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(1)

社会事業の本質に関する理論的研究――孝橋社会事 業論の「補充性 (代替性) 」規定をめぐって――

著者 阿部 重樹

雑誌名 経済研究年誌

号 5

ページ 27‑48

発行年 1981‑11‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024401/

(2)

社会事業の本質に関する 理 論 的

-

研 究

一 孝橋社会事業論の 「 補充性

(代書性) 」 規定をめぐって 一

阿  部  重  樹

・  次 l

間題の所在

2

a

一 a

授の社会事集の「補充性(代書国」の提定の概要 3

与国

m

技による批

H

と拿

m

技の反批判

4

社会1lll集の「補充性(代

e

国 」 提 定 の

a

f

開 5

結  び

1 .  間題の所在

我が国の社会事業理論更の教えるところによれば,  幸構正 一 教授の社会

事業評

)

が大河内 一 男教授の社会事業論を止揚したということは自明のこ と と さ れ て い る 。 そして戦後におけるいわゆる 「 政策論的 」 社会事業論

'

の系始に属する諸研究は多少とも幸構理論を足場としながら展開されてき たo

)

。  しかしその反面,  拳橋理驗がいかなる点でどのように大河内社会事 業識を止場したかについてはその意味するところは必ずしも十分に明らか

にされているとはいい離い

'

)

。  もし大河内社会事業論のいかなる点がど の

ように批判的に克服されたのかが十分に究明せられていないとするならば

.

1

事積理識が大河内社会事業體を止揚したと果していい切れるであろうかと

い う

5t 間が提起されることとなろうo

)

従つて, 

少なくとも大河内社会事業論が孝精理論によって止揚されたと

するためには

いかなる点においてどのように止場されたかが明らかにさ

れなければならないはずである 。  - そして孝積理論が社会事業の本質として

27

-

(3)

社会事集の本費に関する理選l的研究

資本制経済の論理構造から解明したものが何であったのかを改めて明確に 提えなぉす理由がここにある 。

以上のような間題意識のもとに,  本稿は孝橋教授の社会事業の「

補充性

(代替性)」 規定に関して 一 つの理論的検討を試みるものである 。 

こ こ で 社

会事業の「 補充性(代替性) 」 規定をその課題としてとりあげることの理 由は, 「 社会事業の補充性,したがって社会政策の限界を認識 ・ 承認する か ど う か ,   この事実を言定することを前提として .  それをどのように理解

するかが, 

社会事業の本質に迫ることができるかどうかの決定的在所C)

であると幸橋教授も説かれているように,  社会事業の 「 補充性(代替性)」

規定が孝精理論の理論的支柱をなすものであると考えられ得るからであ

る o

さて幸橋教授の社会事業の 「 補充性(代替性)」

現定については

.

従来

より故与国極教授をはじめ富国和明助教授等の研究者によってそれぞれの 間題意識と分析視点からすでにいく っ かの批判的検討が試みられており, 反批判もまた孝橋教授,  三塚武男教授によってなされている '

)

。  しかし今 日まで孝精, 

三塚教授による反批判は'

,  十分に説得性をもった反論となっ

ているようには思われない8

'

本稿は以上のような社会事業の本質に関する諾研究をふまえたうえで, 特に孝橋教授の社会事業の 「 補充性(代書性)」 報定の論理体系にそくし た考究を通じで,  まさに幸橋教授の説かれる社会事業の 「 補充性(代替 性)」がどのように理論的に理解されるのかを .  すなわちその論理のうち

にある間題点を明らかにすることに直接的な課題がある

。  前述したよう

,  それは孝:l西理論が社会事業の本質についてそれが組つて立つ資本制社

会の経済的機構との関速において把握したものがどのような意義をも

っ も のであ

たのかを改めて検討することでもあるからに他ならないo

)

-

28

-

(4)

社会事集の本能関する理

e

的研究 3

2.  孝橋正 一 教授の社会事第の  補充性(代普性 ) 規定

の概要

まず社会事業の 「 補充性(代替性)」 規定について孝橋教授の説くとこ ろ を き こ う 。

「 もしも社会政策の十全な貢做が行なわれるものと仮定するなら,そこ ではおそらく社会事業による補充を必要としないであろうが,  現実は逆に 社会事業による補充を必要とするほど社会政策は十全な貢做を行なうこと

ができない1

o

)

」。「 もし資本主義制度のもとにおいて … ・・・労 m 力の価値が .

その価値どぉりに支払われて・ ' … ・労国力の再生産が順当に保障せられるも のと仮定するなら . 

要するに社会政策が十全に'

度徹されると仮定するな ら .  おそらく理論的極限においては社会事業の必要性は消減するであろ

。  しかしながらこの仮定が理論的夢想に等しいとすれ

一 な '

l

i なら社 会政策の限界は理論的および現実的に明らかに存在するものだからであ

一 社会政策の限界そのものから, 

直接的にそれを補充する社会的施策

としての社会事業をよびさまn

)

す こ と に な る

また,  「 社会政策の限界性は 一 いま社会政策がその理論的限界まで到

達しているものと仮定すれば一 そ こ か ら さ ま ざ ま の 方 法 と 形 式 に よ る 社

会事業の補充をよびさます '

二)

」  のであるが .  その理論的合理性の要求か ら は , け っ し て そ れ

への代替性を意味するものではないl3)

」。

こ こ で

「 社

会政策

の 社 会 事 業 の 代 替 ( ま た は 代 位 ) と は

. 社会政策がその最終的な 理論的限界点に到達する以前の段階において . 

社会政策をもって当然に対

処すぺきはずの(この分析にいう意味での) 社会間題" ''

) に 対 し て , 代

替的に社会事業がそれに対応する場合をさしている

l

o

)

」。

ところでこの社会事業の  「 補充性(代替性) -

29

- 」 現定に関して,  孝精教授

(5)

は 

「 社会政策の限界性 」  の説明を加えながらまた別に次のようにいわれ る 。 いま少し孝構教授の社会事業の「補充性(代替性) 」 ̲ i

定 を み る こ と

に し よ う o

「 社会政策の限界性については理論的承認を得ているところであるが,

それは平均利潤率の限界l

o ' でのみ

独占資本主義段階においても独占部 門間における利酒率の均等化個向は貢かれる

一 社会政策は実現するもの であり . 

同時に社会政策費に対する産業員担軽減

へ の資本の志向を意味す

。 それは具体的 ・ 実践的には, 一 定の利潤率の壁にはばまれて社会政策 はそれ以上伸びる :

;1

とができず,  その限界内でさらに通用爾國,  規定条 件,給付内容の限界とその強化となってあらわれる 。

このことのために,

…… 社会政策がもともとそれに対応しない社会的間題 一

それにはほ

ん ら い社会事業が対応する 一 に関してはいうまでもないことながら .  それが

ほんらい自分自身の課題として対応しなければならないはずの社会間 題 '

'

'

)

」 を 「 社会事業の領城に委ねるという事態を生ずる 。 …… 前者に対応

して存在する社会事業の性格を社会事業の補充性 .  後者のそれを代替性と

よ . 9 :

l 0 )

o

かくて孝構教授は社会事業の  「 補充性  (代替性)」  規定を配識 ・ 理解す

ることの重要性について次のように説かれる

こうして社会的方策施設の

一 つとしての社会事業の構造的合日的性が

論 証 さ れ る と と も に ,  

その本質はまさにここに存しているものとみなけれ ば な ら な い(

o

)

」 のであり .  社会事業の本質を正しく理論的に規定するこ

と に よ っ て

その補充性と代替性とを混同してはならないということであ

り .  社会政策と社会事業との体系的関係における正しい位置づけこそ, 

社 会的諾間題

へ の社会的対応を構造的に合日的化するものである -

30

-

2

o

)

」  と 。

(6)

基本的には以上のように理解される孝橋教授の社会事業の  「 補充性  ( 代 書性)」 

規定についてはすでに従来から多くの疑間や批判が提示されてき

て い る a

)

。 しかしいまここにそれら疑間 ・ 批判のすべてを紹介 ・ 検討する ゆとりをもちえないので(またその必要もないと思われるが),以下にお いては本稿と係わる限りで故与国極教授による批判と幸橋教授の反批判を とりあげて整理・ 紹介し . 0t せて若千の私見を加えることにする 。

3 .  与

国 

枉教授による批判と孝橋教授の反批判

すでに故人となられた与田極教授は,論文 「

社会政策

社会事業

一 幸 積正 一

氏著

f 社会事業の基本間題』をめぐって 一

u)

」 に お い て 大 河 内 教授の社会事業論と対比されながら孝橋社会事業論の理論体系全般にわた

って詳細な検討をされており

社会事業の 補充性(代替性) 」  規定に対

しても批判を加えられた 。 後 述 す る 「 社会事業の『補充性(代替性)』規 定の論理批判 」 は,この与田教授の「 社会事業の補充性 」 批判とそれ へ の 拳構教授による反批判に関する積極的な批判的検討を中心として展開され

る こ と に な る の で

.  とりあえず与田教授の「社会事業の補充性 」 批判と孝 橋教授による反批判とを簡単に要約しよう 。

さて与国教授は,  「

m

者階級の関争に対する破歩として本来ならば当

然社会政策という形態をとって結実すべきものが .  組々の事情 …… のため

に社会事業という誤魔化しの形態として生まれたものであると考えa ' 」  ら

れるという視点に立つ

て,  社会事業の 「 代替性 」

については孝橋教授の論 理のうちにその理論的根批を容易に配めることが出来ると説かれた

。  しか

し既にみてきたように孝橋教授の社会事業の

「 補充性(代替性)」

親定に

よれば,  「

社会政策

˜、 の代替物としての社会事業はその本来的要ではなく ,

社会事業の本質は社会政策

への補充という点に

2

' ' 」  こそあったはずであ

り .

従つて社会事業の

補充性

規定が階般関争と理論的に

「 どのよl 1

l に 係わり合うのか我々には理解出来ないu)

」 

という疑間を与国教授は提起さ れた

。 幸橋教授の社会事業の「補充性(代替性)」理定においてはその「 -

3 l

-

(7)

替性 」  の論理に比べて,  孝: ll l 教授が社会事業の本質として説かれる社会事 業の 「

補充性

」 現定の論理は理論的に少なからず不明確であり,華精教授 の銀述のうちにも社会事業と階般関争との関連についての指摘 a

)

を見出す ことが出来るのであるが,以上のことから 「 必要なことは,階級関争とい

うことばを無媒介的に挿入することではなく,  社会政策と社会事業と階級

関争との関速を .  より論理的に究明することでなければならない

'

a

)

」 と与

国教授は批判された

次に,与国教授の

「 社会事業の補充性 」 批判に対する幸橋教授の反批判

を み よ う

孝構教授は .  社会政策が  「理論的限界 に到達したと仮定してさえなぉ

「 資本主義社会がその持'のなかに未解決のまま残されている社会的諾間題 の,

28)

-  領城をもっているとすれば …… この制度の構造的論理の必然とし て,  いいかえると資本主義社会の維持存続を前提としそれを確保 一;

'る た め に

. 社会政策以外の方法でこの制度の欠陷から生ずる間題を . 制度それ自

身として自己処理と対応が可能であり,  また必要であることを頭示する必 要にせまられるという論理が成立するはずである

9

o

)

」  と説かれ .  それが教

授のいう社会事業の 「

:

前充性 」 であると強調する 。  また社会事業の

代替

性 」 

については

社会政策の理論的限界と実際的限界との間に生ずる問 題領域 へ の社会事業の対応 一 それは本来,  社会政策をも

て対応す ぺ き 論理的必然性をもっている 一 のことを指しているのである

3

o

)

」  と説かれ たうえで,

さ ら に

「 この追加的説明をも , て し て も , 氏 ( 与 国 教 授 一

引用

者 )  はなぉ社会事業の代替性のみを承認し,  補充性を否定されるのであろ

う か

。  この点について氏の反批判を待ちたいn

)

」  と反論された 。

しかし孝橋教授の反批判は,与国教授の批判が社会事業の 「

補 充 性 ( 代 替性)

規定にとって従来の多くの批判の中でも最

t

大きな影響を与えた

批判となったu

)にもかかわらず, 

既に前節の  「 拳橋正 一 教授の社会事業の

f 補充性(代替性)」 現定の概要 」

に お い て み て き た と こ ろ か ら も 明 ら か な よ う に

.  与国教授の提起された疑間 - ・

32批判に対する直接的な解答を与えら

-

(8)

杜会事案の本費に関する理發的研究  7

れ る か わ り に,孝橋教授自身の理論的立場の再確認,教授の社会事業の

充性  (代替性) 」 

規定の再説に止まっているにすぎないと考えられる

前述したように本節においては問題点を指摘するにとどめ, 

その詳細な

検討は後節の

社会事業の『補充性(代替性)』規定の論理批判

」 の課題

と す る

4.  社会事業の  「 補充性(代替性) 」 規定の體理批判

幸橋教授は与田教授の批判に対して前掲 『社会科学と社会事業』 に お い て反批判をされるに際して

,

社会事業の

「 補充性(代替性)」 規定の要点を その 「

構想の図式

」 と と も に 提 示 さ れ た ( 図 表一I)。以下においては , 李 橋

教授自身による社会

!基i業の 「 補 充 性 ( 代 替 性 ) 」 規定の要約と 「 構想の図

つの手掛りとしながら,載極的な批判的検討の展開を試みよう

華橋教授は 

「 構想の図式 」

を示し,  「

資本主義はこの制 度の構造的必然として社会的

諸 問 題 ( S p s = △ 0 A B ) を 生

み お と す3 3 )

」のであるが,

こ こ で

もし資本主義のもとに おいて

……

労的力の価値が,

その価値どおりに支払われて

……

労働力の再生産が順当に 保障せられるものと仮定する な ら

要するに社会政策が十

全に貢徹されると仮定するな ら , お そ ら く 理 論 的 極 限 に お いては社会事業の必要性は消

減す

.

るであろう。」

し か し こ の仮定は

理論的夢想

に 等

図表

社会事業の組充性と代替性との 関係図表

A

B

AOAB

=

SiB

C

社会的

tf

関 国l

△0GB

=

:Sp

,

(杜会間画::::杜会の基自的

・ -

本119

t

M )

△0GA

= Spf

'(

;

社会的間題:

=

社会における四係的 設 的B

m

)

a

OG 社会政策の理的的限界

m

(yG

杜会

m

の実際的限界

△0GA

=

Sp19に対応する杜会事集の続院性個域

△0GB

=

SPaに対応する社会政策の理

B

的領域 口 0 ( ) lC'G

-

Sll

,

l1

に対応する社会事業の代管性

m

(出所:華橋・前掲「社会科学と社会事 集 j , p

.

209

.

)

-

33

-

(9)

し い こ と か ら   「 社会政策の限界そのものから,  直按的にそれを補充する社 会的施策としての社会事業 」

が よ び さ ま さ れ る こ と に な る ,  

と説かれる 。

以上のように社会政策の十全な貢徹が行なわれ得るものと仮定するなら, 社会政策 へ の社会事業の補充は必要ではないが .  しかし社会事業による補 充が必要であるほど社会政策は十全な :e t 1 故を行なうことが出来ない 。そし

社会政策が十全に

;

買做される

」 のは社会政策発展の「理論的極限 」

おいてでありu

)

,  また労働力の価値がその価値どぉり支払われるいわゆる

m 力の価値貢が

)

」  を意味するものと考えられ, 

従つてそこでは労

m

力の再生産が順当に保障せられるのであるから .  論理的帰結として社会事 業の必要性は消減することとなる 。 以上の点は図表一Iの点Aによって示さ

れ よ う o

さらにすすんで次の疑問点  (I)  について論究しよう 。

「 社会政策が十全に貢徹されるなら …… 社会事業の必要性 」  (

e

社会事業 の 「 補充性 」 ) が 消 減 す る の で あ る か ら , △ 0 G A = S ? に対応する社会

業の補充性領域にも社会政策が対応する:u) こ と に な り

,  この△0GA=Spl e

もまた本来社会政策が対応しなければならないはずの領域となり,  幸細教 授が 「 補充性 」  と呼ぶところの領域はその実は社会事業の代替性領域とな

。 

従つて

.  既にみてきた与国教授による批判に対する拳橋教授の反批判

に示された

「 追加的説明をもってしても 」 なぉ社会事業の 「

代替性

」 のみ が承認され,その 「 補充性 」 が否定されることになり,与国教授の 「 社会 事業の

:

前充性 」

批判は

日なぉ有効であると考えられ得る

ところで拳橋教授がさきの社会事業の  「

補充性(代替性)

」 規定の要約

において

.  引 き 続 き 説 か れ て い る と こ ろ を き こ う 。

「 社会的諾間題 < △0AB=Sps >

の総てを対策的におおうことのできる

社会政策を想定することは夢想にすぎないので 一 なぜなら, 

社会政策に

は限界く直線0 G >

が存在する

社会政策は

< △0AB> のうちく△0GB>

の部分である社会間題くSp

ll

> にのみ対応し,残された部分 -

34

- < △0GA >

(10)

杜会事集の本

に関する理El的研究

社会病理間題  (社会的間題 <Sp

l

e > )  としての取扱いをうけ .  社会事業が補

充的にそれに対応するということ …… 社会事業の補充性とはこのことを意 味する

3'

' '

われわれはこれまでの社会事業の  「

補充性 

(代替性) 」 

規定に関する検 討において 

社会政策が十全に貢徹される

」 .  点Aを社会政策の  理論的

限界

」 ( =

社会政策の

「理論的極限 」 ) と 理 解 し た

38)

のであ

たが,幸橋教 授がまた以上のように説かれる時, 

こ こ に

i l i i : i 社会政策の  「 理論的限

直 線 〇 (

i が 登 場 し て く る 。 そこでもし 「 社会政策が十全に貢做され

」 点を,この社会政策の 「理論的限界 」 直 線 0 G と考えると , さきに提

起された疑間点(I)は解決されることになるかもしれない 。  しかしこのよ うな論点に立つと,「

社会政策が十全に貢徹される

」 と仮定しても,「

社会

事業の必要性 」 (=社会事業の 「

補充性

」 ) は 消 減 し な い と

'

)

i i i :

l

i t

点 ( I I ) が 生 ず る こ と に な る 。

それでは何故華橋教授はこのように説かれなかったのであろうか 。  そこ での課題は,疑間点(I)において示されたように <「 社会政策が十全に貢 徹される 」

a

社会政策の 「理論的限界 」=点A> と理解すべきか . あるいは

展間点( n

) に お け る よ う に

<「社会政策が十全に貢徹される 」 =社会政策の

「理論的限界」=直線〇G >  と理解すべきなのかという点にある 。

ところで上記の課題において

まず第

<「社会政策が十全に貢微さ れる 」 =社会政策の 「理論的限界 」>

という前半の等記号で結ばれる部分

に対しては, 

当然のことながら孝橋教授の反論が予想される

。  その理由

は,例えば教授は

社会政策が十全に貢做される

」 と 仮 定 す る な ら , 「

会事業の必要性は消減するであろう 」  と 脱 か れ て お り .  また図表

I に お

い て 示 さ れ る i う に 直 線 0 G が 社 会 政 策 の 「 理論的限界 」 を . そして

△〇GA が社会事業の補充性領域を表わすものであると理解されている 。

て幸橋教授の説くところに従えば ,  <「 社会政照が十全に貢徹される 」

キ社会政策の

理論的限界

」 ) で な け れ ば な ら な く な る か ら で あ る 。 し か

しこの論理が成立し得ないことは既に本稿注 -

35

-

34) において驗証済みであ

(11)

10 社会事集の本

に関する理

a

的研究

る 。 そこでこの幸

;

f S 教授の論理が成立し得ないということ , すなわち <「 社 会政策が十全に :

貢徹される

」 =

:

社会政策の 「 理論的限界 」> とする理解が ,

社会事業の 「 補充性(代替性)」 規定の論理においてどのような意味をも つことになるのかについて .  次に若干の整理をしておく必要があろう 。

幸積教授は  「 社会政策が十全に貢徹される 」  と仮定された場合には  「 社 会事業の必要性 」 (=社会事業の「

補充性

」)は消減すると説かれる 一 方, 社会政策の発展が  「 理論的限界 」  まで到達していると仮定された場合には そこに社会事業の  「 補充性 」 がよびさまされるとも説かれる 。 既に以上の

検討からわれわれは

<「社会政策が十全に貢做される 」=社会政策の 「 理

論的限界

」>  という結論を得ており, 

- , て社会政策の 「理論的限界

おいて

一 方では社会事業の 「 補充性 」 が消減し,また他方においては社会 事業の 「 補充性 」 がよびさまされるという社会事業の 「 補充性(代替性) 」

規定における論理的不整合性が指摘されることになる

ここにさらに間題となる点が,  社会政策の 「理論的限界 」 を点Aと理解 すぺきか,  あるいは直線0G と理解すべきかという既に提示した課題で ある 。 それは, 「

社会政策が十全に貢徹される

と い う 仮 定 の も と に お い

て,あるいは社会政策が 「理論的限界 」 まで発展しているという仮定のも とにおいて,  社会事業の 「

補充性

」 が消減するか否かという間題に他なら

ないo

さてこの課題を検討するにあたって .  まず孝検教授の理解される社会政

策 論 を み よ う

社会政策は,資本による労国力の価値収率とそれに対する労国者の組

識的抗抗に関する国家としての機能をはたすものであるが ……

ただ社会政 策 に よ っ て 労

fll 力の価値どぉりの賃金の支払 へ の接近がこころみられ, 

動力の選用(価値収率)が緩和されるだけである 。 しかも現実の資本主義

社会においては

……

つねに労動力の価値 

(価格)  の価値以下 へ の切り下

:

o '

が行なわれており

……

社会政策は

-

36

,  -

いわゆる社会政策の限界にもとづ

(12)

li

いて,  労動力の価値収率をある程度報和する機能を果たすであろうが,  そ れを十全に貢做していくことができない事情のもとにおかれている 。  ……

もしも労費関係の場面で社会政策が資本による労国力の価値収率を十全に 封設することができ,  一 定の展史的 ・

社会的水準において貿金労動の生

産 ・ 再生産が可能なほど充分に費金が保障されるという仮定をたてるな ら,労動者(とその家族)における生活上の社会的必要の欠乏(社会的障 書)状態が生ずることはないであろう

o ' 」。

以上の引用からも明らかなように,孝橋教授の社会政策論から理解され る社会政策の 「 理論的限界 」

はいわゆる

m カの価値の貢徹点 」 を意味 する

●l)

。  そして李橋教授自身も 「

費本の利潤欲は

現実には社会政策を

この理論的限界に到達するまでに発展させることはありえず .  逆にたえず

社会政策費の切り下げの方向にむかって強力に作用する 。  しかしまた当然

. m

i!!

l 動の圧力は,すくなくとも社会政策をその理論的限界まで押上 げょ う と す る 。  こうして社会政策の実際においては,労資の力のパランス

によってその限界が位置づけられる4り

」  と述べているように,  社会政策の

実際的限界

」 が,労働力の価値を上限とするその 「理論的限界 」

内にお いて資本家階級と労働者階設との関争によって

那力的に, 

伸統的に

実的に決定されるのであるo '

その際教授が 「

m

過程a価値増描過程それ自身によって孕まれ, 

それ を労 ・ ・ ・ ・ m 者が担うよう運命づけられ .  労資関係の場面で直接的に生ずる課題 を社会間題(修点原文) 

と言い

,  それを起点ならびに基点として同時的 ・

自己同 一

的に生起する

一 あるいはそれがあることによって . 

そ こ か ら 関

係的に派生する 一 消費生活の場面に生ずる課題を社会的間題(特点原文)

と呼ぶなら

……

社会間題に対しては社会政策が

社会的間題に対しては社

会事業(社会事業政策を含む)がそれぞれ対策体系として照応 ・ 対応する

ものである

)

」  と説かれている点を行せて考える時,  われわれは以下のよ -

37

-

(13)

l 2 社会事集の本費に関する理

a

的研究

うな結論を  「 社会事業の  「 補充性  (代替性)』 規定の論理批判 」 

に関する

検討結果として示し得よう 。

われわれはまず  「

社会政策が十全に貢敬される

」  とぃう幸橋教授の仮定 が,  社会政策の発展が 「理論的限界」まで到達していることを意味するも

のであるという理解を得た

。  そこで以上のことから率橋教授の社会事業の

「 補充性(代替性)」

規定においては,社会政策がその

理論的限界

」 ま で発展し . 労的力の価値資徹が行なわれて,労的力の価値(価格)がその 価値どぉり支払われ, 

m

力の再生産が保障されるならば

そこでは社

会事業の対象である 「 社会生活上の社会的必要の欠乏(社会的障害)状

: 態

'l

u

i)

」 は関係的に派生され得ないのである

4

o

)

。  このことが意味するところ

. まさしく字義の通り,社会政策の発展がその 「理論的限界 」 まで到達 していると仮定する場合, 

消減するのが社会政策

への社会事業の代替性領

口0〇 'G'Gであることを示していることに他ならなぃ。 すなわち 「 社会 政策が十全に貢敬される 」  と仮定しても,  社会事業の補充性領城△0

(

i A

は消減しない

従つて図表

一 I

に 示 さ れ る よ う に , 社 会 政 策 の

「理論的限

」 は直線0Gと理解され,われわれは与国教授の 「

社会事業の補充性

批判の結論にも同意し得ない

と こ ろ で ,  以上の検討から孝橋教授の社会事業の 「 補充性(代替性) 」

規定においては社会政策がその 

理論的限界

」  まで発展していると仮定す る場合 . 幸相教授の説かれる社会事業の対象である 「 社会生活上の社会的 必要の欠乏(社会的陣書)状態」=「社会的間題 」

が関係的に派生され得な

いのであるから

,

社会事業の 「 補充性 」 △〇GA = S

lp

p は消減するこ と

なる 。  そこで残された間題としてわれわれの検討において,  社会政策がそ の 「理論的限界 」 まで到達していると仮定しても, 

なぉそこに消減せずに

未解決のまま残される 「 社会的間題」△0GA=S f

と は ど の よ う な 社 会

的驟題なのかを明らかにしておかなければならないであろう 。

周知のように大河内教授は労働力保全説として理解される教授の社会政

策論の論理から,その識理的帰結として,社会事業の対象を -

38

- 「

経済秩序外

(14)

社会事集の本

に関する理

e

的研売 l 3 的存在

」 = 非 労 fll 力と規定された

'

)

。 そしてまた当然にこの大河内理論の 論理をもってしては,  非労動カを対象とする社会的施策としての社会事 業の成立の根 l l , に関する論理を展開することは不可能である 。 実 際 , わ れわれは大河内教授の社会事業論にその成立の根 n に関する a . 述を見出す

ことが出来ない'u

' 。 

しかし孝構社会事業論においては労的力保全説により

ながら社会事業の成立の根組に関する論理の展開が可能となっているo

)

既にわれわれは孝橋教授の説かれる社会事業の  「 補充性 」  も,  そしてまた 社会事業の 「

代替性

」 も と も に 労 m 力の価値(価格)の価値以下 への切り 下げによって直按的生産過程から,  消費生活過程において関係的に派生す る こ と を み て き た 。  すなわち, 

大河内社会事業論では不可能であった社会

的施策としての社会事業の成立の根沈に関する論理の展開を孝構理論では

可能とす.るために

,  幸橋理論における社会事業の対象はどうしても労 m

・ 労的力に限定されなくてはならなかったのである

5

o

)

。 

こ こ に 労

m 力の

価値が社会政策をもって十全に貢徹され得る社会政策の  「 理論的限界 」  ま で社会政策が発展している場合, 

解決されることになるのは孝橋教授の説

かれる社会政策の対象としての 「 社会間題 」 であり,すなわち社会政策の

理論的限界

において消減するのが社会政策

への社会事業の 「

代書性

」 と なることはもはや説明を要しないであろうa

)

従つ

て,  社会政策の発展が その 「理論的限界 」 まで達しているとしてもなぉそこに残される  「

社会的

間題 」  こそ, 

大河内教授が社会事業の対象として規定された非労的力用に 係る

「 社会的問題 」 で あ る こ と が 明 ら か と な る 。 大河内教授の社会事業の 対象現定は,  「

社会政策における経済的

・ 生産的視点にたつ対応の性格と ,

社会事業における非経的視点をもふくむ対応の性格の相違の指摘

6a)

」 (修点

引 用 者 ) で あ る と 考 え ら れ , この相違のゆえにこそ , 「

労国l

力重視の資本主

義的対応のもとでのu

)

社会政策

へ の社会事業の補充という,  社会事業の

位置づけが可能となる 。 以上の点に関して,大河内教授が 「

資本主義経済

の再生産機構の中で占める位置に注日して,  (社会政策と社会事業の) 

対象

を区別する基準とした 」  こ と の 遍全南 - u 重要性が理解されることになろうo - '

)o

(15)

l1l 社金事集の本1置に関する理

= t

的研究

かくて社会事業の  「

補充性

」  の論理は, 

社会政策との共通性においてで は な く , 独 立 に

.

資本制社会の構造的論理として,社会的施策としての社 社会事業の成立の根初を論証するものでなければならない

5 .  結 

本稿は, 

既に自明のこととされている孝橘理論が大河内教授の社会事業 論を止揚したとする評価

への疑間, 

すなわちそのような評価が否定される とするならば幸橋理論が資本制社会の経済的機構との関連において把握し

たものがどのような意義をもっものであったのか . 

そ し て ま た 孝;

橋理論が

資本制経済の論理構造から社会事業の本質として解明したものは何であっ たのかという二つの間題意識のもとに

孝橘教授の説かれた社会事業の

補充性(代替性)

規定の論理の批判的検討を直接的課題としても

っ も のであ - ,

。  以上の二つの問題意識に対してこれまでの検討を通じて得ら

れた結論を,改めて整理し,本稿の結びにかえたい

一 の問題意識, 

すなわち果して孝橋理論は大河内社会事業論を止揚し た の か と い う 疑 間 に 関 し て は

以上の検討からわれわれは必ずしも孝橋理 論が大河内社会事業論を止揚したとはいえないという理解をせざるを得な

い o

周知のよ うに労動力保全説として理解される大河内社会政策論から導き 出される社会事業の対象が非労画力となることは

当然の論理的帰結であ る

。 

そしてこの労国力保全説としての社会政策論の論理をもってしては, 非労国l

力を対象とする社会的施策としての社会事業の成立の根拠に関する

説明可能な論理は求められるべくもない

。 

大河内教授は

自分でずっとや ってきた社会政策論の

つ の ア プ リ ケ ー シ ョ ン と し てaS)

社会事業の本質 論 を 吟 味 さ れ た こ と か ら も

,  非労 m

力を対象とする社会的施策としての社 会事業の資本制社会における成立の根拠に関する新たな理論を構築される 必要性も認められなかったであろうし

,  その対象を  「

経済秩序外的存在

= 非労 m 力として現定されるだけで十分であったと考えられる -

40

- 。 

従つて実

(16)

l 5

際,われわれは大河内教授の社会事業論に社会事業の成立の根

l a

に関する

論理を見出すことが出来ない 。 

然るに幸橋理論では

労的力保全説により

ながら資本制社会の経済的換構との関連において社会事業の成立の根出に 関する論理が展開されている 。

と こ ろ で

般的には幸橋理論は

その対象論において大河内社会事業論

を批判的に克服したと評価されているように思われるoo

)

。  しかしもし孝橋 理論が大河内社会事業論を止場したとするならば .  それは新たに資本制社

会における社会的施策としての社会事業の成立の根觀に関する論理を展開 したという点においてこそより評価されるべきかもしれない 。 

だ が こ こ に 何故大河内社会事業論において不可能であった労働カ保全説による社会事

業の成立の根拉に関する論理の展開が .  孝橋理論では

i

i l f iとなったのか .

という疑間が生ずる

。 この展間点は,前節の 「 社 会 事 業 の 開 充 性 ( 代 書 性) 」 規定の論理批判 」

におけるわれわれの検討において既に解決されて いる

。 すなわち,幸橋教授が社会事業の 「 補充性 」 として展開された論理

その実社会事業の

代替性

に関する論理に他ならなかったからであ

る o

そして .  孝橋理論が社会事業の本質として資本制経済の論理構造から把 握したものは何であったのか .  というわれわれの第二の間題意識に対する

結論もこの点にある

。 

大河内教授が教授の社会事業論において指摘するに

止まった社会政策 への社会事業の「

代位

」 

と い う  

「 社会事業と社会政策の

関係

」 を,拳橋教授は社会事業の 「 補充性(代替性)」

現 定 と し て 被 密 に

その理論的体系化を計られたと理解される 。  すなわちこの社会事業の  「

替性 」 境定の論理が,幸橋理論において社会事業の本質として資本制社会 の経済的機構との関速で解明されたものなのである 。

従つて以上のことから,  拳橋理論においては社会事業の対象である 

会的間題 」 の 一

部がとりあげられているにすぎず

こ こ に 残 さ れ る

社会

的間題 」 

こそ本来の社会事業の対象である非労

m

力層に関する問題に他な

らないと理解される 。  -

41

-

(17)

16 社会11ll業の本實に関する理お的研究

われわれが大河内社会事業論を真に批判的に克服するためには,資本制 経済の論理櫛造との関連において非労働力を対象とする社会的施策として の社会事業の論理が解明されるのでなければならず,  そ こ に 把 握 さ れ る 論 理こそわれわれの理解する社会事業の 

「 補充性」 

の論理なのである

孝橋理論について検討されなけれは'な ら な い 問 題 点 は な ぉ 少 な く な い と 思われるが,社会事業を

「 一

つの歴史的・社会的存在67)

」 と し て 捉 え .

本制社会における 

生成の必然と存在の理由5 8 )

を資本制社会によって規 定 せ ら れ る も の と し て 指 摘 さ れ ,  社会的施策としての社会事業の「

代替性」

に関する資本制社会における論理を解明されたことの意義は, 社会事業の

理論的研究を深める上できゎめて大きぃと考えられる 。 

そこで奉橋教授の 功 績 を 生 か し て , 社 会 事 業 の 本 質 を よ り 深 く 把 握 し よ う と す れ ば ,   さ ら に 根本的に検討されなければならない残された課題は社会事業の 

補充性

の論理の解明であり,  それは社会政策との共通性においてではなく, 

独立 に, 

資本制経済における構造的論理として展開されるものでなければなら ず,  この検討こそが社会事業の本質把握のために残された重要な課題であ る と い わ な け れ ば な ら な い 5

o1。

〔注〕

1)  近年社会福祉に関する研究はきゎめて多岐にわたってなされているが

そこでの 社会福祉, 社会福祉事薬,  社会事菜という三つの用騒の使い方について◆tきゎめて 暖味である。孝概教授は意識的に

貢して 「社会lil業

」 

という用晤を使用されてお り, 本描ではさしあたり拳橋教授の用語法に従うことにする。それらの1;

e :

につい

ての要i理 ・i

S

l18l

ll

も必要であると考えられるが, 今後の研究理題として製すこととす る 。

2)  我が国の場合,社会事業を「解決を必要とする生活間題(実践対象)を前提とし て,  こ の 間 題 解 決 を 換 助 す る プ P セ ス と し て 理 解 し ,  と く に こ の 間1西解決の仕方と い う こ と で , 方 法 ・ 技 術 が 強 調 さ れ る と:1.ろに共通点」(三i

l l

i文夫編「社会学識座 l5・社会福祉°驗」東京大学出版会,1974年,p.34)がある社会事業の技術自的見解 と, 今日では社会事葉が 「政策化されているという現実認識の上に立つて」 (同上

iS, 

p

.

34)社会事業を政策的に追求しよ1l1という社会事業の政策驗的見解とのきゎ だった理識面での対立を中心として,  社会1

S

i業の本質規定についてはいまだに 

「研

究者の数ほど社会事業の本實規定がある」  といわれる状態にとまどっているのが現 状である。

3)  例えば,我が国における社会

3

陳史の代表的な著

'

fi, 吉 国 久

「新版  日本社会

事業のll;; 中1(動草世房,198l年)においては次のように述べられている

-

42

-

(18)

社会事業の本

:

置に関する理論的研究 17

較後, 孝橋正

は大河内

男の社会1

S

i梁理選lを止1船しながら 「社会事梁の基本 間題」を著して体系化した。孝橋理登iで特に重要なのは,社会l

l

S業対象を社会的必 要の欠乏または社会的韓 書状態になやむ労働者

=

国民大衆と規定したこと, 社会11

l

i 業は社会政策の補充策であると規定したことの二点であろう。較後マルクス主基的 社会事業證iは孝橋理論をべースに展開した。」(同上

p.240)

4)  この点に関して最も詳細に検論に 検11l1

l

がなされているものして,孝橋教授の「「労 働カ」対「校救恤的窮民」一大河内

男氏における社会政策と社会;l1l 業一 」 : 李 橋正

「 続 社 会l

i

l業の基本問題」 ミ ネ ルザァ西房,1975年,所収,を指描するこ とが出来る。

5)  実際に,われわれは「孝橋社会事業豊が大河内教授の社会事業論を止撼した」と い う 開 に つ い て , そ の 否 定 的 見 解 を 真 国 是 教 授

.

小松隆二教授,佐ロ車教授,大 内俊

識師らの著

e

・論文等にみることが出来る(真田是「現代社会学と社会間團」

青木

a

店,1965年,真国是「社会福祉理監l研究の課題」真国是覇「較後日本社会福 祉3会l争」法律文化社,1979年,所収

.

小松隆二・佐藤茂子1題「社会福提」相川9 店 , 1 9 7 8 年 , 佐 ロ 車 「社会保障概説」光生館,1976年, 大内俊一「日本社会福祉 研究の基礎視座一「社会科学的研究方法」批判一」「季刊社会保障研究」第16 替 4 号 , 1 9 8 1 年 3 月 , 等 を 参 照 さ れ た い ) 。

これらの諸研究の検討とともに, 労働力保全脱を中心としながらも非労働力用も またその体系の中にとり入れて理論的再構築を成みられている 「総合社会政

t

確 i

を含む,大河内社会事業論の再検肘は別描の興題としたい。しかし,本和tその再 検的の必要性を確認するための作業の

つである。

6)  孝橋・前掲「続社会事業の基本間題」,序p.ii.

7)  例 え ば , 本 構 注 4 3 ) に み ら れ る 著1!i・

?

文や,  孝橋・前掲「統  社会1

i

i業の基 本間題」,奉橋正

「社会科学と社会?

1

i累」 ミ ネ ル ツ ァ :Ei

'

房,  1974年,等を参照さ れたい。

8)  こ の 点 に 関 し て , 本 稿 注 4 3 ) を 参 照 さ れ た い 。

9)  華松理送iの意義あるいはそのFii価についての混乱の例を,例えば宮田和明助教投 に み て み よ う 。 ま ず 富 国 助 教 授 は「「新政策驗」驗争」真国組・前掲「戰後日本社 会福祉論争」所収において,孝橋理差iの意義を次のように説かれる。

華橋理識の意義は, 

番ヶ組座子氏が高く評価されるように社会事業を「量済 換序外的存在

ととらえた伝統的見解を批判して,社会事業もまた「資本の通動法 則」や

「:

買金労働の再生産機総の論理」 に 即 し て 理 解 さ れ る べ き も の , い い か え れ ば 「経済跌序内的存在」であることを被種的に主張されたことである」 ( 同 上1!i

,

p . 1 9 1 ) と 。

しかし官国動教授は,識文「社会事業の「政策論的」規定について

孝續理論 の批判的検的を中心に

一 」  

「研究紀要」 (日本福祉大学)  第31・32号, 1977年3 月, では以下のように説かれている。

「社会事業の対象を「被救値的1的民」であるとした大河内の規定は展史的に克服 さ れ て き た こ と は 事 実 で あ る と し て も ,   大河内や国

.

早が資本主義経済の再生産機構 の中で占める位置に着目して (社会政策と社会事集の

引用者) 対銀を区別する 基準としたことの理盤l的意義(傍点原文)  までが見失なわれてはならないのである

(同上,p.4 0 7 ) と 。

そして,小松教授と同様の見解(小松・佐藤烟・前掲「社会福祉論」,pp

.

36

-

41,

を 参 照 さ れ た い ) を 示 さ れ な が ら,「 そ れ ( 社 会11

l

1l業 一 引 用 者 ) が , 「 資 本 に よ る 対応」であるかぎり, 対象が「生産要素」=「労働力」 として役立つか否かは資本に とって重大な関心事でなければならない。いいかえれば,「労働力」として役に立

-

43

-

(19)

18 社会事業の本實に関する理驗的研究

たないもの

の 「配置」 は資本にとって少なくとも く「純」

S

l.済的)には関心事では ないのであって,  必要な労働力の社会的供総が

m

調に行われているかぎり, 資本に とって全< 「空費」に属するこの出發を資本に強いるものは階般困争による政治的

「 数 制 」 を ぉ い て は な い か ら で あ る 」 ( 同 上 , p . 4 0 7 ) と

a

iかれる。

華橋理論の意義に関する宮田助教授の以上のような1fl1 価 ・ 見 解 の 相 違 を , わ れ ゎ れ は ど の よ う に 理 解 し た ら よ い の で あ ろ う か

。 

すなわちこれまで大河内教授の社会 事業の対患規定が 

1fE史的にl

i

服 さ れ て き た こ と 」  と 「資本主義屋

,

済の再生産機構

の中で占める位flに 着 目 し て 対1象を区別する基準としたことの理論的意義ま でが見 失t3:われてはならない

」 

と 説 か れ た こ と と は ,   理論的にはどう相述することなので あるのか,  あ る い は ど の よ う に 理 論 的 に 係 わ り あ う も の と し て 脱 明 さ れ る こ と な の か o

さ ら に, 官 国 助18l.授は大河内教授の社会事業注lを理論的に奉橋理論が批判・克服 し た と 理 解 さ れ て い る (

番ヶ類威子真国是招「社会福祉的〔新版〕」有要関,,

1975年,pp.6

-

8参照)

番ヶ類教授の評価をとりあげておられるが,  こ の こ と と

「理論的意義までが見失なわれてはならない」 と い う こ と と は ,   どのよう1l;t関連を もっものであるのか,必ずしも明確に規定されてはいない。この点に関して,宮田 動 教 授 は 「 必 的 意 義 」 は あ く ま で 「理論的意義」なのであり,それは 「資本主義 経済の再生産機前の中で占める位置に量目して  (社会政策と社会事業の) 対象を区 別する整準

」 

と す る こ と を 指 摘 し て い る の で あ っ て ,  大河内教授の社会事業整lが孝

;t!ll理論によって止l船されたこととは別のことであると脱かれている。

しかし宮国助教授自身, 社会事菜の対象を「「労的力」 として役に立たないもの」

=

非労的力として規定されたうえで, 「必要な労的力の社会的

0t

給が行われている かぎり, 資本にとって全く 「空

l l t 」

に属するこの出費を資本に強いるものは階級因 争 に よ る 政 治 的 「 強 制 」 を ぉ い て は な い 」 と 説 か れ て い る の で あ っ て , こ の 点 も 併 せてさきの展間点と結びっけてどう理解されているのか, 展間なしとしない。因み に , 社 会 政 策 の い わ ゆ る

社会的必然性」としての階i般网争(経済囲争)の理論的 根拠が,直接的生産過程における労働力の価値対剰余価値に,すなわち労働者階級 がその労働力を価値どぉりに販売しようという商品交換の法則に基づいた商品販売 者 と し て の

つの描l利の主發に求められている (平国富太郎「社会政策輸概9l

t 」

有 値

:

:

,  1976年,pp.266

-

273

.

pp.274

-

2 7 5 , を 参 照 ) の に 対 し て ,   官田助教授の説 かれる非労働力用の階級國争の理論的根拠がどこに求められるのか,  明 ら か で は な い。 いずれにしても,  宮国助教授の季橋理論の意義に関する評価は以上のように少 なからず不明確であり, 理差i的整合性を欠く点が多いといわざるを得ない。

10)

?

機正

「全

ti

社会事集の基本間題」 ミ ネ ルザァ 書 房 , 1 9 7 5 年 , p .61.

11)  同上11;, p.62.

12)  同上:l!i, p.63.

13)  同上i!;

.

p.63.

14)  「労的過程

価値地5llt:ll1ll程それ自身によって率まれ, それを労働者が担うょう連 命 づ け ら れ , 労 資 関 係 の 場 面 で 直 接 的 に 生 ず る 開 を 社

i

l1l

i l

1題(傍点原文)  と 言 い,  そ れ を 起 点 な ら び に 基 点 と し て 同 時 的 ・ 自 已 同

的に生起する

あるいはそ れ が あ る こ と に よ っ て, そこから関係的に派生する

消1段生活の場面に生ずる操 図 を 社 会 的 間 題 ( 傍 点 原 文 ) と 呼 ぶ な ら,社会的l識間題は資本主義的生重i関係のも とにおける生ill11,llll程と消費過程ないし労働過程と生活過程との着,后的統

に お い て

a

・発展する社会的課題であり,その視点を労費関係の側面に集めたものが社会

-

44

-

(20)

社会11ii菜の本1買に関する理驗的研究 19

問題であり,またそれを別に消要'生活の側面に向けたときに社会的間題が成立する も の と 言 え よ う 。  

- -

社会間題に対しては社会政1度が

社会的間題に対しては社会 事梁(社会事業政策を含む)がそれそれ対策体系として照応、・対応するものであ る」。(幸橋正

「現代資本主義と社会事業

ミ ネ ル

,

yァ 曾

?

, 1 9 7 7 年 , p . 7 9 ) 15)  李橋・前掲「全'町  社会3i業の基本間題」,pp.63

-

64.

16)  平均利酒率を社会政策の「理論的限界」として理解される率:橋教授の見解につい ては

同様な主l自の飯述を同上:

9

i,  pp.60

-

61,にも見ることが出来る。併せて参照 されたい。

17)  同上曾,pp.43

-

44

.

18)  同上西,p.44

. .

19)  同上1!i, p . 6 1

.

20)  同上1!i,  p.67

-

21)  こ の 点 に 関 し て は , 本 稿 注 7 ) を 参 照 さ れ た い 。

22)  与国  極「社会政策・社会事業

率:;橋正

氏著「社会事集の1医本間題」をめく' って一 」 「 極 済 登 確 」 第 7 8 巻 ・ 第 4 号 , 1 9 5 6 年 1 0 月 。

23)  同上,p.63.

24)  同上,p.63.

25)  同上,p.63

.

26)  こ の 点 に 関 し て は , 幸 価 ・ 前 掲 「 全 前   社会事業の基本間題」,  p.159,を参照さ れたい。

27)  与国・前掲論文,p.62

.

28)  本描注14)を参照されたい。

29)  孝 観 ・ 前 掲 「社会科学と社会1lll1業」,p.211.

30)  同上書, p . 2 1 2

.

31)  同上1Ei, 

p.

212

.

32)  この点に関しては,例えば同上1lli, pp.207

-

208,を参照されたい。

33)  李械・前掲「社会科学と社会事業」,p.209

34) 

まこの点に関して,  以下に展開されるわれわれの批判的検討とも係わることに なるので若干の検対を加えておきたい。

すなわち,  李観教授が説かれるようにく「社会政策が十全に買社される

」 =

社会政 策の「理識的極限」 キ社会政策の「理論的限界」> な の か , あ る い は <「社会政策が 十 全 に 地 さ れ る 」 = 社 会 政 策 の 「 理 識 的 極 限

」=

社会政策の「理塗的限界」>と理 解すべきなのかという間題である。

華橋教授は社会政策に関して「ただ社会政策によって労働力の価値どぉりの1fl金 の支払いの接近がこころみられ,労的力の置用(価値収奪)が観和されるだけであ る 」 ( 幸 橋 ・ 前

1

l

a

「全訂  社会事業の基本間題」,p.59.) と い う 理 解 を 示 し て い る 。 その上でさらに, 「労的力の価値が, その価値どぉり支払われて

一一

労的力の再生 産が順当に保部せられるものと仮定するなら, 要するに社会政11

ll

が十全に貢徹され ると仮定するなら,  おそらく理差i的極限においては社会事薬の必要性は消減するで あ ろ う 」 と 説 か れ て い る 。 従 つ て 以 上 の l:;とから,まずゎれわれはく労的力の価値 貢微=「社会政策が十全に貢社される

」 一

社会政策の「理識的極限」) と い う 理 解 を 得ることが出来る。

ここで華橋教授は

社会政策が十全に貢微される

」 

という仮定は「理論的渉想」

に す ぎ な い こ と か ら ,  現実には社会政策が f理装l的極限

ま で 発 展 す る こ と は あ り 得ず

従つて社会政策の対応する理論的領域は△0GBであると脱かれる。 こ の よ う に 華

lii

教授が説かれるところは, 非常に理解に者しむ。 というのは,  社会政策発

-

45

-

(21)

20 社会事集の本1置に関する理整l的研究

展の「理迷l的種限」 は「理論的梦想」 に 等 し い こ と か ら ,   現実には社会政策の 「理 論的限界」 によって社会政策の理論的対応領域は△〇GBであると説かれる時のこ の四つの「理論的」 という同1.

:

言葉が,  華橋教授にあってはどのように通lつた意味 を もっ言葉となっているのかがわれゎれには容易に理解出来ないからである

。 

少な くとも「理論的極限Jと「理出的基11想」との「理論的」と,「理論的限界」と 「理 差i的 顧 域 」 と の 「 理 論 的 」 と が , 速 つ た 意 味 を も っ言薬でないかぎり, 日本語の間 題として社会政策の対応する理論的領域は, 図表一I に お い て は Δ 0 G B と は な ら な いはずである。すなわち,むしろ社会政策発展の「理論的11眼」が「理超的

a

f;想」

に 等 し い と し て も ,   あ る い は「理論的

a

;想」 に 等 し い か ら こ そ ,  現実的にではなく 理論的に社会政策が対応する「社会政策の理論的領域」は,  Δ 〇 A B と な る の で は

な い だ ろ う か

ともかく華橋教授が「理論的夢想」  といわれる意味は十分に明らかではないが, その根拠として  「社会政策の限界は理論的および現実的に明らかに存在するものだ か ら で あ る 」 と 説 か れ て い る 。 し か し そ う で あ れ ば な お の こ と , 「 理1建i的極限」 , 点 A こ そ 理 論 的 に ( 現 実 的 に で は な い!)存在する社会政策の限界となり,理設l的 に社会政策が対応する領域は,  孝 松 教 授 の 説 か れ る △ 〇 G B で は な く Δ 〇 A B = S p s と 理 解 さ れ よ う 。

さ ら に こ れ と は ま た 別 に ,   社会政策の「理論的限界」 について 「資本の利潤欲 は, 現実にl;t社会政策をこの理

的限界lこ全」連する までに発展するこ と l

i

tありえず 逆にたえず社会政策費の切り下げの方向にむかって作用する」(傍点引用者,  華 橋 ・ 前掲「社会科学と社会'1t業」,pp.209

-

2 1 0 ) と 説 か れ て い る 。 従 つ て , 社 会 政 策 の

「理識的極限」について華

t

l1l教授が説かれた(現実には社会政策が「理強的極限」

ま で 発 展 す る こ と は あ り 得 な い と い う )  同融の根拠から,  この「理論的限界」も ま た「理論的夢想」に 等 し い と い う こ と に な り は し な い だ ろ う か 。 因 み に ,  さ き の

「理論的」という言葉と同融に,拳価教授が社会政策の「理整l的極限」あるいは社 会 政 策 の 「 理 論 的 限 界 」 と 説 か れ る 時 の 「 極 限 」 と 「 限 界 」 と は ど う 速 う の で あ ろ

う か 。

いずれにしても以上の検討から明らかなように,  われわれは <「社会政策が十全 に 貢1通lされる」= 社会政策の「理論的題限」一社会政策の「理きi的限界」>という理 解 を 得 る こ と に な る 。

35)  「労働力の価値貢

1l a

に つ い て は , 例 え ば , 平 国・前掲「社会政1表論概説」,pp.

273

-

2 7 5 , 等 を参照 さ れ た い 。

36)  このようなわれわれの理解に対して,以下のような間題点が指抽されるかもしれ な い 。 す な わ ち , △ 0 G A = S p11lは消贊生活過程において成立する「社会的間題」

であり,社会政策は労資関係の場面(直接的生産過程)で直接的に生ずる「社会間 題」 に対応する社会的対策体系であったはずである。 従つて,  消費生活過程におい て生ずる「社会的間題」 には社会政策は対応し得ない,と。〔この点に関しては,,

本 稿 注 1 4 ) を 参 照 さ れ た い 〕

しかし例えば,  幸橋教授が次のように説かれていることによって,  この間題点は 解決される。

「社会間題に社会政策が照応すると私が措定する場合には, 社会政策が機能する 範囲において,社会的間題は社会間題とともに,同時的・自已同

的に社会政策に よって控いあげられている」と。(李松・前掲「現代資本主義と社会1lli業」,p.82

.

) これと同観の孝橋教授の見解が,孝橋・前掲「全町  社 会 lil業の基本間題」,p.67,

-

46

-

(22)

社会事梁の本

i

iiに関する理91l的研究 21

にも見られる。併せて参照されたい。

37)  孝橋・前掲「社会科学と社会事集」,p.209.

38)  こ の 点 に 関 し て は , 本 朝 注 3 4 ) を 参 照 さ れ た い 。

39)  質金の「価値以下脱」は,周知のように 「第乏化法則」をめく'る識争に係わるも のであり,  社会政策の分野においても, 「社会政策本質識争」 の中で多くの研究と 酸 論 が な さ れ て き た 。 し か し 本 稿 は , 社 会 l

f

業 の 「 補 充 性 ( 代 替 性 ) 」 規 定 に 関 す る華橘教i

Sl:

の銀述のうちに潜む総理的間題点を探ることを直接的課題としている。

従つて本稿におけるわれゎれの検的は, 孝橋教授の 「窮乏法則」 に関する

: ll i

金のい わ ゆ る  「価値以下説」的理解を

つの前提として展開されることになるが, そのこ とは孝統教授の 「価値以下説」 を常定することを意味するものではない。

40)  幸 橋 ・ 前 掲 「 全 前   社会事業の基本間題」,  pp.59

-

60.

41)  以上のような社会政策の「理'1金的 限 界 」 が , 労

m

力の価値の貢微点にあるという 理 解 に 関 し て は , 例 え ば ,  平 国 ・ 前 掲 「 社 会 政素論概説」,  pp

.

214

-

216,pp.224

-

225,pp.273

-

274

.

pp.294

-

295,等を参照されたい。

42)  学 橋 ・ 前 掲 「 社 会 科 学 と 社 会 lli集」,p.210.

43)  ここから,剰余価値の収取過程たる直接的生産過程において,社会政策の「実際 的限界」が「労資の力のパランスによって決定される

」 

という孝橘教授の考え方を 理解することが出来る。また,孝橋教授は平均利潤率を社会政策の「理議的限界」

として理解されている。〔本l商2.「孝橋正

教授の社会事業の「補充性(代替性)

規定の概要」と,特に注16)を参照されたい。〕しかし社会政策の「実際的限界」

に基づいて収取される (他の条件を捨象すれば)  総用余価値を

つの前提として,,

資本のi重i

'

1fll程において資本の自由な競争の結果形成される平均利潤率は, 孝観教授 の説かれる社会政策の「理論的限界」を意味することになるのだろうか。すなわち 資本の総過程において資本の自由な観争の結果形成される平均利潤率としての社会 政策の「理き1的限界」 が ,  階il

a

田争によって直接的生産過程において決定される社 会政策の

実際的限界」とどのような理識的関連をもっのか華橋理論においては全 く不明であり 何故社会政策の「実際的限界」が直接的生産過程において労

m

力の

価値対剰余価値として「労資の力のパランスによって決定される」のに対して,  そ の「理論的限界」は「 労 資 の 力 の バ ラ ン ス に よ っ て 」 で は な く , 資 本 の 開 程 に お いて資本の自由な競争の結果決定されるのかについては何らl税得力のある論理の展

ea

がみられない。なぉ,孝橋教授の平均利測率を社会政策の「理論的限界」 と す る 見 解 に 関 し て は , 高 島 進 教 授 の 批 判 (「現代の社会組祉理論の操題」,pp.44-46.吉 田久

1田著「強後社会福祉の展開」 ド・,l ス 出 版 , 1 9 7 6 年 , 所 収 ) と 孝 橋 教 授 の 反 批 判 ( 孝 概 ・ 前 掲 「 現 代 資 本 主 義 と 社 会 lii業」,pp.124

-

126),  さらにこの奉橋教授の 反批判

の真田教授による反批判(「社会福祉理論研究の課題一岡村氏奉橋氏 の理論をftl'りて

一 」

, p p .236

-

239.真国据・前掲「較後日本社会1fll;lt論争」 所収), また宮田動教授による批判(宮国・前掲論文,pp.234

-

398),  国多英範助教授によ る批判(「社会福祉論の方法」,p.381

.

吉国久

組「社会福祉の形成と操題一社会 l

:l

l1業から社会福祉へ一」川島

a

店,198l年,所収)とそれら批判への三塚武男教 授の反批判(「社会組祉研究の操題と方法

孝橋理進l批判への反lit判

一 」 ,  

pp.

22

-

23. 「社会福祉研究」第25号,  1979年10月)および佐武弘車教授の批判(「社会 1

1 S

業の社会科学」:円批判

いわゆる華橋理きiのいくっかの建点にっいて

一 」 ,

,

pp.17

-

19. 「社会福祉研究」第27号,1980年10月)  等の批判および反批判がある。

併せて参照されたい。

44)  本 稿 注 1 4 ) を 参 照 。

45)  幸 機 ・ 前 掲 「 全 前   社会Tli業の基本間田, pp.24

-

25にみられる孝橋教授の社会

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47

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