著者 森 雅秀
著者別名 Mori, Masahide
雑誌名 仏教について教えてください : 講義によせられた
3000の質問と回答
巻 1
ページ 515‑545
発行年 2010‑03‑01
URL http://hdl.handle.net/2297/23986
III. インドと日本の仏教儀礼の比較研究
1. 序(1):儀礼の世界をのぞいてみよう
内容とは関係ないのですが、先生はガンジス河の
「ガ」を鼻濁音で言っていたような気がします。
もしかしてそれが現地での発音なんでしょうか。
インドの儀礼といえば、やはりガンジス河での沐 浴しか思い浮かばなかったんですが、こんなにい ろいろあるとは思いませんでした。苦行まで儀礼 にはいるとは思わなかったので、驚きでした。
さすが言語学専攻の方は耳がいいですね。たしか に、自分で発音してみると、鼻濁音になっていま した。これは現地の発音ではありません。現地で は ga の音です。サンスクリットやチベット語に は鼻濁音の「ガ」がよく出てくるので、無意識の うちに混同していたのでしょう。あるいは「ガン ジス」を表す現地名 が「ガンガー 」で、後ろ の
「ンガー」のところが鼻濁音なので、それにつら れて発音する癖がついていたのかもしれません。
さて、儀礼の世界はとても幅が広いという感想は、
他の方にも多く見られました。これは別にインド に限ったことではなく、日本中の儀礼や祭礼を考 えれば、同じように膨大な量があるでしょう。前 回の授業では、インドの「代表的な儀礼」という ものを紹介しましたが、同時に、授業では取り上 げられないということも強調しました。おそらく、
授業でこれから見ていく儀礼は、インドのすべて の儀礼の中では、ごくごく一部でしかないでしょ う。その中から、インドの儀礼の特質を明らかに したり、日本の仏教儀礼との比較を行っていくつ もりです。
儀礼の後で祭壇を焼くという資料がありましたが、
あれにはどういった意味があるのか(あるいはな いのか)疑問に思いました。日本の初詣では、前 年の破魔矢などを焼いたりしますが、あれと似た ようなものなんでしょうか(といっても、なぜ、
破魔矢を焼いたりするのかも、よくわかっていな
いのですが )
ヴェーダの儀礼において、儀礼の場をどのように 作り、儀礼の後でそれをどうするかは、来週の授 業で取り上げるつもりです。簡単に言えば、儀礼 の場を作ることも儀礼の一部であり、そのために は、いったん作った儀礼の場は、儀礼が終われば 廃棄する必要があるのです。破魔矢ばかりではな く、おふだや絵馬を焼くのは、日本の神社でしば しば見られます。私もその起源や理由はよくわか りませんが、インドの場合とは異なるようです。
儀礼は精神的なものに訴えるだけのものかと考え ていたが、実際に生きていくという面から見て欠 かせないものであるというのが意外であった。
皆さんの多くは、別に儀礼なんてなくても生きて いると思っているかもしれませんが、人間がいる 限り、儀礼は存在し続けるでしょう。人間は「儀 礼をする動物」なのです。「儀礼とは何か」につ いては、これまで多くの研究者がいろいろな考え を示してきました。今回の授業では、それにもふ れるつもりですが、程度の差こそあれ、儀礼なし にはがわれわれの日々の生活も、あるいは人生も 成り立たないことは、共通の認識としてあります。
喪に服するのに頭をそるというのふしぎな感覚で す。日本だと、お坊さんか野球部か不祥事を起こ した人か というような気がするので。
なぜ、喪に服する人が頭をそるのかは、わたしも わかりません。正確に言えば、丸坊主にするので はなく、ごく一部だけ残して剃り、残った部分が 垂れ下がったような形になっています。いずれに しても、インドには髪の毛を剃った人はほとんど い な い の で 、 よ く 目 立 ち ま す し 、「 非 日 常 的 な 姿」にうつるのはたしかです。「死のケガレ」と 関係があるのかもしれません。一定期間(1 年く
らい?)は、そのような姿をしています。髪の毛 というのは宗教学的にも重要な身体の部分で、お 坊さんや不祥事を起 こすと剃るの も、ある種 の
「去勢」のようなものです。同じように、軍隊に はいると剃ることがありますが、これも「個性の 剥奪」という効果があり、管理しやすくなるので しょう。服喪の場合、少し違うようですが。
手塚治虫のマンガ「ブッダ」で、何年も同じ姿勢 を続けているといった「苦行」をバラモン僧が行 っている場面を見た覚えがあるが、現代でも続い ているとは思わなかった。ブッダはむしろそのよ うな僧たちを「何の役にも立っていない」と否定 していたように記憶している。数千年たっても、
たいして進歩していないと言うことなのだろうか。
私は手塚治虫の『ブッダ』は読んでいないのです が、インドや仏教のことを知る上では、なかなか よい「参考文献」でしょう。『火の鳥』も「鳳凰 編」のように、かなり仏教的な内容のものがあり ます。バラモン僧が苦行を行うというのは、マン ガ と し て は 自 然 な 感 じ で す が 、 厳 密 に 言 う と 、
「出家したバラモン」といった方が、適切かもし れません。これからの授業の中で紹介しますが、
バラモンとは基本的に家庭を持ち、アーリア人の 伝統社会を守ることが求められているからです。
釈迦が苦行を否定したのは有名な話ですが、苦行 が「劣った方法」であるとは限りません。むしろ、
インドでは仏教的な実践方法は、仏教の衰滅とと もに消えてしまいましたが、苦行は現代に至るま でその伝統が続いています。インド人にとっては
「優れた方法」だったのかもしれません。あるい は、現代のヨーガの流行などを見ると、そのこと はインドに限られないとも言えるでしょう。
「プリーのラタジャートラ祭り」を見て、そうい えばインドは人口のとても多い国だった!と思い ま し た 。 あ の 巨 大 な 山 車 は 動 く の で し ょ う か 。
「儀礼」と祭礼」はどのように違うのですか。広 辞苑では「儀礼:社会的慣習として形式を整えて 行う礼儀」「祭礼:神を祭り儀式、神社の祭り、
祭典」となっていましたが、はっきりと違いがわ
かりません。
ラタジャートラの山車は動きます。このお祭りの 時期には、プリーにインド中から人が集まるよう です。プリーにあるジャガンナート寺院は、イン ド の 巡 礼 の 重 要 な 聖 地 に も な っ て い ま す 。「 儀 礼」と「祭礼」の区別は、日本ではそういうこと なのでしょう。ほか にも関係する 語彙には「 儀 式」「祭式」などがあり、英語の場合、ritual, rite,
ceremony などがあります。このあたりの説明や
定義には、授業ではあまりこだわらないつもりで すが、今回、少し考えてみるつもりです。
数年前に『アーユルヴェーダ健康法』というイン ドの健康法が書かれた本を探したことがあります
(結局、見つかりませんでしたが)。「ヴェーダ」
という語で思い出したのですが、儀礼などとはつ ながりがあるのでしょうか。また、ヴェーダ文献 群にこのようなものも入っているのですか。
ヴェーダといった場合、「リグ・ヴェーダ」「サー マ・ヴェーダ」「ヤジュル・ヴェーダ」「アタルヴ ァ・ヴェーダ」 の 4 種 類が基本です 。「アー ユ ル・ヴェーダ」は基本的に医学書なのですが、ヴ ェーダの権威を付与するために、このような名前 を持っていますし、「第五のヴェーダ」と呼ばれ ることもあります。ただし、ヴェーダ文献とはシ ス テ ム が ず い ぶ ん 異 な り 、「 ア ー ユ ル ・ ヴ ェ ー ダ」という文献は存在しません。ちなみに「アー ユル」とは「命」を 表す言葉なの で、さしず め
「生命科学」となります。アーユル・ヴェーダは 漢方ほどではありませんが、かなり日本や欧米で 関心を持つ人が多く、日本でも相当数の本が出て います。「アーユル・ヴェーダ学会」という専門 的な学会もあります。
婚礼に際して火の周りを回るというのは、どこか らきたものですか。
調べていませんが、おそらくアーリア人や、それ を含むインド=ヨーロッパ語族の古い習慣化もし れません。辻直四郎『ヴェーダ学論集』(岩波書 店)の中に研究があったはずです。ヴェーダの祭 式の時に取り上げますが、火というのはアーリア
人たちの宗教にとってきわめて重要な存在で、同 時に、家庭の火という点でも重視されます。その いずれとも関係するのでしょう。なお、火だけで はなく、水もその横に置いてあるのも、結婚式の 特徴です。べつに「火の用心」のためにおいてあ るのではなく、水も火と同様、シンボリックな意 味を持っていたようです。
ヴェーダが口伝として伝えられてきたのならば、
同じ儀礼であっても、多くのヴァリエーションが ありそうだが、どうなのか?
その通りです。ヴェーダの宗教はとても複雑なの ですが、さらに、さまざまな学派があることがそ れに拍車をかけています。同じ起源の儀礼であっ ても、学派によって方法が異なり、古い形式を伝 えるもの、新しい要素を加味したものなど、多岐 をきわめています。これについても、来週、取り 上げるつもりです。
仏伝図をクシャトリアの儀礼が描かれたものとい うふうに考えたことがなかったので、そういう見 方もできることに、なるほどと思いました。
図像資料というのは、いろいろな使い方が可能で、
日本史などでも、近年、絵巻物などの絵画資料を
「史料」として重視する傾向があります。インド ではまだわずかですが、たとえばサーンチーの浮 き彫りに現れる馬車を、ヴェーダの祭式で用いら れる馬車と比べる研究などがあります。私が学生 の頃、宮治昭先生の仏伝の演習に出席していたと き、先回紹介したような「釈迦の結婚」を取り上 げたことがあります。経典にはあまり結婚式の様 子が書いていなかったので、J. Gonda の Vedic
Ritual(ヴェーダの儀礼)という本を参考にして、
アーリア人の一般的な結婚式の方法が、釈迦の結 婚式にも一致するという趣旨の発表をしました。
20 年ほど前の発想ですが、そのうち、論文にでも 書きたいと思っています。
2. 序(2):仏教儀礼を知るための最小限の基礎知識
儀礼も分類してみると幅広くあり、挨拶まで儀礼 に含めることができるとは思わなかった。たしか に過去の儀礼を正確に復元することは不可能だし、
儀礼の持つ意味を維持したまま、行い続けるのは 難しいことなのかもしれない。
はじめに皆さんに儀礼の具体的な例をあげて、分 類してもらいました。多い人で 20 ほど、あとは 10 前後の方が多かったです。具体的な例としては、
結婚式、葬式、七五三、初詣、卒業式、入学式な どがほとんどの方に見られました。百万石祭りや 祇園祭などのお祭りをあげた方もいました。分類 としては、人生儀礼と暦に従った儀礼、あるいは 仏教と神道のように、宗教に即した分類が見られ ました。「現世の儀礼」と「祖先への儀礼」とい う分類もありました。具体的な例としてあいさつ をあげている人はいませんでしたが、お一人だけ
「いただきます、ごちそうさま」「乾杯」をあげ
ている人がいました。これはあいさつの一部かも しれません。インドの儀礼は多様ですが、日本に も膨大な儀礼があるはずです。そのいずれにも適 用できるような理論や枠組みを考えていきたいと 思います。具体的な例を挙げて、自分の考えの妥 当性を検証することや、分類を考えることは、物 事をとらえる基本なので、ときどきやってみてく ださい。
ひとつの儀礼の中に多くの儀式が複合的に存在し ているのはごくふつうのことではないだろうか。
インドの場合は、総合して表す言葉がないために、
特異に感じるのではないだろうか。
そのとおりで、儀礼や儀式は複合的な形をとるこ とが一般的です。しかし、われわれはそれをあま り意識しないで、見たり行ったりしているのでは ないでしょうか。インドの場合、儀礼を行う者や
儀礼を伝える者によっても、それが強く意識され ているという点が注目されます。しかも、儀礼を 構成する「部分」が、転用されたり、変形された りするという柔軟さも持っています。
・儀礼研究において、意味の罠があるという話が ありましたが、今回主題になっているインドの儀 礼の話を聞くと、私はまず「意味は何だろう」と 考えてしまいます。でも、自分自身が行う儀礼を 考えてみると、はっきり意味を知らないまま行っ ているものも多いように思います。儀礼は「行う こと自体」に意味があるのかなと思いました。
・儀礼は文字を通して伝える文化とは違うため、
歴史的に残ることがむずかしく、よって研究する ことがむずかしいことがわかった。文化人類学の 授業で習った用語も出てきたことからも、儀礼は フィールドワークの世界との結びつきも強いのだ ろうと思った。
かつては、儀礼研究といえば、その意味を探るこ とが中心でした。特に文化人類学では、儀礼の象 徴的な意味探しが、もっとも人気のある研究のひ とつでしたが、現在ではそのような研究はほとん ど絶滅してしまいました。研究者の恣意的な解釈 からは、なにも生まれないことに気がついたので しょう。インドの儀礼の場合、さらに事態は複雑 です。授業でこれからお話しするように、インド では何千年も前の儀礼も、ヴェーダなどの文字資 料として残っています。しかし、人類学のように フィールドを中心とした研究者たちは、このよう な文献はまず読みません。そのため、人類学者が
「この儀礼はこのような象徴的な意味がある」と 言ったところで、文献を研究する人たちから「そ んなことは文献には書いていない。文献が伝える 意味はこうである」と反論されるおそれがあるか らです。そのため、文献が伝えるような伝統的な 儀礼は、人類学者は研究対象としては避け、テキ ストを持たないような「村の儀礼」をもっぱら対 象としてきました。逆に文献学者もテキストがな いような儀礼は研究対象とはしてこなかったので、
「インドの儀礼」をともに研究していながら、接 点がほとんどなかったのです。ただし、私個人と
しては人類学の儀礼研究には強い関心があります。
私の学生の頃は、構造主義や記号論が流行してい て、人文科学の中でも文化人類学は人気の学問分 野でした(いまでも それなりに人 気はありま す が)。他大学の人類学の院生などと一緒に儀礼の 研究会をしたこともあります。残念ながら今では ほとんど交流はありませんが、そのときに勉強し たことはそれなりに役に立っています。
「儀礼」という言葉は、人間の行動を示す言葉の グループ名ですよね。たとえば、そこから細分化 して、もっと細かい 動作の一つ一 つをまとめ て
「儀礼」という言葉で片づけることができると思 うのですが、古代からいろんなしきたりや作法を 面々と続けているインドの文化において、その行 動のグループ名である「儀礼」を指す言葉がない のには驚きました。
おそらく、インドではそのような行動があまりに たくさんあって、ありふれているという理由で、
それをまとめて指す言葉がなかったのでしょう。
授業では「儀礼」に相当する言葉はkarmaすなわ ち「行為」であると紹介しましたが、しきたりや 作法を表す言葉としては dharma の方が適当かも しれません。この言葉も広い意味を持ち、仏教の 教えのような「法」を指す場合にも用いられます
( 仏 法 と い う 言 葉 も あ り ま す )。 本 来 の 意 味 は
「秩序」に近く、社会や文化を維持する慣習やし きたりを指します。karma と同様、dharma もイ ンドの人々にとって宗教的がいかに身近な存在で あるかをよく示しています。
儀礼をどうとらえるかはすごくむずかしいと思い ました。挨拶などもたしかに儀礼だと考えること ができるけど、それと宗教的な儀礼とは形式化や 習慣化という点では似ているかもしれないけれど、
それ以外の点では実質も受ける印象もだいぶん違 うので、儀礼の中でも分けて考えた方がいいよう に私は思いました。
人間の行動のうち、どの範囲までを儀礼と見なす か、儀礼はどのように分類できるかは、たしかに 重要なことです。先回紹介した事典の記述などは、
その一部です。ただ、この授業ではあまりそれに はとらわれないで、むしろ、インドの儀礼の多様 性と、日本の儀礼との比較に焦点を当てたいと思 います。
インドで「儀礼」を指す語について、「動詞から 名詞が作られている」と強調しておっしゃってい ましたが、日本語でも英語でも同じことが言える と思います。何かこの場合においてだけ特別であ るというような意味を持っているのですか(うま く書けませんが )。教えてください。
たしかに日本語でも英語でも同じようなことはあ るでしょう。しかし、葬儀や法事、卒業式、結婚 式、百万石祭り、ねぶた祭り、七五三などの名称 は、かならずしも動詞から作られたとも言えない ようです。インドの儀礼の名が動詞からというの は、その言語であるサンスクリットの特徴でもあ ります。多くのサンスクリットの名詞は動詞から 作られているからです。言語体系の中心に動詞が あるので、儀礼に限らず、名詞は動詞の派生語と なります。むしろ強調したかったのは、儀礼全体
を指す語が「行う」というきわめて一般的な動詞 から作られたkarmaであることと、複合的な儀礼 であっても、その中心的な行為の名称が、儀礼全 体の総称にもなっていることです。後者について は、授業の中であらためて取り上げます。
京極夏彦の小説『魍魎の匣』の中で、「オカルト サイエンスとは本来<隠された知識>と訳される べきだ」というような内容が書かれていました。
資料の中に出てきた儀礼においての「オカルト」
とは、そういった「明かされないことで意味を持 つ」ものですか。それとも現在流布された意味で の「超自然的」というようなものですか。
どちらの意味でもとれるような気がします。「隠 された知識」といった場合は、錬金術やカバラー のようなヨーロッパの神秘思想が意識されている のでしょうか。「超自然的」といった場合も、合 理主義や科学的思考を超越したという感じがする ので、別に間違ってはいないようです。呪術や占 星術もオカルトだと思います。
3. 聖と俗の接点(1):プージャー(供養法)の内容、形成、展開
ヴェーダ祭式の互酬関係の変化が興味深かった。
献供に対し恩恵を受ける(A)では、恩恵があって それに感謝する形で献供をするのか、恩恵を求め て献供するのかどちらですか。
恩恵を求めて献供する方です。儀礼の構造が変化 して、祭官の地位が絶対化するのも、祭式が宇宙 全体の枠組みに力を及ぼし、望んだ結果がそれに よってもたらされるという前提があるからです。
儀礼の動作だけでなく、写真の中に写っている器 の形も日本に共通しているものがあるようで、興 味深い。
儀礼を構成する要素の中で、儀礼の道具というの は驚くほど忠実に伝えられています。今回紹介す る護摩でも護摩の炉や護摩の杓などの形は、イン
ド、チベット、日本などで用いられているものと、
とてもよく似ています。それは儀礼の順序や動作 なども同様で、儀礼においてそのような形式がい かに重要であったかがよくわかります。それに対 して、一番よく変化するのが、おそらく儀礼の持 つ意味でしょう。新しい意味が付加されたり、全 く異なる意味にすり替えられたりするのは、しば しば見られます。儀礼がどのような意味を持って いるかは、これまでにも紹介してきたように、儀 礼を研究するときにまず注意が向けられる点です が、それを明らかにすることの難しさが、ここか らもわかります。
プージャーは墓参りのようなものかと感じたが、
日本で墓参りはそんなに頻繁に行われないように
思うが、プージャーの場合はどれくらいの頻度で 行われるのでしょうか。
墓参りを毎日している人もいるかもしれませんが、
たしかにふつうは年に数回でしょう。それに対し てプージャーは、基本的に毎日します。このよう なプージャーを「常なるプージャー」という意味 の「ニトヤプージャー」といいます。インドやネ パールに行くと、ヒンドゥー教のお寺やヒンドゥ ー教徒の家では、一日に数回、とくに朝晩にはか ならずプージャーが行われています。それ以外に、
毎月や毎年の決まった日に行われるプージャーや、
何年に一度かの大規模なプージャーもあります。
毎日のプージャーは「おつとめ」、大規模なプー ジャーは「法要」に近いイメージです。
配布された文の中に文献学と人類学の儀礼に対す る研究がかみ合わないという趣旨の内容があった が、今回紹介されたプージャーはどちらにも関連 するのではないかと思った。
たしかにプージャーにはそのような可能性が含ま れていますが、実際の研究史を見ると、圧倒的に 多いのは文献学からの研究です。これもやはり、
儀軌のような儀礼の文献がプージャーの場合も存 在することによるのでしょう。また、プージャー のように神々をお迎えして供物を捧げるというだ けの儀礼は、人類学者にとってあまり魅力的では なかったのかもしれません。もっとダイナミック な、あるいはドラマチックな儀礼で、社会や国家 のあり方を明瞭に意識したような儀礼が、人類学 では研究対象として好まれるようです。
インドではバターを燃やして供養とするとあった が、お線香もインドからきたものであろうか。バ ターも線香のように香りがしたのだろうか。
バターも燃やすと煙や煤が出て、独特のにおいが するはずで、それを神々が好んだと考えられたよ うですが、お線香のように、においを出すことだ けを目的とする供物とは違います。なお、授業で はバターと紹介しましたが、実際の供物は精製さ れた動物性油脂で、「ギー」と呼ばれるものです。
現在のインドでも毎日の料理で使われています。
雪印の箱入りのバターのようなイメージではあり ません。今回紹介するように、火の中にバターを 投ずる儀礼と、お線香を含む供物を順番に供える プージャーは、起源が別です。お線香の起源はよ くわかりませんが、日本のようなお線香の形は、
中国が直接の起源でしょう。インドには円錐形や 渦巻き型(蚊取り線 香のもっと細 くて長いか ん じ)など、さまざまな線香があります。
東洋的な思想には自分の存在を無と考えるような ものがありますよね。有を生み出すのは無である といったときの無を宇宙と考えて、「梵我一如」
のいう意味をとらえようとすると、「空」に近い 印象を受けました。と勝手に考えてみたのですが、
ウパニシャッドがこの概念を根本にして、どのよ うに哲学を展開しているのか、よければ少し教え てください。
仏教の「空」と、おそらく中国哲学的な「無」は 異なる概念です。「空」の基礎となっているのは、
縁起説です。あらゆるものは因果関係のもとで成 立しているにすぎなく、無常、すなわち永遠に存 在するものではあり得ないと、仏教は考えていま した。その場合、無も「無という存在」を意味す るので、やはり無そのもの存在は認められません。
「梵我一如」に代表されるウパニシャッドの哲学 を、簡単に説明するのはなかなか難しいですが、
少なくとも、このような無や空とも違う考え方で す。宇宙は無でも空でもなく、ブラフマン(梵)
という根本的な実在者と見なされます。ブラフマ ンは永遠に存在し、あらゆる現象を超越していま すが、それと同時にあらゆる現象として顕現して います(理解不可能?)。古代インドの哲学はイ ンド哲学史の基本的な文献に載っていますので、
読んでみてください。立川武蔵『はじめてのイン ド哲学』服部正明『古代インドの神秘思想』(い ずれも講談社現代新書)などがおすすめです。
・ふつう儀礼が失敗した場合、信心が足りなかっ たせいにすると思うのだが、インドでは規定が違 うというようになるのが興味深かった。思想より も行為を規定しようとするのが、他宗とは異質な
ところなのではないか。
・供物はまるでお子様ランチのようですが、盛り 方や内容にもきまりがあったりするのでしょうか。
ヤジュルヴェーダの黒と白の違いは何なのでしょ うか。黒魔法、白魔法のようなものでしょうか。
もしそうだとしたら、黒が充実しすぎとか 。 内容は供物の種類が決まっているので、変更する ことは難しいでしょうが、盛り方はあまり厳密な ものではありません。そのあたりは日本の儀礼と ずいぶん雰囲気が違い、基本さえ守られていたら、
あとはかなり自由に行われます。これはインドの 儀礼一般に言えることで、形式を絶対化し、それ を墨守することにはあまり熱意は見られません。
その一方で、マントラを正しく唱えることには、
きわめて厳格です。ヤジュルヴェーダの黒と白の 名称の由来には、次のような伝説があるそうです。
ヤジュル・ヴェーダの開祖とされるヴァイシャン パーヤナに 27 人の門人があり、その中のひとり ヤージュニャヴァルキヤは、詩の命にしたがわず、
その怒りをかって師のもとを去った。その後、彼 は駿馬(原語はヴァージン)の姿をとって現れた 太陽神から、新鮮なヤジュス(祭詞)を掲示され て、ヴァージン 15 派の開祖となった。他の門人 は「しゃこ」(鳥の種類で原語はティッティリ)
となって、ヤージュニャヴァルキヤの吐瀉した祭 詞を食らい、タイッティーリヤ派すなわちチャラ カ・アドヴァリウ(広義では黒ヤジュル・ヴェー ダ派全体)となった (以上、辻『 インド文明 の
曙』p.118)。具体的には、黒ヤジュルはマントラ
とブラーフマナが併存して、両者をサンヒターと 呼び、白ヤジュルは両者を分離させ、前者をサン ヒターとして独立させています。黒ヤジュルの方 が成立が古く、白ヤジュルが新しいことになりま す(同書、p. 2)。このように、白ヤジュルと黒ヤ ジュルは、黒魔法と白魔法には対応していません。
むしろ、同じヤジュルヴェーダに属していながら、
早い段階で分裂し、まったく異なる伝統を守る集 団なのです。なお、ヴェーダの中でも黒魔法と白 魔法に近いものを持っているのは、アタルヴァヴ ェーダで、アタルヴァンとアンギラスという二つ
のグループがあり(怪獣の名前のようです)、前 者が穏健な呪法、後者が調伏などの危険な呪法を もっぱらとしています。
アタルヴァ・ヴェーダのブラフマン祭官は、呪法 を使うと聞いて驚きました。誰に対して行うので しょうか。公に呪殺が認められた社会なのですか
(もし呪い殺せるとしたらの話ですが)
『アタルヴァ・ヴェーダ』のサンヒター部分は、
岩波文庫で読むことができますから、一度読んで みてください。数千年前のインドの人々も、われ われと同じようなことを望んで生きていたことが よくわかります。お金が儲かったり、病気が治っ たり、恋愛が成就したり、いやな相手がこの世か らいなくなったりといった呪法がたくさん出てき ます。呪殺が公に認められていたかどうかはわか りませんが、頻繁に行われていたのはたしかでし ょう。別にそれはインドのその時代だけではなく、
世界中で今でも行われていることです(もちろん、
実際に効果があるかどうかは別です)。オウム真 理教の事件以来、宗教は怖いものという見方が多 くなっていますが、それは宗教を甘く見ていたこ との裏返しで、むしろ、宗教とは基本的に怖いも のと見た方が妥当でしょう。怖いものだから惹か れるところもあるのです。
プジャリの中にときどき日本のお供えの類似点が 見え、不思議な感覚だった。そういえば、お盆の ルーツはソグド人の拝火教だと聞いたことがある。
お盆の起源がゾロアスター教だったというのは、
知りませんでした。迎え火をたくところなどが、
その根拠なのでしょうか。お盆についてはその名 称も特殊なので、起源については諸説あるようで す。日本のお盆の直接の典拠となっているのは、
中国で成立した『盂蘭盆経』だと思いますが、目 揵連の亡母説話が重要なモチーフになっていて、
なかなか複雑です。お盆も重要な儀礼でしょうが、
この授業で手に余るので扱えないと思います。関 心がある人は『仏教文化事典』のお盆の項などを 参照してください。
4. 聖と俗の接点(2):護摩、十八道次第にみられるインド的要素
金枝篇であったように、火を生み出すものとして の樹木信仰の起源として論文が読めるのが興味深 かった。昔は火は木に内在するものとしてとらえ られていたことの表れなのではないだろうか。
フレイザーの『金枝篇』は宗教学の古典として、
多くの情報をもたらしてくれます。私はあまりき ちんと読んでいないのですが、火が木に内在する という信仰も含まれているのですね。インドの場 合、火はあらゆるところに存在することになって います。実際の燃える火として、竈やたき火など はもちろん、人間の体内にも存在します。一種の エネルギーなのでしょう。興味深いのは、水の中 にも存在すると考えられていました。『マンダラ の密教儀礼』でも書 いたことなの ですが、イ ン ド・ヨーロッパ系の言葉では、火に「生命のある 火」と「生命のない火」という 2 種があり、火の 神であるアグニは前者に該当します。これと同様 に、水にも生命の有無によって二つの語彙がある という特徴があります。日本語にはそんなことは ありません。火や水のとらえ方が、われわれと全 く異なるということなのでしょう。
鷲が飛んでいくイメージがいいなぁと思いました。
鳥の図に数がふってあるのは、どんな意味の数字 ですか。
たしか、煉瓦を積んでいく順番だと思います。
・16 が聖なる数と、ちらりとおっしゃっていまし たが、ほかにもいろいろと聖なる数はありますよ ね。宗教によって違うというとこもあるとは思い ますが、どんな数でも聖なる数のような気がして しまいます。
・3 という数がヴェーダ上で特別とのことですが、
西洋でもたしか同じだったと思います。そういう 類似について考えたら、おもしろそうだと思いま した。
アグニチャヤナの場合、祭火の数でもある 3 が特
別なシンボリズムを持ち、儀礼の重要な枠組みに なります。でも、はじめの方のコメントのように、
どんな数もたいてい「聖なる数」になるようです。
仏教でも二諦説、三身論、四聖諦、五蘊、六識、
七覚支、八正道といったように、どんな数でも何 かの教義と結びついたものがあります。私の印象 ですが、日本や中国では偶数が聖なる数として好 まれ、インドではどちらかというと、奇数が多い ようです。また、16 のように 2 の 4 乗という均 質な部分からなる数が好まれると同時に、素数の ように、それ以上分解できない数も「聖なる数」
になる傾向があります。これは、「聖なるもの」
のイメージが「バランスのとれた完全体」という 極と、「いびつな不完全体」というもう一つの極 にしばしば結びつけられるからではないかと思っ ています。
火=子どもという考え方には驚きました。
火をおこすというイメージと生殖行為は、インド の神話ではしばしば結びつけられます。火をおこ すことによって生まれた火は、したがって子ども ということになります。
鳥の形の祭壇を作って儀式をやるとき、神々に供 物を捧げるのは、2 の鳥の祭壇になるそうですが、
そうなると、元々神々に供物を捧げるのに使われ ていたアーハヴァニーヤの火はどうなるんでしょ うか。そこは使わないことになるんですか。
わたしもこれは気がつきませんでした。どうなる んでしょうね。詳しく調べていないのでわかりま せんが、儀式が複雑になった結果、儀式の中でア ーハヴァニーヤを使う場合と、鳥の形をした祭壇 を使う場合に分かれたのではないかと思います。
シュラウタ祭式の起源神話が、読みやすくおもし ろかった。プージャーがユニットごとに形成され ているとき、あるユニットを取り除いたり、新た
なユニットを追加したりということが、ごく自然 にできそうだと思った。
儀礼がユニットでできていることのメリットがそ こにあります。儀礼がユニットでできているのは、
別にインドに限られたわけではなく、日本の儀礼 でも一般的にみられるものです。これはちょうど、
文章が文節や単語でできていることに似ていて、
文節や単語を入れ替えることで、別の意味の文章 ができあがることに対応します。インドでは、儀 礼を行う人々が、儀礼がユニットでできているこ とを明瞭に意識していてことが特徴的でしょう。
それは、今回紹介する護摩などでも確認できると 思います。
・聖なるものと性なるものという話を聞いて、土 偶を思い出しました。土偶は女性をかたどったも のですが、名前や目的は忘れましたが男性を表す ものも作られていたような記憶があります。
・宇宙を構成する三つの世界をつなぐのは火であ り、人体は宇宙であり、火は生命の象徴であると いう構図が、抽象的ではあるが、私の中で漠然と つながった。最初はあまりわからなかったが、聖 なるもの=性なるものという考えも、何となくで はあるが理解できた。
人体は宇宙であるという考え方は、小宇宙として の身体と、大宇宙としての実際の世界が、本質的 に同一であるという、神秘主義的な考え方として、
インドばかりではなく、ヨーロッパの思想でもよ く登場します。日本人の場合、世界の構造につい て関心が向けられることがほとんどないため、荒 唐無稽な考え方のような気がしますが、宇宙全体 をひとつの生命体としてとらえることや、その一 部を形成している人体が、突き詰めると全体とつ ながっているという考え方は、エコロジーや環境 問題と結びつく現代的な発想だと、私は思います。
「聖なるものは性なるもの」という話は、火の起 源神話として、ついでに紹介したものですが、普 遍的な真理だと思います。日本神話のイザナギと イザナミによる国産みも、生殖行為によって宇宙 が創造されたという考え方の、わかりやすい例で す。授業でも少しふれましたが、現代社会は性に
ついてのタブーを緩和し、白日の下にさらすこと で、かえって性の持つ不思議さや高尚さを損なっ ているような気がします。近代以前の社会では、
性は隠匿されるもの、公の場でふれてはいけない ものという扱いを受けることで、その聖性のよう なものを維持していたという気がします(それが 良いか悪いかは別の問題です)。だいたい、生命 の誕生ほど、宇宙の中で神秘的なものはほかには ないでしょう。柳沢桂子さんのように、生命学者 はしばしば生命の中に「神」を見いだします。
プージャーの儀礼が 16 段階にものぼることは驚 きました。こんなに単純だけど、そのひとつひと つに深い意味があり、それを毎日と言っていいほ ど行っている。もはや多宗教ではなく無宗教と言 っていい日本では考えにくいことと感じました。
また、祭火の三種がそれぞれ大地、中空、天界を 表すということなども、よく考えられたものと感 じました。
たしかに、インドの宗教を見ると、この現代社会 において、よく伝統的な儀礼が守られているなと 感心します。でも、日本人については、私は少し 違う感覚を持っています。それは、現代の日本人 がとくに無宗教ではなく、伝統的な宗教とは違う 側面で、宗教的な行為を行っているというもので す。たとえば、血液型占いや星占いは、性別や年 齢を問わず、ひろく関心を集めていますが、これ も宗教的な行為や態度と見ていいのではないでし ょうか。また、皆さんはたいてい携帯電話を持っ ていて、こまめにメールをチェックしていると思 いますが、これも一種の儀礼行為と見ることはで きないでしょうか。エネルギー保存の法則のよう に、人間が宗教や儀礼に向ける関心は、つねに一 定のような気がします。
足を洗い、口もそそぐなら、手も洗わないのかと 思ってしまうのですが、お迎えの水として、手を 洗うものは必要ないのでしょうか。
アーチャマナは口そそぎの水ですが、同時に手も 洗います。コップの水でそのままうがいをするの ではなく、容器の水を右手にいったんすくい、そ
の水を口に含んで口をそそぎます。アルガ(アル ギヤ)も手を洗う水として用いられることがあり ます。
儀礼の場での象徴性はおもしろいですね。中空と 天を二つに分けるのが新鮮でしたが、三つの世界 の形がそれぞれ円、半月、正方形というのも少し 驚きました。けれど、宇宙の構造や地球の形を知 らなければ、私たちも何かの形を想像するのです かね。
インドの場合、須弥山を中心とした世界観のよう に、ある程度整備さ れたものでも 、大地は円 、 神々の領域は正方形というイメージがあります。
特定の宗教にかかわらず、インドでは広くみられ るものでしょう。中国はこの反対で、天は円、大 地は方形となることが多いようです。風水の思想 でもこの二つのイメージが基本です。日本では世 界全体を幾何学的なイメージでとらえることはあ まり好まれず、世界は山や川、海のような自然の 景観としてとらえられるの一般的だったようです。
私にとって宇宙はガリレオの天動説から始まって、
今は NASA をはじめとした先進各国の科学技術の 粋が広げる現実的な空間のイメージですが、天体 望遠鏡すらなかった時代から、インドの人々が宇 宙を意識した儀礼を行っていたというのがとても 不思議。プージャーは「あえのこと」にそっくり ですね。儀式の後に 「間違ってた らごめんな さ い」というのは、隠れキリシタンの儀式にも共通
するところがあります。アグニは高天原の神様に も共通ですね。いろいろな共通点を発見できると ちょっとうれしい気分になります。
宇宙のイメージについては、私の教養の授業でよ く取り上げるのですが、おそらくほとんどの日本 人にとっても、天体望遠鏡で見た「暗黒の空間の なかの星々」でしょう。でも、これは二つの点で、
「本当の宇宙」とは全く異なるものと言うことも できます。ひとつは 「無限の広が りを持った 宇 宙」が有限のイメージで示されていることと、も う一つは宇宙の重要な一員である私(あるいはあ なた)がそこには含まれていないことです。この 両者をひとつのイメージで表すことは、もちろん 不可能です。宇宙とはそもそも本質的に「表現不 可能」なものなのです。それをどのように表すか で、人間の文化の違いが現れるのでしょう。あえ のことについては、以前、別の授業でも指摘をし てもらったことがありますが、たしかによく似て います。日本の場合、農耕儀礼の一種で、田の神 様を家にお迎えして、収穫に感謝するといわれて いて、プージャーとは目的や神のとらえ方が違い ます。あえのことのような儀礼は日本の各地(あ るいは世界各地)でも見られるので、一種の普遍 的 な 儀 礼 と よ ぶ こ と も で き る か も し れ ま せ ん 。
「いろいろな共通点の発見」というのは、たしか におもしろいことです。ぜひいろいろ発見して、
さらにその理由や共通点のなかの相違点などにも 注目してください
5. 宇宙の開闢(1):建築儀礼とマンダラ制作儀礼
杓に何か模様が彫られていましたが、何の模様な のですか。福井県にも初詣に行く場所として、有 名な成田山があるのですが、それと今日出てきた 護摩をする寺とは無関係ですよね。
ひょうたん型をした大杓の方は金剛杵、丸い小杓 の方は法輪の模様です。密教的なデザインで、イ ンドのヴェーダ祭式の杓には、このような模様は
ありません。成田山新勝寺は真言宗智山派の重要 な寺院で、おそらく規模では派内で一番でしょう。
成田山は各地に「支店」のような別院を持ってい ます。名古屋や大阪にあるのは聞いていましたが、
福井の三国町のもの もその一つの ようですね 。 HPもあります(http://www.naritasan-hokuriku.
or.jp/)。それによると、お正月に「新春大護 摩
供」があるようです。初詣のついでに見てきてく ださい。
後醍醐天皇が鎌倉幕府を調伏させたときに、護摩 の見取り図がもれて、幕府に気づかれたという話 が納得できた。
そういう話があるのですか。おもしろいですね。
日本には儀礼の見取り図のようなものがかなり残 されていて、古いものでは平安時代のものもあり ます。儀礼をするときに参照したり、次代のため に記録として残したりしたようです。インドには このようなものが全くないので、文献を読むとき も想像しながら読まなければなりません。同じよ うな儀礼をしていても、日本とインドでは儀礼に 対する構えのようなものが違うのでしょう。
四種法の内容が紹介されましたが、仏教といえば
「不殺生」や「不邪淫」というイメージがあった ので、怨みの相手を退散あるいは死滅させる目的 の「降伏」という方があることや、「敬愛」とい う修法の中で、火を娼婦の家からもらってくると いう事実が意外でした。後者に関して、なぜあえ て娼婦を選んだのか不思議でした。
火元として娼婦の家の火というのは、ヴェーダの 祭式にも現れるそうで、インドではかなり古い伝 統のようです。異性を自分の意のままにするとい う敬愛の目的と、娼婦という職業?は、簡単に結 びつくような気がしますが、ひょっとすると、も ともと護摩の火の火元としてあった娼婦の家の火 が、敬愛に限定されていったのかもしれません。
前々回、紹介した神話のように、火の誕生神話に は性的なイメージが見られます。火を燃やすこと
(あるいは火をおこすこと)と生命が誕生するこ とがパラレルなのでしょう。古代インドでは火は 生き物なのです。護摩の儀礼が四種法として整備 されるのはヒンドゥー教や密教の時代で、ヴェー ダよりもずっと遅れます。
四種法は人間の主な願望だとおっしゃいましたが、
四つしかないうちのひとつに「降伏」のようなも のがあるということに、驚きはしなかったにして
も、ショッキングではありました。人間を救済す ることにストレートであることは、残酷な面もあ るのですね。それにしても仏教用語の読み方は、
いつも一応気にしていましたが、意外とアバウト なのには気が抜けました。
仏教用語は基本的に「呉音」で読むので、なれな いとなかなか正しく読めません。これまでも、国 語の漢字のテストなどで苦労したことがあるので はないでしょうか。「アバウト」というのは少し 違って、ほとんどの用語は決まった読み方があり ますが、中には特定の宗派やさらには派内の分派 で異なる読みがあるのです。授業で取り上げる仏 教儀礼は密教系のものが多いのですが、たとえば 高野山真言宗(真言宗のなかの一派)のみの読み 方があり、学会発表のような場で間違った読み方 をすると、指摘されたり怒られたりします(怒ら れるのは派内の人間が間違えて、自分の先生や上 司からという場合です)。
降伏の時にはほかの三つとは逆になるというよう な、同じような儀式を行っても、求めるものがよ い結果か悪い結果かで、逆になるものが現れると いうことはおもしろいと思います。てるてる坊主 も逆につるすと雨を願うことになると聞いたこと があります。毒にも薬にもなるような二面性を持 っているんですね。
降伏の時は逆になるという規定は、わたしもおも しろいと思って論文に書いたことがあります。一 見すると、四種法は四つが対等で、変数のような ところを四種法に応じて変えればできあがるよう な感じがしたのですが、降伏とそれ以外の三種法 という二分法がいくつか見られ、しかもそれが表 と裏のような関係があることに注目しました。こ のような「二項対立」が儀礼に持ち込まれるのは かなり一般的です。護摩は四種法という四分法と、
この二項対立が組み合わされた体系を持っている ようです。なお、インドでは『アタルヴァ・ヴェ ーダ』に、このような白魔術と黒魔術が現れ、そ れぞれを扱う集団がアタルヴァンとアンギラスと よばれます。護摩の場合、このような伝統的な二 分法の上に四種法をかぶせたようにもとらえられ
るでしょう。
・護摩の儀礼ですが、神を一度に二人呼ぶ必要が あるのでしょうか。一人ずつ呼べばユニットを組 み合わせなくてもよいのでは。
・護摩の構成のところで、火天を招き寄せたあと で不動明王を招くとありますが、火天であるアグ ニと不動明王には何か共通するものがあるのでし ょうか?不動明王の像ではだいたい火がともにあ るので、関係があるのでしょうか。
仏教の護摩の場合、火天は仏教の仏ではないので、
本尊として何かの仏を呼んでこなければなりませ ん。火天は護摩の儀礼には必須で、これを省略す ることはできないので、火天と本尊とに対する二 段構えになります。日本の護摩儀礼では、さらに 別の神や仏に対するユニットを加えて、三段構え、
四段構えという構造をとることもあります。いず れの場合も、火天の儀礼を最後まで行わないで、
途中から本尊やその他の神仏への護摩を入れます が、これは護摩の火が燃えている限り、火天を儀 礼の場にとどめておかなければならないからでし ょう(中心の場は本尊などに譲りますが)。また、
儀礼をユニットで組み合わせる場合、ひとつのユ ニットを別のユニットで挟み込むというのは、ヴ ェーダの祭式以来、インドの儀礼の構成でしばし ば見られるそうで、そのような伝統も関係するか もしれません。日本の護摩で本尊として招かれる 仏は、圧倒的に不動が多く、これは空海以来の伝 統です。光背が火炎であることも護摩のイメージ と結びつきますが、大日如来という密教の最高神 と、不動が密接な関係があることも重要でしょう
(不動は大日の化身とされることもあります)。
これに対し、インドやチベットでは不動が護摩の 本尊となることはほとんどなく、さまざまな仏が 現れます。
マンダラはインドの家庭のどこにでもあるものな のですか。護摩の火が場所によって効果が違うの は、プロパンガスなどでどこでも火に差がないよ うな日本では考えられない。インド独自の文化的 な考えだと思った。
マンダラは仏教の儀礼で用いられるものなので、
現在のインドにはありません。今回詳しく見るよ うに、灌頂などの儀礼のために、僧院内に作られ、
儀礼が終わると壊されました。マンダラによく似 たものにヤントラがあり、これも神を規則的に配 置したものですが、これはヒンドゥー教の家庭で は、お祭りなどの時に家の前に描きます。そこに 神々を招くためで、機能としてはマンダラとよく 似ています。護摩の火をいろいろなところからと ってくるのは、インド独自ですが、家庭の竈に神 が い る と い う 信 仰 は 日 本 で も 広 く 見 ら れ 、「 竈 神」と総称されることもあります。都市部をのぞ いて、家の中に竈や囲炉裏があることは、日本で はついこのあいだまで、当たり前のことでした。
護摩に降伏があったのに驚きました。呪いっぽく てこわそうでした。今でも護摩木にそういうこと を書いても燃やしてもらえるんでしょうか。
基本的に降伏護摩は呪いです。そもそも、呪術一 般と儀礼との境界もあいまいです。護摩木に「怨 敵退散」などと書いても、おそらく気にしないで 燃やしてもらえると思います。大きいお寺の場合、
一本一本の護摩木にまで目を通すこともないでし ょう。ただし、受付で断られる可能性もあるので、
一度、どこかで試してみてください。もっとも、
一般に日本の護摩は息災護摩なので、授業でも説 明したように、降伏や調伏とは火炉の形をはじめ、
あらゆる点で異なります。実際の儀礼の効果がな いわけですから、護摩木が無駄になりますね。本 当に降伏護摩をやってほしい場合は、特別に真言 のお坊さんなどに頼むしかないでしょう。
護摩壇の配置図を見ると、塗香ばかり三つもある んですが、これはそれぞれ違うんでしょうか。そ れとも数あわせのようなものでしょうか。
これは私もわかりません。機会があれば、実際に 護摩を焚く人に聞いてみます。可能性として、儀 礼の場面に応じて、別の塗香器を使う。塗香の種 類に何種類かある。ひとつしか使わないが、形式 的に3つそろえておく。などが考えられます。
6. 宇宙の開闢(2):神話世界の再現
地鎮祭とプルブの結界はたしかによく似ているけ れど、それは地鎮祭のルーツがインドやチベット と直結しているととらえて良いのでしょうか。
直結とまでは言えませんが、ルーツはインドにあ るのは多分たしかでしょう。日本における地鎮祭 の歴史や発展を、私は調べたことがありませんが、
本来、地鎮祭は密教儀礼であったということを、
学生のころに宮坂宥勝先生からお聞きしたことが あります。また、高野山では地鎮祭を神主さんで はなく、真言宗のお坊さんが行なっていたことを 見たことがあります。キーラのような道具を使う 儀礼は、おそらく世界のあちこちで見られると思 いますが、インドではそれが古代から文献に残さ れていることで、インド内部ではその流れを確認 することができます。密教儀礼としてのキーラの 儀礼が、日本では本来の建築儀礼として再び用い られるようになったと考えています。
『妙吉最勝根本大経王経』の呪殺は、十悪五逆、
謗三宝のやからにのみ使い、恣意に殺すと呪術を 行なった人間に悪報があると書いてあるが、この 文はそれにもかかわらず好きに使われていたので しょうか。
文献に記述があるということは、実際にそのよう な呪殺が行われていたからでしょう。密教の修法 としての呪殺は、チベット密教でもよく知られて いて、ミラレパやド ルジェタクな どが、実際 に 人々を「慈悲の心」から殺した伝えられています。
宗教が「正当な理由」のもとでこのようなことを 行うのはむしろ一般的で、ヨーロッパでも十字軍 や魔女狩りにおいて、何百万人の人たちが殺され ています。ナチスによるユダヤ人虐殺も、宗教的 な要素が全くないとは言い切れません。仏教の修 法としての呪殺などはかわいいものでしょう。オ ウム真理教だけが特別ではないのです。
仏教ではすべてにおいて宇宙に見立てられている ことがよくわかった。実は私は仏教とヒンドゥー 教の関係がいまいちよくわかっていないのですが、
どういう関係なのでしょうか。
インドの儀礼では宇宙や世界をキーワードにする と理解できるものがたくさんあります。インドの 宗教の多くが、祭式を最も重要な実践と位置づけ るヴェーダの宗教の伝統を、多少なりとも受け継 ぐからでしょう。以前に紹介したように、ヴェー ダの祭式はその背景に壮大なコスモロジーや一元 論を持っています。そのため、儀礼を理解するた めにはこのような視点が必要なのです。仏教とヒ ンドゥー教との関係は、簡単に説明するのは難し いです。仏教は紀元前 5 世紀頃に釈迦によって開 かれた宗教で、その後、13 世紀頃までインドで続 きます。縁起、中道、四諦八正道などを教義の基 礎とし、さらに大乗仏教には空や唯識、如来蔵な どの思想が登場します。ヒンドゥー教は紀元前後 ころから現れましたが、宗教というよりも、生活 全般を規定するような慣習と見た方が適切でしょ う。その中に神々の体系や神話、あるいは救済や 解脱の方法が含まれています。儀礼に関していえ ば、仏教はインドの宗教では珍しく、本来は儀礼 をあまり重視しませんでした。しかし、密教の時 代、あるいはその前の大乗仏教の時代から、ヒン ドゥー教と同じように、さまざまな儀礼を行うよ うになります。その多くはヒンドゥー教の儀礼に 共通するため、仏教のヒンドゥー教化とも見えま すが、むしろ、儀礼を求める人々にとっては、仏 教とヒンドゥー教との違いはあまり重要ではなか ったからでしょう。
マンダラ制作の砂での細かい作業が印象的だった。
あんなに手間をかけて緻密に作り込まれたものを、
儀礼の終わりに壊してしまうと聞いて、最初驚い たが、マンダラはけっして芸術作品ではなく、あ
くまでも儀礼の装置なのだということを、あの行 為によって思い知った。写真のみでなく、現存し ているマンダラというものはないのでしょうか。
日本でチベット関係の展覧会が開催されると、砂 マンダラもよく制作されるので、気をつけていれ ばけっこう日本で砂マンダラを見ることができま す。そのような砂マンダラが、日本の主催者側の 意向で、展覧会などの会期が終わっても壊されず に、保存されることがあります。そのままでは扱 いが不便なので、上から特殊な透明の樹脂などを かぶせて固定するようですが、たいてい、しばら くすると表面にほこりなどが積もって、みすぼら しくなります。やはり諸行無常なのですね。マン ダラを作ることだけが目的であれば、壊すしてし まうのはもったいないのですが、今回紹介する灌 頂のような儀礼が本来の目的であれば、必要がな くなったものはあっさりとなくなってしまった方 がさっぱりするのかもしれません。
・ヴァーストゥナーガや日本の地鎮祭、風水など、
建築の儀礼は共通して存在するんですね。それに しても、ヴァーストゥナーガが間違って伝わって いるのは、少しおかしいですね。
・ヴァーストゥナーガの話は初めて知りました。
動くナーガの位置で場所を決めるなんて、とても 驚きです。しかもマンダラを作るための作業とし て、そこまでやるということは、いかにマンダラ が神聖で重要なものであるかがわかります。ヴァ ーストゥナーガに限らず、マンダラを作るための 儀礼が、こんなに大がかりとは知りませんでした。
ヴァーストゥナーガはずいぶん前から興味を持っ ていた儀礼で、『マンダラの密教儀礼』の中でも 簡単にあつかったのですが、3 年ほど前に集中的 に論文を何本か書いて、どのような儀礼であるか を、一応明らかにしました。それまで、この儀礼 を本格的にあつかった研究者はほとんどいません でした(今でもほとんどいませんが)。授業でも 紹介したように、建築空間が宇宙論的な意味を持 つことや、マンダラ制作儀礼が、建築儀礼に基づ きつつも、独自の意味を与えようとしていたこと がよくわかる点などが、この儀礼からは読み取れ
ます。風水は中国の思想なので、インドまではさ かのぼれませんが、青龍のようにナーガに相当す る龍が登場するのは興味深いですね。風水はとく に都市の構造を決定することで、長安や平安京の 造営などと結びつけられますが、都市も家と同様 にひとつのコスモスを形成しています。
キーラをなぜ二本打つ部分があるのか不思議でし たが、空間を表すためと聞いて納得しました。そ れは東と西が重要な方角だからではないと解説が ありましたが、南や北の方角に打たれることはあ るのでしょうか。
北と南に打たれることはないようです。東と西に 2 本打つことも、初期の密教では見られません。
というのは、初期の密教ではキーラは特定の尊格 と結ぶつくこともなく、垂直方向の結界も考えら れていなかったためのようです。その場合、四隅 や四方がほとんどで、多くても八方まででした。
マンダラの構造や十忿怒尊の瞑想が、キーラによ る結界と結びついた結果、東西にわざわざ上下の キーラを打つようになったのです。東を上、西を 下に配当するのは、マンダラの上下の仏を描くと きの方法にならったためで、キーラの打ち方とし てもともとあったわけではありません。ここから も、キーラの儀礼がマンダラと結びつくことによ って変容したことがわかります。
ヘビは仏教では重要な生き物であることがわかっ たが、どうして大事なのであろうか。
ヘビがなぜさまざまな文化で重視されるかは、私 の教養の授業でよく取り上げるので、すでにご存 じの方もいると思います。そこでは「両義的」と いうとらえ方をしています。つまり、特定の領域 に収まらずに、複数の領域にまたがるような存在 を、人間は不気味に思いますし、そこに特別な力
(しばしば宗教的な力)を感じます。「聖なるも の」として扱われるといってもいいでしょう。た とえば、ヘビは地上の動物なのに足がなくて、ウ ロコのようなものがあります(ウロコがあるのは 一般に魚です)。動物と魚のいずれにも収まらな いところが両義的です。ヘビが気持ち悪いと思う
人がたくさんいると思いますが、それはこの両義 的なところに不安を覚えるのでしょう。聖なるも のは崇高なものや美しいものという思いこみがあ るかもしれませんが、気持ち悪いものやグロテス クなものもしばしば聖なるものになります。
金剛杵は頭を打ち砕くほど強力な武器なのでしょ うか。
仏具としての日本の金剛杵はそれほど大きくはな
いので、頭をたたかれても痛いでしょうが、粉々 にはならないでしょう。でも、金剛杵はもともと 雷なのですから、やはり強力でしょう。それで命 を落とす人もいるし、巨大な樹木なども打ち砕か れます。「頭が打ち砕かれて粉々になる」という 表現は、仏教の文献にときどき出てきます。授業 で紹介した儀軌でもそうですが、仏教なのにずい ぶん激しい表現です。もともとは神話のような文 学作品で用いられた表現ではないかと思います。
7. 人生という円環(1):人生儀礼と通過儀礼
水が智慧を意味するということが興味深かったで す。そもそもなぜ水が使われるようになったのか、
不思議に思います。
なぜ水が用いられるようになったのかという質問 は、ほかにも何件かありました。おそらく、順番 は逆で、水を用いる儀礼があって、その水にいろ いろな意味が与えられたのでしょう。授業でも紹 介したように、灌頂という儀礼は、古代から行わ れた国王即位の儀礼の名称ですが、そこでは灌頂 の水が仏の智慧を表すという解釈はありません。
水は王の威光のようなものの象徴となっています。
仏教徒が仏の智慧を表したいから、水を取り入れ たのではなく、水をかけることで、その対象を別 の状態に変えるとい う方法が先に あり、それ を
「智慧の水」と解釈したのでしょう。一般に、こ のような仏教的な解釈は、すでに存在する儀礼に 後から加えられるようです。水そのものがなぜ重 要であったかは、また別の問題で、水の持つ浄化 能力や、生命を生み出す源というイメージが人類 に普遍的にあり、儀礼においても水に浄化や再生 の働きを持たせるのでしょう。このあたりは『マ ンダラの密教儀礼』の中で詳しく書いてあります ので、参照してください。
大地の女神はいろいろな神に踏まれていましたが、
「踏む」という行為は、懲らしめるというか、制 圧するようなイメージがあります。支えるという
感じがあまりしない気がしますが、大地はつねに 私たちの足下にあるからとかそういうようなこと なのかなとも思いました。
足の下に踏まれるというのは、踏まれる側にして みれば、たしかに屈辱的なイメージがありますが、
インドの一般的な神のイメージとしては、むしろ
「支える」ことの方が多いようです。インドラの 象、ヴィシュヌのガルダ、ヤマの水牛など、ヒン ドゥー教の神々はそれぞれ固有の乗り物を持って います。授業のスライドの最後の方にあったバー ルフットのクベーラ像も、足の下に邪鬼のような ものも踏んでいますが、これも懲らしめられてい るのではなく、ヤクシャの王であるクベーラを支 えるヤクシャの一人です。日本にはいると、奈良 時代から四天王は邪鬼を踏む姿で表され、懲らし められているように見えますが、本来はそうでは なかったのです。東寺の兜跋毘沙門天の地天も、
明らかに両腕で支えています。このような一般的 な法則を守らなかったのが、密教の明王系の仏た ちで、足の下にヒンドゥー教の神を踏んで、それ を制圧した神話を作り出しました。しかし、上に 立つ仏教の仏のイメージは、足の下のヒンドゥー 教の神から借用して、できあがっています。イメ ージの上では「従者の上に立つ神」という伝統に 従いつつも、それに矛盾する説明を与えたことに なります。このことは『インド密教の仏たち』の 最後の章で取り上げています。