なお弁証 法という考え方を取ることができるのである。
アリストテレスからヘーゲルにいたるこの発展的展開は,思考のなかに悟性的なものと 理性的なものという二つの契機を区別する必然性を根拠づけてきた。このような区別の正 当性をエンゲルスも次のように承認している。「このヘーゲルの区別付け,これにあって はただ弁証法的な思考だけが理性的なのだが,これはある一つの意味をもっている。」(⑫ 一77)と。
ここに至って,悟性的認識と理性的認識を以下のように把握することができる。
悟性的認識は,抽象的概念を使用するが,その抽象的概念の内容や本性にはいりこまな い。悟性にとって特徴的なのは,与えられた図式ないしその他の何らかの型式の範囲内で の抽象的概念の使用である。悟性的活動はそれ自体の目的をもたず,まえもって与えられ た目的を遂行する。
エンゲルスは悟性的活動について次のように述べている。「すべての悟性的活動,即ち,
り む リ コ リ り
帰納すること,演繹すること,従ってまた抽象すること,…未知の諸対象を分析すること
(クルミを砕くことが既に分析のはじまりである),総合すること(動物のずるい所作の 場合)並びに,両者の合一としての,実験すること(新しい障碍や勝手の悪い状況の場 合)をわれわれは動物と共通に有している。その種類からすれば,これら全部の操作方式 一従って普通の論理学が承知している科学的研究のすべての手毅一は人間の場合と多 少とも高等な動物の場合とで完全に等しい。ただその(各々の場合の方法の発展の)度合 いからすればそれらは相異っている。方法の根本諸特徴は等しいのであり,そして廉廉,
動物双方とも単にこれらの初等的な方法で仕事をなし,あるいはこれらで間に合わせてい る限り,人間にあっても動物にあっても共に同じ結果に導く。」 (⑫一77)と。
エンゲルスも述べているように,悟性的活動というのは,方法そのものを,それの限界 と可能性を自覚することなしに,厳格に与えられた図式・型式に従って,思考形式や抽象
長崎大学教育学部教育科学研究報告 第23号
を操作することである。悟性的活動のこの特質を悟性の自動性として表わすことができ る。人間の悟性的思惟を最も明瞭に性格づける特質は,いわゆる機械的思惟のなかに表現 されている。そこでは,悟性の自動性は成熟した典型的な形式にまで達している。
悟性的活動のすべての形式がわれわれと動物とに共通しているというエンゲルスの考え を,いまや,人間の悟性的活動と人間によって構成された機械との共通性の確認にまで拡 張することができる。もっと正確にいえば,悟性的思惟の特質,その自動性が,悟性の活 動を機械化することを可能にしている。
り む む り
このようにして,悟性的活動は三つの層をもっているといえる。即ち,高等動物におけ
り む り り ロ リ り ゆ り り り り り り
るその端緒,人間の悟性,および人間の悟性的活動の機械による代替である。最後の場合 には悟性は純粋な姿で現われる。それは,どんな他の契機によってもぽかされることな
く,一定の思考操作を遂行する際の正確さ,迅速さによって人皆よりもすぐれている。こ のような悟性の特質が最:もはっきり現われるのは,アルゴリズム,つまり,あれこれの計 算過程の実施についての規則であって,その特徴は厳密に決定してゆく規定性である。計 算過程の各々の段階が次の段階を規定し,過程自体が個々のステップに分られており,
命令・指示は記号の組み合せの形で与えられる。だから,アルゴリズムによる行動は,機 械でも遂行できる。(8)そこで,人間の思考の機能を機械に伝達する必然的な条件となる のは,アルゴリズム,即ち計算過程をあたえる正確な命令・指示の作成である。
だが,悟性的活動は理論的思考に不可欠であって,これがなければ思考は散漫で曖昧で 無規定である。悟性は,理論を形式化された体系にしょうと努め,思考に規定性,厳密性・
体系性を与える。しかし,もし思考をただ悟性的なものにとどあておくならば,思考は独 断的なものに転落してしまうであろう。というのは,何かを規定しようとすることは,そ れを限界づけることにほかならず,限界づけるということは固定化することにほかならな いからである。ヘーゲルも指摘するように,われわれが悟性的認識の立場に立つ限り,有
.限的事物について妥当するある規定を絶対的なものとして固定するからである。しかし有 限的事物は変化してゆくものであるから,われわれは直ちにそれについてその規定とは矛 盾する新たな規定を見い出さなければならない。さらに,毛沢東も指摘するように,「過 程自体も推移するという点から言えば,人々の認識の運動が完成するということはない。
あらゆる過程は,それが自然に属するにせよ,社会に属するにせよ,すべて内部の矛盾と 闘争によって推移し発展するものであり,人々の認識の運動もまたそれにつれて推移し発 展しなければならない。」(⑳一25)思考にとって重要なことは,過程自体の客観的な推移 にともなって,以前からの体系の限界をのりこえて新しい体系をつくり出すことである。
ある体系から他の体系への移行は理性によっておこなわれる。それ故,悟性が人間の思考 の特質なのではない。その特質をあらわすものは,本来の理性である。
の り り り の り の の り む
理性的認識は,諸概念の使用であると同時に,諸概念自体の本性の検討である。理性は 単に機械的に諸概念を使用するのではなく,諸概念の内容や本性を自覚し,この自覚に応
じて諸概念を使用する。ここから理性的なものは常にある程度,自己認識として現われ る。しかし,対象を把握する思考の本性の検討としての自己認識は,自己目的ではない。
それは,客観的世界をより合法則的に認識するための手毅である。客体をより完全により 深く認識するためには,主体はそれ自身の認識手段と様式を充分理解しなければならな い。それ故,人聞による理性的認識の程度は,とりわけ,対象を把握する思考の本質に浸
135 社会科教育本質論(1) (宮本)
透し,諸概念それ自体の本性を検討するその能力によって規定される。
理性的認識の特質となるのは,その目的志向性である。理性は客観的世界を直観的にで はなく,創造的・能動的に把握する。理性は客体をその存在と運動の必然的諸形態におい て反映するのであって,客体を単にあるがままに認識するのではなく,その発展過程で人 間の実践活動の作用のもとであり得るようなものとして認識するのである。それ故,事象 や過程は,理性の働きによって,創造的・能動的に,目的志向性をもって反映される。理 性の創造的機能は観念論によって強調され,誇張されたが,観念論は理性を現実の造物主 に転化させてしまった。だが実は,人間が彼自身の実践的行為によって世界を変革し創造 するのであり,理性はこの行為をその目的志向的で能動的な客体の反映によって方向づけ るのである。人間の理性たる所以は,既成の体系の限界外に出て,人聞の目的を一層完全 に,客観的に反映する新しい体系を創造することを目指すところにある。創造的に能動的 な反映はどうしても総合を前提としており,それ故,理性は,最高度にまで展開された認 識の総合性の同義語となる。理性の特徴は,最高の水準にまで高められた人聞能力として の総合・統一である。ここで,われわれは客観的世界を理論的に獲得する最高形式として 理性をとらえることができる。
り の り ロ る の り り り ロ り の の り の り
理論的思考の発展過程は,悟性的活動と理性的活動との相互連関と相互移行を前提とし
り
ている。客観的世界の諸現象とその運動の合法則性とを完全に深く反映するためには,思 考は悟性的であると同時に理性的でなければならない。コプニンが指摘するように,現時 における理論的思考は二つの方向,即ち,理性的な方向と悟性的な方向とにおいて急激な 発展をとげつつある。われわれは,科学的知識の各々の領域で古い出来あがつた知識体系 をこわす新しい考えが次々に提出されるのを目のあたりにしている。これと並んで,機械 が課題を解決するアルゴリズムの作成に至る知識の形式化の過程がすすんでいる。高度な 理性は最も完全な悟性と結びつく。計算的悟性の発展と完成,およびその機能の機械への 伝達が人間の理性を余計なものとするであろうという考えは,現時代が陥っている思い違 いの一つである。それどころか,高度な人間の理性は計算的悟性の発展の不可欠な前提を なしており,それなしには新しい形式的諸体系の創出は不可能である。悟性の完成と発 展,その機能の機械への伝達は,まだ知られていずまだ研究されていないものへと新しく 飛躍するために人間の理性を解放するのである。それ故,計算的悟性の発展を制限し,そ れに何か特定の限界を設け,それが決して獲得することができないような理論構成を見い 出そうとするのは,誤りである。このようなわけで,計算的悟性に限界を設けるならば,
われわれは実際に入間の理性を制限することになるであろう。入間の理性の発展は,理論 的知識の新しい体系を悟性が獲得するための不可欠な条件となっている。
このように,悟性と理性は理論的思考の活動における二つの不可欠な契機である。思考 の運動過程のなかでのこれら両契機の相互連関と相互移行は,対象の客観的本性を現実に あるがままのものとして把握するための前提をなしているのである。 (⑤一259〜271)
り コ リ り む り リ コ り り り り り の
要するに,人間の理論的思考の発展過程は,悟性的活動と理性的活動の統一であって,そ
り り り り り り り り り の の コ
の高みから客観的世界を把握し,それを合法則的に変革し創造していく過程だといえる。
結 び
これまで,感性,悟性,理性のそれぞれの特質を明らかにしながら,認識の発展過程に
ついて言及してきた。ここにおいて,感性的認識(感性的具体的なもの)から悟性的認識
(抽象的なもの)を経て理性的認識(思考のなかの客観的具体的なもの)へ進む運動は,
り り
理論的認識の発展法則であり,それは実践的活動を基盤として進行し,発展するものであ るといえる。そして思考された具体的なものは,最も深遠な内容に富んだ認識それ自体で あり,認識それ自体は,当然感性的認識,悟性的認識を包含した理性的認識活動の結果で
り り り じ り じ む も の
あるといえる。従って,理性的認識活動は,感性的認識と悟性的認識とに基づいて,客観
の り の ロ
的事物・現象の変化・発展としての全運動をとらえる思考の働き,いいかえると,客観的
り の コ の り
実在の弁証法的運動を反映してとらえる弁証法的思考の働きであるといえる。この理性的 認識は,人間にあらかじめ与えられた不変な特質ではなく,人間の社会生活に基づく要求 から出発して自然や社会に目的志向的に働きかけてゆく人間の実践的活動によって発展し てゆくのである。理論的認識において,人間は客観的実在から出発して,これに対する実 践的関係に基づいて客体を定め,それに関する認識自体を達成する。しかし,人間は彼の 人間的な諸目的と諸要求とをもって客観的実在に向かうから,彼は客観的実在を,単にあ るがままにではなく,人間的社会の機能化の必要上あり得るし,またあるべきであるよう に,創造的に反映する。人間の実践的活動は,理性的認識によってつくりだされた認識の なかにある理想的な客体が真であるかという問題を解決しなければならないだけではな
く,これを客観的実在に転化させなければならない。つまり,実践の役割はつくりだされ た理想的な客体の真理性を証明するだけではなく,それを,人聞の生活上の諸要求を満た すような客観的実在に転化させるところにある。実にこのときになってはじめて認識それ
コ ロ ロ
自体の客観的真理性が証明され,把握されるのである。それ故,認識の発展過程は,ある
の の
客観的実在から他の客観的実在へと向かう全運動のうちにあるといえるのである。さらに 言えば,あらゆる客観的実在は,相対的安定性をもっているとはいえ,永遠の変化のうち
む
にある故,われわれの認識活動においては,単に結果としての認識それ自体のみが重要な のではなく,その結果に至るまでの生成・発展過程の全体が重要なのである。
さて,感性的認識から理性的認識への認識の発展過程は,認識対象の現象と本質に深く かかわっている。感性的認識は現象にかかわる認識であり,理性的認識は本質にかかわる 認識である。現象と本質というカテゴリーは,認識対象の,外に現われた側面と内に潜む 側面,相対的に可変的な側面と相対的に不変的な側面を表わすカテゴリーである。存在と
しては,現象と本質は同時存在であるが,認識の順序としては,現象から本質へと発展す るのである。社会科教育が,児童・生徒に社会的事物・現象の奥に潜む本質にきっかせ,
とらえさせることを教科の重要な使命の一つにしている以上,現象と本質について徹底し た考察がなされなければならないが,その考察は次回にゆずることにしたい。
(註)
(1)児童・生徒は,彼らにとって新しい知識を習得するが,人間社会にとって新しい諸結果を達成する のではない。それ故,自分自身にとっての認識と,社会にとっての認識とを区別することができる。
学習は自分自身にとっての認識(個人的認識)であり,科学的研究は社会にとっての認識(社会的認 識)である。科学的・客観的認識は,個人においてのみ成立しているものではなく,社会的に成り立 っているものである。この意味において,個人における科学的・客観的認識も,社会を離れて考える ことはできないのである。
(2)とはいえ,経験論の見地からすれば,認識それ自体はその起源を感覚と知覚に発しているだけでな
137 社会科教育本質論(H) (宮本)
く,本質上でも感覚と知覚につきるとする点で限界をもっている。
経験論者が感性的反映の役割を過大視するのに対して,合理論と呼ばれる別の潮流の代表者たち (デカルト,スピノザなど)は,認識における思考の役割を一面的に誇張し,絶対化する。合理論者
り り つ
は,経験論者の感性的直観に「超感性的な」知的直観を対置した。彼らは知的直観という概念を提出 し,理性はこれを媒介として,感性的データを回避して,直接に物と過程の本質をとらえることがで きるとした。(⑧一204〜205)このように,合理論の場合,感性的経験の役割を軽視しているところ にまた限界をもっているといえる。
(3)認識過程を弁証法的な発展過程としてとらえなければならないということに関して,レーニンは次 のように述べている。「認識論においては,科学のすべて他の分野におけると同様に,弁証法的に考 察すべきである。即ちわれわれの認識を既成且つ不変のものと想定せず,如何にして不知から知が現 われるか,如何にして不充分,不正確な知識が,より充分にしてより正確なものとなるかを検討すべ きである。」(働一147)と。
(4)質料(materia, matter)は,形式を具備することによって初めて一定のものとなる素材を意味 する。アリストテレスは,質料と形相(forlna, form)を相関的に使用し,これらを存在の根本原 理と考えた。例えば,家の機能や構造上の形式が形相であるのに対して,その材料となる材木を質料 というのである。ものは可能の実現と解され,材木は家の可能的存在と考えられるから,質料は可能 デユナミス
性(dynamis)と同義語である。現実に存在する個々のものは,このように,形相が可能態として の コ ゼ エネルゲイア の質料を限定することによって成り立つと考えられた。こうして形相と質料は,現実性(energeia)
ロ り デュナミス
・能動性としての形相と可能性(dynamis)・受動性としての質料としてもとらえられる。
また質料は,生成変化の根底にあってさまざまの形相を受け入れる基体として,生成や消滅の説明 原理なのである。
㈲ これらの点について,コージングは次のように述べている。「カントが悟性の自発性を,即ち,認 識過程における悟性の能動的役割を,強調し基礎づけたことである。はじめて彼が認識過程における カテゴリーの機能を分析した。その際彼は,何よりもまず,感覚的経験から得られた経験的材料がど のように一年忌が自由にできるものとしてすでにある一カテゴリーを介して加工されるかを研究 したのである。彼が,カテゴリーとは悟性にアプリオリに,即ち,すべての経験に先立って与えられ ている思考形式である,という見解において,結局のところ認識の形式と内容を形而上学的に互いに 対置したとしても,形式と内容をこのように区別したということ自体は,何といっても重要な進歩で あり,認識形式の研究は偉大な功績なのである。」(⑦一677)と。
(6)この点について,やや付言すれば,理性は,悟性が感性からその内容を得るのと同じように,悟性
り の り ロ ロ の
からその内容を得る。悟性は直観をカテゴリーに従わせ,理性は判断と概念を原理と理念に従わせ
り の ロ
る。理性の論理機能は,悟性の場合とはちがって,判断ではなく,推論であり,これは,カントによ れば,より高次な総合形式と結びついている。(⑤一258)
(7)ヘーゲルは,カントの立場を反省的悟性の形而上学であるとし,むしろ理性こそ積極的認識の威力 であるとみている。
⑧ しかしながら,われわれは,アルゴリズムにもとつく行為は悟性的であるが,アルゴリズム自体は 単に悟性的思考の結果ではなく,理性的思考の結果でもある(⑤一270)ということを留意する必要 がある。
(引用・参考文献)
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⑦Kosing A.(Leitung und Redaktion): Marxistische Philosophie. Lehrbllch更璽,ユ967.
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⑨ ソ連邦科学アカデミー哲学研究所編著,川上洗・大谷孝雄訳,『マルクスーレーニン主義哲学の基 礎』,中巻,青木書店,1975年。
⑩ ソ連邦科学アカデミー哲学研究所編著,川上洗・大谷孝雄訳,『マルクスーレーニン主義哲学の基 礎』,下巻,青木書店,1975年。
⑪カント著,篠田英雄訳,『純粋理性批判』,上巻,岩波書店,1974年版。
⑫カント著,篠田英雄訳,『純粋理性批判』,中巻,岩波書店,1974年版。
⑬ カント著,篠田英雄訳,『純粋理性批判』,下巻,岩波書店,ユ975年版。
⑭カント著,波多野精一・宮本和吉訳,『実践理性批判』,岩波書店,1974年版。
⑮岩崎武雄責任編集,『ヘーゲル』,中央公論社,1975年版。
⑯ ヘーゲル著,松村一人訳,『小論理学』,上巻,岩波書店,ユ974年版。
⑰ ヘーゲル著,松村一人訳,『小論理学』,下巻,岩波書店,1975年版。
⑱ ヘーゲル著,船山信一訳,『精神哲学』,上巻,岩波書店,1974年版。
⑲ ヘーゲル著,船山信一訳,『精神哲学』,下巻,岩波書店,ユ973年版。
⑳ エンゲルス著,寺沢恒信・山本二三丸・他訳,『空想から科学へ』,大月書店,1964年版。
⑳ エンゲルス著,田辺振太郎訳,『自然の弁証法』,上巻,岩波書店,1975出版。
⑳ エンゲルス著,田辺振太郎訳,r自然の弁証法』,下巻,岩波書店,1974年版。
⑳ レーニン著,佐野文夫訳,『唯物論と経験批判論』,上巻,岩波書店,1974年版。 」
⑳レーニン著,佐野文夫訳,『唯物論と経験批判論』,中巻,岩波書店,1973年版。
⑳ レーニン著,佐野文夫訳,『唯物論と経験批判論』,下巻,岩波書店,1973年版。
⑳ 毛沢東著,松村一人・竹内実訳,『実践論・矛盾論』,岩波書店,1973年版。
⑳ 拙稿,「社会科教育本質論(1)一認識主体と認識客体を中心に一」,『長崎大学教育学部教 育科学研究報告,第22号』,1975年。
㊧林達夫・野田又夫・久野収・山崎正一・串田孫一編集,『哲学事典』,平凡社,ユ968年版。
Mitsuo MIYAMOTO:An Essential Theory of Social Studies Ed1ユcation(皿);
AStudy on the Cognitive Process.