秋田大学教育学部研究紀要 人文科学 ・社会科学部門 50pp.13‑23, 1996
メタ倫理学 と批判的合理主義
立 花 希 ‑
ThePlaceofCriticalRationalism inMeta‑Ethics
KiichiTACHIBANA
Abstract
Thispaperdealswithsomeproblemsofmeta‑ethicsinmoderntimes.Therearethreeviews inmeta‑ethics:naturalism ;intuitivism ;noncognitivism. Itistakenforgrantedthateach view isincompatiblewiththeothers,andinordertobeconsistent,wecannotbutacceptone ofthem. Againstthiscommonoplnion,weclaim thatthethreeviewshavetwoprerequlSites incommonandthatoncewereplacethemwithotherideaswhicharecharacteristicsofPopper's criticalrationalism,wecanconsistentlyproposethefourthviewinmeta‑ethics.
Ⅰ.前書 き
今世紀最大 の哲学者 の一人 と目されるポパ ー (K.R.Popper)が,1994年9月17日に亡 くな っ た。かれはとうとう長 く続 けて きた自分の哲学 をす ることがで きな くな って しまった。 この出来事 は私 にとって辛 く,悲 しい ことであ った。 しか し,嘆 き悲 しんでばか りいるわけにはいかない。 か れの仕事を受 け継 ぎ,発展 させ る役 目がわれわれに回 って きたのである。 これは困難 な仕事である が,二十一世紀 に向 けて どうして もや らなければな らない仕事であるよ うに私 には患われる。その 手始 め として, ポパーの倫理思想 の意義 を考案す ることに したいと思 う。その理由は二つある。一 つは, ポパーの思想 の根底 には倫理があるといわれなが ら,その解明があま りなされていないとい うことである1)。 もう一つ は,現代倫理学の諸潮流 の中で も, ポパーの倫理思想 が取 り上 げ られ る ことが少 な く,その位置づけが不明瞭であることである2)。二十世紀 に終わ りを告 げ よ うと して い る現在, ポパ ーの倫理思想 を見極め ることによって,二十一世紀 に残 し,発展 させ るべ きポパーの 遺産 があるか どうかを判断 し, もしあるとした ら, それが何であるのかを考察す ることに したい3)。
Ⅱ.メタ倫理学の3つの類型
二十世紀 はメタ倫理学 の時代 と呼ばれて きた。前世紀 までの倫理学 において は明確に区別されず, 混同 されて きた規範倫理学 とメタ倫理学 とがようや く区別 され るようにな り, しか も後者の考察が 盛ん に行われ るようにな ったのが今世紀だったか らである。 メタ倫理学 と規範倫理学 とが区別 され るようになった経緯 には,前世紀末か ら今世紀 にかけて,論理学が著 しく発展 した ことがある。 そ の中で も特 に, A. クルスキー (A.Tarski,1902‑1983)が確立 した意 味論 (semantics)上 の業 績 に拠 るところが大 きいので,それを検討 しなが ら, メタ倫理学 と規範倫理学 の区別を明確 にす る
ことに しよ う4)。
‑ 13‑
(1) 対象言語 とメタ言語
●●
クルスキーが対象言語 とメ タ言語 を区別 した背景 には,古代 ギ リシ ャ以来論 じられて きた,真理 にまつわ る難問5)があ った。 その 1つ は 「嘘つ きのパ ラ ドックス」 と して知 られているものである。
ある人が
,
『私 は嘘 をっ いている』 とい った としよ う。『私 は嘘 をついてい る』 が真 で あ るな らば, かれ は「
『私 は嘘 をつ いている』 とい う嘘 をっ いている」 ことにな るので,
『私 は嘘 をっ いて い る』とい うの は偽だ とい うことにな り,他方
,
『私 は嘘 をついてい る』 とい うのが偽 で あ るな らば, か れ は「
『私 は嘘 をっいてい る』 とい う本 当の ことをい っている」 ので,
『私 は嘘をついてい る』 とい うの は真だ とい うことにな って しま う。すなわち, その人 の主張 が真で あると仮定す ると, その主 張 は偽であ るとい うことにな り,反対 にその主張 が偽で あると仮定す ると,真で あるとい うことに な る。 こうして,正命題 とその否定命題 の両方 ともが 自己矛盾 に陥 ることになる。 これ は自己言及 (self‑reference)のパ ラ ドックスの一種であるが,対象言語 とメ タ言 語 を区別 す る ことに よ って, このパ ラ ドックスを巧妙 に解決 したのが, クル スキ‑であ った。先ず,簡単 な例 によ って,対象言語 とメタ言語 の区別 を明 らかに しよ う。「ソク ラテ スは哲学者 で ある」 とい う文 と 「ソクラテスは5文字で ある」 とい う文 を考 えてみよ う。前者 につ いて は,磨 史上 の人物 の ソクラテスの ことにつ いて語 ってい る文であるとみなせ ば,真であ ることが容易 にわ か る。 しか し,後者 はどうであろうか。 もし後者 の文が,前者 と同 じ歴史上 の人物 につ いて語 って いるとみなす と,人間が5つの文字でで きてい るわ けはないので,後者 の文 は偽であ るとい うこと にな るだ ろ う。
このよ うな誤解 は次 のよ うに解釈す ると容易 に解 くことがで きる。 すなわち,「ソク ラテ ス は5 文字 であ る」 とい う文 は歴史上 の人物 と しての ソクラテスにつ いて語 って いるのではな く,例えば, 前者 の文で用 い られている 「ソクラテス」 とい うカ タカナの文字数 について語 っているのだ と解釈 す るのであ る。始 めの誤解 のよ うに, この二つの文が,同 じ対象 につ いて語 っていると解釈すれば, 前者 は真,後者 は偽 とい うことにな って しま うが6),前者 はプ ラ トンの師であ った歴史 上 の人物 に つ いて語 ってい るのに対 して,後者 はカ タカナで書かれた ソクラテスとい う文字 につ いて語 ってい ると解釈すれば, どち らも真であるとい う具合 に理解 で きる。す なわ ち,前者 は,歴史上 の人物 と●●●●●●●●
い う言語外的対象 につ いて語 っている対象言語 に属す る文で あ り,後者 は, その対象言語 につ いて 語 っているメタ言語 に属す る文で ある。 この言語 の レベルの相違 を明確 に区別 しないで混同す ると, 問題 が生 じることにな る。
先 のパ ラ ドックスにつ いていえば
,
『私 は嘘 をついて いる』 とい う文 は, ある決 ま った内容 (例 えば,今, ポケ ッ トにはい ってい る財布 の色 は黒であ るのに,茶色 であると嘘 をい うことな ど) に つ いて語 ってい る対象文であ るのに対 して,「
『私 は嘘 をっいてい る』 と嘘 をつ いている」 の文 に登 場す る後半部分 の 「嘘をっ いている」 とい う文 は, その対象文 につ いて語 って い るメ タ文 で あ る。したが って
,
『私 は嘘をつ いている』 とい う文 と,「
『私 は嘘 をつ いて いる』 と嘘 をっ いて い る」 と い う文 は異 な る対象 につ いて語 っている文 と して理解 しなければな らず, もともとの発言 に登場す る 「嘘 をつ いてい る」 とい う言葉 が どの レベルの言語 に属 す るのか を決 めておかない と内容 を理解 す ることはで きないのである。 もしもともとの発言 に登場す る 「嘘 をついてい る」 とい う言葉 が財 布 に関す るものであ るとす るな らば,「嘘 をついてい る」 とい う言葉 をそれ とは対象 の異 な る,
『私 は嘘 をっ いてい る』 とい う発言 につ いて用 いることはで きない ことにな る。 したが って,「
『私 は嘘 をっ いている』 とい う嘘 をつ いてい る」 と解釈す ることは言語 の レベルを混同することになるので, それ は許 されず,
『私 は嘘をついている』 とい うのは偽 だ とい う結 論 を導 くこ とはで きな くな る。他方
,「
『私 は嘘 をついてい る』 とい う本 当の ことをい ってい る」 と解釈す ること も許 されず,
『私 は嘘をつ いて いる』 とい うのは真 だ とい う結論 を導 くこともで きない ことにな る7)0さて, こうした言語 の レベルを区別す るために考案 されたのが,引用符 の使用である。 ソクラテ スの例 を用 いれば,
0 (言語外的対象) :人物 としての ソクラテス 1(対象言語) :ソクラテスは哲学者である。
2 (メタ言語) : 「ソクラテス」 は 5文字である。
このようにメタ言語 に属す る文 に登場す るソクラテスには 「ソクラテス」 と引用符をっけること によって,対象言語 に属す る文 に登場す るソクラテスとは, その対象が異なることを明示す るので ある。後 に出て くるように,引用符が文全体 にかか る場合 もあ り,実 はその方が通常 の形である8)。
タルスキーはさらに,真理 の意味論的定義 を行 ったのだが, ここでは立 ち入 らず, ただ対象言語 とメタ言語 を慎重 に区別 しないと,困難やパ ラ ドックスに巻 き込 まれて しまう場合があるというこ とを確認 してお くことに したい9)。
(2)規範倫理学 とメタ倫理学
以上 の対象言語 とメタ言語の区別 を倫理学 の分野 に応用 したのが,規範倫理学 とメタ倫理学の区 別である。
0 (言語外的対象) :現実世界 における人間の発話,行為 など。
1 (規範倫理学) :人 は嘘をつ くべ きではないとか,脳死 によって人の個体死 とすべ きで は ないとか,殺人 は悪である, など。
2(メタ倫理学) :「人 は嘘をっ くべ きではない」 とい う当為 は,実際 に嘘をつ く人間が い るとい う事実 によって無効 にされ るような ことはない, など。
規範倫理学 は, この現実世界 において実際に行 われ る人間の具体的な発話,行為 について,それ らを抑制 した り,推奨 した りす るために,命令や禁止 などの当為を述べ るものである。 メタ倫理学 は,規範倫理学で用 い られ る命令や禁止 などの当為 を分析 した り,それ と事実 との関係を考察 した り,善,悪 の定義を考察 した り,規範 を導出す る議論 を批判的に吟味 ・検討 した りなどを行 うもの である。 したが って,規範倫理学 とメタ倫理学 とはその対象 を異 にす るのであ り,後者 は,規範倫●■●●
理学 について考察す るものであ り, その考察の中で規範 と現実世界 の事実 との関係 などについて考 察す ることはあるか もしれないが,現実世界 における人間の言動 などについて直接発言す るもので
はない。
それでは, このようなメタ倫理学 はどのような意義があるのだろ うか。規範倫理学 とメタ倫理学 とを区別 しないとパ ラ ドックスに巻 き込 まれるなどということはないけれども,規範倫理学 におい ては, どうして も自分 自身の一定 の価値や規範 を述べざるを得ず, その結果, ともすれば自分 の奉 じる規範や価値 に固執 し,それ らとは相容 れない規範や価値 に対 して攻撃的にな った りしがちであ る。 それに対 して, メタ倫理学 において は, このような規範倫理学 とは明確 に区別す ることによっ て, さまざまな規範や価値の相互 の関係や,規範や価値 と事実 との関係 などについて,冷静 な立場 か ら価値中立的に, より客観的に議論す ることが可能 になるということが挙 げ られ るだ ろ う10)。 以 下 の考察 は, メタ倫理学上 の問題 に関す るものである。
ー 15‑
(3) メタ倫理学 の3つの類型
堀田彰氏 は,著書 『倫理学』 の中で,今世紀 のメタ倫理学上の立場 を3つに類型化 し,それを三 段論法 の形で完結 に述べている。 これが私たちの議論 の出発点であるll)。
1) 自然主義 (naturalism)12)
P:知識 の源泉 は経験 と理性だけである
Q :われわれ は倫理的価値 に関す る知識 を もっている
R :経験 と理性がわれわれに倫理的価値 に関す る知識 を与 える
2)直覚主義 (intuitionism )
Q :われわれは倫理的価値 に関す る知識 を もっている
「R :経験 と理性 はわれわれに倫理的価値 に関す る知識を与えない13)
「P :知識 の源泉 は経験 と理性だけで はない (直覚がある)
3)非認識主義 (noncognitivism)14〕
P:知識 の源泉 は経験 と理性だけである
「R :経験 と理性 はわれわれに倫理的価値 に関す る知識 を与 えない
「Q :われわれ は倫理的価値 に関す る知識 を もっていない
自然主義 と直覚主義 はQを共有 している点で非認識主義 と対立 し,直覚主義 と非認識主義 はrR
を共有 している点で 自然主義 と対立 し,非認識主義 と自然主義 はPを共有 している点で直覚主義 に 対立す るという具合 にな ってお り, さらに, 自然主義が成立すれば,他の二つ の立場 は成立 せず, 直覚主義が成立すれば,他の二つは成立せず,以下,同様 とい う具合 に, この議論 は三凍みになっ ている。 したが って,整合的であろうとす るな らば, この3つの説 の うちどれかに組 しなければな らないよ うに思 われて きた。果た してそ うであろうか。第4の説 はあ りえないのだろうか。 これが われわれの取 り組むべ き課題である。
Ⅲ. 3つの類型に共通する諸前提
今, 3つの説 の うちのどれかに組 しなければな らないと考え られて きたと述べたが, それはこれ ら3つ の説が共有 している前提を認 めればの話である。 その前提を解明す るのに, ポパ ーの批判的 合理主義 の考え方が役 に立っ。 それを手がか りに しなが ら,前提の解明に努めることに しよう。
共通す る前提 として,次 の2つ に関す るものが考え られ る。すなわち,(1)知識に関する前提:K‑
Kテーゼ,(2)根拠,源泉 に関す る前提 .・正当化主義,である。 この二つの前提 は相互 に関係 す る もので はあるが, ここでは一応,分離 して,順次,考察す ることに しよう。
(1) 知識 に関す る前提:K‑Kテーゼ
伝統的な認識論 によれば,知識が成立す るためには二つの条件が必要であると考え られてきたし, 現在で もそ う考 えている人 も多い。 この二つの条件の一つ は,確実 に真であることと, もう一つは, それに正当な根拠があることである。われわれは,単 に真 なる言明を知 っているだけでは,それは 知識 とはいえず, それが確実 に異である根拠 について も知 っていなければな らないというのである。
この二重 の意味で知 っていることが,知識 の成立条件であることか ら,通常,K‑Kテーゼと呼ば れている (K‑Kとは,二つのKnowの頭文字を並べた ものであ る)。 先 の3つ の類型 で も,この
K‑Kテーゼが前提 されている。正当な根拠 として,理性 と経験 という二つの源泉が挙 げ られてい るか らである15)。近代認識論 においては, デカル トが,理性を権威 あ る根拠 に し, ベ ー コ ンは経験 を権威 ある根拠 に して認識論を組み立てた ことは周知の事実である。
ところが,科学的知識 に限 って も,科学理論 は理性 によって も, また経験 によって も正当化 され えず, したが って,科学的知識 は従来のK‑Kテーゼの条件を満足 してお らず, もし従来の 「知識」
の概念を保持 して,K‑Kテーゼの条件を満足す るものだけが知識 と呼ばれ るに値す ると考え るな らば,科学的知識 は 「知識」 とは呼べな くなるとい うことを明 らか に したのが, ポパ ーで あ った。
ここでわれわれは二つの選択肢か らの選択 に直面す る。すなわち,従来 の 「知識」 の概念を保持す るか, あるいは, どんな根拠 によって も正当化 されないとして も,科学的知識を 「知識」 として認 めるか という選択である。 ポパーは,後者を選択 し,科学的知識を 「推測的知識」 と名づ けるので ある16)。科学的知識です ら何 らかの根拠 によって正当化 され る確実 に真なる知識ではな い とす るな らば,仮 に倫理的価値 に関す る知識が何 らかの根拠 によって正当化 される確実 に真なる知識で はな いとして も,知識ではないと断定す る必要 はないことになるだろう。倫理的知識が,科学的知識 と 同様 に推測的知識であって も構わないか らである。
もしそ うであるとすれば,倫理的知識が理性や経験 (あるいは直覚)などの源泉 によっては得 ら れず, したが って,従来の科学観 によれば,科学的知識 としての資格がないという理由で,非認知●●●●●● ●●■●■●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●■●●●●●●●●●●
主義 のように,われわれは倫理的価値 に関す る知識 を もってお らず,価値 は単 なる情緒の表現 にす●●●●●●●●●●●●●●●●
ぎないという結論 に至 る必要 はないとい うことになるだろう17)。 次 に正当化主義 についてさ らに詳 しくみてい くことに しよ う。
(2)根拠,源泉 に関す る前提 :正当化主義
伝統的な認識論 によれば,確実 に真 なる知識 は権威 ある根拠 によって正当化 された ものでなけれ ばな らなか った。 しか し,何 らかの根拠 によ って正当化 しようとす る試みが ことごとく失敗す るこ とを明 らかに したのがポパーであ った18)。 それを ミュンヒ‑ ウゼ ンの トリレンマの形で定式化 した のが, ドイツにおけるポパー追従者,H.アルバー ト(H.Albert,1921‑)である19)。 ミュンヒ‑ ウゼ ンの トリレンマとは,正当化 しよ うとす る試みは,無限後退 (infiniterRegreLS)か,循環(Zirkel) か,中止 (Abbruch)のどれかに帰着す るとい うものである。 ポパーの知識論 は,一切 の正当化 を 必要 とす ることな く,知識の成長 について語 ることので きる非正当化主義である20)。それ は, 推測 と反駁,あるいは試行 と錯誤か ら成 るもので, いろいろな推測を意識的に,批判的テス トない し批 判的検討 にかけようとす る態度 を奨励 し, それがまさに 「誤 りか ら学ぶ」 ことであると主張する21)。 そ して,人間のさまざまな営為の中で, この批判的態度が適用可能 な分野 をで きる限 り拡 げようと す る試みの提唱を,「批判的合理主義」 と名づけたのである22)。
われわれの知識 の中の何 ものかを特権的な地位 に押 し上 げ,それを批判 の対象か らはずすべ きで はな く,可能 な限 り批判 に対 して開 いてお くようにすべ きであるとい う主張をす る ことによ って, 理性 にせよ経験 にせよ, それ らが批判 の将外 にあ って,特権的な権威 を もつ とい うことも拒否す る のである23)。逆 にいうと,批判 の対象 として姐上 に載せ られ るのであれば,知識 はどん な源泉か ら 得 られた もので も構わないとい うことに もなる。 しか も, ポパーによれば,知識 の主 た る源泉 は, 近代認識論で は確実な根拠を もっ源泉 としては排除 されていた,伝統 (的知識) であ るとい う2●●●■●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●■●●●●4)0 もしそ うであるとすれば,理性 ない し経験か,あるいは直覚か とい った自然主義 と直覚主義 との
●●●●●●●●●●●
論争 も不毛 な もの となるであろ う。
か くして, 自然主義,直覚主義,非認知主義 の間の三味みの状態 は, その三者 に共通す る前提で ある,K‑Kテーゼとそれか ら派生す る正当化主義か ら生 じた ものであ ることがわか る。
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ここまで は,非正 当化主義 と,伝統が知識 の源泉 (とい って も確実 な根拠 と しての源泉で はない が) で あるとい う主張 を含む ポパーの批判的合理主義 の立場 か ら, メ タ倫理学 の3つの立場 を批判 す る とい うネガテ ィヴな ものであ ったが,次節 で は, ポパ ーの批判的合理主義 に基づ く, ポジテ ィ
ブな メタ倫理学 の立場 を模索す ることに しよう。
Ⅳ. メタ倫理学 と しての批判的合理主義 (1)批判的合理主義 の適用範囲
ポパ ーの思想 といえば,科学方法論 としての反証主義 が想起 され るが,批判的合理主義 の方 が広 い概念で あ り,私見 によれば,反証主義 は,批判的合理主義 を科学 に適用 した もので,批判的合理 主義 の一形態 である25)。科学 において はテス ト,特 に経験 的 テス トが批 判 の主 要 な武器 にな るが, テス ト可能で はな く, したが って ポパ ーの意味で反証不可能 な,例 えば,哲学上の理論 について も, 批判的検討,議論 は可能であ り,批判 的合理主義 を哲学 に適用す ることは可能 であ る26)。 哲 学 の主 張 が他 の主張 とはま った く切 り離 されてそれだけで主張 され るな らば, それについて議論す ること はで きないが, その ことは科学的主張 につ いて も当て はまることで ある。科学理論で あれ,哲学的 理論 であれ, それ は問題解決 の試 みであ り,問題状況 との関係 において批判的な議論 や検討 が可能 で あ る。倫理学上 の理論 もまた経験 によ ってテス ト可能で はない として も, もしそれが何 らかの問 題 を解決 しよ うとす る試 みであ るとみなす ことがで きれば,倫理学上 の理論 につ いて批判的議論が 可能 にな るであろ う。 ある倫理的理論 は解決 しよ うとした問題 を解決 してい るのか とか, その理論 と競合す る他 の倫理 的理論 よ りうま く問題 を解決 して いるのか とか,単 に問題 をす り替 えただ けで はないのか とか,等 々 と問 うことがで き, それ らにつ いて議論す ることがで きる。 このよ うな議論●●●●
は倫理学上 の理論 について批判的,合理 的 に議論す るものなので, メタ倫理学 に属す ることになる。
こう して, メタ倫理学 としての批判的合理主義 が可能 であ ることがわか るので ある。
(2) メ タ倫理学 と しての批判的合理主義
批判的合理主義 は,科学 (自然科学,社会科学 を含 む) だけで はな く,哲学 や倫理学 に も適用可 能 な ものであ るが, しか し, ポパ ー も指摘す るよ うに,科学理論 と倫理学理論 との間 には, 明確 な 相違 も存在す るよ うに思 われ る。 この点 を検討 しなが ら, メタ倫理学 としての批判的合理主義 の一 つの可能性 を考察す ることに しよ う。
1)批判的二元論 の問題
1945年 に出版 された 『開かれた社会 とその敵』 におけるポパ ーは,開かれた社 会 の特徴 と して, 批判 的二元論 (criticaldualism)を挙 げ,批判的二元論 とは,次 のよ うな ものであると列挙す る27)0 (a) 自然 の規則性 を記述す る自然法則 とは異 な り,規範 ない し規範法則 は,人間が作 った り,変 更 した りで きるものであ り, したが って人間 はそれ に対 して道徳的責任がある。 (b)白然 は事実 や 規則性か らな ってお り, それ 自体 は道徳的で も非道徳的で もないのに対 して, 白然 に対 してわれわ れの基準 (standard)を押 しつ け, このよ うに して 自然界 に道徳 を持 ち込 むのはわ れ われで あ り, 責任 や決定 はわれわれ によ ってのみ 自然 界 に もた らされ る。 (C)こ う した決 定 は, 事 実 に関 わ る (pertain)と して も, けっして事実 (や事実 にっての言明)か ら導 出す ることはで きない。そ して, この考 えを,「事実 と決定 の二元論」 とも呼ぶのであ る2㌔
この批判的二元論 ない し事実 と決定 の二元論 は,「事実 ‑価値 の隔絶 (fact‑valuegap)」 テ ーゼ を主張す る非認識主義 (ない しは倫理 的懐疑主義) と酷似 してお り, ウォル ドロ ンは, ポパ ーのま さに このよ うな主張 か ら, かれの立場 を 「洗練 された情緒主義」 と呼 ん だ ので あ った29)o E.ボイ ル もまた, ポパ ーの批判的二元論 をェイヤーの主張 と同一 の もの と して解釈 してい るが 3'), それ に
反対 して ポパ ーは次 のよ うに述 べている31)。 それ は■●■●●●●■●●, 4点 に要約 で きよ う。(a)規範 や基 準 が われ われ 自身 の創造物であ ると して も, あ るものは良 い ものであ りえた り, またあ るものは悪 い もので あ りえた りし, それ らを改善 してい くことがで きるので,相対 主 義 で はない。 (b)規 範 や基 準 は, 人間の創造物であ り人為 的 な ものであ りなが ら,物理的世界であ る世界1や人間精神 の世界である 世界2とは独立 した世界 3に属す るものであ り, 自律的である。 (C)客観的真理 や絶 対 的真理 とい う観念 は,人為的 な もので あ りなが ら,誤 りを犯 しが ちなわれわれの作 る理論がそれに到達 し損なっ ていると言 え るとい う意 味で,規制的観念 (regulativeidea)であ るの と同様,絶対的正義 とい う 観念 も, われわれの行 う道徳的判断や道徳的決定がそれに到達 し損 な っていると言 え るとい う意味 で,規制的観念 である。(d)絶対 的真理 の規準 (criterion)が存在 しないの と同様, 絶 対 的正義 の 規準 も存在 しないが, その ことによって,真理 が存在 しな くな ることがないの と同様,正義が存在
しな くなるとい うこともない32)0
ポパ ーによれば,科学 が真理 の探求であ るの とアナロジカルに倫理学 は正義, 善 の探求 で あ り, われわれ人間 は知的な誤 りを犯す ように道徳 的な過 ち も犯すが, そ こか ら学ぶ こ とが可能 で あ る。
そ して過誤 か ら学 び,倫理 的規範 を改善 してい くうえで も,試行錯誤,推測 と反駁 の方法が適用 さ れ ることにな る。 この考 え は,倫理的実在論 の考 えに近 いよ うに思 われ るが 33), この問題 の考察 に つ いて は, まだ私 自身 の考 えが固 まっていないので,別 の機会 に譲 りたい と思 う。 ただ し, 規範 , 価値 の真理性 の問題 につ いて若干論 じてお くことに したい。
2)規範,価値 の真理性 の問題
注28)で ポパ ーは,規範 や規範法則 につ いては,比愉的 に しか真, 偽 を い うことはで きな い と 主張 してい ると述べたが,1974年 に出版 された 「自伝」 の中で は, それ とは対 照 的 に次 の よ うに 述 べて いる3㌔
提起 され るあ らゆ る価値 と共 に次 のよ うな問 いが生 じる。す なわち, それが価値であ るのは真 であるのか, その価値 が価値 の階層 の中で相応 しい地位 を占めているとい うの は真 で あ るのか, 親切 が公正 さよ り価値 があ るとか, あ るいはそ もそ も親切 が公正 さに匹敵す るとか とい うのは真 であ るのかな どとい う問 いであ る。
すなわち,価値 に真理値 を付与す ることが可能 なよ うな主張 を してい るのであ る。 これ はどう考 えた らよいのであろ うか。私 と して は,後者 の主張 を支持 したい と思 う。『開かれた社会 とその敵』
における前者 の主張 は,世界3理論 の提唱以前 であ ることと,後期 の著作であ る 『よ りよき世界 を 求 めて』 を視野 に入 れ ると,後者 の主張 の方が よ りポパ ‑の思想 と適合す るか らであ る3㌔
また, クルスキーの真理 の定式化 によれば, まさに規範,価値 につ いて も真,偽 を主張す ること は可能 であ る。
「すべてのカ ラスは黒 い」 とい う科学 的言明が真であ るのは,すべてのカ ラスは黒 いときかつそ の ときに限 る, といえ るの と同様 に,「殺人 は悪で ある」 とい う規範的言明が真 で あ るの は, 殺 人 は悪で あるときかつその ときに限 るといえ るのであ る。後者 の主張 に対す る疑問 は, この規範 の真 理性が どのよ うに判定 され るのか とか, その判定 の規準 は何か とい う問 いに答 え られなければ,真 理値 を与 え ることはで きない と考 えて しま うことか ら生 じるよ うに思 われ るが, それ につ いて は, 科学理論 において も真理 の判定規準 は存在 しない と して も, それに真理値 を付与す ることは無意味 で はないといえ るの と同様 に,規範的言 明に真理値 を付与 しよ うとす ることも無意味ではないと答 え ることがで きるだ ろ う36)。 しか し,先 に もお断 りしたよ うに, この問題 につ いての さ らな る考 察 は別 の機会 に譲 りたい と思 う。
‑19‑
しか しなが ら, 以 上 の考 察 か ら して も, 批 判 的合 理 主 義 が, 科 学 方 法 論 と して だ けで はな く, メ タ倫 理 学 にお いて も有 効 性 を発 揮 す る とい う こ とは少 な くと も明 らか に な った よ うに思 わ れ る。
注
1) 私の知 る限 り, ポパーの倫理思想 に関す る論文 は若干あるが,それをテーマに した著書 は出版 されていな
い。
2) ウォル ドロンは, ポパーのメタ倫理学理論が重要であることを指摘 したうえで, しか し,「私の知 る限 り, 戦後出版 されたメタ倫理学理論 に関す る重要な著作 において, ポパーの批判的二元論 について しっか りした 議論がなされたことはない」 と述べつつ, ポパーのメタ倫理学理論を考察 している。J・Waldron,Making SenseofCriticalDualism,inPoppeT・andtheHumanSciences,G.CurrieandA.Musgraveeds., Nijhorf,Dordrecht,1985,p.117.しか し,私見によれば,かれはポパーの非正当化主義の意義を理解 し損 ねているので, ポパーの倫理学理論が直覚主義なのか,倫理的懐疑主義 (われわれの用語 で は非認識主義) なのかと悩んだあげ く,結局のところ,成熟 し洗練 された情緒主義 (非認識主義の一種) として分類せざる を得な くな って しまっている。
3) 実 はもうーっ理由がある。それは私事で恐縮であるが,二十数年前,私の学部時代 にまで潮 る。当時東京 教育大学 の教授であった堀 田彰先生の倫理学の講義を受講 した際,次節で述べ ることになるメタ倫理学 の3 つの類型を先生が紹介 され, この うちのどれを支持す るか と学生 に尋ね られたことがあった。 その時には返 答に窮 したのだが,今になってようや く一応の答え といえそうな見解 に到達 したO遅 さに失 した感 はあるが,
ここでそれを発表 してみようという気持 ちになったのである。
4) クルスキーの真理論 については,「真理 の意味論的観念 と意味論の基礎」,坂本百大編,『現代哲学基本論 文集Ⅱ』,勃葦書房,1987年,51‑120貢参照。
5) 真理 にまつわる問題 は難問 とされて きたが, この問題 は二つに分 け られるか もしれない。 「何 が真理 で あ るのか (Whatistrue?)」 という問いと,「真理 とは何か (WhatlStruth?)」 という問いである。 この二 つの問いは類似 しているので,混同されがちであるが,前者 は,真理 という概念を前提 とした上で,何が真 理 として該当す るのか という問いであ り,後者 は,真理 とい う概念 はそ もそもどうい うものであるか という 問いである。 しか し従来,前者の問いに答えるためには,真理の判定規準 (criterion)を もたねばな らず, また後者の問題である真理の定義 にも,真理の判定規準が含まれなければな らないと考え られて きたので, 両者を必ず しも区別す る必要 はないとみなされてきた。 ビラ トが 「真理 とは何か」 と尋ねた ことはあまりに
も有名であるが, この問いは, どちらに属す る問いなのであろうか。従来の立場か らすれば, どち らにも属 す る問いであるとい うことになろう。だ とすれば, これに答えることは至難な業 になるであろ う。 しか し, 二つの問いを区別すべ きであるという立場か らすれば,かれの問いは擾昧であるといわざ るをえな くな る。
だが, タルスキ‑はまさに,後者の問題 に答えようとしたのであ り, しか も,かれの定義 には判定規準 は含 まれていない。 ビラ トの問いが後者の問いであるとすれば, タルスキーはその問いに対 して明確 に答えてい ることになるが,他方, ビラ トの問いが前者の問いであるとすれば, クルスキーは ビラ トの問いには答えて いないことになる。定義を行 うことと,判定規準を与えることを区別 したことを評価する方が, メタ倫理学 上の問題を考察するうえでパースペクテ イヴが広がるように思われ る。 ポパーも定義 と判定規準 との区別の 重要性を指摘 している。K.R.Popper,ObjectiueKnowledge,C1arendonPress,0Ⅹford,1972,pp.
319‑29,(邦汎 『客観的知識』,森博訳,木鐸社,1974年,355‑67貢)。詳 しくは, Ⅳ節で論 じるつ もりで ある。
6) 普通 は次のようには考えないが, このような解釈 も可能である。すなわち,後者 は歴史上の人物 について 語 っているとみな し,前者 は後者の文 に登場す るカタカナの言葉 について語 っているとみなす解釈 で あ る。
この場合 には, どち らも偽 ということになるだろう。
7)以下 のよ うな仮定 は考 えに くい ことであるが, もしもともとの発言 に登場す る 「嘘をっ いている」 とい う 言葉 が財布 に関す るもので はな く,「私 は嘘をっいている」 とい う文 についてであると仮定 して も, 本 文 の 結論 と同様 にになるだろ う。 この仮定 において も言語 の レベルの混 同が生 じているか らである。
8) 注9)参照。
9) タルスキーの定義 は,形式化 された言語 におけるものであ り, その定義 を正確 に構成す ることは高度 に専 門的かつ技術的であ るが,'結論 だけを要約すれば,単純明快である。かれの真理の定義 は,̀p' が真であ る のはpであるときかつその ときに限 る, とい うものである。例えば,「ソクラテスは哲学者であ る」 が真 で あるのはソクラテスは哲学者であ るときかっその ときに限 る, とい うことにな る (引用符が まさに用 い られ てい ることに注意 されたい。 また引用府が単語 にで はな く,文 に用 い られて い る ことに も注意 され た い)。
この定義で は, ソクラテスが哲学者であ ることはどうや って判定 され るのか とい うことにつ いて は, まった く言及 されてお らず, ソクラテスが哲学者であれば,「ソクラテスは哲学者 である」 とい う文 は真 だ とい う ことにな るとい うものである。注5)参照。尚, ポパーの批判 的合理主義 と両立 しうる倫理 的実在論 へ の, この裏理論 の応用 について は,第 Ⅳ 節で若干,言及す ることになるであろ う。
10) とはい って も, メタ倫理学 だけで倫理学 が 自己完結 しているわけで はないことも確かである。 これは言 う は易 く,行 うは難 しなのであるが,地球環境問題,先端医療 の問題 などの現実的諸問題 について具体的で明 確で首尾一貫 した実際的規範や価値 を提唱す ることを目指す規範倫理学 もまた倫理学 の重要 な課 題 で あ る。
しか し, その際 に もメタ倫理学的分析や議論 は有効である。
ll) 堀 田彰著,『倫理学』,10‑12貢 (氏が私 たちの講義で用 いた このテキス トは出版 されなか ったよ うである。
公刊 されたかれの論文で,同一で はないが類似 の議論がなされている もの と して は,「倫理理論 の根本問題」, 堀 田彰,片木清編,『現代倫理学』,法律文化社,1974年 があ る。BO頁)。前著で,かれは,最初にシジウィッ
ク (H.Sidgwick,1838‑1900)に言及す るとい う議論 の流 れか ら,先ず直覚主義 を取 り上 げ, それ を中心 に類型化 しているが,かれ も指摘 している通 り(12亘), このよ うなメ タ倫理学上 の問題 が明確 にな った の は,G.E.ムーア (G.E.Moore,1873‑1958)か らであ り, その際,批判 の対象 とな ったのが, 伝統 的 に 支配 的であ った自然主義であ ることか ら, ここで は自然主義 を最初 に取 り上 げることに した。 その結果,記 号や用語 を若干変更 した ことをお断 りしてお きたい。
12) この立場 が科学的知識 をモデルに してお り, しか も従来 の科学観 に基づいていることは明 らかである。 こ の典型的な例 と してよ く言及 され るのは,∫.S.ミル (∫.S.Mill,1803‑76)の倫 理学 理論 で あ る。∫.S.
Mill,UtilltarianlSm,inTheEnglishPhilosophersfrom BacontoMill,EdwlnA.Burtted.,The ModernLibrary,New York,1939,pp.895‑948.後 に考察す るよ うに, 科学 的知 識 に対 す る見 方 が変 わ れば,知識一般 に対 す る見方 も変 わ り, したが って,倫理的知識 に対す る見方 も変 わ ることがあ りうるので ある。Ⅲ節 (1)参照。
13) これが有名 なG.E.ムーアによる自然主義批判であ り,それを 「自然主義的誤謬 (naturalisticfallacy)」 と名 づけたのであった。G.E.Moore,PrincLPiaEthLCa,CambridgeUniversityPress,London,1903, p.10.
14) この立場 も科学 的知識 をモデルに してお り, しか も従来 の科学観 に基づいていることは明 らかである。 こ の典型 は,A.J.エイヤー,『言語 ・真理 ・論理』,吉 田夏彦訳,岩波書店,1955年であ る。 特 に6章 参 照 。 注17)も参照。
15) 「根拠」 と 「源泉」 は異 なる概念であるといわれ るか もしれないが,伝統 的には,源泉 は,間違 っている こと もあ りうる単 な る情報 の入手先 とい う意味で はな く, まさにそれが真であることを正 当化す る根拠 と し て考 え られていた。 これについての詳細 な分析 は,K.R.Popper,ConjecturesandRefutations,Rout‑ ledge,London,1963,pp.18121,(邦訳,『推測 と反駁』,藤本隆志他訳,法政大学 出版局,1980年,30‑35 頁) を参照 の こと。
‑1コ1‑
16) Obj'ectLUeKnowledge,p.76,(邦訳,88貢)。ConjecturesandRefutations,pp.11415,(182‑5頁) ち 参照 の こと。推測的知識であ るか らとい って,真理 と無関係であるとい うわけで はない。む しろ,真理が探 求 の目的であるか らこそ,真理以外 の何 もので もない全真理 に到達 していないわれわれの理論 は,推凱 仮 説 に留 まるのであ り, そ して,批判 を通 じて真理 を追求 す るということにな るのである。
17) こうした主張 の典型的 な例 は,初期 のエイヤーに兄 いだす ことがで きる。かれ は次 のよ うに述 べて い る。
「われわれ は価値 の陳述 は もし有意味であるな らば普通 の科学的な陳述であ ること, もし科学 的 で な いな ら ば字義上 の意味 は持 たず,単 な る情緒 の表現であ って, それ は真で も偽で もありえない」と。A.∫.エイヤー, 前掲書,122頁。但 し,かれは 「正 当化」 とい う言葉 を用 いていない。 かれの武器 は有意 味性 の基準 と して の実証可能性 の原理であるが,実証 (verlfication)とい うの も正 当化 の一種であることは明白であ る。 最 も洗練 されていると思 われ る非認識主義 (かれ 自身 は 「倫理的懐疑主義」 と呼んでいる) を主張 しているJ.
Lマ ッキー (J.L Mackle,1917‑81) において は,実証 よ り弱 く, しか も有意味性 の基準 で はないと して もや はり正 当化 の一形態であ る 「確証 (tovalidate)」が,批判 の武器 として用 い られている。J,L Mackie, EthLCS,InventingRightandWrong,PengulnBooks,1977,p.27,(邦訳,『倫理学 .道徳 を創造する』, 加藤尚武監訳,哲書房,1990年,26貢,但 し,邦訳 の この箇所 には誤訳 があ る)。
18) Conjectu'・esandRefutahons,pp.50‑9,(邦訳,85‑lol東)0
19)H.Albert,TrahtatuberhritL'scheVernunft,J.C.B.Mohr,Ttiblngen,1968,pp.ll‑5.
20)これを精微化 した最近 の業績 として次 の著作 を挙 げて お きたい。D.Mlller,Cr乙ticalRationalisTnIA RestatementandDefence,OpenCourt,IllinoIS,1994.
21) ConjecturesandRefutations,pp.vil‑Viil,(邦訳, Ⅹ1‑Ⅹii貢)0
22) K.R.Popper,AutoblOgraphyofKarlPopper,inThePhilosophyofKarlPopper,P.A.Schilpp ed.,OpenCourt,IllinoIS,1974,p.92.(邦訳,『果て しな さ探求 :知的 自伝』,森博訳,岩波書風 1978年, 163貢)0
23) a R.Popper,TheOpenSocietyandItsEnemies,Routledge,London,1945,Vol.II,pp.378‑80.
24) ConjecturesandRefutations,Pp.27‑8,(邦訳,49貢)。
25)拙稿,「批判的合理主義」再考,『哲学思索 と現実の世界』,工藤喜作 その他編, 創 文社, 1994年,427‑62 貢,参照。
26) 哲学への具体的 な適用 につ いて は, ポパ ー 自身 が それ を行 って い る。 ConJeCtLLreSandRefutations, pp.193‑200,(邦訳,322‑37貢)。
27)TheOpenSocietyandItsEnem乙eS,Vol.Ⅰ,pp.57‑66.
28) ポパ ーは,規範法則 について, それが良 い とか悪 いとか,正 しい とか間違 っているとか,受 け容 れ られる とか受 け容れ られない とかい うことはで きるか もしれないが, それが 「真」 であ るとか 「偽」であるとかい うのは比境的な意味においてだけであるとまで主張 している(Ibid.,p.58)。後で考察す るよ うに, この主 張 は後期のポパーの主張 とは衝突す るよ うに思 われ る。
29)事実 一価値 の隔絶 テーゼ とは,価値 の言明 は事実 の言明か ら導 出不可能 であるが, その理 由は,価値 の言 明 はわれわれの態度 の表明ない し世界 に対す る反応 にはかな らず,事実 と結 びつ け られ るよ うな価値 は世界
価値が事実か ら導 出不可能で あるとい う主張で は一致 しているが, その理 由が相違 しているように思われる。
後者で は,価値が世界 に存在 しないか らであるが,前者で は,価値 を実在 の世界 に創造す るのはわれわれで あ り, したが ってその責任 を負 っているのは,神で も, 自然で も事実で もな く, われわれ人間だか らである とい うものである。注2)お よび35)参照。
30) EdwardBoyle,KarlPopper'sOpenSociety:A PersonalAppreciation,in ThePhilosophy of KarlPopper,p.851,