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神仏習合儀礼の場の研究

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(1)

     

神仏習合儀礼の場の研究 

̶神道灌頂を中心として̶ 

   

A Study on the Syncretistic Ceremonial Site

—Focusing on the “Shinto-Kanjo”

     

2013年7月  米  澤  貴  紀 

         

(2)

     

神仏習合儀礼の場の研究 

̶神道灌頂を中心として̶ 

 

A Study on the Syncretistic Ceremonial Site

—Focusing on the “Shinto-Kanjo”

   

2013年7月   

早稲田大学大学院  創造理工学研究科   

米  澤  貴  紀   

 

(3)
(4)

   神仏習合儀礼の場の研究   神道灌頂を中心として    米澤   貴紀        目次

      序論         

1

      

研究の背景

         

3

      

本論文の目的・方法

        

3

      

本論文の構成

         

4

      

これまでの研究と本論文の位置

      

7

      

信仰の表現としての社殿建築

      

9

 

      本論

  

 

   

第一章   神道灌頂の宗教的意義とその教学的背景

    

17

  

      

第二章   三輪流神道における灌頂空間

     

27

      

第三章   三輪流神道における灌頂の場と建物

    

41

 

(5)

      

第四章   近世における神道諸派の神道儀礼

     

57

   

  

      

第五章   雲伝神道とその灌頂の場

      

81

      

第六章   中世神道灌頂の場と近世神道灌頂の場の比較

   

99

      

第七章   神仏習合による場の創出の志向性

 

  

    

109

      

補章一   習合神道における鳥居

      

121

      

補章二   護摩壇の鳥居︱大工技術書に描かれた護摩壇

   

127

      結論         

137

    

      

      附録         

143

      

初出一覧

                

史料・参考文献一覧

               

論文概要

(6)

凡例

一︑本論文で使用した史料の名称は二重鉤括弧﹃﹄︑項目名称は鉤括弧﹁﹂で表記した︒また︑所収文献については各章の初出箇所に記した︒

詳細な情報は参考文献一覧に挙げた︒

二︑ 図表のキャプションは各章毎︑本文に出てくる順に番号を付けた︒表記は章番号

図・表番号とした︵例第一章図二↓図一

二︶︒キャ

プションの位置は︑図は下部に︑表は上部に付した︒図表が引用である場合は各章末にその出典を示し︑筆者による加筆などについて

もそこに記した︒出典の表記は参考文献表記と同じとし︑﹃神道大系﹄などの史料をまとめた文献︑報告書からの引用の場合はその書

名のみを示した︒

三︑ 文中では原則として変体仮名はひらがなに改め︑旧字体︑異体字については常用漢字に改めた︒また﹁水丁﹂﹁汀﹂で灌頂︑﹁

礻首﹂で神

道︑﹁∴﹂で三輪とするなどの特殊な表記も現代表記に改めた︒

四︑ 参考文献の表記について  初出のものは著者名︑文献名︑出版者︑出版年︑引用ページの順に︑再出のものは著者姓︑文献名︑出版年︑引用ページのみによって

表した︒また附録に種別毎に目録としてまとめ掲載した︒

(7)
(8)

         序論

(9)

序章

研究の背景

本論文の目的・方法

本論文の構成

これまでの研究と本論文の位置

信仰の表現としての社殿建築・神道儀礼の場

(10)

神仏習合儀礼の場の硏究

研究の背景

  日本における信仰は仏教と日本の神々に対する信仰を二つの大きな軸として

展開してきた︒そして︑この両者が関係していく中で︑神が仏であり︑仏が神

であるという神仏の習合が行われるようになった︒この考え方は平安時代以降

中世を通して広く知られるようになり︑多くの寺社で神と仏の両方を祀るよう

になった︒この神と仏の関係は︑時代・場所によって多様であり︑﹁神仏習合﹂

という一語で表すことの出来ないものであるが︑本論文においては︑便宜のた

め︑仏教と神道の要素が入り交じった信仰の状況を総じて示す語として﹁神仏

習合﹂を用いている︒寺社の境内には神のための建築と仏のための建築が建て

られ︑この習合の状況を表していたことは境内図や参詣曼荼羅などの絵図史料

を見ても明らかである︒建物と祀られる神仏の関係は︑神社内に建てられる仏

堂︑寺院内に建てられる社殿︑仏堂の中に祀られる神︑社殿の中に祀られる仏

というように︑建物に関しては仏堂と社殿という仏教と神道の違いをはっきり

と見せることが多く︑この二つが融合したような建築形態は八坂神社本殿など

数例をのぞき作られることはなかった︒祀られる対象である神像には俗体であ

る唐官服の体に十一面観音の形の頭部が付けられた習合像などが生み出されて

いることに比べると︑習合が生み出した建築形態はその信仰の実態を表してい

ないように見える︒では︑その神と仏が同体となる信仰から生み出された建築

的要素はなかったのであろうか︒この観点から見ると︑習合の状況を端的に表 していたのは儀礼の場であり︑そのために構えられる道場︑設えであった︒ 

明治時代以降︑研究が積み重ねられてきた日本建築史においても宗教建築につ

いては寺院建築と神社建築を二つの柱として研究が進められ︑その分類や個々

の建築物に関する研究については多くの蓄積がなされてきた︒しかし︑神仏習

合の建築については︑個々の構築物としての建築にはその要素が反映されるこ

とがほとんどなく︑境内の様子からは先に見たように仏堂と社殿が混在してい

る状況しか見て取れないため︑そこへの言及に留まってしまうことが多く︑十

分な研究がなされてきたとは言えない状況にあった︒一方で︑建築物と内部空

間を固定化されたものとして捉えるのではなく︑法会などの舞台として︑人々

の動きを伴った﹁場﹂としての視点からの研究がなされるようになり︑密教灌

頂を中心とした儀礼の舗設に関する研究や︑中世の仏堂・社殿の使われ方を取

りあげた論考が多く発表されてきた︒この状況にあって︑黒田龍二は日吉社の

研究︵一︶において︑神社社殿の床下祭儀など︑祭儀と建物の関係を見ることで

神仏習合の様相を建築史からも見ることができることを示した︒

本論文の目的・方法

  以上の背景を踏まえ︑本論文では︑近世以前の日本の信仰の現場として︑神

仏習合が生み出した儀礼︑特に神道の秘儀・秘説を師弟間で相伝する重要な儀

礼であった神道灌頂の場を中心に見ていくことで︑建築物の分析のみからでは

見えてこない︑神仏習合によってつくりだされた﹁儀礼の場の特質﹂︑﹁場を作

(11)

序論

り出す志向性﹂を明らかにすることを目的とする︒加えて︑近世における神仏

習合神道を取り巻く社会背景の変化が︑灌頂道場の構成や意図に大きな差をも

たらしたことを明らかにする︒また︑本研究の特徴は︑神道灌頂が人の参加す

る儀礼であることを意識し︑灌頂の場︑すなわち受者が設えに込められた教説

を理解し︑その背景にある宗教世界を感じ取ることを目的に作られた場所を扱

うことで︑理念が現実世界に形として表現されたものを分析・考察する点であ

る︒言説である神道説が実際に目に見える︑人が体感できる形で現れた姿︑図

像や彫像といったもの単体ではなく︑目の前に厳然として現れた空間の中で︑

人々が行為を行い︑そのための装置が置かれる︑総合化された信仰の場を扱う︒

この建築史の視点からの研究は︑多分野の研究にはないもので︑有効な方法で

あると考える︒

  研究は︑習合神道の儀礼書にある灌頂道場やその設えの記述・図や︑実際に

行われた灌頂の記録をもとに場の構成の分析を行い︑そこに込められた意図を

読み解く方法を用いて進めた︒

本論文の構成

  本論文は序論︑本論七章・補章二章︑結論で構成される︒各章の概要は以下

の通りである 第一章  神道灌頂の宗教的意義とその教学的背景

  第一章では︑神仏習合の歴史的展開と神道灌頂についてまとめ︑本論文内で

の位置づけを行った︒はじめに神仏習合の経過と寺社建築の関係を整理した︒

そして︑神道説の秘説伝授の儀礼が密教儀礼である灌頂の形を取ったこと︑和

歌や日本紀などの秘説伝授の儀礼も同様に灌頂の形式をとったことを挙げ︑中

世における伝授儀礼として灌頂が用いられたことを確認した︒また︑灌頂の舞

台となる灌頂道場は建物の中に舗設として作られるもので︑密教における灌頂

堂の様に︑神道灌頂を目的とした建物は作られなかったであろうことを類推し

た︒

第二章  三輪流神道における灌頂空間

  第二章では︑神道灌頂の場の具体的な事例として︑三輪流神道の神道灌頂を

挙げ︑神道要素と仏教要素を分析し︑密教の灌頂と比較を行った︒神道灌頂は

その次第︑道場ともに密教灌頂の構成を骨格とし︑そこに神道要素を加えるこ

とで作られていた︒神道要素は目に見える形で示され︑受者は師からその説明

を受けることで︑秘説を理解した︒当時の僧侶︑貴族︑武士らが灌頂の権威を

理解していたと考えられることから︑密教灌頂を骨格とすることが儀礼の権威

付けに繋がっていたと考察した︒この密教を骨格とし︑神道要素を象徴物とす

る構造こそが神道灌頂の場の特質であり︑教義・儀礼の整備・発展︑権威付け

が目指ざされた時代背景によって生まれたものといえよう︒また神道灌頂道場

は︑その儀礼の次第︑設えの作り方は決まっているものの︑儀礼の場全体の形︑

(12)

神仏習合儀礼の場の硏究 配置については道場が作られる建物に応じて変形・工夫がなされていた︒

第三章  三輪流神道における灌頂の場と建物

  第三章では︑神道灌頂が行われた建物︑寺社を灌頂関連文書から見た︒神道

灌頂の道場はその荘厳から方三間が必要最小限の広さであり︑道場の規模に合

わせて壇などの大きさを調整することで︑受者の動く空間を確保していた︒ま

た建物の規模によっては大壇の大きさの調整や︑小壇を別部屋に設置すること

が行われていた︒なお︑印可灌頂のように大壇一つ︑小壇一つですむ儀礼では

梁間二間桁行三間が最小限の規模であったと考えられる︒また︑神道灌頂の道

場には方三間に由来した理想形があったと考えられるが︑実修にあたっては会

場となる建物に合わせて変形されていた︒道場が作られた建物としては仏堂︑

神社の拝殿があり︑仏教︑神道どちらの建物でも行われたことが確認できた︒

第四章  近世における神道諸派の神道儀礼

  第四章では︑近世の神道を検討した︒神道は国学や儒学などからの解釈によっ

て新たな展開を見せた︒その多くは古典を考証し︑解釈・注釈を加える中で神

道を日本古来の生き方と捉え︑中世の神仏習合説に見られる様な仏教や説話な

どからの作られた牽強附会の教義を批判した︒こうした背景のもとで作られた

神道流派の儀礼の例として︑吉田神道と橘家神道の儀礼をあげ︑これを分析し

た︒吉田神道では仏教の儀礼概念を基本とし︑そこに陰陽道を取り入れた儀礼

の場と設え︑神道による祓えや清めなどの次第によって構成されていた︒橘家 神道では儀礼と次第は神道にもとづき︑理論と設えには五行説が用いられ︑行者が一見して五行説にもとづくことを理解できるものであったことを示した︒

このように神道儀礼をもとにして陰陽道や五行説を取り入れた習合が可能に

なったのは神道が宗教として成熟してきた証拠であるとした︒

    

第五章  雲伝神道とその灌頂の場

  第五章では︑真言僧・慈雲を創始者とする雲伝神道を扱った︒雲伝神道は︑

新しい神道諸派や国学者・儒学者などから神仏の習合が批判される中で︑中世

以来の密教にもとづく習合神道の立場を保った流派である︒しかし︑同じ真言

宗の影響下で成立した三輪流神道の説を附会として批判するなど︑時代に則し

た考えを持っていた︒この近世的な習合神道が作り出した神道灌頂の場は︑密

教の灌頂の骨格に神道要素を付け加えただけではなく︑日本神話のみに依拠し

た設えが新たに作り出されていた︒この背景には国学・儒学の興隆により﹁神

道﹂が意識されるようになり︑考証学の発達が教説・理論の正当性を評価する

ようになったことがある︒神仏習合神道も仏教との附会と取られる説に拘泥す

ることなく︑神道に重きをおいた説を展開するようになった︒儀礼の場もこの

説に適うものとなり︑先に挙げたような仏教要素のない設えが作られたのであ

る︒この設えは受者が体感することで師の教えを理解するものであり︑これは

近世的な特徴であると考えた︒

(13)

序論

第六章  中世神道灌頂の場と近世神道灌頂の場の比較

  第六章では︑三輪流神道と雲伝神道の神道灌頂の比較を行い︑中世的な灌頂

の場と近世的なそれについてまとめ︑志向性の違いを考察した︒中世の灌頂道

場は秘説と血脈を伝える舞台であり︑その秘説にもとづく構成・設えがなされ

ていた︒受者は師からの教えによってその意味が理解できるようになり︑この

秘密を知るという感覚が儀礼の価値を生み出していたと考える︒一方で近世の

灌頂道場は︑受者が名称と形からその理論・根拠が分かるもので︑神々の満ち

た場所で神道説を伝授されたという体験が重要であったと考えられる︒伝えら

れる秘説も牽強附会なものではなく︑記紀神話や︑当時の科学である五行説や

陰陽説によって神話を解き明かしたものであった︒中世では知識は限られた人

の間で伝えられるもので︑その秘密性に価値があったのに対し︑こうした知識

が民衆にも広がった近世では︑そこに記された世界や場面を直に追体験するこ

とに価値がおかれたと考えられる︒

第七章  神仏習合による場の創出の志向性

  第七章では︑これまで見てきた事例をもとに︑灌頂儀礼の神道化を考察した︒

中世に密教僧によって習合儀礼が作られた時代には︑先に見たように権威と神

道説の表現を両立させるにあたって︑仏教儀礼の骨格に︑具体的な神道要素を

象徴としてまとわせ︑儀礼の場を作っていた︒これが仏教儀礼である灌頂の神

道化であり︑中世の神道化であった︒こうした神道化が可能であったのは仏教

が普遍宗教として抽象化できる儀礼を持っており︑一方の神道はこうした伝授 に伴う儀礼を持っていなかったこと︑体験を重視する自然宗教であったことによろう︒近世になると︑神道が﹁日本古来の教えである﹂という意識が強ったことで︑中世に作られた神道灌頂をもとにしながらも︑牽強附会の説にもとづいたものは除かれ︑神道神話のみから作られたものを新たに加えていた︒これは︑記紀神話との齟齬を生じない︑より神道的な正確を強めるという神道化であり︑これが近世の神道化であった︒また︑中世の神仏習合説を批判しながらも︑神道灌頂は儀礼として重要な位置にあり続け︑その特質も変化していないことを示し︑基本的な儀礼として定着していたと考察した︒近世の神道化は国学・儒学からの神仏習合批判に対抗するものと見ることができ︑そこには日本化という要素が内包されていた︒

補章一  習合神道における鳥居

  補章一では︑神仏習合神道における鳥居に込められた理念とイメージを検討

し︑鳥居をくぐることが重要な意味を持つこと︑神道を表す鳥居に仏教の抽象

的な概念を投影し︑仏教理論のもとに境内︑儀礼の場の構成が決められていた

ことを示した︒

補章二  護摩壇の鳥居︱大工技術書に描かれた護摩壇

  補章二では︑大工技術書のなかに見られる護摩壇について検討した︒この護

摩壇には鳥居が付けられており︑この鳥居は社頭に立てられる鳥居と同じ木割

︵比率︶で作られていることを示し︑儀礼の設えの作成に大工の知識が用いら

(14)

神仏習合儀礼の場の硏究 れていることを明らかにした︒また︑壇の形から両部神道系の神道灌頂で用いられたものである可能性が高いことを示した︒

これまでの研究と本論文の位置

  神仏習合に関する研究は︑神仏判然令︵一八六八︶によって半ば強制的に習

合の状況がなくなってから四〇年ほど経った明治四〇年︵一九〇七︶に発表さ

れた辻善之助による﹁本地垂迹説の起源﹂︵﹃史学雑誌﹄第一八編第一号︑同四

号︑同五号︑同八号︑同九号︑同一二号︑一九〇七︶がその最初期のものとさ

れる︒これに続く戦前期の研究として︑辻﹃日本仏教史之研究﹄︵金港堂出版︑

一九一九︶︑清原貞雄﹃神道沿革史論﹄︵大鐙閣︑一九一九.六︶︑宮地直一﹃神

祇史綱要﹄︵明治書院一九一九.五︶など神道史の通史の中で習合神道が扱わ

れるものが見られるとともに︑宮地直一﹁鶴岡八幡宮寺の組織と性質﹂︵﹃神

祇と国史﹄古今書院︑一九二六︑所収︶など個別の神社に関する研究として神

仏習合が扱われることもあった︒そして︑一九二六年から一九二九年にかけて

出版された﹃明治維新神仏分離史料﹄︵二︶は神仏判然令によって失われた信仰

の姿と神仏分離の実情を後世に伝える重要な史料となった︒戦後には神道関連

の研究が多岐にわたって進展した︒神仏習合の理論的研究には村山修一による

﹃神仏習合と日本文化﹄︵弘文堂書房︑一九四二.九︶︑﹃神仏習合思潮﹄︵平楽

寺書店︑一九五七.一︶︑﹃本地垂迹﹄︵吉川弘文館︑一九七四.六︶などがあ

る︒美術史学では景山春樹氏の研究︵三︶がよく知られる︒また︑教説・教義に ついては更に多くの研究がなされており︑櫛田良洪﹃真言密教成立過程の研究﹄

︵山喜房仏書林︑一九六四.八︶︑﹃続真言密教成立過程の研究﹄︵山喜房仏書林︑

一九七九.三︶︑久保田収﹃中世神道の研究﹄︵神道史学会︑一九五九.一二︶︑

中野幡能﹃八幡信仰史の研究﹄︵吉川弘文館︑一九六七.三︶︑菅原信海﹃山王

神道の研究﹄︵春秋社︑一九九二.二︶などが体表的なものとして上げられる︒

この研究の中で神道灌頂に着目した研究も多く発表されている︒神道灌頂は中

世以来の習合神道諸流派において神道説の奥義を伝授するために行われた儀礼

で︑その名称の通り密教の灌頂に範をとって生み出されたものである︒この神

道灌頂については先に挙げた櫛田良洪﹃真言密教成立過程の研究﹄︵一九六四.

八︶︑八田幸雄﹁三輪流神道の神仏習合思想  神道灌頂敷曼荼羅を中心として﹂︵﹃密教学研究﹄一六号︑一九八四.三︶︑伊藤聡﹁中世後期御流神道灌頂道場 における談義について︵上︶﹂︵  ﹃國學院大学日本文化研究所紀要﹄第八一輯︑ 一九九八︶︑高橋平明﹁三輪流神道について--神道灌頂を中心に﹂︵﹃奈良学研究﹄

四号︑二〇〇一.三︶︑伊藤聡﹁中世密教における神道相承について  特に麗

気灌頂相承血脈をめぐって﹂︵今谷明編﹃王権と神祇﹄思文閣出版︑二〇〇二.

六︶などがあり︑神道灌頂道場の荘厳については高見寛恭氏による三輪流神道

書の解読︵四︶が発表されるなど︑儀礼の次第︑教学的背景が明らかにされてき

ている︒近年では寺院社会との関連で儀礼を扱ったものに舩田淳一﹃神仏と儀

礼の中世﹄︵法蔵館︑二〇一一.二︶︑天皇の即位灌頂︵五︶についての論考に松

本郁代﹃中世王権と即位灌頂﹄︵森話社︑二〇〇五.一二︶がある︒

  以上のように︑史学︑宗教学を中心に神仏習合に関する研究は長年の蓄積が

(15)

序論 あり︑﹁神仏習合を概観できるにいたった﹂︵六︶とされるほどである︒しかし︑

建築史においては神仏習合に関する研究は多くは見られない︒建築史の主たる

課題が様式︑技法等であったこと︑先に記したように建築物自体に習合的特徴

は現れにくいことが原因と考えられる︒例えば︑太田博太郎﹃日本建築史序説﹄

︵彰国社一九四七.九︶においても神仏習合の建築については︑

  さらに︑本地垂迹説の発達により︑神社には神宮寺が︑寺院には鎮

守が設けられ︑神社建築の仏教建築化は著しく進んだ︒玉垣の代わり

に回廊ができ︑切妻造の門や鳥居の代わりに楼門が設けられ︑あるい

は塔婆が建立されたりした︒こうして︑今日見る神社景観の基本は平

安時代に形成された︒

  このように見る時︑平安時代は神社建築史上における画期的な時代

とみてよいであろう︒

と記されるのみであり︵七︶︑あくまで境内の景観に仏教建築が建てられるよう

になることが神仏習合の建築的表現としている︒神仏習合の建築について比

較的大きく取りあげた概説書は林野全孝︑櫻井敏雄﹃神社の建築﹄︑河原書店︑

一九七四.一一︶があり︑神社建築における寺院建築の影響としてページが割

かれ︑神宮寺︑双堂︑礼堂︑権現造など仏教要素の入った神社建築を概観して

いる︒その櫻井は︑﹁神仏習合の建築  大神神社摂社大直禰子神社社殿︵旧大

御輪寺本堂︶を中心として﹂︵大神神社史料編修委員会  編修︑﹃三輪流神道の 研究﹄︑名著出版︑一九八三.一一所収︶において神仏習合の初期に造られた

建築物について述べるとともに個別の遺構に関する研究をすすめた︵八︶︒こう

した個別の寺社についての研究は︑酒井一光﹁多宝塔を中心とした知立神社の

神仏習合と分離 : 近世後期以降の知立神社の境内の変遷︵二︶﹂︵﹃東海支部研 究報告集 ﹄三四︑一九九六.二︑八〇一頁〜八〇四頁︶︑西井幸男・山田幸一﹁桜 井神社の復原的考察   主に近世における神仏習合状況﹂︵﹃日本建築学会学術 講演梗概集  計画系﹄︑一九八二.八︑二三八五頁〜二三八六頁︶などがあるが︑

境内全域など総合的に扱った研究は少なく︑国立歴史民俗博物館編﹁神と仏の

いる風景  社寺絵図を読み解く﹂︵山川出版社︑二〇〇三.三︶︑などが建築物 の境内配置や形態︑信仰の様子について記述している︵九︶︒田中徳英﹁加賀藩

内の寺社建築と神仏習合に関する研究﹂︵﹃日本建築学会北陸支部研究報告集﹄

第四五号︑二〇〇二.六︑一三頁〜二〇頁︶が加賀藩内の有力社寺の習合の状

況について見たものとして挙げられる︒

  そのなかで︑黒田龍二の一連の研究︵一〇︶は神仏習合の儀礼と寺社建築の形態︑

使われ方との関係性を論じたものとして重要である︒日枝神社の床下に仏教的

空間があったこと︑北野天満宮本殿は拝殿を取り込み現在の形となり︑八坂神

社ではもともと双堂であったものが一棟にまとめられ︑最も整備された本殿と

なったこと︑八坂神社の背面庇は日吉の別棟︑北野の夏堂が取り込まれたもの

で︑神子通夜所は日吉の下殿に相当し︑本殿から切り離されたことなど︑神社

本殿の形式と神仏習合の関係についての論考などがあり︑神仏習合と建築との

問題に正面から取り組んだ初めての研究と言っても良いであろう︒

(16)

神仏習合儀礼の場の硏究   同じく神仏習合の祭祀空間に関わるものとして田中徳英の立山芦峅寺の布橋灌頂会に関する研究︵一一︶︑神道学者である嵯峨井健による﹃神仏習合の歴史と

儀礼空間﹄︵思文閣出版︑二〇一三.一︶のように建築史以外の分野の研究者

による研究成果もある︒以上のように関連分野での研究の進展に比べ︑神仏習

合というテーマは建築史分野ではあまり取り扱われてこなかった︒ただし︑本

研究において扱う神道灌頂のもととなった密教の灌頂︑儀礼空間に関しては︑

建築史においても先学により多くの研究がなされている︒澤登宜久︵一二︶︑藤井 恵介︵一三︶︑冨島義幸︵一四︶らの研究があり︑密教の教義や儀軌と建築空間との

関係を論じている︒また密教に限らず法会と建築︑寺院社会と建築の関わりに

ついての研究が山岸常人によってなされている︵一五︶︒いずれの研究も建築物が

使われる状況についての研究であり︑寺院を当時の社会の中で理解しようとし

た点で本研究の基盤となっている︒

  また︑神仏習合理論の形成に大きな影響を与えたものに﹁中世神話﹂がある︒

中世神話とは︑﹃日本書紀﹄や﹃古事記﹄に注釈を施していく際にもとの話し

を説明するために作り出された新たな説話であり︑江戸時代以後は牽強附会の

取るに足らない説とされていたが︑近年中世の信仰︑思想を示す史料として注

目されるようになった︒その主な研究に山本ひろ子﹃変成譜  中世神仏習合の

世界﹄︵春秋社︑一九九三.七︶︑﹃中世神話﹄︵岩波書店︑一九九八.一二︶︑﹃異

神 上・下﹄︵筑摩書房︑二〇〇三.六︑七︶︑斎藤英喜﹃読み替えられた日本

神話﹄︵講談社︑二〇〇六.一二︶︑﹃アマテラス  最高神の知られざる秘史﹄︵学

研︑二〇一一.二︶がある︒   本論文はこれらの既往研究を背景とし︑神仏習合の儀礼である神道灌頂について︑建築史の視点から論考を進めるものである︒ 

信仰の表現としての社殿建築・神道儀礼の場

  本論では神社の社殿建築の形そのものを扱うことはしないが︑ここでそうし

た建築的な工夫が現代まで連綿と行われて来たことを述べておきたい︒

  神仏習合の思想や儀礼を一つの建築物として表現することは︑それが主流と

ならないまでも行われたと考えられる︒例えば︑祇園造で知られる八坂神社本

殿や入母屋造の屋根が仏堂を思わせる御上神社本殿などである︒これらは仏堂

建築の意匠を用いて社殿を造ったもので︑その祭神や祭祀との関わりの中で選

択されたものであろうと考えられる︵一六︶︒また︑石川県金沢市の崇禅寺では

天神をまつる社殿と仏堂が隣接して建ち︑内部空間は一体化されており︑これ

も祀り方によって生み出された形であろうことは想像に難くない︒このように

少ない例ではあるが︑信仰にあわせて社殿の形を工夫した例も見られるのであ

るが︑神社建築全体へ大きな影響を与えるには至らなかったのである︒これは

習合しながらも神と仏の違いは意識されたこと︑神社における形式保持の伝

統︑日本の神社全てを統括する︑近代の国家神道のような宗教としての統合が

無かったことが理由であろう︒そのかわりに︑神仏習合神道では建物内の儀礼

の場においてその理念を形として作り上げたと考えられる︒

  こうした神信仰・神道と神社社殿自体の形の関係が深く考えられたのは明

(17)

序論

治政府による神道政策においてであった︒明治政府は神仏分離令︵慶応四年・

一八六八︶を布告し︑復古神道の影響の下︑神道と仏教を分け︑いわゆる国家

神道として全国の神社を再編︑統括するに至った︒ここで︑それまでの習合神

社とは異なる︑近代国家として国が統括しやすく︑国教的な位置にある神道に

ふさわしい神社社殿・境内の形式を示す必要があらわれたのである︒

  この経緯については藤岡洋保がまとめており︵一七︶︑これを引けば︑次のよ

うになる︒神仏習合によって形成されてきた宗教空間を︑神仏分離によって解

体した時︑神社らしさを考える必要が生じ︑建築においては仏教建築との違

い︑﹁復古﹂にふさわしい建築思想︑デザインが求められた︒はじめ︑こうし

た神社建築の問題に対処したのが内務省社寺局であり︑営繕費を抑え︑各神

社に公平に予算を振り分けるため︑いわゆる﹁制限図﹂が策定された︵一八︶が︑

これはあくまでも内務省の立場での公平性を重視した営繕行政によるもので︑

建築的な問題意識を持ったものではなかったとしている︒この制限図は大正元

年︵一九一二︶一一月に廃止された︵内務省訓令第一〇号︶︒この方式が近代

の神社にふさわしいものとはならなかったことが︑内務省神社局の技師・角南

隆︵一八八七〜一九八〇︶の現状調査の報告︵昭和九年︶によって知られる︒

そこでは神仏分離による仏教施設の撤去によって境内が歯抜け状態となり︑そ

の後建てられた建物は使い勝手が悪く︑維持も不十分で改築を迫られているこ

と︑礼拝の方法が立礼となり︑手水が流水になったことなど近代化に対する対

応が不十分であるとしている︒こうした画一的に計画された神社建築とは異な

り︑その建築思想を考える必要が生じたのが明治神宮造営事業であり︑近代に ふさわしい伝統の表現が模索され︑制限図の影響を受けながらも︑近代学問として構築された日本建築史の知識を活かし︑従来の神社建築の形式にとらわれず︑仏堂に用いられり石造基壇やヒエラルキーによって地盤を高くしていくなどの工夫がなされた︒この造営は伊東忠太︵一八六七〜一九五四︶のもと︑安藤時蔵︵一八七一〜一九一七︶と大江新太郎︵一八七九〜一九三六︶が取り組んだものである︒  以上︑藤岡の指摘のように制限図時代の神社建築は祭礼の近代化や︑神社毎の立地︑気候︑維持体制などを考えずに︑境内社殿の形式を整えることに主眼をおいたもので︑信仰を建築︑空間に表そうとする意図は感じられない︒明治神宮は祭神が明治天皇と昭憲皇太后と特別であり︑他の神社以上にその形式が考えられたことは当然であろう︒こうした経験や︑昭和九年の角南の報告にあるような各地の神社の実情を知るにおよんで︑神社社殿の近代的なあり方を追求する神社建築家が現れたのである︒その代表的な人物が大江新太郎や先に出て来た角南隆である︒  大江の神社建築観については今藤啓がまとめており︵一九︶︑それによれば歴

史の連続性を重視し︑古式の盲目的な墨守も︑歴史的な形式との断絶も疑問視

しており︑神社建築も時代の要求にあわせて漸次変化していくべきとの考えで

あったという︒例えば今藤も指摘しているが︑神田明神拝殿内に立礼用の石敷

きの場と座礼用の畳敷きの場を設けたことなどはその具体的な例である︒伊勢

神宮においては祠官が儀礼に臨む前に潔斎のため参籠する斎館の規模を従来よ

りも大きくし︑奉仕者が平かな心境︑落ち着いたすがすがしい心地で奉仕でき

(18)

神仏習合儀礼の場の硏究 るようにとの意図のもとの工夫がなされ︑参道の幅を広げ︑数を増した参拝者が通りやすいようにしたことも参拝者の心境を同様に考えたものであろうとされる︒これらの事例が示すのは︑祭祀と参拝という明治時代以降︑神社に求められたことに対して建築によって応えようとする大江の姿勢である︒それゆえに︑耐火建築とするため︑木造にこだわらず鉄筋コンクリート造の社殿建築も造っており︑神田明神では柱太さの調整など伝統的な木造の意匠に近づける工夫を行っている︵二〇︶

  また︑大江は﹁日光廟と議院建築﹂と題した講演︵二一︶で︑全く異なって見

える両者を比較し︑建造された時代背景︑建造の副次的な目的などに共通点を

見出しており︑建築の工費と工事期間︑経営の方法にも言及している︒こうし

た興味は自身の仕事にも現れており︑伊勢神宮式年造替においては︑材料運搬

の経路や作業場の広さや設備を変え︑それまでは一箇所であった工作場を内宮

外宮それぞれに設けたことなど施工環境の整備や︑木材を手挽きしていたもの

を機械挽きに変えるなど︑施工方法の変更を行っており︑古式からあえて時代

に則した合理的なものへと変えることで経費面︑工期面で大幅な改善を得たと

いい︵二二︶︑守るべき伝統と変えるべきところを考えていたことがわかる︒

  なお︑彼は日光東照宮の修理事業にも関わっており︑古色を施した修理を求

める声がある中で︑建築物自体の価値が当初の彫刻と彩色によって表現された

ことにあり︑それに復することが日光の建造物の保存における価値であるとし

てその修理方針を定めている︵二三︶︒このことから︑神社のあり方と共に建築

物の価値がその背景となる時代と大きな関わりがあると考えていたことが分か る︒  もう一人の立役者が角南隆である︒角南は大正四年︵一九一五︶に東京帝国大学工学部建築学科を卒業︑翌年には明治神宮造営局に勤務︑大正七年より内務省神社局の技師となっている︒代表作に吉野神宮︵昭和七年改築︶や明治神宮本殿及び拝殿︵戦後復興︑昭和三三年︶がある︒彼の神社︑神社建築への問いかけは﹁神とは何か﹂まで突き詰めたもので︵二四︶︑その信仰や礼拝を考え︑

近代という時代にあった神社のあり方を探求したものであった︒その彼が近代

の神社建築の進展について自身の考えを述べており︵二五︶︑ここではその言説を

見てみたい︒まず︑明治時代の神仏分離については次のように述べている︒

一千年前後行動を共にした仏寺と全然関係を絶った為めに︑嘗ては五

重︑三重の塔あり︑本地堂︑経堂︑護摩堂︑僧坊等で盛な偉容の整っ

た境内から︑急に之等の建物だけを取去つた為めに甚だ不整理な一面

廃墟の様なものになつた︒

  昭和九年の報告とほぼ同じ内容であり︑信仰を表すものとして完成していた

境内が急激に︑代替する建物もなく壊されたために境内の景観も失われた様子

が述べられている︒次いで︑江戸時代以前の神社と内務省神社局の制限図によ

る神社についてその違いを挙げている︒

嘗ては国々の国主や主権者の意見に随つて色々な規模や組織も整つて

(19)

序論

居たので︑大体に他地方と似る事もあつたけれ共︑殆んど全国を通じ

て︑各地方毎に気候風土にも合して個々の個性ある設備で発達して居

たのであるが︑明治初年には全国一列一体に境内地の広さを限定し︑

建築物に就ては所謂制限図と称して建物の種類︑大さ︑形式等一々図

面を以て御丁寧に制定したものである︒⁝︵中略︶⁝斯様に種々雑多

な気候と︑単一な平地に乏しくて変化極まりなき風景国に︑何®

て同一規模を作るべしと律する事が出来やうぞ︒全く云ふ可くして行

ひ難き制度であつた︒

  このように画一的に定められた制限図の形式を批判し︑気候など地方毎に異

なる要素を考慮すべきと考えていたことが分かる︒また︑明治以降の建築材料

の変化や価値観の変化を神社建築を作る際にも考慮しなければならないとして

いる︒このように近代おける神社について考えた︵二六︶角南は実作においても 工夫を行っていることが藤岡洋保によって指摘されている︵二七︶︒また︑角南は

古社寺保存法︵明治三〇年・一八九七制定︶による文化財の保護についても言

及し︑信仰の対象である神社本殿を美術品として評価することに疑問を呈して

いる︒こうした信仰のための建物として神社を考える姿勢は戦後においても貫

かれており︑近現代にあるべき神社を考え続け︑優れた作品を生み出すことに

繋がったといえよう︒

  以上のように大江新太郎や角南隆といった建築家は︑明治の国家神道の時代︑

近代化の時代にあって︑その時代にふさわしい社殿建築を深く考え︑社殿建築 が神道︑神を示し︑近代的な設備と礼拝の様式にあうものとして︑分かり易く神聖な印象を人々に与えるデザインを探求していた︒こうした探求は理に適ったものであり︑神社の存在意義を考える上で重要であったと考えられたであろう一方で︑伝統・形式の墨守の観点からの反対や︑国家神道としての制約など困難があったことは想像に難くない︒  本論文が扱う江戸時代以前にあっては︑明治時代の国家神道のような全国で画一的な教義に基づき︑比較的強固な統制が行われた神道は無かったが︑それぞれの神社の縁起や祭祀や神道理論を示すものとして︑神社の神職や︑各流派の神道家︑僧侶︑そして造営を行う大工は社殿建築や祭儀の場を同様に深く考えていたであろう︒そして新たな形式・形を創出するにあたっても伝統形式の墨守などの障害を越える努力があったのであろう︒そうした中で八坂神社や吉田神社摂社太元宮のような特殊な建物が造られたのである︒ただし︑その時代背景から︑そうした新しい建築空間の創出は︑社殿建築よりも儀礼の場で行われたと考えられる︒それは︑主流であった神仏習合神道においては︑元となった密教と同じく儀礼が特に重要視されたためである︒すなわち︑本論文で扱う儀礼の場は︑近代の神社建築家と同じ葛藤や探求心の下で︑宗教的な情熱と知識︑理論にもとづいて考えられたものであり︑日本の宗教建築空間を考える上で堂塔社殿といった建築物を見ていくことと同様の重要性を持っているのである︒

(20)

神仏習合儀礼の場の硏究 ︵一︶ 黒田龍二﹃中世寺社信仰の場﹄︑思文閣出版︑一九九九.八

︵二︶村上専精

︑辻善之助

︑鷲尾順敬他編

﹃明治維新神仏分離史料

上巻﹄

︵東方書院

︶ ︑

同 

中巻﹄︵一九二六.一一︶︑﹃同 下巻﹄︵一九二七.一二︶︑﹃同 

続編上巻﹄︵一九二八.六︶︑﹃同 続編下巻﹄︵一九二九.七︶の五冊が出版された︒

︵三︶景山春樹氏の代表的な著作に﹃神道美術の研究﹄︵山本湖舟写真工芸部︑一九六二.六︶

﹃神道美術 その諸相と展開﹄︵雄山閣出版︑一九七三.八︶などがある︒

︵四︶高見寛恭﹁三輪流神道の事相﹂大神神社史料編修委員会編修︑﹃三輪流神道の研究﹄

一九八三

︵五︶即位灌頂は江戸時代末期まで天皇の即位儀礼の一つとして行われてきた密教儀礼であ

り︑灌頂の形を取る︒また︑同名の灌頂が神仏習合神道の儀礼の中に見られ︑中世には

広く知られたものであった︒

︵六︶嵯峨井健﹃神仏習合の歴史と儀礼空間﹄思文閣出版︑二〇一三.一

︵七︶太田博太郎﹃日本建築史序説﹄増補第二版︑一九八九.一︑七九頁

︵八︶桜井氏は同様の研究として︑﹁神仏習合の建築論的研究︵序論︶ ・重蔵神社の社殿

構成﹂︵﹃近畿大学理工学部研究報告﹄一七号︑一九八二.三︑二一九頁〜二二七頁︶ ﹁気

多神社の祭祀と神仏習合過程の建築論的研究 気多神社と気多神宮寺の研究︵一︶﹂︵﹃同﹄

一七号︑一九八二二二九頁〜二三九頁︶︑﹁気多神社と修験道の習合過程の建築論

的研究 気多神社と気多神宮寺の研究︵二︶﹂︵﹃同﹄一七号︑一九八二︑二四一頁〜

二五一頁︶がある︒

︵九︶当時の寺社境内が描かれた参詣曼荼羅を扱った研究は史学︑地理学︑美術史などの分

野で多くの研究がなされ︑そのなかで建築物︑境内に言及されることも多い︒近年では

大高康正﹃参詣曼荼羅の研究﹄︵岩田書院︑二〇一二.九︶などがある︒

︵一〇︶﹃神社建築における神仏習合とその形態に関する研究-特に天台宗系社殿について- ︵神戸大学学位請求論文︑一九八六︶

︵一一︶田中徳英﹁布橋灌頂会に関する堂舎の造営﹂﹃日本建築学会北陸支部研究報告集﹄第

四一号︑一九九八.八︑三四九頁〜三五二頁

︵一二︶澤登宜久﹃日本古代建築における密教的建築空間の研究﹄早稲田大学学位請求論文︑

一九八四

︵一三︶藤井恵介﹁真言密教における修法灌頂空間の成立﹂﹃佛教芸術﹄一五〇号︑一九八三.九︑

﹃密教建築空間論﹄︑中央公論美術出版︑一九九八など︒

︵一四︶山岸常人﹃中世寺院社会と仏堂﹄塙書房︑一九九〇

︵一五︶冨島義幸﹃密教空間史論﹄法蔵館︑二〇〇七

︵一六︶御上神社本殿は一間四面堂の形式で入母屋造とし︑旧本殿と伝わる拝殿と共に仏堂

建築のように見える社殿建築である︒これについては黒田龍二﹁御上神社本殿考﹂︵﹃

本建築学会計画系論文報告集﹄第三五〇号

︑日本建築学会

︑一九八五

.四

〇六頁

〜一一二頁︶

︑黒田龍二

︑山田幸一

﹁御上神社本殿の復原的考察﹂

︵﹃日本建築学会近

畿支部研究報告集﹄一九八〇.六︶︑太田博太郎﹁入母屋造本殿の成立﹂︵﹃日本歴史﹄

二三六号︑吉川弘文館︑一九六八︑一二四頁〜一二八頁︶太田博太郎編﹃日本建築

史基礎資料集成一 社殿﹄︵該当箇所の執筆は櫻井敏雄︑稲垣榮三中央公論美術出

版︑一九九八.六︑一一〇頁〜一二二頁︶に詳しい︒八坂神社本殿は桁行き七間梁間六間︑

入母屋造の社殿で︑本殿と礼堂の双堂形式から発展したものであり︑中世の仏堂と共通

した要素を多く持つとされる︒特に八坂神社が神道︑仏教︑陰陽道が習合していたこと

から︑本殿も初めからこれらの施設が組み合わされていた点が特徴であり︑他に礼を見

ない︒八坂神社本殿については福山敏男﹁八坂神社本殿の形式﹂︵﹃建築史﹄第四巻第一

︑建築史研究会︑一九四二.一︑三頁〜一八頁︶︑黒田龍二﹁八坂神社の夏堂及び神子

通夜所﹂︵﹃日本建築学会計画系論文報告集﹄三五三号︑日本建築学会︑一九八五.七

一二二頁〜一二八頁︶︑太田博太郎編﹃日本建築史基礎資料集成一 社殿﹄︵該当箇所

(21)

序論

の執筆は櫻井敏雄︑稲垣榮三︑中央公論美術出版︑一九九八.六︑三〇頁〜一四〇頁︶

によってその来歴︑内部の使われ方︑習合との関わりが述べられている︒

︵一七︶藤岡洋保

﹁近代の神社建築﹂明治聖徳記念学会紀要

︹復刊第四三号︺

︑二〇〇六

一一︑一四八頁〜一六一頁

︵一八︶明治五年︵一八七二︶八月︑大蔵省伺﹁社格ニ応シ別紙絵図ノ通建社坪数制限御定

メ相成度﹂︑翌年三月太政官指令﹁官社坪数ノ制限ヲ定ム﹂︑同八年に内務省と教部省が

制限図としてまとめている︵國學院大学蔵﹃官国幣社造営制限図﹄による︶︒なお,

の制限図によって定められた形式は大社・中社・小社の社各別に配置︑平面︑立面︑規

︑形式が定められたもので︑本殿︵三間社流造︶︑祝詞舎︑中門︵切妻造平入︶︑拝殿

︵梁間三間・桁行二間・入母屋造・吹放︶︑鳥居が軸線上に並び︑中門からでた透塀が本

殿を囲み︑それらと拝殿︑神庫を含む区画を玉垣が囲み︑さらにその外の祭器庫︑神饌

所︑社務所︑手水舎を玉垣が囲むものであった︒この形式に則った社殿は制限図式と呼

ばれた︵藤岡洋保﹁近代の神社建築﹂︑二〇〇六.一一︶

︵一九︶今藤啓︑藤岡洋保︑伊東龍一﹁大江新太郎の神社建築観﹂﹃日本建築学会大会学術講

演梗概集﹄︑日本建築学会︑一九九二.八︑一〇五七頁〜一〇五八頁

︵二〇︶注一九参考文献

︵二一︶大江新太郎﹁日光廟と議院建築﹂﹃建築雑誌﹄第二九二号︑日本建築学会︑一九一一.四︑

二五〇頁〜二五四頁

︵二二︶伊東忠太大江新太郎君を憶ふ﹂﹃建築雑誌﹄第四九巻第六〇三号︑日本建築学会

一九三五.九︑一一三三頁〜一一三四頁︑

︵二三︶藤岡洋保︑平賀あまな﹁大江新太郎の日光東照宮修理﹂﹃日本建築学会計画系論文集

第五三一号﹄︑日本建築学会︑二〇〇〇.五︑二五一頁〜二五八頁︑平賀あまな﹃古社

寺保存法時代の建造物修理手法と保存概念﹄︑東京工業大学学位申請論文︑二〇〇一

︵二四︶角南隆著︑西本輝六監修﹃神と何ぞや﹄星雲社︑二〇〇九.四︵二五︶角南隆﹁神社建築に就いて﹂︑神道攷究会編﹃神道講座 一神社﹄原書房︑一九八一︵復

刻版︒原本は昭和四年︵一九二九︶から同六年︵一九三一︶までに四海書房から刊行された︶

︵二六︶ ﹁明治初年の廃仏毀釈以来︑我国古来の尊重すべき古美術品が無惨にも破壊されて

居る事を惜む考へから古社寺保存法が設けられ︑神社仏閣にある古人の製作優秀なるも

のが美術品として永代国家的に保存し様といふ事が制定された︒之によつて神社の中の

建設物も古くて優秀なものは本殿でも拝殿でも︑乃至手水舎でも厩でも︑橋でも︑特別

保護建造物とされたのである︒之によつて其の建物は旧形を損する事なく永代に此の姿

を残すもので︑実に結構な事であるが之にも幾分の意見を述べさせて貫ふ︒

    本殿の如きは建物と云ひ條︑云はゞ御神体として拝む建物である︒何所迄も荘厳とな

つかしさとを以て衆民に接すべき精神的な建造物である︒もつと露骨に云へば︑建物と

云ふよりも内容に生きて居る御神像の如き彫刻とも考へられるゝ物である︒一面特別保

護建造物は其の出発点が何処迄も歴史の象徴となり︑古い美術品であるから保護するの

である︒云ひかへれば物としての価値を判断した上での宝物なのである︒之を端的に云

へば物的評価の結果保護して後世に残さうじやないかといふのである︒ 本殿の使命を︑

斯の如き物的評価をして残さうか残すまいかだの︑或は此の本殿がやれ室町時代の特建

だの︑いや室町にしては彫刻が慶長に近いから︑室町とすれば末期だのと云つた様な批

評を下す態度で本殿にのぞむと云ふ事は実に怪しからん考へであると云へる︒

    世に屢々御神像が国宝になつて居るものがあるが︑たとへ今日の御神体でないとして

も︑単なる彫刻物として所謂美術家や批評家の一瞥の内で論議された結果相場が附いて︑

甲種何等であつたりするのだと思ふと︑いかに末世とは云へ神罰の程も恐ろしい心地

誠に言語道断の事と思ふが社殿と雖も此の感を深うする︒蓋し仏像と雖も自分は同様に

感ずるが実に困つた考へ方だと思ふ︒

    然し又一面には神社の境内に参拝したとして︑社殿が五百年も八百年も前に出来たも

(22)

神仏習合儀礼の場の硏究 のが今日に及び︑しかも威風堂々として如何にも尊く拝み入るの心持のする時︑斯くも古い時代から祖先が心願を込めて此の社殿を造られたのかと更に尊厳さを深うする点がない事もない︒ 結局今日如何にしたならば適当なものかわかり兼ねるが︑保存はした

い物であるけれ共現在の態度や手段は何かと改める必要がある様に思はれる︒﹂︵神社建

築に就いて﹂﹃神道講座 一神社﹄︑二五七頁〜二八六頁︶

︵二七︶吉野神宮では明治二二年に制限図に従って造られていた社殿を︑本殿の向きも含め

て造り替え︑地盤面を本殿に近づくにつれて二段高くし︑神紋の両脇に宿営所と神符授

与所を相称になるように配し︑明快な秩序を与え︑拝殿では床高さを変えて場の使用目

的や格の違いを示唆しようとしている︒毎時神宮では神職用の内拝殿と一般参拝者用の

外拝殿を設けている︒

(23)
(24)

        第一章   神道灌頂の宗教的意義とその教学的背景

(25)

第一章  神道灌頂の宗教的意義とその教学的背景

  一︑はじめに

 二︑神仏の交渉の過程と寺社建築

 三︑神仏習合説の発達と儀礼

 四︑神道説の伝授儀礼としての神道灌頂

 五︑神道灌頂の場としての道場

 六︑まとめ

(26)

神仏習合儀礼の場の硏究

   第一章   神道灌頂の宗教的意義とその教学的背景

一︑はじめに

  本章では本論文で中心的に扱っていく神道儀礼である神道灌頂について概観

する︒まず︑神仏習合の発達過程の中で造られた建築物についてまとめ︑次い

で神道の儀礼が整えられていく中で神道灌頂が生まれた背景を見︑その舞台と

なる灌頂道場が造られていったことを整理し︑習合神道の理論によって造られ

る建築要素のなかで︑神道灌頂の場︑すなわち灌頂道場がその理論をよく形と

して表していることを示す︒

二︑神仏の交渉の過程と寺社建築

  神仏の交渉は︑仏教の公伝にあたって仏を﹁蕃神﹂と解したことが﹃日 本書紀﹄に記されるように︵一︶︑この両者は仏教を知った時から対置させて認

識に記する存在であった︒日本の神にとっても︑それまでは自然そのものや自

然現象が神格化されたモノであったのが︑仏のように人間と同じように姿を持 ち︑建物に祀られるという崇拝の形が見られる様になるきっかけであった︒この神仏の両者がはっきりと関係を示すようになるのが神が成仏を望む﹁神身離脱譚﹂においてである︒これは︑神が自らの身に罪を背負ったものとして現れ︑

それから離脱するために僧などの人間に仏法を求めるという話しであり︑これ

に応え︑神に法楽を捧げるために創られたのが神宮寺である︒天智朝︵六六二

〜六七一︶の創建とされる三谷寺︵二︶や霊亀元年︵七一五︶創建と伝えられる 気比神宮寺︵三︶などが記録に見えることから︑神宮寺は奈良時代にすでに存在

しており︑これが神仏の関係を表す建築物の最初であったと考えられる︒こう

した神宮寺の縁起譚ではその前身として︑僧侶の庵や神社の周辺にあった堂︑

創建者の住居などが記されるものがあり︑実際は神宮寺という体裁を取る以前

から神の廻りで仏法の修行を行うための建物があったと考えられる︒そして︑

これらの中から神宮寺となるものが出て来たという成立過程が考えられる︒

  一方で︑この神身離脱型の創建とは異なる成立過程が記されたものがある︒

それは︑神社とは関係なく既に創建されていた寺院を神社の神宮寺として附属

させるというものである︒例えば︑﹃太神宮諸雑事記﹄︵四︶

(27)

第一章 神道灌頂の宗教的意義と教学的背景

逢鹿瀨寺を永く太神宮寺とする

とあり︑また天元四年︵九八一︶二月二〇日には

平野社に行幸あらせらる︑是日︑施無畏寺を以て︑同社神宮寺と為す

とある︵五︶︒他に梅宮社の神宮寺となった円堤寺なども挙げられる︵六︶︒これは

神が自ら仏法への帰依を願い︑顕現を受けたそれに応えて寺院・堂を建立する

先の縁起譚にある神宮寺とその意図としては同じであろうが︑既存の寺を神社

に附属させるという点で大きく異なり︑神社・神への寄進に近いものと考えら

れよう︒この両者に共通する姿勢は神に対して仏教的なものを捧げるというも

のであり︑これは既に指摘されているように中世以降における本地垂迹思想に

基づく姿勢とは異なることが確認できる︒しかし︑ここで強調しておきたいの

は既存の寺院がその寄進物となっていることである︒これは古代における神宮

寺の特徴とも言えよう︒

  多くの縁起譚では山岳修行者や優婆塞によって堂が建てられたことが神宮寺

の創建として語られる︒この様な創建時の神宮寺の堂舎の種類・寺院規模を具

体的に記したものはないが︑資財帳などからは整備された後の状態を知ること

ができる︒﹃多度神宮寺伽藍縁起并資材帳﹄には縁起として小堂と神像を造り

祀ったと書かれるが︑資財帳には三重塔︑法堂︑僧坊が書かれる︒気比社神宮 寺について書かれた﹁太政官符案﹂には講堂︑金堂二基︑三重塔二基︑経蔵などが記録されている︒  こうして神に対して仏法をもって奉仕する神宮寺が生まれるのであるが︑神宮寺のあり方を変えたのが主として仏僧によって作られた本地垂迹思想の発達である︒この思想により神は仏が姿を変えて現れたものという認識が広まり︑

神々に本地仏が設定され︵七︶︑これを祀る本地堂や︑仏殿︑社殿内に神ととも

に仏像が祀られる様になっていった︒また︑寺院を守護する神も現れるように

なる︒この神を祀ったのが鎭守社であり︑寺地内や隣接地に神社が作られるよ

うになる︒このように神仏習合が生み出してきた寺社の形について︑鈴木喜博

は次のようなものを挙げている︵八︶︒①神社の境内地に寺が建ついわゆる神

宮寺と呼ばれる寺であり︑宇佐八幡宮や多度大社などの神宮寺がその古い例と

して知られる︒②仏堂に神像が祀られる松尾大社の三神像が平安時代後期か

ら祀られていたことが確実に分かる例である︒③社殿と仏堂がともに並ぶ平

安時代より本地垂迹説が広まり︑各地の神々に本地仏が決められ︑その仏を祀

る本地堂がつくられるようになる︒④神殿に仏像が祀られる醍醐寺の清滝権

現社などがある︒⑤寺院の境内に神が祀られるいわゆる鎮守社であり︑東大

寺の手向山八幡宮などである︒⑥神殿に神と仏が併祀される同じ神殿の中に

神と仏の像が祀られる例であり︑京都宇治の白山神社では十一面観音立像と伊

弉諾尊女神坐像が一緒に祀られていた︒そしてこの形は仏像と俗体神像を合わ

せた姿を生み出した︒福井八坂神社の女神像では体は唐装束でありながら︑頭

部は十一面観音の様になっている︒⑦仏堂に仏と神が安置される大神神社

(28)

神仏習合儀礼の場の硏究 たのであるが︑これら二つが入り交じった︑福井八坂神社の女神像のような建築︑信仰空間は恒常的な建築物としては八坂神社本殿などの例を除きほとんど見られなかった︒そしてこの神仏が入り混じって作られたのは神仏習合神道によって整えられていく儀礼の場であった︒

三︑神仏習合説の発達と儀礼

  神仏の交渉は院政期頃より本地垂迹説が盛んとなり︑この時代に仏教理論を

もとに神道を解釈して教義︑儀礼がつくられるようになった︒鎌倉時代になる

と密教僧が神道書を記しその理論化・教説化が進められ︑伊勢神宮を舞台とし

て両部神道が生まれた︒両部神道は伊勢神宮の内宮・外宮を密教の胎蔵界・金

剛界にあてた教説を説き︑﹃中臣祓訓解﹄︑﹃宝誌和尚伝﹄﹃三角柏伝記﹄といっ

た秘書が作られた︒特に﹃中臣祓訓解﹄は密教の立場から中臣祓を解釈したも

ので︑末法の世になってもこの祓えにより罪過は滅するとし︑当時広まってい た末法思想に対応するものであった︵九︶︒この神道の理論化・教説化の動きは

僧侶を中心に伊勢神宮祠官にも広がり︑伊勢が神道説を生み出す中心地となり︑

伊勢神道が形成された︒鎌倉時代中期以降は︑こうした神道説が伊勢を離れて

各地に流布し始める︒これは伊勢の求心性の低下とともに神道説が場所に縛ら

れない自立的言説の内実を備えたこと示しているとされる︵一〇︶︒伊勢以外で発

展した諸流派の内で時代の早い例として三輪山︵大神神社︶を中心として形成

された三輪流神道︑仁和寺に拠った御流神道︵仁和寺御流︶などがある︵一一︶

これら習合神道は︑その進展を密教僧が主導したことにより︑その神道も密教

と同じく︑教義の理解=教相と︑修法・儀礼の実修=事相の両面を持つように

整備されていった︒例えばこれらの印信を集めた﹃神道三輪流廿四通﹄︵一二︶

﹁神道鳥居大事

︑神道社参大事

︑神道鰐口大事

︑神道獅子駒犬大事

神道御戸大事︑神道神楽大事︑神道祈願大事︑神道諸神本地大事︑神

道除垢穢大事︑神道手内祓大事︑神道払切大事︑神道御幣加持大事︑

神道垢離大事︑神道注連大事︑神道灌頂印信︑神道印信  二重︑神道 印信  三重︑神道灌頂光明灌頂印信︑神道伊勢灌頂印信︑神道伊勢二

宗灌頂印信︑神道伊勢行者一躰印信﹂

があり︑多くの教相・事相に関わる秘伝が作られ︑師弟間での相伝が行われて

いた︒この秘伝化した神道教義・神道書を伝える儀礼として︑密教儀礼である

の神宮寺

︑大御輪寺本堂

では十一面観音立像︵現︑

聖林寺︶が祀られ

︑その 後方に若宮神像を祀る部

屋があった︒

こうして常に神仏が同 居する形が作られていっ

図一ー一 十一面女神坐像        (福井・八坂神社)

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