訳︼
︽審判図︾をめぐって
カルロ ・ デル ・ ブラーヴォ
訳・ 註 解 甲 斐 教 行
枠取りをもたず
︑
全裸で筋骨隆々とした人物像が登場するミケランジェロの︽
審判図︾︵
図1 ︶
は︑
後述するように︑
愛をめぐるさまざ まな根本概念についての神秘的啓示を寓意的に表している︒
その寓意の表向きの顔︑﹁
字義(lettera) ﹂
としてすら︑﹁
最後の審判﹂
などは表していない︒
* * *
︽
審判図︾
には枠取りがない︒
同様に枠取りを欠いた先行作例に︑
シニョレッリがロレートのサン
・
ジョヴァンニ聖具室︵
図2 ︶
に描いた︽
パウロの落馬︾︵
図3 ︶
がある︒
この場面にイエスが威厳ある姿で出現し
︑﹁
あなたには︑
あなたをうながす力(stimulus)
に逆らうのはむずかしいことです﹂
と語りかけると︑
パウロは﹁
震えながら︑﹃
主 よ︑
私に何をお望みですか﹄
と驚いて言った﹂
という ︵●︶︒
この︹主題が示す︺神秘的啓示という特質は
︑
シニョレッリの作品では︑
一人の使徒が論争相手に書物を閉じることで示した
︹
図7 ︺︑
論理に注意を払わない態度にもくりかえされている︒
その一方︑
開いた書物を携えた二人の使徒
︵
図4 ︑5 ︶
が指差す方向には︑
使徒トマス︵
図6 ︶
がいる︒
トマスは可視的で触覚的なものから出発して︑
︹神に寄せる︺観想へと上昇した ︵●︶︒
この︹段階的︺上昇という概念に対応するのが︑︽
落馬︾
以外の区画をとりかこむ
︑
幾何学的かつ遠近法的に描かれた枠取りである︒
これらの区画はその応用幾何学の使用によって︑
純粋幾何学︑
すなわち知性でとらえられた幾何学へとわれわれをいざなう ︵●︶
︒
シニョレッリによる︑
ブルネレスキ風の伝統に基づいたこのような上昇は︑
その性格ゆえに︑
︹ネオ・ブルネレスキ派の︺ジュリアーノ・
ダ・
マイアーノの手になる聖具室の建築や︑
その部屋を飾る家具の│
半開きの格子戸や
︑
収納庫︑
容器︑
皿︑
写本の幾何学的形態を遠近法によって表した│
寄木細工︵
図7 〜 9 ︶
と共通性をもつ ︵●︶︒
またシニョレッリの人物像と構図とがつねに備えていた﹁
素描的(disegnativa) ﹂ │この
語がもつ含意によれば﹁
知性的(intellettiva) ﹂ │構造を熟知するわれわれは︑
シニョレッリにとっての逆らいがたい宿命の神秘的啓示と
︑
シニョレッリにとっての逆らいがたい宿命の神秘的啓示とは
︑
感覚的形態から純粋形態への上昇を課せられた己の宿命の啓示であったと︵
またそのことがこの聖具室で密かに表明されたものと︶
考えることができる
︒
ロレートの聖具室を彩るこうした思想は
︑
シニョレッリが有する深 遠で神秘的な傾向を示すものである︒﹁
天が︵ ・ ・ ・ ︶
大きく開けて︑
彼に恩寵を賜った ︵●︶﹂
と伝えるヴァザーリには︑
このことがわかっていた
︒
またシニョレッリが一五一三年にローマで︑
当時︹体調がすぐれず︺彫刻制作の労苦に耐えられないことを嘆いていたミケランジェロに︑
﹁
天から天使たちがやってきて︑
あなたの腕をとって手助けして下さることを疑ってはなりません ︵●︶﹂
と述べたとするミケランジェロ自身の回想にも
︑
さらにはシニョレッリの作品︵
図感嘆の身振りにも
︑
同じ思想がうかがえる︒
トが神秘神学の代表者である聖ベルナルドゥスの書きつづる頁に示す10 ︶
の中で︑
幼児キリス ︵●︶神秘的啓示の威力は
︑
ミケランジェロが︽
審判図︾
を描くべき壁面から︑﹁
段階的上昇者﹂
にふさわしく枠取りに囲まれた副次的なイメージ
│
︹天井画のルネッタとして表された︺人物や物語場面︵
図11 ︑
│
を破壊する勇気を与えたことだろう︒
またミケランジェロがシ ︵●︶12 ︶
1
二
三 2
3
4 四
一
ニョレッリ芸術を高く評価したことはヴァザーリも記憶するとおりだが ︵●︶
︑
その評価に含まれるもっとも奥深い含意をあえて表現する勇気をも与えたことだろう
︒
事実︑﹁
ミケランジェロが礼拝堂に描いたその神々しい︽
審判図︾
のいくつかの箇所は︑
敬意を表して﹂
オルヴィエートの
﹁
ルカの構想から部分的に借用された﹂
と伝えられる ︵●︶︒
この﹁
借用﹂
を観察するにあたって︑
われわれは問題を形態面に限定しよう︒
われわれの見るところ
︑
それは天井部の三角形の区画に見られる人物像のグループ分け︵
図13 ︶
や︑
窓の隅切部分のトンド内にある格闘する二人の人体の絡み合い
︵
図同じく
︑
頬への愛撫︑
手首をつかむ動作︑
背を向けた力強い裸体が見 の人物群の絡み合うさま│
そこには︽
審判図︾
の上方右手の群像と14 ︶︑
また︵︽
選ばれし者たちの召集︾
の︶
別られる
︵
図共通するのは
︑
義人が非常に美しく描かれ︑
罪人が無造作な構図と筆15 ︶ │の借用である︒
シニョレッリとミケランジェロに
遣いで描かれる点だが
︑
これは異なる意図に由来する︒
シニョレッリにおいては︑
︹霊的︺上昇をめざす霊肉の調和への関心が原動力となっている
︵
図16 ︑
動力だとはいえ︑
それが︹霊的な︺徳に寄せる愛によって乗りこえら17 ︶ ︒
ミケランジェロにおいては︑
美に寄せる愛が原 ︵●︶れていく
︵
シニョレッリのペルージア祭壇画﹇
図たコップに挿した花の香が示す感覚的快楽に
︑
自ら奏でる音楽にな18 ﹈
では︑
水の入っぞらえられた天使の
︑
調和に満ちた姿が対比されている︒
一方︑
ミケランジェロのシスティーナ天井画では︑
男性裸体像の肉体はプロポーションを崩していてもかまわない
︒
なぜなら想像力による隆起性の諸段階において ︵●︶︑
彼らは見者たちより劣った存在にすぎないからである ︵●︶
︒
だが見者たちの方は︑
ミケランジェロがジャンノッティの﹃
対話篇﹄
の中で述べるように ︵●︶︑
彼にプラトン風の恋ごころをかきたてる徳に満ちている︶︒
ミケランジェロは神秘的啓示を枠取りのない巨大な絵画のかたちで表し
︑
その中で人体をさまざまなプロポーション︑
さまざまな表現で示しているが︑
男であれ女であれ︑
たいていは全裸で筋骨隆々とした姿に描かれている
︒
その理由を解明する手がかりは︑︽
料理をするプットたち︾︵
通称﹁
プットたちのバッカス祭﹂︑
図19 ︶
と︽
射手たち
︾︵
図紀初頭の
︽
トンド・
ドーニ︾︵
図20 ︶
を表した一五三〇
年代初頭の二枚の素描と︑
一六世21 ︶
にある︒
この手がかりがこれまで一度も用いられなかったのは
︑
それがプラトンの﹃
ゴルギアス﹄
と﹃
法律﹄
を出典とすることが見落とされてきたからである︒﹃
ゴルギアス﹄
によれば︑
料理は技術ではなく︑﹁
われわれに楽しみと快楽を引きおこす経験
﹂︑
甘言にすぎない︒
それは﹁
体育を通じてのみ得られる真の美をないがしろにさせる﹂
衣服と︑
同種の甘言とされる ︵●︶︒
一方︑
ミケランジェロのもう一枚の素描は
︑
筋骨隆々とした両手利きの若者たち│
その中には娘も一人混じっている│
が弓なしで射手の動作を真似る
︑
体育の場面を表している︒
プラトンの﹃
法律﹄
は体育についてこう述べる︒
体育の一部は舞踊であり︑
舞踊の一部は無言劇である
︒
ピュリケーの踊りでは︑
無言劇は防御の動作や弓を射るなど攻撃の動作のかたちを借りる︒
また弓術には女子も加わることができる︑
と
︒
同書はまた体育一般についてこうも述べる︒
行政官は﹁
男子も女子も全員が︑
等しくたくましい脚や腕をもち﹂︑
日頃の使用で身体の左右に能力差が生じるせいで
﹁
生まれもった資質を劣化させる者が一人も出ない﹂
よう気を配る必要がある︑
と ︵●︶︵
ミケランジェロは素描の中に
︑
弓を逆方向に曲げて折る動作をする男︑
薪をもつ二人のプット5
6 五
六 7
9 10
8
│
その一人が口で吹く炎はおそらく槍を燃やすためのもの│ ︑弓を抱き矢筒を地面に置いて眠るアモールを描きくわえているが︑
これ
らは﹃
法律﹄
が説く︑
平和は戦争よりはるかに好ましく︑
体育の訓練は快楽を求める性癖を減少させる︑
という思想を表している ︵●︶︶︒
さて
︑
衣服が外観を表すとすれば︑
裸体とたくましさは本質を表す ことになろう︒
それらは寓意的読解を通して︑﹁
字義(lettera) ﹂
を超えた﹁
意味(senso) ﹂
へとみちびくものである ︵●︶︒
すでに︽
トンド・
ドーニ
︾︹
図の少年
︵
図21 ︺
においても︑
たくましい仲間のヴェールをとりさる裸体22 ︶
が︑
外観を超えて本質にいたれといざない︑︽
聖家族 と先 ヨハネ駆け︾
という﹁
字義﹂
を超えて︑﹁
待 イエス・キリスト望されし者﹂
に寄せる愛という﹁
意味﹂
へといざなっている︒
この思想は︑
ボッティチェッリからレオナルドやアンドレア
・
サンソヴィーノにいたる一四〇 〇
年代から一五〇 〇
年代にかけてのフィレンツェの美術家の間でかなりの普及を見た思想と同じ流れを汲んでいる ︵●︶
︒
さて︑
筋骨隆々とした裸体が寓意的外観を超えた本質の象徴であるとするなら
︑
この巨匠を不道徳という基準によって裁こうとするあの醜悪なミケランジェロ批判もいっそう影を薄くするだろう︒
ミケランジェロの道徳観はこれとは正反対であった
︒︽
プットたちのバッカス祭︾
がトンマーゾ・
デ・
カヴァリエーリのために│ ﹁彼が素描を学ぶために ︵●︶﹂ │
制作された素描のひとつであるなら︑
そして︽
射手たち︾
がこの素描と連作をなすとすれば ︵●︶︑
思うにトンマーゾのための他の三枚の素描は ︵●︶︑
この若い友人を賢明さや﹁
真﹂
と﹁
偽﹂
の区別へと導くものであった
︒
それは虚栄に陥ることなく自らの美をいかに磨くか︑
あるいは快楽をどう考えるか︑
という問題でもあった︒
なぜならそれ らの素描のうち︑︽
パエトン︾︵
図(Sapientius op t a! )
望むがよい﹂
という教訓を内包し︑︽
ガニュメデス︾
︵●︶23 ︶
は﹃
転身物語﹄
の﹁
もっと賢く︵
図テュオスはその報いで懲罰を受けた
︵
図24 ︶
は神の認識と信仰という﹁
真の﹂
快楽を表面的な快楽│
ティである
︒
実際︑
一五五五年に刊行されたある書物では︑﹁
神の認識と25 ︶ │に対置しているから ︵●︶
信仰における真の快楽 ︵●︶
﹂
という至高の快楽の挿図に︽
ガニュメデス︾
の模写版画︵
図26 ︶
が用いられている︒
さて︑
筋骨隆々とした裸体は外観を超えた本質へと導く︒
寓意の﹁
字義﹂
を超えて﹁
意味﹂
へと導く︒︽
審判図︾
はわれわれにとり︑
ダンテの流儀による偉大な寓意表現にも見える
︒
私はここで︑
ジャンノッティの﹃
対話篇﹄
でミケランジェロに擬せられた︑﹁
私はこ ダンテの詩人を きわめて熱心に読んだ﹂︑ ﹁
私は﹃
天堂篇﹄
全篇をきわめて熱心に読んだ ︵●︶﹂
という発言を思いうかべる︒
だが思うに︑
ダンテとの師弟関係は
︑
︹地獄の川の渡し守︺カロン︵
図リの言い回しを借用
︶
をはるかに超える深い境地に達していたことだ ︵●︶27 ︶
などの人物の﹁
模倣﹂︵
ヴァザーろう
︒
実際︑︽
審判図︾
の聖なる登場人物たちは﹃
天堂篇﹄
と同じく︑
緻密な神学的寓意に加えて︑
詩的寓意に基づいた諸概念をも象徴している
︒
ダンテは﹃
饗宴﹄
の中で︑﹁
まことに神学者は︑
この︿
寓意的﹀
意味を詩人とは異なる風に用いている︒
だが私のここでの意図は詩人の流儀にしたがうことであるので︑
私は寓意的意味を詩人の用法で用いよう
﹂
と記している ︵●︶︒
この言葉を支えとして︑
われわれは︽
審判図︾
という常軌を逸した構想の寓意的読解に入ることにしよう︒﹁
お お︑
健全なる知性をもつ人々よ︑ /
聞きなれぬ韻文のヴェールの下に/
隠されたる教義に目を開け ︵●︶﹂
と︑
ダンテとともに訴えながら︒
だが11 七
13
14 15
16
八 17
19
20
21
12
18
ミケランジェロのテクストにおいて
︑
その教義とは│
後述するように│
愛の教義である︒
* * *
寓意というヴェールの下に隠された
︑
本質の神秘的啓示︒
それを私は以下のように読み解いた
︒
不可解なる神の意志は苦痛をももたらす
︒
だがわれわれはこの苦痛を遠ざけて愛に置き代えることにしよう
︒
愛は│
神に寄せる愛であれ︑
友人︑
夫婦︑
隣人に向けられた人間の愛であれ│
十全であってほしい︒
愛は│
律法︑
契約︑
規則︑
おこない︑
試練に束縛されることなく
│
無償であってほしい︒
われわれは律法︑
殉教︑
儀礼を必要とすることなく︑
恩寵と神の愛の中に︑
新しい生命として復活しよう︒
また罪の赦免を得て
︑
愛の対象と合体することによって︑
人間の愛の中に復活しよう︒
* * *
︽
審判図︾
の左側のルネッタ︵
図28 ︶
の中で荊冠を携えた天使のまなざしは
︑
物語が右から左に進行することを告げている︒
またそこに顔をのぞかせる天使のまなざしをたどると︑
この左側のルネッタから︑
下方のグループで目を引く二人の女へと進行することがわかる
︒
荊冠の周囲の天使たち
︵
図29 ︶
のうち︑
一人は手を伸ばして身振りで
﹁
なにゆえに﹂
と訊ねている︒
一人の仲間が彼の手首をつかむと同 時に︑
対象の特定を避けるため人差し指を折って︵
だが不意に現れた三人目の天使が彼の手を伸ばそうとしている︶︑
持ち送り部分の後方│
ちょうど︑
昔の模写画家たちが父なる神の画像を挿入した箇所︵
図30 ︑ 31
の中央上方︶ │を指差している︒
したがって︑
このグループ ︵●︶
はこう告げているのだ
︒
なにゆえに苦痛を受けるのか︒
不可解なる神の意志ゆえに︒
ミケランジェロは神の意志の必要性をしっかりと胸に刻んでいたに違いない
︒
ヴァザーリは一五五〇
年に︑
神が﹁
大きな労苦が数かぎり なく虚しく費やされたのをご覧になって﹂︑ ﹁
死すべき存在というより天に由来する神々しい存在﹂
として﹁
ミケランジェロを地上にお遣わしになられた ︵●︶﹂
と記している︒
またミケランジェロは晩年︑
己が神の前で束縛されていると感じ
︑
サン・
ピエトロ大聖堂竣工の監督を自分の意志のまま投げ出すことができなかった ︵●︶︒
そのうえ︽
審判図︾
の少し後に装飾されたパオリーナ礼拝堂では
︑︽
聖パウロの落馬︾︵
図と
︽
聖ペテロの磔刑︾︵
図32 ︶ 33 ︶
が︑
神の意志の逃れがたさを示してい る︒
イエスとパウロの問答を思いだそう︒﹁
あなたには︑
あなたをうながす力(stimulus)
に逆らうのはむずかしいことです﹂︒
パウロは﹁
震えながら
︑﹃
主よ︑
私に何をお望みですか﹄
と驚いて言った﹂︒
また︽
聖ペテロの磔刑︾
でも︑
ちょうどイエス・
キリストの磔刑│
ペテロの磔刑と想像の中で対比される
│
がそうであるように︑
神の意志の成就が表されている︒
画面左上で︑
一人の若者が片手でペテロの殉教を指差し
︑
片手で処刑を命じた馬上の役人を指差している︒
しかし彼の後方ではもう一人の若者が︑
両手の人差し指で天を指差している︵
図34 ︶︒
そしてペテロは︑
十字架からある存在の方へ身を起こしている︒
22 23
24
ペテロの物語を思いおこすなら ︵●︶
︑
われわれはその方向にキリストの磔刑が│
想像の中で│
存在しているのだと理解することができる︒
そのキリストの方向を
︑
下方のグループの中の二人の女が︑
あるいは熱心に︑
あるいは恐ろしげに見つめている︵
図年の男が
︑
やはり︹この想像上の︺キリストに向かって頭を垂れ︑
胸35 ︶︒
また一人の壮の前で両腕を交差させ
︑
敬意を表して立っている︵
図方にいる別の男は
︑
一人の女の注意をキリストに向けようとしている36 ︶︒
一方︑
上が
︑
彼女は天を見つめ︑
神の意志のしるしを前にしたときのように服従の身振りをしている︵
図37 ︶︒
ここで下方の女たちのグループ︹
図 テロの磔刑を比較していることが察せられる︒
なぜなら︑
一人目の女35 ︺
に戻ると︑
まだ言及していない二人の女が︑
キリストの磔刑とペは
︑
想像上のキリストの磔刑を前にしていったん顔を布で覆ったものの︑
その布をまだ胸の前に広げたまま︑
早くもペテロの磔刑を見るために頭をめぐらしたところである
︒
また二人目の女は︑
やはり執行中の磔刑を見つめながらも︑
人差し指を天に向けて︑
その原因が神の意志にあると指摘している
︒
彼女はこうしてキリストの磔刑と神の意志を関連づけている︒
と同時に︑
前述したもう一人の女もキリストの磔刑に対し同様の反応を示している
︒
また
︽
アイネイアースにイタリア出発を命じるメルクリウス︾
を表したミケランジェロの晩年の素描︵
図38 ︶
も逃れがたい神の意志を表 している︒
なぜならアイネイアースはこのとき︑﹁
神々のかほどに強き戒めと命令とに驚愕し﹂
ていたからである ︵●︶︒
またヴェヌスティが絵画化したマタイ伝による
︽
オリーヴ園の祈り︾
の構想︵
図大地に額づいて祈りをすませ
︑
弟子たちも去ったあとで︑
キリストが39 ︶
では︑
が父よ︑
私がこの杯を飲まないうちは私からそれを遠ざけることがで 二度目の祈りをおこなっている︒
キリストは指を曲げて天を指し︑﹁
わきないのでしたら
︑
あなたの御心のままにしてください﹂
と述べる ︵●︶︒
また複数存在する︽
キリスト磔刑︾
の素描にはそれぞれ異なった表現が与えられているが︑
そのうちのある作例︵
図40 ︶
では︑
人知を絶 した神の御前で︑﹁
わが神︑
わが神︑
なにゆえに私をお見捨てになったのですか﹂
とキリストが叫んでいる ︵●︶︒
別の作例︵
図41 ︶
では︑﹁
完 了した ︵●︶﹂
というイエスの言葉を聞いて︑
聖ヨハネが両手で天を指差している︒
ミケランジェロは
︽
審判図︾
の左側のルネッタ︹
図わされた苦痛を暗示するかくも多くの象徴に対抗し
︑
その苦痛を通し28 ︺
の中で︑
負ての贖いに用いられた主な刑具を
︑
天使たちに持ち去らせている︒
実際︑
十字架を背負って飛ぶ天使の動作と︑
その下端を指で支える別の天使の動作は
︑
これを地上に降ろすのではなく︑
上方に運び去るものである︒
左側でも一人の天使が﹁
下へ? ﹂
と尋ねている︒
だが上方の彼の仲間の一人は
︑
反対方向を指差す︒
また右側にいる天使も反対方向を指差している︒
もうひとつのルネッタ
︵
図ように見える
︒
円柱の近くでは︑
海綿のついた葦の棒をもつ一人の若 いる天使たちの動作は︑
それをこの世から遠く運び去ろうとしている42 ︶
でも同様に︑
鞭打ちの円柱の周囲に者が
︑
遠方のイエスめがけて前に身を乗りだしている︒
彼の三人の仲間は互いに抱きあって深い愛情を示しており︑
その一人がイエスを指差している
︒
先述した若者は天使ではなく︑
突如走り去って海綿をとり︑
これを酢で満たすと葦の棒につけ︑
瀕死のイエスに飲ませようと26
27 28
29
25
した
︑
慈悲深き男の守護神(genio)
であろう ︵●︶︒
そしてこの愛情深い抱擁と︑
この良心に由来する衝動的行為とは︑
意味の上で︑
左側のルネッタの最後の
│
前述した天使の視線の方向から見て最後の│
二人の人物︵
図43 ︶
と関連づけられる︒
彼らもまた二人の天使である︒
その一人は睫毛の下の黒い瞳で凝視しながら
︑
手で道を指し示すように︑
腕を横にひろげる動作をしている︒
これは停止の合図︑﹁
あっちに行け﹂ │私なら﹁
おお苦痛よ︑
あっちに行け﹂
と言おう│
を意味する︒
また二人目の天使は仲間を抱き︑
同時に身を乗りだして下方を︑
つま
り目を引く二人の女の方を見ている
︒
われわれは彼女たちが愛に寄せる献身を表していることをまもなく理解するだろう︒
苦痛をもたらす刑具の除去
︒﹁
行ってしまえ﹂
︹という身振り︺︒
良心から来る衝動的行為や
︑
献身に向けられたまなざしと響き合う︑
こうした抱擁・ ・ ・ ︒
それらは結論として︑
美徳が苦痛の中にではなく︑
善にして完全なる愛の中に宿ることを示している
︒
* * *
左手上方のグループはさまざまな愛の象徴を示している
︒
神に寄せる愛︑
霊魂の愛︑
夫婦愛︑
隣人愛││これらはいずれもが献身というかたちで表されている
︒
では
︑
順番に見ていこう︒
七人の子に囲まれた﹁
フェリキタス﹂︵
図を見なさい
︑
眼を高みへと向けなさい﹂
と子供たちに告げたところで44 ︶︒ ﹁
わが子たちよ︑
天ある ︵●︶
︒
実際︑
数人が天に顔を上げ︑
二人が天を指差し︑
うち一人は大 きな腕をもちあげている︒
ダヴィデとヨナタン︵
図﹁
年若く︑
血色が良く︑
見目麗しく﹂︑
ヨナタンは︑
彼の腕に親しげに ︵●︶45 ︶︒
ダヴィデは手を置いている
︒
二人の周囲には︑
誰であるかは判別しかねるが︑
別の親友たちのカップルが集まっている︒
それから︑
ペンデンティヴのひとつに表されているユーディトのものと似た兜をかぶった
︑
旧約聖書のヒロインたち︵
図46 ︶︒
レアは自分の前方を︹画面の外を︺指差すことによって
︑
彼女が夫ヤコブの愛を勝ち得た原因と思われる︑
外的な理由を示している︒
つまり︑
彼女が夫ヤコブに愛されることを願って七人の子を設けたことである ︵●︶
︒
だがその傍らにはラケルの美しい裸体がある︒
近くにいる女が掌を開いてこの裸体を示し︑
ラケルがレアよりも夫に愛された理由を明かしている ︵●︶︒
その下方︵
図47 ︶
で背を向 けたヒロインは︑
悲しげなモルデカイの存在ゆえに︑
エステルであることがわかる︒
他の女たちが彼女を見つめ︑﹁
自らの民のために ︵●︶﹂
王のもとに赴くように促している
︵
したがって︑
上方におり︑
人々が手を差しのべ視線を向けている女は︑
ユダヤの民のもう一人の偉大な救世主であるユーディトに違いない
︹
図46 ︺︶ ︒
さてこれらは︑
神に寄せる愛︑
霊魂の愛︑
夫婦愛︑
隣人愛を体現している
︒
だがそうした愛はそのいずれもが献身を伴わなければならない︒
そう結論づけるのが︑
跪いて別の女にしがみつく女がつくる︑
人目を引く下方のグループ
︵
図ツは
︑
この姑に自分を捨てるよう促され︑
こう答えた︒﹁
あなたを捨48 ︶
である︒
姑のナオミにしがみつくルてて去ってしまえなどと
︑
私に無理強いしないでください︒
あなたがどこへ行かれようと︑
私もそこに行き︑
あなたがとどまるところに私もとどまります
︒
あなたの民は私の民︑
あなたの神は私の神となるで32 33
34
35 31
30
しょう
︒
あなたが亡くなるところで︑
私も死んで葬られます︒
もし死以外の理由で私があなたとお別れするようなことがあれば︑
死んで葬 られる以上の罰を主が私に見舞われますことを ︵●︶﹂︒
このような感情を︑
ミケランジェロは実人生で体験していた︒
他でもない︑
忠実なウルビーノが彼に示した献身である ︵●︶︒
* * *
画面中央にいるキリストは
︑﹁
向こうに行け﹂
と言わんばかりに胸の前で左腕をひねり
︑﹁
ただではすまさんぞ﹂
と言わんばかりに右腕を振りかざしている︵
図49 ︶︒
キリストの視線は一人の金髪の若者に向けられている
︒
この若者︵
図外的な理由を挙げる一方
︑
自分の背後で恐怖にかられている一人の女50 ︶
は前方を︹画面の外を︺指差してを護っている
︒
彼の下にいる黄色いマントの男も︑
やはり恐怖にかられている︒
彼らのやや上にいる︑
広い胸をしたもう一人の金髪の男︵
図かりにもう一方の手を開いて前に伸ばしている
︒
この男がヤコブだと51 ︶
は︑
片手を心臓の上に置き︑﹁
やめろ︑
やめてくれ﹂
と言わんば わかるのは︑
背後に彼の伝説に登場する二人の人物│
魔術師ヘルモゲネスとその弟子ピレトス ︵●︶︹
図の下に
︑
驚いた様子の父ゼベダイと母︑
すなわち天の国でヤコブとそ ︵●︶53 ︺ │を伴い︑
また前に伸ばした腕
の弟ヨハネが玉座をいただけるだろうかとイエスに尋ねた女を伴っているからである ︵●︶︒
とすれば︑
われわれの議論の発端となった下方の金
髪の男はヨハネであろう
︒
思うにヨハネは︑
外的な理由を挙げるその身振りや周囲の人物たちの存在ゆえに︑
ヨハネ第二書簡の中で﹁
選ば れた婦人﹂
に示し︑
第三書簡の中でガイオに示した思想を│
神学的寓意ではなく﹁
詩的﹂
寓意において│
体現している︒
彼は書簡の中で
﹁
互いに愛し合いなさいという命令﹂
について語り︑
主の﹁
命令にしたがって歩むことが愛なのです﹂
とも言い添える ︵●︶︒
さらに︑﹁
善をおこなう者は神から来る者です﹂
とも ︵●︶︒
さて
︑
かの象徴としてのキリストは︑
愛を命令とおこないに結びつけるこれらの思想を忌み嫌い︑
自分から遠ざかれと望んでいる︒
彼が 髭のない若い姿で表されているのは︑
キリストという象徴に︑
より多く愛する側がもつとされる成年の外観を与えまいとし ︵●︶て︑
︵●︶つまりキリ ストが特にヨハネを愛したという︑
ヨハネ自身による伝承を否定するために他ならない ︵●︶︒
前述したヨハネ第二書簡および第三書簡の思想と︑
ヨハネ福音書に頻繁に見いだされる同種の思想ゆえ ︵●︶
︑
ミケランジェロはヨハネを好んでいなかった︒
そのことはミケランジェロ自身の構想に基づくラフレリーの版画
︵
図ハネを指し示すマリアの
︑
憤ったような驚きの身振りにも見てとれる︒ 52 ︶
の中で︑
十字架上のキリストにヨ ︵●︶マリアはまるで
︑
そのときキリストが言ったとされる│
ただしそれを証言するのは当のヨハネだけだが│ ﹁これがあなたの息子です ︵●︶﹂
という言葉を拒んでいるように見える
︒
さて
︽
審判図︾
の中で︑
このキリストとマリアは愛の無償性を象徴していると言えるだろう︒
逆に︑
二人の周囲でその愛の無償性に対置されるのが
︑
律法と契約︑
権威︑
おこない︑
試練を象徴する人物像である︒
彼らはその活動的性格ゆえに︑
エネルギッシュで落ち着きのない身振りさえ辞さない
︒
上方では
︑
緑の頭巾で角を隠す年老いたモーセが︑
己に律法の板を36 38 37
39 40
41 42
43 九 44
45 46
47
課した神を暗に指し示している
︵
図人に神を指差しているが
︑
こちらは弟のアロンであろう︒
このアロン53 ︶︒
モーセは傍らにいる別の老によってヘブル人の祭司職が始まったのである
︒
ヨハネを見つめながらモーセを指差しているのは
︑
空を飛ぶ金髪の男である
︵
図髪を宙になびかせた若者と
︑
やはり空を飛ぶ︑
薄目を開けた別の男が54 ︶︒
彼の近くには︑
たった今天から舞い降りたようにいる
︒
金髪の男はマタイであり︑
その近くにいるのは︑
マタイの福音書記者としての象徴である天使と︑
︹﹁マタイ伝﹂の中で︺キリストに﹁
もしいのちに入りたいと思うなら
︑︵
モーセの︶
律法を守りなさい﹂
と言葉を掛けられた若者である ︵●︶︒
またこのグループの中では︑
象徴としてのキリストが体現する自由と︑
愛の世界にさえ存在する教会の権威とが対置されている
︒
この権威は︑
自分に与えられた権力の鍵を示す︑
憤然とした聖ペテロ︵
図55 ︶
によって表されている︵
シニョレッリもかつて聖職者に低い評価を与えた
︒
この画家が描いたペルージア祭壇画︹
図18 ︺
の中で︑
聖母︑
イエス︑
天使は聖職者たち︹聖ラウレンティウス︑聖ヘルクラヌス︺に背を向け
︑
またその聖職者の一人︹聖ラウレンティウス︺も近くにいる天使に背を向けている
︒
逆に︑
愛する者たちは称えられている
︒
なぜなら︑
イエスは自分を情熱的に見つめる聖ホノフリウスに手を差し伸べており︑
同じ側にいる洗礼者ヨハネも︑
胸に手を置いて自分の天使を見つめているからである
︶︒
前述したように
︑
律法と権威を象徴する人物像だけでなく︑
おこな いと試練を象徴する人物像もまた無償の愛と対置されている︒﹁
おこないを伴わない信仰は︑
それ自体では無価値です ︵●︶﹂
と考える聖ヤコブは
︑
前述したように弟のヨハネを護ることにかけてもエネルギッシュ である︒
勇敢に抗議する洗礼者ヨハネ︵
図礼者の後方にいる預言者の姿は
︑﹁
主の道を準備しなさい︑
主の通り56 ︶
もまた同様である︒
洗 道をまっすぐにしなさい ︵●︶﹂
というイザヤの預言を思い起こさせる︒
逆に︑
開いた両手を胸の前に伸ばして恐れおののいているのは聖パウロ︹
図を分かちあっているが
︑
パウロの右肩の後ろで単に驚愕だけを示す若55 ︺
である︒
パウロは自分の足の後ろに隠れている男とこの恐れ者
│
若い弟子テモテ│
とは分かちあっていない︒
このためわれわれは︑
テモテではなくテトスへの書簡を参照するよううながされる︒
その書簡では
︑
キリストの自己犠牲の理由を︑﹁
善行に熱心な自らの民を清らかで好ましいものにするため﹂
と伝えている ︵●︶︒
だがこの文脈において
︑
おこないよりも強力なのは試練である︒
若きアンデレ
︹
図うとしており
︑
またアンデレの特定にいっそう役立つ︑
彼の伝説に登56 ︺
は自分の最初の師である洗礼者ヨハネの前に出よ ︵●︶場する二人の人物
︑
老人と︑
愛に狂う婦 ︵●︶人と ︵●︶を背後に伴っている︒
このアンデレは︑
自らの殉教の刑具である十字架に対し︑﹁
長い間熱望し︑
激しく愛し︑
つねに求めてやまなかった十字架よ﹂
と述べた ︵●︶︒
試練についてはさらにラウレンティウスという手本がある︒
ラウレンティウス
︵
図癒したと伝えられる寡婦を近くに伴っている
︒
アンデレはこの理解を ︵●︶57 ︶
は自らの殉教の刑具である焼き網を携え︑
彼が絶したイエスを見て困惑し
︑
身を遠ざけている︒
反対側では︑
そのイエスに向かって︑
禿頭で長い白髭の︑
眉をしかめた聖アンブロシウス︵
図いる
︒
彼はもう一方の手に︑
黒い縮れ毛をした︑
聖バルトロマイの皮58 ︶
が︑
聖バルトロマイの皮剥ぎを記念してナイフをもちあげて︵
図59 ︶
をもっている︒
これこそは︑﹃
黄金伝説﹄
がアンブロシウス自48
49
50
51
52 53
十
54 55
身の記述と伝える ︵●︶
︑﹁
勝ち戦﹂
の﹁
栄光の戦利品﹂
に他ならない︵
またその皮にミケランジェロの容貌が認められるとしても︑
そのことが特別な意味をもつとは思われない
︒
なぜなら︑
自画像は他に︑
まったく別の副次的な人物の中にも見られるからである﹇
図60 ︑ 61 ﹈ ︶︒
︵●︶愛する人々の身振りは
︑
イエスの伝えようとする内容と彼らが一体化しているため
︑
憤った様子を示していない︒
マリアの身振りは苦痛への恐れを示す︹
図49 ︺︒
彼女は良き盗賊の十字架を目にしてその苦痛を思いだし
︑
そこから身を遠ざけている│
両手を首に置き︑
自信なげな二本の指を顔にかけて│ ︒右側には︑
殉教者の祝日の赤いダ
ルマチカを着た
︑
剃髪の聖ステパノ︹
図ちを愛によって矯正し制止しようと努め
︑
愛ゆえに彼らのために祈っ51 ︺
がいる︒
自分の迫害者た たステパノを ︵●︶︑
その近くにあって︑
薔薇の花冠を頭に巻いた女が指差している︒﹃
黄金伝説﹄
が提起するステパノの名の二つの語源のうち︑
﹁
規範﹂
ではなく﹁
花冠﹂
の方が語源としていっそう重要であると告げるために ︵●︶︒
さて
︑
人々はここで︑
愛が規範の外にあってほしいと︑
束縛のない無償のものであってほしいと望んでいる︒
神の恩寵がそうであるように
︑
人類の愛もまたそうであってほしい︑
と︒
そのことはミケランジェロの他の後期作品の中でも密かに表明されている
︒﹁
受胎告知﹂
を表した彼のある素描︵
図62 〜 64 ︶
では︑
︹天使が︺
﹁
めでたし︑
恵み満てるお方﹂
と告げる場面に︑
律法の板を砕こうとするモーセを表した彫像が見られる︒
また当初より﹁
ご公現( Epifania ) ﹂
という表題で知られるカルトン︵
図65 〜
この表題はギリシャ語で
﹁
出現﹂
を意味する︒
なぜならそこにマギが66 ︶
の中でも︒
の前に出現する天使が一人いるだけだからである︒
したがってこの場 登場せず︑ │間に挿入された人物を別にすれば│
聖家族とヨハネ
面はエジプトからの帰還途上で起こった第二の
﹁
出現﹂︑
それもすでにイスラエルに到着後 ︵●︶│
なぜなら聖家族はその地で荒野に隠棲した洗礼者と出会った ︵●︶│
起こった出現の場面である︒
だがこの主題は︑
﹃
イエス・
キリストの生涯( V ita Jesu Christi ) ﹄
の記述に従って︑
意味と図像が意図的に変えられている︒
なぜならミケランジェロは︑﹁
恵 み満てる﹂
聖母が︑
恩寵という点で自分より﹁
はるかに劣る ︵●︶﹂
ヨセフを後ろに押しやって︑
天使の啓示の受け手をヨセフから自分に置きかえるさまを表したからである
︒
この︑
マリアに与えられた恩寵を扱った︹別の︺作例には︑
かつて﹁
母のもとから出発するキリスト﹂
と呼ばれた
︑
失われたカルトン︵
図リストの身振り
︵
図67 ︶
がある︒
現存する習作におけるキ ︵●︶68 ︶
から察するに︑
このカルトンは実は︑
イエスからマリアに向けられた
︑
天に昇れという愛情のこもったいざないを意味していた︒
つまり︑﹃
黄金伝説﹄
が伝えるところの︑
キリストが彼女に
﹁
来なさい︑
愛しい人よ︑
あなたを私の玉座に着かせましょう︒
私にはあなたの美しさがほしいからです ︵●︶﹂
と述べた瞬間である︒
︽
審判図︾
のフレスコ画の中にも恩寵に満てる者がいる︒
良き盗賊︹
図 るようイエスに頼んだ︒
そして﹁
今日あなたは私とともに天国に行く56 ︺
である︒
彼はイエスを弁護し︑
天の王国で自分を思いだしてくれ でしょう ︵●︶﹂
という許しを得た︒
十字架を携え︑
観者に背を向けた巨大な裸体像として表された彼は︑
マグダラのマリアを自分の傍に招いている
︒
しかしマリアは姉のマルタに反論するためそちらを向いている︒
マルタは外を指差して︑
外面的なおこないを示している︒
マグダラの57
62 63
58 59
60 61
64 65
56
マリアは罪深い女でありながらも
︑﹃
黄金伝説﹄
が伝えるように︑
神の意志に動かされてイエスのいる家におもむき︑
すべての罪を赦され た︒
そのうえ︑
イエスから数多くの特権を得た︒
イエスと無条件に愛を交わすことができたのもそのひとつである ︵●︶︒
またこの二人の女と構図的に関連をもつ上半身裸の若者が
︑
雄大な身振りで十字架を指し示している︒
この若者はマリアとマルタの兄弟ラザロ︵
図69 ︶ │なぜ
ならラザロの復活はヨハネの﹃
福音書﹄
でキリストの死の預言と関連づけられている ︵●︶│ ︑
イエスが愛したラザロであろう ︵●︶︒
イエスはラザ ロがどこに埋葬されたかを問うたとき︑
彼のために涙を流している ︵●︶︒
そしてラザロを出発点として︑
またラザロの物語を通して︑
イエスを凝視しながら身を乗りだす裸の男が誰であり︑
いかなる価値をもつかが理解されてくる
︒
この男は︑
彼の師イエスが︑
まさにこのラザロを蘇らせるため︑
石打たれる危険を冒してユダヤに戻る決心をしたとき︑
仲間の弟子たちに
﹁
われわれも行って︑
彼とともに死のう﹂
と言った︑
かの使徒聖トマスである ︵●︶︒
中央上方のグループにおけるこれら対照的な価値概念は
︑
右側上方のグループ︵
図70 ︶
の人物像によっても表明される︒
律法の体現者モー セを指差すアブラハムは︑
主と契約を結んだ最初の人物である ︵●︶︒
その近くに︑
アブラハムの息子で︹晩年の︺盲目となったイサクがおり︑
イサクの近くにはリベカがいる
︒
傍らには︑
彼らの二人の息子もいる︒
イサクとリベカが︑
何ものにもとらわれないという拒みがたい愛の特質ゆえにそれぞれ愛した
︑
二人の異なる息子 ︵●︶が︒
︵●●︶* * *
右側上方の︑
グループの中のもっとも輝かしい部分では︑﹁
新しき生(V ita nuova) ﹂
について語られている︒
人が生まれかわるのは︑
神の恩寵とわれわれが神に寄せる愛によってであり
︑
法規︑
殉教︑
磔刑︑
儀礼への忠誠によってではないと︑
寓意法で述べているのである︒
再生という概念は
︑
エリヤと禿頭のエリシャ ︵●︶によって表されている︵
図71 ︶︒
彼らの近くには︑
彼らに愛情を寄せる人々や︑
彼らが蘇生さ せた子供たちがいる ︵●︶︒
後ろにはこの子たちの母親らと︑
エリシャの物語に登場するゲハジ ︵●︶︑
それから死の同信会に属する︑
二人の頭巾の男がいる
︒
下方に目を移すと七人の若者がいる
︵
図に抱き合っている
︒
一人はもう一人の手首をとり︑
とられた方は別の72 ︶︒
そのうち四人は互い若者から頬を愛撫されている
︒
この後の方の若者は一人の悲しむ女の頭を胸で抱きかかえている︒
彼らはマカバイ兄弟である︒
だが彼らのグループは聖ヒエロニムスを中心とするグループ
︵
図い
︑
対置されている︒
ヒエロニムスは︑
自分が書簡を送ったアルガシ73 ︶
ともつれあア
│
この女は聖者アレティウスの傍らにいる│
の方を向き︑
クレネ人シモンを示している︒
というのはこの書簡が二人に言及しているからである ︵●︶
︒
このグループの一部をなすのが︑
ヒエロニムスの傍らで聖人の肩越しに天を指差し︑
観者に背を向けた彫像のような金髪の男の顔を凝視する男である
︒
金髪の男もやはり天を指差している︒
彼らはヒエロニムスの二人の弟子︑
パンマキウスとオケアヌスである︒
これら二つのグループは
︑
前述したように︑
互いにもつれあいながら対置されている︒
というのは︑﹁
神の法﹂
ゆえに︑﹁
法の掟﹂
ゆえに︑﹁
祖国の法
﹂
ゆえに ︵●︶なされたマカバイ兄弟の犠牲に対し︑
ヒエロニムスが72十一
74 75
66 67
68
69 70
71
73 76
77