経営と経済第80巻第4号2001年3月
明治期における三菱の株式・債券
投資活動と経営多角化
東條正
Abstract
This paper illustrates Mitsubishi's investment in stocks and bonds in the Meiji Era, by examining the accounting books of Mitsubishi. The analysis reveals that: (a) Mitsubishi mainly invested in stocks railway companies, especially the Kyushu Railway Company; (b)Mitsubishi gained profits by selling stocks and bonds after Sino-Japanese War and invested in the shipbuilding industry and mines.
1.はじめに一研究史の整理と本稿の課題−
2.三菱所有株式・債券の概要
3.明治中・後期における三菱所有株式の推移 4.日活戦後の所有株式・債券の変動と経営多角化 5.むすぴに
1.はじめに−研究史の整理と本稿の課題−
財閥の概念についてはこれまでも種々の定義があり1),現在に至っても財
1)周知のごとく,安岡重明氏,中川敬一郎氏,森川英正氏らの種々の財閥定義があるが,
財閥の定義は本稿の主要課題ではないので,その詳細についてはここで取り上げない。
31
閥についての定義論争が継続されているが,種々の論者の財閥定義の中でも,
総合財閥と呼ばれる三井,三菱,住友が,家族(同族)からの閉鎖的な出資 形態を取る「多角的事業体」であるということについては一致していると考 えられる。財閥が,家族(同族)からの閉鎖的な出資形態の中で,多額の資 金を要する事業の多角化を,どのように展開していったのかを改めて実証的 に見ていくことは,財閥の概念規定を考え直す上でもそれなりの意味を持つ ものと考える。
その場合,三大総合財闘の中でも,近世から既にわが国有数の豪商として 資金蓄積を進めていた三井,住友と異なり,土佐の地下浪人の出自でまさに 徒手空拳から出発した三菱の資金調達‑運用・蓄積過程は特に注目すべきも のがあると考えられよう。
そこで,本稿においては三菱を事例に,同族による閉鎖的出資と財閥の経 営多角化の関係を資金調達・運用,就中,三菱の本格的事業多角化の時期に,
その原資として大きな役割を果たしたと考えられる株式・債券への投資の側 面に注目して分析を進めていきたいと考える。
周知のごとく,明治前期に海運業において独占的利益を得た三菱は,
1885(明治
18)年の日本郵船成立後に海運業から撤退した後,続く1886(明治19)年から1
893(明治2
6)年にかけての三菱社時代には,炭坑経営と並んで株式
・債券投資からの収入が資金蓄積の中心となっており,さらに
1893(明治26)年の三菱合資会社設立後も岩崎家所有の公債・株式等からの収入が引き続き 三菱の資金蓄積の主要な源泉のーっとなって,これらの巨額の株式・債券の 所有が,三菱の外部の社会的資金の動員に拠らない,内部での資金調達・蓄 積を可能にし,三菱の事業の多角化の主要な原資となったことは,既に先行 研究によってある程度明らかにされている。そこでまずこれら三菱の株式・
債券投資に関する主要な先行研究を改めて振り返ってみたい。
まず,最初にこの課題に取り組んだ柴垣和夫氏は『日本金融資本分析』の
中で,三菱,三井等の財閥と綿工業独占体をわが国の金融資本の二類型と規
明治期における三菱の株式・債券投資活動と経営多角化
33定し
2),さらにその財閥の資本蓄積の形態が自己金融的蓄積である点がわが 国特有の現象であるとして
3),財閥が金融資本的な自己蓄積を開始する以前 のその歴史的根拠についても分析を進めている
4。 )
それによると,三菱の自己金融的資本蓄積の第一の根源は,
1890(明治
23)年以前の,所謂,原蓄期の海運業における特権的独占に支えられた巨大な政 商的蓄積であり,その後
1880年代末から
1890年代にかけてのわが国の産業資 本段階においては,直系諸事業の当該期の日本資本主義に占めた特殊な位置 にかかわる「独占」利潤獲得,つまり生産部門おいての有力富鉱の自然的独 占に支えられた鉱砿業,及び流通部門での独占的地位を占めた日本郵船が,
自己金融的資本蓄積の二大源泉をなし,それがのちに財関が金融資本への転 化を開始するとき既に自己金融的であった直接的根源であったと分析してい る
5)。柴垣氏は日本郵船が当該期の三菱の資本蓄積の二大源泉の一つであっ た根拠として,
1900(明治
33)年 に は し
000万円にも達して当該期におけ る三菱の「自己金融的資金蓄積」の大きな原資となった,三菱合資の岩崎家 からの借入金である「岩崎氏勘定」の主な源泉が,三菱所有の日本郵船株か らの配当金であったと推察している
6。 )
この柴垣氏の分析に続いて,牛山敬二氏は「明治・大正における三菱の土 地投資」の中で,明治・大正期の三菱の資本蓄積過程を六つに時期区分して,
このうち三菱社時代を第三期と規定し,
r第三期は『三菱社』の時代で,商 人資本から産業資本への転化の時期・産業資本移行期である。この時期にお いて三菱は,前期に特権的に国家資金を利用して蓄積した資金をもって,産 業資本として脱皮しようとした。しかしその過程はなかなか困難であって,
2)
柴垣和夫『日本金融資本分析.]
16頁 ,
1965年 。
3)柴垣前掲書,
17頁 。
4
)柴垣前掲書,
36頁 。
5)
柴垣前掲書,
135頁 , 146~147頁。
6
)柴垣前掲書,
147頁 。
試行錯誤的な投資を多部門間にわたって多角的に投じたが,いずれも不安定 であり,収益性も低かった。そこでそのような探索的な投資を補完ないし保 険するものとして,土地と株式・債券に対する投資が量の面でも機能の面で も重要な意義をもったのである。しかし日清戦争前後に産業資本の確立を基 礎に日本資本主義が確立すると,そのような積極的な意味は早くも薄れてく
るのである。
J7)と分析している。つまり,牛山氏によれば,この第三期は,
三菱が商業資本から産業資本への転化を図った時期であるが,当該期の試行 錯誤的な多角的投資を補完・保険するものとして株式・債券投資や土地への 投資が量的にも機能的にも大きな意義を持ったとしている。
続いて,牛山氏は,第四期を
1893(明治26)年の三菱合資設立から1907(明 治
40)年までと規定し,第四期には,三菱は造船部門と鉱山・炭坑部門を中 軸にして大きく生産資本として飛躍する時期であるが,その膨大な投資・資 本蓄積を支えたものは,鉱山・炭坑部門等の三菱合資会社自体の高収益に基 づく旺盛な内部蓄積であった。しかしその内部蓄積だけでは,右の飛躍的発 展に必要な資金量を満たすには十分でなく,その内部蓄積にほぼ匹敵する岩 崎家の株式・債券を主体とする個人資産の配当益,売却益,等々が注入され たと分析している
8。 )
また牛山氏は,柴垣氏が「岩崎氏勘定」の主な源泉が,三菱所有の日本郵 船株からの配当金であったと推計している点について,
r出発点はそうであ っても,実はそれはかなり迅速に鉄道株等に買換えられたので
J9),この点 に関する柴垣氏の推論は誤りであると指摘しているが,その実態については それ以上のことは明示していない。また牛山氏は当該期の三菱の株式・債券 所有の意義について,
rここでの株式形態の機能は,たしかにドイツにおけ
7)牛山敬二「明治・大正における三菱の土地投資
J~農業総合研究』第20巻 2 号,
7頁 ,
1966年 。
8
)牛山前掲論文, 7~
8頁 。
9)牛山前掲論文,
14頁 。
明治期における三菱の株式・債券投資活動と経営多角化
35るのとちがって直接に社会資金の動員の手段ではなく,また支配集中の手段 でもなかった。国家に拠って利益,配当等を保証されているが故にはじめて 流通しうるような,限定された種類の株式を三菱が所有したことは,決して 社会的資金の利用を意図したのではなくて,むしろ手持ち資金の安全で有利 な運用を図ったにすぎなかった。しかしたとえば鉄道会社の発起人に三菱が 参加し,そのため株式募集が順調に進み株価が騰貴したところで手持ち株式 を売り出すばあいそれも一種の創業利得とみることもできる。その場合決し て明確な意図を持って引受け発行をやったわけではないが,結果的には自己 資本の不足を社会的資金からまかなったことになる。意識的にはむしろ投機 の利用によって社会的資金を収奪して自己の経営に充当したのであるが,株 式による社会資金の利用が全くなかったといいきってしまうわけにはいかな い
J10)と分析している。
ここで牛山氏は,三菱が株価が高騰したところで手持ち株を売り出す投機 によって社会資金を収奪して自己の経営に充当した事例として,滝沢直七氏 の『稿本日本金融史論』を引用して,岩崎弥之助が日銀総裁時代に,日銀金 利引き上げの直前,日本郵船,及び九州,山陽各鉄道会社の株式を
33,
800余株を高値で売り抜けたことを挙げている
11)。
これら柴垣,牛山両氏の分析に対して,旗手勲氏は
1978年に『日本の財閥 と三菱』を著し,その中で,主に『三菱社誌』を用いて,三菱の資金蓄積に 関する詳細な分析を展開した。
旗手氏は,三菱の場合,直系企業部門における利潤形成のほかに,岩崎二 家,特に岩崎久弥名義の個人所得額が大きく
12),その中心は三菱合資会社の 資本金
500万円からの配当や,個人名義の公債・社債・株式からの利子や配
10)
牛山前掲論文,
14頁 。
11)牛山前掲論文,
14頁 。
12)
旗手勲『日本の財閥と三菱
j58頁 ,
1978年 。
当,個人所有の不動産からの所得の累計であるとし,しかもこれらの株式・
債券は,公債や政府から利益・配当を保証された特権会社の持ち株が主力を なしていたため,確実な利子・配当収入を拡大することができ,これらの巨 大な株式・債券の所有が,三菱の外部の社会的資金の動員によらない自己内 部での蓄積を可能にした原資の素材となったと分析している
13)。また旗手氏は,三菱は海運業で西南戦争時の
1877(明治
10)年には
170万 円という巨額の純益をあげ,一挙に資本蓄積を拡大したが,純益を上げたの は
1877年から
82(明治
15)年にかけての
6年間だけで,これは当時における 海運業の不安定さを示しており,こうした状況の中,三菱は
1878(明治
11)年以後は船舶数を余り増加させず,海運業の純益や補助金などを,炭山,鉱 山,造船,地所等に投資したほか,安全有利な公債・株式などに転用してい ったと分析し
14),その後,
1885(明治
18)年に主業の海運を日本郵船会社に 譲った後の「三菱社」時代,三菱では公債・株式の利子・配当は,全所得の ほぼ
4割以上の比重を占めるようになり
15),炭坑部門と並んで当該期の三菱 の資本蓄積の二大源泉となっており
16),
r三菱社」時代の三菱所有株式・債 券の推定所有額は,ほぼ公債が
310万円から
370万円,株式
480万円(三菱合 資出資分を除く),計
790万円から
850万円(いずれも額面価格)の巨額に達
したと推定している
17)。さらに旗手氏は,これらの巨大な株式・債券は,
1885年に前期の主要な「生 産部門」であった海運業を委譲した際,三菱が入手した株式
500万円(実際 の岩崎家所有は株
280万円以上と債権
54万円余),及び
1887(明治
20)年頃か ら輸送産業の主力に上昇した鉄道株(例えば三菱は日本・山陽の両鉄道に勢
13)
旗手前掲書,
58頁 。
14)旗手前掲書, 41~42頁。
15)
旗手前掲書,
20頁 。
16)旗手前掲書,
32頁 。
17)旗手前掲書,
58頁 。
明治期における三菱の株式・債券投資活動と経営多角化
37力を占め,九州鉄道などの支配権を握っていた)の取得によって拡大したも のであると分析している
18)。
また鉄道株への投資に関しては,
1886(明治
19)年以後に三菱の主業とな った炭山からの出炭,特に筑豊炭を,市場の阪神地方と直結することを直接 の目的として,山陽・九州、│・筑豊興業など諸鉄道会社への株式投資がなされ ていることを指摘し,これは大規模な輸送施設・手段の建設のためには, 1 " 社 会的資金の集中」である株式会社によらざるを得ない以上,三菱は,一部の 株式所有によって会社支配を意図した
19)ものであるとも指摘している。
さらに旗手氏は,三菱では,
1891(明治
24)年以後利子の固定した公債を 株式所有に切り替え始めた結果,
1893(明治
26)年には所有株式・債券額は 公債
250万円,株式
590万円に達したと推測している
20)。また,これらの三菱 所有の株式・債券は,
1887(明治
20)年前後の企業勃興に伴い,海運・鉄道 会社や優良な銀行・保険会社などの株に集中し,安全有利な配当収入や株式 投機をねらったほか,既に直系・傍系会社に対する持ち株支配の萌芽さえ進 行したとも分析している
21 ) 。
また,これらの三菱所有の株式・債券は,三菱合資会社の発足につれて,
その大部分が社長岩崎久弥の名義に移された
22)と推測している。さらに,
1894
(明治
27)年の個人所得から,久弥の所有株式・債券は公・社債の平均 利子率
7%として額面推定約
410万円,株式は平均配当率
8%として額面推 定約
630万円に達したもの
23)と推測している。
また,久弥の
1897(明治
30)年の公社債の利子累計は
76,
851円(額面推
18)
旗手前掲書,
34頁 。
19)旗手前掲吉, 34頁 。
20)旗手前掲書,
34頁 。
21)旗手前掲吉,
20頁 。
22)旗手前掲吉,
75頁 。
23)旗手前掲書,
75頁 。
定約
110万円)で,
94年の約
4分の
lに減少しており,他方,株式配当は
1896(明治
29)年は
768,
137円(額面推定約
960万円)に増え,
94年の1.
5倍 に達していることから,久弥所有の株式‑債券は
94年以降
96年末にかけて利 回りの低い公・社債を整理して,株式に転換したと推測している
24)。
但し,旗手氏は,
97年の株式配当が
65万円に急落している点について,同 年前後の日清戦争後の不況によって,配当率が減少したのか,あるいは岩崎 家から合資会社への貸金勘定が
96年
702万余円から翌
97年の
938万円へと 年間に
236万円も急増しており,その大部分は久弥からの貸金とみられるか
ら点から,久弥所有の株式の売却によって三菱合資会社への融資に充てた可 能性も指摘しているが,同時期戦後不、況のため,株価が暴落したはずである から,そんな時期に株を売却しないのが「富豪の常通」かもしれない
25)とし て,その理由については確定を避けている。
以上の結果,旗手氏は「三菱合資会社への出資金を除き,明治
30年前後に は岩崎家は公・社債約
100万円,株式約
1,
040万円(弥之助の推定約
80万円を 加え)の株式・債券などを所有し,これらからの個人所得だけでも年間
120万円を越えたことになる。(中略)岩崎久弥が既に明治
20年代に株式・債券 だけでも
1,
000万円を越え,年間所得も
100万円以上に達している。三井の当 主にはみられない,三菱社長岩崎家の隔絶した個人蓄積力を確認することが できるであろう。この個人所得に,三菱合資会社の純益(明治
27,.....,30年の額 は,岩崎両家の所得累計よりも少ない)が加わり,三菱系企業の資本蓄積を 拡大する原資となったのである。三井などに比べ,三菱の特徴といわれる「自 己蓄積力」の強さと,合本主義を排して家族主義的な三菱合資会社による各 部事業の直轄と「閉鎖経営」を可能にした,資金的な根拠がここにあったと いえる
J26)と日命じている
24)
旗手前掲書,
76頁 。
25)旗手前掲書,
76頁 。
2 6 ) 旗手前掲書, 76~77頁。
明治期における三菱の株式・債券投資活動と経営多角化
39今まで概観してきた柴垣和夫氏,牛山敬二氏,旗手動氏らの先行研究を纏 めると以下のごとくであろう。
三菱は,日本郵船成立後の三菱社時代,
1880年代末から9
0年代初頭にかけ て炭坑・鉱山・不動産投資等の経営の多角化を開始するが,それはまだ本格 的なものとはならず,三菱において事業の多角化が本格的に展開し始めたの は,日清戦後の第二次企業勃興期以降のことであった。
具体的には,
1893 (明治26)年末の三菱合資会社設立以降,三菱は本格的 な経営の多角化を開始したと考えられるが,そのための急激な資金需要は三 菱合資会社の事業収入だけでは賄いきれず,三菱合資会社の
500万円の資本 金を上回る額の岩崎家からの借入金(三菱合資の財務諸表では「岩崎氏勘定」
と題される)によって支えられていた。
この巨額の「岩崎氏勘定」の資金源の中心となったのが,岩崎家所有の株 式・債券からの配当,利子収入等で、あったと推測される。
つまり,三菱社時代から,岩崎家所有の株式・債券からの配当,利子収入 が,炭坑・鉱山からの事業収入と並んで,三菱の主要な資金源泉の一つであ り,当該期の資金蓄積の相当部分を占めていたこと,また三菱合資会社成立 直後の
1894(明治27 年)から
1897 (30年)にかけての,所謂,日清戦後期に は,三菱合資会社の純益を凌駕するほどで,これが三井等に比較しでも,三 菱のより「自己金融」的な資金蓄積の源泉となったと推察される。
しかし,以上の先行研究によっても,この三菱の株式・債券投資の具体的 内容について,特に,三菱合資会社成立以後,岩崎家の資産として合資から 分離されて以降の株式・債券投資の実態は,投資総額の大まかな推定はなさ れているものの,主要な投資先以外の具体的な実態やその推移については殆 ど明らかにされておらず,岩崎家の株式・債券投資の実態は言わば当該期の 三菱研究のブラックボックス的存在になっていたといっても過言ではないと 考える。
そこで本稿においては,まず当該期の岩崎家の株式・債券投資活動全体
を具体的に解明する中で,それが当該期の三菱の経営の多角化を図る企業戦 略のなかで果たした役割を資金面を中心に解明していきたい。
具体的には,先ず,第一に,明治期における三菱の株式・債券所有の実体 はどうであったのか。第二に,三菱は三菱合資会社設立直後の
1894(明治
27)年から
1897(明治
30)年にかけて経営多角化を本格化し,その資金需要の急 激な拡大を岩崎家からの借入金である「岩崎氏勘定」によって賄っているが,
この「岩崎氏勘定」の資金は具体的にはどこから調達されたのか。第三に,
1890
年代後半の岩崎家所有の公債の急減を旗手氏は株式への転換と見ておら れるが,果たしてそうなのか,等々を検証していきたい。
2 .三菱所有株式・債券の概要
これまで三菱の三菱社・三菱合資会社時代の株式・債券投資の詳細が明ら かにされてこなかったのは,それが三菱の事業とは切り離されて岩崎家の所 有のもとで行われ,そのため『三菱社誌』のようなこれまで三菱分析に使用 されてきた中心史料にはその実態を示す資料が見いだせなかったことが大き いと考えられる。そこで本稿ではこれまでの先行研究では使用されていなか った三菱の内部資料によって三菱の株式・債券投資の概略を窺っていきた
し、。
その資料とは『公債株券勘定帳第二』及び三菱社『株式帳第拾号』と 題されたもので,この資料は,三菱が
1877(明治
10)年
9月
7日に三菱会社 本社庶務課に記録係を設置し,
I大記録分類法」を定めた時に
27),規定され た「公債証書之部
J(公債証書旅券等ニ関スル一切ノ事ヲ記載シ「債」ノ号 ヲ用ユ)の流れを引くと思われる帳簿である
28)。この『公債株券勘定帳 第
2
7 )
W三菱社誌.ll (東大出版会版)第
4巻. 395~397頁.
1979年 。
28)
この資料は.
1987年夏,当時,三菱総合研究所上野毛支所の地下書庫に架蔵されてい
た資料類を筆者が検索中,当時まだ全く未整理であった帳簿類の中から見出したもので,
明治期における三菱の株式・債券投資活動と経営多角化
41二』及び『株式帳 第拾号』は,それ以前の帳簿からの継続の形を取ってい るため,記載された各公債・株式・社債が何時から所有されたのかが明示さ れていない。このためこの帳簿類が何時から記帳を開始したのかを確定する ことはできないが,
w公債株券勘定帳第二』に関して言えば,記載された 公債・株式中,公債でもっとも早い移動が記帳されているのが,国債では整 理公債及び軍事公債の
1895(明治
28)年
10月
7日付けの移動で,地方債では 京都市債の
95年
4月
4日付けの移動であり,社債では,
95年
4月
4日付けの 筑豊(興業)鉄道社債及び
95年
9月
30日付けの日本郵船社債の移動が最も早 いものであり,また株式の移動の記帳の最も早いものは,九州鉄道株の
95年
3月
22日付け,及び筑豊鉄道株の
95年
4月
4日付け, 日本郵船株の
95年
6月
14日付けの移動等であることから,この帳簿が
1895年以降,つまり
1893( 明 治
26)年
12月の三菱合資会社成立以後の公債・株式の移動状況を記帳したも のであることが判明する。
一方, w 九州鉄道株式会社株主姓名表j] ( 1
894年
10月
2日調)
29)に記載され た
94年
10月
2日時点での九州鉄道会社の筆頭株主は岩崎久弥であり,所有株 式数は
20,
643株で,この三菱の『公債株券勘定帳 第二』の株数と一致して いる。さらに『公債株券勘定帳 第二』によれば筑豊鉄道会社における最初 の記帳は久弥名義の
1,
655株(第一株),同
6,
052株(第二株),
9,
583株(第 三株),弥之助名義
4,
153株(第一株),
2,
809株(第三株),計
24,
252株と記 されており,同社の第三募集株までが記載されている。一方,筑豊鉄道会社 においては第三募集株は
94年
10月
5日に募集され,第四募集株が
95年
2月
12日に募集されていることから
30)この記帳が
94年
10月
5日以降
95年
2月
この資料をもとに,本稿の元となった同年
11月経営史学会第
23回全国大会の自由論題報 告「明治期における三菱財閥の鉄道企業投資活動
J,及び
1995年
l月の経営史学会西日本 部会での報告「日清戦争直後における三菱の有価証券投資活動」を行った。同資料は現 在は三菱資料館に所蔵されている。
29)
九州鉄道株式会社『第十二回報告』。
30)
筑豊鉄道株式会社『第十二回報告
jI会計ノ部」。
12
日以前にかけてなされたことが推測される。
これらのことを総合すると,
r公債株券勘定帳第二』は,三菱合資設立 後の
1894(明治2
7)年1
0月
5日から翌95年
2月1
2日の間に記帳を開始したも のであることが推測される。
以上のことから,
r公債株券勘定帳第二』は三菱合資成立以後の岩崎家 を含めた三菱全体の有価証券投資状況を記帳したものと考え得るであろう。
この『公債株券勘定帳 第二』を用いて,三菱合資成立後における岩崎家 を含めた三菱全体の株式・債券投資の概況を示したものが表 lである。その 内訳は,公債は,国債が金禄公債,整理公債,軍事公債,海軍公債の四種,
及び国庫債券,地方債は東京市債,京都市債,長崎市債及び長崎港湾改良公 債,神戸水道改良公債,大阪水道公債の六種であった。
株式は,銀行株が日本銀行,横浜正金銀行,支日銀行の三種,運輸関係で は,日本郵船,湘南汽船に加えて,鉄道株の日本鉄道,山陽鉄道,九州鉄道,
筑豊鉄道,関西鉄道,参宮鉄道,北越鉄道,西成鉄道,岩越鉄道,函樽鉄道,
京釜鉄道,土佐鉄道,城河鉄道,東京電車鉄道,東京電気鉄道の計十七種が あった。また保険会社株として,明治生命,明治火災,東京海上の三種が,
その他,横浜船渠,浦賀船渠,函館船渠,若松築港,洞海北湾埋深,東洋凌 深,上海埠頭,東京倉庫,大阪瓦斯,神戸製紙,帝国ホテル,横浜麦酒,榛 名養魚,万国東洋会社,明治倶楽部,上海フーアンハムの十五社の株式があ り,所有株式は総計は三十七社に及んでいた。これに加えて合資会社への出 資として京仁鉄道,汽車製造及び神戸製紙の三社への出資があった。さらに
日本郵船,山陽鉄道,九州鉄道の三社の社債を所有していた。
この中で,三菱投資先のうち最高所有時点での所有額面総額が5
0万円以上 (株式だと額面5
0円で
l万株以上)の大口の投資先は,整理公債208 万余円 (所有名義人:岩崎久弥他,最高所有高時の年月日:1
895年1
0月,以下同様),
軍事公債1
80万円(岩崎久弥,
1895年1
0月),金禄公債1
13万余円(岩崎久弥
他 ,
1896年1
0月),国庫債券2
04万円(無記名,
1905年
2月),山陽鉄道社債
明治期における三菱の株式・債券投資活動と経営多角化 4 3
表 1 三菱所有株式・債券等一覧
名 称 名義人 年 月 所 有 両
3
月
254,275円
10I
2,081,650円 円
10I
1,800,0002
I
2,040,000円
1I
40,200円
12I
90,000円
4I
5,950円
7I
166,100円
2I
49,050円
1I
3,350円
9I
439,000円
5I
500,000円
4I
135, 1210
I
4, 12I
7, 10I
42, 12I
53, 9I
143, 11I
47, 11I
11,97
年 年 年 年 壬 年 年 年
千10I
8, 99~12I , 1
99~ 6I
187, 01~ 9I , 1
961 : f .
1096~11
I , 1
03~ 5
I , 1
03~11
I
3,98
年
2I
16, 95年
6I
27, 05年
2I
5, 99年 年
695
1 : f .
12社 = 菱 崎
F崎 清 崎 崎 会 久 次 弥 由弥 弥 郎: 社
02年 年
6久
024 " ‑
11I , 1 岩
恒
岩
岩 荘
日旦久 他
500,000株 円 久
97年
2I , 1
646 註 1) 1895 (明治28)~1905 (明治38)午 聞 の 三 菱 所 有 株 式 ・ 債 券 学 を 示 す 。2 ) 所 有 高 , 年 月 は 期 間 中 の 最 高 所 有 高 及 び そ の 時 点 の 年 月 を 示 す 。 3 ) 函 樽 鉄 道 会 社 は1900年 に 社 名 を 北 海 道 鉄 道 会 社 と 改 名 。 出典)rr公 債 株 券 助 定 帳 第二』より作成。
50
万円(岩崎久弥,
1898年
5月)の諸債券類,及び株券として,九州鉄道株1
43,
327株(岩崎久弥他,額面総額7 ,
166,
350円 ,
1905年
9月),筑豊鉄道株47 ,
479株
(岩崎久弥他,額面2 ,
373,
800円 ,
1896年
11月),日本鉄道株4
2,
617株(岩崎 久弥他,額面2 ,
130,
850円 ,
1897年
10月),山陽鉄道株5
3,
584株(岩崎久弥 他,額面2 ,
679,
200円 ,
1896年
12月),日本郵船株2
7,
964株(岩崎久弥他,
額面
1,
398,
200円 ,
1895年
6月),関西鉄道株
1, 1
700株(岩崎久弥他,額面
585,
000円 ,
1897年
11月),東京海上株
16,
610株(岩崎久弥他,額面830 ,
500円 ,
1898年
2月),神戸製紙5
0万円(岩崎久弥他,時期不明)等であり,そ の他,
50万円以下で大口の投資先には日本郵船社債439 ,
000円(岩崎久弥,
1895
年
9月)等がある。但し,当該期の株式分割払込制のもとでは額面総額 と実際の投資額は異なることに留意しなければならない。
以上のことから,三菱の有価証券投資が,金禄公債,整理,軍事等の各種 公債及び九州鉄道会社,筑豊鉄道会社(筑豊興業鉄道会社より改称,
1897年 に九州鉄道会社と合併),山陽鉄道会社, 日本鉄道会社,関西鉄道会社等の 鉄道株及び日本郵船,東京海上保険株等を中心とするものであったことが判 明しよう。
また,同じく表 lから,所有名義人は,初代社長岩崎弥太郎の長男で岩崎 本家の当主であった三菱合資社長岩崎久弥が圧倒的に多いこと,しかし,神 戸水道改良公債や大坂水道公債,若松築港会社,上海埠頭会社,上海フーア ンハム会社では三菱会社が名義人であり,また,鉄道会社では豊川良平,荘 田平五郎,二橋元長,寺西成器,末延道成,荘清次郎,演政弘らの三菱合資 の幹部社員も所有名義人となっている。
また,後の表
4に見るように,関西の株界の大立て者で九州鉄道会社の取
締役も勤めていた今村清之助も九州鉄道,山陽鉄道,関西鉄道の所有名義人
となっている点も注目されるところである。また,今村の他,大阪瓦斯でも
社外の片岡直輝が所有名義人となっている。その他,榛名養魚会社では岡本
春道,横浜船渠会社では三村君平,東洋、凌深会社では水谷六郎ら,洞海北湾
明治期における三菱の株式・債券投資活動と経営多角化
45埋深会社では松田武一郎らの三菱合資の幹部社員が所有名義人となっている ことが判明しよう。
また鉄道国有化直前の1
904(明治3
7)年時点での三菱の所有株式名義人の一 覧 は 表
2に見るごとくで,九州鉄道会社社長の仙石貢,かつて関西鉄道会 社社長であった白石直治の所有株が実際には三菱の所有株であったことが注
目される。その他の名義人は三菱合資の幹部社員であった。
表
2 1904年(明治3 7 )12月現在三菱所有株式名義人一覧
名 義 人 名 九州鉄道 山陽鉄道 日本鉄道 関西鉄道 明治生命 若松築港
岩崎久弥
94,
879 43,
931 22,
982 3,
989 337荘田平五郎
175 286豊川良平
500二橋元長
100 18末延道成
200 200寺西成器
286仙 石 貢
275白石直治
200 100 100植 松 京
2,
000堀 久 太 郎
2,
000千明鶴吉
1,
100笹岡雅徳
333松田武一郎
100 466三浦徳義
62 51江口定傑
112草郷清四郎
10会社・伴野
4,
992註)表中の数字は株数を示す。
出典)三菱社『株式帳第拾号』及び『公債株式勘定帳第二』。
また,所有額の推移で言うなら,後に表
10で詳しく見るように公債類は所 有高のピークを示すのが,整理公債,及び軍事公債が
95年
10月,金禄公債が
96年
10月で, 日露戦時の国庫債権の購入を除くと,三菱合資成立直後の日清 戦後期にそのピークを迎えていることが判明する。これらの公債の大部分は 後に見るごとく
1896年までにその殆どが処分されてしまう。
また株式に関しでも,後に表
4で詳しく見るように,郵船株が
95年
6月に,
山陽鉄道株が
96年
12月に,日本鉄道株が
97年
10月に,関西鉄道株が
97年
11月 にその所有高のピークを迎えており,
1905年
9月にピークを迎える九州鉄道 株を除くと,主要持ち株の大部分が日清戦後期の
1897(明治
30)年までにピー
クを迎えていることが判明する。
表
3三菱所有社債高推移
筑豊・九州鉄道 山 陽 鉄 道 日 本 郵 船 年 月 額 面 年 月 額 面 年 月 額 面
135.0
千円
439.0千円
95年
4月
113.0グ 95年
9月
357.5か9
月
111 . 0
か96
年
3月
100.0か 96年
9月
352.5か9
月
93.0が 500千円(内
97
年
3月
88.0か 200千円は銀
97年
9月
347.5グ9
月
82.0か行部へ)
98
年
4月
70.0か 98年
5月
292.5千円
98年
9月
332.5か10
月
66.0グ99
年
3月
59.0か 99年
6月
286.5か 99年
9月
307.5か9
月
52.0か00
年
3月
48.0か 00年
6月
279.0か 00年
9月
292.5か9
月
41 .
0I !
01
年
3月
39.0か 01年
5月
271 . 5
か 01年
9月
267.5か9
月
34.0か02
年
3月
31 . 0
か 02年
5月
265.5グ 02年
9月
237.5か9
月
23.0か03
年
3月
20.0か 03年
5月
257.5か 03年
9月
207.5か9
月
16.0か04
年
3月
11.0か 04年
5月
251.5か 04年
9月
162.5グ9
月
3.0か05
年
3月
0.0か 05年
5月
236.5か 05年
9月
112.5か出典)
W公債株券勘定帳第二』より作成。
明治期における三菱の株式・債券投資活動と経営多角化
47また,三菱所有の社債の推移については表
3に見るごとくである。
以上のことから,合資設立以後の三菱所有の有価証券は,九州鉄道株等の 一部の株式を除き,公債・株式共に日清戦後の
1897年までにそのピークに達
していることが判明するであろう。
3 .明治中・後期における三菱所有株式の推移
以下,まず表
4によって,より詳細に三菱の株式の主要投資先であった鉄 道企業及び日本郵船への投資の推移を時系列的に窺っていきたい。また,そ れらの鉄道会社・郵船会社の配当率は表
5に見るごとくで,その多くが公債 金利を上回っていることが判明しよう。
わが国の民間鉄道企業の鴨矢である
1881年(明治
14)の日本鉄道会社発起 時から表
6に見るように,岩崎弥太郎名義で
6,
000株,阿弥之助名義で
1,
000株,小野義員名義で
300株,以下幹部社員であった石川七財,川田小一郎,
荘田平五郎ら
10名が各
200株,及び二橋元長が
150株を所有して株主となって いることが判明する。その後,小野義員,荘田平五郎,二橋元長らが,同社 の取締役となっていったことは既に知られているごとくである。
弥太郎の死後も,三菱は同社の持株を増大させ,
86(明治
19)年には岩崎 久弥名義で
8,
745株を所有,同時点で小野義員名義で
300株,二橋元長名義で
100株,寺西成器名義で
100株を所有していた。
一方,三菱と共同運輸会社が合併して日本郵船株式会社が創立された
1885(明治
18)年,若しくは
86(明治
19)年頃,三菱は,岩崎弥太郎名義で
60,
917株,岩崎弥之助名義で
20,
000株の同社株を所有していた。ところが
87(明治
20)年時点では名義人は幹部社員の萩友五郎に変更され,同人名義で
56,
462株を所有している。
他方,山陽鉄道会社の設立に伴い,
1889(明治
22)年
9月時点で,三菱は
同社の株を岩崎久弥名義で
5,
900株を取得,同年
10月時点では
13,
945株と急
表
4三菱所有鉄道・
日 本 鉄 道 山 陽 鉄 道 九 州 鉄 道 年月 名 義 株 数 年月 名義 株数 年月 名義 株 数
81年
5弥 太
6,
000庁 λY
弥 之 , 1
000 83年
7弥 太
6,
200 86年
9久 弥
8,
74511 庁
弥 之
1,
000// //
小 野
300// //
二 橋
100 89年
9久 弥
5,
900か λY
寺 西
100 89年
10久 弥
13,
94590
年
9久 弥
9,
000// か
肥 田
250 91年 久 弥
25,
490 91年
7久 弥
4,
450// //
二 橋
150 //荘 回
1,
908// //
寺 西
100 //寺 西
973//
二 橋
900//
豊 川
865λy
萩
86092
年
4久 弥
10,
125 92年
4久 弥
29,
220ノノ ノY
小 野
675 λy か荘 田
1,
908 93年
3久 弥
7,
498// ノア
二 橋
168 93 12久 弥
32,
220 庁 4久 弥
10,
378// //
寺 西
112 λy //荘 回
1,
445 庁 11久 弥
12,
128 92年
9久 弥
1, 1
398 94年
10久 弥
20,
643 95年
3久 弥
30,
276// /ノ
山 脇
300// //
南 部
300か ノγ
川 淵
30095
年
5久 弥
30,
826庁 //
山 協
100が ノア
南 部
100// 〆ノ
川 淵
100/ノ //
高 田
50// 7
久 弥
30,
491が 8
久 弥
29,
441が 9
久 弥
23,
10696
年
1久 弥
44,
100 96年
1久 弥
34,
659// 庁
荘 田
1,
435 // 4久 弥
33,
159λy λr
寺 西
973// 庁
二 橋
800λy //
豊 川
665λy 府
末 延
200が λY
荘
100// 2
久 弥
34,
239ノ
ア 5
久 弥
47,
523// 11
久 弥
49,
01196
年
10久 弥
19,
347 λY 12久 弥
52,
584 96年
12久 弥
33,
634庁 庁
二 橋
100 庁 庁荘 田
200庁 か
寺 西
200λ' が