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近代フランス・オペラの研究(その2)
1871年から1914年まで
㌍ 音楽科音楽史研究室 臼井英男
この協会は設立された後,約30年間はフランス音楽の
〔5〕近代フランス オペラの推移と確立 中枢的役割を果たし編R。m。i。 R。lland(・866
(1) 主要音楽団体の果した役割 〜1944)は次のように述べている。 「国民音楽協会につ 音楽を発表する場合,第1に会場の獲保が重要であり, いて語るには尊敬をもってせねばならぬ。それは真にフ 又会に継続性を持たせたり,或いは大規模な演奏会やオ ランス芸術の揺藍であり至聖所であった。187(陣から ペラ等の上演となれば,当然の成り行きとして音楽団体 1900年にかけてのフランス音楽中で偉大さをもっていたも
(公共的な,又は私的な)の必要性が生じる。 のはすべてこ\を通ってでてきたのである・国民音楽協 1871年から1914年の間に存在した主な音楽団体は,国 会がなかったとしたら,わが音楽の名誉になっている諸 民音楽協会(Soc盗t6 Nationale deMusique 作品の大部分はた父ちに演奏されなかっただろうと思わ Fran?aise)・コロンヌ芸術演奏協会(Associa一 れるばかりでなく・恐らくは書かれもしなかったろうと tionArtistique des Concerts Colonne), 思われる。この協会は常に10年ないし15年世論に先んず ラムルー演奏協会(Association des Concerts るという稀れに見る長所をもっていた。しかも世論もこ k。m。u,eux),オペラぎ紘cadざmi。 N。、i。n。1eの鵬精て上げたもので,協会が卒先して鰍だと認 d。M。、ique e、 d。 D。n、e,現在はTh6a・,e めていた人々を轍するように世論を強晩のである♂?
ノ
mational de l Opera)及びオペラ・コミック座 この協会の設立を考え出したのは,コンセルヴァトワ
(The駈re National de 1・OP≦ra−Comique) 一ル(パリ)声楽教授Romain Bussine(1821〜
等あり,近代フランス・オペラと深い係りがあるので順 1899)とCamille Saint−Saざns(1835〜1921)
に述べる。な澄,他にコンセルヴァトワール演奏協会注2 であるが,1871年にC6sar Franck(1822〜1890),
1 ノ
iSociete des Concerts du Conservatoire) Edouard Lalo (1823〜 1892),Jules Garcin とパドルー演奏会(Concerts Pasdeloup)が大き (1830〜1896),Th60dore Dubois(1837〜
な音楽団体であったが,前者はオペラとは直接の関係が 1924),Erneste Guiraud(1837〜1892),
なく,後者は早い時期にR・Wagnerの作品紹介をした AlexisCastillon(1838〜1875),Jules 功績はあったが,すぐ前述のコロンヌ演奏協会やラムル Massenet(1842〜1912),Paul Taffanel ノ
[演奏協会にとって代わられているので,こ」では取り (1844〜1908),Gabriel Faure(1845〜1924),
上げない。 Henri Duparc(1848〜1933)等の賛同を得て正式 に協会は発足した。会の目的は「既出版,未出版とを問
走ッ音楽協会(SOciete Nationale de わずフランスの作曲家達のあらゆる重要な音楽作品の制 Musique Frangaise) 作と普及とを助長し・できるかぎりの限度で形式のいか
19世紀前半のフランス音楽界はオペラ中心であったが・ んにか\わらずあらゆる音楽上の試みを,その作者の側 軽薄な,見世物的で大掛りなものであった。しかし,19 に高い芸術的な熱意が認められるという条件で・これを 世紀中頃になると厭きも生じ,普仏戦争(1870〜71) 奨励し引き立てることにある……本会会員は・友愛に基 でのフランス敗北が反省となり,1871年に国民音楽協会 づき,絶対的な無私をもって・その全力を尽して相互扶 が設立された。 助をなすという断固たる決意をもって・各自がその活動
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領域において,その選択と演奏とにまかさるべき作品の Florent Schmitt(1870〜1958), Ravel等の重 研究と演奏と賜力すべきものとする勃となって籾,要な作品をフランスの文健産とし,かっての外国妓 フランスの作曲家の作品のみを取りあげる姿勢は,19世 配をはね返し,20世紀に入ってヨーロッパの音楽指導権 紀前半の音楽情勢と異なり,又彼等の決意の程もしのば を獲得した。
れる。
協会の第1回の演奏会は・1871年11月25日プレィエル・ コロンヌ芸術演奏協会(AssOciatiOn Arti一 ホール(S・11・Pl・y・1)で行われρ)以後多くの初 ,tique de、 C。nce,t、 C。1。nne)
演ものも含めてフランスの重要な作品が紹介された。特 現在も続いているこの協会の最初の名称は,国民演奏 異な例ではあるが・Franckの場合・殆んど全ての作品 会(ConcertsNational)で音楽出版業者George がこの協会の手で初演されている。多くの作品は交響曲 Hartmann(1843〜1900)が有能なフランスの作曲 や室内楽曲であったが・オペラ関係ではEmmanuel 家達Franck, Georges Bizet(1838〜1875),
Chabrier(1841〜1894)の グヴァンドリイヌ Saint−Saだns,Massenet,L60 Delibes Gwendoline やLaloの 椅子の王様Le Roid ys (1836〜1891),La墨o,Castillon, Dubois,
の一部が紹介されている。 Guiraud,Benjamin Godard(1849〜1895)等 この協会は・1880年代に入ってFranckと彼の弟子 の作品を世に知らしむる企画をし,管弦楽団を募って指 達(特にVincent d Indy 1851〜1931)の発言 揮をEdouard Colonne(1838〜1910)にゆだね,
が強くなり・1886年意見の違いからBussineとSaint 会場をオデオン座(Od60n, Th6atre de France)
一Saぜnsは脱会する。 Rollandはこの件について次の とした。第1回の演奏会は1873年に行い翌年1874年には ように述べている。「1881年からはFranckとその弟子 会場をオデオン座からシャトレ座(Th盆tre du 達の勢力が次第に顕著となって来た・Saint−Sa芒ns Chatelet)に移した。この劇場は,1862年に建てられ は新しい楽派の努力には関心を持たなくなりはじめた。 たもので3600の席数を持った非常に大きな劇場である。
1886年には・Vincent d Indyがプログラムの中に この演奏会はますます評判を得たようであるが,入場料 古典の巨匠達や外国の作曲家達の作品をも加えようとい を低料金としていた為に財政的危機を招き,創立者
う提案を行なったので分裂が起った勃F・an・k一派 H。,・m。nnは身を引き,代って指揮者C。1。nn,が,
の勢力が拡大されたわけで・1886年Franckは事実上 彼の管弦楽団を法人組織としコロンヌ演奏協会に組み入 の会長となり・1890年のFranckの死後はD Indyがそ れ,その名称もシャトレ芸術演奏協会(Association の地位を得・国内外共に古典的な作品の演奏に力点を置 Artistique des Concerts du Chatelet)と
き・同時代の外国人の作品は取りあげたがその数は少な 改め,フランス及び外国の作曲家の作品紹介を行った。
いものであった。 1903年に30周年記念祭を持ちRoHandの記録による旦 20世紀に入って,1909年再度分裂が起こり,離反者が 創立以来30年間に800回以上の演奏会と約300人にのぼ
ノ ノ
eaureを中心として独立音楽協会(Societemusi一 る作曲家の作品を取り上げ,その内分けは,フランスの 1
モ≠撃?@indepandante)を設立するが,この協会は 作曲家が約半数,他は外国入であった。フランス人の中 1917年まで続いた。その目的は,今日の外国の作曲家 では2人の作曲家Saint−Sa容nsとBerliozと の作品紹介で当時にあっては重要な役割を果たしたと思 が圧倒的に多く取りあげられ,前者は340回,後者は える。設立当時のメンバーは,Charles Koechlin 470回となっている。他の演奏会でもこの時期になると
(1867〜1950),Maurice Ravel(1875〜1937) Berliozの作品は取りあげられていたが,その愛着振
̀ndre Caplet(1878〜1925), Emile Vuill一 りは前述の回数が示している。かってBerliozが無視
ノ
?窒高盾噤i1878〜1960)等で会長はFLaureであった。 され・その為にフランス音楽界が大きな損失を受けたこ 国民音楽協会は,事実上約30年間近代フランス音楽の とを思い起こせぱ・コロンヌ演奏協会の業績は正にここ 舵取りをし,有能な作曲家達Franck,Saint−Sa翫s にあると言える。又,外国の作曲家の中では,Richard
eaure,D Indy,Debussy,Paul Dukas Wagner(1813〜」883)約380回, Ludwlg van
(1865〜1935),Albert Roussel(186g〜1937), Beethoven(1770〜1827)約390回と多く,特にフ
臼井:近代フランス・オペラの研究(その2) 39
7)ランスの作曲家に対するWagnerの影響の一因は,後述 上演 をしフランス音楽史に大きな足跡を残した。な
のラムルー演奏会程でないとしても・この演奏協会の演 お,フランスの地方都市ルアン(Rouen)ではPh。
奏にあったと見られる。Colonneの死(1910年)後, Flonの指揮で工891年2月7日全幕上演8獄なされてい ノ
寰w揮を勤めていたGabriel Pierne(1863〜1937) る。1897年,名称を新演奏会(NouveauxConcerts)
が1932年迄その任にあった。現在もこの協会の演奏会は からラムルー演奏協会(Association des Conc一 続けられて吾り・会場はシャトレ座であるが,その名称 erts LamoureUX)と改め,会場もシャン・ゼリゼの はコロンヌ芸術演奏協会(Association Artistique 曲馬館(Cirque des Champs−Elys6es)に移り,
des ConcertsColonne)となっている。 Lamoureux自身海外演奏の為に指揮を婿のシュヴィ ヤール(Camille Chevillard 1859〜1923 )に ラムルー演奏協会(AssOciatiOn des 譲ったが,後再び指揮をする機会もあり,特に死の数ケ Concerts Lamoureux) 月前の1899年10月28日に行ったヌボオ・テアトル(No一
bharles Lamoureux(1834〜1899)がパリ・ uveau Theatre)での Tristan und Isolde オペラ座の指揮を止めて後,新演奏会(Nouveaux 全幕上演は・ Lohengrin 同様に画期的な事業であ Concerts)を設立し,1881年10月23日シャトゥ・ドオ った。なお,シャトォ・ドオ座では1902年6月3日名ピ 座(Cha、ea面E。u)で第、回の演奏会を持った。 アニストとして稲なコルトー注3(Alf,edC。,、。、
Lalo, D Indy, Chabrier, Franck,P・Dukas, 1877〜1962)が,又オペラ座では1904年12月11日タツ Ernest Reyer(1823〜1909)等の多くの作品がこ ファネル(Paul Taffane11844〜1908)が,
こで紹介されたが,Lamoureuxの大きな業績は, R・ Tristan 全幕上演の指揮をしている。
Wagnerの紹介にあり,その熱意は最後迄変らなかった。 Lamoureuxの死後は,前述のChevillardによっ 彼はこの協会設立以前に宗教音楽協会(Soc童6t6 de て継続され,1939〜40年の1年間コロンヌ演奏協会と
ノ
P・Harmonie Sacree)を1873年に結成して, J。 一時合体したが,すぐ前の状態に戻った。 Lamoureux S。Bachの マタイ受難曲(Matt乞us−Passion)ノ の果した大きな役割は, R・Wagnerの楽劇(Musik一 G・H冒ndelの マカバイオスのユダス(JudasMa− drama)のフランスへの紹介と大衆に楽劇を理解させ
ccabaeus) 等を1874年に演奏し,ドイツの大曲にい ることに執拗な程に根気を持って努力したことであった。
どんでその自信を深めたと思われる。 フランスにとってWagnerの影響が結果的に何んであれ,
Lamoureuxは, Wagnerの ローエングリン(Lo一 その本質追求に遭進したことは,フランスにとって非常 hengrin)〃の第1幕や トリスタンとイゾルデ(Tr一 に重要なことと思える。特に本論のテーマ 近代フラン
istan und Isolde)〃の第1,第2幕を,全幕通して ス・オペラ にとってWagnerの存在とその影響が強 ではなく,幕単位で演奏し徐々に大衆に理解を求めたが いので・〔3〕(2) オペラの傾向 においてそのことにつ 妨害も多く,1884〜85年にかけての Tristan und いて述べる。又, Wagnerの諸作品の世界初演,フラン
Isolde〃の第1,第2幕の演奏に際しては 公告 ス初演・外国における初演については,次項 オペラ座
(Avis) を下記のように出す騒きであった。 「 新 の中で触れる。
演奏会(Nouveaux Concerts) の理事会は,
TristanundIsolde〃の第2幕の演奏中に紛争 オペラ座(Acad6mie NatiOnaIe de が起るのを避けたいと真剣に望むものでありますから, Musique et de Danse)
聴衆の皆様に対しこの幕の最後に至るまでは賛否いずれ この劇場の歴史は・1669年発足の王立音楽アカデミィ にせよこれを表明されませんようせつ緻意をもっ傍 (Acad6mi・R・y・1・d・M・・ique)までさかのぼ 願い申し上げます。」6) このような困難にもめげず, るが・現在の建物はガルニエ(JeanLouisGarni一 Lamoureuxは1887年4月30日エデン座(Eden− er 1825〜1898)の建築で1875年新劇場として開場さ
,she翫re)で, Lohengrin 全幕を,又パリのオ れ・当時の席数は2,118であったが,1936年の一部焼失 ペラ座(Acad6mie Nationale de Musique 後・修復されてその数も2,300となっている。な澄,名 et de Danse)では 1891年9月16日同じぐ全幕 称は1939年1月14日付けの法改正により,オペラ座とオ
、
」.
S0 茨城大学教育学部紀要 第27号
ペラ・コミーク座が合体し,総称して国立リリック劇場 らも,Wagnerの諸作品の紹介に積極的に取り組み,逆
(Th6atres Lyriques Nationaux)と左り,オ にフランス音楽の取るべき道は何んであるかを示すべき
yラ座単独では,国立オペラ劇場(Theatre Nati一 であったと思われる。同じ時期,イタリアにおいても同 onal de l・OP6ra),一方,オペラ・コミーク座は 様のWagner旋風が吹き荒れる中で,当時イタリアを代 ノ
送ァオペラ・コミーク劇場(Theatre National 表するオペラ作曲家ヴェルディ(GiusepPeVerdi de l・OP6ra Comique)となった。 1813〜1901)が,イタリア・オペラの道標をオペラ
オペラ座の、9世紀後半と2・世紀初頭幽いての役割は,・オテル・(・・。ll・)〃降いて示し」1)作曲完成後 一体何んであったのか理解に苦しむ面がある。19世紀前 数ケ月の1887年2月5日ミラノ(Milano)のスカラ座 半のオペラの事情は前に述べた通り,軽薄さと馬鹿騒ぎ, (Teatro aUaScala)がこの作品を初演した。
燉eのないグランドペラ(Grand−opera)での明け フランスにおけるWagnerの楽劇のオペラ座と他団 暮れであったが,これは幾分おさまった。が,オペラ座 体による初演,及びオペラ座と外国初演との記録を比較 の主体性とは?少くとも公共機関での作品扱いについて, すれば,オペラ座のWagnerに対する消極性がある程 その作品の価値評価ができぬ幹部が実権を握り,或いは 度理解できると思われるのでそれらの記録を表1に示す。
価値評価ができても勇気のない幹部がいる間は滑稽さが 1875年から1914年迄の39年間にオペラ座で初演され 残る.オペラ座の方針としては,大規模で間違瞳い, たフランスの作曲家の作品は4・曲1賜,年・曲の割合 伝細財ペラの上演を,一方オペラ・コミー燵では,となる.オペラ・コミーク座はオペラ座の約倍で72曲13)
1875年初演の カルメン(Carmen) のようにオペラ・である。これは単に数量の比較であるが,質的な比較と コミークの伝統ある 地のせりふ を用いる作品の上演 なると正に比較にならぬ程オペラ座が劣る。代表的な作 場所という約束事はあっても,19世紀末になればその習 品をあげるとすれば,卜一マ(Ambroise Thomas 慣もなくなり,事実上,斬新な,意欲にもえる実験的作 1811〜1896)の リミニのフランソワーズ(Franc一 品の上演場所はオペラ・コミーク座という違いは確かに oise de Rimini) (1882),マスネの ル・シイ あったようだ。しかし,意欲的な大規模の作品が,外国 ド(Le Cid) (1885),Saint−Saざnsの ア で初演せねばならなかった例を見い出すことは残念であ スヵニオ(AscaniQ)〃(1890),マスネの タィース
る。Saint−S謹nsは・彼の代表的なオラトリオ的オ (Tha㌃゜s)〃(1894),ブリゥノ(Alfred Bruneau ペラ作品 サムソンとデリラ(Samson et Dalila) 1857〜1934)のメッシドール(Messldor)〃(1897)
がオペラ座で受け入れてもらえないので・リスト(Fr一 等で現在でも上演されているものとなるとMassenet anzLiszt 1811〜1886)の厚意による初演のため・ の Tha聡〃のみと寂しい限りである。
ノ
P877年弟子であり友であったFaureを伴ってワイマー オペラ座は確かにニオペラ作品のみを上演していたので ル(W。im。,)へ赴くρ)又,ブリ。セル(B・uxell・§)はなく,フランス人筋のバレー作品を多く恥あげ,
/
フ王立モネ劇場(TheatreRoyal de laMonn一 その傾向は現在にも続いているが,それにしても前述の ノ
≠奄?jやモンテ・カルロ劇場(Theatre de Monte一 記録は,外国の大劇場と比して劣り過ぎている。当時の Carlo)で初演された諸作品の中ではパリのオペラ座で 知識層の弁としてRollandの文を引用する。「たしか 世界初演の栄光を一与えたいものが多い。 に,オペラ座の舞台面の巨大な椎は, 予言者(Le
又・Wagnerの諸作品に対するオペラ座の消極的な態 Proph叡e)〃(1849)の行進や アイーダ(Aida)〃
度は・その主体性に澄いて指弾されても致し方ないと考 (1871)のそれのような,きらびやかな行列のために作 える。1861年のWagnerの タンホィザー(Tann崩u一 られただだっぴろい場所では,戸まどったように感ずる,
・e・)〃オペラ座初演の妨害は,その当時の事情1°)を轄で凝集的な,獄の音楽慮1」には不向き⑳である。
知れば理解はできる。しかし,前に述べた1880年代の 一たしかに,大部分の歌手たちの旧態依然たる演技,コ パリ・オペラ座等のWagnerに対する態度は消極的であ オラスの馬鹿のような無感覚,管弦楽の冷さ,音響効果・
り過ぎた。音楽界のみならず,文学界にもWagnerの の悪さ,それと俳優たちが大げさな叫び声や身振りをや 旋風は及び,特に象徴派詩人達による月刊誌 LaRe一 らねばならないようなホールの途方もない広さ一そうい
ノ
魔浮?vagnerienne が1885年に出されている事実か ったことが,もっと生き生きしたもっと単純な芸術がそ
函 、
帥、
@ 臼井:近代フランス・オペラの研究(その2) 41
こで理解されるのを妨いでいる重大な障害なのである。 た見方だが,或る種の階層をオペラ座で引き止めたため しかし,主要な障害はこのような劇場の本質それ自体の に,オペラ・コミーク座がそのホールの適合性もあって うちに,今もあるしこれからもずっとあるだろう。1曾 大いに実験が進んだのであろうか?
確かに劇場の広さだけが問題ではなくf例えば,スカラ 座(席数,立見席を入れて3200),ナポリのサン・カル
ロ劇場(Teatro di SanCarlo立見席も入れて席 数3500)と比較しても,イタリア,フランスのオペラの 違いはあるにせよ解決できるし,要は前述のように劇場 幹部の問題がこのような結果を生んだと言える。うがっ
表1 Richard Wagnerの楽劇のフランス初演(オペラ座及び他団体)と
さまよえるオランダ人(Der fliegendeHδllander)
1. ドレスデン ブリュッセル パリ パリ 2.ザクセン王立宮廷劇場 モネ劇場 オペラ・コミーク劇場 オペラ座
3. 1843, 1, 2 1872, 4, 6 1897, 5, 17 1937, 12, 27
4.R・Wagner Singelee J・Danbe Ph・Gauber
o●
gタンホイザー(Tannhauser) (パリ版)
1。 パリ ブリュッセル パリ 2.インペリアル・アカデミ モネ劇場 オペラ座
3. 1861, 3, 13 1873, 2, 20 1895, 5, 13
4. Ph・Dietscb J・Dupont P・Taffane旦
ローエングリン(Lohengrin)
1. ワイマール パリ ルアン パリ
2.宮廷劇場 エデン座 デ・ザール劇場 オペラ座
3. 1850, 8, 28 1887, 4, 30 1891, 2, 7 1891, 9, 16
4. Vianesi Lamoureux Ph・Flon Lamoureux
ラインの黄金(Das Rheingold)
1. ミュンヘン バイロイト ニュー・ヨーク パリ 2・宮廷 バイロイト祝祭劇場 メトロポリタン劇場 オペラ座
3. 1869, 9, 22 1876, 8, 13 1889, 1, ユ 1 玉909, ll, 14
4.F・Wullner H・Richter A・Seidl A・Messager
6
42 茨城大学教育学部紀要 第27号
ワルキューレ(Die Walkむre)
1. ミュンヘン ニュー・ヨーク ブリュッセル パリ 2.宮廷劇場 メトロポリタン劇場 モネ劇場 オペラ座
3. 1870, 6, 26 1885, 1, 30 1887, 3, 9 1893, 5, 12
4.F・Wullner L・Damrosch J・Dupont Ed・Colonne
ジークフリート(Siegfried)
1. バイロイト ニュー・ヨーク ルアン パリ 2.バイ・イト祝祭劇場 メト・ポリタン劇場 デ・ザール劇場 オペラ座
3. 1876, 8, 16 1887, 11, 3 1900, 2, 17 1901, 12, 31
4.H・Richter A・Seidl A・Amalou P・Taffane1
神々の黄昏(Gbtterd蟹mmerung)
1. バイロイト ロンドン パリ パリ
2.バイロイト祝祭劇場 王立劇場 シャトォ・ドォ座 オペラ座
3, 1876, 8, 17 1882, 5, 9 1902, 5, 17 19Q8, 10, 23
4.H・Richter A・Seidl A・Cortot A・Messager
トリスタンとイゾルテ(Tristan und Isolde)
1, ミュンヘン パリ パリ パリ 2.宮廷劇場 ヌボー劇場 シャトォ・ドォ座 オペラ座
3. 1865, 6, 10 1899, 10, 28 1902, 6, 3 1904, 12, 11 ● ●
S. H。Bulow Lamoureux A・Cortot P・Taffanel
ニュルンベルクの名歌手(DieMeistersinger vonNurnberg)
1. ミュンヘン ブリュッセル リヨン パリ
2.宮廷劇場 モネ劇場 グランド劇場 オペラ座
3. 1868, 6, 21 1885, 3, 7 1896, 12, 30 1897, 11, 10 ● 0
S.H・Bulow J・Dupont Miranne P・Taffanel
一
パルジィファル(Parsifa1)
1. バイロイト ニュー・ヨーク ブリュッセル パリ 2.パイロイト祝祭劇場 メトロポリタン劇場 モネ劇場 オペラ座
3. 1882, 7, 26 1903, 12, 24 1914, 1, 5 1914, 1, 4
4. H・Levi A・Hertz O・Lohse A・Messager
1.一都市名.2.一劇場名,3.一年月日(世界初演は冒頭)、4.一指揮者名注 本表の酬は,W。1fLS.,L・。,6,aauP。1。i,G。,ni,,(、875〜・962) (P。,i,,
Journal《1 Entr acte.)婁〉,1962)による。
臼井:近代フランス・オペラの研究(その2) 43 ノ
Iペラ・コミーク座(TheatreNationa1せた傑作ではあるが,他の作品でも1870年代のBizet
р?@1 Opera Comique) の ジャミレ(Djamileh) (1872)・Delibesの オペラ・コミーク座は,その歴史を1714年までさかの 王様のお言葉(LeRoi 1 adit) (1873),
ぼり,1762年コメディ・イタリアンヌ(Com6die It− 1880年代では, Offenbachの ホフマン物語(Les ali6nne)と合併され,1780年にその名称コメディ・ Contes d Hoffman) (1881),今でも人気のあ イタリアンヌに代ってオペラ・コミークの名が復活し, る2作品,Delibesの ラ・クメ(Lakme) (1883),
、劇場としてサル・ファヴァール(Salle Favart)が, Massenetの マノン(Manon) (1884)・80年代 ファヴァール通り(rue Favart)とマリヴォ通り に入っては当然Wagnerの影響もあるChabrierの
ノ
irueMarivaux)の間に1783年に建てられ,モンシ それでも王様(Le RoiMalgre lui) (1887),
イニー(Pierre Alexandre Monsigny 1729〜 Laloの 椅子の王様(Le Roi d ys) (1888)・
・8・7),フ・リドール(F・an〜・i・A・d・6D・・ci・n今世紀に入って・Ch・・p・n・ierの ルイーズ(L・u一 Philidor 1726〜1795),グレートリイ(Andr6 ise) q900)・前述の、ペレアスとメリザンド Eme、、M。d。、、。 G,6,,y・74・〜18・3)等が彼 (P・116as e・M61i・and・)〃(・9・2),P・D・k・・
等の為に作曲し人気を高めた。その後,分裂や火災等が の アリアンヌと青ひげ(Arianne et Barbe Ble一 あり,第2のSalleFavartは1840年に開場したが, ue) (1907)・Rave1の一幕もの スペインの時 1887年再度火災にあい,1898年に第3のSalle Fav− (L Heure Espagnole) (1911)・Henrl
artができて現在に至っている。 Rabaud(1873〜1949)の マルフ(Marouf)
、87、年から、9癬という醐のオペラ.コミー雇の (・9・4)と続く.14)確かにこの嘲のW。g。・・の 活躍は,フランスの近代オペラの確立に寄与し,真の黄 影響は強かった・多くの作曲家達はパイロイト詣でをし・
金期を迎えた。初演されたフランス・オペラの作品は, その影響を最後迄持ち続けた作曲家も少くないが・フラ オペラ座〃の項で述べたように72曲の多きを数えてお ンス人としての使命を意識した人達の多くが・フランス り,その中には,多種多様の名作が多く,19世紀前半や の伝統のもとで・オペラ・コミーク座という実験場に集 同時期のオペラ座の姿を考えるとその業績の大きさに驚 まって自在に腕をふるい・又・劇場の首脳陣はそのよう うかされる。 な人々に適合する環境をつくり・そして与えたことは高 オペラ・コミークの伝統的なしきたりとしては,曲中 く評価されるべきである・又・従来のオペレッタも・こ レシタティフ(r6citatif)を用いずに, 地のせり の時期・この劇場で変らずに行われていたことも見逃せ ふ〃を捜入することが重んじられていたが,その伝統を ない事実である。
踏んで作曲されたBizetの Carmen (1875年3月
注13日初演)でも,彼の死(1875年6月3日)の4ク月後
1939年1月14日,法改正によリオペラ座とオペラ・コの10月23日,ウィーンでではあったが友人のGiuraud
フ加筆によって 地のせりふ〃を レシタティフ〃に改 ミック座は合併し・名称を国立リリック劇場(Theat一
res Lyriques Natlonaux)となった。オペラ座められて上演され,成功し,以後益々各国で人気を得て
ノ ノ
@ 自身の名称は,Theatre National de l Operaいる。オペラ・コミーク座とても,フランスの伝統を踏
でオペラ・コミック座はTh6atre National de lまえながらもかなり意欲的に改革していった変動期でも Opera−Comiqueである。あった。事実, Carmenの後,レシタティーフつ
きのオペラが多くなり,、、地のせりふ を用いることに
注2よるオペラ座との相違点の1つは解消されつつあった。
オペラ・コミーク座で初演された注目すべき作品の中 FrangoisAntoine Habenech(1781〜1849)
で特に際立った,世界のオペラ史の中でも重要な存在で, によって1828年に結成され・パリ・コンセルヴァトワー 今後もその評価が変らぬと考えられるオペラは, Carm一 ル演奏会場で定期演奏会を持ち・19世紀前半にLudwig en〃とDebussyの Pell6as et M61isande〃 van Beethovenの作品紹介を行ったことは高く評価
である。この2作品が,フランスの近代オペラを確立さ されている・この協会は現在まで続いており・1967年
り
⇔ S4 茨城大学教育学部紀要 第27号
Charles Munchによって再編成され,名称もOrch一 に選ばれ指揮,ピアノで大活躍をする。特にピアニスト estre de Paris Sociざtざdes Concerts du としては高名であるが,教育者としてもすぐれ,優秀な Conservatoireとなり,フランスを代表するオーヶ ピアニストを育てている。著書には La Musique 顛
Xトラである。 Frangaise de Piano や Chopinの Etudes を始めとする,いわゆるコルトー版の注釈は高く評価さ
『注3 れている。
フランスの著名なピアニスト,指揮者
1896年,パリ.コンセルヴァトワ_ル卒業後ピァニス 引用・参考文献
トとしてはなぱなしいデビューを飾り,コロンス演奏会 1)Rolland, R., Musiciens d a可our d hui ,野田良之訳,
やラムルー演奏会に出演し評判を取ったが・間もなくバ 今日の音楽家たち (みすず書房,1965)P473.
イロイトへ赴き・指揮者として名高いモートル(Felix 2)ibid., P鴻73〜474,
Mortl 1856〜1911)やリヒター(Hans Richter 3)ibid・,P・474・
4)ibid., P.475.1843〜1916)のもとで副指揮をしWagnerに傾倒す 5)ibid., P.477. ! ノる・後・パリにもどってL・S・・i… d・F・・− 6)ibid., P479.
tival Lyrique を設立し・そこでWagnerの 7)Wo1氏S.1 L Ope6ra au Palais Garnier (1875〜1962)
神々の黄昏〃のフランス初演を1902年,24才の若さで (Paris・Journal<1 Entr acte》・1962)P・134・
8)ibid., P.134行い,続いて半月後の6月3日, トリスタンとイゾル
@ 9)Faur6−Fremiet, Ph., Gabriel F aur6 (Paris, Editions
デ〜9指疑シ・トゥドォ座でする・19°鹿S・− Albi・Mi・h・ロ957L脱 を設立・重要な 10)Grout, DJ.A Short History of Opera(New Yorkciete des Concerts Cortot
ドイツ及びフランスの作品を演奏する。1904年,Lille and London, Columbia University Press,1965),
の Soci≦t≦des Concerts Populairesの指揮 P・425〜426・
11) ibid., P.369 〜 370.
者となりこれは1908年迄続く。1905年,Jacques Th−
@ 12)Wolf鳴S., op. cit.
ibaud,Pablo Casalsと共に三重奏団を結成して 13)Rolland, R., op. cit., P.469.
演奏活動をし,1917年,パリ・コンセルヴァトワールの 14)Wo1飢S・, oP・cit・
Wolf£S., Un demi−si合cle d Op6ra−Comique (Paris,ピアノ科教授,1919年EcoleNormale deMusiq−
@ Editions Andr6 Bonne,1953)
ueを創設,1928年パリ交響楽団結成に当ってはErne一 st Ansermet,LouisFourestierと共に指揮者
Etude sur 1 oP6m modeme en France(depuis 1817 jusqu a 1914)2色me part董e
RESUME
Cette partie de P6tude est sur les associations des concerts et organisations des op6ras(La Soci6t6 Nationale de Musi一
que Frangaise, rAssociation Artistique des C oncerts C olonne, L Association des Concerts Lamoureus, L Acad6mie Nationale de Musique et de Danse, Le Th6atre National de 1,0p6ra Comique)depuis 1871jusqu a 1914 en France qu,6taient tres importants pour le d6veloppement de 1 op6ra frangais.