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イギリス産業における株式会社企業の発達

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(1)

イギリス産業における株式会社企業の発達

その他のタイトル The Adoption of Limited Joint Stock Company in British Industry

著者 荒井 政治

雑誌名 關西大學經済論集

巻 12

号 5‑6

ページ 428‑460

発行年 1963‑02‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15455

(2)

428 

会社の設立が一般的に認められるようになった︒

に よ

っ て

新しい会社企業がどのように増加したか︑ ま その後︑新しい経験に基づいて何度か改正され︑ 一八六二年に イギリスでは一八五五年に有限責任法が制定され︑ 論

それによって株主有限責任制が確立し︑われわれのいう株式

は︑それらの法律を統合して一応完成した株式会社法が生まれたのである︒このような立法上の過程を経て︑

史にようやく終止符が打たれ︑ここに﹁株式会社時代﹂

( t

h e

a g

e  

( 1 )  

かれるに至ったのである︒本稿では﹁株式会社の解放﹂

イ ギ

リス近代株式会社の基本法が確立し︑議会の内外で展開されてきた﹁株式会社設立の自由﹂をめぐる長い斗いの歴

o f   j o i n t   s t o c k   c o m p a n y )

へ の

器 斤

々 た

る 部

則 途

が 開

た︑それらがどのような性格をもっていたかを一般的に検討したのち︑産業界への浸透過程を考えてみたい︒

( 1

)

以 上

に つ

い て

は 拙

稿 ﹁

イ ギ

リ ス

に お

け る

株 式

会 社

企 業

の 発

達 と

鉄 道

プ ー

ム ﹂

︵ 関

西 大

学 ﹃

経 済

論 集

﹄ ご

一 巻

一 号

︶ 参

照 ︒

イギリス産業における株式会社企業の発達

(3)

0 対 一 の 割 合 ︶ な っ て い る ︒ は当然で︑第一表が示すごとく︑

一 八 五 八 年 に は 一 ︑ 000

に 増

加 し

︵ 公

称 資

本 金

で は

一 〇

一八五六年から以降は会社の数においても︑また公称資

たらした最も重要な一因であったことは明らかであろう︒ 任の採用された一八五五年までの︱二年間に︑ 示 し て い る ︒

株式会社企業の増加 株主有限責任の制度は直ちにその効果を現わした︒会社設立に関する統計がそのことを

一八四四年の登記法いらい︑会社の設立状態に関しては年々議会に報告書が

提出されているが︑ L

・レヴィーによってなされた集計表によれば︑一八四四年から有限責

イギリス全体 (U•K) 大いに刺戟したという点を考慰に入れても︑なお有限賀任の魅力が︑

本金額においても︑有限責任会社は無限責任会社よりも圧倒的に多く

イギリス産業における株式会社企業の発達︵荒井︶

で 四

0 四九の会社

が登記されており︑続く一八五六年から六八年までの一三年間には七

0 五六の会社が登記

されている︒これを年平均に直してみれば︑前期の三三七社に対して︑後期は五四三社と

( 1 )  

なり︑約六一︒ハーセントの増加ということになる︒ヴィクトリア朝中期の繁栄が企業家を

この高率の増加をも

そして︑有限責任が一般に解放された以上︑企業家が無限責任よりも有限責任を選ぶの

一八五六年に約七

00

の株式会社が存在したが︑

( 2 )  

一八六四年には大よそ二︑ 000

になった︒一八六六年の恐慌が企業家と投資家の双方に

〔 第 1 表 〕 有限責任会社と無限責任会社 1856‑1867 

会 社 数

1

公 称 資 本 金

有 限 責 任 無 限

会社数

1

資 本 金 会社数

1

7056£893,159,601  6960£893,177,957  96£9,531,844 

(出所) L .  Levi,'On J o i n t  S t o c k  C o m p a n i e s ' ,   J .   S t .   S o c . ,   X X X I I I ,  1 8 7 0 ,   p .   1 4 .  

二 七

資 本 金

(4)

430 

前述のように一九世紀後期には続々と会社が登記されたが︑

事業を開始したわけではない︒登記を了えても現実に株式の引受.払込がなされな かった会社の数は驚くほど多数に上ったし︑幸い︑有効に設立したものの中でも設 立後︑数年を出でずして消滅した会社も同様に多かった︒自然人になぞらえていえ ば︑高率の﹁流産﹂や﹁幼児死亡﹂がみられたのである︒例えば︑

記法に基づいて仮登記された四

0

四九の会社についてみると︑第二表のごとく︑本 登記を完了して設立に成功したのは代かに九六五社であって︑他の三︑

0 八四社は

不成功に終っている︒したがって本表に現われた限りにおいては︑仮登記をした会

( 1 )  

初めて大きなショックを与え︑

その後二︑三年は会社の増勢は鈍るが︑次の七

0 年代から着実に累増し︑

中︑もっとも不況であった七九年においてすら一︑

0 ‑ ︱一四の会社が登記された︒かくて一八八七年には実に一万を

( 3 )  

超える会社が現実に活動していたといわれる︒

註(1)

L e o n   L e v i , ' O n   J o i n t S   t o c k   C o m p a n i e s ' ,

  f o u r .   o f   t h e   S t a t .   S o c y . ,  

X X

X I

I I

,  

18 70 , 

p .  

26 . 

( 2 )  

G .

  T

o d d , ' S o m e   A s p e

c t s   o f   J o i n t   S t o c k

  C o m p a n i e s ,  

1844

19 00 ',

E c o n .   H i s t .   R e v .   I V  

̀ 

19 32 , 

p .  

62

(3)J•

H .   C

l a p h a m , T   h e   E c o n o m i c

  H i s t o r y   o

f   M o d e r n   B r i t a i n ,   i i i ,   p .  

20 1.  

︑ 初 期 株 式 会 社 の 性 格 会社の死亡率

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六号併号

そのすべてが現実に

一八四四年の登

〔 第 2 表 〕 1 8 4 4 年の登記法によって設立された

会社 (U.K.)1 8 4 4

1 8 5 5

仮 登 記 を し た 会 社 数 4 ,  0  4  9 

不 成 立 の 会 社 3,084 

本登記を完了した会社数 9  6  5 

不 成 立 の 比 率 7  6  % 

ニ 八

(出所) L .  L e v i ,  / o c .   c i t . ,   p .   2 6 .  

この世紀

(5)

431 

を検討してみよう︒数字はシャノンの統計︵ロンドンで登記された会社を対象と

四四年の登記法の不便 が除かれて︑仮登記・本登記という二重登記制は本登記のみに改められたの で株式会社の設立はずい分容易になり︑

その年から八三年にいたる四分の一 世紀間にロンドンでは約二万余の会社が登記された︒だがそのうち約七︑

0

00

は現実に企業活動を開始せずして消滅した

c

すなわち登記が終っても株 式の引受.払込がなされなかった

( "

a b

o r

t i

v e

"

) か︑または最終の払込資本が 五 00

ポンドにも満たなかった

( "

s m

a l

l "

) のである︒これは登記数の約三四 パーセントに当る︒別の表現をすれば︑事業計画の約三分の一が投資家の審

判によって不適格の烙印を押されたことになる︵第三表参照︶︒ し

て い

る ︶

イギリス産業における株式会社企業の発達︵荒井︶ に

よ る

︒ 一八五六年の法的改正によって︑

次に有限責任が確立されていらい︑

﹁流産﹂会社の比率はどう変化したか

五 0

バーセントということになる︒

社の七六︒ハーセントが流産ということになる︒もっとも︑

これには次の点を 一 ︑

六 00

の鉄道会社が仮登記をしたが︑本登記をしたのは︑

そのうち僅か

1 0

社であったということで︑鉄道のばあい︑本登記は任意とされていたの

である︒このような事情を考磁に入れると︑実際に流産した会社の比率は約 考駆に入れる必要がある︒

そ れ は ︑

四 0

年代のあの鉄道プームのさい︑

〔 第 3 表 〕 有限責任法によって設立された会社の数(ロンドンで

登記された分のみ)

I  期 間 I  登 記 数 ! 不 成 立 数 !有た効数に成立し 1 登 不 記 成 数 立 に の 対 比 率 する

1 8 5 6

18651 I  4 , 8 5 9   1 , 7 5 5   3 , 1 0 4  

'  

3  6  %  1 8 6 6

1 8 7 4 6 , 1 1 1   1 , 8 7 8   4 , 2 3 3   3 1  %  1875‑1883  9 , 5 5 1   3 , 3 1 1   6 , 2 4 0   I  5

計 I  2 0 , 5 2 1   6 , 9 4 4  1 3 , 5 7 7  

(出所) Shannon,'The L i m i t e d  Companies o f   1 8 6 6 ‑ 1 8 8 3 ' ,  E c o n .  H i s t .  R e v .  

1 9 3 3  ;  Shannon,'The F i r s t  Thousand L i m i t e d  Companies and t h e i r  

D u r a t i o n ' ,  E c o n .  H i s t .  v o l .   I I ,   1 9 3 2 .  

(6)

432 

み の の も

た る

て さ 記ー—れ

登 内 さ で 外

除 % 

9 3 4   ン 以 ド で ン 年 止 証

⑳ の

ロ 5 る す ︵ 

率 ー ー こ 比 内 異 の 以

︒ を

社 坪

" :

0

&

止 は

会 た

後 し 立 掲 堂 産 設 前 会 破 ー の 公

n  こ 叫 間

i

臼 h  の国の正当な事業を妨げるようなことは決してなさらないよう切望します︒﹂さらに︑さ・

S .  

︶ス 所 ガ

出 ︵  の不正な発起人は実に多い︒しかし︑好ましくない行為をする連中を取締るために︑ こ もの︑僅かの払込しかない小会社を設立して債券者から詐取せんとしたもの等︑不正な 意図でもって設立せんとしたものや投機的目的をもったものが多数含まれていた︒この 種の不正な会社設立計画は決して短時日の中に跡を絶ったわけではない︒しかし会社企 業が普及するにつれて︑法律は整備し︑投資家の経験は深まり︑企業経営者のモラルも 自ずと向上して︑世紀末までには健全な状態になっていたと考えられる︒例えば︑ 九八年︑会社法審議会の審問に答えて法律家︑ ︑ ろ っ ゜

9> 

業に極めて有害となるであろうというのが私の意見です︒したがって︑ さような結果を招かないように配慮して頂きたい︒私の考えでは大多数の会社が正当で あ

り ︑

﹁会社を設立し経営に当っている事業家を束縛し不便にすることは︑わが国の事

その経営にあたっている大部分の者が真面目な人達であると思う︒もちろん悪質

ような悪質な人々や彼らの経営する会社は真面目な事業経営者に対して︑どれほどの比

率を占めていると思うか︑との審問に対して﹁恐らく二︑三︒ハーセントと思う﹂と答え

( 1 )  

て い

る ︒

一 八

たことにある︒ 不成立に終った会社の中には︑ なぜこのように流産会社が多かったのか︑

登記人︵重役︶が株主を搾取せんとした

フランシス•B

・パーマーは次のように

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号

いかなる法律も ︱つの理由は︑もちろん商業道徳が低かっ

〔 第 4 表 〕

1 8 5 6

1 8 6 5 1 8 6 6

1 8 7 4 1 8 7 5

1 8 8 3

1 0年 以 内 1 8 . 6   9 6  

2 3 . 3   2 7 . 1  

(7)

イギリス産業における株式会社企業の発達︵荒井︶

‑ 0

年以内に五七パーセント︑

一 八

六 七

一五年以内に六五パーセントが破産したことに 高かった︒シャナンによれば︑ 以上のように︑初期の株式会社は﹁流産﹂の比率が高かったが︑同様に早期の破産率︑ 年

以 内

五 年

以 内

間に設立された六︑二四 0

社 の

ば あ

い は

そのうち約七分の一が三年以内に︑ いわば幼児死亡率もまた

一八五六ー一八八三年の間に有効に成立し事業を開始した一三︑ 五七七社のうち三

‑ 0

年以内に破産したものの比率は第四表にみられる通りで︑例えば一七七五ー一八八三年の

五分の一が五年以内に︑四分の一以

上 が

0 年以内に姿を消している︒また一八八 0 年に設立された会社についてマックグレーガーが行った破産統計

によれば︑その比率はもっと高く︑

( 2 )  

なっている︒このことを投資家の側からいえば︑彼らは会社の破産によって短期間に投資額の全部︑または殆んど

全部︑を失ったのであるから︑初期株式会社時代の投資家はずい分高率のリスクを負担したことになる︒かように

短命の会社が多かったこと︑換言すれば幼児死亡率が高率であったこと︑も流産会社のばあいと同様に︑有限責任

と誇大宣伝でもって、無智な大衆から金を捲き上げんとした、悪質な発起人•投機会社の多かったことを物語って

( 3 )  

い る

︒ 会 社 の 規 模

2  株式会社が個別資本を集中するのに最も有効な手段であることは改めていうまでもないことで︑会社法の制定に

当った立法者もまた︑個人の資力を超える大事業︑大企業の出現を予期していた︒しかし現実に株式会社時代の扉

が開かれてみると︑そこに現われたものは必ずしも予期した通りではなかった︒多くの大企業が生まれたことは勿

論 の

こ と

だ が

それと並んで多数の小規模ないし零細規模の株式会社が出現した︒それらは株式会社とはいって

も︑実体は個人企業か︑同族企業︑もしくは小さい︒ハートナーシップと殆んど変るところはなかった︒

(8)

434 

委員会は十分に記憶しなければならない︒⁝⁝僅か五

00

ポンドというような小資本しかもたないで︑醸造業︑製

( 4 )  

︒ハン業︑農業︑農業用蒸気機関等々の事業を営んでいる小会社がある︒﹂

一九世紀後期には公称資本金一万ポンド以下の小会社が約三分の一を占めていたと考えて大きな間違い

( 5 )  

は あ

る ま

い ︒

L

・レヴィーの統計によれば︑

年との間に登記された会社のうち︑公称資本金一万ボンド以下の会社が前の 期間においては四二︒ハーセント︑後の期間においては三一︒ハーセントを占め ていた︒また前の時期においても︑全体の七三パーセントが五万ポンド以下 て分析したものであるが︑現実に企業に投入された払込資本金は公称資本金

( 6 )  

より逝かに少いばあいが多かった︒後に述べるように︑初期の株式会社の払 込資本金が余りにも僅少であることは激しい非難を浴びた点であった︒当時 の識者も群小会社に失敗が多いことを十分に認めていた︒投資分析をおこな

っ た

R.L ・ナッシュも﹁大企業の十年間の歩みをみてみるとその大部分が

成功的であった︒だが一八六二年の会社法制定いらい現われた多数の小会社 についてはどういえるであろうか︒それは概して不成功であった︒したがっ

て投資家がその経営を監視し統制していくことができなければ︑小会社には の小資本の会社であった︵第五表参照︶︒

しかもこの数字は公称資本金でもっ 一八五六ー八年と一八八一ー五

〔 第 5 公称資本金の大きさ

資 本 金 1856‑1858  I  1 8 8 1

1 8 8 5

£1,000,000 以上 2 %   2 %  

£100,000 ― £1,000,000  1  4形 1  8形

£20,000‑£100,000 } 

4  2形 3  6  % 

£10,000 ― £20,000  1  3  % 

£5,000‑£  1 0 , 0 0 0   1  3形

} 

£5,000 以下 2  9  % 

0 l

(出所) L e v i ,  ] .   S t .   S e c . ,   1 8 7 0 ,   1 8 8 6 .  

に い

っ て

こんな零細企業は例外としても︑

の議会委員会である証人はいう︒﹁有限責任の原理が︑

関 西

大 学

﹃ 経

済 論

﹄ 集

第 十

二 巻

第 五

・ 六

合 併

今 日

大まか 移しい数の零細企業にまで拡げられつつあることを

(9)

イ ギ

リ ス

産 業

に お

け る

株 式

会 社

企 業

の 発

達 ︵

荒 井

ぎないのであるが︑ われわれが特に興味をもつのはその出所︵投資層︶についてである︒ この問題について当時の を公開していないという意味の広義のプライベイト・カン︒ハニーは一八七五ー八三年に登記された会社のうち七分

一 八

九 0 年には登記された会社総数の約三分の一︵現実に

事業を開始した会社の約二分の一︶がそれで︑株主は極めて少なく︑最も多いものでも二 0

名 ︑

大 部

分 ︵

八 二

︒ ハ

ー セ

ン ト

が 一

0 人以下︑大てい四︑ 五 名 で あ っ て ︑ その公称資本金は全体の平均値の五分の二の規模であったという︒かか

( 8 )  

る私的株式会社の数は二 0 世紀に入ってますます増加していった︒

投資階級と株式の譲渡性 3 

第一表によれば、一八五六年から一八六八年までにイギリス全体 (U•K) で六、九六 0 の会社が登記され、

そ の

公称資本総額は八九三︑ 000 ︑

00

0 ポンドを超えている︒勿論︑現実の払込資本額はその何︒ハーセントかに過

人レヴィーは次のように推定している︒すなわち︑資本の不足に悩まされた他の事業部門があったとは思えない の 一 ︵ 現 実 に 事 業 を 開 始 し た 会 社 の 五 分 の 一 ︶ を 占 め て お り ︑ い も の ︵ 事 実 ︑ そ れ か ら 転 じ た も の が 多 い ︶ で あ っ た が ︑ それが全体において占める比率は予想外に大きかった︒株式 この種の会社が正式に認められるのは

( 7 )  

投資しないことが総べての投資家のルールとなるべきだ﹂といっている︒

そのような小規模の会社企業はまたしばしばプライベイト・カンパニー︵私会社︶に属していた︒プライベイト・

カン︒ハニーというのは一般投資家から資本を仰がず︑内部の者だけで株式を保有する会社のことで︑株式の公募に

よって設立するバプリック・カンパニー︵公募会社︶に対する用語である︒

一 九

0 七年

(7

E d

w .

  V I

I ,  

C  .50) 以降のことであるが、実体は鉄・石炭•海運関係においては早くから多数存在して

いた︒その経済的性格からいえば︑明らかに小グループよりなる︒ハートナーシップであり︑殆んど同族企業に等し

(10)

436 

工業が新たな投資先となったことはいうまでもない︒ の蓄積のはけ口を何処に見出したであろうか︒ 一九世紀後期における株式会社組織の商 恐らく事業以外の部門から資本の相当部分が流入したものと考え︑二つの源泉ー公債に よる年金受領者と他の種類の低金利取得者とにそれを求めている︒レヴィーはこの推定 を裏付ける一資料として一八五七年と一八六八年の両年における低額︵五 0

ポ ン

ド 以

下 ︶

の公債保有者数と貯蓄銀行預金者数の減少をあげている︵第六表参照︶︒

レヴィーの推定の当否については︑

評を差控えねばならないが︑われわれは異った視角から︑中産階級一般の蓄積に初期株

式会社資本の有力な源泉を求めたい︒

とくに鉄道時代の資本形成に重要な役割を果したこと︑および彼らが住んでいる地方の

鉄道会社から直接︑或は株式の取扱機関たる地方銀行や証券プローカーを通じて︑投資

( 9 )  

に関心を示すようになり︑投資階級に参加するようになったこと︑は既に別稿において

指摘した︒このように全国的な規模において中産階級が投資階級に育て上げられるまで

には厳しい試錬を経験したし︑

ギリス資本市場の発展にとっては︑劃期的なことであった︒初期鉄道時代とともに生ま

れ育てられてきた︑ し ︑

一企業から他の企業へ資本の移動があったと信ずべき理由もないところからして︑

それを検討するに必要な資料をもたないので︑論

ロンドンのみならず︑広く地方の中産階級が運河

そのためには莫大な犠牲を払ったのであるが︑ それはイ

この新しい投資階級は国内の鉄道建設プームが一段落したとき︑そ

関 西

大 学

﹃ 経

済 論

集 ﹄

第 十

二 巻

第 五

・ 六

合 併

〔 第 6 表 〕 公債保有者数

保 有 額 I 1 8 5 7  1 8 6 8  

£50 以下 2 2 4 , 2 7 6   2 0 5 , 8 0 6  

£50 以上 4 4 , 0 8 3   4 2 , 1 9 6   2 6 8 , 3 5 9   2 4 8 , 0 0 2  

預 金 額 I

£1 ― £501 

貯蓄銀行預金者数

1 8 5 7   9 3 0 , 8 8 7  

1 8 6 8   8 8 1 , 3 3 4   一 四

(出所) Levi,'On J o i n t  S t o c k  C o m p a n i e s ' ,  ] .   S t .   S o c . ,   1 8 7 0 ,   p p .   1 0

1 1 .

(11)

一六パーセントに過ぎないのに反し︑ 第七表のようになっており︑

五 ボ ン ド 未 満 は 僅 か

る傾向がみられた︒ジェフェリースの分析によれば︑

一八五六ー六五年の間に 下の株式を発行することを禁じていた︶にして︑

なるべく人員を少数に限ろうとす 徴収しうる状態にしておくこと︑ 高額面株(‑八五五年法においても一 0 ポ ン ド 以

格︑株式額面の変化に現われた

C

す な わ ち

〔 第 1 表 〕 株式額面 1856‑1865 

株 式 額 面 I 会 社 数 I 全体に対する彩

£ 5 未満 5  9  7  1  6 . 0  6 

£ 5   8  6  8  2  3 . 3  

£10  1 ,   1  3  4  3  0 . 5  

£100 未満 8  1  3  2  1 . 8  7 

£100 ― £500  3  0  8  8 . 2  7 

(出所) J .   B .  J e f f e r y s ,   Trend i n   B u s i n e s s  O r g a n i s a

t i o n  i n  G r e a t  B r i t a i n  ( u n p u b i s h e d  t h e s i s ) ,   1 9 3 8 .   Appendix C .  

中産階級の蓄稜が鉄道のごとき公共事業とは性格を異にする一般商工業の分野に進出してきたことは株式の性

高額面・未払込株から次第に小額面・払込済株へ移行したことであ

る︒五 0

年代半ばに株式会社が解放されても︑無限責任の観念で育ってきた多くの企業家にとっては新しい組織に よる資本の調達は始めての試みであったし︑他方︑投資家も有限責任の性格に対する理解が十分ではなかった︒か つて有限責任の導入をめぐって激論が斗わされたとき︑反対論者は︑有限責任は投機を助長し商業道徳の低下を招 くであろうと主張し続けた︒したがって初期の株式会社においても︑企業の安 定のためには無限責任のパートナーシップに近づけるべきだとする考え方がな お根強い支配力をもっていた︒その結果︑常に未払込資本を残して︑何時でも 設立された会社のうち三︑七三

0 社︵全体の六 0

︒ ハ ー セ ン ト に 当 り ︑ 重 を 要 な も の 網

羅している︶の株式額面は︑

1 0

ポンドと一

00

ポンドの間の高額面 株は全体の半分以上を占めている︒しかも前にも述べたように二

0

ポンド株で 五ボンド払込といったように高率の未払込分を残すものが多かったのである︒

Q . 

しかしパートナーシップの伝統をひいた株式のあり方は︑拾頭してきた新しい

イギリス産業における株式会社企業の発達︵荒井︶

(12)

4.3 8 

つ ま

り ︑

ナーは

︒ ハ

ー ト

ナ ー

シ ッ

プ の

よ う

に ︑

﹁ ︒

ハ プ

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そこでこ

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E 苔

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Y e ミ ︑

B o

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i r

e c

t o

r y

の序文に﹁主に一ポンドの全額払込株がもっともよく流行

一八八二年に

w .

R

ス キ

投資階級にはアッビールしなかった︒彼らは一会社に集中的に多額を投資することを好まなかったし︑譲渡に不便 な高額面株・未払込株を歓迎しなかった︒かくて﹁高額面株は中産階級を締め出す傾向﹂があり︑

( 1 0 )  

多額の払込義務のあるために投資を避け﹂ていることが一般に知られてきた︒

かのオーバーレンド・ガーニーの倒産がもたらした一八六六年の恐慌もあるていど伝統の打破に作用した︒じっ さい会社側が緊急に資金の必要に迫られて︑株主に徴収を求めても︑多くの株主が即座に払込む能力をもたないと あれば︑将来に備えて未払込分を残しておくという伝統的制度が︑非常のさいに何らの保障にもならないという反 省が起ったからである︒かようにして︒ハートナーシップの伝統は次第に崩れ去った︒

し て い る の が ︑

この金融年度の特色である﹂と書いており︑また当時の会社年鑑

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に掲載されている主要な会社では公称資本金の四分の三以上が払込済になっていたといわれるように︑八

0 年代ま

でには五ポンド以下の小額面払込済株の制度が確立し︑

( 1 1 )  

の殆んどすべての分野で完成した﹂のである︒

そして﹁世紀末までには一ボンド株の征覇は株式会社企業

積極的に経営に参加し︑

それに自らの財産の大部分を固定させるという いきかたは︑単なる安全な投資を望んでいた中産階級の投資家のボケットと気分には合致しなかった︒

の重要な投資階級にアッビールするために株式そのものが変化をとげたわけである︒このことが後に ク・カンパニー﹂をいっそう発達させ︑資本の非人格化をおし進めたことはいうまでもないが︑また従来︑高額 面・未払込の故に妨げられていた株式の譲渡性が高まってきたことは更に重要なことである︒株式の円滑な譲渡は

﹁慎重な人々は

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号

︳ ノ

(13)

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溢(,...,) Report  on  Company  Bill,  B.  P.  P.,  IX,  1898,  Q.  106,  107. 

("")  D.  H.  Macgregor,'Joint  Stock  Companies  and  the  Risk,  Facfor,  Econ.  ].,  XXXIX,  1929,  p.  495. 

(oo)  Shannon,'Limited  Companies',  loc.  cit.,  p.  296. 

("SJ')  Todd,  loc.  cit.,  p.  62  f.n. 

(lfl)  Levi,'On  Joint  Stock  Companies',  Journ.  of  The  Stat.  Socy.  XXXIII,  pp.  38‑9,  and'The  Progress  of  Joint  Stock  Companies  With  Limited  and  Unlimited  Liability  in  the  United  Kingdom,  during  the  Fifteen  Years  1869‑84', 

Journ.  of  the  Stat.  Socy.,  XLIX,  1886,  p.  248. 

(<D)  Levi,'On  Joint  Stock  Companies',  journ.  of.  the.  Stat.  Socy.  XXXIII,  p.  11. 

(e‑‑)  R.  L.  Nash,  A  Short  Inquiry  into  Profitable  Nature  of  Our  Investment,  2nd  ed.,  1881,  p.  102. 

(oo)  Clapham,  op.  cit.,  iii,  p.  205  ;  Macgregor,  loc.  cit.,  p.  503. 

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1奪)

(日) J.  B.  Jefferys,'The  Denomination  and  Charactor  of  Shares,  1855‑1885',  in  Essays  in  Economic  History,  ed.  by 

Carns‑Wilson,  p.  352. 

(口) Jefferys,  loc.  cit.,  p.  345. 

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(14)

440 

式会社企業がどのように発展していったか︑ るのである︒ここでは主要な工業において株 社に固有の機能をますます発揮するようにな 第に正常なコースを辿るようになり︑株式会

〔 第 8 表 〕

任の運用になれ︑法的整備が進むにつれて次 測した懸念も︑あるていど確かに当ってい 摘したように︑有限責任論者の筋書とはかな た︒また実際の効果についてみても︑既に指 想像させるほどには決して迅速ではなかっ 大ざっぱにいって一九世紀後期のことであっ 枠を破って一般商工業の分野に広まるのは︑ スの馘念を妥当なものとしており︑彼が設定 イギリスの株式会社企業がスミスの設定した て︑拡大の速度も有限責任の提唱者の論調が り離反しており︑ スミスや無限責任論者が予

た︒けれども企業家と投資家の双方が有限責

工業関係会社数(ロンドンで登記されたもののみ)

し た 枠 か ら さ ほ ど は み 出 し て は い な か っ た

。 業 種 ¥ 1 s s 6

1 8 6 5 I  1866‑1875 1 8 7 6

1 8 8 3

鉄 工 業 及 び 一 般 機 械 7 8   1 9 9   1 3 0  

製 鉄 ・ 製 鋼 2 2   7 1   9 2  

造 船 2 6   2 2   4 2  

鉛 工 業 等 1 5   1 8   1 9  

煉瓦・・タイル・セメント 4 1   1 6 2   1 8 0  

特 殊 機 械 3 9   1 1 5   1 5 4  

綿 1 3 5   2 7 2   1 4 3  

毛 1 4   3 5  

雑 繊 維 4 3   8 2   44 

造 ・ 製 粉 等 7 5   6 7   7 9  

紙•印

刷 3 7   87  1 1 6  

.   , 等 3 8   98  8 1  

^ 

5 6 3   1 , 2 2 8   1 , 1 1 3  

( 2 1 .  8 6 ( 2 7 . 0 7 (21.43%) 

そ の 他 2 , 0 1 3   3 , 3 0 9   4 , 0 7 6  

総 A 

計 2 , 5 7 6   I  4 , 5 3 7   5 , 1 8 9  

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号

(出所) Shannon,'The  L i m i t e d   C o m p a n i e s ' ,   E c o n ,   H i s t .   R e v . ,   p p .  3 1 2

3 .

1 9 3 3 ,  

(15)

特に個人企業︵または︒ハートナーシップ︶から株式会社企業への移行の背景︑

工業会社の増加

ると第八表のごとくである︒

三︑同期間中に設立された会社は全部で二︑五七六︵植民地その他外国で起こした事業会社を含み︑ガス・水道等の公共事業

を 除 く ︶ で あ っ た か ら ︑ 工業は全体の約ニニパーセントを占めていたことになる︒

数に関する限り鉱山業を追越したことになっている︒七 0 年代初頭のプームを含む続く一 0 年間には︑前期の倍以

セントに落ちているのは︑

一 九

一 八

八 三

年 ま

で に

それを促がした動因︑

それが工業の各部門にどの程度広まっていったかをみ

このうち最初の一 0 年間(‑八五六│六五年︶に現実に事業を開始した工業会社は五六

早くから会社企

上の工業会社が生まれ︑全体における比率も二七︒ハーセントに上昇した︒これが最後の八年間のばあい︑ニ︱︒ハー

工業が他の事業以上に不況ー—しばしば「大不況」の語で呼ばれてきたーーーの影響をう

けたためではなかろうか︒ともかくも工業会社をその数についてみる限り︑公共事業を除く全会社数の五分の一な

以上のことから判断して︑イギリス工業においては株式会社企業は堅実にその地歩を固めていったといえる︒た

だ発展のテンポは案外緩慢であって︑産業革命に続く﹁ヴィクトリア朝の繁栄﹂

V i c t

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が想像させる

当時︑綿工業と鉄工業は共にイギリスの最も重要な工業であり︑ランカシャーのオールダム

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と か

イ ギ

リ ス

産 業

に お

け る

株 式

会 社

企 業

の 発

達 ︵

荒 井

ほど急速ではなかった︒ いし四分の一を占めていたことになる︒ 業の花形となっていた鉱山業(石炭・鉄・鉛•石材等) では同じ期間に五四一社が設立されているから︑

工業は会社

q︑ー︐ '

まず有限責任制が導入されていらい︑ 与えた影響などを中心に考察してみよう︒

因 み に い え ば ︑ イギリス工業に

(16)

2

あ っ

て ︑

﹁大部分の企業は個人企業﹂で営まれており︑有限責任法が造船工業に特に顕著な影密を及ぽし 造船業のばあいはどうか︒ ークシャーのシェフィールドは︑それぞれ綿工業と鉄工業の中心地であったが︑同時にこの時代の最も重要な株式

( 1 )  

会社企業の中心地でもあった︒ところがランカシャーの綿業都市バーンリーでは五つの︒ハプリック・カン︒ハニーが

その株式は公開市場で売買されていたが︑

あった︒.プラックバーンやプレストンにおいても︑ ほかの一っ二つの会社は私的のパートナーシップに近いもので

その数は極めて少なく︑規模も﹁じつに小さなもので︑したが

ってこの地方の取引に及ぽす影響もほんの小さいものであった﹂という︒では他の工業都市︑例えば金属工業のバ

ーミンガムはどうか︒ここでは大部分が個人企業だが︑従来︑個人企業であったもので株式会社に組織変更したも

のも多い︒プラドフォードには﹁全然なし﹂︒リーズでは﹁極めて少数﹂であり︑﹁紡毛工業一般において極めて少

数﹂である︒ダンディーでは﹁皆無﹂︑絹織物のマクルスフィールドでも同じく﹁皆無﹂︑編物工業のノッティンガ

ムでも少なかった︒

会社がある﹂が︑ ﹁この国では有限責任の原理の下に設立された極めて大規模の造船

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y てはいないというのが実状であった︒これらの事実は何れも一八八六年の議会文書

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h e   t

  R o y

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( 2 )  

に現われたものであるが︑

当時かなり名の知られた工業地術にしてなお以上のごとくであるとすれば︑他は推して知るぺしで︑株式会社の多

かったオールダムやシェフィールドは例外的存在であったというべきであろう︒

一八八六年の議会文書にみられる各地の証人の発言は︑さきに示した第八表の数字からすれば︑実情をやや過小

評価しておりはしないかという疑問を抱かせる︒けれども表に示されている数の大部分の会社が累積されていった

のではなく︑既述のように︑多数の会社が短命で数年で姿を消しており︑しかも大部分の会社が小規模のものであ

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号

四〇

(17)

t  こ ︒ , 0  

'  

図綿工業における株式会社企業の増加

と︑イギリス工業に及ぽした影響力を考えるばあい︑過大評価に陥らぬよう注意しなければならない

o

しかし︑か

といってクラッ︒ハムのように﹁工業株式会社は一八七一年には存在していたが︑公共事業会社を別にすれば︑稀で

( 3 )  

あり︑重要ではなかった﹂というのは少々言い過ぎであろう︒

( 1 )

J e f f e r y s ,   o p

.  

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t .,  

p . 

75 .  ( 2 )  

C l a p h a m ,   o p

c i

.  

t .,  

i i ,   p .  

14 0.  

(3)Ibids p . 

116 

しかしこの間の技術進歩は緩慢であって︑注目すべ したがって︑

ヴィクトリア朝の繁栄にとって︑綿工業がいかに重要な地位を占めていたかということについては多言を要しな

一八二七ー三 0 年に︑すでに綿製品は全輸出額の約半分を占めて︑かつての毛織物の地位にとって代ってい

﹁棉花飢饉﹂(‑八六一ー四年︶の打撃をうける直前の一八六 0 年︑綿製品の輸出額は四︑二

00

万ポンドを超え︑

つづく毛織物︵約一︑二 00 万ポンド︶を逝かに引離していた︒

き技術革新はむしろアメリカでおこっており︑自動椋綿機︑リング紡紹機︑自動織機が生まれていた︒しかし高性

能の織機も︑専門化した小企業の多いランカシャーの織布業には必ずしも効果的ではなく︑それが急速に広まるの

はやっと九 0 年代のことであった︒したがって一九世紀の綿工業のばあい︑内外市場の拡大による大量需要に剌戟

されて︑生産は急速に増大したが︑ それは主として古典的産業革命期に知られていた技術とアメリカより入った若

イギリス産業における株式会社企業の発達︵荒井︶ ったことを想起すれば︑過小評価でないことが分るであろう︒ 工業における初期の株式会社の増加

(18)

気にかえる能力をもっており︑ 本くらいの高い煙突が一.望の中におさまる︒六八︑

000

錘を備えている代表的工場に入ってみる︒辺りに人影がみ

( 2 )  

ベインズの書物を通じて想像していたよりも︑ずっと労働者が少い︒ミックスをやっ

ているのは一人だけ︑椋綿機を扱う人数も少なく︑材料はレールに乗って移動する仕組になっている︒椋綿室は今

迄︑綿ぽこりが立こめていたが︑材料のロスを防ぐために自動清掃装置のついた杭綿機を使うようになってからは

部屋がとてもきれいになっている︒準備工程から次の紡績工程に移ると︑先ず目に入ったのは﹁大きく︑明る<︑

通風のよい部屋﹂だった︒そこでは一︑二五〇錘を備えた自動︑ミュールが二台動いていて︑

助手が働いていた︒最後にエンジン室に導かれた︒そこの鋼鉄製のボイラーは一時間に三︑

00

0 ポンドの水を蒸

え な

い ︒

A

・ ユ

ー ア

ー や

こ の

四 二

干の新技術とが大規模に適用された結果であるとみるぺきであろう︒もっとも大規模の適用といっても︑紡績部門

と織布部門とでは事情は異る︒綿布のばあいには短期的に変動するョーロッ︒ハ大陸の流行に左右されることが多い

のに反し︑綿糸の市場ではそれが少いので︑大規模の工場生産にはより適合的であった︒

したがって綿紡績等においては

r e v o l v i n

, f g

l a t   c a r d

と呼ばれた自動杭綿機︑自動ミュールを基軸とする大型の

新工場が生まれ︑労働の節約と原料のロス防止によって大いにコストを引下げることができた︒これらの新しい紡

絞工場はランカシャーでも特にオールダム地方に最も典型的︑集中的にみられたのであるが︑その実態は八 0 年代

に紡績工場を見学したドイツの一視察者シュルツェ・ゲファーニッツ

( S

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G l i v

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に深い感銘と教訓を与え

( 1 )  

た︒彼の目に映じた工場の景観は要約すれば次のごとくである︒

見渡す限り広々とした牧草地のあちこちに煉瓦造りの五階建か六階建の紡績工場が建っており︑四 0 本から五〇

一人の紡紹エと二人の

ビストンは一分間に八

00

フィート︵三 0

年 代

に は

二 四

0

フ ィ

ー ト

︶ 運

動 し

た ︒

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号

(19)

イ ギ

リ ス

産 業

に お

け る

株 式

会 社

企 業

の 発

達 ︵

荒 井

し 六

五 ︑

00

0 ボンドを要したことになる︒ ほかに土地・建物・動力設備等の固定資 大な蒸気機関より発する動力が︑すばらしい性能をもった機械に伝導され︑ ベインズの時代︵三 0 年代︶よりはずっと労働を節約している︒

原料を補給すること以外には労働者の手を煩わすことは殆んどない﹂という状態だ︒

オールダムの工場でシュルツェ・ゲファーニッツの目に映った光景はいろんの角度か

ら裏付けされている︒例えば︑当時の状態をそれより約半世紀前のユーアーの時代と比

て お

り ︑

ユーアーや

﹁ 機 械 の 監 督 と 調 整 と ︑

較すれば︑以前︑全工程に六三三人の労働者が従事していたところを一六二人で充たし

( 3 )  

いかに労働力が節約されているかが分る︒また同じことはエリスンの統計︵第

一 八

五 0 年にイングランドの紡緞工場の平均規模は一 0 ︑八五八錘であったが︑

八五年には一五︑ニニ七錘に増加した︒しかし会社企業が最も急速に発達したオールダ

ム地方では企業規模は全体の平均よりも逝かに大きく︑八 0 年代の中葉においては平均

六 0 ︑

00

0

な い

し 六

五 ︑

00

0 錘︵株式会社のばあい平均六五︑三四二錘︶を設備してい

( 4 )  

た︒当時の一紡錘の価格を平均一ボンドとすれば︑紡錘だけで六 0 ︑

000

ポンドない

本を要したことを思えば︑新しい大工場を設置するに要する固定資本の大きさは︑ラン

一 八

く表現されている︒ にもかかわらず綿糸の生産高が引続き増加していること︵生産性の著しい向上︶に最もよ 九表︶にも現われており︑特に最後の二 0 年の変化︑すなわち︑紡績工が減少している

〔 第 9 表 〕 綿 糸 の 生 産 状 況

1 年平均綿糸生産高

1

従 業 員 数 1 人当り生産高 I 1 ポンド当賃

1 8 2 9

3 1 2 1 6 , 5 0 0   1 4 0 , 0 0 0   1 , 5 4 6   4 . 2   1844‑46  5 2 3 , 3 0 0   1 9 0 ,   o o o ・   2 , 7 5 4   2 . 3   1859‑61  9 1 0 , 0 0 0   2 4 8 , 0 0 0   3 , 6 7 1   2 . 1   1880‑82  1 , 3 2 4 , 0 0 0   2 4 0 , 0 0 0   5 , 5 2 0   1 .  9 

(出所) E l l i s o n ,  The C o t t o n  Trade o f  G r e a t  B r i t a i n ,  1 8 8 6 .   p .   6 8  

(20)

446 

積 か

︒ ハ

ー ト

シップによって調達しうるていどのものであって︑

( 6 )  

本の少くとも四分の三は自ら調達したであろう﹂といわれており︑

五 0

年代においても﹁綿工場の建設者は所要資 したがって綿工業は少数の協同組合工場を除け

と こ

ろ が

︑ による労働排除の強化︑需要の増大等によって大規模工場の新設がとみに増加し︑

オールダム地方の例でわかるよ うに︑固定資本は流動資本よりも大きい比率を占めるようになったのである︒かような時期に︑新たに大規模経営 を開始せんとする企業家が︑大資本を集めるのに最も有効な手段は有限責任制を利用することであった︒綿工業︑

といっても主として紡緒業︑

において株式会社企業が増加してくるのは主として以上のような理由からであって︑

ば ︑

会社形態を必要としない産業であると考えられていた︒

﹁棉花飢饉﹂によるマ ー

ジンの減少︑資本

おいても綿工場における固定資本の大いさは個人の蓄 の時代はもちろん︑ 一九世紀の四 0 年代︑五 0 年代に

難なことではなかった︒

ァ ー クライトやクロム︒フトン

〔 第 1 0 表〕

(出所)

工業のばあい ︑

工場制を採用することは︑

そんなに困 も ︑

気力と野心のあるものにとっては成功の機会に満

( 5 )  

ちた世界であった﹂といっているように︑

一般に繊維 ヒ

ートンが﹁繊維

業は僅かな資本しかもたなくて

. つ ︒ と上廻っていたということが容易に想像しうるであろ

E l l i s o n ,   T h e   Co t t o n   Tra d e  of  G r e a t  B r i t a i n ,   1 8 8 6 ,   p .   1 3 9 . 

カシャ ー

地方の普通の︒ハートナーシップの規模をずっ

オールダム地方における紡績会社

の経営規模

( 1 8 8 4 年 )

I  工 場 数 7 1   紡 錘 数 4 , 2 1 7 , 0 0 8   ー工場当り平均錘数 5 9 , 4 0 0   工 場 諸 設 備 £4,402,29 1  ー 紡 錘 平 均 価 格 2 0 s .   1 0 d .  払 込 資 本 金 £2,976,557 

借 入

金 £2,526,371  稜立金及び未配当利益 £45,853  遥 転 資 本 総 額 £5,548,781  賃銀(年間支払額) £65 1 , 4 4 8   営業費(   )  £1,300,188 

在 庫 両

£852,804 

益(年間) £273,936  銀 行 預 金 残 高 £61,856  綿 糸 販 売 高 £ 5 , 4 6 4 , 4 3 2  

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五

六合併号

四四

(21)

てもうかがわれる︒

四 五 一 八 六 一 年 の こ と で あ っ た ︒ ﹂ のメンバーが計画したものである︒ 同社の事業は頭初は織布だけ 後に述べる鉄鋼業者に比べて逢かに個人的富の蓄積が小さかった綿業家のばあいには︑事業に失敗したばあいの保 障のために有限責任を採用するという動機はそれほど強くはなかったのである︒

綿工業においては︑以上のようにして株式会社企業が興ってくるのであるが︑次にその発展の過程を︑それが最

も急速であったオールダム地方を中心に述べてみたい︒この地方がいかに綿工業の隆盛をみたかは人口増加によっ

一九世紀に入って八 0 年ほどの間に︑ランカシャーの人口は六倍に増加したが︑オールダムでは

( 7 )  

実に二 0 倍に膨脹したという︒しかも興味深いことは︑この地方では株式会社企業が生産協同組合と並んで興って

エリスンは﹁イギリス綿工業の最近の最も著しい特徴は︑特にオールダム

( 8 )  

近辺において︑協同組合または有限責任の紡績会社や織布会社が驚くべき発展をとげていることである﹂といって

いる︒ではオールダム地方では何時頃︑どのような事情の下に株式会社企業がスタートしたか︑具体的なケースに

( 9 )  

ついてエリスンは次のようにいっている︒

1

﹁新機軸に対してはその成功を願った多くの人々も幾らか疑問を抱いていたし︑自分の事業がそれと競争するこ

とになる人々は何れ失敗に終るに違いないと自信たっぷりに予言していた︒しかしオールダムの人々は気の小さい

友人の不安や︑強大な敵対者の恐るべき予告にも屈せず︑自らの計画に対して正しい審判を仰ぐべく決意を固め

オールダム生産協 た︒その︒ハイオニーアになったのは﹁サン・ミル﹂とよばれる綿業会社であって︑

同組合

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I n d u

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  ,  o p e r a t i v e  

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y )

 

であって︑かなり順調にいったが︑結局︑採算があわず︑紡紹工場に転換した︒

綿工業会社﹁サン・ミル﹂が織布業専門で出発しながら︑わずか数年を出でずして紡組に転じたということは︑

イギリス産業における株式会社企業の発達︵荒井︶ きたということである︒ 一八八六年に T

一 八

五 八

年 ︑

(22)

448 

﹁そのすべてが紡績に従事し︑

は︱つもなかった﹂という︒

「サン・ミル」が成功して高率の配当 (-0_ —三

0

パーセ

四ー七五年のニヵ年間にオールダムだけで約三

00

万錘が

( 1 1 )  

新設された︒一八七四年にはニヵ月間に三 0 以上の会社が

二つの例外︵既存会社の買収︶

のであったのも︑ 全部が﹁新しい大工場を建設するため﹂に設立されたも

( 1 2 )  

同じ傾向を示すものである︒かくて一

記 さ

れ た

が ︑

の ほ

か は

業一般の繁栄によって大規模な﹁起業熱﹂が起り︑

一 七

の間に幾つかの企業が創設されたが︑続く一八七一年の綿 織布に従事する会社

〔 第 1 1 表 〕

ント︶を続けたのに刺戟されて︑ 一八六七年と一八七 0 年

た が

綿工業会社数と資本金の推移

3

r

一八八六年︑オールダムには九 0 の株式会社があっ 経営には適していなかった︒恐らくそのためであろうと思 ても専門化し小規模になりがちで︑株式会社組織による大

1 8 7 3

1 8 8 3

がバラエティに富んでいる織布業のばあい︑企業はどうし している︒既に述べたように流行の移り変りが速く︑市場

綿 工 業 部 門 に お け る 株 式 会 社 企 業 の 将 来 の 発 展 方 向 を 暗 示

オ ー ル ダ ム そ の 他 合 計

l

会社数

1

公称資本金 会社数

1

公称資本金 会社数 公称資本金

1 8 7 3   1 5   8 3 0   2 5   9 5 4   4 0   1 , 7 8 4   1 8 7 4   2 1   1 , 4 4 5   8 0   4 , 3 4 5   1 0 1   5 , 7 9 0   1 8 7 5   24  1 , 2 4 2   6 0   2 , 7 5 0   8 4   3 , 9 9 2   1 8 7 6   2  2 0   1 5   9 3 3   1 7   9 5 3   1 8 7 7   1 9   1 , 1 8 0   19  1 , 1 8 0   1 8 7 8   1 0   3 2 8   1 0   3 2 8   1 8 7 9   6  2 5 7   6  2 5 7   1 8 8 0   2  2 3   2 1   8 6 7   2 3   8 9 0   1 8 8 1   4  2 6 0   2 1   1 , 4 8 2   2 5   1 , 7 4 2   1 8 8 2   4  4 1 0   2 0   1 , 5 0 8   24  1 , 9 1 8   1 8 8 3   5  4 3 5   1 9   1 , 1 4 5   24  1 , 5 8 0   7 7   4 , 6 6 5   2 9 6   1 5 , 7 4 9   3 7 3   2 0 , 4 1 4  

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号

四 六

(出所) E l l i s o n ,   The C o t t o n   Trade of G r e a t  B r i t a i n ,   1 8 8 6 .   p .   1 3 5 .  

(23)

四 七

八八四年︑ランカシャーの紡績地帯︵プラックバーン︑ボゥルトン︑バーンリ︑ベリー︑マンチェスター︑プレストン︑ロッ

チデイル︑ストックボートその他の小都市を含む︶における五五三の紡績企業のうち︑一五六すなわち二八︒ハーセントが

( 1 3 )  

株式会社組織をと●ていたという︒したがって八 0 年代になると有限責任の原理は︑綿工業︵特に紡績業︶にかなり

浸 透

し ︑

その真価が高く評価されるようになった︒この時代の不況は綿工業と同様︑株式会社にとっても︱つの試

錬であったが︑オールダムの有限責任の工場は︑個人企業によって営まれている工場よりも容易に嵐を乗越えてい

くことができた︒したがって当時の人エリスンが︑株式会社は﹁ゆくゆくは綿工業の全部ではないにしても︑その

( 1 4 )  

大部分を吸収するであろう﹂と予想したのも尤もなことで︑じじつ株式会社企業は次第に個人企業を駆逐していく

比 較

す る

と ︑

一八八九年にある著者

( C . P .   B r o o k s )

はいっている︒﹁今日の綿工業の状態を約三 0 年前のそれと

︱つの点において︑すなわち事業を営んでいる企業の面において︑決定的な変化を示している︒すな

(15) 

わち多くの古い個人企業が消滅して︑会社がそれにとって代っていった︒﹂

屈指の綿業地帯になり︑同時に︑株式会社企業の最も進歩した地方となったが︑ その資本は同じくオールダムとそ

の周辺から集められたものであって︑決して外部から吸収したものではなかった︒またその資本は少数のいわゆる

﹁ 綿

業 貴

族 ﹂

( c o t t o n   l o r d s )

  によって握られていたのではなく︑

資に負うところが大であった︒ジェフェリーズは︑資本を求める企業家に呼応したものは商人や職工長などが多か

( 1 6 )

1 7

)  

ったといっているが︑この地方が早くから生産協同組合の興った地方であったことを想えば︑労働者階級の上層が

出資したとしても少しも不思議ではない︒株式額面からしても小投資家が応じ易いようになっていた︒株式額面に

イ ギ

リ ス

産 業

に お

け る

株 式

会 社

企 業

の 発

達 ︵

荒 井

最後に綿工業会社の資本の出所について考えてみたい︒

その地方の中産層と比較的豊かな労働者の小口投 一九世紀の七 0 年代および八 0 年代にオールダム地方は ようになった︒

参照

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