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[書評] 正井敬次著『マルクス経済学批判論の研究 』

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[書評] 正井敬次著『マルクス経済学批判論の研究

その他のタイトル [Review] K. Masai, Studies in the Critics of Marxian Economics, 1964

著者 三谷 友吉

雑誌名 關西大學經済論集

14

4

ページ 117‑127

発行年 1964‑11‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/15387

(2)

正井敬次著﹃マルクス網済學批判論の研究﹄

正井敬次著﹁マ

本書の﹁序﹂において正井博士はこうのべておられる︒

は昭和三年に︑関西大学において初めて学究生活に入ることに

なったが︑その時私の齢はすでに四十歳をすぎていた︒当時わ

が国では︑マルクス経済学の研究と論評が盛んであったが︑私

はただ一途に︑貨幣金融を中心にしての理論経済学の研究にお

いて︑晩学の後れをとり戻すことに専念していたので︑マルク

ス経済学に関与するだけの余裕がなかった︒かくて︑昭和十年

に﹃貨幣価値の研究﹄を発表することになったが︑その際︑私

のこの研究に理解と同情とを与えられた一人の先学に対して︑

その後の業績をもって︑その学恩に報いたいと思いながら︑志

﹁ 私

を果さぬうちに︑戦時・戦後の時期を迎えることになった︒戦

後の昭和二十二年に︑私は教職追放の運命にあって︑五年近く

の間文字どおり睛耕雨読の身の上となった︒当時私は︑経済学

を忘れて宗教とか哲学の書物を読んで日を送ろうかとも考えた

が︑しかし︑経済学の門にはいったからには︑その研究自体の

うちに宗教と哲学がある︑としなければならぬという観照が︑

私をして経済学の学徒としての自分の老を忘れしめた︒マルク

スの研究が漸くその時に始められたのである︒﹂

このような心境で正井博士は本格的なマルクス研究をはじめ

られたのである︒そしてその後のながいあいだの博士の研究は

マルクスの経済理論にとどまらず︑その方法論から人間観にま

でおよび︑そのためにヘーゲル︑フォエルバッハ︑キェルケゴー

ルクス経済学批判論の研究﹂

(3)

第七章 閥西大學﹃親済論集﹄第一四巻第四号

ル︑ハイデッガー︑サルトル︑ルカーチなどの哲学についての

比較研究もなされている︒すぐあとでみるように︑博士はこれ

までのいろいろのマルクス批判のうえに新しいものをつけくわ

えたいとかんがえるようになられたのであるが︑こういう念願

をともなう右のような広汎な研究は︑博士の高齢での晩学とい

うことをあわせかんがえると︑なみなみならぬ苦心と努力を要

するものであったとおもわれるのである︒しかし博士はこれを

なしとげて

A

版三百七十ページにおよぶ大著を公にされたの5

基本的の問題

第二章

第三章

資本蓄稜の理論

貨幣と貨幣資本の理論

第六章利潤率の傾向的低下の法則 ものである︒右に問題とする点は本書の第一章の叙述に関する第五章 向での批判が更に他の学者によっても行われることを念願する剰余価値生産の理論第四章 い︒また私の叙述は元より不充分なものであるが︑私はこの方価値法則と商品価格 第二篇﹃資本論﹄の経済理論 マルクス経済学の方法 マルクス経済学の基本的思想第一章 第一篇 さて本書の内容は

批判が行われたが︑それらは﹃資本論﹄のうちの経済理論と方

法論たる弁証法的唯物論とに関する︑同じような論議のくり返

しにすぎなかった︒そこには︑真にマルクス主義論者の反省を

促がすに足るだけの︑根本的なものが存在しなかったと言って

憚りがない︒そこでいま私は︑従来の批判からとり残されたと

自分では思惟している︑根本的なもの︑それを本書に提示し

て︑そしてマルクス主義の経済学者と思想家の反批判を示唆し

たいと考えるのであり︑それが本書の︱つの主要な目的であ

る︒根本的なものとは何であるか︒それはマルクス方法論の根

底に存する︑疎外観念と物神性観念の思想と︑史的唯物論との

矛盾という︑この一点である︒この点について従来すでに有力

な批判が行われていたかどうかを︑浅学な私はこれを知らな

ものである︒しかし︑本書を﹃マルクス経済学批判論の研究﹄

と名づけたのは︑第二章以下において︑多くの学者の古い批判 は︑過去半世紀以上もの長い問に︑多数の学者によって様々な となっているが︑正井博士によれば︑

(4)

第二章﹁マルクス経済学の方法﹂では博士はまず﹁史的唯物

神性観念の思想﹂と﹁史的唯物論﹂との矛盾についての批判が おもわれる根本的なもの︑すなわちマルクスの﹁疎外観念や物 これによってみれば︑第一篇﹁基本的の問題﹂第一章﹁マル

多くの言葉を掲げたことに︑よるのである︒しかし︑これらの

部分の総てに︑私自身の批判論が加えられていることは言うま

クス経済学の基本的思想﹂における叙述が︑博士のマルクス批

判のうちもっとも重要なものとかんがえられているのであっ

て︑そこでは︑これまでのマルクス批判からとりのこされたと

のべられるわけである︒かくてその章において博士はまずマル

クスの初期の文献︵﹃評註﹄と﹃手稿﹄︶や﹃資本論﹄のなか

の﹁自己疎外の観念﹂と﹁物神性の銀念﹂について論じ︑また

﹁ヘーゲルとフォイエルバッハの疎外観念に対するマルクスの

批判﹂と﹁マルクス主義諸論者の吻呻性鍛念﹂︵スウィージー︑

ルカーチ︑向坂逸郎教授の︶についてのべたのち︑

﹁マルクス疎外観念の批判﹂と﹁商品・貨幣の物呻性観念の批

判﹂をおこなわれるのである︒ 論の紹介と︑それに関連してマルクス及びマルクス主義論者の

実存主義批判をあげたのち博士じしんのルカーチヘの反批判を

のべておられるのである︒

紹介しマルクス主義との比較をおこない︑それからルカーチの

いてマルクスとエンゲルスの叙述︵﹃資本論﹄︑

ング論﹄のなかの︶を引用したち︑近時のマルクス主義諸論者

︵スウィージー︑ローゼンターリ︶の議論を紹介し︑つづいて

﹁史的唯物論と唯物弁証法に対する批判﹂として修正社会主義

論者その他の批判論者︵カウッキー︑アドラー︑ベンルシュタ

イン︑高田保馬博士︑小泉信三氏︶の見解を援用し︑それから

﹁批判論の結論﹂をのべられる︒そして最後に﹁実存哲学とマ

ルクス主義﹂と題して︑ハイデッガーとサルトルの実存哲学を 議論を紹介し︑つぎに﹁唯物弁証法﹂ 論︵唯物史観︶﹂︵﹃経済学批判﹄序文のなかの︶を第一命題と第二命題に要約し︑二つの命題にかんするマルクスの諸叙述

︵﹃ドイツ・イデオロギー﹄と﹃哲学の貧困﹄のなかの︶を引

用したのち︑マルクス主義諸論者︵プレハーノフ︑フランツ・

メーリング︑向坂教授︑スウィージー︑ルトケウイッチ︶の

(5)

述を引用される︒﹁労働の生産力を高め︑それによって労働力 第二篇﹁﹃資本論﹄の経済理論﹂では正井博士は前掲のような章別で﹃資本論﹄のなかの重要な法則や理論を検討されるのであるが︑それらの章においてまずマルクスの所説を紹介し︑またこれを古典学者︵アダム・スミスやリカアドウ︶のそれと比較し︑それから諸学者︵ランゲ︑ロビンソン︑ゾムバルト︑ボェーム・バウェルク︑ローザ・ルクセンプルク︑スウィージー︑高田博士︶のそれぞれの批判を援用し︑また博士じしんの重要な論拠をなすものとして注目されるのである︑ここでは︑の生産性を認めたとしか思えないような︑多くの言葉﹂をのベているとかんがえられ︑実例としてつぎのようなマルクスの叙 まず資本の生産性であるが︑博士はマルクスじしんも﹁資本 ある部分だけ紹介することとしよう︒ あたえられた紙幅の制限もあるので︑この積極的な見解に関係 マルクスの労働価値説︑とくに剰余価値説に反対される博士の 商業を生産的とし両者とも剰余価値を生むものとみる見解は︑ 子︑地代の源泉にかんするものであるが︑なかんずく︑資本や の稜極的な見解をしめしておられる︒これらの見解は利潤︑利 批判をのべられる︒そしてときにはさらにすすんで博士じしん 開西大學﹃網済論集﹄第一四巻第四号

増加は受動的のもの︑または表見的のものにすぎない︒生産力 さて︑マルクスによると︑資本の革新は労働日における必要労 は個別的に行うのである︒しかし他方において︑新たな生産様式が一般化されて︑それと共により低廉に生産される商品の個別的価値とその社会的価値との差が消失すれば︑彼の特別剰余価値も消失する︒﹂そして博士はつづいてこう論じられる︒﹁生産様式の変革は技術的及び社会的に行われるが︑技術の面ではそれは機械その他生産設備の改良であり︑資本の革新である︒働量を縮少し剰余労働量を増大することによって剰余価値を増加するが︑マルクスはそれを労働の生産力増大と労働力の価値減少の結果であるとするのであるが︑右の場合︑労働力自体の性能に自発的の変化があったわけではないから︑労働の生産力

増加の根元は何かといえば︑それは革新された資本の生産力で 相対的剰余価値の生産において資本が全体的に行うことを︑彼 てより大きい労働日部分を剰余労働として自分のものにする︒ ﹁改良された生産様式を用いる資本家は他の同業資本家に比し を︑したがって生産様式そのものを変革しなければならぬ︒﹂ 部分を短縮するためには︑労働過程の技術的及び社会的諸条件 の価値を低下させ︑かくしてこの価値の再生産に必要な労働日

︱ 二 0

(6)

制によっておこらざるをえない結果である︒︑それゆえに︑その

正井敬次著﹃マルクス網済學批判論の研究﹄

の価値である八千円にすぎなくなるのである︒これは競争の強 るされない︒その機械の使用が普及すると︑ る八千円を差引いて︑残りの二千円が機械の﹁支払われざる使

﹁生産物に移される価値﹂は︑その機械を使

労働とを含むのであるが︑交換価値または賃銀として支払われ

用価値である︒そして︑マルクスによると︑この交換価値以外

の支払われざる使用価値が剰余労働の源泉である︒いま固定資

本においても︑労働の場合と同様に︑支払われない︵生産費に

計上されない︶使用価値が生産において支出されるものと見な

ければならぬが︑それが固定資本の生産力を意味するものに他

用しない場合の一年間の一万円の賃銀に等しいと仮定され︑そ

れから機械を使用する場合のその一年間の消耗部分の価値であ

用価値﹂すなわちその生産力をしめすものとみなされ︑これよ

りして﹁剰余価値﹂が生ずるとされているわけである︒しかし

そういう仮定はその機械の使用がまだ普及しないあいだしかゆ

る価値﹂は減少するであろう︒つまり機械の一年間の消耗部分 るのは必要労働の部分であり︑剰余労働はそれ以外の労働の使

問題を検討されるのであって︑マルクスの生産的労働の概念に

ついてこうのぺておられる︒﹁マルクスは﹃資本論﹄第一巻第

十四章﹁絶対的及び相対的剰余価値﹂の叙述のうちで︑資本主義

的生産では生産的労働の概念は一面では狭められ他面では拡大

働の概念が狭められるというのは︑生産物の質料が問題でな

く︑ただ資本家のために一般的に剰余価値または増加資本を生

産するという︑単純化された概念での生産を行うものが生産的

労働である︑という意味であり︑拡大された概念とは例えば︑

資本家のために生産的労働者の教育を行う学校教師をも生産的

労働者と見る︑という意味である︒生産的労働の意味がもし右

のようなものであるとすると︑物品の販売に関する商業はもち つぎは商業の生産性であるが︑正井博士はまず生産的労働の 生産力から生ずるとはいえないのではなかろうか︒ 的な特別剰余価値である︒それは機械の使用の普及によって消滅するであろう︒かくて一般的な剰余価値は右のような資本の 機械の使用によって生ずる二千円の﹁剰余価値﹂はやはり一時

(7)

家では︑流通過程での生産手段の購入と商品の販売に関する︑

売買価格とか受渡条件の交渉︑または取引の時及び相手方の選

択などの︑市場操作そのことであり︑独立の商人の場合におい

ても同様である。·…••マルクスは、右の意味の商業行為が不生

産的のものであることを﹃純粋な流通費﹄の叙述のうちで︑次

スの﹁資本家またはその使用人が売買行為に費やす労働は空喪

であり不生産的である︒⁝⁝﹂という章句を引用したのち︑つ

ぎのような批判をおこなっておられる︒

﹁購入と販売の純商業 ︵一八九ページ︶とのべ︑つづいてマルク スが商業というのは純粋な商業行為のことであって︑産業資本

る生産的労働の本源的規定によれば︑商業的労働は生産的なも ることが必要であろう︒物質的生産の本性からみちびきだされ て生産的なものと︑私的な意味において生産的なものと区別す マルクスのいわゆる生産的労働については︑本来の意味におい 拠として純商業的行為の生産性を主張されているのであるが︑ では狭められ他面では拡大される﹂とし︑その概念の拡大を根 上記のように︑博士はマルクスの生産的労働の概念は﹁一面

は実は﹃資本論﹄での生産体系に一致せない言葉であった︑と

言はねばならぬ︒﹂

このような見地から博士は商業的労働を不生産的とするマル

クスの見解を批判されるのである︒すなわち︑博士は﹁マルク の概念の拡大について︑右の意味のことが説かれたはずである︒すなわち︑資本家のための学校教師の労働までが︑そして

もちろん︑交通業での通信業務などが生産的労働とせられたの

である︒そこで右のようなマルクスの立場では︑商品売買の行

為を不生産的のものとすることは︑できないはずでなかったの

本論﹄においても﹃剰余価値学説史﹄においても︑生産的労働 ほど限定されたものであり︑そこで右に掲げたマルクスの叙述

開西大學﹃繹済論集﹄第一四巻第四号

になるのであるが︑マルクスが真にそのような生産的労働の概

念を承認するものであるかどうか疑問である︒

生産及び労働の一般的概念からすると︑生産的労働の概念はよ ろんのこと︑あらゆる企業の従業者は生産的労働者であること

マルクスによると︑もちろん不生産的労働である

が︑それについては次のような反論を行うことができる︒生産

的労働の意味は︑必ずしも労働と生産物との物理的関係をいう

のではなく︑その労働が直接または間接に資本家のための商品

の生産に役立つものであればよい︑と解釈すべきである︒

(8)

本の生産性とは不変資本のうちの固定資本の生産性のことであ

るが︑その生産性の根拠を吾々は常識的に︑固定資本が労働と

原料とを節約するという︑その性能に求めようとする︒マルク

スによると︑固定資本は生産過程においてその消耗部分の価値

を生産物に移すだけであって︑それ以上の価値をつくり出すも

のでない︑それ故その消耗部分の価値以外においては︑固定資

本は自然物と同様に無償で生産に奉仕せしめられるのである︑

と︒これに対し吾々は︑固定資本の消耗部分の価値は生産物の

費用であるが︑固定資本には︑労働と原料を節約するという

その性能によって︑費用以外の剰余価値を造出するという生産

性が存在するものとする︒改良された機械の使用とか︑より

完全な工場の建設が︑労働の生産力と原料の歩留りを増進し︑

より少き労働及び原料をもって同一量の生産物を生産する効果

正井敬次著﹃マルクス繹清學批判論の研究﹄ 明についてみるに︑つぎのようにのべておられる︒

そこで博士の﹁資本の生産性の根拠﹂についての積極的な説

﹁改良された機械﹂や﹁より完全な工場﹂の優越性

のことであり︑それから生ずるものは﹁剰余価値または利潤の

一部分﹂である︒すなわち︑それは特別剰余価値または超過利

潤にほかならないのである︒しかしこのような剰余価値または

利潤は一時的なものにすぎないのであって︑優れた機械や工場

るものをそれの生産力とみなし︑これよりして﹁剰余価値﹂が

あると言わねばならぬ︒では︑どのような根拠で資本における

生産力の存在が問題にされ得るかの点であるが︑それについて

は別に後の部分でこれを説くことにする︒﹂生産力であるとして︑剰余価値または利潤の一部分がこの生

(一七一—一七ニペー

~

いう点では︑その機械が生産過程で消耗した部分だけの価値を 全体が労働過程において利用されるが︑生産物への価値移転と ﹁マルクスは︑︱つの労働手段たとえば︱つの機械は︑その

l̲̲ ̲  生ずることについて論じておられる︒その要点を左にあげてお しかし博士はさらに固定資本の.﹁支払われざる使用価値﹂な の普及によって消滅するであろう︒

ここで博士が資本の生産性といわれるのは︑すでにあきらか ジ ︶ 産力によって形成されるものとする︒﹂

る︒いま吾々は固定資本がもつこの効果を︑固定資本自体の をもつこと︑これは否定することのできない経験的の事実であ

(9)

‑‑‑‑‑‑‑―  ---•-‑‑.. — • • ● •— ‑―ーニ—•

り︑それだけの価値を生産物に移すこと︑それはよいとして︑ れよりも大きいのである︒ の生産期間における使用価値は消耗部分の価値と同一でなくそ の点に問題があるのであって︑吾人によると︑固定資本の一っ 開西大學﹃網漬論集﹄第一四巻第四号

生産物に附加する︑と言う︒では︑その場合その機械の使用価

値と交換価値︵価値移転部分︶との関係はどうであるか︒⁝⁝

マルクスは﹃生産手段は︑生産過程においてそれ自身の使用価

値の消耗によって失う以上の価値を︑決して生産物に移すもの

でない﹄というのであるが︑この場合︑消耗する使用価値をマ

ルクスは消耗部分の価値と同一のものと見ている︒しかし︑こ

0年のものならば︑一年間

の生産におけるその消耗部分の価値は全価値の一0分の一であ

その固定資本の使用価値はどうなるであろうか︒その固定資本

を︱つの機械とすれば︑その性能すなわち使用価値は毎年一〇

分の一づつ消滅するものでなく︑若千の補修費を要するにして

も︑三年間乃至五年間は同一の能率を持続するものと見るのが

実際的である︒しかし︑一0年間で使用価値が全部消滅するこ

とが前提されているならば︑一年毎の使用価値の大さが計算さ

れなければならぬ︒では︑その大さは何によって測られるかとの関係に等しいのである︒労働の全使用価値は必要労働と剰余 資本における使用価値と交換価値との関係は︑労働でのそれら ﹁右は一般に固定資本について言い得ることであるが︑固定 ﹃機械装置の使用に対する限界は︑機械装置自体の生産に要す いえば︑それはその機械が一年間に節約する労働量によってである︒そこで︑一年間に生産物に価値を移すところの︑使用価円の賃銀を節約する一0年耐用の機械を八万円で購人する場

合︑一万円が一年分の機械の性能であり使用価値であるが︑機

械の消耗部分の価値または交換価値は一年間に八千円である︒

生産物に移される価値は一万円であるが︑それは交換価値であ

る消耗部分の価値よりも大きいのである︒この点に関連して︑

我々はマルクスに次の叙述があったことを忘れてはならぬ︒

それによって代られる労働よりも少ないというこ

と︑⁝⁝資本にとっては機械の使用は︑機械の価値と機械によ

って代えられる労働力の価値との差によって限界づけられる︒﹄

このことは︑毎年一万円の賃銀︵労働力の価値︶を節約する一0年耐用の機械が八万円で買われることを意味するのである︒ の労働節約量とを貨幣額で見稼ることが便宜である︒毎年一万 値と交換価値との関係を知るためには︑機械の全価値と一年間

(10)

正井敬次著﹃マルクス網済學批判論の研究﹄ のとはかんがえられない︒ただ︑私的にみれば︑すなわち個々の商人の観点からは︑商業的労働もかれの営利にやくだてば生産的なものとみなされるであろう︒

さてついで博士はマルクスの商業利潤論を紹介したのちこれ

を批判し︑それから自説をのべておられる︒まずその批判をし

めしておこう°│̲

﹁マルクスが商品取引資本または商人資本というのは︑輸

送・保管︒通信などの普通の意味での商業的業務の資本を除外

が問題にされたのは︑この意味の商業資本の利潤に関してであ

とするとき︑少しの固定資本をももたない︑単に人件費だけで

営業を行う商人なるものは存在しない︒いまマルクスは︑その

ような商人が存在するものとして︑そして産業資本との関係を

問題にするのであるが︑それによると︑産業資本900での生産

価格1080︑利潤率二0形の場合︑商人資本100が加わり総資本

1000に増加すると︑両資本に共通の利潤率は一八形となり︑

﹁しかし︑商業資本を産業資本とは別の部門での独立の企業 とその使用人の人件費だけ︶を指すものであり︑右に商業利潤 して︑ただ商品売買の仲介そのことに関する商業資本︵商人

﹁すなわち︑総資本の生産価格は1280である︒商業資本は元

2.  

(1

08

0)

 + 100v'+  100m" U

1280  または 720c

  + 

180v

  + 

180m 

10

0v

'100m+ 

1 11280  %︑そして商業資本をが︑その剰余価値を

m I とするとき︑総 の関係﹂について説明される︒すなわち︑1 このようにかんがえて︑博士じしん商業を独立の企業とみな 商人を独立の企業と見た上での説明であり得ない︒もし商人を となり︑商人はその価格で商品を産産業資本の生産価格は1062

業資本から買い︑それに利潤18を加えて

10

80

(

で社会に売る︑すなわち商人は産業資本から商品を価値以下の

値で買って︑価値どおりに売るのである︑と︒しかしこれは︑

独立のものとすれば︑彼における独立の資本表式が存在しなけ

しての﹁総資本の生産表式﹂をつくり︑

資本の表式は次のようである︒ ﹁商業資本が剰余価値

を生むものと見ての︑総資本の内部での産業資本と商業資本と

﹁産業資本をマルクスが示した大きさ720c18QV 1 1

 

900

追加商業資本を100とし︑剰余価値率を両資本ともに一00

(11)

は可変資本を意味するようにおもわれるが︑後段の叙述によれ 1

00

*﹂と仮定してあること︑また︑︑が販売価格に追100v

加的にいりこむものとなっていることからすると︑その100v かならずしもあきらかではない︒﹁剰余価値率を両資本ともに 右の表式において商業の100v︑がどんな資本を意味するかは であることに注意を要する︒﹂ に帰せられるものは︑その一0分の一の20であって︑そこで商

業資本の利潤率も同様に二0%である︒以上が︑マルクスとは

反対に商業資本が剰余価値を生むものと見ての︑総資本の内部

での産業資本と廊業資本との関係についての説明である︒なお

前掲の表式2における

(1

08

0)

は︑商業資本のうちの不変資本

00ページ︶ ではなく︑ただ産業資本から交付される商品の原価を示すもの は総資本1000に基いて生じたものであり︑商業資本100

潤率の計算はどうかというに︑産業資本は商業資本へ商品を交

付する原価1080において︑二0形の利潤率を得るが︑商業資本

1080のものを1280で売るとその差額は200であるが︑この額 で買って︑価値どおりに売ることを意味する︒この場合︑利 の産業資本から商品を1080の勘定で交付され︑ 閤西大學﹃網清論集﹄第一四巻第四号

それを1280

で社会に売るのであるが︑これは商品を価値︵生産価格︶以下 ばそうでもないようにおもわれる︒かくて博士が利潤率の計算においてのべておられることもはなはだ理解しにくい︒けっき

よく︑商業資本が剰余価値を生むというかんじんの点があいま

いになっているようである︒

ればするほど︑測余価値がますます増加し︑利潤もますます増

加することになるであろう︒しかし︑これはまことに奇妙な結

にも剰余価値が生れるものとして説明した︑私の以上の理論に

ついては︑次のような疑問がもたれるかもしれない︒すなわ

ち︑それでは商業資本はいくらでも増加しうるのであって︑そ

れを制限することができないのではないか︑と︒しかし︑その

心配はないのであって︑総資本のうち産業資本と商業資本とに

おいて︑利潤率が共通の大さであるという条件の下では︑その

条件によって商業資本の量は制限されるのである︒商業資本が

増加する場合︑右の条件が固守されるかぎり︑廊業資本の剰余

余労働量の減少を意味するのであるから︑同時にそれは全商業 価値率は低下しなければならぬのであり︑それは商業労働の剰 認される︒すなわち︑博士はこうのべておられる︒

呆である︒そして博士もある意味においてそのような結果を否 もしも商業資本が剰余価値を生むならば︑商業資本が増加す

(12)

正井敬次著﹃マルクス繹清學批判論の研究﹄ あらわしておきたい︒ 労働の過剰を意味するのである︒そこで一旦増加した商業資本

以上において︑筆者は︑第二篇のなかの博士の積極的な見解

に関係ある重要な部分をとりあげ︑これを原文の引用によっ

てかなりくわしく紹介し︑そしていささか内在的批判をこころ

みた︒こういう重点的な︑その意味においてかたよったやりか

たは︑紙幅の制限のもとになるだけまとまった書評をかくため

にはやむをえなかった︒博士の宥恕をこうしだいである︒なお

筆者は博士の諸叙述から有益な示唆をえたことについて謝意を ころがあるようにおもわれる︒

れているのであるが︑その説明にもやはりなっとくできないと

︵ 二 0

ページ︶そして博士はこの制限を表式によって説明さ0 は︑上述の条件に適合するまでに削減されざるを得ない︒﹂

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