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ヨシフ ・ヴ イツサ リオノヴ イチ ・ ジュガシヴ イリ
‑ 誕 生 か ら戦 争 直 前 まで ‑
倉 田 稔
は じめ に
スター リン。 この背 の低 い男 は,支配 した土地 と国の広 さで言 えば,世界 の人類史上最大 の人物 になった。過去 の歴史上 の 「英雄」 として, ア レクサ ンダー大王, シーザー, ジンギスカ ン,ナポ レオ ン, ヒ トラーが挙 げ られ よ う。 しか し彼 は これ ら英雄 の何倍 も広 い領土 を支配 し, その世界 的影響力 は 彼 らの何層倍 も大 きか った。 また, ロシア史上最大 の帝国 を創 った女帝エカ チェ リーナ二世 のそれ を軽 く凌 駕 した。彼の支配 は地球 の全陸地 の半分 を占 め, その上,残 りの半分 の地球 には彼 の影響 を受 けた強力 な集 団がいた。 さ きに挙 げた英雄 たちを全部束 にして,や っ とこの小男 に匹敵 す る。
この人物 は日本 の隣国 ・ソ連邦 の原型 を造 り上 げた。 そ してノーメ ンクラ トゥー ラ (かつての社会主義諸 国の支配階級)の父で ある。 その政治 は現代 の思想 に決定的影響 を与 えた。彼 は人類 の到達 した最 も完全 で強力 な専制政 治 ・独裁 を実現 した。歴史上 これ を上回 る もの はなか った し,今後 もないで
あろう。
彼 の時代 の資料 は, ソ連で ほ とん ど公表 されていない し, とて も公表 はは ばか るものばか りである。 だか ら彼 を十分措 ききれない。だが それ に もかか わ らず彼 の輪郭 は分 か る。「事実 は小説 よ りも奇 な り」と言われ る。 ドス トエ
フスキー さえ も措 けない世界 が それであった。
目 次
はじめに
第一章 無名の人 第一節 女の望み
第二節 神に見離 された青年 第三節 監獄へ
第四節 初 めの結婚
第五節 ポルシェヴィキの誕生 第六節 1905年の革命
第七節 現金強奪 第八節 革命の山賊 第九節 出世 の糸 口
第十節 脱獄の名人 ? スパイ ? 第 一 章 無 名 の 人
第一第 女の望 み
「神様 .′」
ケ ト(1)は,生 まれた男 の子 を初 めて見 て, こうつぶや いた。
子供 は,足 の指 が二本 くっついていて,不具 だ った。 ケ トの心 は痛 んだ。
信心深 い彼女 は,神様 の思召 しだ と思 う。 しか しそれ は神 のせ いで はなか っ た。
一八七九年一二 月二一 日に生 まれた この赤 ん坊 は, イエ ス ・キ リス トの父 と同 じ くヨシフ と名付 け られた。 ロシアで はあ りふれた名前 で あ る。
どこにで もあ る平凡 な名前 の この人物 は,実際 には平凡 にはな らなか った。
先 ず,身体 と同 じ く精神 的 に も性格 的 に も異常 な政治家 とな り, その特異 さ と怪物性 は今 もって十分解 明で きない ままであ る。
ヨシフは子供 の時,愛称 で ソソ と呼 ばれた。七歳 の時,天然痘 にかか って
(1)この女の愛称 をケケとする説 もある。
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あばた面 になった。一八世紀 にヴォルテールが 「コ‑カサスで さえ種痘があ る」 (『哲学書簡』)と言って フランスを批判 したに もかかわ らず, である。グ ル ジアで は種痘 をしていなか った。 こうして後 に政権 を とった ソソは,一部 の民衆 にあだ名で秘 かに呼 ばれ ることになった。「あばた」である。 写真 で小 さ く写 る時 は分 か らないが,大 き く写 る ときは, あばたが はっき り分 か って しまう。 そ こで ソソは必ず写真 を修正 させた。
その後,少年の彼 は左腕 にで きものが出来,敗血症 にな り,危 う く死 ぬ と ころであった。 そのため左腕 が曲が らな くな り, その発育がお そ くなって, しなびていった。左腕 は右腕 よ り短 くなった。 そのため ソソは,肉体 的劣等 感 を一生持 ち続 けた。仲間 と相撲 を とって も勝 つ ことは少なか った。後年政 治局 の会議 でいつ も左手 に厚 い手袋 をはめていたo リューマチにかか ったか
らとい う理 由であった。だが もちろん違 う理 由で ある。
フランシス ・ベー コンはかつて書 いた。 [身体 的欠陥がある人 の一般 的習 性 は,]「彼 らの中 に熱意 を, そ して とくに,少 しで も報復す るた めに,他人 の弱点 を注視 し観察 しようとい うた ぐいの熱意 を,か きたて る。」(『ェセ‑』)
これ は一般的 には正 し くないが, ソソにかん して は当た っていた。
ソソは,背が低 か ったので, それ を気 に してお り,成人 してか らはなるべ く厚底 の長靴 を履 いた。政権 を取 ってか らは肖像 は背が高い ように描 かせ, 写真 は ‑ 日本 の ファシス ト芸術家 ・三島由起夫 と同 じ く‑ 必ず下か ら 撮 らせた。 それ を怠 った人 は命 を失 った。
未来の大元帥 ・支配者 の人物 の父親 は, なぜか ほ とん ど全 く知 られていな い。 この大歴史的人物 には多数 の伝記が書かれたのに,名誉 あるこの人 の父 はなぜ詳 し く分 か らないのか。彼 の経歴 の少 しで もよい部分 は大袈裟 に誉 め あげ,悪 い ところはねつ造 して讃 え,他人 の成果 を彼 の物 に してい るほ どの 伝記で, なぜ彼 の父が無視 され るのか。 よほ ど異合 いの悪 い ことで もないか ぎ り考 え られない。公式 には,ソソの父 はヴ イツサ リオ ン・イ ワノヴ ィッチ・
ジュガ シヴィ リとい う。
しか し当時 の グル ジアの人 々の話 に よれ ば, ソソの父 は彼 で はな くて,
ツ ァー リ (ロシア皇帝)の有力 な役人 であった。(2)この人物 が若 い召使 女 と情 事 を起 こして しまった。 その女性 がエ カチ ェ リーナ・ゲオル ギェ ブナ・ゲ ラ ッ
ゼ といい, ソソの母 になる人 で ある。
浮気 の結果 を もう隠せ な くな り,彼女 のた めに夫 が見 つ け られた。 それが テ フ リス県 デ ィデ ィ ・リロ村 の ヴ イツサ リオ ンで あった。彼 のた めに靴 屋 の 店が買われ,彼 は彼女 と結婚 した。 グル ジアの活動家 メナブデ に よる と, こ の店 にはいい職人 が四〇人 もいた ‑ 家屋 の規模 か ら言 うと,それ ほ どいた
とは考 え られ ない ‑ 。それ に もかかわ らず, この店主 は酒飲 み にな り,酒 の上 の喧嘩 でま もな く殺 された。
ジュガ シヴ イ リ家 は評判 が悪か った。 ソソは, 自分 の出生 を一生涯重荷 に 感 じていた。彼 は後年,母 を人前 で 「老 いた売春婦」 と呼 んで侮 辱 した こ と
が,少 な くとも二 回 はある。
普通 に語 られてい るソソの父 と母 は, こうで あ る。
ヴ ィッサ リオ ン ・ジュガ シヴ イ リは, デ ィデ ィ ・リロ村 か ら,人 口六千人 の田舎 っぽい小 さな町 ゴー リに出て きた靴職人 で あった。彼 はエ カチ ェ リー ナ と結婚 した。彼女 は当時 のグル ジアの普通 の女 の ように,一五歳 で結婚 し
た 。
ヴ ィッサ リオ ンは, ソソが生 まれ る頃,靴 を作 り売 っていた。 しか し飲 ん 兵衛 の彼 の働 き と収入で は,家計 の役 に立 たなか った。 す ぐ酒 (ウォ トカ) に消 えて しまうので あ る。 彼 は生活 のた めにテ フ リスの靴工場 に働 きに行 っ た ことが あ る。 だが そ こで も家族 に仕送 りがで きなか ったので止 めて しまっ た。
エ カチ ェ リーナ は, ソソを産 む前 にすで に三人 の子供 を産 んでいた。 しか し皆,幼児 の時 に死 なせ て しまった。
父が靴工場 に働 きに行 った り,(3)母 が ソソの前 に三人子供 を産 んだ こ とが
(2)AntonAntonov‑Ovseyenko,TheTz'meofStalin.N.Y.1980
(3)かつて社会主義国では,活動家の経歴で,その人 を労働者の子 とすることは,
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あ る とい うの は,初 めの説 と矛盾 す る。
ロシア には, 「靴屋 の ように酒 を飲 む」とい う言 い方が ある。 ヴ ィッサ リオ ンは, その靴屋 なので あった。大酒飲 みであった。 それだ けで はない。彼 は 粗野 で乱暴 だ った。妻 と子 にた い して残酷 だ った。 ソソに暴力 を振 い,恐 ろ しい鞭打 ち を不 当 に食 らわせた。妻 にた い して もで あった。 なぜ そ うだ った のか は,他人 の子 を身 ご もった女性 をあてがわれ,彼 が ソソの実際 の父で な か った ことが, もしも正 しけれ ば,納得 は行 くものだ。 こうして ソソの心か ら人 間 に対 す る愛が失 われてい った し,彼 は父親 を嫌悪 した。母親 は, ソソ の神 への愛 も消 えて行 くの を知 った。 だが ソソは, この父親 によって生活 の 知 恵 を体 得 したので あ る。 抜 け目なさ とず るさで父 の暴力 か ら自分 を守 る と い う知恵で あ る. エ カチ ェ リーナ は, か けが えのない一人 息子 を夫 の暴力 か
ら身体 を張 って守 ろ うとし, か ばった。 だが母 の愛情 に もかかわ らず,少年 は父 の ように非情 にな っていった。 そ して一生粗暴 で あった。
ソソが一一歳 か一二歳 の時,父 ヴ イツサ リオ ンは死 んだが, その時 ソソは ほ とん ど嘆 かなか った。彼 は父 を猛烈 に憎 んでいた。
夫が頼 りにな らないので,母親 は生活 のた め に働 いた。洗濯女 を した り, 下着 を切 った り,古 ぼ けた ミシンで縫 った り,時 には金持 ちの家 でパ ンを焼 いた り, ほんの僅 かの金 を稼 いだ。一生働 き詰 めの母業削ま, それで もすべ て を夫 と子 と神 に捧 げた。彼女 は古 いグル ジアの農民 の女 と同 じように,限 り な く忍耐強 く,従順 で あった。ソソは,この母 の持 つ従順 さは受 け継 が なか っ たが, 忍耐強 さを受 け継 いだ。
ヴ イツサ リオ ンは, ソソを腕 の よい靴職人 に しよう と思 っていた。 だか ら この子 は,一 つの事件 と母 の思 いが な けれ ば,歴史 の ごみ溜 めの中で名 もな く貧 し く生 き, そ して死 んで行 ったで あ ろ う。 そ して人類 の運命 も変 わ って
彼 にとって立派なことだ と考 えられた。スター リン,あるいは他の人 は,「箔」
をつけるために,父親が労働者であった と,語ったのか もしれない。それが伝説 になった。
いた はずであ る。 エカチェ リーナはソソを靴職人 にはした くなか った。 この 無学で教養 のない母親 は,狭 い世 間 を眼鏡 の奥 か ら見回 し, ソソを坊 さんに したい と思 っていた。彼女が信心深 い こともあったが,僧侶が世 間で尊敬 さ れてい る と思 ったか らである。 この望 みは少 し前であれ ば不可能 で あった。
農民 ・庶民 は僧侶 になれなか ったか らである。 当時で も僧侶 になるには,月 謝 を払 って何年 も学校 に通わ なけれ ばな らない。
夫 は妻 に侮 りを込 めて言 った。
「一体 お前 は, あの子が主席大主教 にで もなる と思 ってい るのか よ?」
家父長的 ・封建 的色彩 の強 いグル ジアで は,妻 は夫 の方針 に逆 らえなか っ たであろう。 その時,夫 ヴ ィッサ リオ ンが死 んだ。エカチ ェ リーナの希望 ・ 決断 はその第一歩が実現す ることになった。 そして この女 の一念 はロシア と 世界 と人類 の運命 を変 えるのである。
ここチ フ リス県で農奴制 が廃止 されたのは,一八六五年である。 だか らソ ソの父,少 な くて も育 ての父 は,元農奴 であ り,母 も元農奴である。 ソソ以 外 の前述 の世界史 の英雄 は,父の身分が国王 ・貴族 ・豪族 ・ブル ジ ョア ・役 人 であった。 ソソが社会 の最低辺 ・元農奴 の生 まれか ら社会 の頂点 に上が っ
た とい うことは,特徴 的で ある。
一八九〇年, もちろん父親 の死後 であったが,母 は, ソソを この町 ゴー リ の神学校予備校 に入学 させた。夫 を失u爪 に灯 を ともす生活 の彼女 は, さ ら に苦労 を重ね る。
「貧乏後家 のばあさん,大層 な ことをしお った。」
と近所 で噂 され もした。 グル ジアで は当時三〇歳 の女 は, もう 「ばあさん」
であった。エカチ ェ リーナ は この頃三〇歳 になっていた。彼女 は, ソソが将 来坊 さんにな り,教会 で人 々 にお説教 をし,尊敬 され るの を夢 み,ただそれ だ けを希望 に一生懸命働 いた。
ソソは,学校 で勉強ので きない方で はな く,記憶力 も悪 くなか った。授業 はロシア語 で行 われた。母 はロシア語 を話せ なか った。だか ら彼 は,学校以 外 の普段 の生活で はグル ジア語 を話 した。後年 ソソが ロシアの政治家 として
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演説が下手 だ った理 由の一 つは,彼 に とってはロシア語が外 国語で あったか らである。勉強 はほ とん ど神学 ・宗教関係 であった。彼 は図書館 の本 をよ く 読 んだ。学校 は汚 く寒 く,風習 は野蛮 で,腕力が支配 し,中世 的なや り方で 教 え られた。 お まけに, グル ジア語 を話 した生徒 は殴 られた。
ゴー リの学校 のある先生 は語 っている。
「ソソは他 の子 と違 っていた。性格 の悪 さは並で はなか った。いつ も争 いを 扇動 していて,全然子供 とは思 えない うまさで,先生たち を困 らせ責 めた。
彼 らはソソを罰 した。 ‑・‑」
ソソは,よ く言 えば自尊心が あったが,意地 っ張 りで,悪意 に満 ちていた。
自分が決 めた 目的 は必ずや り遂 げようとした。一説 による と,彼 はクラスの 商人 の子供 たちに命令 す るボスだ った。彼 は決 して泣 かなか った。友 だちの 喜 びや悲 しみを,ただせせ ら笑 っていた。 それ は,かつての粗暴 な家庭 で作 られた性格 であった。後 に革命家 とな る彼 に,父親 の暴力で社会 に対 す る反 逆精神 が生 まれたであろうか ? それ はあ りえない。む しろ,口数 の少 なさ, 罪 を被 らないで うま く逃 げること,神経 の図太 さ とい う資質 ・性格 が作 られ た。優 し く穏やかな人 で はな く,人 にあ ま り同情 を寄せ ない荒々 しい粗野 な 人 間 になったので\ある。
グル ジアでは,つい少 し前 までの農奴制 の遺物が色濃 く残 っていた。全 て の生活面 で,人々 は民主主義 の精神 を知 らなか った。 ソソの生活環境 には農 奴制遺物 が染 み込 んでお り, その中で彼 は, その空気 を胸一杯 に吸 い込 んで
いた。
ソソは一八九四年 に一五歳 で, ゴー リの学校 を, よい成績 で卒業 した. そ して ゴー リか ら七六 キロ離れたチ フ リス神学校 へ,友人 たち と共 に入学 した のである。 チ フ リスは当時人 口一五万 の都会 で あった。彼 の狭 い経験世界が 広が って行 く。 そ して母 の希望 も実現 され るように見 えたO ソソは奨学金 を 取 るのに成功 した。つ ま り確 かな ことは,少 な くて も学校が彼 を性行 が良い か普通 だ と思 っていたので ある。
第 二 節 神 に見離 された青年
チ フ リス神学校 の生活 は,監獄か兵舎 の ようであった。二〇人 か ら三〇人 の生徒が大部屋 に寝 た。生活 は朝七時か ら始 ま り,明 けて も暮 れて も祈 りで あった。学校 当局 は時間 に厳 しか った。 だが生徒 は, 申請す る と午後二時間 だ け外 出が許 された。 しか しソソは貧 しいので,外 出 して もほ とん ど何 も買 えず,寂 しい思 いを した。
学校 で はグル ジアの文学 と新聞 を読 む ことは禁止 されていた。 ギ リシャ正 教 の教会 は, ロシア化政策 を行 っていた し, グル ジア語 は劣等民族 の言葉 と
されていたか らで ある。
ソソが入学す る少 し前, この神学校 で は, グル ジア愛国主義学生 の本格的 ス トライキが行 われた。 また数年前 には校長が暗殺 されていた。だか らソソ は,初 めか ら緊張 した政治的空気 に触 れたのである。
学校 当局 も学生 を注意深 く監祝 した。修道士たちは,や っきになって学生 の話 を盗 み聞 きし,学生が禁止 の本 を持 っているか どうか を, しつ こ く調べ た。 さ らに,持 ち物検査や身体検査 を しば しば行 った。生徒が夕食 のために 部屋か ら出て行 ったす きに,修道士たちが生徒 の部屋 に入 り込 み,持 ち物 を 調べ るのである。 学校 の規則 に違反 した者 は,野蛮 に叱 られ,地下室 に放 り 込 まれ,操行点 を下 げ られた。 そ して最後 には放校 が待 っていた。
お勤 めの, つ ま り祈 りの時間 には,≡,四時間 も直立 の姿勢で立 っていな ければな らなか った。 それで生徒 は皆,意気消沈 して しまい, それや これや で喜 びが味わ えなか った。
どんなに信仰心持 ってい る者 で も嫌 になって しまう中で, それで もソソは 一年間頑張 った。 それな りに母親孝行 の ソソは,母 の願 い を知 っていた し,
自分 も僧侶 になろうと思 っていたか らである。 だが一年たつ と, さすがの ソ ソも宗教勉強 の意欲 を失 って しまった。 この神学校 は,信仰心 と神学 を学ぶ 意欲 を失わせ るために建 て られたかの ようであった。
ソソはそんな生活 の中で, グル ジアの小説 の中の英雄 コ‑バ を尊敬 す るよ うになった。 ツ ァー リ [‑ロシア皇帝]政府 と戦 い,敗 れ,死 んだ, グル ジ
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ア山岳民族 の指導者で ある。彼 はその小説 を読 んでか ら, 自分 をコ‑バ と呼 び,人 に もそ う呼 ばせた。 そ してロマ ンテ ィックに,熱烈 なグル ジア民族主 義 の思想 を抱 い た。 これ か ら この物 語 の主人 公 ヨシ フ ・ヴィッサ リオ ノ ヴィッチ ・ジュガ シヴィ リ青年 を,我々 も彼 の希望通 りコ‑バ と呼ぶ ことに しよう。
コ‑バ は, ときどき町 に出か けては,かつてス トライキをして放校 された 学生たちに会 った。 その うち, グル ジア語 の定期刊行物 『イベ リア』 と 『ク ヴ ァリ』 に,一八九五年か ら九六年 にか けて,詩 を六篇発表 した。 その一 つ は, 「月 に寄す」 である。
だが覚 えておお き,長 い間, くび きに苦 しんで きた者が, 大地 に帰 る と,
山 よ りも高 く舞 い上が る, 晴れやかな希望 の高空飛行。
これ らの詩 は しか し後 の彼 の 『全集』 に, なぜか載せなか った。彼 の 『全 集』 には,他人 の作 品 も載せていたのにで\ある。(4)
コ‑バ は,町の巡 回図書館 か ら本 を借 りて読 む とい う校則違反 を犯 した。
それ らの本 は, グル ジアの詩, ロシアの作家 シテ ェ ドリン, ゴー ゴ リ, チ ェ ホ フ,外国で は,ユー ゴー, サ ッカ レー, その他, ダー ウィンの通俗書,経 済 ・社会 の入門書であ る。 コ‑バたちは,礼拝堂 で も礼拝 中で も,座席 の下
に本 を忍 ばせ て,教 師 に見 つか らない ように,慎重 に読 んだ。
神学校 の二年生 になった頃, コ‑バ に社会主義 の波が訪 れた。 チ フ リスで は一八八五年 につ ま りコ‑バが まだ幼 い頃,彼が この学校 にはいない時代 に, 初 めて社会主義者 のサークルがで きた ことがあった。
(4)民族主義的詩だか らである。注(6)参照
テ フ リス神学校 の生徒 も,コ‑バ が在学 してい る時,社会主義 の秘密 のサー クル を作 った。聖書 に興味 を失 い,文学 ・自然 ・社会 に関心 を抱 き始 めた コ‑
バ も, これ に加 わ った。十名 だ った。最年長 の学生 が その指導者 になった。
この会合 で新 聞が読 まれ,熱心 に討論が された。 コ‑バ はグル ジア語 の回覧 誌 を作 って出 した。 これ は学校 当局 に見 つか って しまったが, 内容 が危険 で
なか ったので, 「警告」処分 だ けで,放校 にはな らなか った。
このサー クル の中で,未来 の共産党書記長 コ‑バ の人 間的性格 が はっ き り 現れてい るO コ‑バ は,学生 の中で主 な論客 の一人 であ り,大部分 の学生 よ
り物知 りで あった。 そ して論争 を巧 み にさば きなが ら, 自分 の主張 を非常 に 根気強 く押 し進 め る こ とがで きた。 だが コ‑バ は,周囲の人 か ら抜 きん出 よ う とす る気持 ちが強 く,他人 の背後 に押 しや られ る こ とに我慢 がで きなか っ た。自分 の議論 の弱点 を突 かれ る と,い らい らし,論争 で負か され る と,ム ッ としてふ くれ面 を した。 自分 を負か した者 に恨 み を抱 き,意地悪 い陰 口や噂 話 を広 めて,仇 を打 とうとした。 こい うわ けで,彼 はつ き合 い に くい仲 間だ と思われた。 コ‑バ は, 自分 に反駁 す る者 に,容赦 な く敵意 を持 った。 自尊 心が強 く,意地 っぼ りで,負 けず嫌 いの彼 は, 自分 がサー クルの指導者 にな るべ きだ と考 えていた。 彼 は,相手 をいか にや っつ け,復讐 すべ きか をよ く 知 っていた。弱点 を攻撃 す る ことが それで あ る。 二,三年 の うちに, それで
も彼 の支持者 がで きた。 だが それ は, コ‑バ独特 の悪質 なあざけ りや,粗暴 な怒 りにた いす る恐 れか らで あった。 コ‑バ のグループ と, それ に反対 す る グルー プ との間で, いや らしい個人 的 な争 いが生 じた。 こうして初 めのサー クル は長続 きしなか った。
コ‑バ は四年生 の時, 「メサメ ・ダ シ」 (第三 の道, とい う意味) とい うグ ルー プに加 わ った。 これ は,一八九三年以来 出来 ていた青年た ちのマル クス 主義 的 な集 団で あ る。ゴー リとチ フ リスの学校 の先輩 で あ るケ ツホヴェ リが, 前 年 に入 って いたが, コ‑バ を こ こに引 き入 れ た ので あ る。 級友 イ レマ シ
ヴイ リも加 わ った。
コ‑バ は, 「メサ メ・ダ シ」 に加 わ る と,町の労働者学習 グルー プの指 導 を
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す ることになった。 といって も,社会主義的 な本やパ ンフレッ トを,字が読 めない少数 の労働者 に教 えるので ある。この仕事が終 わ って学校 に舞 い戻 り, 時間 に遅 れ る と, 口実 を見つ けて は胡麻化 した。
無神論者 になった コ‑バが信仰 の仮面 をつ けて神学校 で生活す るの は,偽 りの暮 しであ り,二重生活 であった。 しか し偽 りの生活 は,彼が子供 の時か らや っていた ことであった。学校 を辞 めて も他 に望 ましい職業 はない し,母 の重荷 になるつ もりもないので,彼 は神学校 に しがみついていた。 しか し彼 の忍耐心 もやがてプツ リと切 れ る時がや って きた。
コ‑バ はテフ リス神学校 に,一八九九年 までち ょうど五年間在学 した。彼 は ここを卒業 しなかった。退学 したのである。 コ‑バ は初 めの一年 は勤勉 に 勉強 していた。 しか し二年生 になってか らは神学 に興味 を失 い,試験 に合格 すれ ばいい とい う勉強だ けをした。 したが ってその後 はい くら勉強 して も成 績 は落 ち る一方で あ り,学校側 もそんな コーバ を冷 た くあ しらった。その上, 三年生 の初 めにな る と, コ‑バ の校則違反が分 か り出 した。前 に述 べた簡易 図書館 か ら本 を借 り出 してい る ことであ る。学校 はコ‑バ を懲罰室 に放 り込 んだ。だが そうして も, それか ら数 ヵ月間 に十三 回 も違反が見つか った。 こ うして もち ろん操行点 はひ どく悪 くなった。 これか ら最後 の学年 に進 もうと い う時 の成績 は,非常 に悪か ったので, あ と一年すれ ば卒業 で きたのだが, 彼 は退学 を決意 した。つ ま り 「わ けの分か らない理 由」で試験 を受 けなか っ
たため,一八九九年五 月二九 日,ついに放校処分 となったのである.
未来 の革命家 のた めに弁護 してお くと, コ‑バが とりわ け頭 の悪 い劣等生 で あったので はない。神学校 が彼 に合 わ なか ったので あ る。 神学 に興 味 を 失 ってか ら, それで もコ‑バ は, この学校 に四年間 もしが みついていた。 こ れ は,彼 の特徴 である忍耐強 さ と我慢強 さの現れで ある。 こうして彼 は,母 の夢 みていた僧侶 にはなれな くなって しまった。 コ‑バ は職業 もな く財産 も な しに,街 に放 り出 された。彼 の持 っていた ものは,教会 スラブ語 ギ リシャ 正教 の初等知識 と,社会主義 の入門知識 だ けであった。 その学識 も中途半端 で偏 っていた。彼 の学 んだ ものはほ とん ど宗教 であ り,正規 の学校 に通 った
ので もなか った。 だが彼 はいつ ともな く,神学 の持 つ教条主義 を身 につ けて いた。 そ して また,全 ロシア的な規模 で言 えば大 した ことはなか ったが,つ ま り,たかが専門学校 にす ぎないのだが, この地方の最高学府 をほ とん ど卒 業 に近 くまで学 んだ とい うイ ンテ リ的 自負心 を,多分抱 いた。彼 の持 ってい た ものは,これ以外 に加 えれば,二〇歳 の若 さ と,次の ような性格 であった。
つ まり真理 を見つ けることよ りも,勝 つ ことへの関心 であった。 さらに,全 ての ものの中 に否定的 な悪 い面だ けを見 て,人 間の理想主義 を少 しも信用 し ない ことで あった。
彼 はツ ァー リズム (ロシア皇帝制度) の学校 に憎 しみ を抱 いて,ついにそ こを去 った。
第三 節 監獄 へ
コ‑バ は,社会主義的サー クル 「メサ メ ・ダ シ」 に一八九九年八月 に加入 してか ら,数 カ月後 にテフ リス神学校 を退学 した。 さすが に もう学校 には未 練 が な くなった。彼 が憎 んだのは,ツァー リズムの学校 だ けで はな く,ツ ァー リズムの社会 すべてであった。社会主義 の初歩知識が それ に役立 った。退学 後,一時,彼 は故郷 ゴー 1)に帰 った。長年 の願 いだ った僧侶 になれな くなっ た息子 を迎 えて,母 は どう思 った ことで あろう。彼女 の夢 は音 を立 てて崩れ たので ある。 神学校 を放校 された コ‑バ は,半年間職無 しで暮 した。一時, 家庭教師 をした ことがあ る。 それが彼 の幸運 にな るの は後 の物語 である。
コ‑バ は神学校 の学生社会主義者 たち とは仲が良 くなか ったが, それで も 彼 らは金 を集 めて コ‑バ の生活 を援助 した。 この年一八九九年 の末,彼 はテ フ リス天文測候所 の簿記係 の ような職員 として就職がで きた。 これ は,先輩 ケツホヴェ リが辞 めて, コ‑バ を自分 の後釜 に推薦 したか らで ある。 これ は 少 しだ け教育 があれ ば出来 る仕事 であった。 その代 わ り給料 は少 なか った。
しか しコ‑バ は子供 の頃か ら賛沢 には慣 れていなか った。彼 は, ミハ イ ロフ スカヤ街 の,小 さ く貧弱で,家具 もロクにない部屋 に住 んだ。 そ して毎 日, 粗末 な黒 いルパ シカを着 て,当時 の社会主義者 の特徴 だ った赤 いネクタイを
ヨシフ・ヴイツサリオノヴイチ ・ジュガシヴィリ 159 締 めていた。冬 にな る とその上 に古 ぼ けた褐色 のマ ン トをま とった。 とんが
り帽子が一 つあ るだ けだ った。彼 の収入 で はいい服装 はで きなか った し,コー
バ 自身 もそのつ も りはなか った。彼 はブル ジ ョア的 な もの を嫌悪 したか らで あ る。
チ フ リス には一九〇〇年 に社会 主義者 が数百人 いた。 レーニ ン(5)編集 の ロ シア社会民主労働党機 関紙 『イス クラ』 は, テ フ リス に も入 って きた。友人 た ち と同 じようにコ‑バ も,秘密郵便 で送 られ て来 るその新 聞 の熱心 な読者 になった。彼 は 『イス タラ』 によって学 び, グル ジア民族主義 か らマル クス 主義へ少 しずつ転換 していった。
一九〇〇年 にチ フ リスの社会主義者 はメーデー を行 な った。 四,五百人 の 労働者 が,郊外 でお っかなび っ くり集会 を開 いた。 コ‑バ は この時,生 まれ て初 めて集会 で演説 を した。
同 じ年, レーニ ンの友人 ヴ ィク トル ・クルナ トフスキーが チ フ リス にや っ て きた。彼 の指 導 で社会 民 主労働 党 テ フ リス委 員会 が設 立 され た。 しか し コ‑バ は この委員会 に入 れなか った。
コ‑バが いつ ロシア社会民主労働党 に入党 したのか はっ き りしないが, こ こには大 きな問題 が あ る。一般 に近代社会 主義 はブル ジ ョア民主主義 の一層 の発展 で ある とされ る。 これ は理論 の上 ・紙 の上 で は正 しい。 しか し現実 に 社会民主党員 た ちが民主主義者 で あるか どうか は,別 の問題 で ある。 つ ま り 党 の政治方針 を承認 した人 が入党す るので あって, その時彼 が民主主義者 で
あ るか どうか を資格審査 しないので あ る。 また それ はで きない ことで ある。
コ‑バ は も ともと民 主主義 を身体 で味 わ って い なか った。 彼 の経験 した の
(5)ウラジミール ・イ リイチ ・ウリヤーノフのペ ン ・ネーム。一八七〇年生 まれ, つまりコ‑バ より九歳年長である。兄アレクサンドルは,アレクサンドル三世暗 殺未遂グループに入っていたため,逮捕 ・処刑 された。サンク ト・ペテルスブル グ大学 を国家検定試験で卒業 し,弁護士補 になったが,革命運動に入 り,ロシア 社会民主労働党では,国外のプレハ‑ノフ,国内のマル トフ,と並んで最 も重要 な指導者 となる。 この頃,外国へ亡命 し,『イスクラ』 (火花)を発行 していた。
は,暴力,抑圧,支配,前近代 的野蛮 さで ある。民主的作法や ヒューマニズ ムは本 当の ところは知 らなか った。だか ら後 に政権 の座 についた コ‑バ の振 舞 いは,絶対権力 による支配,暴力 による脅 し, 自由の完膚 な き抑圧 であっ た。 また彼 にはそれ しか思 い浮か ばない し,思 いつ くことがで きないので あ
る。
一九〇一年 に前年 よ り大 きなメーデー を行 うことになった。 だがテ フ リス の警察 はメーデーの前 に, クルナ トフスキー を始 め,活動的な社会主義者た ちを逮捕 し投獄 した。 コ‑バ も逮捕者 の対象 にな り,観測所 の彼 の部屋が襲 われた。コ‑バ はその とき偶然部屋 にいなか ったので,逮捕 は免れた。だが,
もう職場 に戻 れ な くなった。 この時 か ら一九一七 年二 月 の革命 まで一六年 間,彼 は世 間的な生活が出来 ない状態 になるのである。
さて コ‑バ は先ず郷里 ゴー リに逃 げた。 だが母親 の家 は危険 なので, そ こ で は生活が出来 ない.再 びチ フ リス にこっそ りと戻 り, そ こでメーデーのデ モ に参加 した。前年 の数倍 の労働者 つ ま り二千人 が,今度 は市 内に集 まった。
彼 らは待機 していた警察 とコサ ック兵 と衝突 し,一四名 が負傷 し,五〇名が 逮捕 された。先輩 ケ ツホヴェ リはバ クーへ行 き,秘密印刷所 を設 けることに 成功 した。 そ こで非合法紙 『ブル ゾ‑ ラ』 を発行 した。 この第二号 にコ‑バ は事実上初 めての論文 を書 いた とされ,後 に彼 の 『全集』 に入 れてい る。 し か しその論文 は,実 はケ ツホヴェ リの筆 になる もので あった。(6)
一九〇一年一一月, コ‑バ は正式 に社会民主労働党 テ フ 7)ス委員会 の九人 の委員の一人 に選 ばれた。彼 は 「出世」 したので ある。
チ フ リスの委員会 に労働者 の代表 を入れ るか どうか について,激 しい論争 が起 きた。 コ‑バ は,秘密 を守れ ない点,階級意識 の低 い点で,労働者 を委 員会 に入れ ることに反対 した。
「ここで は労働者 は甘やか されている。私 はあなたがた に尋ねたい。あなた
(6)ウラム説。
ヨシフ ・ヴ ィ ッサ リオ ノヴ ィチ ・ジュガ シヴ ィ リ 161
がたの中 に,委員会 に入 るの に適 した人 が一人 で も二人 で もお りますか ? 自分 の胸 に手 を当てて,本 当の ことを言 って下 さい /」
委員 になって二週 間後,彼 はテ フ リスか ら黒海沿岸 のバ トウ‑ムへ,宣伝 活動 の任務 で派遣 されたO‑九〇二年 の始 め,バ トウ‑ムの組織 は非合法 の 印刷所 を作 ることがで き, それ はコ‑バ の住居 に置かれた。当地 の穏健 な社 会主義者 は,秘密印刷所 を作 る ことに反対 し, こう言 った。
「それ は無謀 だ」
「秘密警察 に直 ぐ見 つか って しまう」
これ はその通 りにな る. しか しコ‑バ は頑 として言 うこ とを聞 かなか っ た。 ここか ら多 くの ビラが発行 された。
二月 にロスチ ャイル ドの工場 で労働者が解雇 され, それ に反対 してス トラ イキが起 きた。彼 らはス トライキ破 りと衝突 した。三月 には政治 デモが行 わ れ,警察 は三月七 日に三二名 の労働者 を逮捕 した。 それ に対 して翌 日,二千 名 の抗議 デモが起 きた. コ‑バ は このデモ に群衆 の一人 として参加 したo当 局 は三百名 を捕 まえた。九 日にコ‑バ は六百人 を集 めてデモ をした。警官が 発砲 し,一五名が死 に,四五名が負傷 した。政治警察 は活動家 を捕 まえよう として全力 を挙 げた。一九〇二年四月五 日, コ‑バ は会議 の際 に,他 の活動 家 と一緒 に逮捕 された。初 めての逮捕 である。 バ トウ‑ム に来てた った四カ 月余 りであった。バ トウ‑ム刑務所 の扉が, コ‑バ の うしろで閉 まった。
バ トウ‑ムの監獄 に入 れ られた二 日後, コ‑バ は二 つの走 り書 きを,面会 人 に拾 って貰 お うとして牢 の庭 に投 げておいた。
一 つ は こう書 いて あった。友人 で ゴー リの学校 教 師 を してい るイ レマ シ ヴ ィ リに会 って, ジュガ シヴ イ リ [エコーバ] の逮捕 を母 に知 らせて貰 い, もし憲兵が母 に 「お前 の息子 はいつ ゴー リを出たのか?」 と尋ねた ら,母 に
「息子 は三月一五 日まで は夏 も冬 もず っ とここにいた」 と言 って貰 うように, とい うのであった。大 デモは三 月九 日に行 われたので,彼 はそれで憲兵 を編 そ うとしたので ある。
もう一 つ は友人エ リザベ タシヴイ リ宛 で, 「革命活動 を続 ける必要が ある」
とい うものであった。
だが この書付 けを拾 ったのは,面会人 で はな く,看守 であった。直 ちに, ィ.レマ シヴイ リの住居 を捜索 し, ジュガ シヴ イ リの母 を尋問 し,エ リザベ タ シヴ イ リを捜索 ・逮捕せ よとい う,通達が出 された。
コ‑バ は この ように友人 を危険 にさ らす ような無神経 な ところが あった。
いわ ゆる革命 的警戒心 の無 さで ある。
もっ ともコ‑バ は,理想 のためには自己犠牲 を厭 わなか った し,監獄 に入 れ られ ることも恐れない とい う,当時 の地下活動家 の長所 を持 ち合わせてい た。刑務所 で は自分 で厳 しい規律 を作 って,早 く起 き,色々な本 をよ く読 ん だ。 当時 は政治犯 の扱 いが穏 やかな面が あ り,囚人 たちはお互 いに討論がで
きた。
彼 は一九〇三年七 月末 までの一年半余 りを, ここバ トウ‑ム, ついで クタ イス,再 びバ トウ‑ムの刑務所 で暮 らした。 コ‑バ は裁判 にか け られず,憲 兵 に尋問 された。憲兵 たちは,田舎 で は粗野で無教養 で, しば しば野蛮 な暴 力 を使 った。圧迫,脅 し,恐喝,拷問,証人 の調書 の偽造,買収 による偽造, 事件 のでっち上 げ と誇張,秘密諜報員の また聞 きを絶対 に信頼 す ること,宗 教裁判所 と同 じや り方の 自白の強要, これ らが彼 らの特徴 であった。 これ ら のや り方 を見 た コ‑バ は,消 し難 い印象 を受 けた。 そ して彼 は権力 を握 った 後, この方法 をそっ くりその まま適用す るので ある。ただ違 ったのは, コ‑
バ のや り方が, それ よ り大規模 で,徹底的,無慈悲で あった ことである。
この間,一九〇三年三月 にロシア社会民主労働党 コ‑カサス (カ フカ‑ズ) 連盟委員会 が結成 された。 コ‑バ は獄 中 にあ りなが らその委貞 に選 出 され
た。 だか らこの ころコ‑バ は,社会 民 主労働 党員 として全 く身分 が低 い者 だ ったわ けで はない。 もち ろん一流 の革命家で はな く,二流 の, それ も地方 レヴェルの指導的 メ ンバ ーの一人 で はあった。
(7)参照 GeorgeKennan,SiberiaandtheExileSystem.vol.1.N.Y.1891
ヨシフ ・ヴ ィッサ リオ ノヴ イチ ・ジュガ シヴ イ リ 163
その後彼 は,行政命令 で(7)三年間 の東 シベ リア流刑 に決 ま り, イル クー ツ ク県 ノー ヴ ァヤ ・ウダ村 に追 放 された。 イル クー ツ クの北 三〇〇 マ イル に あった。だが コ‑バ は,三年 の刑 は長す ぎる と思 って,直 ぐ逃亡 の準備 にか か った。日露戦争 の混乱 によ り,地下組織 は脱走計画 を立 て ることが で きた。
それぞれの地 方 に秘 密 のセ ンターが あって,偽造パ スポー トや金 を与 え,身 の寄せ方 を教 えた。 だか ら脱走 は難 し くはなか ったので あ る。
一九〇三年一二 月二 四 日,コ‑バ は逃亡 したOところが準備不足 のた めに, 顔 と耳 に凍傷 を負 って しまい,す ごす ご と監獄 に戻 り, こうして初 めの試 み
は失敗 に終 った。 そ こで今度 は もっ と暖 かい衣服 を手 に入 れてか ら, また一 九〇 四年一 月五 日に逃亡 した。一面雪 に覆 われ人影 のない広 い荒野 を,農民 の馬 そ り [‑ トロイ カ] に乗 って横 断 した。 イル クー ツクに着 き, そ こか ら 先 は党 シンパ の コロ トフ とい う人物 か ら偽 の旅券 を入手 し,バ トウーム に着
い た 。
十二時 をす ぎたあ る晩, その頃 の同志 ナクー リア ・キル タ ッゼの部屋 の ド ア をコツコツ と叩 くものが いた。
「どなた」
「僕 だ よ」
しか し彼女 は どうして もそれが コ‑バ だ とは信 じられず, ドア を開 ける気 にな らなか った。 だが彼 は当時 の合言葉 「千度 も生 きなが らえ よ」 をはっき
り言 ったので,疑 いが とけ, ドア を開 いた。
「い った い どうしてバ トウ‑ム まで帰 って きたの」
「逃 げて きたの さ」
一 月の初 めか末 か, どち らか分 か らないが,彼 はチ フ リスに姿 を現 した。
第 四蔚 初 めの結婚
脱 走 した コ‑バ はチ フ リス に舞 い戻 った。 だが これ は危 険 な こ とで あっ た。 つ ま り逮捕前 と同 じ活動地 で あったか らで あ る。 とい って も彼 にはチ フ リス以外 には活動 の場 が なか った。一流 の革命家 で あれ ば ヨー ロ ッパ に亡命
した し,で きたで あろうが,彼 はそ うはいか なか った。彼 は地方的革命家 に す ぎなか ったか らである。 その上彼 は一九〇三年 に婚約 した とされ る。 だか
ら将来 の妻 の元へ帰 って きたので ある。
コ‑バ は一九〇四年六 月二二 日に(8)結婚 した。妻 の名 はエカチ ェ リーナ ・ ス ワニーゼ といい, 当時無名 の活動家 で あった同志 ス ワニーゼの妹 であ る。
エカチ ェ リーナ は, グル ジア女性 その ものであって,女性 は男性 に奉仕す る もの と考 えていた。同時 に深い信仰心 のある娘 であった。 ち ょうピコーバ の 母 と同 じタイプで ある。 そ して名前 も同 じだ。
彼女 は夫 の世話 に精魂 を傾 けた。 コ‑バが秘密会議 で 忙 しい時 は,幾晩 も
\
熟 の こもったお祈 りをして,彼 の帰宅 を待 っていた。 そ して夫が神様 に楯 つ く思想 を捨 てて くれ るよう願 ったので ある。 コ‑バ は もちろん,彼 の思想 と 哲学が理論 づ けられていなかったか もしれないが,無神論者 であった。当時, 革命 的イ ンテ リゲ ンチ ャが宗教者 と結婚 した例 はほ とん どなか った。 そ して
コ‑バ は二人 の思想的相違 については気 に留 めなか った。 その上, カ フカ‑
ズ (グル ジアが含 まれ る)で は新 しいタイプの女性 は少 なか った。 そればか りか彼 は献 身的で従順 な女性 で満足 していた。 そ してグル ジア女性 の伝統的 生 き方 を無批判 的 に肯定 していた。
エカチ ェ リーナ は一九〇七年 におそ ら く肺炎で死 んだ。わずか三年 の結婚 生活 であった。 この間 に夫婦 はヤ コブ とい う男 の子 を もうけた。母 が死 んで か らこの子 は, コ‑バ の母かエカチ ェ リーナの母 かの どち らか に預 けられ, 育 て られた。ヤ コブはテ フ リス中学 に入 り,後 に父 コ‑バ に呼 ばれてモスク
ワに転校 す る。
さてエカチ ェ リーナの葬式 は,完全 にギ リシャ正教 の儀式 にのっ とって行 われた。 コ‑バ は,忠実だ った伴侶 の死 に心 の底 か ら苦 しみ, ひ どくうち沈 んだ。地味 な葬列が墓地 の入 口に着 いた時, コ‑バ は友人 イ レマ シヴ ィ リの
(8)ペイン説。
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手 を固 く握 り,棺 を指 さして言 った。
「こいつ は僕 の心 を暖 めて くれた。彼女 は死 んだ。そ して彼女 と一緒 に,あ らゆる人間 に対す る私 の温 かい気持 ち も死 んで しまった。」
コ‑バ は右手 を心臓 の上 に置 いた。
「この中はひ ど く荒れ果 てている。ひ ど く,言 い ようもないほ ど荒れ果 てて いる./」
少 し演技がか ってい るが,彼 はよ くこの ように演技がか った振 りをした。
それ は神学校譲 りで あった。 ところが それが後年 になって大変 な うまさにな るのである。
妻 を埋葬 した 日か ら,彼 は人 間的感情 の最後 の‑ か け らも失 って しまっ た。 もっ とも妻 を亡 くした ことだ けが原因で はない。元々 その性質 はあった が, とにか く, 自分 自身 に無慈悲であった彼 はすべての人 にたい して も無慈 悲 になった。
第五節 ポル シ ェヴ イ牛の誕生
コ‑バが刑務所 にい る間,重要 な事件 が起 こっていた。
一八九八年 に既 に, ロシア社会民主労働党 は ミンスクの第‑ 回大会 で名前 だ けであるが創立 していた。 そ して今度 は実際の党 を作 る必要が あった。 そ こで一九〇三年 に同党 の第二回大会 が, ブ リュ ッセルの 「メゾン・ドユ・プ‑
プル」 で開かれたのである。
だが ここはツ ァー リ警察 の監視下 にあ ることが分か り,大会 は途 中か らロ ン ドンに移 された。 この司会 をしたのはレオ ン ・トロッキーで あった0
政党 に とって最 も大事 である綱領 の審議か ら始 まった。 プレハ‑ ノフの草 案 に, レーニ ンの修正案が付 け加 え られて,採択 された。
次 は党規約 であった。 マル トフの草案 とレーニ ンの草案 との二 つが提 出 さ れた。 その違 いは,「第一条 党員」であった。
レーニ ンの案 は,「ロシア社会民主労働党 の綱領 を承認 し,党 を金銭的手段 で支持 し, その組織 の一 つ に自ら参加 す る人 は,すべて党員で ある」であっ
た。 それ に対 しマル トフの案 は, 「その組織 の一 つ に自 ら参加 す る」 で はな く,「その組織 の一つ の指導 の もとで, 自 ら規則 的 に協 力す る」 とい う もの だった。 この二 つの案 はほ とん ど同 じように見 えた。
だが レーニ ンは革命党 の組織 について独特 の考 えを持 っていた。すで に著 作 『何 をなすべ きか ?』(9)で明 らか にしていた ように,彼 は職 業革命 家 の組 織 を構想 していた。一方マル トフはゆるやかな覚 を考 えていた。 それが これ らの文案 に微妙 な表現 の違 い となって現れていた。票決 で は二八対二三 で, マル トフの草案が採択 された。
問題 は最後 の議題 であった。 中央機 関紙 『イスクラ』 の編集局員 を誰 にす るか,何人 にす るか,であった。 レーニ ンは, プ レハ‑ノフ, マル ト7, 自 分 の,三人で よい と提案 した。 マル トフは, もっ と多い方が よい とし, あ と 三人 を加 え,計六人 の案 を出 した。 これが紛糾 して しまったのである。 この 議題 だ けで長 い時間が費や された。
大会 に, ユダヤ人 の社会民主主義者 か らな る 「ブン ド派」が参加 していた。
正式 には 「リ トアニア ・ポー ラン ド・ロシア, ユダヤ人労働者同盟」 とい う。
この派が, こんな議題 で長々 し く論戦 す るのが馬鹿 らし くな り,途 中で退場 して しまった。 ブン ド派 はいつ もマル トフを支持 していた。 その結果,採択 す るとき, レーニ ン派 は多数派 とな り,多数派の はずのマル トフ派 は, この ときだ けは少数派 となったO レーニ ン派 は,多数派つ まりロシア語 でい うポ ル シェヴイキに, ほんの瞬間だ けなったのである。 しか しこの言葉 をレーニ ンはその後永久 に使用 した。民主主義 の,つ ま り頭数で勝 負が決 まるこの団 体 の中で, この言葉 は独特 の力 と魅力 を持 った。
レーニ ンの仲 間たちは硬派 と言われた。彼 らは職業的 ・半職業 的革命家が 多か った。 そ して革命運動 の困難 な部署 を受 け持 っていた。 これ に対 して レーニ ン派でない人 々 は軟派 と言われた。 これ らの党員たちの代表 的指導者
(9)もちろん,チェルメイシェフスキーの有名な小説 と同じ標題 を借 りたものであ
る。
ヨシフ ・ヴィッサ リオ ノヴイチ ・ジュガ シヴ イ リ 167
がマル トフであ る。
こうして ロシア社会民主労働党 内 に, 多数派 ‑ポル シェヴ ィキ と少数派 ‑ メ ンシェヴ イキ とが二 つの分派 として存在 を始 めたのであ る。 しか し この分 裂 が将来 どんなに大 きな意味 を持 つ よ うにな るのか, この時, 当事者 たちは 全 ('悟 らなか った。
さて コ‑バ は,脱走 してテ フ リスに舞 い戻 り, カ フカ‑ズ委員会 の‑委員 として非合法活動 を続 けた。第二回党大会 で ポル シェヴ イキ とメ ンシェヴ ィ キ とが分裂 した意味 は, カ フカ‑ズで もよ く理解 され なか った。 だが両派 の 対立 は徐 々 にカ フカ‑ズ に も押 し寄せ て きた。 この地 方で はメ ンシェヴ イキ の方 が優 勢 で あ った。 レーニ ンは第 二 回大 会 直 後, カー メネ フ を ポル シェ ヴ イキの組織者 としてテ フ リス に派遣 した。 カーメネ フは一九〇 四年一 月 ま でテ フ リス にいて, その後一 九〇四年七 月二八 日か ら一九〇五年 の春 まで留
まっていた。彼 は青年時代 に もテ フ リスで生活 していた ことが あ る。
カ フカ‑ズの党 の指導的人物 クラシンは, ポル シェヴ イキ に賛成 で あった が, 出来 た ばか りの党 が分裂 して崩壊 す るの を食 い止 め よう として,両派 の 妥協 を考 えて いた。 ク)レナ トフス キーの方 が もっ とレーニ ンを信奉 して い た。しか し彼 は この時捕 まっていた し,クラシンは転勤 となった。そ こでカー メネ フが派遣 されたので ある。
メ ンシェヴ ィキ に も, ポル シェヴ ィキへ の妥協派 と非妥協派が いた。 カー メネ フはポル シェヴ イキ を獲得 しよう と懸命 に活動 した。 コ‑バ は帰 って き た ばか りで もあ り,何 が なんだか分 か らず, どっちつかず の態度 しか取 りよ
うが なか った。
コ‑バ は六 月 にバ クーへ戻 ったO一 九〇 四年一一 月, カ フカ‑ズの地方諸 組織 か ら一五名 の代議員が集 ま り, ポル シェヴ ィキの会議 がテ フ リスで開か れた。 この指導者 はカー メネ フで あった。 この会議 にコ‑バ は参加 しなか っ た。 とい うことは,彼 が この時 はっき りポル シェヴ ィキの立場 に立 っていな か った のだ ろう と思 われ る。 ただ しこの頃,彼 はカー メネ フに会 ってい る。
一九〇四年の末 に, コ‑バ はポル シェヴ ィキの立場 を受 け入れた。 そ して 同年一二 月, またバ クーへ戻 っている. この頃,バ クーの油 田でゼネス トが 起 き, ロシア中 を騒がせ ていた。だがバ クーの委員会 の多 くが メ ンシェヴイ
キであ り, コ‑バ は十 日間 しかいなか ったので,殆 どこのゼネ ・ス トで活躍 していない。
脱走後一年足 らずの間 に, ぐず ぐず しなが らもコ‑バが ポル シェヴ イズム を選 んだの は,次 の理 由である。
彼 は世俗 的 には何 の地位 も身分 もない。 それ どころか,刑期 を終 わ らず に 脱走 したので,警察 に見 つか らず に生活 しなけれ ばな らない。生活 の手段 も 社会民主労働党 の一地方委員 として しかあ りえない.要す るに,美 し く言 え ば,職業革命家 なのである。実社会 にちゃん とした職業 を持 ち,裏 で活動す る, とい うような人 とはわ けが ちが う。 それ にレーニ ンの組織論 はコ‑バ に とって力強 い もので あった。 レーニ ンは職業革命家 の党 を作 ろうとしてい る で はないか。 そ うだ, 自分 の ような人間類型 は, レーニ ンのい う理想 にぴ っ た りだ。 レーニ ンは,私 の ような人 間 タイプを高 く評価 してい る。 コ‑バ は 革命 の修業僧 であ り,個人生活 はない。 そんな犠牲 的 な生活 に とって,励 み はただ一 つ, そ うい う生活が それだけで価値が ある と言 って くれ る理論 であ
り思想 で\あった。 こうして コ‑バ はポル シェヴ ィキを選 んだ。
第六節 一 九〇五年の革命
一九〇四年二 月 に始 まった ロシア とアジアの小 さな国 との戦争, 日露戦争 は,世界 中の思惑 とは異 な り,日本が善戦 した。戦争 のため,ロシアの民衆, 特 に都市 の住民 に食料が不足 した。一九〇五年一月九 日,サ ンク ト ・ペ テル スブルグの勤労者 たちが,パ ンを求 め, その原因で ある戦争 を止 めて貰 いた い と, ツ アー (ロシア皇帝) にデモで訴 えた。 その時彼 らを迎 えたの は銃撃 で あった。冬宮前 の雪 は民衆 の血 で朱 に染 まった。 これが ロシア革命 の きっ か け となった. この革命 は一九〇五年か ら一九〇七年 の前半 まで続 いた. 冒 露戦争 で ロシアが 日本 に負 けた大 きな理 由は この革命 で ある。 なにしろ銃後
ヨシフ ・ヴ ィッサ リオ ノヴ イチ ・ジュガ シヴ イ リ 169
が崩れたか らである。
ロシア社会民主労働党 のポル シェヴイキ派の首領 レーニ ンは,亡命先 で覚 の組織間題 に熱 中 していた。特 に,四月 にロン ドンで開かれ る第三 回党大会 の準備 をしていた。メ ンシェヴ イキは これ をボイコッ トしたので,それ以降, 両派 は事実上分裂 した。第三回大会 にカフカ‑ズの代議員 として参加 したの
は, カーメネ フ, ネフスキー, ツハ カーヤ, ジャバ リゼであった。 コ‑バ は そ こに出席 しなか った。 いや, それ ほ ど重要視 されていなか ったのである。
レーニ ンが革命 の勃発 を聞いて ロシアに帰 って きたの は一一 月で あった。
指導的な亡命党員 の中で,彼 よ り早 く帰国 した一人 は, レオ ン ・トロッキー で あった。 この革命 で ロシアの民衆 は, 自然発生 的 に労働 者代 表評 議会 を 創 っていた。 評議会 つ ま り, ロシア語 で ソヴイエ トである。民衆 の政治的代 議機 関のないロシアで は, 当然 で きて しか るべ きもので あった。 ロシア史上 最 も雄弁 で知 られ ることになる トロッキー は,首都 サ ンク ト ・ペ テルスブル グ ・ソヴィエ トの副議長 にな り, その後,議長 に就任 した。彼 は革命 の主役 を演 じ, ロシアで最 も人気 のある大衆 的政治家 になった。一方,革命 を指導 す るつ もりの レーニ ンは時 を逸 した.余 りに も遅 くロシア に帰 って きたのだ。
彼 は, この次の機会 には何が何 で も直 ぐ帰 ろうと決心 した。
一九〇四年 と〇五年 をコ‑バ は殆 どチ フ リスで過 ごした。 レーニ ンは, ソ ヴ イエ トが将来 の革命 の機関 にな りうる と考 え始 めていた。 コ‑バ はしか し ソヴ イエ トの意義 をつか まなか った。
革命家 は,革命状況 の中で,大衆 の集 まる広場 や集会 で演説す る ものだが, コ‑バ は この演説 が下手 だ った。彼 にはアジテーターの素質が なか った。彼 の演説 は,抑揚 もな く,温 かみ も,強調 もない。 こうして他 の委員や活動家 の中で,並 の演説者 とも見 な されないで,運動 の中で は脇 に追 いや られた。
自尊心の強 い彼 は, 自分が無視 され る と,傷 つ け られて,隅の方 に こっそ り 入 り込 んで,不機嫌 そうにパ イプを くわ えていた。 そ して委員会 の編集 の よ
うな仕事 をす るよ り他 なか った。