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「文化活動の推進者」・十河巌 : 朝日会館館長時 代を中心に

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「文化活動の推進者」・十河巌 : 朝日会館館長時 代を中心に

著者 中村 仁

雑誌名 関西学院史紀要

号 26

ページ 69‑107

発行年 2020‑03‑15

URL http://hdl.handle.net/10236/00028592

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「文化活動の推進者」 ・十河巌

    ―朝日会館館長時代を中心に

中村  

Ⅰ   導入

  十河巌とは何者だったのか?

  一九八〇年、七十六歳になった十 ん(河巌(一九〇四―一九八二)は関西の芸術文化に対する長年の貢献を表して兵庫県教職員組合より芸術文化賞を授与された。十河の受賞は関西圏の各新聞によって報じられ、その際神戸新聞では「画家・十河巌氏」の経歴について次のように紹介されている。「戦後、大阪、阪神間で労働者の音楽運動など、多くの文化活動を推進。「神戸の文化をすすめる会」の結成にも加わり、芸術文化の普及に尽力した」。また別の新聞では「洋画家」・十河巌の経歴についてもう少し詳しく書かれている。「昭和三年、朝日新聞大阪本社に入社、社会部記者を経て二十一年に大阪朝日会館館長に就任。戦後の荒廃期に海外から音楽家を次々と

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招き、労音、労演の結成にひと役買った。三十年の朝日新聞退職後は「神戸の文化をすすめる会」の結成に加わり、県立近代美術館などの建設ではかげの功労者」。これらの記事からわかることは、「画家」ないし「洋画家」である十河巌が「神戸の文化をすすめる会」の結成に携わり、一九七〇年に生まれた兵庫県立近代美術館(現・兵庫県立美術館原田の森ギャラリー)の設立に貢献したことである。しかしそれは十河が朝日新聞社を定年退職した後の出来事であり、それより前に十河が何を行っていた人物なのかについての記述は判然としない。朝日新聞社会部記者としての経歴、大阪朝日会館館長としての活動、労音(勤労者音楽評議会)・労演(勤労者演劇協会)結成への貢献など、大まかに「芸術文化の普及」に貢献した人物であることはわかるものの、いずれも「画家」、「洋画家」という肩書とは直接結びつかないものばかりである。しかも肝心の画歴についての記述が一切ない。これらの記述からは、芸術文化賞の授与が、十河巌の「画家」としての創作活動に対してではなく、「文化活動を推進」した功績に対するものであったことがわかる。十河厳とは何者だったのだろうか?本論文では、十河厳という人物の多彩な経歴の中でもしばしば筆頭に挙げられる「大阪朝日会館館長」としての活動を中心に、彼がいかなる形で関西の「文化活動を推進」し、「芸術文化の普及」に努めたのかを明らかにしたい。

  終戦直後までの朝日会館   十河巌が朝日会館の館長をつとめたのは一九四六年九月から一九五三年一月までの約六年半のことである。先の新聞記事にあるように、その間、十河は、のちの一九六〇年代に全盛を迎える

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鑑賞団体・労音や労演の設立に助力し、また指揮者・朝比奈隆の率いる関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)、関西オペラ(現・関西歌劇団)の創設にも関わった。さらに一九五一年九月のヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインの来日公演を皮切りに朝日会館では海外有名音楽家の公演が続く。わずか六年半の間に、十河は朝日会館館長として、終戦直後の荒廃から関西の芸術文化を発展させる礎を築き上げたといえるだろう。しかしそうした十河の活動の詳細を論じる前にまず、朝日会館について簡単に紹介しておきたい。

  大阪の中之島にかつて存在した総合文化施設・朝日会館[図1]は、大阪朝日新聞社の創設五〇周年を記念して一九二六年に生まれ、一九六二年に阪神高速道路建設のために取り壊されるまで、大阪の芸術文化の中心地として大きな存在感を誇っていた。黒地に金で縁取られたその異様な外観は松下甚三郎の設計で、ドイツのゼセッション様式を模範としていたと言われる。一・二階は大阪朝日新聞社の印刷所、三階には展示場、四階から六階までは千六百人の収容を誇る公演場として、演劇、オペラ、コンサート、映画上映、展覧会が日々催されていた。一九二八年に大阪朝日新聞社会事業団が作られると会館の運営は社会事業団に移管され、以後、一九五三年に朝日ビルディングに移管されるまで、朝日会館は事業団主催による数々の公演により、関西における芸術文化の中心地としての役割を果たした。

[図1]創設当時の朝日会館(朝日新聞社所蔵)

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  また一九三一年には朝日会館発行による雑誌『會舘藝術』[図2]が誕生し、当初は会館での催しの紹介記事が中心であったものの、やがて月刊雑誌として、朝日会館の催しの紹介だけではなく、音楽、映画、演劇、美術、文芸など様々な芸術ジャンルを網羅する総合芸術文化雑誌として展開していった。特に一九三〇年代の朝日会館は、ハイフェッツやルービンシュタインなど欧米の一流音楽家の来日公演が多数催され、加えて新協劇団や新築地劇団など東京から招かれた劇団の公演も続き黄金時代を迎える。会館に足繁く通う新興ブルジョア層を中心とした人々は「会館族」と呼ばれていた。

  しかし一九三七年に日中戦争がはじまり、次第に総力戦体制に入る中、その活動は縮小を余儀なくされる。音楽家や舞踏家の来日は途絶え、雑誌『會舘藝術』は太平洋戦争のはじまる一九四一年末で一度休刊になる。以後は『大阪文化』、『厚生文化』とその名前を替えながら縮小の一途をたどっていく。また雑誌記事では日本文化を礼賛し、総力戦体制への支持を表明するような内容も増え、朝日会館では「軍人資金醵集」という名目においてしか演奏会が開かれないようになる。

  一九四五年三月十三日の大阪大空襲を皮切りに、同年六月から終戦前日の八月十四日まで大阪

[図2]

『会館芸術』1931 年第2号表紙

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はたびたびアメリカ軍による空襲被害を受け、一〇、〇〇〇人以上の方が亡くなったという。しかし朝日会館のある大阪市北区の中之島は比較的被害が少なく、周辺の中之島図書館や中央公会堂といった歴史的建造物とともに、朝日会館も戦災を生き延びた。終戦後は天王寺の大阪市立美術館をはじめ多くの建造物が進駐軍によって接収される。一九四六年七月十五日、大阪朝日新聞社庶務部次長の田坂董隆の案内で進駐軍大阪憲兵隊隊長と国際クラブ森本某による朝日会館視察があり、その際、朝日会館がキャバレーとしての使用のために進駐軍に接収される可能性が浮上した。しかし「文化の殿堂を以て大阪市に誇る朝日会館をキャバレーの使用に接収されることはきわめて遺憾である旨を軍政府に陳情し」、会館は接収を免れることができたという。こうして朝日会館は空襲も接収も免れたため、戦中から終戦直後にかけて、大きな中断なく活動を続けることができた。

  十河巌と朝日会館の関りは一九三〇年代にはじまる。十河は大阪朝日新聞社計画部時代に朝日会館の運営に関わっていた可能性が高く、また一九三七年十二月に作曲者の指揮する宝塚交響楽団によって朝日会館で初演された作曲家・大澤壽人の交響幻想曲《西土》においては歌詞を書いた。同年よりはじまる朝日会館主催のレコード鑑賞会では、関西圏の音楽家や音楽評論家に交じり銓衡委員を務めた。しかし同年特派員として中国大陸に渡り、その後も一九四二年三月から数か月、そして一九四四年十二月から終戦まで特派員としてジャワに滞在していた。雑誌『會舘藝術』およびその後継誌にはたびたび記事を寄せており、二度目にジャワに渡る直前には『大阪文化』の編集も務めている。美術、演劇、音楽など様々な芸術ジャンルについて造詣が深く、新聞記者としての活動に加え、画家や詩人として創作活動もしており、さらには雑誌編集の実務経験

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をもち、商科出身で経営感覚も持っており、朝日会館を運営する人物としてはうってつけの存在であったと思われる。一九四六年五月にジャワから帰国した十河巌は、同年九月より大阪朝日新聞社から朝日会館に出向する形で館長に就任する。

 

Ⅱ   朝日会館館長・十河巌―劇場経営のリアリズムと芸術の民衆化

  聴衆の組織化―労音、AGOT、ACC   十河巌が朝日会館館長に就任した一九四六年九月は終戦からちょうど一年を過ぎた時期であった。朝日会館では一九四三年に始まった月一プログラム二公演の室内楽演奏会シリーズ「朝日名曲定期演奏会」が続いており、また一九四六年一月からはナチスに追われ日本に亡命し、戦前より朝日会館と関係が深かったピアニスト、レオニード・クロイツァーによる連続演奏会が定期的に開かれていた。しかしそれらを除くと、大きな催しはなく、来日音楽家の演奏会、オーケストラ、オペラ団体の来阪公演などで大いに沸いていた一九三〇年代のような活気は失われていた。

  ところが十河が館長に就任して間もなく、朝日会館では大型公演が増えていく。十河が就任した翌月、一九四六年一〇月は朝日会館の開館二十周年記念の月であった。一連の記念公演の皮切りになったのは九月二十八日から一〇月四日まで上演された新協劇団の『幸福の家』(村山知義演出)である。さらに十月五、六日の二日間にわたってドイツから帰国したヴァイオリニスト、諏訪根自子の演奏会が開かれた。そして十月八日から十一日にかけては日本交響楽団(現・NH

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K交響楽団)の秋季演奏会が続く。二十年前、朝日会館が開場した際の最初の大型公演が一九二六年十月二十七日、結成間もない新交響楽団(日本交響楽団の前身)による演奏会(近衛秀麿指揮)であった。今回のベートーヴェンの第九交響曲をメインに据えたプログラム(ローゼンシュトック指揮)は、開館二十周年にふさわしい華やかな催しであった[図3]。さらに翌一九四七年一月には東京バレエ団によるチャイコフスキーのバレエ《白鳥の湖》が上演される。これは前年八月に東京・帝国劇場で開かれた、藤田嗣治による舞台装置、上海バレエ・リュスのダンサーだった小牧正英の振り付けと演出による、戦後日本のバレエ・ブームの幕開けとなったプロダクションの引っ越し公演で、この公演をきっかけに関西でもバレエ公演が多く開かれるようになった。特に小牧正英率いる小牧バレエ団は一九四〇年代後半から一九五〇年代にかけて朝日会館で数多くのバレエ公演を行った。

  このように十河巌が館長に就任して以降、朝日会館はオーケストラ、オペラ、演劇、バレエなど様々な催しで賑わうようになるのであるが、その運営には財政面において非常に大きな問題が存在した。戦争末期以降、演劇、映画や音楽公演には二〇〇%の税金(入場税)がかけられていた。一九四七年四月より税制は改められたが、入場税としてやはり一〇〇%の税金がか

[図3]日本交響楽団の演奏会     プログラム、1946 年 10 月

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けられ、税率は同年十月より一五〇%となる。これは本来のチケット代に、その一・五倍の税金が課されることを意味する。とりわけオーケストラやオペラ、バレエ公演のように、そもそも莫大な経費がかかる公演について、一〇〇%を超える税率は主催者に過大な負担を強いることとなる。朝日会館において公演コストを削減することは必須の課題であった。

  こうした環境下で十河が試みるのが聴衆の組織化である。音楽や演劇に関心のある学生や勤労者を鑑賞団体として組織し、毎月安価な料金で朝日会館の公演に動員することにより、必ず数公演分客席が埋まるような状況を作り出す。それにより同一団体により複数の公演を開催することが可能となり、出演団体の交通費や宿泊費、出演料を相対的に安く済ませることができる。

  聴衆の組織化の嚆矢となったのが、一九四八年十一月に結成された朝日会館音楽友の会(AGOT)および、その後まもなく結成された朝日会館演劇友の会(AGET)である。十河によれば、終戦後の興行においては入場税をはじめとした「入場料と、そこから派生する諸々の問題」が存在した。東京と比べ、市民の「経済力」も「文化生活の程度」も異なる「地方」の聴衆は、チケットに支払える額が、東京の聴衆より少ない。しかし公演を主催する側は音楽家たちを東京から招かなければならず、宿泊費、交通費がかさむ。つまり地方で音楽会を開くということは、「東京よりも遥かに費用が嵩み、一方入場料を幾分でも安くしなければならない」という問題を抱える。「この無理な状況を突破する方法」として生まれたのが「聴衆層の組織化」である。聴衆団体を作ることで、「音楽会を一度限りではなく二三回、あるいはそれ以上連続開催し、諸経費が東京よりも高くかかるにもかかわらず、東京よりは少しでも安く」できることとなる。一九四八年十一月、京阪神の大学および高等学校、中学校の学生・生徒から組織されたAGOTでは「[引

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用者註:一九五二年の時点で]二百四十校、約一万二千名の会員中から各校一名ずつの幹事が選ばれて、毎月一回集まって幹事会を開いている。この幹事は随時自分の学校の会員の希望音楽家や曲目に対する世論調査を行って、その結果をもち寄って基礎資料として計画会議をすすめるのである」。一二、〇〇〇名のAGOT会員の存在により、朝日会館では同一プログラムで五、六公演分の客席を埋めることが可能となる。それまでの室内楽やオーケストラ公演が通常、一プログラム二公演であったことに比べると、相対的に一公演当たりの経費を少なく抑えることが可能となる。AGOTの会費は当初月八〇円であり、この額が月一回開かれる「例会」の実質的なチケット代に相応する。一九四九年二月のいわゆるドッジ・ライン導入により物価が安定して以降、朝日会館の催しの一般的なチケット代が音楽会で一〇〇~二五〇円、オペラ、バレエで二五〇~四〇〇円であったことを考えると、チケット単価は相当安くなる。しかし終戦直後において高額のチケット代を払うことのできる層は限られており、朝日会館での一般向けの公演は不入りが続いていた。チケットの単価が抑えられていても五、六公演分の客席が埋まることは朝日会館の興行継続を可能にする上で非常に重要なことであった。

  しかしAGOTの設立には興行コストの削減のためだけにとどまらない重要な要素がみられる。十河によれば、AGOT例会の曲目や音楽家の選定は「すべて幹事会で合議し、詳細なことがらについては運営委員会が自治的にことを計っていく」。学生たちは学校単位で加入することが義務付けられており、各学校には代表となる幹事がおり、それら幹事の上に、さらに学生たちからなる運営委員がおり、会員の意見を集約して音楽家や曲目を決め、さらに公演プログラムの作成も担う。学生の自主性に任された民主的な運営によって成り立っているのである。

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  また参加者たちには単なる公演の受け皿ではなく、聴衆として公演を支えることで関西の舞台芸術文化を発展させていこうとする当事者意識が存在していた。一九五二年、十河の主導によりAGOT、AGETのOG・OBたちを中心に音楽・演劇鑑賞団体ACC(朝日文化クラブ)が設立される。AGOT、AGETに比べると会費が高額であるが、基本的な組織の在り方はAGOT・AGETと変わりがない。ACCは第四回例会において創立間もない関西オペラグループ(現、関西歌劇団)によるプッチーニのオペラ《ラ・ボエーム》の上演を開催するのであるが、その際の朝日会館の機関誌『DEMOS』の「ACC欄」において、例会開催の趣旨が記されている。書き手は記名されていないがACCの運営委員によるものであると思われる。「高率な入場税」が課され、「関西で動員し得る聴衆の数は常に限られて」いる中、「関西オペラグループの人々がその上演に当ってわれわれに協力を望むことも止むを得ないのではないかと思われる。即ち常に一定数の会員を動員し得る鑑賞団体に頼るという事はその上演をどれ程か容易にし、また経済的な見透しを立て得ることに於てその上演を可能ならしめているのである。又一方我々としても関西のオペラを関西で育て上げるためには何等その協力を惜しむものでなく、より以上に積極的に後援したいとすら考えている」。これら鑑賞団体の参加者たちは、単に公演を享受するのみならず、客席を埋めることで公演自体の開催を可能にし、関西の舞台芸術文化を「育て上げる」ために「協力」、「後援」している、と自負する。十河時代の朝日会館が作り上げた鑑賞団体には、演者、主催者と協力し、関西の芸術文化を発展させるという共同体意識のようなものが存在していたと思われる。

  さらに興味深いのは、こうした運営方法が、AGOTの一年後に十河がその設立に関わった

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労音(勤労者音楽協議会)の運営方法と類似していることである。労音は一九四九年九月に、十河が須藤五郎によって一九四七年に結成された関西自立楽団協議会に持ちかける形で誕生する。その第一回例会は朝日会館で開かれ、自立楽団のアマチュア音楽家たちによる演奏に、ソプラノ歌手の笹田和子が加わった。しかし第二回例会以降は室内楽、オーケストラやオペラ、バレエ公演の鑑賞団体となり、朝日会館は毎日会館と並んでその例会の主要会場となった。AGOTにおいて各学校単位で選ばれた幹事の役割は、労音においては各職場の組合文化部の代表者が果たすことになる。曲目やアーティストを、会員へのアンケート調査をもとに、これら代表者たちが「自主的」な「合議制」で決めていくというプロセスも同じである。よって十河によって設立、運営されたAGOTの運営方法は、約一年後に生まれる労音のモデルになっていたと考えられる。

  かつて社会部記者として労働問題の取材に力を入れていた十河には、勤労者による文化活動に対する大きな共感があった。十河が編集する朝日会館発行雑誌『DEMOS』一九四九年四月号には、編集長・十河のものと思われる無記名のマニフェストが登場する。「本誌は一般民衆の中に高い藝術が育まれてゆくよう読者の希望にこたえて」ゆくものであり、「多くの人たち、特に若い人達の必見の書となることをつねに希んでやまない」。こうした方針は雑誌『DEMOS』だけではなく、この時期の朝日会館の運営全体について言えることであろう。十河がAGOTを設立し、労音にも手を貸すことは、劇場経営者として、厳しい財政環境のもとで公演を続けていくための方策であると同時に、「高い藝術」をエリート層から解放し、「一般民衆」や「若い人達」を育んでいくためのことであったと思われる。のちに労音設立を振り返り、十河はそこには二つの理由があったと書いている。第一の理由は「芸術も『会館族』ばかりではなく、あらゆる階層

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の人たちによって鑑賞されるようにならなければならないと考え」たためである。そこには労音が質の高い藝術を勤労者たちに開放することへの共感がある。一方、「第二の理由」として、「オペラをやるにしてもバレエを演るにしてもどうしても東京から招かなければならなかった。(中略)その旅費宿泊費その他の経費がかさんで、短期間の興行ではどうしても費用がまかないきれなかった。この問題を解決するために、(中略)勤労者を主体とした聴衆動員組織をもたなねばならないと考えざるをえなかった」と書いている。よってAGOTや労音といった聴衆の組織化は、勤労者や若い世代への共感、芸術の民衆化という理念の実現であるとともに、終戦直後の厳しい財政状況の中で芸術興行を営む劇場経営者としてのリアリズムに裏打ちされたものでもあった。十河時代の朝日会館ではこうした組織化された聴衆により多くの演奏会が開かれ、戦前に次ぐ第二次黄金期ともいえるような活況を呈した。

  関西交響楽団、関西オペラの誕生   聴衆を組織化するとともに十河がもう一つ試みたのが関西発の音楽団体設立の支援である。終戦後、東京では一九四六年創立の東宝音楽協会により藤原歌劇団のオペラ公演や、上海から帰国したダンサー小牧正英率いるバレエ団によるバレエ公演が行われており、朝日会館もこれらの団体を定期的に大阪に招いた。しかし東京から招聘するには莫大な経費がかかってしまう。そこで十河は関西の音楽団体設立支援にも力を入れ始める。

  その際重要であったのが、ちょうど十河が朝日会館館長に就任した時期に、戦中上海や満洲で

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活躍していた指揮者・朝 あさひな

たかし

比奈隆(一九〇八―二〇〇一)が帰国してきたことであった。のちに朝比奈が「この舞台にデビューし、この舞台で育てられた」と回想するように、朝比奈の前半生は朝日会館と共にあったと言っても過言ではないだろう。朝比奈と会館の関わりは、東京生まれの彼が京都帝国大学法学部の学生として関西にやって来た時期、つまり朝日会館が生まれて間もない頃にまで遡る。指揮者エマヌエル・メッテルの厳しい指導のもとで本格的なオーケストラ曲に取り組んでいた京都帝国大学音楽部の部員であった彼は、一九三〇年に音楽部の仲間数名とともに大阪での演奏会を企画する。熱心な学生たちは知り合いの記者を通じて大阪朝日新聞社の支援を取り付け、一九三〇年六月九日に朝日会館主催による演奏会が開かれる。ここから朝比奈と朝日会館との長きにわたる関わりが始まる。メッテル指揮京大音楽部は一九三六年まで朝日会館で七回演奏会を開いており、朝比奈はその全てにヴァイオリンないしヴィオラ奏者として出演している。また朝日会館では大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)の学生・教員達による演奏会も開かれており、同校で教鞭を取っていた朝比奈もその舞台に立つ。朝比奈の指揮デビューは一九三六年二月十八日、朝日会館における「大阪音楽学校創立記念演奏会」においてのことであった。翌一九三七年一月二十五日に朝日会館で開かれた同音楽学校の演奏会で朝比奈は学生たちとビゼーの《カルメン》第一幕を演奏しており、これが戦後オペラ指揮者として活躍する朝比奈の初めて指揮したオペラにあたる。ヴァイオリン、ヴィオラ演奏、指揮活動に加え、朝比奈は朝日会館の「レコード鑑賞会」の銓衡委員も務めた。つまり朝日会館は若き朝比奈の活動の中心舞台だったのである。そしてもちろん、一九三〇年代に会館の舞台に立った欧米の一流音楽家たちの演奏を、朝比奈は聴衆の一人としてしばしば聴いていた。

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  一九四六年一〇月、朝比奈は帰国するなり、関西を本拠とした常設オーケストラ、のちに大阪フィルハーモニー交響楽団に発展解消される関西交響楽団の設立に動き出し、一九四七年四月二十六日、朝日会館にて第一回演奏会を開催する[図4]。関西の本格的なオーケストラ運動はすでに一九二〇年代にはじまり、朝日会館はそれらと常に密接に関わってきた。前述のメッテル率いる京都帝国大学音楽部は朝比奈をはじめ、のちの関西のオーケストラ運動を支える音楽家を多数輩出している。また宝塚歌劇団のオーケストラ・メンバーを中核に指揮者ヨーゼフ・ラスカによって率いられた宝塚交響楽団は一九三一年から三四年にかけて、朝日会館主催による「大阪定期演奏会」を開いていた。さらに大阪中央放送局(現:NHK大阪放送局)のオーケストラの改組により生まれた大阪放送交響楽団の公演が、同じく朝日会館主催により一九四二年から四三年にかけて五回ほど行われている。このとき朝比奈は大澤壽人、宮原禎次と共に同団の指揮者を務めた。しかしいずれも安定した財

[図4]関西交響楽団第一回演奏会、

写真とポスター 

(大阪フィルハーモニー協会所蔵)

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政基盤の下で継続した活動を続けていくことができなかった。   朝比奈が終戦後帰国した際に集めたのはこうした戦前・戦中に関西のオーケストラ運動を担った音楽家たちであった。その中核となったのは大阪中央放送局に所属するオーケストラ団員三十名弱であり、そこに上述の関西の様々なオーケストラ運動の奏者および新人音楽家が四十人ほどが加わる。しかし関西におけるオーケストラ運動の挫折をよく知る朝比奈にとって何よりも必要であったのは財政基盤である。そこで重要な役割を果たすのが住友銀行(当時は大阪銀行)頭取の鈴木剛を中心とした関西圏の財界人による支援団体、「関西交響楽団友の会」と朝日会館によるバックアップであった。

  一九四七年創設の関西交響楽団は一九五〇年に大阪中央放送局から独立する形で改組され、運営母体も社団法人関西交響楽協会に改組される。その際、理事長の鈴木剛および理事を務めた朝日ビールの山本為三郎、倉敷レイヨンの大原総一郎ら実業家たちのほとんどは、関西圏の財界人による社交クラブ・大阪倶楽部の会員であった。朝比奈自身も音楽家としては異例なことに倶楽部の会員となり、こうした関西財界のネットワークを通じて楽団の財政基盤を整えていった。当時、大阪倶楽部はその倶楽部会館を進駐軍に接収されており、朝日会館三階に間借りしていた。つまり朝比奈が関西財界の支持を取り付ける場も朝日会館であった。会館三階に大阪倶楽部、四~六階がオーケストラの公演会場、という距離の近さは財界人にオーケストラ支援を説得する上で非常に有利に働いたと思われる。一方、朝日会館自体は関西交響楽団の定期演奏会を主催し、またオペラやバレエ公演の伴奏を依頼する形でオーケストラを支援する[図5]。朝比奈は次のように回想する。「大阪にいた音楽の仲間がなんとかオーケストラを作ろうと相談してい

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るとき「朝日会館で演奏会を開きなさい。興行面のことは引き受けましょう」といってくれたのが朝日新聞厚生文化事業団[引用者註:当時は厚生事業団]だった」。十河によれば、オペラやバレエなどの大型公演を主催するにあたり、「多数のオーケストラのメンバーを招かなければならなかった。それには東京から招くと食糧の問題も並大抵の苦労ではなかった。このためどうしても関西に、交響楽団をつくる必要が痛感され、朝比奈隆氏を中心として発足した関西交響楽団を育成する方針をとり、毎月一回定期演奏会を会館で催した」という。朝日会館が公演の財政リスクを引き受け、関西の財界人が楽団維持のための支援を行うことで、戦前から続く関西のオーケストラ運動に関西交響楽団という一つの着地点が生まれるのである。関西交響楽団は一九五八年まで朝日会館で定期演奏会を開催した。

  オーケストラの次はオペラである。一九四九年六月に朝日会館において関西オペラ協会第一回公演、ヴェルディの《椿姫》が上演される。演出はドイツ留学経験があり戦前宝塚歌劇団で演出・脚本を担当していた中西武夫、朝比奈指揮関西交響楽団がピットに入り、一九二六年創立のア

[図5]

十河巌(右)と朝比奈隆(左)(1940 年代後半)

         (関西学院大学博物館所蔵)

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サヒ・コーラスが合唱を務めた。朝比奈は自ら訳詞を作り、ヴィオレッタ役には東京から関種子を招くが、それ以外はジェロモン役の牧嗣人等、関西を中心に活躍する歌手で固める。同オペラ協会創立は同年一月のことであるが、ここにも前史があった。関西在住の歌手たちによってオペラを上演する計画は終戦直後より存在した。一九四七年からの朝日会館主催で行われた藤原歌劇団による年数回の関西公演は大きな刺激になったはずである。また直接のきっかけとなったのは一九四八年六月に毎日新聞の支援の下、毎日会館で上演されたマスカーニの《カヴァレリア・ルスティカーナ》であった。公演を率いたのは戦中、上海陸軍報道部にいた関西出身のテノール歌手、中川牧三である。大阪音楽高等学校の教員を中心にしたこの公演に携わった歌手の多くが関西オペラ協会の設立に参加した。設立時、関西オペラ協会の中心にいたのは朝比奈と朝日会館館長の十河、そして戦中、上海でオペラやバレエのプロデューサーを務めていた緑野卓こと草刈義人である。草刈が携わったのは第一回公演のみであったが、当初協会の中で唯一常設劇場でのバレエやオペラの制作の経験があり、上海では《椿姫》演出の経験もあった草刈の貢献は大きかったと思われる。朝比奈が劇団長を務めることで、同協会はのちに関西交響楽団と同じく関西交響楽協会の傘下に入り、財政的な基盤を安定させる。朝日会館にとっては、これもまた関西発のオペラ団体の育成であるとともに会館運営上のコスト削減の一環であった。十河は次にように書いている。「この前のカルメン[引用者註:一九四九年五月に朝日会館で開かれた藤原歌劇団の公演のこと]のように出演者百名ということになれば三等車で来るもののあることを考慮しても約七十万円乃至百万円の費用が要る。これは明らかに東京よりも余計に支払わねばならない費用である。従って最初から赤字予算でオペラ公演の計画をたてなければならないという苦しい状態で

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ある。ここに関西オペラが生れて来なければならないし、また健やかに生長するだけの客観的情勢が備わっているのである」。しかし十河が考える「客観的情勢」とは、あくまでも将来を見据えた長期的視野に基づいたものであり、すぐに関西オペラが藤原歌劇団にとって代わるとは考えてなかったようである。関西オペラは一九五四年まで朝日会館を舞台に公演を続けたが、藤原歌劇団も引き続き定期的に朝日会館に客演する。

  團伊玖磨のオペラ《夕鶴》の初演   このように聴衆の組織化と関西発のオーケストラ、オペラ団体の支援を軸に、十河時代の朝日会館は戦後の関西楽壇復興に邁進する。その成果の中で特筆すべきものが、日本語で作られたオペラの中で最大の成功作とも言える團伊玖磨のオペラ《夕鶴》の初演[図6]である。同作は十河時代の朝日会館のプロデュースによって生まれ、一九五二年一月三十一日にAGOT例会において藤原歌劇団によって初演されている。この作品の誕生には様々な点で、この時代の朝日

[図6]《夕鶴》初演、一般公演向けの     プログラム (表紙:小磯良平)

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会館の活動が集約されている。

  原作の木下順二による戯曲は、大阪中央放送局での放送初演ののち、一九四九年一〇月に「ぶどうの会」により関西(奈良・京都)で舞台初演されているが、その直後、同年一一月には朝日会館で上演されている。作曲家・團伊玖磨は放送初演の段階から音楽を担当しており、オペラ版《夕鶴》は、演劇版の音楽を発展させる形で作曲したという。十河が團伊玖磨のオペラのプロデュースを引き受けたきっかけは、一九五一年四月に朝日会館で開かれた「聖徳太子千三百三十三年記念祭」の際に、清水脩・團伊玖磨・芥川也寸志の共同作曲による《聖徳太子祝賛歌》を聴き、團の音楽に興味を持ったためだという。公演に大きな財政的リスクが伴うと想定される日本人作曲家によるオペラ初演を朝日会館がプロデュースできたのはAGOTの存在である。初演十公演のうち実に六公演がAGOT例会として開催されている。当時一二、〇〇〇人の会員がいたAGOTの存在により、六公演分客席を埋めることがあらかじめ計算できたことにより、興行の財政リスクは大きく軽減された。残りの一般向け四公演の集客のために重要であったのは、初演の二ヶ月前、一九五一年十二月に、朝日会館でぶどうの会による『夕鶴』の再演が、初演と同じ山本安英主演で行われたことである。すでに評価の確立されている原作を観た観客たちは、二か月後のオペラ版初演への期待を大いに高めたと思われる。日常的に演劇、オペラ双方の主催公演を行っている朝日会館だからこそできたことであり、新作オペラ初演を成功させるため、十河が様々な工夫をしていたことがうかがえる。作曲者指揮による関西交響楽団の伴奏、藤原歌劇団によって初演されたオペラ《夕鶴》は、その後の日比谷公会堂での東京初演も含め、興行的にも芸術的にも大成功であった。同作品をプロデュースした十河巌は、作品の成功を受けて一九五三年一月に

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伊庭孝オペラ賞を受賞した。

  その他の催し―「たそがれコンサート」、労演、新様式能    その他にも十河時代に朝日会館では様々な試みがなされている。まずは一九四八年以降夏に西宮球場で開かれた「たそがれコンサート」を取り上げたい。朝日会館の運営母体である厚生事業団はこの時期、朝日会館以外でも大きな催しを試みるようになる。

の吉原治良が担当する[図7]。吉原は以後何度か「たそがれ れるが、その際、舞台美術を十河の関西学院時代の同窓、画家 「たそがれコンサート」では小牧正英によるバレエ公演も行わ けに西宮球場との間に縁が生まれたという。一九四九年夏より、 その際、会場として阪急西宮球場を借りるのだが、それをきっか て「メーデーに贈る芸術祭」を事業団が主催したことにはじまる。 は、一九四七年のメーデーの際、演劇・映画の労組からたのまれ 豊かなものであった。十河によれば、野外コンサートのきっかけ シンフォニーからオペラ、バレエ、ジャズに至るまでバラエティ 舞台を取り囲む。「芸術の民衆化」を意識してか、プログラムも された。スタジアム中央に舞台が作られ、約三万人収容の客席が   「たそがれコンサート」は一九四八年七月三十一日から四週間、毎週日曜日に西宮球場で開催

図7「たそがれコンサート」1949 年8月6日、

   西宮球場(関西学院大学博物館所蔵)

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コンサート」の舞台美術を担当するが、この経験がきっかけとなり、吉原は舞台美術に関心を持ち始めたという。朝日会館は音楽、オペラ、バレエ以外にも演劇や古典芸能の公演を主催し、様々なジャンルの芸術家たちの交流や共同作業をもたらした。「たそがれコンサート」の存在は、朝日会館を幅広い聴衆に開いていくと同時に、芸術ジャンルを超えた共同作業の場でもあった。

  またAGOTや労音ほどの動員力はなかったものの、労演(勤労者演劇協会)の例会も多く開かれている。大阪労演の第一回例会は一九四九年二月四日、俳優座による青山杉作演出、ユージン・オニール『あゝ荒野』の公演であった。長年労演の事務局長をつとめた岡田文江によれば、「当時、東京の新劇団の大きな公演は、朝日会館、毎日会館が主催していたので、私たちの例会は、それを一回ないし二回を買いとる形で行われた」という。労音と同じく、労演の会員数は一九六〇年代半ばまで増大し、最盛期(一九六四年)には二〇、〇〇〇人弱を誇っていたが、十河時代の朝日会館において例会が開催された時期はまだ二、〇〇〇人程度にとどまっており、岡田の書いているように「一回ないし二回」の客席を埋められるくらいであった。戦前、朝日会館は新協劇団や新築地劇団、戦中は文学座の関西公演の拠点であり、東京の劇団による新劇公演が盛んに行われていた。戦争が終り、民藝や俳優座、新協劇団、ぶどうの会など再び朝日会館では盛んに新劇公演が行われるようになる。大阪労演の例会は当初は朝日会館で開かれることが多かったが、一九五〇年以降は他の会場とも分担しながら開かれていた。多い時には十回公演があった労音の場合とは異なり、朝日会館にとっての財政的利点は少なかったと思われる。しかしだからこそ、労演例会におそらくは安い料金で公演を貸し切らせたことには、勤労者に演劇を見る機会を与えるという理念、つまり「芸術の民衆化」に対する十河の共感があらわれている。

(23)

  高岡裕之によれば、労演の設立は一九四八年六月に設立された「労映」(関西労働組合映画協議会)と近しい関係にあり、両者は共同で機関誌『映画演劇』を発行していたという。「労演の創立は決して孤立したものとしてあった訳ではなく、「労映」・「労演」・「労音」という大阪における民主主義文化運動団体拡大の一環だったのである」とあるとおり、これらの勤労者を対象とした芸術鑑賞運動は、終戦後の労働運動の盛隆と共に起こった同時代的な現象である。「演劇・映画の労組」の依頼により西宮球場でページェントを開き、労音、労演それぞれの第一回例会の舞台となった朝日会館の存在も、そうした時代の潮流の中にあったといえるだろう。しかし他方で十河はAGOTやAGETなど労働運動とは直接関係のない鑑賞団体を組織し、一九五〇年代後半には労音に対抗して大阪の財界によって組織された聴衆団体、音楽文化協会(会長、鈴木剛)とも関りを持っている。このことは、十河の考える「芸術の民衆化」が、必ずしも同時代の労働運動や共産主義のイデオロギーと軌を一にしているものではないことをあらわしているだろう。

  十河が好んだジャンルは基本的にはヨーロッパ生まれの舞台芸術であり、日本の伝統芸能に対してはそれらほどの熱意を見せていない。「日本に歌舞伎や、文楽や能楽があるからといって、国際的に普遍性のある音楽やバレエ、オペラをいまのまま捨てておいていいという訳にはいかない。これを盛んにすることはむしろ国家的な仕事といわなければならない」と書いているように、十河は、欧米の「普遍性のある」芸術を重視する。一方、日本の伝統芸能に対しては、それらを現代化することに関心を持っており、能楽の家元、金剛巌と共に案を練り発足させた「新様式能」は、十河の伝統芸能観をよくあらわしている。「わたしは能はたまに見ることはあっても、全くの門外漢といった方が正しい」と書いている通り、十河は「門外漢」としての立場から、能

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舞台のアメリカ公演を構想し、能舞台の現代化を試みる。朝日会館では戦前から「会館能」という能舞台の公演が続けられていた。その際、会館のステージ上に能舞台が組み立てられたのであるが、「新様式能」は、ステージをそのまま使い、さらに舞台照明も使いながらの上演であった。一九四七年三月一日に第一回の「新様式能」が幕を開け、演じられたのは『松風』であった。当時より賛否両論あった公演だが、十河にとっては思い入れのある企画であった。   著名音楽家の来日公演

  一九五一年九月、朝日新聞社の主催でヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインの来日公演が開かれる。日中戦争以降、欧米の著名音楽家の来日が途絶えて十五年近くが経っており、戦後復興を印象付ける出来事として大きな話題となった。一九三〇年代、上海を中心に活躍する興行師アウセイ・ストロークの斡旋による欧米著名音楽家のアジア・ツアーの一環として、朝日会館では数多く演奏会が開かれた。戦後初の大物音楽家の来日公演も、本拠をニューヨークに移したストロークのプロデュースによるものであった。   十河の「芸術の民衆化」という理念とは異なり、演奏会のチケットは非常に高額であった。AGOTはメニューインの公演をAGOT例会に組み込むことを希望していたが、最高七〇〇円のチケット代は、特別会費でも200円を超えないAGOT例会とは折り合いがつかなかった。以降、メトロポリタン・オペラのドラマティック・ソプラノ、ヘレン・トローベル、フランスの名ピアニスト、アルフレッド・コルトーと、朝日会館には続々と著名音楽家がやって来る。

(25)

  十河自身は館長として大音楽家たちとの交流を大いに楽しんでいたようである。公演の際のメニューインやコルトーなど二〇世紀を代表する音楽家たちとの交流の様子は『DEMOS』誌の十河によるエッセイに記されており、また十河が描いた彼らのスケッチも後に出版された著書『あの花この花―朝日会館に迎えた世界の芸術家百人』(一九七七)に収められている。

Ⅲ   「画家」

・十河巌と画家たち

  十河巌の画歴   本論文冒頭に記したように晩年、十河巌の肩書は「画家」ないし「洋画家」であった。二科展に何度も出品し、個展も三十回開いていた十河と美術との関わりは関西学院時代の絵画サークル「弦月会」での活動にさかのぼる。しかしその創作活動が新聞記者の余技の範囲を大きく超え、「洋画家」を称するまでになるのは、戦後になってからのことである。特に抽象画との関わりが本格的にはじまるのは朝日会館館長時代のことであった。

  十河は「少し南画の絵心のあった」父により小学校一年生の時に京都の日本画家の内弟子に出されそうになったという。画才があれば養子になるはずだったが、「見込みがない」ため内弟子にはならなかった。その後、関西学院時代に絵画サークル「弦月会」に所属し、油絵を描きはじめる。「油絵のけいこをはじめたのは同級生だった吉原治良君の影響によるところが大きい」そうである。当時十河は吉原とともに芦屋の画家、上山二郎に師事していたという。上山はパリ

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で藤田嗣治と近しかった画家で、十河は吉原と共に上山を通じてヨーロッパ美術の最新情報を得ていたと思われる。新聞記者になってからは「仕事の帰りに洋画研究所[引用者註:中之島洋画研究所]をのぞいて裸婦のクロッキーをすることもあった」そうで、夜勤の際は社会部のデスクで仕事の合間合間にスケッチをしていたという。日中戦争がはじまり、中国大陸に従軍した際は、写真の代わりにスケッチを度々本社に送り、それが評判となり、帰国した際に、朝日ビルの画廊で個展を開く。その後ジャワで終戦を迎え、帰国したのちは二年つづけて二科展にジャワを題材とした作品を出品する。

  ジャワから帰国して間もない一九四六年七月十六日に十河は日記に次のように記している。「来月一日からすすめられるままに二科へ出品する絵を描くので午后吉原君を訪問  アトリエ使用方を頼む。快く引き受けてくれた。」十河が二科展に出品する際、彼を手助けしたのは、すでに一九三四年に二科展にデビューし、当時、二科会の関西支部代表を務めていた吉原治良であったと思われる。吉原はこの時期、関西の様々な前衛芸術運動を取りまとめ、一九四八年より芦屋市美術協会、さらに一九五二年より現代美術懇談会(ゲンビ)を組織する。そうした活動はやがて若い世代の芸術家たちを率いて一九五四年に結成され、間もなく欧米で高い評価を勝ち取る具体美術協会に繋がっていく。いわば「具体」誕生前夜のこの時期、吉原は十河の率いる朝日会館と多くの仕事を共にしている。

(27)

  吉原治良と朝日会館   十河巌や朝比奈隆がそうであったように、吉 よしはら原治 ろう(一九〇五―一九七二)もまた戦前より朝日会館との関わりが深かった。朝日会館の誕生二年後、一九二八年十一月に当時二十三歳の吉原は朝日会館三階の展示場で初めての個展を開いた。一九三六年に大阪市立美術館が誕生する以前、朝日会館の展示場は大阪における「前衛絵画の発信地」として数多くの展覧会を開いていた。吉原との関わりで特に重要な展覧会は、一九三九年六月および一九四〇年四月に朝日会館で開かれた九室会展であろう。九室会は二科展の第九室に集められた前衛的傾向の画家たちを中心とした団体で、本来二科展に発表の場を持つ画家たちが、シュルレアリスムや抽象などの実験的な作品を発表する。吉原は九室会設立時のメンバーの一人であり、東京に続いて開かれた朝日会館での展覧会においても中心的な役割を果たした。また第二回九室会展の直後より吉原は朝日会館発行の雑誌『會舘藝術』の挿絵を担当するようになり、同誌の後継誌である『大阪文化』一九四四年一月~三月号の表紙画も担当している。十河巌が一九四六年秋に朝日会館館長に就任した際、吉原治良に協力を仰いだことは、関西学院時代からの十河との縁、そして朝日会館との縁を考えるならば自然なことであったと思われる。朝日会館の展示場はすでに戦中に閉じられていたが、吉原は十河の編集する朝日会館発行の雑誌『会館文化』の一九四七年一月号の表紙を担当する。そしてその後一九五二年まで、吉原は雑誌の表紙画を二十五号分も担当する[図8]。また一九四九年の「たそがれコンサート」や、一九五〇年のアメリカ博覧会を記念した「バレエ・アメリカ」など朝日会館主催のバレエ公演の舞台美術も担当する。さらに朝日会館におけるオペラ

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公演プログラムの表紙、一九五一年に新調された朝日会館公演場の緞帳デザインを担当する[図9]など、十河時代の朝日会館のために多くの仕事をこなした。    吉原は当初必ずしも舞台美術の仕事には満足していなかった。前述の「バレエ・アメリカ」に参加した際には、「モダンアートの絵の面からバレーに協力することは、それが総合芸術としてだから、自分の主義を貫くことができないで妥協せねばならない問題が多かった」と語っている。しかし先にも書いた通り、吉原はこれをきっかけに舞台美術に関心を持つようになるのであった。

  『DEMOS』と画家たち   よって十河の編集する朝日会館発行の雑誌『会館文化』および『DEMOS』では、吉原自身および当時吉原と結びつきのあった画家たちの多くが表紙画や挿絵を担当している。吉原が伊藤継

図8『DEMOS』1950 年4月号    表紙 (吉原治良)

図9 吉原治良のデザインによる朝日会館公演    場の緞帳  (関西学院大学博物館所蔵)

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郎らと一九四八年に立ち上げた芦屋市美術協会に所属する井上覚造、山本敬輔、須田剋太、山崎隆夫。また戦前より吉原と関わりのある日本の抽象絵画の先駆者・長谷川三郎も表紙を担当した(一九四七年四月~六月号)。長谷川自身はまもなく関東に移住するが、長谷川らによって戦前に設立された自由美術家協会および一九五〇年に同協会から独立する形で生まれたモダンアート協会の村井正誠、朝妻治郎、荒井龍男らも表紙や挿絵を担当している。中心となったのはいずれも十河、吉原と同じ世代、当時四十歳前後で、戦前・戦中から抽象美術に関心を持っていた画家たちある。そして十河巌自身が、この時期に彼らに触発されてのことであろう、抽象絵画を制作するようになる。十河が朝日会館館長を退任する直前の一九五二年十一月、吉原治良は現代美術懇談会(ゲンビ)を組織する。十河はそこで例会の司会や展覧会の会場審査員をつとめるとともに、作家として「ゲンビ展」全五回すべてに作品を出品している。「洋画家」・十河巌の活動は、朝日会館館長としての活動を通じて本格化するのである。以後、十河は晩年まで精力的に創作を続ける[図

10

]。

Ⅳ   朝日会館館長退任後

  一九五三年一月に十河は朝日会館館長を退任し、同年八月より大阪朝日新聞社の社会部に戻

[図 10]十河巌『プールの女性』(1976 年頃)

        (関西学院大学博物館所蔵)

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る。朝日会館自体も一九五三年終わりに朝日ビルディングに移管され、以後は常設映画館として運営される。朝日会館発行の雑誌『會舘藝術』も一九五三年で廃刊となり、建物はまだ残っていたが、朝日会館はその使命を終えたと言えるだろう。十河はその後、一九五九年に朝日新聞社を定年退職し、同年、宣伝部嘱託という立場でサントリー(当時の社名は壽屋)での仕事がはじまる。のちに社長となる佐治敬三をトップに、サントリー宣伝部は当時、開高健や山口瞳など芥川賞、直木賞を受賞する華々しい才能を擁した職場で、宣伝部を取りまとめていたのは画家・デザイナーの山崎隆夫であった。山崎は前述のとおり、一九五〇年前後に芦屋市美術協会やゲンビを通じて吉原治良と共に活動しており、『DEMOS』の表紙、挿絵を担当したこともあった。十河をサントリーに迎えたのも山崎であった可能性は高い。その後、十河は神戸オリエンタルホテル顧問として主に「美術PR」の仕事をする。そして一九六一年四月から七月にかけてサントリーの派遣によりヨーロッパの美術館視察の旅に出る。三ヶ月の間にヨーロッパ十三か国、三十の都市を巡っており、各地の美術館や画廊を訪れ、時には美術関係者や作家と会い、ヨーロッパの現代美術の現状や、美術館の運営手法、展示方法についての知見を深めた。視察の様子は翌一九六二年三月から六三年九月にかけて雑誌『日本美術工藝』に掲載された十八回にわたる連載「私の見た欧州」によって詳細に記されている。

  またサントリーやオリエンタルホテルでの仕事、画家としての創作活動と並び、この時期もう一つ重要であったのが兵庫県立近代美術館建設運動である。十河は「神戸の文化をつくる会」の創立に関わり、政治家や地元の教育委員会と折衝を重ねる。一九六五年、前兵庫県知事の阪本勝を座長に美術館設立準備委員会が結成され、一九六七年には美術館の運営主体となる兵庫県芸術

(31)

文化協会が設立され、一九七〇年、かつて関西学院のキャンパスがあった原田の森に村野藤吾による設計で兵庫県立近代美術館(現・兵庫県立美術館分館原田の森ギャラリー)が誕生する。この美術館の建設に尽力することが、元朝日会館館長、「文化活動の推進」に尽くした十河の最後の大仕事であったと思われる。

Ⅴ   まとめと今後の課題

  サントリーやオリエンタルホテルでの仕事、兵庫県立近代美術館設立への関わりの詳細など、朝日会館館長退任後の十河の活動について、現段階ではその全貌はまだ明らかでない。しかしここまでの時点で「画家」・十河巌が、いかなる形で関西の「文化活動の推進」、「芸術文化の普及」に尽くしたのかについて、その一端は明らかにできたのではないかと思われる。これら以外にも、十河の遺品には演劇やオペラ、ミュージカルの台本と思われるものが複数存在し、それらが何の上演のためのものであったのかを特定することが必要であろう。絵を描き、脚本や詩を書き、新聞記者で劇場経営者でもあった十河厳の活動は、「画家」、「作家」、「経営者」といった今日私たちが容易にイメージできる一つの職業名で説明することができない。しかし当時の関西は朝比奈隆のように元阪急電鉄社員がオーケストラの指揮者となり、吉原治良のように製油会社社長が前衛美術をやっていた時代である。朝比奈はオーケストラやオペラ団体を、吉原は前衛美術グループを組織し、運営し、彼らは一介の指揮者、前衛美術家の枠に収まらないダイナミックな活動で戦後の「文化活動の推進」に貢献した。そして一見、交わりそうにないこの二人の大芸術家の交

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差するところに存在していたのが十河巌であった。職業名や芸術ジャンルの区分に囚われず、その幅広い活動の総体を捉えていくことが求められているのであり、「文化活動の推進者」・十河厳とはまさにそういう視野のもとでこそ、その活動の重要さが理解される存在なのだと思われる。

【注】(1)『神戸新聞』、一九八〇年十一月一日付。(2)出典不明。関西学院大学博物館に所蔵されている十河巌の保管していた新聞紙切り抜きより。(3)朝日会館の運営主体である大阪朝日新聞社会事業団は一九四二年に朝日新聞厚生事業団に改組され、一九四九年より朝日新聞文化事業団、一九五二年より朝日新聞大阪厚生文化事業団に改組される。しかしそれぞれの事業団において朝日会館は独立性を保ちながら活動をしていたため、一九二八年から一九五三年まで一貫して一つの組織が朝日会館を運営していたと考えてよいと思われる。(4)大阪倶楽部『社団法人大阪倶楽部50年史』、大阪倶楽部、一九六二年、六八頁。

    大阪倶楽部は大阪の財界人を中心とした社交クラブで、大阪市中央区に現存する大阪倶楽部会館を所持していたが、倶楽部会館は戦中帝国海軍に徴用され、また戦後は進駐軍に接収された。そのため一九四六年五月よりかつて展示場であった朝日会館三階を仮会館とし、一九五二年まで使用していた。(5)岡野宏「朝日新聞時代の十河巌」、『関西学院史紀要』第二十六号、二〇二〇年、四三―六八頁、四八頁。(6)十河巌『あの花この花―朝日会館に迎えた世界の芸術家百人』中外書房、一九七七年、一二五頁。(7)岡野「朝日新聞時代の十河巌」、五七―五八頁。また本論文執筆の際の十河巌の戦前・戦中の朝日新聞社における経歴の詳細は、二〇一四年二月二十二日に東京大学駒場キャンパスで開催された「会館芸術研究会」における岡野宏氏の口頭発表「朝日会館長としての十河巌」に基づいている。

(33)

(8)十河の新館長就任が朝日会館二十周年のタイミングに合わせられたものなのかについて、裏付けとなる資料は今のところない。(9)宮崎刀史紀「文化政策へのまなざし―入場税撤廃運動の変遷と意義―」、『文化経済学』3(3)、二〇〇三年、八九―九七頁、八九頁。(

( 以下直接引用の際、旧字体は新字体に直して表記する。 10)十河厳「地方音楽会の聴衆と組織化の実態」、『音楽芸術』一九五二年八月号、四八―五二頁。なお、

( 11)同、四八―四九頁。

( 12)同、四九頁。

( 13)同、五〇頁。

( 14)ただしオペラ、バレエ公演では、たびたび一〇〇~二〇〇円の「特別会費」を取ることがあった。

( 一九五三年一月号、八二頁。 そこそこしか売れなかったという有様」であったという。柴田仁「関西楽壇時評」、『音楽芸術』 日会館学生音楽友の会)などの組織動員でつまったのだが、二十二日の一般公開の前売が、三百 15)音楽評論家、柴田仁によれば、「巌本真理さんのリサイタルが、五日六回の中、五回はAGOT(朝

( 16)十河巌「地方音楽会」、五一頁。

( 17)「関西オペラグループの公演に際して」、『DEMOS』一九五二年八月号、十三頁。

( 二〇―二四頁。 18  )長﨑励朗『「つながり」の戦後文化誌労音、そして宝塚、万博』河出書房新社、二〇一三年、

( 19)岡野「朝日新聞時代の十河巌」、四八―五一頁。

( 20)以下を参照。十河厳「労働組合と文化運動」、『月刊労働』一九五二年八月号、二―三、六頁。

( 21)「編集室より」、『DEMOS』一九四九年四月号、十九頁。

22  )十河巌「労音が誕生するまで」、朝尾直弘(編著)『大阪労音十年史勤労者芸術運動の一つの歩み』、

(34)

大阪勤労者音楽協議会、一九六二年、三〇頁。(

( 三八七―三九一頁、三九〇頁。 23)朝比奈隆「二つの音楽の家」、大阪音楽大学編『大阪音楽界の思い出』、大阪音楽大学、一九七五年、

( られる。そのため本論文では基本的に事業団主催の公演を「朝日会館主催」と表記する。 団はたびたび改組され名称を変えているが、朝日会館は一貫した組織により運営されていたと考え 24)正確には朝日会館の運営母体である大阪朝日新聞社会事業団の主催である。註3にある通り、事業

( 一九六七年、四〇頁。 25)京都大学音楽部創立50周年記念委員会(編)『京都大学音楽部沿革史』、京都大学音楽部、

( 26)朝比奈「二つの音楽の家」、三八九―三九〇頁。

27)関西交響楽団設立の経緯については、様々な一次資料と共に以下の文献を参照した。

   奥村武司『ミューズは大阪弁でやって来た』、東方出版、一九九一年。

   中丸美繪『オーケストラ、それは我なり  朝比奈隆四つの試練』、文芸春秋社、二〇〇八年。(

28)宝塚交響楽団および大阪中央放送局のオーケストラについては以下の文献を参照した。

   根岸一美『ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団』、大阪大学出版会、二〇一二年。

   西村理「戦前・戦中におけるJOBKの放送オーケストラ―番組制作の観点から―」、『大阪音楽大学研究紀要』(

( 53)、二〇一五年、七―二二頁。

けだ。」 揮下にいたころの「むらぎ」が抑制されて、(中略)、音楽の目標をも堅実につかむ年齢となったわ たのだから、歴史は奇だ。(中略)たしかにこの人たちは、昔、私たちと一緒にメッテル先生の指 29)「しかもできあがった関響のメンバーは実は戦前にさんざん交響楽運動で苦労したその当人たちだっ    長廣敏雄「関西交響楽団に望む」、『DEMOS』一九五〇年四月号、二四―二七頁、二五頁。(

30)野口幸助「関響の現状」、『音楽芸術』一九五四年四月号、五八―六一頁、五九頁。

(35)

( 一九四八年および一九五一年の大阪倶楽部「社員名簿」に朝比奈の名前を確認することができる。 31)朝比奈が大阪倶楽部の会員となったのは満洲からの帰国後早い時期のことであると思われる。

( —別冊)、朝日新聞社史編修室、一九七六年、四五三四五四頁、四五三頁。 32)朝比奈隆「百二十回の定期演奏」、十河巌(執筆)、愛川潔(編集)『朝日會舘史』(大阪朝日編年史

( 33)十河巌「年輪を数えて」、大阪朝日新聞社社報、一九六二年、三五―三八頁、三七頁。

34)中川牧三「メッセージ」、『関西歌劇団

50  周年記念誌

( 一四五頁。 50年のあゆみ』、関西歌劇団、一九九九年、

の経験者」。 35)「緑野卓氏は戦時中上海でバレエやオペラのプロデューサーとして活躍した人で、唯一オペラ制作    野口幸助「

50年のあゆみ」、『関西歌劇団

( 50周年記念誌』、九―十二頁、九頁。

( 一九四九年六月十八、十九日、六頁。 36)十河巌「関西の音楽運動とオペラ団の発足」、関西オペラ協会第一回公演《椿姫》、公演プログラム、

( 37)團伊玖磨「作曲ができるまで」、『DEMOS』一九五二年二月号、二―四頁、三頁。

( と書いているが、正しくは「清水脩・團伊玖磨・芥川也寸志」である。 38)十河『朝日會舘史』、四四四頁。なお十河は同書に三人の作曲家を「黛敏郎・團伊玖磨・芥川也寸志」

( 朝日新聞文化事業団の主催公演となった。 退したため、日比谷公会堂の公演(オーケストラは東京交響楽団)も、朝日会館の運営母体である 39)十河によれば、東京初演は当初、東京朝日新聞社の学芸部が引き受ける予定であったが、直前に辞 の後新しく新宿に建設された新宿コマ劇場の経営を打診されたこともあったという。 しこれをきっかけに小林との縁が生まれ、十河は朝日会館館長退任後、しばしば小林を取材し、そ と脅し小林は球場貸し出しを認めた。とはいえ宝塚劇場の関係者は出演を取りやめたという。しか 40)労組を嫌う阪急の小林一三は当初、西宮球場の貸し出しを渋ったが、十河は経緯を新聞に発表する

(36)

   十河『朝日會舘史』四三九―四四一頁。(

味をもちだした。」 ことごとく彼にまかせた。会館の緞帳も彼にやってもらった。こんなことから吉原は舞台美術に興 41)「わたしが朝日会館につとめていたころ、十五回にわたって西宮球場でやったページェントの美術は、

   十河巌「日本前衛美術の開拓者  吉原治良が国際路線にのるまで」、『日本美術工藝』、一九六四年一二月号、九八―一〇二頁、一〇一頁。(

42)岡田文江「一筋の道―大阪労演

50年の軌跡」、大阪労演(編)『大阪労演の

( 舞台から客席へ』、大阪労演、一九九九年、二一―六三頁、二四頁。 50年―客席から舞台へ、

43)『大阪労演の

( のは三二回であった。 演を行っていた一九五三年までに例会は全部で五八回開かれており、そのうち朝日会館で開かれた 50年』には大阪労演例会の記録が掲載されているが、それによれば朝日会館が主催公

( 四頁。 労演とその時代一九四九―一九五九)』、関西学院大学博物館開設準備室、二〇一一年、一―九頁、 44)高岡裕之「大阪労演のあゆみ―創立から一九五〇年代まで」、展覧会図録『戦後演劇の世界(大阪

( 45)岡野「朝日新聞時代の十河巌」、六〇頁。

( 兵庫県立近代美術館の初代館長となる。 つながりが深くのちに兵庫県知事となる阪本勝であった。阪本は、十河が後にその設立に尽力した 46)十河自身が政治的に共感し、親交があった政治家は社会党の代議士・河上丈太郎、そして河上とも

( 47)十河厳「朝日会館の歩み方」、『DEMOS』一九五一年一〇月号、二八―二九頁、二八頁。

( 48)十河『あの花この花』、二二一頁。

の演出を「新様式能の延長だ」と評価している。関西学院大学博物館所蔵、十河巌『1954画日 49)のちに十河が関西歌劇団の團伊玖磨《夕鶴》を観劇した際、伝統芸能の所作を取り入れた武智鉄二

(37)

記』、一九五四年十一月十九日付。(

( いるように朝日会館が、あるいは十河が音楽家たちを招聘したわけではない。 主催公演であり、朝日会館は本社主催の日本ツアーの一会場にすぎない。よってしばしば書かれて て(時には名古屋も含む)主催していた。しかし戦後の海外音楽家の来日公演は朝日新聞社本社の による主催で行われており、同事業団は大阪朝日会館を中心に京都、神戸など関西圏の公演をすべ 50)戦前のストローク・プロデュースによる来日公演は朝日会館の運営母体・大阪朝日新聞社会事業団

( 河巌のペンネームである。 51)雁三五「被害者列伝」、『DEMOS』一九四九年五月号、三三―三五頁、三三頁。「雁三五」は十

( 52)同、三四頁。

( 弦月会、関西学院絵画部OB弦月会、二〇一六年、二一頁。 53   )『関西学院大学絵画部弦月会創立一〇〇周年記念誌一九一三―二〇一六』、関西学院大学絵画部

( 54)雁三五「被害者列伝」、三四頁。

( 55)『生活』と題された十河巌の日記より。関西学院大学博物館所蔵。

( 二〇〇九年、二四一―二五五頁、二五二頁。   心に―」、東京文化財研究所企画情報部(編)『昭和期美術展覧会の研究戦前篇』、中央公論美術出版、 56)平井章一「一九三〇年代の大阪におけるヨーロッパ前衛絵画の受容と展開―石丸一と吉原治良を中

( が多かった。 立美術協会の展覧会が開かれている。また二科展の大阪での展覧会場も朝日会館展示場が担うこと 57)朝日会館の展示場では一九二九、一九三〇年に一九三〇年協会、一九三一年から一九三九年まで独 58)高柳有紀子「吉原治良と九室会」、展覧会図録『没後

( 二〇一二年、一〇―一三頁。 40  年吉原治良展』、芦屋市立美術博物館、

59)十河の館長就任当初、雑誌のタイトルは『会館文化』であったが一九四七年七・八月号よりタイト

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- 8 - 政朝は嫡男・政 まさ 直 なお を後継に指名したが、政直が夭折したため次男・政 まさ 勝 かつ を 16 代とした。3 男・高朝 たかとも は小山政 まさ

 かといって、経緯のなかで手をこまねいていたわ けではない。 版 や、ネット型で提供す る

  平成1 1年4月、図書館は新たにウェブマスタ ーを任命。従前の単なる広報の 張り紙的掲