西 藏 蒙 宿 嚇 嚇 藪 概 史 四 〇
西
藏
蒙
古
嘲
嚇
教
概
史
寺
本
腕
雅
一
西
藏
嘱
嚇
教
西 藏 有 史 以 前 の 人 種 に 就 て 南 北 爾 傳 あ り、 北 傳 は 支 那 史 上 の 蒐 族 が 西 藏 人 種 の 始 原 で あ る と 謂 ひ、 西 蒐、 諾 差 の 種 族 は 青 海 以 奥 に 棲 息 し た。 蒐 の 支 那 音 チ ャ ン は 西 藏 語 ツ ァ ン(btsan)の 韓 説にして﹁強 者 ﹂ の 意 で あ り、 西 藏 有 史 以 前 の 各 代 の 王 名 は 必 す ﹁ ツ ァ ン ﹂ の 一 字 を 以 て 王 統 を 纒 承 し、 有 史 以 前 最 初 の 王 名 は ニ ヤ ー チ ィ. ツ ァ ン ボ (gN2ah-khribtsan-po)と言へる如 き は 其 例 で あ る。 差 族 に 次 で 秦 族 も 亦 支 那 音 ﹁ チ ン ﹂ は ﹁ ッ ァ ン ﹂ の 轄 説 に し て、 西 藏 族 で あ る こ と は 學 界 の 定 説 で あ る。 差 族 は 現 在 に 於 て は 四 川 省 成 都 の 西 北 の 僻 阪 地 挑、 眠 州 に 僅 か に 残 存 す れ ど、 既 に 彼 等 蒐 族 の 言 語 は 滅 失 し て 漢 民 族 の 言 語 を 使 用 し、 彼 等 の 遣 骸 は 巖 壁 を 難 拓 し て 洞 窟 内 に 埋 葬 す る 古 代 の 風 習 を 保 存 し て ゐ る。 南 傳 の 西 藏 人 種 起 源 に、 比 摩 拉 耶 山 麓 の 繹 迦 族 が 印 度 滅 亡 後、 比 摩 拉 耶 山 を 越 え、 西 藏 高 原 に 逃 れ 來 っ た 種 族 中、 繹 迦 巖 山 族 (山 中 に 住 せ し 族 名 ) に 出 で ニ ャ ﹂ チ イ ツ ァ ン ボ (gah-ribTsan-po)と樗する も の が、 西 藏 土 着 の ボ ン 教 (薩 瀧 教 )徒 に 依 つ て 選 墨 さ れ て、 鞠西 藏 無 文 時 代 の 王 と な つ た と 云 ふ。こ の 説は 西 藏 歴 更 家 一 般 の 定 説 と 碁 つ て ゐ る。 繹 迦 巖 山 族 以 外 に 種 族 に 種 々 の 異 説 あ る も 何 れ も 印 度 人 移 住 説 に 基 ぐ も の で あ る。 或 一 説 に 彼 王 は 印 度 摩 掲 陀 國 の コ ー ナ ラ 王 の 子 サ ル バ 王 の 末 子 で あ る と 云 へ ど も、 西 藏 史 家 は 此 説 を 探 用 し て ゐ な い。 酋 藏 人 は 蒙 古 人 種 と は 梢 其 相 貌 を 異 に し、 面 長 隆 鼻 に し て 印 度 ア ソ ヤ ン 人 種 に 似 て ゐ れ ど も、 言 語 は 蒙 古、 畏 兀 兇、 通 古 斯、 朝 鮮、 日 本 の 言 語 と 同 ー ア ル タ イ 語 系 に 薦 し て ゐ る か ら、 漢 語、 梵 語 と は 全 然 言 語 組 織 を 異 に す る 。 彼 ニ ャ ー チ ゴ ツ ァ ン ボ は 紀 元 前 三 百 十 三 年 頃 に 王 位 に 帥 い て 以 來、 天 紳 七 代、 地 神 六 代、 王 族 畿 展 の 七 代、 英 主 三 代 を 経 で ハ ト ト リ ・ ニ ャ ン ツ ァ ン 王 (L h a l-T ho -T H o-R is g N a n -b T sa n ) は 二 十 歳 に し て 帥 位 し た (36 7 A. D. )。 此 の 時 代 に 佛 教 は 印 度 よ 輸 入 さ れ、 或 は 龍 樹 時 代 後 に 既 に 轟 弦 國 よ り 傳 來 さ れ た と の 傳 論 あ う て 一 定 せ な い。 後 数 代 を 纒 て ス ロ ン ツ ァ ン ・ガ ツ ボ 王 (s r n-b T sa n as a m p o ) は 十 三 歳 に し て 即 位 し た (6 29 A. D. )。 王 は 中 央 亜 細 亜 を 捲 席 し、 ネ パ ﹂ 國 を 征 服 し、 ア ム ス・ バ ル マ ン 王 (Am u s v rm a n ) の 公 主 ブ ソ ク チ を 婁 う、 次 で 唐 の 西 安 ま で 侵 入 し、 唐 太 宗 と 盟 約 し、 唐 藩 會 盟 碑 を 甘 粛 省 六 盤 山 の 西 南 麓 に あ る 清 水 縣 に 立 て、 内 親 王 交 成 公 主 を 王 妃 に 迎 へ た。 公 主 は 繹 尊 像 一 躯 を 奉 戴 し て 西 藏 に 降 嫁 し 踊 公 主 及 び ネ パ ー ル 國 公 主 の 熱 誠 な る 佛 教 信 仰 が 西 藏 民 族 固 有 の ボ ソ 教 師 ち 薩 満 敏 に 代 つ て 佛 敷 化 七、 佛 敏 を 以 て 西 藏 國 教 た ら し め て 今 日 じ 至 り、 一 千 二 百 鯨 年 間 西 藏 民 族 の 生 命 の 源 泉 と な り 隔 西 藏 蒙 古 噺 嚇 激 嶽 皮 四 一
西 藏 蒙 古 嘲 臓 教 概 史 四 二 政 敏 一 致 の 政 髄 と な つ た の で あ る。 王 は 大 臣 ト ン ミ サ ム ・ ブ ホ ダ (T h o n m i-samhota)等を印度に留學 せ し め、 彼 の 蹄 藏 後 直 ち に 印 度 デ ブ ナ ガ リ ー 文 法 に 基 い て、 西 藏 め 子 音 三 十 字 と 母 音 四 個 と を 創 案 し て 西 藏 丈 典 を 造 り、 有 史 以 前 よ り の 國 語 を 整 理 し、 或 者 に よ っ て ハ ト ト ヅ ・ ニ ャ ン ッ ァ ン 王 の 代 に 天 降 聖 典 と 穣 せ ら れ た る 百 舞 臓 悔 緯 等 の 藏 課 も 出 來 て、 印 度 佛 敏 輸 入 と 共 に 西 藏 交 化 の 基 礎 と な つ た。 王 よ り 三 代 に し て 九 世 紀 の 初 期 に チ ー デ ウ ・ ス ロシ ツ プ ン・ ガ ン ボ( K h ri s de hu s ro n-bTsam-po)帥 位 し(728A.D.-786A.D.)、 佛 敏 原 典 を 印 度 よ り 輸 入 し、 支 那 和 倫 四及 印 度 五 明 博 士 等 多 数 の 龍 象 を 招 聰 し、 佛 典 醗 課 事 業 を 開 催 し、 甘 珠 爾 部( 輕 部 ) と 丹 珠 爾 部 (論 繹 部 ) と に 薦 す る 多 量 の 維 論 繹 を 課 出 し、 内 は 佛 教 を 以 て 政 教 一 致 の 國 敏 と し、 外 は 遠 く 支 那 長 安 ま で 兵 を 進 祐、 長 慶 四 年 に 唐 藩 會 盟 碑 を 西 藏 拉 薩 市 に 立 て、 國 威 を 内 外 に 振 う た。 そ の 後 王 の 弟 ラ ン ダ ル マ (L a n-D a r-M a ) は 佛 教 聖 典 及 び 伽 藍 寳 塔 を 破 壊 し、 西 藏 は、 闇 黒 時 代 を 現 出 し て 混 鑑 の 状 を 呈 し た。 王 は 一 護 法 劇 臓 に 依 て 斌 さ れ、 國 家 は 元 の 如 く 治 ア ム ド リ、 ラ ツ ェ ン ゴ ン バ・ ラ ブ ナ
ル(BLa-Chen dGon-pa RabSar)
は 支 那青海の邊り安土地 に 於 て 支 那 律 僧 と 倶 に 戒 律 を 傳 持 し 馬 拉 薩 に 於 て 正 法 律 を 復 興 し て 佛 教 改 復 を 謀 り、 或 は 多 数 の 求 道 者 は 印 度 に 到 り、 聖 典 殊 に 坦 特 羅 経 を 將 來 し、 藏 課 し て 西 藏 佛 敏の 復 興 に 全 力 を 盤 し た。 後 代 に 西 藏 蒙 古 に 於 け る 諸 寺 の 年 中 行 事 の 一 で あ る 劇 嚇 の 跳 鬼 踊 は、 彼 の 破 佛 者 ラ ソ ダ ル マ 王 は 佛 敵 に し て 國 家 掩 齪 者 な り 上 し て 一 般 藏 民 の 怨 嵯 と な り、 途 に 一 護 法 凋 嚇 に 依 つ て 殺 害 さ れ た る 悲 劇 を 記 念 せ る 跳 踊 で あ る。
西 紀 十 一 世 紀 の 中 葉 頃 に 薩 迦 地 方 (s a-s k y a ) に 於 て 薩 迦 ザ ソ ボ (s a s k y a b Z a n p o ) 帥 ち ク ソ ガ ー. ニ ン ボ (k u n-d G a h s n in p o 全 漱 喜 心 藏 ) 第 一 世 に 依 つ て 血 績 相 承 師 ち 在 家 宗 な る 薩 迦 派 が 創 設 せ ら れ、 西 藏 佛 教 を 統 一 し て ゐ た。 二 蒙 古 元 代 の 剛 臓 教 ウ イ 元 の 成 吉 思 汗 は 西 漱 を 征 服 し、 次 で ﹁ 丙 寅 年 四 十 五 歳 兵 を 土 伯 特 に 用 ひ、 衡 (d B U s 中 國 )、 藏 (gT 8 s aP カ ム カ ム 清 浮、 須 迷 山 の 意 )、 南 地 西 藏、 喀 木(kHams, 康) の 諸 部 を 征 伏 し、 西 藏 全 土 を 薩 迦 派 (s a s k y a-pa)の 第 一 世 ク ツ ガ ﹂ ・ ニ ン ボ (k 5 n-d G a hS n io o o ) に 捧 げ、 西 藏 支 配 灌 を 委 ね、 併 せ て 蒙 古 開 教 を 勅 す。 か く て 彼 劇 嚇 は 多 く の 痢 嚇 を 派 し て 蒙 古 弘 通 を 企 て た、 蒙 古 佛 教 是 れ よ り 始 ま る 土 襯 胡 土 克 圖 の 著、 西 藏 史 チ ュ プ ・ タ ー L(GrgHThah p. 9 5 )) 。 ク ン ガ ー・ ニ ン ポ は 法 皇 兼 國 王 と し て 薩 迦 派 の 教 灌 を 確 立 し、 蒙 古 佛 教 を 開 始 し て 太 祀 の 偉 業 を 扶 翼 し た っ 薩 迦 派 は 代 々 血 績 的 在 家 宗 教 で あ つ て、 所 謂 奮 教 で あ る。 ク ン ガ ー・ ニ ン ボ は 西 藏 統 治 上 必 要 な る 公 文 教 書 等 に 用 ゆ る 蒙 書 禮 の 字 を 以 て 西 藏 字 を 改 訂 畿 明 し、 國 璽 詔 勅 に 捺 印 し、 頒 行 し て 西 藏 民 を 支 配 し た。 此 書 艦 は 國 璽 詔 勅 等 官 印 の み に 使 用 し、 一 般 民 衆 に は 西 藏 字 の 階、 行、 草 の 三 髄 文 字 を 使 期 し 九。 均 第 四 代 の 憲 宗 蒙 寄(Mg-Ge)は西藏のヵルマ・パクシ (K r m a p ag ci ) を 蒙 古 に 聰 し、 多 く の 殿 堂 を 建 て 崇 敬 し、 彼 獄 癸 未 歳 三 月 に 死 去 し た。 酋 藏 蒙 古 嘲 嚇 教 概 史 四 三
西 藏 蒙 古 嘲 嚇 敏 概 災 四 四 定 宗 (貴 由 G u y u k ) は 癸 巳 二 十 九 歳 に 帥 位 し、 三 年 に し て 波 す。 そ の 弟 庫 騰 (H u d u n ) は 甲 午 年 二 十 九 歳 に て 帥 位 す。 乙 未 歳 疫 病 流 行 し、 診 覗 す る も 痙 癒 す る 能 は す、 故 に 西 邊 地 方 に 五 明 に 通 曉 せ る 薩 迦 派 の ク シ ガ ー ・ヂ ャ ル ツ ァ ン (K u n-d G ah R g y a l-m T sh a n ) を 招 聰 す べ く 道 爾 達 な る も の を 派 し て 迎 へ し め た。 彼 は 六 十 三 歳 に し て 甲 辰 年 に 西 藏 を 登 し、 丁 未 年 六 十 六 歳 に し て 蒙 古 に 來 錫 し、 庫 騰 汗 に 謁 し、 汗 に 灌 頂 を 授 け し と こ ろ 頃 刻 に し て 汗 の 病 氣 は 痙 癒 し た。 衆 皆 漱 喜 し て 崇 敬 を 捧 げ た。 辛 亥 年 (I 25 I A . D. ) 彼 は 七 十 歳 に し て 圓 寂 す。 汗 は 在 位 十 八 年、 辛 卯 歳 四 十 歳 に し て 没 す。 或 は 云 ふ、 彼 と 汗 と は 司 箏 の 没 な り と 云 ふ 課 註 蒙 古 源 流 春 四、 漠 南、 注 容 昌 謬 註 土 観 胡 土 克 圖 の 著、 蓑 古 源 流 ﹂ に 日。 ﹁ 薩 迦 班 灘 初 租 ぜ ヅ ン・ チ ャ ク チ ャ ル (R e-b T s u n n r a a s-R gT y a l) 帥 ち ク ン ガ ー・ ヂ ャ ル ツ ァ ン (Ku n -d G a h R a y a -m b sh a n ) は 甥 の 伯 克 巴(hphaas-pa) を 件 ひ て 蒙 古 に 來 錫 し、 丙 辰年(Me-hBugq)に 庫 騰 (n u-T a n ) と 會 見 し、 彼 の 獅 子 音 の 説 法 に 由 て 王 の 病 氣 は 季 癒 し、 王 の 春 薦 は 歓 び、 種 々 の 神 攣 を 現 ぜ し が 故 に 信 仰 を 生 じ た ゆ 其 以 前 に は 蒙 古 (s o a-p o ) に は 丈 字 が 無 か つ た
か
ら、
彼
班
繹
は
新
蒙
古
文
を
創
作
せ
ん
と
し
て
畏 兀 見 丈 字 を 脱 化 し て字
数
四
十
五
字
を
創
定
し
た。
帝
師
は
辛
亥
年
に
示
寂
し、
汗
も
同
年
に
没
し
た。
帝
師
の
遺
骸
は
蘭
州
城
外
に
塔
を
建
て、
埋
葬
し
た
云
々
此 の 塔 は 現 に 同 地 に 残 在 せ る む と 筆 者 鶴 實 検 レ た 北 京 よ わ 宣 化 城 に 至 る ま で の 鐵 道 沿 線 の 昌 李 州 (漢 の 上 谷 郡 ) に 現 存 す る 元 代 の 建 築 ﹁ 居 庸 關 ﹂ は 庫 縢 汗 が 薩 迦 派 第 二 世 ク ソ ガ ﹂ ・ ヂ ャ ル ツ ア ン を 招 聰 し て 開 眼 慶 讃 式 を 暴 行 し た 關 門 で あ る。 同 關 の 壁 丈 仁 灘 駕 梵字、
畏
兀
見、
西
藏、
伯
克
巴、
西
夏、
漢
の
六
種
文
字
を
鋸
彫
し
て
あ
り
明 治 四 十 五 年 二 月 一 目 獲 行、﹁ 佛 教 史 學﹂ 第 一 編 第 十 一 號、 第 二 編 第 二 舞。
其
後 薩 迦 派 の ク ン ツ ェ ン ・ ツ ェ ヂ ・ オ ジ ぜ ル( K u n-m kb ye n C h o-s k y iH o d-Z er) が 蒙 古 に 來 錫 し、 先 に 畏 兀 見 文 字 を 創 案 し た る ク ン ガ ー ヂ ャ ル ツ ァ ン の 蒙 古 丈 字 の 各 語 尾 攣 化 の 不 備 を 訂 正 増 補 し、 云 何 な る 言 語 も 韻 爲 し 得 る や う に 完 成 し た。 伯 克 巴 (h ph a a s-p a, 聖 者 の 意 ) 劇 嚇 は 彼 の 弟 チ ャ ク ナ リ ン ツ ェ ン (P h y ag -N a R in-C H e n) と 倶 に 伯 父 ク ン ガ ー ヂ ャ ル ツ ァ ン に 俘 は れ て 來 蒙 し、 淳 砧 五 年 (i 24 5 A .D .) に 潜 邸 に 於 て 忽 必 烈 (K h u b ila i) に 謁 す。 彼 は 二 十 三 歳 に し て 國 師 と な つ た( 元 史 二 百 二 巻 )。 彼 は 尋 常 の 劇 嚇 で は な か つ た。 己 巳 歳(I269A.D.)彼三十 一 歳 に し て 再 び 蒙 古 に 來 錫 し、 庚 午 歳 (I 270 A . D .) 彼 三 十 二 歳 の と き、 世 租 の 命 を 奉 じ、 ク ン ガ ー ヂ ャ ル、 ヅ ァ ン が 創 案 せ る 蘭 査 梵 宇 の 攣 形 字 を 増 補 改 訂 し て、 詔 勅、 國 璽、 牌 面 (羅 傳 用 )等 に 公 布 し た。 所 謂 伯 克 巴 文 字 な る も の 是 れ で あ る (元 史 参 照 )。 此 の 國 字 頒 布 よ り 元 朝 は 翌 年 至 元 八 年 始 め て 國 號 を 元 と 改 稔 し だ (周 易 に 稼 る )。 伯 克 巴 は 世 租 の 爲 め に 功 徳 獣 喜 金 剛 坦 特 纏 を 講 じ、 眞 金 皇 太 子 の 爲 め に 彰 所 知 論 を 著 は し、 劇 嚇 教 を 以 て 大 元 め 國 敏 と 爲 し、 至 元 十 一 年 彼 は 三 十 六 歳 に て 還 藏 し た。 世 租 留 む る も 聴 か す、 同 十 七 年 庚 辰 十 一 月 二 十 二 日 西 藏 に て 示 寂 す、 享 年 四 十 二 歳 で あ る。 世 租 は 詮 號 を 賜 ひ、 ﹁ 皇 天 之 下、 一 人 之 上、 宣 丈 輔 治、 大 聖 至 徳 善 畳、 眞 智、 佑 國 如 意、 大 實 法 王、 西 天 佛 子、 大 元 帝 師 ﹂ と 穣 す。 ﹁ 書 史 會 要 ﹂ に ﹁ 伯 克 巴 丈 字 は 字 形 の 難 解 と 書 爲 の 不 便 と の 爲 め に 民 間 に 行 は れ す、 元 朝 の 滅 亡 と 共 に 公 文 顧 藏 蒙 賓 醐 嚇 教 概 史 四五西 藏 蒙 古 劇 薩 製教 概 史 四 六 の 上 に も 全 ぐ 姿 を 消 し、 全 く 死 字 と な つ た﹂ と 云 ふ。 併 し、 明、 清 雨 朝 の 間、 西 藏 達 頼 園 嚇 の 國 璽、 蒙 古 の 各 胡 土 克 圖 の 印 章 に は 現 に 省 使 用 せ ら れ て ゐ る か ら、 決 し て 死 文 字 で は な い。 只 印 章 の み に 使 用 さ れ て、 蒙 古 一 般 人 民 の 日 常 言 語 を 爲 す 丈 字 で は な か つ た の で あ る。 伯 克 巴 示 寂 後 七 年 に し て 帝 師 上 足 弟 子 等 は 西 藏、 蒙 古、 食 兀 見 の 碩 學 博 士 等 相 集 りて ﹁ 至 元 法 寳 勘 同 目 録 ﹂ を 編 纂 刊 行 し、 越 え て 二 十 三 年 武 宗 至 大 三 年 蒙 古 丈 字を 以 て 蒙 古 語 一 切 経 翻 課 の 大 事 業 を 完 成 し た。 そ の 残 巻 で あ る 薦 大 な 立 派 な 般 若 維 六 百 巻 (六 画 ) は 現 存 し て ゐ る。 是 れ 薩 迦 班 暉 が 畏 兀 見 文 字 を 改 訂 増 補 せ し よ り 僅 か に 三 十 年 後 で あ つ て、 實 に 驚 く べ き 蒙 古 文 化 の 畿 達 で あ る。 元 の 順 帝 は 十 四 歳 帥 位 し、 三 十 五 年 間 そ の 位 置 を 保 ち し も、 性 庸 劣 に し て 政 治 を 顧 み な い。 帝 の 代 ツ エ リ ン ツ エ ン に 帝 は 伽 燐 眞(Rtse-Rin-Chen)を帝師に封じた。當時、 季 章 政 事 の 陰 麻 (k a rm a ) は、 妹 婿 の 禿 魯 帖 木 児 イ エ ン ヂ ユ ル ワ ン ヂ ロ を し て 帝 に 演 蝶 見 (d B a n-b D e ) = 根 樂、 五 根、 五 官 の 享 樂 の 秘 法 を 勧 め、 伽 隣 眞 を 指 導 者 と し て 洛 樂 に 耽 つ た と 云 ふ 記 事 あ り (元 史 )。 こ の 秘 法 は 西 藏( 西 紀 十 二 世 紀 ) の 蕉 教、 殊 に 左 道 密 教 の 坦 特 羅 (T a n tr a ) 乗 に し て、 尼 婆 羅 の 女 神 崇 拝 派 の 陰 陽 爾 性 崇 信 の 影 響 を 受 け た も の で あ る。 タ ン ト ラ
不
本
來
の
坦
特
羅
乗
は
理
想
の
智
慧
を
金
剛
界
と
し、
男
性
を
以
て
表
徴
し、
現
實
の
方
便
を
胎
藏
界
と
し、
女
性
を
以
て
表
徴
す。
此
の
金
胎
爾
部
一
致
融
合
に
よ
つ
て
現
象
帥
實
在
を
艦
験
す
る
と
説
く
を
旨
趣
と
す。
後
代
印
度
の
毘
掘
奴
派
の
女
紳
崇
舞
と
混
合
し、
左
道
密
教
と
し
て
排
斥
せ
ら
る。
ヅ エ リ ン ヅ ェ ン ぞ ゐ ン デ ー ル ワ ン デ ー 伽 燐 眞 が 示 唆 し た と 云 へ る 演 蝶 兇 は 西 藏 語 d B a n-b D e の 韻 課 の 韓 説 で あ つ て も と よ り 左 道 密 教 で あ る。 併 し 恐 ら く 元 史 の 記 載 通 り の 淫 狸 な る 事 實 で は な か つ た で あ ら う。 そ は 元. 明. 清 よ り 現 今 に 至 る ま で 蒙 古 地 方 の 各 寺 廟 内 に は 陰 陽 合 艦 神 像 が 祀 ら れ て ゐ る の で あ る。 併 し 彼 等 西 藏 蒙 古 人 は 是 を 以 て 神 聖 覗 し、 決 し て 淫 樂 の 封 象 と は し て ゐ な い。 陰 陽 爾 性 崇 舞 は 無 知 な る 凡 夫 の 實 行 す べ き 境 界 で は な い、 道 行 高 き 徳 操 純 澤 な る 苦 行 者 の み に 依 つ て 實 修 さ る も の と し て 敬 度 に 奉 信 さ れ て ゐ る。 只 隊 米 人 や 日 支 人 は 劇 臓 敏 の 此 の 左 道 密 敏 で あ る 所 以 を 知 ら な い が 爲 め に、 此 の 陰 陽 像 給 を 視 て 剛 臓 敏 が 腐 敗 し て ゐ る か の 如 く 迷 断 す る は 誤 れ る 批 評 で あ ら う。 ﹁元史﹂ 編 纂 者 の 悪 評 は 排 佛 思 想 に よ る 認 識 不 足 の 記 述 で あ る。 三 明 代 の 剛 臓 敏 明 の 太 租 は 桑 門 よ り 身 を 起 し て 元 朝 を 亡 ぼ し、 内 地 の 佛 教 制 度 を 革 正 す る と 同 時 に 西 藏 薩 迦 派 の 中 央 集 権 制 を 改 め て 分 散 制 度 と し、 薩 迦 派 以 外 の 四 人 高 位 に 灌 能 を 授 け て 政 治 に 参 與 せ し め て 薩 迦 派 の ソ ナ ム シ ン 灌 勢 を 抑 制 し た。 太 租 は 洪 武 二 年 に 甘 粛 省 を 征 定 せ し と き 吐 蕃 の 宣 撫 慰 使 鎖 南 普 (b s a-N ams C in 功 徳 樹 の 意 ) 等 は 元 朝 よ り 授 か れ る 金 銀 牌 印 隔 宣 救 を 持 て 軍 門 に 降 來 し た。 支 那 史 の 吐 蕃 傳 に 擁 れ ば、 明 永 樂 年 間 に 於 て、 吐 蕃 の 諸 劇 嚇 に し て 戒 行 精 勤 の も の 多 し。 彷て帝は
灌
頂
國
師、
至
大
國
師、
西
天
佛
子
等
の
稽
號
を
そ
れ
ぐ
の
資
格
に
慮
じ
て
授
與
し、
悉
く
世
襲
を
許
し
参
勤
交
代
西 藏 蒙 古 剛 瞬 教 概 史 四 七西 藏 蒙 古 嘲 職 激 概 史 四 八
し
て
朝
貢
せ
し
む。
是
れ
よ
り
劇
嚇
及
官
吏
の
京
師
に
輻
韓
す、
と
云
ふ。
カ ル マ朋
の
成
組
鳳
永
樂
元
年
に
恰
立
麻(skaL-Ma)
な
る
も
の、
道
衛
深
き
こ
と
を
傳
聞
し、
司
禮
少
監
侯
顯
と
僧
智
光
と
を
派
七
て
招
聰
す。
蛤
立
廓
は
使
菰
随
ひ
入
朝
し、
四
年
冬
奉
天
殿
に
於
て
帝
と
會
見
し、
高
帝
后
は
普
度
大
齋
を
難
谷
寺
に
建
て、
帝
行
幸
し
て
香
を
焚
く。
姶
立
鷹
を
大
寳
法
王、
西
天
大
善
自
在、
佛
領
天
下
繹
教
に
封
す。
彼
は
五
嚢
山
に
登
う、
大
齋
を
建
て、
高
帝
后
の
爲
め
に
薦
福
を
修
し
た。
彼
は
六
年
四
月
還
藏
し
た。
サ チ ヤ パ薩
迦
派
(s-s
k
y
a-pa)
の
代
々
の
世
襲
制
度
に
よ
る
政
教
一
致
の
罐
力
は
金
藏
を
歴
し、
教
政
盆
麦
強
大
増
展
と
共
に
明
朝
の
優
遇
を
受
け、
西
藏
佛
数
は
明
朝
の
國
教
と
な
る
に
随
ひ、
西
藏
國
内
に
於
て
佛
教
の
弊
害
籏
出
し、
加
之
薩
迦
派
の
数
義
は
坦
特
羅
乗
に
基
づ
き、
金
胎
爾
部
の
教
義
を
以
て
陰
陽
雨
性
密
教
に
西
藏
民
族
固
有
の
ボ
ン
教
(B
o
n
)
郎
ち
薩
満
教=
紳
慧、
駆
硯
教
を
混
入
し、
出
家
沙
門
の
清
規
は
素
れ、
卜
占
祭
祀、
除
災
癒
病、
吉
凶
鍋
編、
豫
言
紳
慧
の
如
き
眞
理
背
反
の
迷
信
に
堕
落
し、
宛
然
所
薦
宗
数
と
化
し、
政
教
共
に
慶
頽
し
た
の
で
あ
る。
ヅ オ ン ク パ 、 永 樂 十 五 年 (I4 I 7 A . D .) に 西 藏 佛 教 の 改 箪 者、 垂 の 偉 人 宗 喀 巴( Ts o n-k h a-pa)は甘粛 省 西密府の西南 ッ オ ン ヅ オ ン ソ ン 孚 日 里 程 の 山 澗 安 土 地 (A-m B o) の 宗 喀 (T s o n-Kh a ) 師 ち 葱 又 は 松 林 の 生 す る 河 畔 に 佳 せ し 一 遊 牧 者 の 子 と し て 生 れ、 父 は カ ツ ェ ル ー ブ ム ゲ (K H a-C h e Kl n-h b n m-d G e )、 母 は シ ン モ ・ ア ツ ェ ( Cin-MoA-Chos) と 云 ふ。 善 良 に し て 宗 教 心 深 き 家 庭 に 生 れ た る 六 人 兄 弟 中、 彼 は 第 四 子 で あ る。 少 年 の 頃、 カ ル マ 派 の 惣 ル ゼ・ ド ア ぜ (R o l-pa h i Rd o-R j e ) よ り 優 婆 塞 戒 を 受 け、 名 を ク ン ガー ・ ニ ン ボ (K un-dGahsninl-poウ イ ヅ ア ン リ 全 歎 喜 心 ) と 名 け ら れ、 十 七 歳 西 藏 に 巡 禮 し、 衛(dbBus中國) と 藏 (gTs a n) 州 と に 來 り、 苦 學 精 働 し、 佛 教 の 奥 義 を 極 め、 阿 提 沙 (A ti ca ) が 來 藏 し て 當 時 の 慶 頽 せ る 西 藏 佛 教 を 改 革 せ ん と し て 著 は せ る 菩 提 次 第 道 (Byani-ChuHRam-Rim)に基づき、 薩 迦 派 の 腐 敗 せ る 佛 教 を 改 革 し、 戒 律 を 嚴 守 し、 セ ラ ブ (C es -R a b, 智 慧 ) 帥 ち 金 剛 界 と タ ブ (Th a b s, 方 便 ) 帥 ち 胎 藏 界 と の 喩 伽一 致 に 依 て 西 方 往 生 思 想 を 鼓 吹 し、 首 府、 拉 薩 (H Lh a-S a, 紳 地、 玉 地、 佛 地 ) よ り 西 南 二 日 里 程 の キ ー チ ュ 川 (S k yi d-C H u, 幸 幅 川 ) の 南 岸 ガ ン デ ン ス 漢 谷 に 入 り、 ガ ル ダ ン 寺 (d G a h -R e a P, 俗 稻 甘 丹 寺 ) を 創 立 し、 持 律 清 風 の 新 教 を 宣 言 し た。 此 の 宗 教 改 革 は 西 藏 全 土 を 風 靡 し、 彼 の 法 撞 に 参 集 す る も の 雲 霞 の 如 く で あ つ た。 此 時 大 明 成 宗 は 宗 喀 巴 の 徳 風 を 傳 聞 し、 勅 命 を 以 て 國 使 四 人 を 派 し、 支 那 に 來 錫 を 懇 請 せ し も、 彼 は ゴ ン チ ュ ン バ (m N o n-C h u n -B a ) の 洞 窟 に 静 定 し て 國 使 に 會 は す。 國 使 は 藏 王 チ ャ ク パ ・ ヂ ャ ル ツ ァ ン (G ra gT s -a R gq y a l-m T sh a n, 禧 纏 王 ) を 介 し て 面 晒 を 乞 ひ し に、 支 那 へ の 飛 錫 は 故 障 多 く、 藏 内 民 心 の 宗 教 精 神 改 革 は 西 藏 國 家 統 制 上 重 大 な る 使 命 な れ ば 敢 て 勅 旨 を 舞 僻 せ ん 走 て 固 贈 し た。 彼 は 成 化 十 五 年 (I 479A.D.)にガル ダ ン 寺 に 於 て 示 寂 し て 兜 傘 天 に 往 生 し て ゐ る と 云 ふ 。 彼 の 遺 骸 は 現 に 同 寺 に 安 置 す。 薩 迦 派 を 奮 教 又 は 紅 帽 派 (C a-d m a r-p a ) と 云 ひ、 紅 色 の 冠 衣 を 被 着 す る の 俗 樗 で あ り、 宗 喀 巴 の 改 革 宗 教 を 新 敏 又 黄 帽 派 (C a-gS e r-p a ) と 云 ふ。 黄 色 の 冠 衣 を 被 着 す る 名 禧 で あ る。 前 者 は 血 績 世 襲 の 在 家 宗 で あ り、 後 者 は 法 脹 師 弟 相 承 で あ る。 西 藏 蒙 古 劇 嚇 教 擬 史 四 九
西 藏 蒙 古 剛 臓 教 概 史 五 〇 ゲ ン ド ゥ ン チ ュ パ ケ イ チ ユ プ グ レ ク バ ル ザ ン ボ 宗 喀 巴 に 根 敦 珠 巴 ( d n e-d D u n s eq r u b -p a, 僧 伽 (衆 ) 成 就 ) と 凱 珠 布 格 将 克、 巴 勒 藏 普 (m k H a s -S gT r u b パ ン d G e-L egdpali-bZan-po)との二大弟子あり。 前 者 は 第 一 世 達 頼 劇 縣 (T a la i B la-M a )、 後 者 は 第 一 世 班 ツ ヱ ン 灘 嘲 嚇 (p a n d it a C h e b-p o ) で あ る。 西 藏 開 開 王 ス ・ ン ・ ツ ァ ン ガ ン ボ 王 ば 阿 彌 陀 佛 の 化 身 な り と し て 尊 崇 さ れ、 達 頼 は 観 昔 の 化 身、 班 灘 は 阿 彌 陀 佛 の 代 々 の 化 身 な り と 信 せ ら れ、 雨 者 は 入 滅 と 轄 生 出 現 に 關 し て は 相 互 逓 師 と な つ て 新 教 を 掌 管 し て 今 日 に 及 ん で ゐ る。 ソ ナ ム ヂ ヤ ム ツ オ 當 時 外 蒙 古 は 未 だ 中 國 に 服 せ な か つ た。 明 世 宗 嘉 靖 二 十 二 年 (I 54 3 A . D. ) 仁 第 三 世 鎖 南 嘉 穆 錯 (b S o d-N amsRgTya-mTsho, 功徳海)は、 徳 行 高 く し て 内 外 蒙 古 に 傳 播 し、 蒙 古 諸 部 落 の 尊 信 を 受 け て ゐ た。 ホ ヅ ン タ イ チ そ の 時、 河 套 地 方 の 蒙 古 部 盟 長 の 俺 答 及 び 彼 の 從 孫 黄 台 吉 等 は 入 藏 し て 第 三 世 を 青 海 に 迎 へ、 仰 華 寺 を 建 立 し て 駐 錫 を 請 う た。 中 國 が ﹁ 活 佛 ﹂ な る も の を 知 つ た の は 彼 第 三 世 よ り 始 ま る。 俺 答 は 蒙 古 語 の 海 タ ヨ ラ ィ を 意 味 す る ﹁ 達 頼 ﹂ な る 字 を 奉 呈 し て 尊 稔 し た。 蓋 し 宗 喀 巴 の 二 大 弟 子 中 に 於 て、 抗 薩 普 佗 洛 城 (po ta la, ゲ ン ド ウ ン チ ユ パ ヂ ャ ム 舟 繋 所、 港 ) に 君 臨 せ し 根 敦 珠 巴 の 化 身 轄 生 者 は、 代 々 氏 名 の 語 尾 に ﹁ 海 ﹂ の 意 を 有 す る 西 藏 語 R g y a-ヅ ヲ タ エ ラ ィ m T sH o (ヂ ャ ム ソ ) な る 丈 字 を 附 托 す る を 法 規 と し て ゐ る か ら、 蒙 古 人 俺 答 は 蒙 古 語 の ﹁ 達 頼 ﹂ (T a a li, 海 の 意 ) な る 字 を 以 て 尊 稔 す る こ と、 し た の で あ る。 是 れ よ り 後、 拉 薩 首 府 の 法 皇 兼 國 王 は 第 一 世 達 頼 劇 嚇 よ り 一 昨 年 毒 殺 さ れ た 第 十 三 世 に 至 る ま で 皆 ﹁ 達 頼 ﹂ な る 蒙 古 字 韻 を 冠 し て 通 稻 す る に 至 っ た の で あ る。 達 頼 第 三 世 は 慈 忍 淵 鰍 鳶 し て 繹 定 を 專 念 す る 仁 由 り、 紅 教 (奮 教 ) の 大 實 法 王、 閲 化 諸 王、 蒙 古 諸 王
は 皆 傭 首 随 喜 し て 弟 子 と 穗 し、 蕃 王 虚 位 を 擁 し、 能 く 號 令 を 施 す こ と 能 は ざ る に 至 つ た。 ヨ ン ダ ン ヂ ヤ ム ツ オ 已 に し て 俺 達 の 曾 孫 嗣 い で 第 四 世 と な る、 雲 丹 嘉 穆 錯 (Yo n-T a n R g y a-m T sho, 徳 海 と 構 す ) と 云 ふ。 彼 第 四 世 の 勢 力 は 漢 北 (外 蒙 古 ) に 蔓 莚 し、 遠 く 伊 牽 地 方 に 及 ん だ。 彼 は 二 十 八 歳 に し て 示 寂 し た。 當 時 に 漢 北 の 諸 部 落 は 僻 遠 の 邊 地 な れ ば 親 し く 達 頼 の 馨 咳 に 接 す る 能 は ざ る を 憾 む。 此 秋 西 藏 喀 木 地 (k h am s) の 西 藏 史 家 タ ー ラ ・ ナ ー ダ (T a ra n a ta ) は 蒙 古 に 巡 化 し (I 83 4 A.D.)、支那皇帝 の 保 護 に 依 り 多 く の 寺 廟 を フ ビ ル ハ ン プ ル バ 建 て、 外 蒙 古 ﹁ 庫 倫 ﹂ 地 に 於 て 遷 化 し た。 そ の 後 彼 の 韓 生 化 身 印 ち 呼 必 勒 窄 (s o ru-B a ) を 以 て 大 胡 土 克 圖 ゼ プ ツ ン タ ン バ と 爲 し、 外 蒙 古 諸 部 落 の 劇 嚇 教 々 務 を 縛 轄 し た。 帥 ち 是 れ 庫 倫 に 於 け る 代 々 の 哲 布 尊 丹 巴 (R je-b T s u n D am-p a, 最 勝 徳 尊 の 意 ) の 始 め で あ る 現 在 の 哲 布 奪 丹 巴 は 昨 年 蕉 堀 の 慕 泥 に 塵 せ ち れ 表
四
清
代
の
劇
嚇
敬
ロ ブ ザ ン ヂ ャ ム ッ オ 清 の 太 宗 崇 徳 七 年 に 達 頼 第 五 世 羅 布 藏 嘉 穆 錯 (R lo-b Z a n R g y am T 肋wHo 賢 心 海 ) は 使 節 を 盛 京 に 派 し、 國 方 及 方 物 を 獄 す。 國 書 中 に 日、 清 軍 の 興 起 紐 征 は、 邪 道 魔 軍 の 人 民 怨 敵 を 退 治 し、 正 法 に 依 て 國 家 太 李 建 設 の 目 的 を 達 せ ん が 爲 め な れ ば、 清 皇 帝 は 帥 ち 是 れ 阿 彌 陀 佛 の 無 限 の 智 慧 の 光 明 を 象 徴 せ る 交 殊 菩 薩 (梵 語 m a n ju ca i-b o d h is a tt v a ) の 韓 生 化 身 な り、 我 は 阿 彌 陀 佛 の 無 限 の 慈 悲 の 壽 命 を 象 徴 せ る 観 音 菩 薩 の 轄 生 化 身 で あ る。 文 殊 は 劔 を 以 て 天 下 の 魔 軍 を 戟 定 し て 一 切 人 民 の 塗 炭 の 苦 を 濟 ひ、 観 昔 は 限 ひ な き 慈 愛 壽 命 の 手 を 差 し 延 べ て 一 切 衆 生 の 苦 を 救 は ん と の 悲 願 實 現 の 韓 生 化 身 で あ る と 讃 碩 し、 是 西 藏 蒙 古 嘲 麻 激 概 更 五 一西 識 蒙 古 嚇 臓 教 禰 典 五 二 マ ン ヂ ユ の チ ン れ に 因 て 金 族 は 交 殊 帥 ち 満 珠 " 満 洲 國 と 穂 す る 碩 徳 文 を 奉 獄 し た。 是 れ よ り 金 朝 は 瀟 洲 と 云 ふ 國 名 を 構 す る に 至 つ た 所 以 で あ る。 山 西 省 の 五 毫 山 は 往 古 よ り 文 殊 菩 薩 の 常 佳 露 峯 な り と 信 ぜ ら れ、 華 嚴 維 中 に 東 方 に 清 涼 山 あ り と 云 ふ 山 名 を 取 つ て 清 涼 寺 と 名 づ け ら れ た。 金 朝 皇 帝 は 文 殊 菩 薩 の 化 現 者 な リ チ ン チ ン コ と 信 せ ら る、 因 縁 に 由 て、 五 墓 山 清 涼 寺 の ﹁ 清 ﹂ の 一 字 を 以 て ﹁ 清 國 ﹂ と 名 構 を 攣 更 す る に 至 つ た の で あ る。 五 壷 山 中 の 中 毫 山 は 元、 明 爾 時 代 よ り 蒙 古 嘲 嚇 教 の 寺 廟 を 建 立 し、 丈 殊 菩 薩 の 常 住 露 峯 な ち と 信 せ ら れ、 今 も 術 巡 禮 の 聖 地 で あ る。 チ ヤ ン チ ヤ フ ト ウ ク ト ウ
世
租
雍
正
帝
郎
位
の
時、
達
頼
第
五
世
は
來
朝
し
て
賀
表
を
奉
呈
し
た。
特
に
第
二
世
章
嘉
胡
土
克
圖
は
帝
と
達
頼
と
の
會
見
の
媒
介
的
課
官
を
務
め、
西
藏
國
を
清
朝
の
保
護
國
た
ら
し
め、
其
に
因
て
西
藏
佛
教
を
以
て
清
朝
の
國
敏
と
し
て
確
立
し
た。
雍
正
帝
は
自
己
の
離
宮
で
あ
る
雍
和
宮
を
清
室
の
菩
提
所
と
爲
し、
併
せ
て
西
藏
學
者
を
聰
し、
サ ン蒙
古
剛
嚇
大
衆
の
経
學
修
行
の
學
林
と
爲
し
た。
達
頼
第
五
世
は
還
藏
後、
高
宗
乾
隆
二
十
一
年
に
示
寂
し
た。
大
臣
桑
ヂ エ カ ム 結 は 喪 を 秘 し て 登 せ す。 後 桑 結 は 拉 藏 汗 に 殺 さ れ た。 達 頼 の 後 縫 者 に 就 て 世 宗 は 康 地 の 裏 塘 (R i-T h a n カ ザ ン ヂ ヤ ム ツ オ 山 の 李 原 ) の 大 劇 臓 を 招 致 し、 第 六 世 の 達 頼 と し た。 師 ち 是 れ 鳴 藏 嘉 穆 錯 (s k a lZ a N R g y a-m Ts h o ) で あ り、 叉 の 名 を ヅ ァ ン ヤ ン ・ ヂ ャ ム ッ ォ (g T sa n-d B y an s Rg y a-m T s h o ) と 繕 す。高
宗
乾
隆
帝
は
達
頼
第
五
世
の
示
寂
後、
法
嗣
纒
承
問
題
の
弊
害
齪
賑
を
矯
正
防
止
せ
ん
が
爲
め
に、
達
頼
臨
終
の
遣
言
に
依
リ
聰
慧
な
る
見
童
数
名
を
捜
索
し、
達
頼
又
は
班
暉
と
西
藏
各
大
臣
と
駐
藏
大
臣、
各
大
學
林
の
座
主
等
立
會
ひ、
西
藏
の
拉
薩
首
府
の
法
輪
殿、
或
は
北
京
雍
和
宮
に
於
て
全
山
の
嘲
嚇
大
衆
参
堂
し、
嚴
粛
な
る
大
法
會
の
間
に
於
て
先
代
示
寂
せ
る
達
頼
或
は
班
暉
が
日
常
使
用
せ
し
維
典、
鈴
柞、
念
珠、
袈
裟
と、
其
外
の
類
似
物
品
を
取
混
ぜ
た
も
の、
中
よ
り
前
記
三
名
の
小
見
を
し
て
適
宜
に
澤
び
取
ら
し
め、
先
代
の
眞
の
逡
物
を
裡
び
出
せ
る
三
名
を
選
出
し、
更
に
三
見
童
の
名
を
各
籔
に
記
し、
是
等
を
黄
金
寳
瓶
中
に
入
れ
て
密
封
し、
佛
前
の
卓
上
に
奉
安
し、
秘
密
修
法
の
喩
経
了
る
や、
駐
藏
大
臣
は
進
ん
で
象
牙
箸
を
持
つ
て
黄
金
瓶
中
よ
り
瞑
目
し
て
抽
出
し、
各
籔
に
記
名
せ
る
晃
竜
は
眞
の
呼
必
勒
窄
(Sp
ru
l-B
a
)
な
り
と
し、
諸
大
官
立
會
の
澄
明
に
依
つ
て、
彼
の
鬼
童
を
後
縫
者
と
し
て
法
皇
兼
國
王
に
選
暴
し、
清
國
皇
帝
に
上
奏
し
て
裁
可
を
仰
ぐ
こ
と、
規
定
し
た。
達
頼
第
五
世
の
後
綴
法
嗣
者
は
西
藏
旬
麻
地
方
の
土
司
の
四
歳
の
見
童
よ
り
選
ば
れ
た
の
で
あ
る。
是
れ
乾
隆
帝
の
制
定
せ
し
金
寳
瓶
製
籔
法
で
あ
つ
て、
現
に
西
藏
に
於
て
行
は
れ
て
ゐ
る。
清
朝
の
理
藩
院
は
西
藏、
内
外
蒙
古
の
佛
敏、
所
謂
劇
臓
教
を
統
轄
す
る
一
種
の
治
外
法
灌
制
度
の
衙
門
で
あ
る。
内
外
蒙
古
よ
り
蒙
古
旗
盟
諸
王、
胡
土
克
圖
(活
佛
)
は
三
ヶ
年
一
度
墾
勤、
朝
貢
し、
皇
帝
親
か
ら
彼
等
を
優
遇
す
る
政
治
工
作
の
み
に
依
つ
て、
外
藩
に
一
兵
を
駐
屯
す
る
こ
と
な
く、
無
爲
政
策
化
に
依
り
て
数
百
年
間
季
和
に
綾
い
た
の
で
あ
る。
西
藏
の
宗
敏
は
佛
数
で
あ
り、
蒙
古
も
西
藏
流
傳
の
佛
教
で
あ
る。
然
る
に
西
洋
の
學
者、
宣
教
師
が、
嘲
嚥
教
と
西 藏 蒙 古 嘲 嚇 教 概 史 五 三西 藏 蒙 古 劇 嚇 教 概 史 五 四 ラ マ 傳 へ た こ と に 因 て 藏 ・ 蒙 の 宗 教 を 嘲 嚇 教 と 呼 ぶ や う に な つ た の で あ る。 嘲 臓 と は 西 藏 語 眼 キ 窓 斜 は﹁ 無 タ ぎ ラ イ ニ フ マ パ ン ヅ エ ン 上 ﹂ 又 は ﹁ 上 人 ﹂ と 云 ふ 意 味 で、 最 高 者 へ 封 す る 奪 敬 語 で あ つ て、 西 藏 の 達 頼 劇 臓、 或 は 班 暉 劇 嚇 と 云 ふ 如 き 特 殊 の 敬 稔 語 で あ る。 後 代 に 達 頼 剛 嚇 の 多 数 の 弟 子 達 は 一 般 世 俗 か ら 嘲 臓 又 は 劇 嚇 僧 と 呼 ば れ、 藏 ・ 蒙 の 佛 教 を 園 嚇 敏 と 樗 す る や う に な つ た の で あ る。 西 藏・ 蒙 古 の 佛 教 は 西 暦 七 世 紀 傘 十 世 紀 ラ ン ダ ル マ
以
前
ま
で
は、
龍
樹
の
中
襯
學
派
に
薦
す
る
戒
律
佛
敏
で
あ
つ
た
が、
其
後
朗
達
磨
王
の
慶
佛
殿
繹
後、
印
度
よ
り
左
道
密
教
輸
入
し、
加
ふ
る
に
西
藏
固
有
の
ボ
ン
教
帥
ち
紳
慧
の
薩
満
教
を
混
入
し
て
佛
教
本
來
の
眞
義
が
失
は
れ
る
や
う
に
な
つ
た。
蒙
古
佛
教
も
西
藏
其
儘
の
密
敏
が
傳
來
さ
れ
て
ゐ
る。
明
代
永
樂
十
五
年
に
宗
喀
巴
出
で
て
奮
教
の
弊
害
を
改
め、
戒
律
的
般
若
主
義
を
以
て
印
度
阿
提
沙
の
﹁
菩
提
次
第
道
﹂
を
租
述
し
た。
然
か
し
彼
の
示
寂
後
は
西
藏
・
蒙
古
は
何
れ
も
依
然
と
し
て
陰
陽
爾
性
左
道
密
教
は
隆
盛
を
極
め、
現
世
利
盆
の
慾
望、
病
氣
痙
癒、
享
樂
卜
占、
豫
言
等
の
迷
信
的
所
濤
宗
教
に
堕
落
し
た
爲
め、
特
に
諮
達
勇
弊
な
る
蒙
古
民
族
を
萎
靡
沈
滞
せ
し
め
て
ゐ
る。
併
し
内
外
蒙
古
諸
在
地
の
寺
院
精
含
に
は
繹
迦、
彌
陀
を
中
心
と
し、
藥
師、
彌
勒
を
左
右
に
安
置
し、
襯
音、
丈
殊、
普
賢
の
諸
菩
薩
を
脇
侍
と
し
て
禮
舞
し、
常
に
観
昔
の
呪
文
庵
嚇
幌
夙
魅
呼
の
六
字
眞
言
を
念
論
し
て
ゐ
る
こ
と
は
今
も
尚
攣
る
こ
と
は
な
い。
只
民
間
の
俗
信
仰
に
迎
合
す
る
た
め
に
陰
陽
雨
性
の
書
緯
神
像
を
祀
つ
て
ゐ
る
現
瓶
で
あ
る。
此
の
久
し
き
間
の
迷
信
の
弊
害
を
排
除
し
て
根
本
佛
敏
の
佛
陀
在
世
時
代
の
佛
教
に
復
更
す
る
こ
と
が
蒙
古
民
族
を
豊
醒
し、
救
濟
す
る
先
決
問
題
で
あ
る。
内
蒙
古
今 の 満 洲 國 領 土吐
黙
特
左
翼
旗
下
に
あ
る
瑞
慮
寺
は
清
朝
乾
隆
帝
の
勅
建
で、
常
に
一
千
有
飴
名
の
學
徒
の
修
ラ ブ チ ヤ ン リヘハ 道 院 で あ る。 八 十 籐 歳 の 老 碩 學 を 學 頭 と し、 以 下 二 十 飴 名 の 博 士 あ り、 其 下 に 五 十 飲 歳 よ り 六 十 有 鯨 歳 ま で の 二 百 飴 名 は 漸 次 博 士 の 候 補 者 と し て 持 戒 堅 固 の 比 丘 衆 で あ り、 孜 々 と し て 攻 學 修 道 に 鯨 念 が な い。 就 中、 西 藏 聖 典 を 主 と し、 傍 ら 蒙 古、 満 洲、 漢 文 に 熟 達 せ る 老 碩 學 者 あ り。 彼 等 は 一 度 此 の 修 道 學 林 へ 入 る 以 上、 一 生 蜀 身 で 學 林 内 に 佳 み 込 み、 徳 を 積 み、 業 を 働 み、 大 衆 沙 門 の 標 幟 と な り、 決 し て 郷 里 へ 蹄 省 せ な い。 民 間 の 男 女 等 は 彼 等 高 徳 比 丘 衆 を 慕 ひ、 徳 化 を 受 け て 各 精 神 の 苦 悶 を 浮 化 し、 演 悦 と 戚 謝 と に 依 て 原 始 的 生 活 を 螢 ん で ゐ る、 幾 百 萬 の 蒙 古 人 は 各 人 の 愛 仔 を 學 林 へ 逡 り、 一 生 涯 の 學 資 を 支 給 し て 毫 も 悔 い る 心 の 起 ら な い の は、 是 れ 彼 等 が 嘲 嚇 敬 を 唯 一 の 生 命 と し て 信 じ て 生 存 し て ゐ る か ら で あ る。 さ れ ば 噺 臓 教 の 盛 衰 は 帥 ち 蒙 古 民 族 の 生 活 問 題 で あ る。 清 朝 滅 亡 以 來 既 に 四 十 五 年、 蒙 古 嘲 嚇 教 の 保 護 監 督 は 贋 止 さ れ、 劇 臓 教 團 の 衰 頽 は 自 然 の 結 果 で あ る。 只 心 な き も の は 表 面 に 暴 露 せ る 迷 信 弊 害 と 劇 臓 の 風 氣 問 題 と を 悪 評 し て 剛 麻 教 を 全 滅 し、 是 に 代 ふ に 日 本 紳 道 を 以 て せ ん と 計 書 す る も の さ へ あ ら ば、 そ れ は 蒙 古 民 族 の 生 命 と せ る 剛 臓 敏 の 根 本 教 理 に 封 す る 認 識 不 足 に 基 く も の で あ ら う。 か が ら 遠 洋 航 海 の と き 軍 艦 の 速 力 を 弱 め る も の は、 無 数 の 牡 蠣 殻 が 船 底 に 附 着 す る か ら で あ る。 此 の 牡 蠣 殼 を 振 り 落 せ ば 軍 艦 は 立 派 な 能 傘 を 獲 揮 す る で あ ら う。 誰 か 牡 蠣 殻 を 取 除 か ん が 爲 め に 軍 艦 其 も の ま 西 藏 蒙 古 剛 嚇 教 概 史 五 五西 藏 繭家 古 劇 臓 教 概 異 五 六 棚で も 破 壊 す る も の は な い で あ ら う。 蒙 古 民 族 と 嘲 臓 教 と の 關 係 も 亦 是 と 同 檬 の も の で あ ら う。 況 し て 日 蘇 爾 國 關 係 の 逼 迫 せ る 昨 今 に 於 て 尤 も 關 心 を 要 す べ き 秋 で あ る と 思 ふ の で あ る。 (昭 和 十 四 年 八 月 ご 目 記 ) 答 唐 招 提 寺 和 尚 之 質 疑 本 誌 第 六 十 九 號 灰 載 の 論 交 に 封 し、 昭 和 十 四 年 七 月 十 三 日 唐 招 提 寺 北 川 智 纂 長 老 よ り 質 疑 あ り。 縄 啓 峰 師 よ り こ の 程 回 答 を 得 た る に よ り、 逐 條 記 す る こ と 左 の 如 し。 第 一 日 本 密 教 ハ 宗 租 大 師 二 基 キ 四 分 ノ 一 律 顯 密 二 戒 昌 可 限 乎 否 答 弘 仁 ノ 御 遺 誠 二 顯 密 二 戒 堅 固 護 持 丈 有 部 依 行 者 ハ 三 學 録 ノ 御 提 揖 二 糠 り、 有 部 律 二 依 行 ス ヘ キ 旨 ヲ 指 示 下 サ レ タ ル モ ノ ト 心 得 ル。 第 二 日 本 密 教 ハ 往 古 ヨ リ、 論 旨 官 符 一一 依 ル ヘ キ 滋 ト 必 要 ナ レ ヤ 否 ヤ 答 大 師 三 學 録 上 奏 篇 封 シ、 弘 仁 十 四 年 十 月 十 日 三 學 録 御 聴 許 ノ 太 政 官 符 ヲ 下 サ ル、 右 太 政 官 符 二 準 愚 シ テ 有 部 律 ヲ 随 行 ス。 第 三 日 本 密 教 ハ 傳 法 灌 頂 ハ 五 種 三 摩 耶 戒 灌 頂 ノ コ ト 必 要 力 否 答 五 種 三 摩 耶 灌 頂 ハ 四 分 二 限 リ タ ル 理 ナ シ、 八 租 ノ 多 分 ハ 有 部 依 行 ノ 上 ニ テ 傳 法 セ ラ ル。 第 ﹁四 有 部 律 受 戒 ノ 戒 壇 何 レ ユ 建 立 ア リ ヤ 否 答 日 本 密 教 者 ノ 有 部 律 依 行 ハ 大 乗 通 授 謁 磨 ユ 愚 テ 受 戒 シ、 ソ ノ 上 二 有 部 ヲ 随 行 ス、 勿 テ 小 乗 有 部 ノ 戒 壇 有 無 ハ 問 題 二 非 ズ。 第 五 有 部 ノ 三 僧 坊 ハ 政 府 ノ 許 可 ア リ シ ヤ 否 答 有 部 ノ 三 僧 坊 ハ 有 部 依 行 者 ノ 根 本 道 場 ト ス ル 意 味 ナ リ、 蓋 シ 學 如 和 上 ハ 藺 王 寺 ヲ 以 テ 有 部 櫓 園 ト 定 メ タ キ 旨 ヲ 総 法 務 宮 聴 下 二 奏 上 シ テ 許 可 ヲ 得 ラ レ タ リ ト 傳 フ。 以 上 繹 啓 峰