「文化活動の推進者」・十河巌 : 朝日会館館長時
代を中心に
著者
中村 仁
雑誌名
関西学院史紀要
号
26
ページ
69-107
発行年
2020-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00028592
「文化活動の推進者」
・十河巌
―朝日会館館長時代を中心に
中村
仁
Ⅰ 導入 十河巌とは何者だったのか? 一 九 八 〇 年、 七 十 六 歳 に な っ た 十 そご う が ん( い わ お ) 河 巌 ( 一 九 〇 四 ― 一 九 八 二 ) は 関 西 の 芸 術 文 化 に 対 す る 長 年 の 貢 献 を 表 し て 兵 庫 県 教 職 員 組 合 よ り 芸 術 文 化 賞 を 授 与 さ れ た。 十 河 の 受 賞 は 関 西 圏 の 各 新 聞 に よ っ て 報 じ ら れ、 そ の 際 神 戸 新 聞 で は「 画 家・ 十 河 巌 氏 」 の 経 歴 に つ い て 次 の よ う に 紹 介 さ れ て い る。 「 戦 後、 大 阪、 阪 神 間 で 労 働 者 の 音 楽 運 動 な ど、 多 く の 文 化 活 動 を 推 進。 「 神 戸 の 文 化 をすすめる会」の結成にも加わり、芸術文化の普及に尽力した」 。また別の新聞では「洋画家」 ・ 十 河 巌 の 経 歴 に つ い て も う 少 し 詳 し く 書 か れ て い る。 「 昭 和 三 年、 朝 日 新 聞 大 阪 本 社 に 入 社、 社 会 部 記 者 を 経 て 二 十 一 年 に 大 阪 朝 日 会 館 館 長 に 就 任。 戦 後 の 荒 廃 期 に 海 外 か ら 音 楽 家 を 次 々 と招 き、 労 音、 労 演 の 結 成 に ひ と 役 買 っ た。 三 十 年 の 朝 日 新 聞 退 職 後 は「 神 戸 の 文 化 を す す め る 会」の結成に加わり、県立近代美術館などの建設ではかげの功労者」 。これらの記事からわかる ことは、 「画家」ないし「洋画家」である十河巌が「神戸の文化をすすめる会」の結成に携わり、 一九七〇年に生まれた兵庫県立近代美術館(現・兵庫県立美術館原田の森ギャラリー)の設立に 貢献したことである。しかしそれは十河が朝日新聞社を定年退職した後の出来事であり、それよ り前に十河が何を行っていた人物なのかについての記述は判然としない。朝日新聞社会部記者と しての経歴、 大阪朝日会館館長としての活動、 労音(勤労者音楽評議会) ・ 労演(勤労者演劇協会) 結成への貢献など、大まかに「芸術文化の普及」に貢献した人物であることはわかるものの、い ずれも「画家」 、「洋画家」という肩書とは直接結びつかないものばかりである。しかも肝心の画 歴についての記述が一切ない。これらの記述からは、芸術文化賞の授与が、十河巌の「画家」と し て の 創 作 活 動 に 対 し て で は な く、 「 文 化 活 動 を 推 進 」 し た 功 績 に 対 す る も の で あ っ た こ と が わ かる。十河厳とは何者だったのだろうか?本論文では、十河厳という人物の多彩な経歴の中でも しばしば筆頭に挙げられる「大阪朝日会館館長」としての活動を中心に、彼がいかなる形で関西 の「文化活動を推進」し、 「芸術文化の普及」に努めたのかを明らかにしたい。 終戦直後までの朝日会館 十河巌が朝日会館の館長をつとめたのは一九四六年九月から一九五三年一月までの約六年半の ことである。先の新聞記事にあるように、その間、十河は、のちの一九六〇年代に全盛を迎える
鑑賞団体 ・ 労音や労演の設立に助力し、 また指揮者 ・ 朝比奈隆の率いる関西交響楽団 (現 ・ 大阪フィ ル ハ ー モ ニ ー 交 響 楽 団 )、 関 西 オ ペ ラ( 現・ 関 西 歌 劇 団 ) の 創 設 に も 関 わ っ た。 さ ら に 一 九 五 一 年九月のヴァイオリニスト、ユーディ ・ メニューインの来日公演を皮切りに朝日会館では海外有 名音楽家の公演が続く。わずか六年半の間に、 十河は朝日会館館長として、 終戦直後の荒廃から 関西の芸術文化を発展させる礎を築き上げたといえるだろう。 しかしそうした十河の活動の詳細 を論じる前にまず、朝日会館について簡単に紹介しておきたい。 大 阪 の 中 之 島 に か つ て 存 在 し た 総 合 文 化 施 設・ 朝 日 会 館[ 図 1] は、 大 阪 朝 日 新 聞 社 の 創 設 五 〇 周 年 を 記 念 し て 一 九 二 六 年 に 生 ま れ、 一 九 六 二 年 に 阪 神 高 速 道 路 建 設 の た め に 取 り 壊 さ れ る ま で、 大 阪 の 芸 術 文 化 の 中 心 地 と し て 大 き な 存 在 感 を 誇 っ て い た。 黒 地 に 金 で 縁 取 ら れ た そ の 異 様 な 外 観 は 松 下 甚 三 郎 の 設 計 で、 ド イ ツ の ゼ セ ッ シ ョ ン 様 式 を 模 範 と し て い た と 言 わ れ る。 一 ・ 二 階 は 大 阪 朝 日 新 聞 社 の 印 刷 所、 三 階 に は 展 示 場、 四 階 か ら 六 階 ま で は 千 六 百 人 の 収 容 を 誇 る 公 演 場 と し て、 演 劇、 オペラ、 コンサート、 映画上映、 展覧会が日々催されていた。 一 九 二 八 年 に 大 阪 朝 日 新 聞 社 会 事 業 団 が 作 ら れ る と 会 館 の 運 営は社会事業団に移管され、 以後、 一九五三年に朝日ビルディ ン グ に 移 管 さ れ る ま で、 朝 日 会 館 は 事 業 団 主 催 に よ る 数 々 の 公 演 に よ り、 関 西 に お け る 芸 術 文 化 の 中 心 地 と し て の 役 割 を 果たした。 [図1]創設当時の朝日会館(朝日新聞社所蔵)
ま た 一 九 三 一 年 に は 朝 日 会 館 発 行 に よ る 雑 誌『 會 舘 藝 術 』[ 図 2] が 誕 生 し、 当 初 は 会 館 で の 催 し の 紹 介 記 事 が 中 心 で あ っ た も の の、 や が て 月 刊 雑 誌 と し て、 朝 日 会 館 の 催 し の 紹 介 だ け で は な く、 音 楽、 映 画、 演 劇、 美 術、 文 芸 な ど 様 々 な 芸 術 ジ ャ ン ル を 網 羅 す る 総 合 芸 術 文 化 雑 誌 と し て 展 開 し て い っ た。 特 に 一 九 三 〇 年 代 の 朝 日 会 館 は、 ハ イ フ ェ ッ ツ や ル ー ビ ン シ ュ タ イ ン な ど 欧 米の一流音楽家の来日公演が多数催され、 加えて新協劇団や新築地劇団など東京から招かれた劇 団の公演も続き黄金時代を迎える。会館に足繁く通う新興ブルジョア層を中心とした人々は 「会 館族」と呼ばれていた。 し か し 一 九 三 七 年 に 日 中 戦 争 が は じ ま り、 次 第 に 総 力 戦 体 制 に 入 る 中、 そ の 活 動 は 縮 小 を 余 儀 な く さ れ る。 音 楽 家 や 舞 踏 家 の 来 日 は 途 絶 え、 雑 誌『 會 舘 藝 術 』 は 太 平 洋 戦 争 の は じ ま る 一九四一年末で一度休刊になる。以後は『大阪文化』 、『厚生文化』とその名前を替えながら縮小 の一途をたどっていく。また雑誌記事では日本文化を礼賛し、 総力戦体制への支持を表明するよ うな内容も増え、 朝日会館では「軍人資金醵集」という名目においてしか演奏会が開かれないよ うになる。 一九四五年三月十三日の大阪大空襲を皮切りに、 同年六月から終戦前日の八月十四日まで大阪 [図2] 『会館芸術』1931 年第2号表紙
は た び た び ア メ リ カ 軍 に よ る 空 襲 被 害 を 受 け、 一 〇、 〇 〇 〇 人 以 上 の 方 が 亡 く な っ た と い う。 し かし朝日会館のある大阪市北区の中之島は比較的被害が少なく、周辺の中之島図書館や中央公会 堂といった歴史的建造物とともに、朝日会館も戦災を生き延びた。終戦後は天王寺の大阪市立美 術館をはじめ多くの建造物が進駐軍によって接収される。一九四六年七月十五日、大阪朝日新聞 社庶務部次長の田坂董隆の案内で進駐軍大阪憲兵隊隊長と国際クラブ森本某による朝日会館視察 があり、その際、朝日会館がキャバレーとしての使用のために進駐軍に接収される可能性が浮上 した。しかし「文化の殿堂を以て大阪市に誇る朝日会館をキャバレーの使用に接収されることは き わ め て 遺 憾 で あ る 旨 を 軍 政 府 に 陳 情 し 」、 会 館 は 接 収 を 免 れ る こ と が で き た と い う 。 こ う し て 朝日会館は空襲も接収も免れたため、戦中から終戦直後にかけて、大きな中断なく活動を続ける ことができた。 十河巌と朝日会館の関りは一九三〇年代にはじまる。十河は大阪朝日新聞社計画部時代に朝日 会館の運営に関わっていた可能性が高く 、また一九三七年十二月に作曲者の指揮する宝塚交響楽 団によって朝日会館で初演された作曲家・大澤壽人の交響幻想曲《西土》においては歌詞を書い た 。同年よりはじまる朝日会館主催のレコード鑑賞会では、関西圏の音楽家や音楽評論家に交じ り銓衡委員を務めた。しかし同年特派員として中国大陸に渡り、その後も一九四二年三月から数 か月、そして一九四四年十二月から終戦まで特派員としてジャワに滞在していた。雑誌『會舘藝 術』およびその後継誌にはたびたび記事を寄せており、二度目にジャワに渡る直前には『大阪文 化』の編集も務めている 。美術、演劇、音楽など様々な芸術ジャンルについて造詣が深く、新聞 記者としての活動に加え、画家や詩人として創作活動もしており、さらには雑誌編集の実務経験
をもち、商科出身で経営感覚も持っており、朝日会館を運営する人物としてはうってつけの存在 であったと思われる。一九四六年五月にジャワから帰国した十河巌は、同年九月より大阪朝日新 聞社から朝日会館に出向する形で館長に就任する。 Ⅱ 朝日会館館長・十河巌―劇場経営のリアリズムと芸術の民衆化 聴衆の組織化―労音、AGOT、ACC 十河巌が朝日会館館長に就任した一九四六年九月は終戦からちょうど一年を過ぎた時期であっ た。朝日会館では一九四三年に始まった月一プログラム二公演の室内楽演奏会シリーズ「朝日名 曲定期演奏会」が続いており、また一九四六年一月からはナチスに追われ日本に亡命し、戦前よ り朝日会館と関係が深かったピアニスト、レオニード・クロイツァーによる連続演奏会が定期的 に開かれていた。しかしそれらを除くと、大きな催しはなく、来日音楽家の演奏会、オーケスト ラ、オペラ団体の来阪公演などで大いに沸いていた一九三〇年代のような活気は失われていた。 と こ ろ が 十 河 が 館 長 に 就 任 し て 間 も な く、 朝 日 会 館 で は 大 型 公 演 が 増 え て い く。 十 河 が 就 任 した翌月、一九四六年一〇月は朝日会館の開館二十周年記念の月であった 。一連の記念公演の皮 切 り に な っ た の は 九 月 二 十 八 日 か ら 一 〇 月 四 日 ま で 上 演 さ れ た 新 協 劇 団 の『 幸 福 の 家 』( 村 山 知 義演出)である。さらに十月五、 六日の二日間にわたってドイツから帰国したヴァイオリニスト、 諏訪根自子の演奏会が開かれた。そして十月八日から十一日にかけては日本交響楽団(現・NH
K 交 響 楽 団 ) の 秋 季 演 奏 会 が 続 く。 二 十 年 前、 朝 日 会 館 が 開 場 し た 際 の 最 初 の 大 型 公 演 が 一 九 二 六 年 十 月 二 十 七 日、 結 成 間 も な い 新 交 響 楽 団( 日 本 交 響 楽 団 の 前 身) による演奏会 (近衛秀麿指揮) であっ た。 今回のベートーヴェンの第九交響曲を メインに据えたプログラム (ローゼンシュ ト ッ ク 指 揮 ) は、 開 館 二 十 周 年 に ふ さ わ し い 華 や か な 催 し で あ っ た[ 図 3] 。 さ ら に 翌 一 九 四 七 年 一 月 に は 東 京 バ レ エ 団 に よ る チ ャ イ コ フ ス キ ー の バ レ エ《 白 鳥 の 湖 》 が 上 演 さ れる。これは前年八月に東京 ・ 帝国劇場で開かれた、 藤田嗣治による舞台装置、 上海バレエ ・ リュ ス の ダ ン サ ー だ っ た 小 牧 正 英 の 振 り 付 け と 演 出 に よ る、 戦 後 日 本 の バ レ エ・ ブ ー ム の 幕 開 け と な っ た プ ロ ダ ク シ ョ ン の 引 っ 越 し 公 演 で、 こ の 公 演 を き っ か け に 関 西 で も バ レ エ 公 演 が 多 く 開 か れ る よ う に な っ た。 特 に 小 牧 正 英 率 い る 小 牧 バ レ エ 団 は 一 九 四 〇 年 代 後 半 か ら 一 九 五 〇 年 代 にかけて朝日会館で数多くのバレエ公演を行った。 こ の よ う に 十 河 巌 が 館 長 に 就 任 し て 以 降、 朝 日 会 館 は オ ー ケ ス ト ラ、 オ ペ ラ、 演 劇、 バ レ エ な ど 様 々 な 催 し で 賑 わ う よ う に な る の で あ る が、 そ の 運 営 に は 財 政 面 に お い て 非 常 に 大 き な 問 題 が 存 在 し た。 戦 争 末 期 以 降、 演 劇、 映 画 や 音 楽 公 演 に は 二 〇 〇 % の 税 金( 入 場 税 ) が か け ら れ て い た。 一 九 四 七 年 四 月 よ り 税 制 は 改 め ら れ た が、 入 場 税 と し て や は り 一 〇 〇 % の 税 金 が か [図3]日本交響楽団の演奏会 プログラム、1946 年 10 月
け ら れ、 税 率 は 同 年 十 月 よ り 一 五 〇 % と な る 。 こ れ は 本 来 の チ ケ ッ ト 代 に、 そ の 一 ・ 五 倍 の 税 金 が課されることを意味する。とりわけオーケストラやオペラ、バレエ公演のように、そもそも莫 大な経費がかかる公演について、一〇〇%を超える税率は主催者に過大な負担を強いることとな る。朝日会館において公演コストを削減することは必須の課題であった。 こうした環境下で十河が試みるのが聴衆の組織化である。音楽や演劇に関心のある学生や勤労 者を鑑賞団体として組織し、毎月安価な料金で朝日会館の公演に動員することにより、必ず数公 演分客席が埋まるような状況を作り出す。それにより同一団体により複数の公演を開催すること が可能となり、出演団体の交通費や宿泊費、出演料を相対的に安く済ませることができる。 聴衆の組織化の嚆矢となったのが、一九四八年十一月に結成された朝日会館音楽友の会(AG OT)および、その後まもなく結成された朝日会館演劇友の会(AGET)である。十河によれ ば 、 終 戦 後 の 興 行 に お い て は 入 場 税 を は じ め と し た「 入 場 料 と、 そ こ か ら 派 生 す る 諸 々 の 問 題 」 が 存 在 し た。 東 京 と 比 べ、 市 民 の「 経 済 力 」 も「 文 化 生 活 の 程 度 」 も 異 な る「 地 方 」 の 聴 衆 は、 チケットに支払える額が、東京の聴衆より少ない。しかし公演を主催する側は音楽家たちを東京 から招かなければならず、 宿泊費、 交通費がかさむ。つまり地方で音楽会を開くということは、 「東 京よりも遥かに費用が嵩み、一方入場料を幾分でも安くしなければならない」 という問題を抱え る。 「 こ の 無 理 な 状 況 を 突 破 す る 方 法 」 と し て 生 ま れ た の が「 聴 衆 層 の 組 織 化 」 で あ る。 聴 衆 団 体 を 作 る こ と で、 「 音 楽 会 を 一 度 限 り で は な く 二 三 回、 あ る い は そ れ 以 上 連 続 開 催 し、 諸 経 費 が 東京よりも高くかかるにもかかわらず、東京よりは少しでも安く」できることとなる 。一九四八 年十一月、京阪神の大学および高等学校、中学校の学生 ・ 生徒から組織されたAGOTでは「 [引
用者註:一九五二年の時点で]二百四十校、約一万二千名の会員中から各校一名ずつの幹事が選 ばれて、毎月一回集まって幹事会を開いている。この幹事は随時自分の学校の会員の希望音楽家 や曲目に対する世論調査を行って、その結果をもち寄って基礎資料として計画会議をすすめるの である」 。一二、 〇〇〇名のAGOT会員の存在により、朝日会館では同一プログラムで五、 六公 演分の客席を埋めることが可能となる。それまでの室内楽やオーケストラ公演が通常、一プログ ラム二公演であったことに比べると、相対的に一公演当たりの経費を少なく抑えることが可能と な る。 A G O T の 会 費 は 当 初 月 八 〇 円 で あ り、 こ の 額 が 月 一 回 開 か れ る「 例 会 」 の 実 質 的 な チ ケット代に相応する。一九四九年二月のいわゆるドッジ・ライン導入により物価が安定して以降、 朝日会館の催しの一般的なチケット代が音楽会で一〇〇~二五〇円、オペラ、バレエで二五〇~ 四〇〇円であったことを考えると、チケット単価は相当安くなる 。しかし終戦直後において高額 の チ ケ ッ ト 代 を 払 う こ と の で き る 層 は 限 ら れ て お り 、 朝 日 会 館 で の 一 般 向 け の 公 演 は 不 入 り が 続 い て い た 。 チ ケ ッ ト の 単 価 が 抑 え ら れ て い て も 五、 六 公 演 分 の 客 席 が 埋 ま る こ と は 朝 日 会 館 の 興行継続を可能にする上で非常に重要なことであった。 しかしAGOTの設立には興行コストの削減のためだけにとどまらない重要な要素がみられる。 十河によれば、AGOT例会の曲目や音楽家の選定は「すべて幹事会で合議し、詳細なことがら については運営委員会が自治的にことを計っていく」 。学生たちは学校単位で加入することが義 務付けられており、各学校には代表となる幹事がおり、それら幹事の上に、さらに学生たちから なる運営委員がおり、会員の意見を集約して音楽家や曲目を決め、さらに公演プログラムの作成 も担う。学生の自主性に任された民主的な運営によって成り立っているのである。
また参加者たちには単なる公演の受け皿ではなく、聴衆として公演を支えることで関西の舞台 芸術文化を発展させていこうとする当事者意識が存在していた。一九五二年、十河の主導により AGOT、AGETのOG・OBたちを中心に音楽・演劇鑑賞団体ACC(朝日文化クラブ)が 設立される。AGOT、AGETに比べると会費が高額であるが、基本的な組織の在り方はAG O T・ A G E T と 変 わ り が な い。 A C C は 第 四 回 例 会 に お い て 創 立 間 も な い 関 西 オ ペ ラ グ ル ー プ(現、関西歌劇団)によるプッチーニのオペラ《ラ・ボエーム》の上演を開催するのであるが、 その際の朝日会館の機関誌『DEMOS』の「ACC欄」において、例会開催の趣旨が記されて い る。 書 き 手 は 記 名 さ れ て い な い が A C C の 運 営 委 員 に よ る も の で あ る と 思 わ れ る。 「 高 率 な 入 場税」が課され、 「関西で動員し得る聴衆の数は常に限られて」いる中、 「関西オペラグループの 人々がその上演に当ってわれわれに協力を望むことも止むを得ないのではないかと思われる。即 ち常に一定数の会員を動員し得る鑑賞団体に頼るという事はその上演をどれ程か容易にし、また 経済的な見透しを立て得ることに於てその上演を可能ならしめているのである。又一方我々とし ても関西のオペラを関西で育て上げるためには何等その協力を惜しむものでなく、より以上に積 極的に後援したいとすら考えている」 。これら鑑賞団体の参加者たちは、単に公演を享受するの みならず、 客席を埋めることで公演自体の開催を可能にし、 関西の舞台芸術文化を「育て上げる」 ために「協力」 、「後援」している、と自負する。十河時代の朝日会館が作り上げた鑑賞団体には、 演者、主催者と協力し、関西の芸術文化を発展させるという共同体意識のようなものが存在して いたと思われる。 さ ら に 興 味 深 い の は、 こ う し た 運 営 方 法 が、 A G O T の 一 年 後 に 十 河 が そ の 設 立 に 関 わ っ た
労音(勤労者音楽協議会)の運営方法と類似していることである。労音は一九四九年九月に、十 河 が 須 藤 五 郎 に よ っ て 一 九 四 七 年 に 結 成 さ れ た 関 西 自 立 楽 団 協 議 会 に 持 ち か け る 形 で 誕 生 す る 。 そ の 第 一 回 例 会 は 朝 日 会 館 で 開 か れ 、 自 立 楽 団 の ア マ チ ュ ア 音 楽 家 た ち に よ る 演 奏 に 、 ソ プ ラ ノ 歌 手 の 笹 田 和 子 が 加 わ っ た 。 し か し 第 二 回 例 会 以 降 は 室 内 楽 、 オ ー ケ ス ト ラ や オ ペ ラ 、 バ レ エ 公 演 の 鑑 賞 団 体 と な り 、 朝 日 会 館 は 毎 日 会 館 と 並 ん で そ の 例 会 の 主 要 会 場 と な っ た。 A G O Tにおいて各学校単位で選ばれた幹事の役割は、労音においては各職場の組合文化部の代表者が 果たすことになる。曲目やアーティストを、会員へのアンケート調査をもとに、これら代表者た ちが 「自主的」 な 「合議制」 で決めていくというプロセスも同じである。よって十河によって設立、 運営されたAGOTの運営方法は、約一年後に生まれる労音のモデルになっていたと考えられる。 かつて社会部記者として労働問題の取材に力を入れていた十河には 、勤労者による文化活動に 対する大きな共感があった 。十河が編集する朝日会館発行雑誌『DEMOS』一九四九年四月号 に は、 編 集 長・ 十 河 の も の と 思 わ れ る 無 記 名 の マ ニ フ ェ ス ト が 登 場 す る。 「 本 誌 は 一 般 民 衆 の 中 に 高 い 藝 術 が 育 ま れ て ゆ く よ う 読 者 の 希 望 に こ た え て 」 ゆ く も の で あ り、 「 多 く の 人 た ち、 特 に 若 い 人 達 の 必 見 の 書 と な る こ と を つ ね に 希 ん で や ま な い 」 。 こ う し た 方 針 は 雑 誌『 D E M O S 』 だけではなく、この時期の朝日会館の運営全体について言えることであろう。十河がAGOTを 設立し、労音にも手を貸すことは、劇場経営者として、厳しい財政環境のもとで公演を続けてい くための方策であると同時に、 「高い藝術」をエリート層から解放し、 「一般民衆」や「若い人達」 を育んでいくためのことであったと思われる。のちに労音設立を振り返り、十河はそこには二つ の理由があったと書いている。第一の理由は「芸術も『会館族』ばかりではなく、あらゆる階層
の人たちによって鑑賞されるようにならなければならないと考え」たためである。そこには労音 が質の高い藝術を勤労者たちに開放することへの共感がある。一方、 「第二の理由」として、 「オ ペ ラ を や る に し て も バ レ エ を 演 る に し て も ど う し て も 東 京 か ら 招 か な け れ ば な ら な か っ た。 ( 中 略)その旅費宿泊費その他の経費がかさんで、短期間の興行ではどうしても費用がまかないきれ な か っ た。 こ の 問 題 を 解 決 す る た め に、 ( 中 略 ) 勤 労 者 を 主 体 と し た 聴 衆 動 員 組 織 を も た な ね ば ならないと考えざるをえなかった」 と書いている。よってAGOTや労音といった聴衆の組織化 は、勤労者や若い世代への共感、芸術の民衆化という理念の実現であるとともに、終戦直後の厳 しい財政状況の中で芸術興行を営む劇場経営者としてのリアリズムに裏打ちされたものでもあっ た。十河時代の朝日会館ではこうした組織化された聴衆により多くの演奏会が開かれ、戦前に次 ぐ第二次黄金期ともいえるような活況を呈した。 関西交響楽団、関西オペラの誕生 聴衆を組織化するとともに十河がもう一つ試みたのが関西発の音楽団体設立の支援である。終 戦後、東京では一九四六年創立の東宝音楽協会により藤原歌劇団のオペラ公演や、上海から帰国 したダンサー小牧正英率いるバレエ団によるバレエ公演が行われており、朝日会館もこれらの団 体を定期的に大阪に招いた。しかし東京から招聘するには莫大な経費がかかってしまう。そこで 十河は関西の音楽団体設立支援にも力を入れ始める。 その際重要であったのが、ちょうど十河が朝日会館館長に就任した時期に、戦中上海や満洲で
活躍していた指揮者・ 朝 あさひな たかし 比奈隆 (一九〇八―二〇〇一)が帰国してきたことであった。のちに朝 比奈が「この舞台にデビューし、この舞台で育てられた」 と回想するように、朝比奈の前半生は 朝日会館と共にあったと言っても過言ではないだろう。朝比奈と会館の関わりは、東京生まれの 彼が京都帝国大学法学部の学生として関西にやって来た時期、つまり朝日会館が生まれて間もな い頃にまで遡る。指揮者エマヌエル・メッテルの厳しい指導のもとで本格的なオーケストラ曲に 取り組んでいた京都帝国大学音楽部の部員であった彼は、一九三〇年に音楽部の仲間数名ととも に大阪での演奏会を企画する。熱心な学生たちは知り合いの記者を通じて大阪朝日新聞社の支援 を 取り 付 け、 一 九三 〇 年 六月 九 日 に朝 日 会 館主 催 に よる 演 奏 会 が開 か れ る 。 こ こか ら 朝 比奈 と 朝 日会館との長きにわたる関わりが始まる。メッテル指揮京大音楽部は一九三六年まで朝日会館で 七回演奏会を開いており、朝比奈はその全てにヴァイオリンないしヴィオラ奏者として出演して いる。また朝日会館では大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)の学生・教員達による演奏会も開か れており、同校で教鞭を取っていた朝比奈もその舞台に立つ。朝比奈の指揮デビューは一九三六 年二月十八日、朝日会館における「大阪音楽学校創立記念演奏会」においてのことであった。翌 一九三七年一月二十五日に朝日会館で開かれた同音楽学校の演奏会で朝比奈は学生たちとビゼー の《カルメン》第一幕を演奏しており、これが戦後オペラ指揮者として活躍する朝比奈の初めて 指揮したオペラにあたる。ヴァイオリン、 ヴィオラ演奏、 指揮活動に加え、 朝比奈は朝日会館の 「レ コード鑑賞会」の銓衡委員も務めた。つまり朝日会館は若き朝比奈の活動の中心舞台だったので ある。そしてもちろん、一九三〇年代に会館の舞台に立った欧米の一流音楽家たちの演奏を、朝 比奈は聴衆の一人としてしばしば聴いていた 。
一 九 四 六 年 一 〇 月、 朝 比 奈 は 帰 国 す る な り、 関 西 を 本 拠 と し た 常 設 オ ー ケ ス ト ラ、 の ち に 大 阪 フ ィ ル ハ ー モ ニ ー 交 響 楽 団 に 発 展 解 消 さ れ る 関 西 交 響 楽 団 の 設 立 に 動 き 出 し、 一 九 四 七 年 四 月 二 十 六 日、 朝 日 会 館 に て 第 一 回 演 奏 会 を 開 催 す る[ 図 4] 。 関 西 の 本 格 的 な オ ー ケ ス ト ラ 運 動 は す で に 一 九 二 〇 年 代 に は じ ま り、 朝 日 会 館 は そ れ ら と 常 に 密 接 に 関 わ っ て き た。 前 述 の メ ッ テ ル 率 い る 京 都 帝 国 大 学 音 楽 部 は 朝 比 奈 を は じ め、 の ち の 関 西 の オ ー ケ ス ト ラ 運 動 を 支える音楽家を多数輩出している。 また宝塚歌劇団の オーケストラ ・ メンバーを中核に指揮者ヨーゼフ ・ ラ ス カ に よ っ て 率 い ら れ た 宝 塚 交 響 楽 団 は 一 九 三 一 年 から三四年にかけて、 朝日会館主催による「大阪定期 演奏会」 を開いていた。さらに大阪中央放送局 (現: NHK大阪放送局) のオーケストラの改組により生ま れた大阪放送交響楽団の公演が、 同じく朝日会館主催 に よ り 一 九 四 二 年 か ら 四 三 年 に か け て 五 回 ほ ど 行 わ れている。このとき朝比奈は大澤壽人、 宮原禎次と共 に同団の指揮者を務めた。 しかしいずれも安定した財 [図4]関西交響楽団第一回演奏会、 写真とポスター (大阪フィルハーモニー協会所蔵)
政基盤の下で継続した活動を続けていくことができなかった 。 朝比奈が終戦後帰国した際に集めたのはこうした戦前・戦中に関西のオーケストラ運動を担っ た音楽家たちであった 。その中核となったのは大阪中央放送局に所属するオーケストラ団員三十 名 弱 で あ り 、 そ こ に 上 述 の 関 西 の 様 々 な オ ー ケ ス ト ラ 運 動 の 奏 者 お よ び 新 人 音 楽 家 が 四 十 人 ほ ど が 加 わ る 。 し か し 関 西 に お け る オ ー ケ ス ト ラ 運 動 の 挫 折 を よ く 知 る 朝 比 奈 に と っ て 何 よ り も 必 要 で あ っ た の は 財 政 基 盤 で あ る。 そ こ で 重 要 な 役 割 を 果 た す の が 住 友 銀 行( 当 時 は 大 阪 銀 行 ) 頭 取 の 鈴 木 剛 を 中 心 と し た 関 西 圏 の 財 界 人 に よ る 支 援 団 体、 「 関 西 交 響 楽 団 友 の 会 」 と 朝 日 会 館 によるバックアップであった。 一九四七年創設の関西交響楽団は一九五〇年に大阪中央放送局から独立する形で改組され、運 営 母 体 も 社 団 法 人 関 西 交 響 楽 協 会 に 改 組 さ れ る。 そ の 際、 理 事 長 の 鈴 木 剛 お よ び 理 事 を 務 め た 朝 日 ビ ー ル の 山 本 為 三 郎、 倉 敷 レ イ ヨ ン の 大 原 総 一 郎 ら 実 業 家 た ち の ほ と ん ど は、 関 西 圏 の 財 界 人 に よ る 社 交 ク ラ ブ・ 大 阪 倶 楽 部 の 会 員 で あ っ た。 朝 比 奈 自 身 も 音 楽 家 と し て は 異 例 な こ と に倶楽部の会員となり 、こうした関西財界のネットワークを通じて楽団の財政基盤を整えていっ た。当時、大阪倶楽部はその倶楽部会館を進駐軍に接収されており、朝日会館三階に間借りして いた。つまり朝比奈が関西財界の支持を取り付ける場も朝日会館であった。会館三階に大阪倶楽 部、四~六階がオーケストラの公演会場、という距離の近さは財界人にオーケストラ支援を説得 する上で非常に有利に働いたと思われる。一方、朝日会館自体は関西交響楽団の定期演奏会を主 催 し、 ま た オ ペ ラ や バ レ エ 公 演 の 伴 奏 を 依 頼 す る 形 で オ ー ケ ス ト ラ を 支 援 す る[ 図 5] 。 朝 比 奈 は 次 の よ う に 回 想 す る。 「 大 阪 に い た 音 楽 の 仲 間 が な ん と か オ ー ケ ス ト ラ を 作 ろ う と 相 談 し て い
る と き「 朝 日 会 館 で 演 奏 会 を 開 き な さ い。 興 行 面 の こ と は 引 き 受 け ま し ょ う 」 と い っ て く れ た の が 朝 日 新 聞 厚 生 文 化 事 業 団 [ 引 用 者 註 : 当 時 は 厚 生 事 業 団 ] だ っ た 」 。 十 河 に よ れ ば、 オ ペ ラ や バ レ エ な ど の 大 型 公 演 を 主 催 す る に あ た り、 「 多 数 の オ ー ケ ス ト ラ の メ ン バ ー を 招 か な け れ ば な ら な か っ た。 そ れ に は東京から招くと食糧の問題も並大抵の苦労ではなかった。このためどうしても関西に、 交響楽 団をつくる必要が痛感され、 朝比奈隆氏を中心として発足した関西交響楽団を育成する方針をと り、 毎月一回定期演奏会を会館で催した」 という。朝日会館が公演の財政リスクを引き受け、 関 西の財界人が楽団維持のための支援を行うことで、 戦前から続く関西のオーケストラ運動に関西 交響楽団という一つの着地点が生まれるのである。 関西交響楽団は一九五八年まで朝日会館で定 期演奏会を開催した。 オーケストラの次はオペラである。 一九四九年六月に朝日会館において関西オペラ協会第一回 公演、 ヴェルディの 《椿姫》 が上演される。演出はドイツ留学経験があり戦前宝塚歌劇団で演出 ・ 脚 本 を 担 当 し て い た 中 西 武 夫、 朝 比 奈 指 揮 関 西 交 響 楽 団 が ピ ッ ト に 入 り、 一 九 二 六 年 創 立 の ア [図5] 十河巌(右)と朝比奈隆(左)(1940 年代後半) (関西学院大学博物館所蔵)
サヒ・コーラスが合唱を務めた。朝比奈は自ら訳詞を作り、ヴィオレッタ役には東京から関種子 を招くが、それ以外はジェロモン役の牧嗣人等、関西を中心に活躍する歌手で固める。同オペラ 協会創立は同年一月のことであるが、ここにも前史があった。関西在住の歌手たちによってオペ ラを上演する計画は終戦直後より存在した。一九四七年からの朝日会館主催で行われた藤原歌劇 団による年数回の関西公演は大きな刺激になったはずである。また直接のきっかけとなったのは 一九四八年六月に毎日新聞の支援の下、毎日会館で上演されたマスカーニの《カヴァレリア・ル スティカーナ》であった。公演を率いたのは戦中、上海陸軍報道部にいた関西出身のテノール歌 手、中川牧三である。大阪音楽高等学校の教員を中心にしたこの公演に携わった歌手の多くが関 西オペラ協会の設立に参加した 。設立時、関西オペラ協会の中心にいたのは朝比奈と朝日会館館 長の十河、そして戦中、上海でオペラやバレエのプロデューサーを務めていた緑野卓こと草刈義 人である。草刈が携わったのは第一回公演のみであったが、当初協会の中で唯一常設劇場でのバ レエやオペラの制作の経験があり、上海では《椿姫》演出の経験もあった草刈の貢献は大きかっ たと思われる 。朝比奈が劇団長を務めることで、同協会はのちに関西交響楽団と同じく関西交響 楽協会の傘下に入り、財政的な基盤を安定させる。朝日会館にとっては、これもまた関西発のオ ペラ団体の育成であるとともに会館運営上のコスト削減の一環であった。十河は次にように書い て い る。 「 こ の 前 の カ ル メ ン[ 引 用 者 註 : 一 九 四 九 年 五 月 に 朝 日 会 館 で 開 か れ た 藤 原 歌 劇 団 の 公 演のこと]のように出演者百名ということになれば三等車で来るもののあることを考慮しても約 七十万円乃至百万円の費用が要る。これは明らかに東京よりも余計に支払わねばならない費用で ある。従って最初から赤字予算でオペラ公演の計画をたてなければならないという苦しい状態で
ある。ここに関西オペラが生れて来なければならないし、 また健やかに生長するだけの客観的情 勢が備わっているのである」 。しかし十河が考える「客観的情勢」とは、 あくまでも将来を見据 えた長期的視野に基づいたものであり、 すぐに関西オペラが藤原歌劇団にとって代わるとは考え てなかったようである。関西オペラは一九五四年まで朝日会館を舞台に公演を続けたが、 藤原歌 劇団も引き続き定期的に朝日会館に客演する。 團伊玖磨のオペラ《夕鶴》の初演 このように聴衆の組織化と関西発のオーケストラ、 オペラ団体の支援を軸に、 十河時代の朝日 会 館 は 戦 後 の 関 西 楽 壇 復 興 に 邁 進 す る。 そ の 成 果 の 中 で 特 筆 す べ き も の が、 日 本 語 で 作 ら れ た オ ペ ラ の 中 で 最 大 の 成 功 作 と も 言 え る 團 伊 玖 磨 の オ ペ ラ《 夕 鶴 》 の 初 演[ 図 6] で あ る。 同 作 は 十 河 時 代 の 朝 日 会 館 の プ ロ デ ュ ー ス に よ っ て 生 ま れ、 一 九 五 二 年 一 月 三 十 一 日 に A G O T 例 会 に お い て 藤 原 歌 劇 団 に よ っ て 初 演 さ れ て い る。 こ の 作 品 の 誕 生 に は 様 々 な 点 で、 こ の 時 代 の 朝 日 [図6]《夕鶴》初演、一般公演向けの プログラム (表紙:小磯良平)
会館の活動が集約されている。 原作の木下順二による戯曲は、大阪中央放送局での放送初演ののち、一九四九年一〇月に「ぶ どうの会」により関西(奈良・京都)で舞台初演されているが、その直後、同年一一月には朝日 会館で上演されている。作曲家・團伊玖磨は放送初演の段階から音楽を担当しており、オペラ版 《夕鶴》 は、 演劇版の音楽を発展させる形で作曲したという 。十河が團伊玖磨のオペラのプロデュー スを引き受けたきっかけは、一九五一年四月に朝日会館で開かれた「聖徳太子千三百三十三年記 念祭」の際に、清水脩・團伊玖磨・芥川也寸志の共同作曲による《聖徳太子祝賛歌》を聴き、團 の音楽に興味を持ったためだという 。公演に大きな財政的リスクが伴うと想定される日本人作曲 家によるオペラ初演を朝日会館がプロデュースできたのはAGOTの存在である。初演十公演の う ち 実 に 六 公 演 が A G O T 例 会 と し て 開 催 さ れ て い る。 当 時 一 二、 〇 〇 〇 人 の 会 員 が い た A G O Tの存在により、六公演分客席を埋めることがあらかじめ計算できたことにより、興行の財政リ スクは大きく軽減された。残りの一般向け四公演の集客のために重要であったのは、初演の二ヶ 月前、一九五一年十二月に、朝日会館でぶどうの会による『夕鶴』の再演が、初演と同じ山本安 英主演で行われたことである。すでに評価の確立されている原作を観た観客たちは、二か月後の オペラ版初演への期待を大いに高めたと思われる。日常的に演劇、オペラ双方の主催公演を行っ ている朝日会館だからこそできたことであり、新作オペラ初演を成功させるため、十河が様々な 工夫をしていたことがうかがえる。作曲者指揮による関西交響楽団の伴奏、藤原歌劇団によって 初演されたオペラ《夕鶴》は、その後の日比谷公会堂での東京初演も含め 、興行的にも芸術的に も大成功であった。同作品をプロデュースした十河巌は、作品の成功を受けて一九五三年一月に
伊庭孝オペラ賞を受賞した。 その他の催し―「たそがれコンサート」 、労演、新様式能 その他にも十河時代に朝日会館では様々な試みがなされている。 まずは一九四八年以降夏に西 宮球場で開かれた 「たそがれコンサート」 を取り上げたい。朝日会館の運営母体である厚生事業 団はこの時期、朝日会館以外でも大きな催しを試みるようになる。 「 た そ が れ コ ン サ ー ト 」 は 一 九 四 八 年 七 月 三 十 一 日 か ら 四 週 間、 毎 週 日 曜 日 に 西 宮 球 場 で 開 催 さ れ た 。 ス タ ジ ア ム 中 央 に 舞 台 が 作 ら れ 、 約 三 万 人 収 容 の 客 席 が 舞 台 を 取 り 囲 む 。「 芸 術 の 民 衆 化 」 を 意 識 し て か 、 プ ロ グ ラ ム も シ ン フ ォ ニ ー か ら オ ペ ラ 、 バ レ エ 、 ジ ャ ズ に 至 る ま で バ ラ エ テ ィ 豊 か な も の で あ っ た 。 十 河 に よ れ ば 、 野 外 コ ン サ ー ト の き っ か け は 、 一 九 四 七 年 の メ ー デ ー の 際 、 演 劇 ・ 映 画 の 労 組 か ら た の ま れ て 「 メ ー デ ー に 贈 る 芸 術 祭 」 を 事 業 団 が 主 催 し た こ と に は じ ま る 。 そ の 際 、 会 場 と し て 阪 急 西 宮 球 場 を 借 り る の だ が 、 そ れ を き っ か け に 西 宮 球 場 と の 間 に 縁 が 生 ま れ た と い う 。 一 九 四 九 年 夏 よ り、 「 た そ が れ コ ン サ ー ト 」 で は 小 牧 正 英 に よ る バ レ エ 公 演 も 行 わ れ る が、 そ の 際、 舞 台 美 術 を 十 河 の 関 西 学 院 時 代 の 同 窓、 画 家 の 吉 原 治 良 が 担 当 す る[ 図 7] 。 吉 原 は 以 後 何 度 か「 た そ が れ 図7「たそがれコンサート」1949 年8月6日、 西宮球場(関西学院大学博物館所蔵)
コンサート」の舞台美術を担当するが、この経験がきっかけとなり、吉原は舞台美術に関心を持 ち始めたという 。朝日会館は音楽、 オペラ、 バレエ以外にも演劇や古典芸能の公演を主催し、 様々 な ジ ャ ン ル の 芸 術 家 た ち の 交 流 や 共 同 作 業 を も た ら し た。 「 た そ が れ コ ン サ ー ト 」 の 存 在 は、 朝 日会館を幅広い聴衆に開いていくと同時に、芸術ジャンルを超えた共同作業の場でもあった。 またAGOTや労音ほどの動員力はなかったものの、労演(勤労者演劇協会)の例会も多く開 かれている。 大阪労演の第一回例会は一九四九年二月四日、 俳優座による青山杉作演出、 ユージン ・ オニール『あゝ荒野』の公演であった。長年労演の事務局長をつとめた岡田文江によれば、 「当時、 東京の新劇団の大きな公演は、朝日会館、毎日会館が主催していたので、私たちの例会は、それ を一回ないし二回を買いとる形で行われた」 という。労音と同じく、労演の会員数は一九六〇年 代 半 ば ま で 増 大 し、 最 盛 期( 一 九 六 四 年 ) に は 二 〇、 〇 〇 〇 人 弱 を 誇 っ て い た が、 十 河 時 代 の 朝 日 会 館 に お い て 例 会 が 開 催 さ れ た 時 期 は ま だ 二、 〇 〇 〇 人 程 度 に と ど ま っ て お り、 岡 田 の 書 い て いるように「一回ないし二回」の客席を埋められるくらいであった。戦前、朝日会館は新協劇団 や 新 築 地 劇 団、 戦 中 は 文 学 座 の 関 西 公 演 の 拠 点 で あ り、 東 京 の 劇 団 に よ る 新 劇 公 演 が 盛 ん に 行 われていた。戦争が終り、民藝や俳優座、新協劇団、ぶどうの会など再び朝日会館では盛んに新 劇 公 演 が 行 わ れ る よ う に な る。 大 阪 労 演 の 例 会 は 当 初 は 朝 日 会 館 で 開 か れ る こ と が 多 か っ た が、 一九五〇年以降は他の会場とも分担しながら開かれていた 。多い時には十回公演があった労音の 場 合 と は 異 な り、 朝 日 会 館 に と っ て の 財 政 的 利 点 は 少 な か っ た と 思 わ れ る。 し か し だ か ら こ そ、 労演例会におそらくは安い料金で公演を貸し切らせたことには、勤労者に演劇を見る機会を与え るという理念、つまり「芸術の民衆化」に対する十河の共感があらわれている。
高 岡 裕 之 に よ れ ば、 労 演 の 設 立 は 一 九 四 八 年 六 月 に 設 立 さ れ た「 労 映 」( 関 西 労 働 組 合 映 画 協 議 会 ) と 近 し い 関 係 に あ り、 両 者 は 共 同 で 機 関 誌『 映 画 演 劇 』 を 発 行 し て い た と い う。 「 労 演 の 創 立 は 決 し て 孤 立 し た も の と し て あ っ た 訳 で は な く、 「 労 映 」・ 「 労 演 」・ 「 労 音 」 と い う 大 阪 に お ける民主主義文化運動団体拡大の一環だったのである」 とあるとおり、これらの勤労者を対象と し た 芸 術 鑑 賞 運 動 は、 終 戦 後 の 労 働 運 動 の 盛 隆 と 共 に 起 こ っ た 同 時 代 的 な 現 象 で あ る。 「 演 劇・ 映画の労組」の依頼により西宮球場でページェントを開き、労音、労演それぞれの第一回例会の 舞台となった朝日会館の存在も、そうした時代の潮流の中にあったといえるだろう。しかし他方 で十河はAGOTやAGETなど労働運動とは直接関係のない鑑賞団体を組織し、一九五〇年代 後半には労音に対抗して大阪の財界によって組織された聴衆団体、 音楽文化協会(会長、 鈴木剛) とも関りを持っている 。このことは、十河の考える「芸術の民衆化」が、必ずしも同時代の労働 運動や共産主義のイデオロギーと軌を一にしているものではないことをあらわしているだろう 。 十 河 が 好 ん だ ジ ャ ン ル は 基 本 的 に は ヨ ー ロ ッ パ 生 ま れ の 舞 台 芸 術 で あ り、 日 本 の 伝 統 芸 能 に 対してはそれらほどの熱意を見せていない。 「日本に歌舞伎や、文楽や能楽があるからといって、 国 際 的 に 普 遍 性 の あ る 音 楽 や バ レ エ、 オ ペ ラ を い ま の ま ま 捨 て て お い て い い と い う 訳 に は い か ない。これを盛んにすることはむしろ国家的な仕事といわなければならない」 と書いているよう に、十河は、欧米の「普遍性のある」芸術を重視する。一方、日本の伝統芸能に対しては、それ らを現代化することに関心を持っており、能楽の家元、金剛巌と共に案を練り発足させた「新様 式能」は、十河の伝統芸能観をよくあらわしている。 「わたしは能はたまに見ることはあっても、 全くの門外漢といった方が正しい」 と書いている通り、十河は「門外漢」としての立場から、能
舞台のアメリカ公演を構想し、能舞台の現代化を試みる。朝日会館では戦前から「会館能」とい う能舞台の公演が続けられていた。その際、会館のステージ上に能舞台が組み立てられたのであ るが、 「新様式能」は、ステージをそのまま使い、さらに舞台照明も使いながらの上演であった。 一九四七年三月一日に第一回の「新様式能」が幕を開け、演じられたのは『松風』であった。当 時より賛否両論あった公演だが、十河にとっては思い入れのある企画であった 。 著名音楽家の来日公演 一九五一年九月、朝日新聞社の主催でヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインの来日公演 が開かれる。日中戦争以降、欧米の著名音楽家の来日が途絶えて十五年近くが経っており、戦後 復興を印象付ける出来事として大きな話題となった。一九三〇年代、上海を中心に活躍する興行 師アウセイ・ストロークの斡旋による欧米著名音楽家のアジア・ツアーの一環として、朝日会館 では数多く演奏会が開かれた。戦後初の大物音楽家の来日公演も、本拠をニューヨークに移した ストロークのプロデュースによるものであった 。 十河の「芸術の民衆化」という理念とは異なり、演奏会のチケットは非常に高額であった。A GOTはメニューインの公演をAGOT例会に組み込むことを希望していたが、最高七〇〇円の チケット代は、特別会費でも200円を超えないAGOT例会とは折り合いがつかなかった。以 降、メトロポリタン・オペラのドラマティック・ソプラノ、ヘレン・トローベル、フランスの名 ピアニスト、アルフレッド・コルトーと、朝日会館には続々と著名音楽家がやって来る。
十河自身は館長として大音楽家たちとの交流を大いに楽しんでいたようである。公演の際のメ ニューインやコルトーなど二〇世紀を代表する音楽家たちとの交流の様子は『DEMOS』誌の 十河によるエッセイに記されており、 また十河が描いた彼らのスケッチも後に出版された著書 『あ の花この花―朝日会館に迎えた世界の芸術家百人』 (一九七七)に収められている。 Ⅲ 「画家」 ・十河巌と画家たち 十河巌の画歴 本論文冒頭に記したように晩年、十河巌の肩書は「画家」ないし「洋画家」であった。二科展 に何度も出品し、個展も三十回開いていた十河と美術との関わりは関西学院時代の絵画サークル 「弦月会」 での活動にさかのぼる。しかしその創作活動が新聞記者の余技の範囲を大きく超え、 「洋 画家」を称するまでになるのは、戦後になってからのことである。特に抽象画との関わりが本格 的にはじまるのは朝日会館館長時代のことであった。 十 河 は「 少 し 南 画 の 絵 心 の あ っ た 」 父 に よ り 小 学 校 一 年 生 の 時 に 京 都 の 日 本 画 家 の 内 弟 子 に 出 さ れ そ う に な っ た と い う。 画 才 が あ れ ば 養 子 に な る は ず だ っ た が、 「 見 込 み が な い 」 た め 内 弟 子にはならなかった 。その後、関西学院時代に絵画サークル「弦月会」に所属し、油絵を描きは じ め る。 「 油 絵 の け い こ を は じ め た の は 同 級 生 だ っ た 吉 原 治 良 君 の 影 響 に よ る と こ ろ が 大 き い 」 そうである。当時十河は吉原とともに芦屋の画家、上山二郎に師事していたという 。上山はパリ
で藤田嗣治と近しかった画家で、十河は吉原と共に上山を通じてヨーロッパ美術の最新情報を得 ていたと思われる。新聞記者になってからは「仕事の帰りに洋画研究所[引用者註:中之島洋画 研究所]をのぞいて裸婦のクロッキーをすることもあった」 そうで、夜勤の際は社会部のデスク で仕事の合間合間にスケッチをしていたという。日中戦争がはじまり、中国大陸に従軍した際は、 写真の代わりにスケッチを度々本社に送り、それが評判となり、帰国した際に、朝日ビルの画廊 で個展を開く。その後ジャワで終戦を迎え、帰国したのちは二年つづけて二科展にジャワを題材 とした作品を出品する。 ジャワから帰国して間もない一九四六年七月十六日に十河は日記に次のように記している。 「来 月 一 日 か ら す す め ら れ る ま ま に 二 科 へ 出 品 す る 絵 を 描 く の で 午 后 吉 原 君 を 訪 問 ア ト リ エ 使 用 方 を 頼 む。 快 く 引 き 受 け て く れ た。 」 十 河 が 二 科 展 に 出 品 す る 際、 彼 を 手 助 け し た の は、 す で に 一九三四年に二科展にデビューし、当時、二科会の関西支部代表を務めていた吉原治良であった と思われる。吉原はこの時期、関西の様々な前衛芸術運動を取りまとめ、一九四八年より芦屋市 美術協会、さらに一九五二年より現代美術懇談会(ゲンビ)を組織する。そうした活動はやがて 若い世代の芸術家たちを率いて一九五四年に結成され、間もなく欧米で高い評価を勝ち取る具体 美術協会に繋がっていく。いわば「具体」誕生前夜のこの時期、吉原は十河の率いる朝日会館と 多くの仕事を共にしている。
吉原治良と朝日会館 十河巌や朝比奈隆がそうであったように、 吉 よしはら 原 治 じ 良 ろう (一九〇五―一九七二)もまた戦前より朝 日会館との関わりが深かった。朝日会館の誕生二年後、一九二八年十一月に当時二十三歳の吉原 は朝日会館三階の展示場で初めての個展を開いた。一九三六年に大阪市立美術館が誕生する以前、 朝 日会 館 の 展 示場 は 大 阪に お け る「前 衛 絵 画の 発 信 地 」 と して 数 多 く の展 覧 会 を開 い て いた 。 吉 原との関わりで特に重要な展覧会は、一九三九年六月および一九四〇年四月に朝日会館で開かれ た九室会展であろう。九室会は二科展の第九室に集められた前衛的傾向の画家たちを中心とした 団体で、本来二科展に発表の場を持つ画家たちが、シュルレアリスムや抽象などの実験的な作品 を 発 表 す る。 吉 原 は 九 室 会 設 立 時 の メ ン バ ー の 一 人 で あ り、 東 京 に 続 い て 開 か れ た 朝 日 会 館 で の展覧会においても中心的な役割を果たした 。また第二回九室会展の直後より吉原は朝日会館発 行の雑誌『會舘藝術』の挿絵を担当するようになり、同誌の後継誌である『大阪文化』一九四四 年 一 月 ~ 三 月 号 の 表 紙 画 も 担 当 し て い る。 十 河 巌 が 一 九 四 六 年 秋 に 朝 日 会 館 館 長 に 就 任 し た 際、 吉 原 治 良 に 協 力 を 仰 い だ こ と は、 関 西 学 院 時 代 か ら の 十 河 と の 縁、 そ し て 朝 日 会 館 と の 縁 を 考 え る な ら ば 自 然 な こ と で あ っ た と 思 わ れ る。 朝 日 会 館 の 展 示 場 は す で に 戦 中 に 閉 じ ら れ て い た が、吉原は十河の編集する朝日会館発行の雑誌『会館文化』の一九四七年一月号の表紙を担当す る。 そ し て そ の 後 一 九 五 二 年 ま で、 吉 原 は 雑 誌 の 表 紙 画 を 二 十 五 号 分 も 担 当 す る[ 図 8] 。 ま た 一九四九年の「たそがれコンサート」や、一九五〇年のアメリカ博覧会を記念した「バレエ・ア メリカ」など朝日会館主催のバレエ公演の舞台美術も担当する。さらに朝日会館におけるオペラ
公演プログラムの表紙、一九五一年に新調された 朝日会館公演場の緞帳デザインを担当する [図9] など、十河時代の朝日会館のために多くの仕事を こなした。 吉原は当初必ずしも舞台美術の仕事には満足し ていなかった。前述の「バレエ・アメリカ」に参 加した際には、 「モダンアートの絵の面からバレー に協力することは、それが総合芸術としてだから、 自分の主義を貫くことができないで妥協せねばな ら ない 問 題 が 多か っ た 」 と 語っ て い る。 しか し 先 にも書いた通り、吉原はこれをきっかけに舞台美 術に関心を持つようになるのであった 。 『DEMOS』と画家たち よって十河の編集する朝日会館発行の雑誌『会 館文化』および『DEMOS』では、吉原自身お よび当時吉原と結びつきのあった画家たちの多く が 表 紙 画 や 挿 絵 を 担 当 し て い る。 吉 原 が 伊 藤 継 図8『DEMOS』1950 年4月号 表紙 (吉原治良) 図9 吉原治良のデザインによる朝日会館公演 場の緞帳 (関西学院大学博物館所蔵)
郎 ら と 一 九 四 八 年 に 立 ち 上 げ た 芦 屋 市 美 術 協 会 に 所 属 す る 井 上 覚 造、 山 本 敬 輔、 須 田 剋 太、 山 崎 隆 夫。 ま た 戦 前 よ り 吉 原 と 関 わ り の あ る 日 本 の 抽 象 絵 画 の 先 駆 者・ 長 谷 川 三 郎 も 表 紙 を 担 当 し た( 一 九 四 七 年 四 月 ~ 六 月 号 )。 長 谷 川 自 身 は ま も な く 関 東 に 移 住 す る が、 長 谷 川 ら に よ っ て 戦 前 に 設 立 さ れ た 自 由 美 術 家 協 会 お よ び 一 九 五 〇 年 に 同 協 会 か ら 独 立 す る 形 で 生 ま れ た モ ダ ン ア ー ト 協 会 の 村 井 正 誠、 朝 妻 治 郎、 荒 井 龍 男 ら も 表 紙 や 挿 絵 を 担 当 し て い る。 中 心 と な っ た の は い ず れ も 十 河、 吉 原 と 同 じ 世 代、 当 時 四 十 歳 前 後 で、 戦 前・ 戦 中 か ら 抽 象 美 術 に 関 心 を 持 っ て い た 画 家 た ち あ る。 そ し て 十 河 巌 自 身 が、 この時期に彼らに触発されてのことであろう、 抽象絵画を制作するようになる。十河が朝日 会館館長を退任する直前の一九五二年十一月、 吉原治良は現代美術懇談会(ゲンビ)を組織する。 十河はそこで例会の司会や展覧会の会場審査員をつとめるとともに 、 作家として「ゲンビ展」全 五回すべてに作品を出品している。 「洋画家」 ・ 十河巌の活動は、朝日会館館長としての活動を通 じて本格化するのである。以後、十河は晩年まで精力的に創作を続ける[図 10]。 Ⅳ 朝日会館館長退任後 一 九 五 三 年 一 月 に 十 河 は 朝 日 会 館 館 長 を 退 任 し、 同 年 八 月 よ り 大 阪 朝 日 新 聞 社 の 社 会 部 に 戻 [図 10]十河巌『プールの女性』(1976 年頃) (関西学院大学博物館所蔵)
る。朝日会館自体も一九五三年終わりに朝日ビルディングに移管され、以後は常設映画館として 運営される。朝日会館発行の雑誌『會舘藝術』 も一九五三年で廃刊となり、建物はまだ残ってい たが、朝日会館はその使命を終えたと言えるだろう。十河はその後、一九五九年に朝日新聞社を 定年退職し、同年、宣伝部嘱託という立場でサントリー(当時の社名は壽屋)での仕事がはじま る。のちに社長となる佐治敬三をトップに、 サントリー宣伝部は当時、 開高健や山口瞳など芥川賞、 直木賞を受賞する華々しい才能を擁した職場で、 宣伝部を取りまとめていたのは画家 ・ デザイナー の山崎隆夫であった。山崎は前述のとおり、一九五〇年前後に芦屋市美術協会やゲンビを通じて 吉 原 治 良 と 共 に 活 動 し て お り、 『 D E M O S 』 の 表 紙、 挿 絵 を 担 当 し た こ と も あ っ た。 十 河 を サ ントリーに迎えたのも山崎であった可能性は高い。その後、十河は神戸オリエンタルホテル顧問 として主に「美術PR」 の仕事をする。そして一九六一年四月から七月にかけてサントリーの派 遣によりヨーロッパの美術館視察の旅に出る。三ヶ月の間にヨーロッパ十三か国、三十の都市を 巡っており、各地の美術館や画廊を訪れ、時には美術関係者や作家と会い、ヨーロッパの現代美 術の現状や、美術館の運営手法、展示方法についての知見を深めた。視察の様子は翌一九六二年 三月から六三年九月にかけて雑誌『日本美術工藝』に掲載された十八回にわたる連載「私の見た 欧州」によって詳細に記されている 。 またサントリーやオリエンタルホテルでの仕事、画家としての創作活動と並び、この時期もう 一つ重要であったのが兵庫県立近代美術館建設運動である。十河は「神戸の文化をつくる会」の 創立に関わり、政治家や地元の教育委員会と折衝を重ねる。一九六五年、前兵庫県知事の阪本勝 を座長に美術館設立準備委員会が結成され、一九六七年には美術館の運営主体となる兵庫県芸術
文 化 協 会 が 設 立 さ れ、 一 九 七 〇 年、 か つ て 関 西 学 院 の キ ャ ン パ ス が あ っ た 原 田 の 森 に 村 野 藤 吾 に よ る 設 計 で 兵 庫 県 立 近 代 美 術 館( 現・ 兵 庫 県 立 美 術 館 分 館 原 田 の 森 ギ ャ ラ リ ー) が 誕 生 す る。 こ の 美 術 館 の 建 設 に 尽 力 す る こ と が、 元 朝 日 会 館 館 長、 「 文 化 活 動 の 推 進 」 に 尽 く し た 十 河 の 最 後 の大仕事であったと思われる。 Ⅴ まとめと今後の課題 サ ン ト リ ー や オ リ エ ン タ ル ホ テ ル で の 仕 事、 兵 庫 県 立 近 代 美 術 館 設 立 へ の 関 わ り の 詳 細 な ど、 朝 日 会 館 館 長 退 任 後 の 十 河 の 活 動 に つ い て、 現 段 階 で は そ の 全 貌 は ま だ 明 ら か で な い。 し か し こ こ ま で の 時 点 で「 画 家 」・ 十 河 巌 が、 い か な る 形 で 関 西 の「 文 化 活 動 の 推 進 」、 「 芸 術 文 化 の 普 及 」 に 尽 く し た の か に つ い て、 そ の 一 端 は 明 ら か に で き た の で は な い か と 思 わ れ る。 こ れ ら 以 外 に も、 十 河 の 遺 品 に は 演 劇 や オ ペ ラ、 ミ ュ ー ジ カ ル の 台 本 と 思 わ れ る も の が 複 数 存 在 し、 そ れ ら が 何 の 上 演 の た め の も の で あ っ た の か を 特 定 す る こ と が 必 要 で あ ろ う。 絵 を 描 き、 脚 本 や 詩 を 書 き、 新 聞 記 者 で 劇 場 経 営 者 で も あ っ た 十 河 厳 の 活 動 は、 「 画 家 」、 「 作 家 」、 「 経 営 者 」 と い っ た 今 日 私 た ち が 容 易 に イ メ ー ジ で き る 一 つ の 職 業 名 で 説 明 す る こ と が で き な い。 し か し 当 時 の 関 西 は 朝 比 奈 隆 の よ う に 元 阪 急 電 鉄 社 員 が オ ー ケ ス ト ラ の 指 揮 者 と な り、 吉 原 治 良 の よ う に 製 油 会 社 社 長 が 前 衛 美 術 を や っ て い た 時 代 で あ る。 朝 比 奈 は オ ー ケ ス ト ラ や オ ペ ラ 団 体 を、 吉 原 は 前 衛 美 術 グ ル ー プ を 組 織 し、 運 営 し、 彼 ら は 一 介 の 指 揮 者、 前 衛 美 術 家 の 枠 に 収 ま ら な い ダ イ ナ ミ ッ ク な 活 動 で 戦 後 の「 文 化 活 動 の 推 進 」 に 貢 献 し た。 そ し て 一 見、 交 わ り そ う に な い こ の 二 人 の 大 芸 術 家 の 交
差するところに存在していたのが十河巌であった。職業名や芸術ジャンルの区分に囚われず、そ の幅広い活動の総体を捉えていくことが求められているのであり、 「文化活動の推進者」 ・十河厳 とはまさにそういう視野のもとでこそ、その活動の重要さが理解される存在なのだと思われる。 【注】 (1) 『神戸新聞』 、一九八〇年十一月一日付。 (2)出典不明。関西学院大学博物館に所蔵されている十河巌の保管していた新聞紙切り抜きより。 ( 3) 朝 日 会 館 の 運 営 主 体 で あ る 大 阪 朝 日 新 聞 社 会 事 業 団 は 一 九 四 二 年 に 朝 日 新 聞 厚 生 事 業 団 に 改 組 さ れ、 一 九 四 九 年 よ り 朝 日 新 聞 文 化 事 業 団、 一 九 五 二 年 よ り 朝 日 新 聞 大 阪 厚 生 文 化 事 業 団 に 改 組 さ れ る。 し か し そ れ ぞ れ の 事 業 団 に お い て 朝 日 会 館 は 独 立 性 を 保 ち な が ら 活 動 を し て い た た め、 一 九 二 八 年 から一九五三年まで一貫して一つの組織が朝日会館を運営していたと考えてよいと思われる。 (4)大阪倶楽部『社団法人大阪倶楽部50年史』 、大阪倶楽部、一九六二年、六八頁。 大 阪 倶 楽 部 は 大 阪 の 財 界 人 を 中 心 と し た 社 交 ク ラ ブ で、 大 阪 市 中 央 区 に 現 存 す る 大 阪 倶 楽 部 会 館 を 所 持 し て い た が、 倶 楽 部 会 館 は 戦 中 帝 国 海 軍 に 徴 用 さ れ、 ま た 戦 後 は 進 駐 軍 に 接 収 さ れ た。 そ の た め 一 九 四 六 年 五 月 よ り か つ て 展 示 場 で あ っ た 朝 日 会 館 三 階 を 仮 会 館 と し、 一 九 五 二 年 ま で 使 用 し て いた。 (5)岡野宏「朝日新聞時代の十河巌」 、『関西学院史紀要』第二十六号、 二〇二〇年、 四三―六八頁、 四八頁。 (6)十河巌『あの花この花―朝日会館に迎えた世界の芸術家百人』中外書房、一九七七年、一二五頁。 ( 7) 岡 野「 朝 日 新 聞 時 代 の 十 河 巌 」、 五 七 ― 五 八 頁 。 ま た 本 論 文 執 筆 の 際 の 十 河 巌 の 戦 前・ 戦 中 の 朝 日 新聞社における経歴の詳細は、 二〇一四年二月二十二日に東京大学駒場キャンパスで開催された 「会 館芸術研究会」における岡野宏氏の口頭発表「朝日会館長としての十河巌」に基づいている。
( 8) 十 河 の 新 館 長 就 任 が 朝 日 会 館 二 十 周 年 の タ イ ミ ン グ に 合 わ せ ら れ た も の な の か に つ い て、 裏 付 け と なる資料は今のところない。 ( 9) 宮 崎 刀 史 紀「 文 化 政 策 へ の ま な ざ し ― 入 場 税 撤 廃 運 動 の 変 遷 と 意 義 ―」 、『 文 化 経 済 学 』 3( 3) 、 二〇〇三年、八九―九七頁、八九頁。 ( 10) 十 河 厳「 地 方 音 楽 会 の 聴 衆 と 組 織 化 の 実 態 」、 『 音 楽 芸 術 』 一 九 五 二 年 八 月 号、 四 八 ― 五 二 頁。 な お、 以下直接引用の際、旧字体は新字体に直して表記する。 ( 11)同、四八―四九頁。 ( 12)同、四九頁。 ( 13)同、五〇頁。 ( 14)ただしオペラ、バレエ公演では、たびたび一〇〇~二〇〇円の「特別会費」を取ることがあった。 ( 15)音楽評論家、 柴田仁によれば、 「巌本真理さんのリサイタルが、 五日六回の中、 五回はAGOT(朝 日 会 館 学 生 音 楽 友 の 会 ) な ど の 組 織 動 員 で つ ま っ た の だ が、 二 十 二 日 の 一 般 公 開 の 前 売 が、 三 百 そ こ そ こ し か 売 れ な か っ た と い う 有 様 」 で あ っ た と い う。 柴 田 仁「 関 西 楽 壇 時 評 」、 『 音 楽 芸 術 』 一九五三年一月号、八二頁。 ( 16)十河巌「地方音楽会」 、五一頁。 ( 17)「関西オペラグループの公演に際して」 、『DEMOS』一九五二年八月号、十三頁。 ( 18) 長 﨑 励 朗『 「 つ な が り 」 の 戦 後 文 化 誌 労 音、 そ し て 宝 塚、 万 博 』 河 出 書 房 新 社、 二 〇 一 三 年、 二〇―二四頁。 ( 19)岡野「朝日新聞時代の十河巌」 、四八―五一 頁 。 ( 20)以下を参照。十河厳「労働組合と文化運動」 、『月刊労働』一九五二年八月号、二―三、 六頁。 ( 21)「編集室より」 、『DEMOS』一九四九年四月号、十九頁。 ( 22)十河巌「労音が誕生するまで」 、朝尾直弘(編著) 『大阪労音十年史 勤労者芸術運動の一つの歩み』 、
大阪勤労者音楽協議会、一九六二年、三〇頁。 ( 23) 朝 比 奈 隆「 二 つ の 音 楽 の 家 」、 大 阪 音 楽 大 学 編『 大 阪 音 楽 界 の 思 い 出 』、 大 阪 音 楽 大 学、 一 九 七 五 年、 三八七―三九一頁、三九〇頁。 ( 24) 正 確 に は 朝 日 会 館 の 運 営 母 体 で あ る 大 阪 朝 日 新 聞 社 会 事 業 団 の 主 催 で あ る。 註 3 に あ る 通 り、 事 業 団 は た び た び 改 組 さ れ 名 称 を 変 え て い る が、 朝 日 会 館 は 一 貫 し た 組 織 に よ り 運 営 さ れ て い た と 考 え られる。そのため本論文では基本的に事業団主催の公演を「朝日会館主催」と表記する。 ( 25) 京 都 大 学 音 楽 部 創 立 5 0 周 年 記 念 委 員 会( 編 )『 京 都 大 学 音 楽 部 沿 革 史 』、 京 都 大 学 音 楽 部、 一九六七年、四〇頁。 ( 26)朝比奈「二つの音楽の家」 、三八九―三九〇頁。 ( 27)関西交響楽団設立の経緯については、様々な一次資料と共に以下の文献を参照した。 奥村武司『ミューズは大阪弁でやって来た』 、東方出版、一九九一年。 中丸美繪『オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆四つの試練』 、文芸春秋社、二〇〇八年。 ( 28)宝塚交響楽団および大阪中央放送局のオーケストラについては以下の文献を参照した。 根岸一美『ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団』 、大阪大学出版会、二〇一二年。 西村理「戦前 ・ 戦中におけるJOBKの放送オーケストラ―番組制作の観点から―」 、『大阪音楽大 学研究紀要』 ( 53)、二〇一五年、七―二二頁。 ( 29)「しかもできあがった関響のメンバーは実は戦前にさんざん交響楽運動で苦労したその当人たちだっ た の だ か ら、 歴 史 は 奇 だ。 ( 中 略 ) た し か に こ の 人 た ち は、 昔、 私 た ち と 一 緒 に メ ッ テ ル 先 生 の 指 揮 下 に い た こ ろ の「 む ら ぎ 」 が 抑 制 さ れ て、 ( 中 略 )、 音 楽 の 目 標 を も 堅 実 に つ か む 年 齢 と な っ た わ けだ。 」 長廣敏雄「関西交響楽団に望む」 、『DEMOS』一九五〇年四月号、二四―二七頁、二五頁。 ( 30)野口幸助「関響の現状」 、『音楽芸術』一九五四年四月号、五八―六一頁、五九頁。