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スポーツ教育の基本問題の検討(?)−スポーツ教 育の論拠と基本的性格−

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スポーツ教育の基本問題の検討(?)−スポーツ教 育の論拠と基本的性格−

著者 ?橋 健夫, 稲垣 正浩

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 32

号 1

ページ 149‑167

発行年 1983‑11‑25

その他のタイトル The Study on the Fundamental Problems of Sport Education (I) −The Rationale and The Basic Characteristics of Sport Education−

URL http://hdl.handle.net/10105/2300

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スポーツ教育の基本問題の検討( I )

‑スポーツ教育の論拠と基本的性格‑

高 橋 健 夫・稲 垣 正 浩

(奈良教育大学体育学教室) (昭和58年4月30日受理)

ォi>m(声

「スポーツ教育」は、新しい用語ではない019世紀初頭よりイギリスのパブリック・スクール で隆盛したスポーツ活動は、一般に「スポーツ教育」の言葉で語られてきた(1)

。また、アメリカ

のS.C.Stalyは、1935年に、新体育(Newphysicaleducation)の思潮の中にあって、体育にか えて「スポーツ教育」の用語を選択し、(2)後年イリノイ大学のカリキュラムとしてその実践化 を図っている(3)

。ドイツにあっても、第二次大戦後間もなく、体育、なかんずく身体(Leib‑1

Korper)の概念をめぐるイデオロギー的対立を解消する用語として、「スポーツ教育」が用いら れるようになったといわれている(4)

。しかしながら、スポーツ教育が体育にかわるべき用語とし

て世界的に注目され、論議されるようになったのは近年のことである。

わが国においても、1970年代の中頃からスポーツ教育の用語が多用され、またその用語の是 非が論題にのぼるようになったが、それは明らかに1970年を前後して、ドイツ語圏が「体育」

(Leibeserziehung)から「シュボルト」(Sport一以下独語のシュボルトおよび英語のスポート をすべてスポーツに統一して用いることにする)へと債域名を変更したことに起因している。特 に西ドイツでは、1972年の各州学習指導要領(Lehrplan)の改訂に伴って教科名を体育からスポ ーツに改称し、カリキュラムの内容もその名称にふさわしく改造された。また、1973年1月より、

伝統的な専門誌「Leibeserziehung」も「Sportunterncht」に改題された。さらに、これらと並 行して、大学の体育学部(InstitutederLeibesubungen)もスポーツ科学部(Instituteder Sportwissenschaft)‑と次第に改称するようになり、講義題目のすべてにスポーツが冠せられる ようになったO一方、米国においても、名称変更問題は一大関心事になっている。ドイツ語圏に みるような制度的な変更は徹底していないが、体育を否定し、代替名を求める主張が強まってい る。当然ながら、それらの主張は新しい体育理念に基づいて展開されており、これまで支配的で あった「身体による教育」(educationthroughphysical)論にかわって、humanmovement論、

スポーツ教育論、プレイ教育論等多様な考え方が構想されるようになった。

いずれにせよ、わが国のスポーツ教育の論議は、ドイツ語圏をはじめとする各国の名称変更問 題やカリキュラム改造の動向に誘発されて開始されたのであり、以来、その論議は体育雑誌をqI JLりこ、多くの研究者の参画のもとで行なわれてきた,Jまた、すでに「スポーツ教育」と冠する書 物も出版されており<5)(1978)、1981年には、"H本スポーツ教育学会」が結成され、公的な場で スポーツ教育が論議されることになった。このように、わが国でもスポーツ教育の用語は、形式 的には一つの専門術語として承認されるようになったといえよう,‑,

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(3)

しかしながら、スポーツ教育の概念は、わが国では全く未確認の状態にあり、人によってその 捉え方は著しく異っている。ある者は、スポーツ教育を体育の下位概念として考えており、ある いは体育に並列する概念として位置づけている(6)

。また他の者は、体育にかわるべき概念として

捉えているO一方、このような概念の暖昧さから、スポーツ教育を「競技スポーツ」を中心とす る英才教育の意に解してその問題性を指摘したり、また、スポーツ教育を「スポ‑ツの大衆化の ための教育」の意に解して、それが人間形成や身体形成の課題を軽視する立場であるとして危恨 する人達も少なくない。(7)

根本的な問題として、「なぜ体育ではだめでスポーツ教育でなければならないのか」との疑問 が投げかけられているように、(8)わが国でこの用語を用いるべき論拠が明らかではなく、したが って、スポーツ教育の基本的性格やその教育的可能性についても論理的に説明した論文は少ないo われわれは、このような暖味なスポーツ教育論議に道筋を与えるために、欧米でのスポーツ教育 の背景や思想的動向について分析し、いくつかの論文で報告してきたが、̀9)本研究では、一歩進 んで、わが国の現実との対応の中で、体育にかえてスポーツ教育の用語を用いるべき根拠や、ス ポーツ教育が備えるべき基本的性格について考察する。われわれの基本的な考え方は、近年の欧 米の体育・スポーツ教育論に刺激きれたものであったり、また彼等の主張を随所に援用している ことをはじめに断わっておかなければならない。しかしながら、本論は、少なくともわが国の体 育現実に対応してスポーツ教育に成立根拠を与えようとするものであり、この試論が今後のスポ ーツ教育論議の一つのたたき台になることを願っているo

l.スポーツ教育の論拠

1)「体育」(身体教育)の用語的限界

「体育」(physicaleducation;Leibeserziehung)の名称変更問題は、いまや世界的レベルで の体育界の一大関心事になった。体育が否定される理由は、国により人によりさまざまであるが、

しかしなお、アメリカのM.Mackenzieが指摘する次の二点は、国を越えた共通の問題である。

「人間の全体性(totality)や統一体(integratednature)の概念は、教育が精神教育と体育 (身体教育)とに分化された過程であるという考え方を否定する。教育は全体存在に関与するも のであり、人間の知的・情緒的・運動的行動に基礎づけられた学習様式(learningmode)によ って成り立つ。したがって、体育(身体教育)と呼びうるような過程は存在しないといわなけれ ばならない。

他方、体育は、ある時にはカリキュラムを意味し、またある時には知識体系を意味するため、

大変まざらわしい。カリキュラムは教育的企て・手続きであり、教師が生徒の学習を活性化する ためのものである。ところが、知識体系とは、事実・思想・原理・概念・技術の統合された集積 であり、二つは異なった実体である。‑・・・数学という知識分野があり、その数学の中にカリキュ ラムないし数学教育が存在するのである。‑‑‑しかるに、身体(あるいは精神)という知識分野 が存在し、身体(あるいは精神)のカリキュラムが存在しうるであろうか。このように体育(身 体教育)という言葉は捨て去られるべきである」(10)

<その二元論的意味あい>

第‑‑の問題は、体育(身体教育)という二元論的意味あいを持つ名称が、体育の実体(学習内 容や学習過程)を正しく表現していないということであった3この間題をさらにわが国の実情の

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中で考えてみる必要があろう,。

わが国でいう「体育」は、欧米のphysical education, Korpererziehungの訳語であるが、 (ll)こ の「身体教育」を「体育」とつづめて用いたことから、身体教育が醸す二元論的意味あいや教育 臭を緩和させていると思われる。しかも、わが国におけるスポーツ活動は、明治以降、行政主導 のもとで、学校を中心に生成・発展してきたため、社会におけるスポーツ活動に対しても「体育」

の用語が充当されてきた。その伝統は現在にまで継承され、日本体育協会、国民体育大会、社会 体育、体育指導員等々の用例がそのことを教えている。わが国では、 「体育」は専門語としてだ けでなく、日常語としても広く定着しているのである。ところが、体育からスポーツへの名称変 更に踏みきったドイツ語圏では、体育(身体教育)は高尚な専門語として用いられ、一般には受 け入れられなかったといわれるし(H.Bernett)、(12)学校の教科名としても「トゥルネン」や「ス ポーツ」の名称で呼ばれてきたといわれる(K. Widmer)。'131この点はわが国の事情と大いに異 なるところであり、したがって、わが国では、体育の用語のもつ問題性が欧米で論議される程に は認識されてこなかったといえるだろう。

しかしながら、問題はたんなる名称上のことがらにつきるものではない。 K. Widmerが端的 に「体育(身体教育)では、身体的要因に力点をおくことは明らかである。一一しかし体育とい う名称の中に含まれている力点を強調しすぎると誤った理解に陥る危険がある。あたかも体育で 問題にすべきことは、筋力、スピード、持久力、呼吸・循環器の能力、そして測定できるスポー

ツ能力だけということになりかねない」(14)と指摘するように、体育の名辞がその具体的実践の 方向を強く規定することは、わが国においても同様である。

戦後わが国の体育は、戦前の体操教材を中心とした「身体の教育」 (education of physical) の理念を否定し、スポーツ教材を中心とした「運動による教育」 (education through physical activities)の理念を掲げるようになった。しかしながら、オリンピックでの惨敗が報道され、国 民の体力低下が問題にされるにつけ、身体の教育(体力つくり)の復権を迫る声が大きくなり、

先の学習指導要餌(昭和43年)は再び体力つくりの体育を前面に押し出すことにもなった。体育 科を「身体を育てる教科」と考える人達は今日なお少なくないのである。

しかし他方、体育の成立基盤(文化)をスポーツ(体操・ダンス・野外活動を含む広義のスポ ーツ)に求める考え方は、今日ではしっかり定着するようになり、これを体操やトレーニングに 限定しようとする主張はみられない。また、スポーツの教育的可能性を人間の身体的側面に限定 しえないことも、体育の科学的研究によって明らかにされている。くわえて、現代の社会状況の もとで、スポーツが人々の生活に不可欠な文化的活動として位置づくようになり、そのこと‑の 人々の要求が一段と高まりつつあるというのも確かな事実である。このような意味において、体 育の名実を「身体教育」におしとどめようとする考え方は、アナクロニズム以外の何者でもない といわなければならない。

<専門科学分野と専門職分野の分離>

体育の名称が問題になる第二の理由は、専門科学としての体育(physical education as disci‑

pline)と専門職としての体育(physical education as profession)の分離化現象が進行し、これ ら二つの領域を「体育」の総称のもとに統一的に捉えることが困難になったということである。

しかしながら、この問題についてもわが国は、便宜的に言葉を造り出すことによって対応してき た′,すなわち、体育のカリキュラムを表示する用語としては「体育教育」あるいは「体育科教育」

を、そして専門科学分野に対しては「体育学」をそれぞれ充当してきた。ところが、これらの言

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葉は二つの領域を区別するうえで有効であっても、それぞれの実体を正しく表示しているとは言 い難い。とりわけ、日本体育学会に代表される体育学研究が、「体育」という教育的概念の中に 包摂されえないことは、今日では誰もが承知するところである。また、わが国で、疑いもなく用 いられている「体育学」という用法(scienceofphysicaleducation;WissenschaftderLei‑

beserziehung)は、国際的には馴染まれておらず、体育の科学的研究分野も含めて「体育」と呼 称していることを承知しておかなければならない。

一方、「体育教育」という用語もナンセンスという他はないOこの造語は、数学教育や国語教 育等々に対応した教科教育の嶺域名として生み出されたものであるが、体育はあらかじめそれ自 体のうちに教育の概念を含んでいるため、体育教育は一つの術語の中に二つの教育概念を取り付 ける結果になっている。

ともあれ、体育の名称問題は、国際的な体育の専門科学化運動に起因して生じたのであり、こ の専門科学分野がどのような上位概念のもとで最もよく体系化されうるのか、またそれが専門職 分野としての体育とどのように関係するのかが問われているわけである。代替名は多様に提起さ れているが、ドイツ語匪=こあっては「スポーツ」(Sport)の上位概念を採択し、専門科学分野を 総称する名称としては、「スポーツ科学」(Sportwissenschaft)を充てるようになったのである。

特に、スポーツ科学の下位専門科学領域として、「スポーツ哲学」「スポーツ史」「スポーツ社会 学」「スポーツ心理学」「スポーツ医学」「スポーツ・バイオメカニックス」「スポーツ教育学」が 位置づき、しかもこれらの領域は、それぞれすでに国際的な研究組織を持ち、専門誌も発刊され ている(15)

。わが国でも、このような国際的動向と関連して、それぞれのスポーツ専門科学領域

が、日本体育学会の専門分科会とは別に全国的な研究組織として結成されており、国際的な交流 が図られるようになっている。このような動向からして、今後わが国においても、少なくとも

「専門科学としての体育」(体育学)の名称が次第に「スポーツ科学」に置き換えられていくこ とは、確かに予測できることである。

2)「スポーツ教育」の要諦

以上のように、「体育」(身体教育)の用語のもつ問題が認識できたが、しかし体育(教育)を スポ‑ツ教育に置き換えるためには、スポーツ教育の用語を用いることの一層積極的な理由が提 示されなければならないであろうo

<社会変化とスポーツ>

最も大きな理由は、これからの体育のあり方が、現在及び未来社会を展望して、スポーツと教 育の新しい関係の中で構想される必要があるということである。これまでの体育は、産業社会の 維持・発展のための手段として位置づき、そこでは何よりも社会に実用的な成果が追求されてき た。戦前には体操が、戦後はスポーツが、それぞれの社会が必要とした人間(身体や人格)を形 成するための手段として位置づけられてきた:,そこではスポ‑ツの「必要充足機能」(外在的価 値)にのみ着目され、スポーツの「欲求充足機能」(内在的価値)が正当に評価されてきたわけ ではなかった。また、学卒後の人々の生活においても、スポーツを日常生活において享受できる ような暇もゆとりもなかったといわなければならないoスポーツは青少年期の修練の道具であり、

あるいは一部特権的な人達の楽しみごとでしかなかった。しかしながら、現代の急激な社会変化 は人々のスポーツ‑の要求を著しく拡大させ、これらの要求に積極的に対応していくことが体育 の重大な課題になってきた。

すなわち、科学技術文明を基礎として、高度な情報化社会・産業化社会が現出し、国民の賃金

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所得は増大するとともに、物質面での生活は豊かになった。さらに労働時間の短縮や休日の増加 がレジャー時代の到来を告げた。自由時間の増大と所得の安定は、人々が文化的欲求を解放する ための基本的条件であり、人々の生活態度においても、 「仕事中心」から「仕事もレジャーも大 切である」という考え方が一般的になった。同様に、工業化社会から脱工業化社会への脱皮が指 標とされる社会において、人々の関心は、生活の量的豊かさから生活の質(quality of life)の 充実に向けられ、人々の文化的欲求は著しく拡大し、スポーツもまた生活に意味深い経験をもた らす国有の文化的活動としての位置を確保するようになってきたといえるであろう。これらすべ ての条件は、人々がスポーツを享受することのできる可能性を高めているといえるのであり、そ の可能性は今後一層拡大するものと予想される。

他方、現代の急激な社会変化は、さまざまなかたちで人々の生活の安寧を脅かしている。高度 に発達した産業社会においては、労働の全体的・人間的意味が失われ、人間疎外が深刻になって いる。くわえて、人間の生活活動は総じて情動と知能(感性と理性)、肉体と精神(手と頭)、

具体と抽象といったかたちで分裂を余儀なくされている。一言でいえば「実存的二分性」 (exis‑

tencial dichotomy)が進行している。この時代において、人々は何によって人間としての全体性 を維持し、自己の生を意味づけていくかという深刻な問題に直面している。また、豊かな物質文 明は生活のあらゆる領域での合理化と潤沢な栄養を生み出したが、そのなかで人々は運動不足と 栄養過多に陥り、成人病は現代の「疫病」とまでいわれるようになった。くわえて、産業化社会 のもとでコミュニティにおける人間的交流が弱まり、人間のアトム化が進行しているといわれる。

これらいずれもが、現代社会が産出したマイナスのファクターであり、これらの諸要因と関連し て人々の生活におけるスポーツ参加の必要性が一段と高まっているのである。

このようにスポーツを享受できる可能性と必要性という二つの条件が交結する中で、スポーツ に対する新しい社会的需要がふくれあがっている。ユネスコのP.Langrandが、いみじくも「ス ポーツは、一部選手に占有されてきたその粋を越えて、普遍的な文化として一般市民に普及して いる。今やスポーツ活動は一生を通じてほんの短期間において行われるという考え方をすてなけ ればならない。スポーツを単なる筋肉運動ととらえたり、他の文化から独立させてとらえたりす ることは意味のないことであり、生涯教育全体のなかに統合されなければならない」(16)と語っ ているように、スポーツは生涯において享受されるべき文化活動として認識されるようになったO そこから世界的規模で「みんなのスポ‑ツ」 (sports forall)が展開され、スポーツを人権とし て確立しようとする運動も高まっている。

スポーツをすべての人々に解放するためには、社会的な施策としてスポーツ施設を増設したり、

すでにある公共施設を開放していくことが必要とされるが、同時に、スポーツを享受していくこ とのできる主体をどのように育成するかということが重要な教育課題になる。この点で、従来の 体育は、健康や体力づくりに関心があったとしても、スポーツの生活化や永続化ということには 極めて不十分な姿勢を持ってきたといわなければならない。スポーツ教育は、以上のような現代 社会の新しいスポーツ需要に積極的に対応していこうとするものであり、そのような意図をその 名称のうちに明確に表示しようとするのである。

因みに、西ドイツは1970年代初頭に「体育」科から「スポーツ」科へのカリキュラムの転換を 図ったが、その背景に、 1960年代の「スポーツのゴールデンプラン」や「第二の道」運動の進展 があり、カリキュラム転換は、それらの国民スポーツ運動に対応するものであった。事実、この 改革は、 「生徒が喜びをもって自発的にスポーツに参加し、スポーツを一生の生活の中に取り入

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れ、実践させる」(17)(蝣学習指導要領、1972)ために行なわれたといわれ、名称変更についても、

「スポーツ」を用いることによって、「社会的・文化的現象としてのスポーツと教科の関係を強 調し、教授学的概念の結果として生み出された身体的発達の教育的準備という意味あいを少なく したい」(18)(スポーツ科学辞典)と説明されている。スポーツ教育は、からだの教育という偏狭 なイメージを払拭し、国民の文化的活動としてのスポーツと教科指導との関連性を強調し、また 同一化をめざそうとするものである。

<スポーツの語義変化>

スポーツ教育の名称が選択されるもう一つの理由として、「スポーツ」の語義変化の認識があ る。「スポーツ」という用語には特有の歴史的・社会的な意味内容が含まれており、現在でもジ レ流(19)の狭義のスポーツ概念(競技スポーツ)は生きつづけている。しかしながら、他方、社会 変化と人々の運動需要の拡大に伴って、スポーツの理解のしかたに大きな変化が生じてきたこと も確かなことである。

再び、丁スポーツ教育」が公的に用いられている西ドイツの場合をみてみよう。体育術語の体 系化に尽力してきたH.Bernettは種々の体育用語の使われ方は歴史的に変化し、「ヤーンの時 代には、トウルネンが今日でいう身体運動(Leibesiibungen)の上位概念として用いられたが、

現代の用語使用においては、スポーツ活動(sportlicheBetえtigung)の名のもとに、プレイ、ト ゥルネン、スポーツ的プレイとしての体操、競技としての体操も含まれ、さらにそれらの活動は 上位概念である『スポーツ』(Sport)の下位に位置づけるようだ」(20)と分析している。同様に、

H.Meuselもまた、スポーツ概念を「余暇活動、レクリェーション、作業能力の保持・増進を目 的とし、遊戯的あるいは競技的な態度で行われるような運動諸活動(motorischeActivitaten) の総体」(21)と規定している。そこでは、従来の競技スポーツあるいは組織的スポーツはもとよ り、非公式的なスポーツ(lnformellerSport)も含まれるのである。

しかも、そのようなスポーツの概念把握のしかたは世界に共通するものとなってきている。そ のことは、ヨーロッパ・スポーツ所管大臣会議が採択した「ヨーロッパ"みんなのためのスポー ゾ'憲章勧告草案」く22)(1975)における「スポーツ」の理解のしかたからも窺える。そこでは、

①競争的なゲームおよびスポーツ(competitivegamesandsports)②野外活動(outdoorpur‑

suits)④美的運動(aetheticmovement)④調整活動(conditioningactivity)の4つのカテゴ リーの身体運動がスポーツに包摂されているO同様の傾向は、わが国でも次第に定着したものと なっている。竹之下は、そのような変化の現象を分析して次のように述べている。

それは、「スポーツのほうから変わったわけではなく、スポーツがその中で行われる社会ない し社会生活のほうがかわり、この社会変化に応じてスポーツの機能が変わったのである」。「スポ ーツということばは、人びとが自発的に行うすべての運動を包含することばとして使われるよう になり」、機能的には「人びとは楽しみのために運動するだけでなく、からだのために運動する ようになり、しかも楽しみとからだのためを兼ねて運動する人が大きな割合を占めるようになっ た。スポーツは人の生きるという問題と結びつけて考えられるようになり、そのような運動をす べてスポーツに含めるようになった」(23)

以上のように、スポーツはさまざまの身体活動を包摂する上位概念として理解されるようにな ったのであり、またこのような理解の上にたってはじめて「みんなのスポーツ」が提唱されうる し、「スポーツ教育」の主張も可能となるo

しかしながら、スポーツ教育の用語を用いることに問題がないわけではないOすなわち、「スポ

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‑ツ」の概念には、プロ・スポーツ、勝利のみを志向するチャンピオン・スポーツ、営利を目的 とする商業スポーツ、スポーツタレントの早期訓練、ショー・スポーツ等々、教育学的視点から みて好ましくない一連のスポーツ事象が含まれてしまうため、この概念の通用に批判的な人達も 少なくない。確かに、スポーツの用語は、それ自体で教育的意図を担うものではなく、非教育的 要素を含みもっていることが認められる。しかし、この問題についても、K.Widmerが主張す るように、他の教育分野においてあらかじめ教育的意図を担った名称が与えられたものは一切存 在しないという事実を確認しておかなければならない。試みに、「数学を工業技術に応用するこ とによって原子爆弾がつくられるからといって、数学教育という名称に反対する人があるだろう か」(24)

ともあれ、スポーツ教育は、体育(身体教育)に比して一層包括的な用語であり、その用語のう ちに「青少年をスポーツ活動に促し、スポーツ活動の能力を得させようとする教育的努力のすべ てを包摂している」(K.Widmer)(25)といえるo同様に、スポーツ教育の用語は、人間の身体発 逮‑の意図をあからさまに表現しないが、おのずからその意図を暗示している(H.Bernett)(2‑6) と考えるべきであろう。くわえて、スポーツ教育は、新しい時代社会のスポーツ需要に対応しよ うとする意図を明確に表示しているといえよう。

2.スポーツ教育の基本的性格

スポーツ教育は、スポーツをすべての人々に解放しようとするのであり、端的には「スポーツ の行為能力」(HandlungsfahigkeitimSport)127)の向上をめざすものであるといってよい。その 前提には、スポーツが子ども達の発達に稗益するだけでなく、現代社会に生きる人々が「健康で 文化的な生活」を営むうえでスポーツ‑の参加が不可欠な要件であり、スポーツそれ自体が人間 的で、文化的な価値を有しているという基本認識がある。

このような前提に立つならば、スポ‑ツ教育の教育的可能性や役割は、スポーツに生来的に備 わった特性や機能を問いなおす中で明らかにされなければならないであろう。ここでは、スボー ッの教育的可能性を①スポーツのプレイとしての特性、④スポーツの運動としての特性、⑨スポ ーツの科学的特性の三つの側面から明らかにし、これらに関連してスポーツ教育の備えるべき基 本的性格を導き出すことにしたい。

1)スポーツ(プレイ)の内在的価値への関心‑スポーツの中の教育‑

これまでの体育においては、スポーツはそれに外在的な価値(教育の一般目標)を達成する手 段として原義づけられてきた。しかし、スポ‑ツ教育は、スポーツをその内在的価値(intrinsic value)にかかわって意義づけようとする。確かにスポーツは何かのために役立つ手段的価値を あわせもっており、そのことを無視するわけにはいかないが、スポーツ教育は何よりもスポーツそ れ自体が本来備えている内在的価値を評価し、スポーツを自己正当なものとしてカリキュラムに 位置づけようとする。そのことが子ども達のスポ‑ツへの欲求を充足させ、スポーツへの愛好的 態度をもっともよく育てあげると考えられるためである。このような立場は、「身体の教育」(28) (educationofphysical)でもなく、「運動による教育」(educationthroughphysicalactivities) でもなく、「スポーツの中の教育」(educationinsport)として概念化できる。

しかしながら、このような立場を主張する前提として、まずスポーツの内在的価値とは何かが 問題になるし、またその人問的意義や教育的価値が明らかにされなければならない。

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<スポーツ(プレイ)の内在的価値>

スポーツは、何よりも「プレイ」の種(species)に属するものである。およそ文化とは、歴史 的にみれば、生命体としての人間が労働生産を中心とする欲求追求の過程において獲得してきた 諸能力を、その必要性から解放された「非効用」の世界(広義のプレイの世界)の中で自立的に 展開してきたところに成立したものである(29)と概括できる。スポーツもまた、生活全体の欲求追 求(労働、軍事、祭礼)の中で獲得された身体的諸能力が、その実用性から解放され、身体的プ レイとして自立的に展開してきた文化であり、それらが洗練され、現象的には諸々の形態のスポ ーツに組織化されてきたのである。

また、スポ‑ツをそれに参加する個人の「意味」の次元から眺めてみても、スポーツの中で生 み出される具体的な意味とは、その活動がプレイフルであるということに他ならない。その活動 がプレイフルでなくなれば、スポーツの全体的意味は失われ、スポーツはたんなる肉体的労作に 帰してしまう。プレイは「面白さ」「楽しさ」を求めて追求する活動であるといわれるが(J・

Huizinga)、スポーツはその一つの典型的な活動であり、プレイの制度化された文化的形態に他 ならない。われわれは、プレイの特性に切り結んでスポーツに「意味」を取りつけるのである。

そして、スポーツが他のプレイの文化的形態(音楽、美術、ドラマ等々)と区別されるのは、そ れが「表現的・競争的な運動」(30)(expressiveand/orcompetitivemotoractivities)という特性 を具備している点においてである。

さて、プレイの人間的意義については、多くの研究者によって、またさまざまの方法論によっ て追求されてきた。しかし重要なことは、ホイジンガ以降のプレイ論において、プレイが人間の 生活に欠くことのできない根源的な生命現象であり、人間の一つの基本的な行動様式(abasic

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modeofbehavior)として捉えられるようになったということである。あそびはまじめに対立す るものではなく、人間の生活における「虚構の営み」でもなくなった。同時に、あそびが「非生 産的活動」として否定されることもないO経済的非生産性と人間のトータルな生活における非生 産性とを同一視することはできないのである。プレイは、実存的存在としての人間に現実的で、

生産的な「意味のある経験」(meaningfulexperience)を生み出す活動として理解されるように なった。しかし、プレイにおいて獲得される「意味のある経験」とは、つとめて個性的かつ全体 論的であるため、容易に言語化しえない側面をもっているが、それはA.Maslowが「自己実現 しつつある人間の至高の経験」といい、b.Wenkartが「実存的存在としての人間の活された経 験」といい、また体育研究者E.Methenyが「非人格的宇宙の中で一つの意義のある存在とし て自己認識させるような経験」として語っていることがらに通じている(31)

スポーツ場面にひきよせて考えてみると、われわれは「達成(成功)と不達成(失敗)」、「勝 利と敗北」、「競争と協同」、「承認と非承認」、「身心の合一と分離」、「環界と自己との合一あるい は分離」、「企画性と偶然性」、「身体的な解放感と苦痛」等々さまざまな様相をもつ経験の中に

「意味」を取りつけていることがわかる。われわれは、これらの個々の経験の中で、またそれら の復合された経験の中で、スポーツの意味を発見するのである。

このように考えてくると、スポーツの内在的価値とは、結局、スポーツがプレイの特性に関わ って備えている「意味を生み出す可能性」(meaning‑makingpotentials)(32)にあると要約でき るであろう。

<プレイの教育的価値>

このようなプレイの人間的意義の視点からスポーツの教育的価値を評価する者は少なくない。

(10)

例えば、P.Philipsはそのことを次のように論じている。

「スポーツ、ダンス、芸術、文化、音楽のような制度は、人間に特殊な観念(idea)を表現す る機会を与える。スポーツやダンスは他のいかなる方法によってもなしえない人間の諸次元 に到達させる。人間の内には、象徴的言語(symboliclanguage一概念や感情を伝達するため に用いられる多様な表現形態)によって到達でき、満足できるような深慮が存在する」。「象徴的 言語としてのスポーツが人間であることの一つの独自な方法を提供し、真正の感情(feelingsof authenticity)を生み出す機会を与えるとすれば、スポーツは文化の中で正当な位置を得るOさ らに、教育が『人間であるとは何か』ということの全体的知識を子どもたちに与える機会を用意 することとして捉えられるなら、スポ‑ツは教育のカリキュラムに不可欠な要素となる」(33)

プレイが人間の生活にとって欠くことの出来ない行動様式であり、人間に固有の「意味のある 経験」をもたらす可能性をもっているという前提を受けいれるとき、くわえて余暇時間の増大と そこでの生活の実現が重大な社会的課題になってきたことを考えあわせるとき、プレイの教育的 価値は決して小さなものではあるまい。

そのことは現代の「人間中心の教育」(humanisticeducation)の考え方からも意義づけられ る。人間中心の教育の立場は、将来的、長期的な「成果」という視点からではなく、教育の過程 そのものの質をヒューマニズムの視点から問うのであり、特に諸文化に内在する価値にふれさせ る経験それ自体を評価する。例えば、R.Petersは、教育を「価値のある活動や価値のある行動 様式にイニシエイトすること」(34)と規定しており、またP.Heupnerは、教育者の課題を「価値 のある知識が獲得しやすくなるような環境を計画すること」(35)として捉えている。両者に共通 して、教育経験によって与えられるべき「成果」をあらかじめ決定することに反駁するのであり、

生徒達に直接満足でき、内在的に価値のある活動そのものにふれさせることの意義を強調してい るのであるoこのような教育の価値認識に立脚すれば、体育(スポーツ教育)においても、スポ

‑ツの「効果」や「成果」を問うことによってではなく、スポーツ‑の「意味のある参加」や

「意味のある経験」に基づいて意義づけることが可能になる。

しかしながら、プレイが教育の対象として位置づくためには、さらにプレイが学習を必要とす ること‑の確証が与えられなければならない。かってプレイは人間の生物的本能に基づいて行な われると説明されてきた。ところが、現代の都市文明や受験競争による抑圧のもとで、子どもの

「あそぴの文化」は衰退し、子どもの遊戯欲求すら退行させているという状況がある。遊戯欲求 は、食べる、寝るなどの生理的欲求とは位層の異なる文化的欲求に位置づくといわれているが、

とりわけ現代の劣悪な社会環境のもとで、子ども達の遊戯欲求は極めて脆弱であるため、何より もまず子どもの健全なプレイは社会によって守られ、奨励されなければならないであろう。した がってまた、これを学習する機会が社会的に保障されなければならないであろう。

いっそう重要なことは、プレイは本来的に学習を要件とするということである。R.Caillois(36) が指摘したように、プレイは子どもの喧騒と混乱の中で楽しまれるあそび(パイディア)から複 雑に制度化されたあそび(ルドゥス)‑の発展系列をもち、ルドゥスに発展するにつれて次第に 多くの技能、知識、努力、発明の才が要求されるOプレイは偶然に発達するものではなく、また 特殊な遺伝的特性に帰すことができるものでもない。プレイは発達するのであり、制度化された プレイは学習を不可欠な要件とするのである。L.Lockeはそのことを次のように述べている。

「一般的にみて、スポーツは制度化されたプレイであり、したがってスポーツは確かにそれ自 体で制度化された学習としての認可証をもっている。プレイヤーは、スポーツの『中で』教育さ

(11)

れるのである。そのことは、第一に、スポーツの技術的遺産を構成するスキルの獲得という慎重 な意味でそうであり、第二に、プレイヤーに要求される規範、役割、伝統的儀式形式、そして道 徳的価値にむけての社会化といった幅広い、しかし重要な意味でそうである」。「スボ‑ツは道具 でも、手段でも、媒介でもない。したがって、教育成果について問いかけることは適切なことで はない。スポーツは深遠な意味で人間的経験である。」(37)

確かに、スポーツ(文化)を構成する技術、戦術、社会的行動(ルール、マナー)、そして様

々の知識は学習されるべきものであり、これらの内面化を図ることによってスポーツ活動から得 られる「意味」はいっそう深まっていくのである。

<スポーツの中の教育>

以上、スポーツの内在的価値をプレイの特性から理解し、スポーツの自己正当的な教育的価値 について論じてきた。スポーツはプレイという特性にかかわって意味形成の可能性をもっており またそれ自体が学習されるべき価値のある文化的内容(技術、社会的行動、知識など)を備えて いる。したがって、スポーツを何かの手段として意義づける必要はない。逆にスポーツが何かの ための手段として位置づけられれば、スポーツ(プレイ)に備わった意味形成の可能性は失われ てしまうであろう。スポーツ教育は、まさに「スポーツの中の教育」として概念化できるので り、そこでは、何よりもスポーツの意味形成の可能性を子どもたちに最大限に与えていくという 視点から、教育の内容や方法を考えていくことが必要になる(38)

。具体的には、それぞれのスポー

ツの特性とは何か。その特性にふれさせる学習のすすめ方はどのようでなければならないか、こ れらを問いつめることが重要なテーマにされるべきであろう。このような方法論的な論議は他に 譲らなければならないが、いずれにせよ、子ども達は、スポーツの学習の中で得られる意味のあ る経験を集積していくことによってスポーツ‑の愛好的態度を強化し、さらにスポーツへの主体 的立場を築き上げる一つの重要な原動力を得ることになる。

2)スポーツ(運動)の機能的特性への関心‑スポーツ(=よる教育の位置‑

スポーツが他の文化的形態をもつプレイと区別されるのは、スポーツが表現的・競争的な「運 動」としての特性を備えているところにあった。そして、スポーツが人間の運動(menschliche Bewegung)として現象するところから、スポーツは、たんなるプレイ一般に帰一させることの できない独自の機能と教育的可能性を保有している。

<人間の運動の意味>

従来の体育において、運動は生理学的な意味での「運動負荷」としてとらえられ、主として筋 力や心・肺機能を増強する手段として意義づけられてきたといえよう。確かに、運動はそのよう な機能をもっており、それが人間の健康に重要な役割を果していることは客観的な事実である。

しかし、運動の機能は多様であり、広くトータルな人間の特性との関係の中で考察することが必 要である。

人間の運動は、人間の特殊な存在様式にかかわって、ひとが人間になる「人間生成」(Mensch‑

werden)(39)に不可欠な働きをもっている。人間の生物学的特性は、「生理的早産」に起因する本 能による環境への不適応性にあるといわれ、人間は「欠陥生物」(40)とも呼ばれる。そのことから、

A.Gehlenは、人間の運動も、生まれつきのものではなく、生まれつきのものは特殊な運動調整 だけである。「生まれつきのものでないとは、積極的にいえば、その運動が発達したもの、しか も経験にしたがって発達したものだということである」。しかも、そのような性質をもった人間 の発達過程は、「生物学的に頼りない生物たる人間が、その期間のうちに、自己と世界とを発見

(12)

と経験と征服のテーマに仕立てる『保護期間』でもある」、(41)と述べている。人間は運動経験を 積み重ね、運動発達を遂げていく中で、自己と世界を拡大していくのであり、言い換えれば、人 間は、運動を通して人間としての多面的な能力を獲得していくということでもある。

このことは、人間の「身体の二重性」に注目するときにも指摘できる。0.Grupeが「人間は身 体を保有するとともに、身体そのものである」(derMenschhabeLeibundseiauchLeib)u2) というように、身体を主体的にとらえるときには「身体保有」(Leib‑Haben)と「身体存在」

(Leib‑Sein)の二重性において把握できる。身体保有とは、自己の身体を経験し、身体を意の ままに使用できる可能性を意味しており、他方、身体存在とは人間と身体の本来的な合一性を示 している。われわれは、自己が身体そのものであると同時に、自己の対象として、自己の意のま まにならない身体を経験するように、この二つの極をもつ身体関係の中で、自己と身体とは分離 したり、一致したりしながら、世界と可塑的・開放的な関係をとりもっているのであるOしたが って、人間の運動は、「たんなる=刺激一反応図式日から導びかれるのではなく、行為の主体ある いは自己と世界との関係から生じるもの」(43)であり、運動は「自己運動」(Selbst‑Bewegung) あるいは「個性的・創造的な達成」(personlichshopferischeLeistung)としての性質をもって いる。

このように、人間の運動は、自己一身体一世界の関係に変化を与えるものとしての意味をもち、

新しい運動の習得は、新しい自己‑世界関係の創造につながり、身体的に自由になることは、そ のまま人間としての自由を拡大することを意味している。端的には、人間の運動は「世界への通 路」(derZugangzuseinerWelt)としての意義を備え、したがって「運動の可能性を妨害する ことは、われわれの世界関係を妨害すること」(44)につながると表現できる。

<スポーツ的運動の教育的可能性>

以上のように人間の運動の意味をとらえるとき、スポーツ的運動の機能にかかわって、重要な 教育的意義が与えられる。

第‑に、運動は、自己一身体一世界関係の経験の拡大と発展を生み出す源泉であり、したがっ て、人間の運動の多面的・総合的な発展形態であるスポーツ的運動の学習は、「ひとが人間にな る」人間生成の過程に不可欠な営みであるといえよう。「スポーツの領域における運動は、自然の あるいは人為的環境の中で、物質的環境や自己の身体についての直接的で、独自の経験を開発す るのであり、それは体験や知覚の限界を拡大させ、認識発達にとって部分的ではあるが決定的な 刺激を与える経験である」(45)

。スポーツ的運動は、他におきかえることのできない独自の一次経

験(Pnmarerfahrung)と基本認識(Grundeinsichten)を与えるものとして、教育的に意義づ けられる。(物質的・身体的経験)

第二に、そのことは、特に「運動発達」「運動形成」という具体的レベルで強調されるべきで あろう。人間は生まれながらにしては運動の自然や自由を保有していない。人間は後天的な学習 によって、運動の「二次自然」「人為的自然」(46)を獲得しなければならない。運動の自然性、優 美さ、リズム、正確さといった運動の質的発達は学習によって習得されるのである。したがって、

子ども達にさまざまな種類の、そしてさまざまな環境条件のスポーツ的運動の学習機会を与え、

それらに対応した豊富な運動モデルを発達させることは教育的に重要なことである。いうまでも なく、そこで獲得された能力が、日常生活運動や労働運動として現実生活に実用的意味をもつこ とはいうまでもない。(運動形成)

しかしながら、プレイの世界で行なわれるスポーツ的運動は、現実生活に有用な運動技能の次

(13)

元を遥かに越えており、身体を対象とした無限の自己投企と達成を求める営み(achievingact) として実践される。不自由な身体、世界に開かれた身体をもつ人間は、生来的に「身体的自由」

‑の強力な願望(欲求)を備えていると考えられるが、そのような願望は、プレイとしてのスポ ーツ的運動によってのみ実現されうるのであるL,(身体的自由の拡大)

第三に、適切に選択され、個人に合うように処方され、規則正しく行われるスポーツ的運動は、

健康や体力を増強し、また社会生活に拡散した運動不足現象に歯止めをかけることができるoし かし、学校の授業による運動刺激だけで健康や体力が十分増強されるという保証はない,したが って、スポーツ教育においては、スポーツとの関係で健康や体力への知識や関心を高め、合理的 な運動実践‑と動機づけたり、これを習慣化することに努力が払われるべきであろうO.Grupe は、「健康が身体運動の本来の意味ではなく、むしろそれは身体運動の一つの動機であるといっ た方が正しい」。そして「そのような動機が、スポーツ教育の排他的な動機になるわけではなく、

身体的たくましさ(korperlicheTdchtigkeit)は『並列的・二次的』な位置にあまんじる」:

「健康動機を押しつけがましく前面に押し出すことは、スポーツからその最適の感覚(戯れの、

天真燭漫で、ゆったりした感覚)を奪いとってしまう。要するに、スポーツ教育は、現在および 将来の生徒の生活、健在(Wohlbefinden)、幸福という視点から理解されなければならない」、(47) と述べているが、この指摘の中に、スポーツ教育とからだの教育との関係がはっきりと示されて いるといえよう。(健康・体力の育成)

第四に、スポーツ的運動(行為)のもつ人格的・社会的な教育機能に注意がむけられるべきで あろう。先ずスポーツ的運動は、特別の方法で「達成」(Leistung)として評価されるようにで きていて、しかもその評価の基準や条件は、たいていの場合、理解しやすく、直接的に意味のあ るものである(例えば、何回できたとか、何メートル跳べたというように)oしたがって、子ど も達にとっては、「他人による自分の行為に対する評価」の経験をもつことになるが、そのこと が彼等の人格の発達に影響しないわけはない。すなわち、スポーツ場面においては、たいていの 場合、成功・不成功、承認・非承認が即時的にフィードバックされるが、そのことは自己の学習 能力や達成能力および社会的評価の経験を特にはっきりさせるOそのため、スポーツは現実的な 能力予期(reahstischerKonnenserwartungen)と適切な自己意識の発達のための格好の修練領 域であるといえよう(48)

。しかしながら、この教育的可能性がスポーツ場面において自動的に生

じるわけではなく、適切な課題設定や生徒個々人の能力や限界を考慮した授業の構成が必要とさ れるということはいうまでもない。(自己意識の形成)

同様に、ルールに支配されたスポーツ的運動が、さまざまの個人的.社会的態度(フェアー、

自己信頼、自発性、克己、規律、協力)の陶冶に関与することも認めなければならない。しかし、

スポーツ本来の任務としてこの社会的・個人的な陶冶課題を打ち出そうとしているわけではない。

再び、O.Grupeが「このモチーフは、スポーツ教育と他の陶冶債域とが共有するものであり、

‑‑スポーツがそのような美徳のために調整されることを意味しない。そうではなく、スポーツ の中には、そのような個人的・社会的要因が構成要素として含まれており、それは容易に経験さ れるものである」(49)というように、スポーツの一つの機能として承認を与えようというのであ る。(社会性の形成)

<スポーツによる教育の位置づけ>

以上、スポーツの生来的な機能に関わって多くの教育的可能性のあることが理解された。いう までもなく、それらの可能性は、スポーツの教育において自動的に実現されるものではなく、方

(14)

法論的に検討されなければならない問題が多数存在するO しかし、スポーツ教育は、これらの教 育成果を追求しつづけるべきであろうし、 「スポーツによる教育」の側面を無視するわけにはい かない。

しかしながら、ここで再び強調しておきたいことは、スポーツに外在的な教育的価値を実現す るために、スポーツ本来の特性を変質させてしまってはならないということである。スポーツは その内在的価値にもとづいて評価できるのであり、スポーツの技術・社会的行動、知識の学習そ のものを意義づけるところにスポーツ教育の基本的特質があった。したがって、スポーツ教育に おいては、スポーツを目的的に学習する結果として、スポーツの機能である多面的な教育的可能 性が子ども達に実現されうるように、計画し、指導していくことが大切であろう。換言すれば、

スポーツ教育は「スポーツの中の教育」として概念化できるのであり、 「スポーツの中の教育」

の営みの中に、 「スポーツによる教育」の機能を包摂させていこうとする立場をとるのである。

イギリスのP. Arnold も、 「運動の中の教育」 (education in movement)の概念を強調する 一人であるが、彼は「運動の中の教育」の結果として多くの教育成果が生み出される可能性を具 体的に示しつつも、しかしそれらの成果は「多少パラドキシカルではあるが、 ‑‑・意識化された 目標として公式化されるのではなく、活動の自然の結果として生じるものである」(50)と指摘して いる点は注目されるOそのような考え方は、わが国の「楽しい体育」論にも共通するものであり、

この立場を代表する佐伯は、 「健康危機と運動不足‑の対応という新しい必要の充足もレジャー における自発的で継続的な運動実践に依らなければならなくなった。つまり、現代の運動需要は 人間に対して持っている二つの運動の意味、必要の充足と欲求の充足を、欲求充足が必要の充足 を吸収することで統合化する性格を持っている」(51)と述べている。スポーツ教育はこれらの考 え方に共通するものである,,スポーツ教育は、 「スポーツの中の教育」の結果として「スポーツ による教育」の成果を期待するのであるO少なくとも、スポーツをすべての人々に解放すること をめざし、 「スポーツの行為能力」の育成を中心的課題に設定しようとする場合には、そのよう な考え方が支持されるであろう。

3)スポーツの科学的知識への関心‑スポーツについての教育‑

スポーツの専門科学的研究の発展に伴って教育実践に有用な多くの知識が生み出されている。

スポーツの科学的研究はそれ自体価値のあるものであるが、それはまた、スポーツ教育のカリキ ュラム計画に有効な知識を提供するとともに、学習内容としても取りあげるべき有用性をもって いる。つまり、スポーツ教育は、 「スポーツについての教育」 (education about sport)を不可欠 な要件とするのである。

第‑に、これまで述べてきた「スポ‑ツの中の教育」や「スポーツによる教育」が、スポーツ の科学的知識の学習によって合理的に進められることは言うまでもない。従来のドリルやトレー ニングに支配された「やらせる」体育の批判の上にたって、運動学習における「できる」と「わ かる」との統一をめざす科学的実践が求められているが、(52)科学的知識の実践的適用は、運動 をわかり易く、意味のあるものにするための基礎を提供するo くわえて、子ども達が運動を分析 したり、批判・評価する力量を身につけていくことは、子ども達の「スポーツの行為能力」の全 体的育成に不可欠な側面であるといえよう。

また、スポーツ(運動)の生理的・心理的機能についての知識を得ることは、スポーツの健全 かつ合理的な実践に不可欠であり、さらにそれらは、スポーツ(運動)の必要性の認識を高めた

り、スポーツ参加への自覚的な態度形成に寄与すると考えられる。特に体力つくりの生理学的原

(15)

理や合理的なトレーニング法についての教育は、現代社会において重要な意義を有している。

一方、スポーツによる人格形成という場合にも、それはスポーツ実践によって自動的に生み出 されるわけではなく、科学的知識を媒体にして人格化されていくと考えられる。例えば、スボー ッマンシップやフェアプレーのようなモラルにしても、現実社会の自由、平等、正義といった概 念に関連するのであり、このことが関連領域の知識(社会科学)との対応の中で学習されるなら ば、現実に機能する社会的態度にもなりえよう(53)

。要するに、「スポーツによる教育」は知識に

裏付けられた教育内容と方法によってのみ達成されるといっても過言ではない。

第二に、「スポーツについての教育」は、近代スポーツ「文化」の限界の克服をテーマとして位 置づけられるべきであろう。すなわち、現実のスポーツ文化(組織体制・施設・ルール・技術・

マナー・イデオロギー等)は、かならずLもだれでもが参加し、楽しめるような条件を整えてい るとはいえない。もしスポーツ教育の成果として、子ども達がスポーツへの愛好的態度を高め、

スポーツの技能や社会的行動様式を身につけたとしても、学卒後の生活の中で日常的なスポ‑ツ 参加を保証する条件が整っているわけではない。くわえて、スポーツへの参加が、スポーツによ る疎外を生み出すような現象もしばしばみられる。近代スポーツには、それを創出し、発展させ た人達(ブルジョアジー)の「思想と行動」の論理(自由競争、能力主義、優勝劣敗の原理)を 反映させており、(54)したがって体育の授業の中においても、スポーツの「意味のある経験」を 享受するどころか、苦悩を強いられ、スポーツへの回避傾向を高める子どもも少なくない。この ような問題をしかたのないものとして容認するならば、すべての人々にスポーツの解放をめざす

「スポーツ教育」の意図は名目だけのことになってしまう。

中村が指摘するように、「スポーツ教育は、スポーツ自らを批判的に克服しようとする論理と 行動の教育をその本質とするものでなければならない。換言すれば、スポーツ教育は自らを積極 的に批判の対象として設定することによって、新しい価値を創出する歴史的意義と社会的存在理 由を発見できる」(55)

。新しいスポーツのあり方を現時点で明確に描き出すことは誰にもできない

が、それはスポーツ文化(技術、ルール、組織体制、イデオロギー)に内在する矛盾を子ども達 が理解し、討議し、解決していく学習そのものが意義をもつといえるであろう。そこでは、スポ ーツ文化の総合的な理論学習、とりわけ社会科学的な理論学習が必要とされるであろう。

このようなスポーツの知識学習は、他の学習次元(スポーツの中の教育、スポーツによる教 育)と関連して、運動実践の中に融合して行なわれるべきであるが、くわえて特に中等教育段階 においては、独立したテーマあるいはプロジェクトとして「理論学習」が位置づけられるべきで あろうLl

おわりに

1970年を前後したドイツ語圏での名称変更に刺激を受けて、わが国においても「スポーツ教育」

をめぐる論議が始まったが、いまだその用語を用いる論拠やその基本的性格が明らかにされてい るわけではない。本研究は、「体育」にかえて「スポーツ教育」を用いることの妥当性を求めよ うとするとともに、スポーツ教育が備えるべき基本的性格について一つの試論を提示しようとし た。

まず、名称問題については、「体育」の用語のもつ問題が認識されなければならない。すなわ ち、第一に、体育は元来「身体教育」を意味しており、この用語の二元論的意味あいが問題にな

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